咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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団体戦編
1.前夜


白糸台高校 麻雀部控え室

 

 控え室中央の50インチテレビの前には、私立高校ならではの贅沢な応接セットが置いてある。そこに並んで座り、団体戦Bブロック準決勝戦を観ていたのは、勝ち上がった2校と明日戦うことになるチーム虎姫のメンバー5人であった。

「大変なことになった……」

 右端に座っていた宮永照が、うつむきながらつぶやいた。

「大変? なにがだ?」

 隣に座っていた麻雀部部長の弘世菫には、その真意が掴みかねていた。

 ――画面上では、臨海女子高校のネリー・ヴィルサラーゼが驚異的な三連続三倍満を決めていた。試合終了を告げるブザーが鳴っている。決勝進出は臨海女子高校と清澄高校だ。これで菫達の対戦相手がすべて確定した。

「照、なにが大変なんだ?」

 菫は重ねて聞いた。勝ち抜けた2校は、確かに厄介な相手ではあるが、“絶対王者”宮永照が弱気になる相手とは思えなかったからだ。

「咲だ……」

「咲? 咲ちゃんか?」

 菫は、清澄の宮永咲が照の妹であることを当人から聞いていた。

「そう、明日の咲は今日とは別人」

「今日よりも強いと? そういうことか?」

「……その程度で済むならこんな話はしない」

 照はゆっくり顔を上げて、視線を合わせずに言った。

 菫は驚いた。こんな不安の色が漂う照の顔は、今までみたことがなかった。

「テルーは、妹のサキが怖いの?」

 無神経にそう聞いたのは、左端で寝そべっていた大星淡であった。

「あ、本当に妹だったんですか」

「でも、この間は『妹なんかいない』って言っていましたよね?」

 中央にいた渋谷尭深と亦野誠子は、それぞれ茶を飲んだり、菓子を食べながら、噂になっていた宮永咲妹疑惑に反応した。3人共、照の異変には気がついていなかった。

 照は淡達の質問を無視し、無愛想な口調で菫に言った。

「ミーティングをしたいんだけどいい?」

「いいけど……いつ?」

「今すぐ」

 菫は思った。

(この姉妹……過去になにがあったのか? 妹のこととなると人が変わる)

「淡! テレビを消して! 尭深と誠子ももっと椅子を寄せろ!」

「はーい」

 淡はのんびりした返事でテレビを消しにいったが、尭深と誠子は、ただならぬ気配に驚いたのか、すばやく椅子を近づけていた。

 程なくして淡が席に戻り、ミーティングが始まった。

「照、どうする? 先鋒戦からシミュレートしようか?」 

「いや……そういうミーティングではない……」

 照は少し言い淀んだ。

「淡、これから私が話すことは我慢できないかもしれない。だけど最後まで聞いてほしい」

 ここまで来ると、淡も照の異変に気がついて、「テルー、どうしたの? サキなら心配しなくていいよ、このあわいちゃんが明日必ず泣かせてあげるから」と、彼女なりの励ましをした。

 そんな淡をみて、照が小さく笑った。

 淡は満面の笑顔であった。感情をあまり表に出さない照が笑ったことが、ひどく嬉しいらしかった。だが、それは長くは続かなかった。照が我慢できないことを話し始めたからだ。

「菫、尭深、誠子、決勝は副将戦までで終わりにする。飛ばすのは阿知賀だ」

 淡は立ち上がった。そして、火の出るような怒りの眼差しを照に向けた。その眼差しを真正面に受けながら照は続けた。

「咲との対戦は回避する。……戦うと私たち白糸台は負ける!」

 

 

 清澄高校 団体戦控え室

 

「もうすぐ咲が帰ってきますが、迎えにいきますか?」

 麻雀部部長の竹井久にそう聞いたのは須賀京太郎であった。

「そうね……」

(なんとか2位で抜けられたとはいえ、咲にとっては、初めての敗北。みんなで迎えにいっても、かえって逆効果になるわ)

 そう考えると、久の決断は早かった。

「和、咲を迎えにいってあげて」

「はい、分かりました」

 和は笑顔で応じ、持っていたペンギンの縫いぐるみを隣の椅子に置いて席を立った。

 そして走り出していた。

「のどちゃん!」

 片岡優希が一緒にいこうと立ち上がったが、隣に座っていた染谷まこに手をつかまれる。

「ここは和に任せときんさい」

 優希は、助けを求める目で久をみた。

「だめよ、優希」

「ううー」

 優希は部長命令とあれば仕方がないので、椅子に座り直し、近くにいた京太郎に毒づいた。京太郎もそれに応じている。それは清澄高校麻雀部のありふれた日常であった。

 久は紅茶を手にとり、それを飲みながら2人を眺めていた。

「ほんまに、ここまで来られたんじゃねえ」

 久の様子をみて、染谷まこが語りかけてきた。

「まだよ……言ったはずよ、私の夢は全国制覇だって」

「ああ、そうじゃったね」

「咲と和……、優希にまこ、そして、この私がいれば、全国優勝だって夢じゃない。そう思うに決まっているじゃない」

「……はいはい」

 まこは、天邪鬼な久に呆れていたが、その表情はどこか満足そうにも見えた。

 

 

 試合会場通路

 

 原村和は走っていた。普通、胸が大きい女性は走ることを苦にするが、和はそうではなかった。幼い頃からそのような体形であったせいであろうか、非常によく走った。

 そうして、和は、控え室と会場を結ぶ通路のほぼ中間で、宮永咲を見つけた。

「咲さん!」

 和は大きな声で呼んだ。部長が案じたとおり咲は元気がないように見える。

「あ……和ちゃん」

 和は咲のすぐ側まで駆け寄って止まり、息を整えた。

「お疲れ様です。咲さん」

「ありがとう和ちゃん、迎えに来てくれて」

「明日はついに決勝ですね。がんばりましょう」

 和は、そう言って咲の手を握った。

 咲の手は震えていた。やはり相当ダメージを受けているようであったが、和はあえてそれを無視した。

「帰りましょう咲さん。みんなも待っていますよ」

「和ちゃん……」

 咲は沈んだ表情で呼びかけた。

「和ちゃん……少しお話がしたいんだけど……いいかな?」

「ええ、もちろん」

 

 

 試合会場ラウンジ

 

 休憩室の一面はすべてガラス張りで、そこからはオフィス街の夜景が見えていた。宮永咲と原村和は立ったままそれを眺めていた。

 そこには2人しかおらず、まるで心臓の鼓動が聞こえるような静寂さであった。

「きれいだね……」

 口を開いたのは咲であった。声が壁に反射して響いた。

「はい……でも、私は長野の星空のほうが好きです」

 答えた和の声にも、エコーがかかっていた。

 咲は和をみて初めて微笑んだ。

「あの日、みんなでみた星空は、今までみたどんなものよりもきれいでした」

 和はそう言って、優しく咲をみた。

 2人はしばらく見つめ合っていた。

 不意に咲が視線を外した。そして表情を曇らせて言った。

「あの日もそうだけど、和ちゃんとはいっぱい約束をしたよね……」

「ええ、いつも一緒に守ってきました」

 和は本当に嬉しそうに言った。だが、咲は目を逸らしたままであった。

「……和ちゃん、一番初めの約束……覚えている?」

「一緒に全国に行く約束ですか?」

「うん、その約束と一緒に、和ちゃんが私に……」

「いつでも全力で戦ってほしい、そう約束しました」

「うん……でも……」

 和は思った。

(そのことを気にしているのでしょうか? 確かに咲さんは、何度か手を抜いた麻雀をしたことはあったけど……)

「そんなことはもう気にしていませんよ。咲さんはいつだって全力でした」

 咲は恥ずかしそうに笑った。そして、僅かな沈黙の後、笑顔を消して言った。

「和ちゃん……私には隠している打ち方があるの」

 和は意味がよく解らなかった。

(隠す? 打ち方? いったい、咲さんはなにを言っているの?)

「隠すって……なぜ? なにを隠す必要があるのですか?」

「みられたくないから……。特に和ちゃんには。みたら絶対私のことが嫌いになる」

「そんな! 私が咲さんのことを嫌いになるなんて、ありえません!」

「……」

 咲は絶句し、なぜか泣きそうになっていたが、話を続けた。

「……いつでも打てるわけじゃない。でも、できる時は分かる。今回みたいに極端な負の状態の時にそれは現れるの」

 リアリストの和には、信じ難い話であった。ある条件で自分は異質なものに変わる。咲はそう言っていたからだ。

「それ……とは、……なんですか?」

「お姉ちゃんは、その状態の私を、こう呼んだの……〈オロチ〉って」

 

 

 阿知賀女子学院 宿泊ホテル

 

 阿知賀女子学院が滞在しているホテルの一室で、高鴨穏乃、新子憧、松実玄、松実宥の4人は卓を囲んいた。朝から昼食と夕食を挟んで打ち続けていたので、かなり疲れが溜まっていたが、だれもやめるとは言わなかった。皆、無言で牌に向き合っていた。

 穏乃は思った。

(これは……血を吐きながら続けるマラソンだ。やめると、自分が弱くなるように感じる恐怖。それに逆らうことができない。自分も、憧も、玄さんも、宥姉も……。やめるには、だれかが倒れるしかない)

「ツモ」

 新子憧が上がった。面前、断么九であった。4人は点棒を処理し、次の局に移った。南四局。そのオーラスで、この卓ではありえないことが起こった

「玄さん!」

「玄!」

「玄ちゃん」

 3人同時に松実玄をみた。彼女達の手牌にありえない牌――ドラ牌が存在したからだ。

「解らない……突然、ドラが来なくなったの」

 玄は動揺していた。この決勝前日に自分の最大の武器を奪われたからだ。

「私は、私はドラを切っていない! でも……」

「玄ちゃん……前にもこんなことがあったよ。きっと長い時間打ち続けているから……」

 宥が震えている妹を落ち着かせようとした。

「違う――」

 玄がなにかを言おうとした時、ドアをノックする音が響いた。

「入るよ、いい?」

 そう言って入ってきたのは、別室で赤土晴絵とBブロックの試合を観戦していた鷺森灼であった。

「灼さん!」

 穏乃は助けを求めるように灼を呼んだ。

 ただならぬ様相に灼は困惑していたが、麻雀部部長としての仕事を優先した。

「決勝の相手が決まったよ」

「――!」

 玄以外の3人は、固唾を呑んで次の言葉を待っている。

「トップ通過は、臨海女子、2位は……清澄高校」

 穏乃は弾けるように立ち上がった。

(そうだ、なんで気がつかなかったんだろう、これで死のマラソンをやめることができる。――明日の試合はもちろん負けるつもりはない。だけど、その勝敗に囚われ続け、もっとピュアな目的を忘れていた。そう、自分達は和ともう一度遊ぶ為にここまで来たんだ)

「玄さん! 思い出してください! 私たちがなぜここにいるのかを!」

「え……」

「そうだよ、玄! 明日、私たちは和と遊べるんだよ!」

 憧は、穏乃の言葉の意味を理解していた。

「和ちゃん……?」

「そうです! だから……」

 そこまで言って、穏乃は言葉が出なくなった。その代わりに、両目からは涙が溢れ出ていた。

「だから明日は、悔いが残らないように……すべてを出し切りましょう!」

 穏乃は涙を拭いながら言った。

「まだ時間はあるよ! またドラが集まるまで打てばいいだけの話だよ」

 憧も頬を紅潮させて言った。姉の宥も微笑みかけていた。

 良い雰囲気になっていた。しかし、灼は、それに冷や水を浴びせるように話題を変えた。

「明日、朝の7時からミーティングを開く。だから今日の特打ちはここまでにして、各自部屋に戻って考えてほしい、自分のできることを」

「……灼ちゃん?」

 不安げに聞いたのは宥であった。

「今のは晴ちゃんの指示だよ」

 敵意を露にして睨む憧や、呆然としている穏乃や玄に対して、灼は少し表情を和らげる。

「玄にドラ戻るようにしても、結局は同じ明日また来なくなる。そう晴ちゃんが言っていたよ」

「なんで! なんでそんなことが解るの?」

 憧は言葉を荒げて聞いた。

「大将戦で怪物が目を覚ました。ドラが来なくなったのは、多分それが理由」

「怪物……って」

 穏乃は灼が言う怪物とはだれか見当がついていたが、腑に落ちない点があった。

(目を覚ました? あの子は今だって十分怪物だよ)

「そうだよ、シズが明日戦うことになる相手」

「宮永……咲」

 灼は頷いた。そして続けて言った。

「晴ちゃんは今、人に会いにいっている。明日、阿知賀はその怪物にどう立ち向かえばいいか、その確認」

「また熊倉さん?」

 憧は不機嫌に言った。過去に自分達から晴絵を奪った熊倉トシを、憧は嫌っていた。

「電話をかけてきたのはそうだけど、会う人は……因縁の人だよ。その人からぜひ会いたいという申し込みがあった」

 灼はその名前を言った。

「小鍛治健夜……」

 

 

臨海女子高校 団体戦控え室

 

 大将戦をトップで終えたネリー・ヴィルサラーゼは、挨拶も抜きで控え室に戻ってきた。そして、チーム唯一の日本人の辻垣内智葉に詰め寄り、不機嫌そうに訊ねた。

「最後の局、宮永の手牌は?」

「混一色狙いの一向聴だった。西を槓材で持っていたよ」

「――!」

「ネリー、なぜそんなことを聞く?」

「最後の局は、上がりが見えていなかった。でも、6巡目で宮永と目が合った……」

「モニターで確認しました。確かに宮永はネリーをみていました」

 答えたのは〈風神〉雀明華であった。

「目が会ったから、怯んだのデスカ?」

 メガン・ダヴァンはネリーを睨み、少し自虐的に言った。

 ネリーはメガンを睨み返す。

「ネリー、なぜ宮永を残した? お前のせいで明日は最悪の事態になりそうだ」

 責めるように口を挟んだのは、部屋の奥で椅子に座っていた監督のアレクサンドラ・ヴィントハイムであった。彼女は宮永咲を脅威と感じ取っていた。

「違う! 宮永と目が会った瞬間、ネリーの上がり手が見えた! 断么九、平和、三色、一盃口――倍満だった!」

「倍満なら清澄は3位、決勝はうちと姫松になる。だから上がった。そういうことか?」

 智葉の質問にネリーは頷いた。

「答えは簡単さ……お前は宮永に嵌められたのさ」

 アレクサンドラは苦々しそうにネリーに言った。そして、続けた。

「あの裏ドラは宮永が乗せた……」

 驚くことに、だれもその非科学的な言葉を否定しなかった。

 ネリーもそれが真実だと信じていた。しかし、大きな疑問が残った。

(なぜそんな回りくどいことをする? たとえ2位通過狙いにしても、自分で和了したらいいではないか、なぜ私を利用した?)

 その答えは出なかった。

 

 

 白糸台高校 麻雀部控え室

 

「テルー! わけわかんない! ちゃんと説明して!」

 大星淡はテーブルを叩きながら宮永照に詰め寄った。

「淡は、麻雀で完膚無きまでに負けたことがある?」

「はあ? なに言ってるの? あるよ! テルーと初めて対戦した時だよ!」

 照は淡を見据えながら尋ねた。

「その時どう思った?」

「悔しかったよ、次は絶対負けないって思ったよ」

 照は溜息をついた。

「淡、それは違う。それは私が知っている完膚なき負けじゃない」

 弘世菫は照の言わんとしていることが理解できていた。菫自信も照や淡に対してそれを体験していたからだ。ただ解らないのは、なぜ、今、それを言い出したのかであった。

 照は話を続けた。

「私のそれは勝ち負けの感覚の喪失から始まる。そこからの局は、早く半荘が終ることを願いながら打つただの作業。そして終局した時に生まれる感情は悔しさなどではない。受け入れざるを得ない安堵感だ」

「照……お前はその経験があるのか? まさか……咲ちゃんか?」

 照は質問した菫をみて頷いた。そして渋谷尭深、亦野誠子の順番で視線を合わせ、最後に淡にロックオンして言った。

「そう……何度も。私は〈オロチ〉の状態の咲に勝ったことがない」

 照の言った〈オロチ〉とはなにか……? 真っ先に、それが菫の頭に浮かんだ。だが、それ以上に衝撃だったのは、あの宮永照が妹に手も足も出なかったと口にしたことであった。

「……〈オロチ〉ってなにさ」

 言葉を搾り出したのは淡であった。

 絶対的な存在の照に弱音を吐かせる者が許せなかったのだろう。淡の表情に、宮永咲への憎悪が浮かんでいた。

「八岐大蛇って、知ってる?」

 照がだれともなしに言った。

「なにそれ! 知んない!」

「――!」

 菫、尭深、誠子の3人は顔を見合わせた。そして半ば呆れ気味に尭深と誠子が言った。

「あの、淡ちゃんは帰国子女?」

「淡、それは知らないと、ちょっと恥ずいかも」

「え……?」

 淡は慌てて2人をみた。

 菫は、そんな淡に一瞥をくれてから照に言った。

「八つの頭の大蛇か?」

「うん、でも、咲の〈オロチ〉の頭は蛇じゃない……」

 菫は驚愕した。

(そうか! そういうことか。しかし、そんなことが可能なのか、人間に?)

「龍……? ドラゴンか!」

 照の顔が歪んだ。まるで言葉を発することが苦痛のようであった。

「一つの体に八つの頭の龍。――嶺上開花 ドラ8」

 菫は戦慄を覚えた。

(照の妹は、嶺上開花という偶然極まりない役を、いともたやすく仕上げてくる信じられない相手。ただ、ドラがほとんど乗らないので、満貫か跳満で上がることが多かった。しかし――ドラが乗るだと! しかも8枚も! 最低でも9飜で倍満確定じゃないか! ……だが、待てよ、確かに高火力なのは認めるが、なにがなんでも対戦を避けるほどのものだろうか?)

「照……咲ちゃんが油断したら一撃でひっくり返される強敵なのは、よく解ったよ」

「油断したら?」

 照はなにか言いたげであったが、菫はそれを抑えた。

「まあ待て。大将戦までに清澄との差を10万点以上広げれば安全圏じゃないのか? だって明日の顔触れは――臨海女子のネリーとうちのこいつ、そして、こいつに土をつけた阿知賀の大将だぞ、そこまで一方的な試合になるとは思えないんだが?」

「だれがこいつだよ!」

 菫に小突かれたので淡は怒ったふりをしていたが、実際はそうではないのだろう。ちょっとだけ嬉しそうであった。

「ねえ、テルー、私はもう相手を侮ったりしない。私だって成長したんだから! サキも高鴨穏乃もすっごい強いだろうけど、私はその100倍強いよ!」

 それは十分侮っているだろうと菫は思ったが、重たい雰囲気が多少は改善した。

(淡はこんな時は役に立つ)

 しかし、照はそれを許さなかった。

「無理だよ……淡」

「なんで!」

 淡は噛み付きそうな勢いであった。

「……言い方が悪かった。淡だからというわけではない。私でも無理、今はね」

 再び不穏な空気が、辺りを漂い始めた。

「宮永先輩、まさか……まだなにかあるんですか?」

 口を開いたのは誠子であった。

 照はその質問に答えた。

「私はまだ半分しか話していないよ。咲の〈オロチ〉は残りの半分が恐ろしい」

 

 

 試合会場ラウンジ

 

 原村和はただのリアリストではなかった。1000分の1の事柄が5回連続しても、それを確率の偏りとして許容できる筋金入りのリアリストであった。だが、運の個人差を否定してはいなかった。そうでなければ、今、目の前で自分をみている、宮永咲の存在を説明できなかったからだ。部長の竹井久は咲のことを〈不可能を可能にする強運の持ち主〉と言った。奇妙な日本語ではあるが、嶺上開花というレア役を、平和レベルで完成させる咲には、最適な言葉だと思っていた。

 

 相変わらず辺りは静寂が支配していた。近くに設置されていた自動販売機の動作音にすら、エコーがかかっていた。

 

 和は、咲が話した〈オロチ〉を信じることができなかった。それはオカルトという範疇を超えていた。本来ならば、幻想、夢想、荒唐無稽、そういった言葉で語られるものであった。そして、大将戦最終局の話は和をさらに戸惑わせた。

「わざと負けた?」

「自分を、負の状態にしないと完全にならないから」

 咲はすまなそうな顔で和をみた。

 和は考えた。

(嶺上開花にドラが8枚乗る。その力を得る為に、咲さんはわざと負けた? 話の真偽はともかくとしてリスキーすぎます。ここはちょっと怒らなければいけませんね)

「咲さん! わざと負けるのは、もうこれが最後ですよ! 今回だって3位と100点しか差がありませんでした。負けたらお姉さんと闘えませんよ!」

「……分かっていた、裏ドラが乗るのは分かっていたの」

 和は思い出していた。咲の本当の怖さは嶺上開花ではなく、驚異的な点数調整能力であることを。

「……ドラを支配する。それが〈オロチ〉の完全な姿なの」

 咲は感情のない声で言った。

 和は震えていた。

(エアコンが効きすぎていますね。……いえ、自分を騙すのはやめましょう)

 震えている本当の理由は分かっていた。それは、克服したはずの咲に対する恐怖心であった。

「支配する? ……明日はそれを使うのですか?」

「使うよ、お姉ちゃんの学校の大将を叩き潰す為にね。和ちゃんの友達も巻き込んでしまうけど……それはごめんなさい」

 咲は、少し悲しげな表情で言った。

 それをみて和は安堵した。ただし、なぜ安堵したかは把握できていなかった。

「穏乃は強い子ですから大丈夫ですよ」

「私は〈オロチ〉の時の自分の顔を知らない。きっと、ひどい顔だと思うよ。だから……」

「咲さん!」

 和は怒っていた。

(ああ、何度目だろう咲さんを怒るのは……でも、そのたびに咲さんは強くなっていく気がする)

「何度も言わせないでください! 私が咲さんのことを嫌いになるなんて、ありえません!」

 咲にいつもの無邪気な笑顔が戻っていた。和はその笑顔が大好きであった。

「もう戻りましょう」

「うん」

 咲は手を繋ぎたがる癖があった。和も嫌ではなかったので、いつもごく自然に手を繋いでいた。今もそうしている。そして控え室までの道のりを無言で歩いていた。咲との沈黙は、和にとって苦痛なものではなく、むしろ心地よいものであった。

 歩きながら和は考えていた。

(私も、咲さんに隠していたことを話さなければ。でも怒られてしまうかも……。まあ咲さんになら、それもいいですね)

「どうしたの?」

 咲が不思議そうに聞いた。

「え? どうもしませんよ」

「でも今、手をギューってしたよ」

「な、なんでもありません」

 和の顔が瞬く間に赤くなった。それをみた咲も、恥ずかしそうに赤面していた。

 

 ――辺りは静寂が支配していた。控え室に向かって歩いていく2人を、足音の残響音が追いかけていた。

 

 

 

 阿知賀女子学院 宿泊ホテル

 

 高鴨穏乃と新子憧は自分達の部屋に戻っていた。

「シズ、先にお風呂入るね」

 憧はそう言って、着替えなどの準備を始めていた。

 穏乃は自分のベッドに仰向けになり、眩しそうに照明をみていた。やがて目を閉じて、あることを思い出していた。

 

 

 3日前 蒲原邸(鶴賀学園宿泊所)

 

 ふとしたきっかけで、長野県3位の鶴賀学園麻雀部の人達と出会い練習試合をした。途中から名門風越女子の団体戦メンバーも加わり、実に有意義なものだった。その休憩中に、鶴賀の加治木ゆみと会話する機会を得た。

「そうか、宮永咲と会ったのか」

「いいえ、会ったというよりはすれ違っただけなのですが……」

「圧倒されたのかな?」

「どうして分かったのですか?」

「まあ、咲は時折そういった空気を発するからな」

 ゆみは楽しそうに言った。

「でも、普段は優しい文学少女だよ」

「私には、とんでもない怪物に見えました。衣さんも宮永さんは別格だって」 

「同じ怪物の天江衣が言うのなら間違いがないよ」

 そう言ってゆみは笑ったが、穏乃の笑顔は引き攣っていた。

「……高鴨君。私たち鶴賀は、清澄の応援の為に東京に来ている。だから、ライバルの君達に清澄の弱点を教えるわけにはいかない」

「いえ、そんなつもりじゃ……。あと、私のことは穏乃と呼んでもらえると嬉しいのですが……」

 穏乃は何気なく答えたつもりであったが、ゆみは何故かそれが気に入ったらしく――

「よし、穏乃! 私たちも君達と卓を囲めて本当に良かった。後進の育成にもプラスだった。だから宮永咲攻略のヒントを少しだけ授けよう」と言った。

 ゆみは、やや間を置いてから、問題を出すように――

「咲は嶺上開花を得意としている。だから、彼女の持ちうる槓材には常に警戒しなければならない」

 と言い、回答を求めるように穏乃をみた。

 穏乃はそれに対して頷いた。

 ゆみは声を上げて笑った。

「それでは咲の思う壺だぞ、穏乃」

「え、はあ……」

 穏乃はゆみの言わんとするところが分からなかった。

「いいかな、本来ならば嶺上開花という役は警戒すべきものではない」

「あ……そうか」

 穏乃は思った(衣さんの海底撈月と同じ警戒しすぎて自滅するパターンか)

「穏乃は原村和と知り合いだったね」

「はい、小学の同級生です」

「インターハイの前に、長野ベスト4が集まって合宿を開いた。そこで私は、和と咲が同じ卓で打つのをみていた」

「和は、どう打ちましたか?」

 ゆみは肩をすくめた。

「なんにも、いつもの原村和の打ち方だったよ。そして、咲を凌いだ」

「……」

 穏乃は愕然とした。和と同じ土俵に立てたと思っていたが、それがとんでもない思い違いであることを知らされた。――天江衣、福路美穂子、加治木ゆみ、そして宮永咲。和はこんな魔物達に囲まれても勝ち上がってきたのだ。そう考えると穏乃は少し陰鬱な気持ちになった。

 ゆみは続けて言った。

「その後、和に聞いてみたよ、咲の嶺上開花は怖くないのかって」

「……」

「和は何て言ったと思う?」

「”そんなオカルトありえません”ですか?」

 ゆみは爆笑していた。

 穏乃もつられて笑った。加治木ゆみはこんなにも笑う人なのだと思った。そして心から感謝していた。「恐怖や怯えは自分が作り出すもの」ゆみはそう教えてくれていた。

 

 

 ――だれかが穏乃を呼んでいた。

「シズ! シズってば!」

 風呂から上がり、浴衣に着替えた憧であった。

「憧……」

「うたた寝なんかして。明日早いんだからさっさとお風呂に入ってね」

 穏乃はのそのそと起き上がった。

「……あのさ、憧」

「なーに」

「前に憧は、和の打ち方が自分の理想だって言っていたけど」

「まあね、あれはデジタル打ちの完成形みたいなものだから」

「だったら、明日はその打ち方をしたほうがいいよ」

「……」

 憧は少しだけ考える素振りをした後、鏡の前に座った。そして髪をとかしながら言った。

「渋谷尭深、清澄の悪待ち、風神、その3人を相手にデジタルを貫けと?」

「うん」

「私は、そんなに強くないよ」

 憧は持っていた櫛を置き、滅多にみせない弱気な表情で穏乃に向き直った。

「和は凄いと思うよ。だれが相手でも自分のスタイルを曲げない」

 そう言ってから、憧はゆっくり顔をうつむかせた。

「でも、私は……そんなことできない」

 聞き取れないぐらい、小さな声のつぶやきであった。

 穏乃は正面から両手を憧の肩に置き、頭をくっつけ、同じくうつむいて言った。

「ここまでこられたのは、憧のおかげだよ。……だからもっと自分を信じて」

「……」

 憧の返事はなかった。

「だれが相手だろうと関係ない。憧は、憧の打ち方で勝負すればいい」 

「……和みたいに?」

 穏乃は頭を離して、屈託のない笑顔で言った。

「そう和みたいに」

「……」

「あれこれ考えて、自分自身を見失ったら絶対後悔するよ」

「シズは……できる?」

 穏乃は立ち上がり、自分のベッドの上にダイビングして、仰向けで大の字になった。

「できるよ。――淡さん、ネリーさん、そして咲さん、相手は怪物ばっかりだけど、私は私だよ。明日はこれまでと同じ麻雀をするよ」

「バカみたい」

「え」

 穏乃は半身を起こして憧をみた。

「ほんとにシズは脳天気! 大星淡だって前みたいにはいかない! 絶対シズ対策をしてくるよ! 臨海のネリーや宮永咲だって……」

 憧は自分をみている穏乃が笑顔であることに気がついた。

「な、なにが可笑しいの?」

「いやー、だって、いつもの憧かなーって」

 憧は自分の枕を穏乃に全力投球していた。

「バカ! ほんとバカ!」

「はいはい、バカですよー」

 修学旅行さながらの枕投げが始まった。穏乃はそれを子供のように楽しんでいた。

 

 

 白糸台高校 麻雀部控え室

 

 弘世菫は困惑していた。宮永照の話は突拍子もないものであり、正直なところ信じることができなかった。

「照……そんな話は信じられない」

 照は不機嫌な顔で菫をみた。そして、その表情から想像できないほど優しい声で言った。

「まあそうよね。だから私が、一つ予言をしてあげる」

「予言?」

「そう予言。私は、明日大将戦までもつれ込んだらどうなるか分かる」

 大星淡がそんな照に苛立っていた。今にも食って掛りそうだったので、菫は腕をつかみ、目配せで落ち着くように指示した。菫は照の話が聞きたくなっていた。

「大将戦は、全16局で終了する。親の連荘は一切なしだ。それが〈オロチ〉のスタイル。半荘は必ず8局に決まっている」

 菫は眩暈(めまい)を覚えていた。

(いきなりフルスロットルか……)

「そして、その16局はすべて高火力な点の取り合いになる。なぜなら、すべてのドラは咲に支配されるから」

「ま……待て、待ってくれ」

 あまりのことに、思わず菫は口を挟んでしまった。

「それは真実なのか?」

「真実ではない。だって予言だから」

「……ドラを支配するとはどういう意味だ?」

「〈オロチ〉状態の咲は、ドラがどこにあるか見えている。いや、見えているように打つ。――咲だって毎回上がれるわけではない。でも、上がれない場合は不自然な鳴きや無意味な槓をして和了できそうな人間にドラを集める」

「ドラが見える? じゃあ槓ドラは! 裏ドラは!」

 ついに淡が爆発した。

「……見えている。今日の大将戦オーラスもそうだったでしょ」

 照は、淡を諭すように続けた。

「いい? 宮永咲は、配牌時にドラ牌と嶺上牌が見えている相手。それがどれだけのアドバンテージか解るよね? その咲にターゲットにされるのは、間違いなく淡だよ」

「……なんで?」

「私のいる学校の大将。それが淡だから」

 淡の顔は、苦虫を噛み潰したようであった。

「照……お前と妹の間でなにがあったんだ?」

 菫は、確認せずにはいられなかった。

(多分答えてはくれないだろうが)

「私のせいでみんなに迷惑をかけてすまないと思っている。でも、これは私たち姉妹の問題……」

 照は、すげない話ぶりであった。

「あーあ、その辺は口が重いな照。――まあいい、それで弱点は?」

 菫は、努めて明るく振舞った。

「幾つかある……」

 照はテーブル上の飲み物に手を伸ばし、それで喉を潤してから言った。

「咲が〈オロチ〉時、常に親は流れる。それを改変するとなにかが変わるはず」

「親で上がればいいのか? どう変わる?」

「さあ、できたことがないから」

 それは弱点とは言わないだろう。と、菫は思った。

「ほ、他は?」

「……多分、これが〈オロチ〉の最大の弱点」

 淡が話に身を乗り出していた。宮永咲の脅威を認めたのか、そのアキレス腱となる情報を欲していた。

「さっき言ったように、親は必ず流れる。それは咲が親の時も同じだよ」

「じゃあ、親番は無理をしてでも降りるってこと?」

 淡の問いに、照は、首を縦に振った。

「それだけではない、親番の咲はなにかが見えていないように感じる」

「なにかとはなんだ? これは大事なことだぞ」

 相変わらず言葉が足りないなと、菫は思った。

「ゴメン、本当に分からないんだ。ただ、何度か直撃できたことがある」

(宮永照をして『何度か直撃できたことがある』か、どれだけ化物なんだ妹は。でも、レジストするチャンスは4回あるということか)

 菫は部長らしく合理的に判断した。

 照は軽く深呼吸をした。そして、気持ち和らいでいた表情が険しくなった。

「予言の続き。明日もし大将戦があったとしたならば――10万の点差なんて関係ない。咲に蹂躙されて終わりだよ。〈オロチ〉は初見で倒せる相手ではない」

「そんなに私が信じられないの!」

 それは心の叫びなのか、淡が大声で言った。

 しかし、照は、冷徹極まりない回答を淡に言い渡した。

「信じる信じないの問題じゃない。これは軍人将棋とよく似ている。勝てる相手が最初から決まっているんだよ。”大将”の咲はすべてに勝てる。負けるのは”スパイ”だけ。残念だけど、淡は”スパイ”じゃない」

「スパイ? 007?」

 淡は、その発言に見合ったアホ面をしていた。意味がまったく分かっていなかったのだ。

「宮永先輩、軍人将棋ってなんですか?」

「軍人が将棋をするんですか?」

 渋谷尭深と亦野誠子がそろって質問した。やはり意味を理解できていなかった。

 照は眉を顰めた。そして菫を睨み付けた。

「え、私? 私は知っているけど、ほ、ほら、あの裏返してやる将棋だろう」

 照は納得したらしく、その強烈な視線を外した。その代わりに、残りの3人が説明を求めるように菫をみていた。

「ぐ、軍人将棋の話はもういい! 勝手にググれ! それよりも照、私はそんな予言を簡単に信じるようなバカじゃないぞ。なにか納得できる証はあるのか?」

「証拠は先鋒戦ですぐ観られる」

「先鋒戦? 咲ちゃんは関係ないだろう」

「〈オロチ〉は、ドラを支配すると言ったはずだよ」

「……サキは、そんなに怪物なの?」

(珍しい、淡が怯えている。でも、なぜだ? 先鋒戦? ドラ? 阿知賀!)

 菫は思い当たった。

「おい! まさか!」

「そうだよ。明日、阿知賀の先鋒にはドラが集まらない」

「そこまで影響を与えるのか……〈オロチ〉ってのは」

 菫の質問には答えず、照は大きな溜息をついた。

「明日の先鋒戦で確認してからでもいい。どうか真剣に考えてほしい。阿知賀を副将戦までで飛ばすことを。そうしなければ白糸台の3連覇はない」

 そう言って、照は頭を下げた。

 菫は、それに対応することができなかった。淡達も同じようで、ノーリアクションのまま時間が過ぎていった。

 耐えかねるように、口を開いたのは誠子あった。

「阿知賀の先鋒ってだれでしたっけ?」

「ドラゴンロードちゃん」

 答えたのは尭深であった。

「ドラゴンロード……松実玄だろ」

 菫は呆れて注意した。

 突然、大きな音が聞こえた。その方向をみると、照がうつむき、右手で顔を押さえていた。左手はテーブルに置かれていてブルブルと震えていた。音は、照の左手がテーブルを叩いたものであった。

「照! どうした?」

 照は返答せず、左手を持ち上げて大丈夫というように振ってみせた。しかし、震えは一向に収まらず息遣いも荒かった。

 菫は迷っていた。

(これは……なにかの病気か? 救急車を呼ぶべきだろうか?)

 ――背中をだれかに突かれた。振り向いた先には誠子がいた。

「な、なんだ?」

「もしかして……宮永先輩、ツボっちゃってるんじゃないですか?」

「……はあー? あれ笑ってんの?」

「ナニナニー。どうしたの?」

 淡であった。その瞳はキラキラと輝いていた。

 3人で照をみた。震えは収まり、回復していた。

「なんでもない、ちょっと息苦しくなっただけ」

 照は何事もなかったように言った。だが、目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 菫はうんざりしながら(ばかばかしいが確認してみるか)と、思い、

「尭深! 阿知賀の先鋒ってだれだっけ?」と聞いた。

「ドラゴンロードちゃん」

 照は両手で顔を押さえ、今度は前屈姿勢になった。明らかに過呼吸の状態で、肩は目視できるほど上下に揺れていた。淡はその周りを楽しそうに回っていた。誠子はそれをみて腹を抱えて笑っていた。尭深は――茶を飲んでいた。

 菫は、強烈な脱力感に襲われていた。

(全く……なにが面白いんだか。姉がこんな調子じゃ、妹も似たようなものかな? まあ、どうでもいいけど)

 淡と誠子の笑い声が部室に充満していた。

 

 

 都内 和食屋チェーン店個室

 

 赤土晴絵は、店員に案内された個室の扉を開けることを躊躇した。中にいるのは自分にとってはトラウマ的な存在の小鍛冶健夜だからだ。昨日も会っていたが、周りに部員達もいたので普通に話すことができた。しかし、今日は2人きり。そう考えると、この場から逃げ去りたくなっていた。

 晴絵は、弱気になっている自分を奮い立たせる為に、昨日の準決勝を回想していた。

(……あの子達は阿知賀の壁を突破した。私も一歩前に踏み出さなければ)

 それは、晴絵に扉を開ける勇気を与えてくれた。

「お待たせしました」

 健夜は下座に座っていた。本気で食事をしていたらしく、皿が何枚か空になっていた。

「わざわざお呼び立てして、すみませんでした」

 そう言って、健夜は立ち上がり晴絵を上座に招いた。

「夕飯がまだでしたので、ここで済ませていました。赤土さんは?」

「いえ、お気遣いなく。飲み物だけで十分ですよ」

 晴絵は店員を呼んでウーロン茶を注文した。しばらくして、それが届けられた。

 2人はその間、全く会話をしていなかった。

「明日の決勝戦。私は観たい選手がいます」

「いきなり凄い処からきますね。……宮永咲ですか?」

「はい、私は宮永咲選手がどう闘うか、それを確認したい」

「だから、うちに飛ばされるなと?」

 健夜は初めて笑った。

「そうです。宮永咲選手は、明日、その恐ろしい牙をみせるはずです。姉の宮永照選手はそれを阻止しようと考えるでしょう。そうなると結論は一つです。大将戦までにどこかを飛ばしてしまえばいい」

 話自体は晴絵の予想の範囲内であった。しかし、今の話で気になることが2点あった。まずは、宮永照と宮永咲が姉妹であると健夜は断言した。さすがにプロの情報力は違うと思った。そしてもう一つは、健夜の話し方であった。

「あの、小鍛冶さん。なんとか選手とか、話し辛くないですか?」

「あ、つい、解説の癖で」

「普通に宮永照、宮永咲でいいと思いますが」

「でも呼び捨てはちょっと……」

「……では、照ちゃん、咲ちゃんでどうですか?」

「それならば、いいと思います」

 晴絵はウーロン茶を飲みながら思った。

(この人、結構面倒くさい人かも)

「赤土さんは、準決勝の咲ちゃんをどう観ましたか?」

 晴絵は笑いをこらえながら言った。

「最終局は明らかに別人でした。ただ、私はああいう人間をみるのは二度目です」

 自分のことを言われていると察した健夜は、少し恥ずかしそうな顔をした。

「スイッチを入れるきっかけになにか儀式が必要。そういう人もいます。咲ちゃんもそうでしょう」

(あなたもそうなのでしょう?)

 そう質問したかったが、晴絵はそれを抑えた。

「その儀式として負けを欲したということですか? だとしたら、宮永咲にはオーラスの裏ドラが見えていた?」

「見えていたでしょう」

 相変わらず信じられないことを平気で言う人だと思った。しかし、あの小鍛冶健夜の発言なので無視することはできなかった。そして、晴絵の脳裏に10年前の悪夢が蘇っていた。

「まさか……宮永咲もドラを……」

「そうです。咲ちゃんはドラを操れます」

 健夜は笑っていた。ただし、いつもの素朴な笑顔ではなく、もっとどす黒いなにかであった。そして、健夜は今日の本題を話し始めた。

「さっきも言ったように、照ちゃんは、咲ちゃんとの対決を避ける為に阿知賀女子を標的にします。多分、先鋒、次鋒で、大きく削ってくるはずです。対する松実兄弟は、あまりにも攻撃に特化していて防ぎきることができないでしょう。最悪、次鋒戦で終る可能性もあります。だから松実兄弟には勝つことを諦めて、負けない麻雀をして欲しいのです」

「あの、小鍛冶さん……」

「悔しいとは思いますが――」

「いや、そうじゃなくて。玄も宥も女の子なので姉妹と言って上げてください」

「あ、はい」

 晴絵は、本当に疲れる相手だなと思った。

「でも、それは私たち阿知賀に優勝を諦めろということでしょうか?」

「残念ですが、阿知賀女子の優勝の可能性は極めて低いと思います」

 晴絵もそれは実感していた。阿知賀がここまでこられたのは、運の要素が大きい。自力で言えば他の3校に一歩も二歩も譲る。しかし――

「小鍛冶さん、可能性がある以上、私たちは諦めません」

「はい。それでいいと思います」

 健夜は笑顔で答えた。だが、次の瞬間その笑顔は消えていた。

「でも、松実姉妹には犠牲なってもらいます」

 晴絵はその顔に見覚えがあった。

(そうだ……私が叩きのめされた、あの時の顔だ。私のトラウマ。忘れようとしても忘れられなかった顔。でも、今は真正面からみることができる!)

「阿知賀を人柱にしてまで、宮永咲が観たいと?」

「……」

 健夜は返答しなかった。晴絵も健夜を直視し続けていた。互いに飲み物を手にとって飲み、元の所へ置いた。その間一瞬たりとも視線が外れなかった。

「私は……プロリーグへの復帰を考えています。そのトリガーとなったのは宮永姉妹です。私は、宮永姉妹の闘いを観ている内に、2人と対戦したいと思うようになっていました」

 健夜は目を背けてから静かに言った。

 晴絵はその言葉に唖然とした。

(つまりは、今のプロに自分の対戦相手はいないということ? この人の底が全く見えない)

「私の予想が間違ってなければ、明日、赤土さん達は恐るべき怪物の猛威にさらされるでしょう。他人事で申し訳ありませんが、私はそれをぜひ観察したい。咲ちゃんが私を倒せる相手かどうか見極めたい」

「私は自分の教え子を裏切ることはできません。ましてや、小鍛冶さんの欲求を満足させる為なんて真っ平御免です」

 晴絵は強い口調で答えたが、代案も付け加えた。

「とは言っても、どうせ明日、玄にはドラは集まらないでしょうから宮永照対策は聞かせてください。これは妥協案ですよ。宥は3年なので思う存分に打たせたいから」

 健夜は、晴絵の代案に満足げに頷いた。

「いいでしょう。先鋒戦から大将戦までどう闘えばいいか、私なり考えをお教えします」

 

 

 臨海女子高校 学生寮

 

 ネリー・ヴィルサラーゼは食堂に向かっていた。メガン・ダヴァンと会話をしたかったからだ。メガンは、昨年の準決勝で対戦相手に怖気づいてしまい、逃げの麻雀を打ったと聞いていた。それが、どんな心境か確認したかった。ネリーは、宮永咲の存在に混乱していた。負けたわけではないが、なぜか心にしこりが残っている。理解不能な感情。その答えを、ネリーは欲していた。

 ネリーは食堂の扉を開けた。そこには6人掛けのテーブルが8脚あり、メガンは右奥のテーブルに座り、カップラーメンを食べていた。

「メグ!」

「ネリー、どうシマシタ? 監督は明日に備えて早く寝ろと言ったはずデスガ?」

「メグだって、寝てないよ」

「ワタシはいいのデス。3年ですから」

「?」

 ネリーは不思議そうにメガンをみた。

「ワタシは明日がハイスクール最後の試合デス。だから、この時間にラーメンを食べる権利がありマス」

「なにそれ、どういうことなの」

 ネリーは呆れて苦笑した。メガンもそれに同調した。

 メガンは再びラーメンを食べ始め、スープまで飲み干した。そして、「昨年の話を聞きたいのデスカ?」と、ネリーの質問を先読みして言った。

 ネリーは、ちょっと逡巡してから頷いた。

「怖気づくってどんな感じなの? メグは理解できているの?」

「なかなか難しい質問デスネ……」

 メガンは椅子を離れ、ラーメンのカップをゴミ箱に捨てた。

「ネリーは、勝てなそうな相手と出会ったら、どうシマスカ?」

「それは麻雀の話?」

「マージャンに限りません」

「……逃げる。かな?」

 メガンは椅子に座り直し、手を顔の前で組んだ。

「戦った結果勝てないと判断したのなら、それもいいデショウ。ただ、去年のワタシはそうではなかった。戦う前から自分で負けたと決めてしまったのデス」

「龍門渕透華?」

「そうデス、ワタシは、リューモンブチ・トーカから逃げまシタ。戦いもせず……」

 ネリーは納得がいかなかった。不利な状況ならば、真正面からの対決を避けるのは当たり前であり、馬鹿正直な真っ向勝負なんて愚かなことだと思っていた。

「ワタシは……今でも悔やんでいマス。あの時、玉砕覚悟で特攻すべきだったと」

「玉砕も、特攻も、日本では、あまりいい意味では使わないと教えたよね、メグ」

 話に割り込んできたのは、辻垣内智葉であった。

「智葉」

 呼びかけたネリーを、智葉が厳しい顔つきでみている。

「ネリー、明日は宮永咲に勝てよ。さもなければ、お前は臨海に残れないぞ」

「!」

「いいかネリー、私は、勝負中に負けるかもしれないと考えたことはあるが、負けても仕方がないと考えたことはない」

 ネリーは激昂して叫んだ。

「ふざけるな智葉! いつ私が――」

 智葉は冷めた目つきでみていた。

「どうした? いつ私がなんだ?」

 ネリーは言い返すことができなかった。心の中の選択肢にそれもあったからだ。そう思うと、智葉の目を見続けられなくなり下を向いてしまった。

(これが、負けを認めるということか? なるほど……、これは気が滅入る。だが、私はメグとは違う。それを受け入れる。受け入れて次に進む。なぜなら、私は止まることが許されないから。国の為にも、家族の為にも)

「智葉……よく分かったよ」

 智葉の表情は変わらなかったが、やや眉が上がった。

「ネリー、私はメグと話がある。席を外してくれ」

 ――ネリーは無言で踵を返した。そして、前に進んでいた。背後では、智葉とメガンがそれを見つめていた。

 

 

 清澄高校 宿泊ホテル

 

「ただいまー」

「おかえりなさい」

「おかえりだし」

 竹井久達を迎えたのは、風越女子高校の福路美穂子と池田華菜であった。2人とも清澄の決勝進出が自校のことのように嬉しそうであった。

「ほんと、疲れたわー」

 久と染谷まこは、その場に座り込んだ。1年生の3人は、荷物を置いてから、風呂に行くと言って出かけて行った。

「手強い相手でしたね。臨海女子」

「そうね……。あれでもまだ全力じゃないでしょ」

「そう思います」

 美穂子は心配そうに言った。そして、入れたてのお茶を2人に渡した。

「美穂、明日の心配はそこではないのよ」

「咲のお姉ちゃんがどう動くか。そこが問題じゃな」

 まこは受け取ったお茶を熱そうに飲んだ。

「間違いなく、他校を飛ばしにかかりますね。宮永照は」

 美穂子は華菜にもお茶を渡し、自分の分を入れ始めた。

「なんなんですか、あれは? 長野の決勝とも違いましたし、あんな咲はみたことがないです」

 猫舌の華菜は、お茶がなかなか飲めずに苦労していた。

「華菜ちゃんはどう思った?」

「分かりません。でも、似たような空気を持つ相手と最近打ちました」

 そう言ってから、華菜は美穂子を見た。

「高鴨穏乃さんね。阿知賀の大将の」

 久は思った。

(やはり咲の最大の障害は、大星淡でもなくネリーでもない、あの阿知賀の大将か……)

「美穂もそう思うの?」

「あの子は……特に高い上がりはないのですが、場が進むにつれて、なにか大きなものに飲み込まれていくように感じるのです。そして、いつの間にか手が封じられている。多分、準決の大星淡さんもそれで負けてしまった」

 華菜もそうだと言わんばかりに頷いていた。

「それは怖いわね。だけど、明日の咲はもっと怖いと思うわ。私たちもあんな咲は知らないもの」

「じゃが、実の姉なら知っとるじゃろう」

「阿知賀を守りながら闘わなければいけませんね」

 話がネガティブにな方向に向かっていたが、誰かがドアをノックしたことにより、それはリセットされた。

 久は、ノックした相手がだれか見当がついていた。

「はーい。どうぞ」

「今晩は」

 龍門渕透華であった。その後ろには天江衣と国広一もいた。

「まずは決勝進出おめでとうございます。私たちが出来なかったことをやるなんて、貴方なかなかのものですわ」

「ありがとう、透華」

 後ろで衣は、きょろきょろとだれかを探していた。

「ののか達はいないのか?」

「1年生はお風呂にいったわよ。追いかければまだ間に合うわ」

「そうか! 透華、衣も風呂にいって良いか?」

「ええ、いいですわよ。一も衣と一緒にいってあげて」

「はーい」

 一は衣の手を引きながら、部屋を出た。

「透華……」

「ご安心あそばせ」

 久は帰りがてら透華に二つの調査を依頼していた。一つは、中国麻雀の映像データがないか。もう一つは、咲の癖についての調査であった。

「ハギヨシ!」

「はい。透華お嬢様」

「と、突然現れたし!」

 華菜は、龍門渕の執事を見るの初めてなのか、驚いて涙目になっていた。

「孫先生は?」

「いらっしゃいました。沢村様、井上様と吉留様も待機しております」

「わが龍門渕は映像なんてケチなことは致しませんの。中国麻雀プロの孫先生を招いております。別室で実践対局ですわ」

 相変わらずスケールが違うと、久は感心した。

「お手数をかけたわね」

「あら、これは清澄の為ではありません。来年、郝慧宇と戦うのは私たちですから、その対策として純と智紀に予行練習をさせます。染谷さんと吉留さんは、まあ敵に塩を送るみたいなものですわ」

 美穂子は笑顔でお辞儀をした。透華は満足げであった。

「恐れながら、染谷様は本日睡眠がとれないかと」

 龍門渕の執事が気の毒そうに告げた。

「なんじゃあ。まあええ、明日で最後じゃ、一日ぐらい何てことない」

「がんばってね、まこ」

「わしゃあ、今日はみんなの足を引っ張ったけえ、せいぜいがんばるわ」

「軽食も準備しておりますので、お食事はそちらでお願い致します」

 まこは、執事に導かれて部屋を後にした。

 大勢の人がいた部屋に、今は現麻雀部部長3人と、次期風越部長になるであろう池田華菜の4人しか残っていなかった。

「もう一つの調査結果ですけど……」

 透華らしくない歯切れの悪い言い方であった。久は、それもそうだなと思った。仮に咲の癖が分かったとしても清澄には教えたくないはず。なぜなら、本来ここにいる3校は敵同士なのだから。

「秘密にしていましたが、とうの昔に智紀が分析してましてよ」

「智紀? 沢村さん?」

「智紀をなめてもらっては困ります。あの子は根っからのアナリストでしてよ」

「咲の癖……」

 そうつぶやいたのは、直接対戦したことのある華菜であった。

「無理もありませんわ、池田さん。智紀も申しておりました。モニター越しでなければ分からないと。宮永咲が嶺上できる時は、無意識にその山をみている」

「!」

 久は驚いていた。ここにいるだれよりも咲と打っていた自分が、見抜くことができなかった癖だったからだ。

「それが宮永さんの……」

 美穂子も久と同様であった。華菜も呆然としていた。

「間違いありません。何度も映像を見直しましたわ。智紀の言うとおり、関係ない山に目を泳がせる時はその山で嶺上開花を上がることが多い。彼女の無意味な鳴きは軌道修正の為にいっている」

「まるで、嶺上牌が見えてるみたいだし!」

「見えているみたいじゃありません。見えているのです」

 それはだれもが思っていたことではあるが、実際にそうだと言われるとやはり衝撃であった。しばらくは久も話す言葉が出てこなかった。

「透華、美穂、華菜ちゃん……」

 久は3人を呼んだ。その顔は切実であった。呼ばれた側は思わず身構えてしまうほどであった。

「明日は絶対に勝ちたいの。だから……私に力を貸して」

 福路美穂子、池田華菜、龍門渕透華は、一斉に破顔した。そして、なにを今さら的な笑い声が3人から発せられた。久は、ちょっとだけ意外そうな顔をしたが、すぐに笑顔になり、笑いの輪に加わった。

 

 

 清澄高校 宿泊ホテル 休憩室

 

 なんにせよこだわりが強い原村和にとって、浴衣は最近までは嫌いな衣装であった。その意識が変わったのは合宿からで、ほとんどの時間を浴衣で過ごしている内に好きになっていた。何よりも涼しく動きやすい。そして和好みの可愛らしい着こなしも可能であった。しかし、今目の前にいる3人はその浴衣を冒涜していた。

「優希……」

「なんだじぇ、のどちゃん」

 牛乳を飲んでいた片岡優希は、浴衣の帯を適当に縛っており腹まで見えている状態であった。

「帯ぐらい、きちんとしてください」

「おおう、そうであった」

 和が衣服のマナーにうるさいことを知っている優希は、牛乳を置いて、帯を締めなおした。

「衣さんも国広さんも、浴衣ぐらいちゃんと着てください」

 天江衣は浴衣が右肩からずり落ちていた。国広一にいたっては、帯そのものを着けておらず、まるで着流しのようであった。

「和はこういうことには厳しいね」

 一は笑いながら帯を拾った。

「これではダメなのか? 衣は家ではいつもこんな感じだぞ」

 衣の質問に、和は深い溜息をついた。

「少しは恥じらいを持ってください。咲さんを見習ってください」

 そう言って、和は宮永咲をみた。なにか違和感を覚えた。浴衣の合わせが左前になっていた。

「さ、咲さん! それでは死装束です!」

「ああ、ごめんなさい」

 咲は慌てて帯を解いた。

 和は頭を抱えていた。

「今年も臨海女子が邪魔してきたね」

 完璧に浴衣を着直した一が、衣に対して言った。

「透華の対戦相手以外は面子が違うが、皆、一筋縄ではいかぬ相手だな。だけど、明日の真の敵は臨海ではないぞ」

 衣は咲に顔を向けた。それに答えるように咲は、「きっと全力の宮永照を観られると思います」と、他人事のように言った。

「咲ちゃん! それは困る。お姉ちゃんとぶつかるのは私だじぇ」

「優希は東一局にすべてをかければ良い。清澄の部長もそう言ったのではないか?」

 衣の質問に、優希は固まってしまった。その表情は「そのとおりです」と語っていた。

「他の2校が勝手に動いてくれる。東場は隙があればすばやく上がり、南場はひたすら防御に徹することだ」

「でも、それじゃあ勝てないじぇ」

 優希は不満そうに言った。

「団体戦はそれぞれ役割を持っているはずだぞ、優希の役割はなんだ? 失点を最小限に抑えて次鋒に繋ぐことであろう。相手はだだの強者ではない、正真正銘の怪物なのだからな」

 まるで自分の学校のことのように、衣は優希にアドバイスをした。

「衣は、本当は自分が宮永照と闘いたかったんだよね。去年は本当に残念そうだったよ」

「一! それは内密にと言っただろう」

 衣は、珍しく早口になり、顔も少し赤くなっていた。

「……透華には内緒だぞ」

 一を睨みながら衣は言った。一は分かったと言わんばかりに、二度三度と頷いた。

「昨年、咲の姉上と闘っていたら、多分、衣は負けていただろう。でも、それもよかろうと思っていたのだ。いや、きっと敗北を望んでいたのだと思う。……衣は負ける相手をずっと探していた」

 そう言って、衣は咲をみて微笑んだ。

「咲、お前には感謝している。あの県大会オーラス。あれは、今思い出しても痺れるような負けであった」

「しかも咲は宮永照の妹なんだよ。なんか因縁を感じるね」

 咲はなにも言わず、ただ頷いただけであった。しかし、衣と一はそれで満足したようで喜色満面としていた。

 和は、咲や衣のように自ら望んで負けるという感情が理解できなかったので、実に複雑な笑顔をしていた。

 

 

 ――しばらく雑談をした後、「じゃあ、明日、がんばって」と言い残して、国広一と天江衣は、そそくさと帰ってしまった。休憩室に残されたのは、清澄の1年生3人だけであった。

 原村和は考えた。

(きっと衣さんは、私たちに気遣いをしてくれた。あのことを話すのは今しかない)

「さて、私たちも戻るじぇ」

 片岡優希が椅子から腰を上げた。和は、あのことを話そうと努力していたが、切り出し方がまとまらず焦っていた。

「湯冷めしちゃうから、早く帰ろ」

 宮永咲も、そう言って和に手を差し伸べた。

「あ、あの!」

 神妙な面持ちの和に、咲と優希はびっくりしていた。

「私は……明日絶対勝ちたいです!」

 優希と咲は顔を見合わせ、すぐに笑顔になった。

「当然だじぇ、のどちゃん。勝って、全国制覇だじょ」

 優希らしい軽口で和を励ました。しかし、和は笑わなかった。

「和ちゃん、なにかあったの?」

 咲も心配そうに声をかけた。和はもじもじしていたが、意を決めて話した。

「もし、負けてしまったら、私は……みんなと離れ離れになってしまいます」

「そんな話、初耳だじょ!」

 優希は少し取り乱していた。咲は無言であったが、手を口に当てていた。

「優勝できなかったら東京の進学校に転校する。それが、お父さんとの約束です。だから、明日はなにがなんでも――」

「和ちゃん……」

 口を挟んだのは咲であった。その顔は感情を完全に喪失していた。目は半紙に落とした墨汁のように光沢がなく、口の動きも筋力で動いているようには見えなかった。

「絶対私まで回して……。私がお姉ちゃん達を叩き潰すから……」

 和は、咲の反応に慌てていた。

(迂闊でした……やはり私の心の中に留めておくべきでした)

 そう後悔し、咲に呼びかけた。

「咲さん! しっかりしてください」

「何万点差があっても……みんな粉砕するから大丈夫だよ」

(いけないさっきとは違う。なかなか元に戻らない。ここは奥の手を使うしかないかも)

 と、和は思い、優希に合図した。

 優希は心得たとばかりに頷いて、5mほど離れて両手を顔の前でクワガタのよう構えた。

 和は叫んだ。

「あー! みてください、咲さん。あんな所に花田先輩が!」

「え! どこ!」

 咲は瞬間に笑顔になり、辺りをきょろきょろ探した。そして、優希を見つけて吸い寄せられるように近づいていった。

「すばら! すばらですよ。宮永さん」

 優希は腕を動かしながら、新道寺女子高校の花田煌の口真似をした。咲はそれが楽しいらしく、どんどん近づいていった。

「宮永さん! 私はお腹が空いています。なにか食べ物は持っていませんか?」

「えー。なにも持ってないよー」

「すばら! ならばお前を食べましょう」

「あー!」

 咲は優希の腕に挟まれて喜んでいた。

 和は咲が普通に戻ったのをみて安堵した。ただ、咲がなぜあんなに楽しそうなのかは、全く理解できなかった。そして、

(もしかして、お姉さんもこんな感じなのかな?)

 と考えたが、すぐに、どうでもいいことだと思い直し、小さく首を横に振った。

 

 

 阿知賀女子学院 宿泊ホテル ロビー

 

 赤土晴絵は悩んでいた。先程まで話していた小鍛冶健夜のアドバイスは、阿知賀にとっては有り難いものではなかった。特に松実姉妹のそれは、余りにも過酷であったが、客観的に考えると唯一の方法に思えた。しかし、それを伝えることは2人に試合を捨てろと命令することと等しかった。晴絵はその対応に苦慮していた。

 エレベーターに向かって歩いていると、人影が二つ近づいてきた。その松実姉妹であった。

「玄、宥も……。どうした? 灼から早く寝ろと聞いていないか?」

「聞いています。でも、玄ちゃんが……」

 答えたのは松実宥であった。松実玄は姉の後ろでじっと晴絵を見つめていた。

「玄……不安か?」

「はい……」

「立ち話もなんだし、あそこで話そう」

 晴絵はフロント前のソファーを指さし、宥に飲み物を買ってくるようにと小銭を渡した。やがて、宥が自販機で買ってきた冷たいコーヒーを2人に渡した。もちろん自分の分は温かいコーヒーであった。

「この間どっかの解説者が面白いことを言っていたよね。玄は龍に好かれているって、だからドラが集まるんだって」

「はあ」

 玄は曖昧な返事をした。

「でも、宮永咲は違う。力で龍を従える。だから、玄には、ドラが寄り付かない」

「え?」

 晴絵は、声を発した宥をチラリとみた。大将の宮永咲の力が先鋒まで影響を及ぼすのか? そういう顔をしていた。

「今のは、小鍛冶プロの助言だよ」

 と言って、晴絵は缶コーヒーの口を開けて飲んだ。

 玄と宥は言葉を失っていた。

「小鍛冶健夜はドラを支配できる。2人共、10年前の私の試合をビデオで観たよね?」

「赤土さんは、残酷な二択を迫られました」

 答えたのは宥であった。缶コーヒーの口を開けないで、温かそうに握っていた。

「あの時、私は小鍛冶さんにドラを掴まされた。残してリーチをかければ逆転可能、切れば、裏が乗らないかぎり、届かなかった。そして私は前者を選び……負けた」

「……」

「残酷な二択か……そうだね、本当に残酷だ。あれはそういう二択ではなかったんだから。どっちを切っても和了されていた。つまりは、振り込んで負けるか、降りて負けるかの、負け方を選ぶ二択だった」

 晴絵は自虐的な笑顔で話していたが、ゆっくりと表情を真剣なものに変えた。

「私も、2人に、その残酷な二択を迫りたいと思う。明日の闘い方についてだ」

「はい」

 玄と宥は同時に返事をした。その声は決意に満ちていた。

「一つ目は、後悔が残らないように、全力でチャレンジし、華々しく散る」

 2人は沈黙していた。晴絵の言う、次の選択肢を待っていた。

「二つ目は……勝負を捨てて、守りに徹する。そして、残りの三人にすべてを託す」

 玄は静かに笑った。そして、小さな声で話し始めた。

「私達阿知賀には……きっと魔法がかかっていたんです。そのおかげで、こんな、信じられない場所まで来ることができました。でも私とお姉ちゃんの魔法は……もう解けてしまった」

 そう言って、玄は姉の宥と目を合わせた。

「選ぶのは二つ目です。阿知賀の為なら、私たち姉妹はなんでもします」

 突然、玄が晴絵の胸に飛び込んできた。

「赤土さん! 泣かないで! 泣かれると……私だって」

 玄は堰を切ったように泣き始めた。

(ああ……私は泣いていたのか……)

 晴絵は自分が涙を流していたことに、初めて気がついた。そして今、胸の中で号泣している、松実玄を抱きしめ、心の中で語りかけた。

(玄、まだ魔法は解けていない。明日、私と宥と3人でそれをみせてやろう)

 

 

 大星淡自宅

 

 白糸台高校は試合会場から近いので、明日7時に現地集合と決まり、メンバー全員解散となった。大星淡も自宅に戻り、部長の弘世菫の指示「今日は早く寝ろ」を懸命に実行していた。しかし、目を閉じると、宮永照の言った『完膚なき負け』が思い起こされ、その意味を考え始めてしまう。

(私だって何度も負けたことがある。この間の高鴨穏乃に負けた時なんか、凄く悔しくて、内緒だけど大泣きしたんだから)

 でも照は、それは意味が違うと言った。弘世菫、渋谷尭深、亦野誠子も同じ意見のようであった。淡にとって未知なもの『完膚なき負け』。それは恐怖であり憧れでもあった。もし、自分にそれを与えてくれる者があるとすれば、宮永咲に違いないとも思っていた。だが、咲は自分が敬愛する照にもそれを植え付けた。そう考えると、激しい憎悪の念を抱いてしまう。

 淡は混乱していた。そして、その解答をくれそうな相手に電話をかけた。

「……はい」

「ごめん。テルー寝てた?」

「いや」

「そう」

「眠れないの?」

「うん」

「そう」

「テルーは?」

「私も」

「なんで?」

「怖いから」

「怖い? サキが?」

「うん」

「そう」

「淡は?」

「私も、怖い」

「そう」

「うん」

「ゴメン」

「なにが?」

「咲のこと話して」

「そうだね」

「……」

「ありがとうテルー」

「眠れそう?」

「うん」

「じゃあ、明日」

「もう今日だよ」

「じゃあ、今日」

「うん」

 

 

 清澄高校 宿泊ホテル

 

 宮永咲と片岡優希は静かな寝息を立てていた。しかし原村和は落ち着かない様子で、何度も姿勢を変えて、時折、小さな溜息もついていた。

(和、眠れないのね。無理もないけど)

 竹井久は、目をつむり、思い出していた。

 自分が1年生の頃、たった1人の部室で思い描いた夢は、麻雀部が大勢の部員の笑い声で満ち溢れることだった。――そして、その夢はかなった。

 2年生になり、染谷まこと2人で考えた夢は、団体戦に出場することであった。――その夢もかなった。

 3年生の今年。全中覇者の和とセンスの良い優希が入部してきた。インターハイに出ることが新しい夢になった。しかし、長野を勝ち抜くには、龍門渕高校を倒さねばならなかった。和も優希も強い打ち手であったが、天江衣はさらに上手をいっていた。そんなある日、男子部員の須賀京太郎が1人の少女を連れてきた。宮永咲――目も眩むような打ち手であった。

(咲と出会ったあの日。私は貪欲な夢をみてしまった。すべては明日、いや、今日ね。……かなうかしら)

 久の貪欲な夢。それは、全国制覇であった。

 ――和の規則的な呼吸音が聞こえてきた。

(和、やっと眠れたようね。そろそろ私も)

 まだ戻ってきていない、まこのことが気になり、様子をみにいこうかと思ったが、これまでの疲労が、久の行動力をどんどん奪っていった。そして、その値がゼロになった時、久は眠りに落ちていた。

 


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