ボンドはゆらめくかがり火と湯煙の醸し出す穏やかな雰囲気に包まれ、まどろみの中にいるのか瞳を閉じていた。
鎮守府近海の戦いのあったその日の晩、ボンドは鎮守府のはずれにある露天温泉に浸かっていた。
タイガーによると、このあたりには特殊な地脈があり、湧き出る温泉は艦娘たちの負傷や疲労を癒す効果があるという。そして、艦娘たちが心身の回復をはかるためにこの温泉に浸かることは、ドックへの修理にたとえて『入渠』と呼ばれる。普通の人間にとってはただの岩風呂の温泉なので、こうしてボンドも問題なく入っているのである。
しばらく修行僧のように瞳を閉じ、じっとうつむいていたボンドであったが、ふと聞こえた湯のはねる音で目を覚ました。その時ボンドは、反射的に自分の右手を左わきのあたりに伸ばしていた。そこは普段ならば、ホルスターに納めた拳銃がある場所だった。諜報員としての性なのか、人や動物によって水がはねる音は確実に聞き分け、反応してしまうのである。
どうやら露天風呂の奥に、先客がいるらしい。そう感じたボンドは、音のした方向に目を凝らす。湯煙がたちこめ、影になっておりよく分からないが、誰かの後姿のようだ。時折湯煙がそよ風に揺れると、影の正体を知る手がかりが、ちらりちらりと見えては隠れる。
絹のように白くなめらかな柔肌、しなやかさを感じさせる華奢な体つき、そして柔らかい光に照らされ、落ち着いた輝きを見せる、さらさらとした銀色の髪……
「叢雲……?」
「!」
驚いたような声と共にその影が振り向いた瞬間、叢雲の驚いたような瞳、かがり火の色にも似た朱の瞳が、湯煙の中から一瞬ボンドを覗いた。
「なんだ、君も入っていたのか……」
湯をかき分け、叢雲に寄ろうとするボンド。波が立ち、温泉の表面に映る満月が揺れる。
「別にこっち来なくてもいいでしょ」
「……これは失礼したね」
叢雲に拒絶されたボンドは、すぐそばの岩に背中をあずける。しばらくの沈黙のあと、湯煙の向こうから、叢雲はボンドに静かに呼びかける。
「……ねえ、今日のことなんだけど、あんた、私に貸しでも作ろうとでもしたんでしょ」
「まあ、そう思うのならそう思ってくれて構わないよ」
そうボンドに言われた叢雲は、ムッとした口調で、ボンドに言い放った。
「まったく、素直じゃないのね……でも、もしあんたがあの時沈んでたら、どうしようかと思ったわ」
「なに、代わりの提督が来るだけのことだ。私よりもっとマシなやつがね」
叢雲はボンドのその言葉に、一瞬黙り込んでしまった自分に気がついた。
「……ところであんた、昼の話を聞く限りじゃあ、誰かを助けたのはこれが初めてじゃないみたいね」
「ああ、そうだよ」
「自信過剰のあんたのことだから、これまでもさぞ見事に助け出してきたんじゃないの?」
「うまくやってきたつもりさ。……ほとんどの場合は」
叢雲は、たった今なにげなくつぶやかれたボンドの言葉に、どこか引っかかるものを感じた。常にどこか飄々とした、この自尊心の塊のような男がはじめて自分の前で、一歩引いたような気がしたのだ。叢雲は少しの沈黙の後、ボンドに問いかけた。
「今、ほとんど、って言ったけど……うまくできなかったこともあったの?」
「……」
叢雲の言葉に、ボンドは何も言い返さなかった。ボンドが湯に浸した手拭いで顔を覆うと、かすり傷がぴりぴりと痺れる。このときまで、ボンドはかすり傷のことなどすっかり忘れていた。
「……私の言ったこと聞こえた?大丈夫?」
「大丈夫、聞こえてるよ。……全部昔のことだ」
昔のこと。男がこの言葉を使うとき、それが何を指すのかを叢雲は知っていた。
「大切な人のこと?」
「その話はもうやめよう」
ボンドはさらりと、しかし突き放すように言い放った。愛と死。ボンドはその双方を経験しすぎたために、感覚はすでに麻痺していた。
しかし、その二つが同時に、そして密接に関わるとなると話は別だ。ボンドは幾たびかそのような経験をしてきたが、いつも戦うことで決着をつけ、乗り越えてきた。だが決着がついたとしても、辛い記憶というものは、ふとしたことで脳裏に蘇るものだ。
ボンドはそのまま手拭いを頭に乗せ、肩まで湯につかった。そして、水面に白く輝く満月をボンドはしばらく見つめていた。すると、再び湯のはねる音がして、水面の月がゆらゆらとゆれる。
月を揺らした波の出処にボンドが目を向けた。その先には、胸元を濡れた手拭いで押さえた叢雲が、かがり火の朱色をその肌にゆらめかせながら、湯煙の中をくぐり、ゆっくりとこちらへと歩みを進めていた。湯につかりすぎたためか、その頬は肌にゆらめく朱よりも赤く火照っていた。
そして、その瞳はかがり火の灯りを受け一層輝きを増し、憐みとも慈しみともとれる眼差しをボンドに投げかけていた。
叢雲はボンドの隣まで来ると、そのまま腰を下ろし、胸元まで湯に浸かった。そして、先ほどボンドが眺めていた水面の月にその瞳を向けると、静かに言った。
「……あんたのこと、全部教えなさいよ。あんたが私のことを知ってて、私があんたのこと知らないなんて……そんなの不公平じゃない。聞きたいの、あんたの話を」
叢雲のその言葉に、ボンドは心中ではあっけにとられていた。まさかこの小娘が、俺の前で一歩引いたようなことを言うとは……。そんなことを考えながらボンドが黙っていると、叢雲は何を思ったのかボンドに振り返り、強く言った。
「……いや、これは別に、秘書艦として当然知っておくべきことだと思ったのよ。早く話しなさい!」
「なるほど……結構激しい場面もあるけど……それでもいいんだね?」
飄々と答えるボンドに、叢雲は頬をさらに紅潮させ言い放つ。
「もう!なんで勿体つけんのよ!」
「はいはい……」
その後しばらく、この二人は温泉から上がることはなかった。
そして、ようやくあがるころには叢雲は完全にのぼせてしまい、ボンドに抱きかかえられながら脱衣所の暖簾をくぐる有様であった。