夜の帳の中で、桜の花吹雪と共に巨大な飛行物体が降下してくる。
その降りてくる物体を、芳乃 さくらと杉並は真剣な表情で見守っていた。
「まさか、あいつらを寄越してくるとはな……クロウもウィンゲイトも人が悪い」
着陸した物体……大型のヘリコプターを目の当たりにして、杉並はフンと鼻を鳴らした。
「それだけ本腰を入れなきゃいけないって事なんだと思うよ……これは万一の事があってはいけない任務だから」
「だが、現場での裁量はお前に一任されている。もしもの時は判断は任せるぞ」
さくらが心配そうに呟くと、杉並は彼女を労う様にそっと肩を叩いた。
「朝倉や天枷達の事もあるからな……俺も、初音島を奴等のいい様にさせたくはない。あいつも恐らくそう言うだろう」
程無くして、ヘリコプターの側面のドアがガラッと開かれる。そこから、2つの影が初音島に降り立っていた………
*
異臭。
その魚が腐った様な芳香に茜が気付いたのは、帰ろうとその場を立った瞬間だった。
(あれ……な、何だろ?この変な臭い………)
桜の香りに混じって、微かに漂ってくる生臭い香り……不意に感じた悪臭に不快感を覚えつつ杏の方を向いた時、茜は思わずぎょっとしていた。
杏が何時の間にか茜の方を凝視している。いつもの様に追及する様な眼差しじゃない。何かに怯える様な、もしくは警戒する様な余裕の無い表情で……
さながら、それはまるで茜の背後に何か得体のしれないものを見てしまった様に、驚愕と戦慄に満ち溢れているものだった―――――――
「ぁ…茜……」
杏が恐る恐る茜に声をかける。
「あ、杏ちゃん……どうしたの?何か変なのでも―――――」
茜は立ち上がり、杏に向かってそろそろと歩み寄る。
その時……
「……んぅ!?」
茜の鼻孔に、先程まで微かだった異臭が鮮明に漂ってきていた。
そして、更なる恐怖が全身を浸透していく……自身の背後から聞こえる、荒い息使いと共に…………
自分の後ろに何かがいる……姿が見えないのに、ひしひしと漂う悪意と恐怖を漂わせて………
一体、何が……?
生まれてこのかた経験したことのない未知の恐怖に晒されて、茜は恐る恐る振り向こうとした……その時、
「茜!危ない!!!」
今まで及び腰だった杏が、不意に彼女の手を思いっきり引っ張っていた。
「きゃっ……」
急に腕を引っ張られ、思わず前につんのめってしまう。
その瞬間、後ろにいたモノの姿が一瞬、視界に入り込む様に露わになる。
そこにいたのは……
魚に似た頭、蛙みたいに膨れ上がった大きな口と濁った眼、水かきのある長い四肢、首筋に見えるエラの様なひだ、そして全身をてらてらした鱗で覆われた、おぞましい生き物だった。
そんな怪物が2匹、獲物を見る様に2人を凝視していた。
「ひぃ――――は、わわわ………!」
全身がガクガクと小刻みに震える。
怖い……
今の茜の思考を占めていたのは、恐怖。もはやそれしか思い浮かばなかった。
途端に、
ドサッ・・・
隣にいた杏が崩れ落ちる。恐怖で意識を失った様だった……
そして、茜も……眼前に突如現れた脅威を目の当たりにし、あまりの恐怖にへたり込んでしまっていた。
そんな彼女に、怪物が悪臭を漂わせながら迫ってくる。
動けない標的の眼前に迫った怪物は、蛙みたいなくぐもった声を出して舌舐めずりをする。まるで、茜と杏のどちらから食べようか・・・そう言ってる様にさえ見えた。
「あ……ぁ…………」
抵抗する術もない。逃げ出そうにも、腰が抜けて動けない……今の茜に出来るのは、杏を抱きしめてガタガタと震える事だけだった。
*
私の頭に何か突き刺さるような感触がしたのは、その時だった……
聞いたこともない奇妙な言葉が、頭の中に反芻する。
何だかもうわけわかんない……でも、どうしてかな………?
その時はただ、頭の中に浮かんだその言葉を言わなきゃならない……何としても唱えないといけない………そんな気がしたんだ………!
―――イァ・イァ・ハスター……
そう思った時……私の口から、その言葉は紡ぎだされていた………
―――イァ・イァ・ハスター……ウグ・ウグ・イァ・イァ・ハスター……クファヤク・ブルグトゥム・ブグトラグルン・ブルグトゥム――――――――アィ・アィ………ハスタぁーーー!!!!
一度放たれた言葉は、堰を切ったように滔々と……そして澱みなく、尚且つどこか力の籠った不思議な響きを伴って紡ぎだされていく…………
途端に、怪物が腕を振り上げ…そして、私達めがけて無造作に振り下ろしていた。
「っ!!」
思わず私は杏ちゃんを抱き寄せて、瞳を閉じた。
これからやってくる、「死」をせめて心地よく受け入れるため……
でも、その瞬間はいっこうに来なかった。
「目を開けて下さい、我が新たなる主よ……」
瞬間……私の耳に、別の誰かの声が聞こえてきた。
恐る恐る目を開けた私の視界に移ったのは――――――
桜色の着物を纏い、銀色の扇で怪物の腕を食い止めている銀髪の女の子の姿だった。
「……哀れなる深きものどもよ……散れ!!」
鋭い言葉を放ったと思うと、女の子は両手の扇を軽やかに振るう。
勝負は一瞬でついた。
「深きものども」……そう呼ばれた2匹の怪物は、扇が振られた瞬間には音もなく真っ2つに切り裂かれていた。
きっと、悲鳴ひとつ上げる間もなかったと思う……でも、その動きは鮮やかで、しなやかで、そして何処か美しい……とさえ思ってしまう程、私の視界に煌めいていた―――――――
そして……
女の子は、地面に転がった怪物を一瞥すると、不意に私の方を向いた。
「昨日振りですね……貴女が私の新たなる主でしょうか?」
瞬間―――――私は気付いてしまった。
そこにいたのは、昨日胡ノ宮神社で出会った、あの娘だった………
そのことが分かった時、初めてその娘の顔をじっくりと見て………
「―――――――藍、ちゃん……?」
気が付いた時、私はその名を口にしていた………もう二度と会えないと思っていた、妹の名前を………
*
同時刻、初音島北東、ヘリポート
「……!?」
ヘリポートに集った者達は、脳裏に突き刺さる様に響く不快感に一様に顔をしかめていた。
「この気配……奴らか」
そんな中、いち早く動いたのはヘリコプターから降りた2つの影だった。
「焔!?」
「俺が行く!」
焔と呼ばれた少年は、黒いコートを靡かせながらその場を離れようとする。しかし……
「この気配は……!?」
赤い服の長身の青年が、何かを感じ取ったように夜の町の一角ー桜公園ーの1点を凝視する。
「焔……何かが現れたぞ」
青年は、今駆けだそうとした黒ずくめの少年を振り仰ぐ。
「これは……インスマス面じゃない、この強い気配―――――『旧支配者』だ!」
少年は、手に持っていた分厚い本を懐にしまうと、腰から銃を引き抜く。
「こんな早々にお出ましとはな……上等だ、プレアデス同盟の名に懸けて、始末する……!」
そして、慣れた手つきで銃に弾を込めると、少年―飛鳥 焔―は跳躍していた。
「行くぞ、クトゥグア!」
「心得た!」
青年―クトゥグア―も、少年の後を追って、月夜に跳躍する。
(そうだ……俺の使命は、この地球に仇名す旧支配者を討つ事―――――これ以上、あいつ等の好きにさせるものか!)
「全く……暫く見ないうちに随分と刺々しいエージェントになってしまっていたな、目を合わせただけで殺気がこちらまで漂ってきたよ」
焔とクトゥグアが退出した後、杉並が誰に聞かせる様にでもなくポツリと呟くのが聞こえた。
「ときに芳乃 さくら……本当にあいつでいいのか?このままでは『ハスター』を保護するどころか撃ち滅ぼす可能性もあるのではないのかな?」
そして、今度は何かを懸念する様に問い掛ける。
「ボクは……彼を信じてる」
「そうか……では、疑いをかけるのは無粋だな」
さくらの言葉に安心したのか、杉並はふぅっと息を吐くと……次の瞬間には、ヘリポートから姿を消してしまっていた。
(焔くん……そうだよ。君は兵器なんかじゃない、きっと変わる事が出来る―――――ここには、思い出のあの娘だっているんだから)
3つの影が去ったヘリポートで、芳乃 さくらは桜吹雪の舞う夜空を静かに見つめていた。