007/暁の水平線より愛をこめて   作:ゆずた裕里

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ムーンレイカー【moonraker】
 (「月を掻き集める人」の意、英国ウィルトシャー州の伝承より)
 ①英国ウィルトシャー州の人。
 ②馬鹿者。
 


第一話 『叢雲とムーンレイカー』
其の一


 日本時間、〇六五八時。

 ジョギング後のシャワーを浴び、心身ともにさっぱりしたボンドは静かな朝のひとときを楽しんでいた。英国海軍の制服を羽織り、執務室の椅子に腰かけたボンドが机上の本の山から手に取ったのは、大日本帝国海軍の艦艇に関する洋書であった。

 うず高く積まれたこれらの洋書は、鎮守府内の図書館やタイガー田中への注文などで手に入れたものだ。だが、ボンドといえども、艦艇の知識に関してはズブの素人という訳ではなく、これらの書籍はほとんど知識の確認のために読んでいるにすぎない。

というのも先日、ボンドは秘書艦の叢雲に、彼女が艦艇だったときの知識をひけらかした。その手前、今後彼女の前で間違った知識を披露する訳にはいかない。その矜持の高さが、ボンドをこのような行動に走らせたのである。

 

「あっ、あんた何?朝から本なんか読んじゃって。勉強?」

 

 執務室に入ってきた叢雲は、開口一番にボンドに声をかける。

 

「読書は心を落ち着けるためにしてるんだ。勉強より大切なのは経験さ」

「ふーん、それじゃあ、あんたには今日こそ、朝食づくりを経験してもらおうかしら」

 

 このように叢雲は、ボンドが来た翌日から食事作りを命令していたが、何かにつけてボンドはのらりくらりとかわしてきたのだった。そして今日もいつものごとく、ボンドは本に目を通し、聞こえないふりをしていた。

 

「あんた……今日こそは本当に……」

 

 叢雲が言いかけたその時、ボンドの書斎から、ピピピ、とアラーム音が聞こえる。時刻は丁度、〇七〇〇時である。その音を聞いたボンドは、いかにも仕方無さげ、といったように叢雲に話しかける。

 

「分かったよ。朝食と言うには物足りんかもしれんが、いいものをご馳走しようか」

 

 そう言うとボンドは席を立ち、書斎へと入っていった。叢雲はムッとした表情で、ボンドの後に続く。

 ベッドや机、本棚が並べられた書斎の中、その隅の棚の前にボンドはいた。ボンドは棚の上にある、おかしな部分にハンドルのついた、妙な機械を触っていた。その機械についたランプが、赤く点滅している。

 

「何よこれ?」機械に指をさし叢雲が聞く。

「特注のエスプレッソ・マシンだ。私の一日は、この時間にこれを飲まないと始まらない」

 

 まじまじとマシンを見つめる叢雲。

 

「……コーヒーを作るだけなの?これ」

「ああ。それだけ。まあ飲んでみたまえ。ジャマイカ産の高級品だ」

 

 ボンドは二人分のカップに湯を注いで温めた後、壁面をすべらせるように回しながらエスプレッソを注ぐ。ボンドからエスプレッソのカップをもらい、一口飲む叢雲。控えめの苦みと深いコクに、目を見張る。

 

「美味しい……。んっ!ま、まあまあね!」

 

 あくまで意地を張る叢雲を見て、にやりと笑うボンド。

 

「あんた、英国人のくせに舌は馬鹿じゃないみたいね」

「お褒めいただき、恐悦至極に存じます」

 

 ボンドは皮肉たっぷりに言う。

 

「じゃあ、明日からよろしく頼みますよ、叢雲」

 

 カップを片手に執務室へと戻ろうとするボンド。

 

「え!?何をよ!?」

 

 扉口で立ち止まり、叢雲と話すボンド。

 

「秘書艦として、毎朝私のためにエスプレッソを淹れてくれるんだろ?やり方は後で教えるよ」

「何言ってんのよ!あんたが毎朝私に淹れるくらいのことしなさいよ!」

 

 平常運転の叢雲にため息をつくボンド。

 

「なら、私がコーヒーを飲む時間に合わせたまえ。そうしたら、レディーファーストに従って淹れてあげようか。あいにくこっちも、君に合わせる余裕はないからね」

「仕方ないわね……あんたに付き合ってあげるわ」

 

 棚に肘をつく叢雲。ボンドは戸口から離れる。

 

「まあでも、君の淹れたエスプレッソも、飲んでみたかったかな」

 

 そうつぶやきながら、椅子に座るボンド。叢雲はボンドの言葉を聞いて、手に持ったカップを見つめる。

 

「……まあ、別に淹れてあげてもいいんだけど。その分貸しは高くつくわよ」

「あっそう。じゃあその気持ちだけ貰っておこうかな」

「!」

 

 叢雲は一気にエスプレッソを飲み干すと、カップをマシンの隣にガチャンと置く。叢雲が執務室に戻ったとほぼ同時に、タイガー田中が筒状に丸めた紙を手に入ってきた。

 

「おはよう、ボンド!叢雲!」

「おはようございます、タイガー」ボンドの机のそばに立ち、真っ先にタイガーにあいさつする叢雲。

 

 ボンドの机に歩み寄るタイガー田中。ボンドはタイガーに英語で話しかける。

 

「おはよう、タイガー」

「叢雲はどうした?また今朝はえらくご機嫌ナナメのようだが」

「あの手の小娘は、下手に調子づかせるとこっちの得にならないからね」

「ハハハ、でもまあよかろう。君には女を黙らす『最後の手段』があるんだからな」

「冗談じゃない!それが使えりゃこんな苦労はしないよ」

「そこが難しいところだな。それじゃあ、ちょっとした報告に移るとしようか」

 

 タイガーは叢雲に手招きをすると、持っていた紙筒を広げる。それは鎮守府とその周辺海域が描かれた海図であった。海図上には、ペンや鉛筆でいくつもの矢印やバツ印が書きこまれている。海図を覗きこむボンドと叢雲。

 

「近頃この鎮守府の近海にも深海棲艦が出現するようになってきた。どうやら偵察のみでまだ被害は出ていないが、牽制のためにも一度叩いておくようにとの指令が海上保安局から来ている。まあ、ある意味では防諜作戦だ。そこでボンド、君は敵の出現の報告が来たと同時に、叢雲たちを指揮して敵艦隊の攻撃に当たってくれ」

「タイガー、今叢雲たちの指揮をすると言ったが……」

「叢雲から逐次無線で状況報告が入る。それに沿って、艦娘たちに指示を出したまえ。あとは現場判断で任務は進む。なに、君がMの立場になったと思えばいい。もしもの時は私も力を貸そう」

「ありがたい。指揮されるのには慣れてるんだがな」

 

 そのボンドの言葉に、叢雲が反応する。

 

「だったら、今のところは私があんたを指揮してあげてもいいのよ?」

 

 そんな叢雲に、ボンドは冷静に言い返す。

 

「じゃあとりあえず君は他の娘たちと演習に行きたまえ。これからも、こんな感じで君を指揮していくからよろしく」

「……分かったわ」

 

 ムッとしてそのまま部屋を出ていく叢雲。タイガーはそんな彼女を見送り、苦笑する。

 

「まあ、現場は叢雲に一任しても大丈夫だよ、ボンド」

「最悪、彼女だけで何とかなるんじゃないか?提督業は退屈だな」

 

 そう言うとボンドは椅子に腰かけ、艦艇の学術書の続きを読み始めた。

 


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