ボンドは双眼鏡と無線機を手に埠頭の端に立ち、砲撃音の轟く海を眺めていた。提督としてのボンドの初陣は、鎮守府の正面海域、埠頭から目の届く地点での戦いとなった。
ボンドがタイガーからの連絡を受けた日の昼下がり、鎮守府内に突如サイレンが鳴り響いた。その音に気づいたボンドが読んでいた本を置いたと同時に、部屋にタイガー田中がかけ込んできた。
「やっこさんたち、ついにやって来たぞ。軽巡3、駆逐3の水雷戦隊だ」
「叢雲は?」
「他の艦娘と出撃準備に入った。私たちも行こう」
ボンドとタイガーが執務室から出ると、外ではタイガーの部下が大きなアタッシュケースを持って待機していた。ボンドはタイガーと共に、そのまま埠頭へと向かった。
「普通は司令室で指示を出すのだが、今回は近海での戦いだから直接戦況を見ながら無線で指示を出そう」
タイガーがそう言うと、タイガーの部下がボンドに無線機を手渡す。
「叢雲にはもうつながってるか?」
「はい」
ボンドは無線機を口元に当てると、旗艦の叢雲に呼びかける。
「えー、こちらボンド、こちらボンド、叢雲、応答せよ、どうぞ」
「こちら叢雲。指示はしっかり頼むわ。あんた、初陣なんて言い訳は通用しないわよ」
「こちらこそ、おたくのお手並み拝見といこうか」
そう言ったボンドの目に、単縦陣を組んで港を出ていく叢雲たちの姿が入った。そこから水平線に目を向けると、黒光りした異形のものたちが、編隊を組んでこちらに向かってきている。ボンドは双眼鏡を覗き、異形のものたち――敵の深海棲艦をじっと見つめた。
「砲雷撃を集中させて、一隻ずつ確実に沈めていくんだ!攻撃を分散させるな!」
ボンドは無線機に呼びかける。
叢雲たちが近づくと、敵艦隊は大きく進路を変えた。そして、そのまま両艦隊は並列したまま進み、同航戦の態勢となる。
「両舷、全速前進よ!」
叢雲は、敵艦隊に対して丁字有利の態勢にもっていこうと考えていた。叢雲たちは進行方向右手を進む敵旗艦の軽巡洋艦を追い越すと一気に面舵をとり、敵艦隊の正面に大きく回りこんだ。そして、叢雲のかけ声と共に一斉に艦砲射撃を浴びせた。煙をあげ、一気に火を噴く敵旗艦の軽巡。それに対し、敵艦隊は再度同航戦に持ちこむつもりか、叢雲たちと平行に進もうと面舵をとる。
そんな中、敵の駆逐艦が一杯、艦隊をはずれ進んでいく。叢雲はそれを見逃さなかった。
「三時の方向……逃がさないわ!吹雪、あとは頼むわよ!」
駆逐艦の動きに不審なものを感じた叢雲は艦隊からはずれ、ひとり追撃に向かう。すばやく敵の後ろにつき、雷撃を撃ちこむ叢雲。敵駆逐艦は水柱をあげて大きく損傷する。
しかし、叢雲が追撃に向かったと同時に、敵は突如陣形を崩し、吹雪たちを攪乱しはじめた。ボンドは叢雲たちの様子を眺めていたが、その顔が急に険しくなる。というのも、いつの間にか一隻の軽巡洋艦が艦隊から離れた叢雲の後ろについていたのだ。ボンドが再び双眼鏡をのぞき、戦況をうかがう。他の艦娘は残存艦との戦いで精一杯で、叢雲に気が回っていない。
「ボンド、叢雲が……」
「分かってる!叢雲、君の五時方向に軽巡洋艦が!気をつけろ……」
そうボンドが無線機に叫んだその時、叢雲の艤装から火柱と黒煙があがる。同時に無線から、叢雲の悲鳴がもれた。敵軽巡の砲撃が命中したのだ。そのまま海上で崩れおちる叢雲。ボンドは無線機に向かって叫ぶ。
「叢雲!大丈夫か!おい!」
叢雲からの返事はない。ボンドは、すぐさま無線機と双眼鏡をタイガーに押し付けるように渡す。
「タイガー、後の指揮は任せた!」
そう言い残し、走っていくボンド。
「待てボンド、こういう時は無線のチャンネルを……」
そうタイガーが言っているうちに、ボンドは埠頭の端にあったモーターボートに飛び乗って、戦場へと繰り出していった。無論、このモーターボートには何の特殊装備も積まれていない。燃料入りのドラム缶も、照明弾もない。しかしボンドは、気がついたらボートに乗りこみ、そのハンドルを握っていたのだ。全速力でボートを走らせながら、ボンドはしみじみとつぶやく。
「こんなことは、久しぶりだな……」
一方タイガーは、無線機のチャンネルを吹雪の無線に合わせると、ボンドの代わりに指示を飛ばす。
「吹雪、聞こえるか!君の九時方向で叢雲が大破した!至急もう一隻を連れて救援に向かえ!」
「了解です!」
「それと、ボンドが今、叢雲のもとに向かっている!全力で援護しろ!」
満身創痍の叢雲に迫る敵軽巡。一方ボンドの乗ったモーターボートは、叢雲の近くまであと数百メートルのところまで来ていた。
武器は効かなくても、あの化け物どもの注意ならそらせるだろう。そう考えたボンドは、ボートのハンドルを片手で握ると、もう一方の手を懐に入れた。そして胸のホルスターからワルサーPPKを抜くと、叢雲に迫る敵軽巡に照準を合わせ、引き金をひいた。
ワルサーPPKが火を噴く。続いて二度、三度。しかし、敵軽巡の装甲は、ワルサーPPKの9ミリ弾程度ではビクともしない。それどころか、敵軽巡はボンドに砲を向けてきたではないか。ボンドは殺気を感じ、思いきり面舵にハンドルを切った。次の瞬間、敵軽巡の砲はボンドに火を噴いた。
砲弾は左舷に命中し、轟音と共にモーターボートは炎をあげて吹き飛んだ。ボンドは爆発の勢いのまま海に投げ出される。ボンドが海中で意識を取り戻したその時、真上から別の轟音が鳴り響くのに続いて、自分のすぐ隣を、何か黒いものが沈んでいくのを見た。ボンドが見上げると、いくつもの航跡で海面が、きらきらとゆらいでいるのが見える。その方向に向かって泳いでいくボンド。
そのまま海面に向かって浮上したボンドは、口内の水を吐きだし、大きく息を吸う。ボンドがあたりを見回すと、深海棲艦の姿はどこにもなかった。
「大丈夫ですか、司令官!」
ぷかぷかと海面に浮き上がったボンドを待っていたのは吹雪の手だった。もう海中に沈ませるまいと、ボンドの大きくごつい手を握る吹雪のか細い手。
こんな手を持った娘があの化け物と戦っていたのか……。ボンドの周りに集まった艦娘たちの顔を見上げるボンド。艦娘たちの心配そうな表情を目の当たりにして、ボンドは艦娘たちに対する敬意とほんの少しの面目なさを感じていた。
「おーい!ボンド、怪我はないか!?」
タイガーが、また別のボートに乗ってやってくる。タイガーはボンドの腕を握ると、一気に船上に引き上げた。ボンドは後部座席の椅子にもたれかかるように座り、水を吸って重くなっていた制服を脱ぎ捨てると、ようやく一息ついた。ボンドはその時、ぴりぴりと体を走った痛みで、ようやく顔や手足にかすり傷ができているのに気がついた。
「まあ、これで作戦終了か……」
その時、思い切りボートの左舷を叩く音が。その音に振り向くボンド。そこには、上半身を船上に乗り出した叢雲の姿が。まだそんな元気が残っているのかと思うほどボロボロの姿で、顔を真っ赤にしながらボンドを睨みつけている。
「何してんのよあんた!馬鹿じゃないの!?あんたは提督なんだから、司令室で私たちに指示だけ飛ばしてりゃいいのよ!それとも何?まだ女王陛下の騎士でも気取ってるつもり!?」
叢雲の叫びに近い叱責に、ボンドは静かに答える。
「つい一週間前までは俺も指示される側だった。長い間ついた習慣は、そう簡単には抜けない。状況に体が自然に反応するんだ。そうじゃなきゃ生きていけない世界にずっといたからね……。それに……」
「……何よ」
叢雲は疲れ果てたようにボンドに言う。それに対しボンドは答える。
「君のエスプレッソが飲めなくなると思うと、辛くてね」
「……」
もはや反論する元気もない叢雲、あきれたようにボートから離れると、そのまま一人港へと進む。叢雲を見送る艦娘たち、タイガー、そしてボンド。
「……私たちも戻ろうか。ボンド」
タイガーは俯き加減のボンドにそう言うと、艦娘たちに声をかける。
「みんな、ご苦労だったな。全員、帰還せよ!」
一路港へ戻る一同。その左手側から、傾きかけた太陽が強い西日を投げかけていた。