咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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16.〈オロチ〉

 決勝戦 対局室

 

 仮東の大星淡が、サイコロを振った。出目は“9”であった。

 その結果により、インターハイ団体戦決勝の大将前半戦は以下の席順で開始された。

 

 東家 大星淡

 南家 ネリー・ヴィルサラーゼ

 西家 宮永咲

 北家 高鴨穏乃

 

 起家の大星淡はもう一度サイコロを回した。

 “トイ7”

 配牌は宮永咲の前の山から開始される。淡は手を伸ばして牌を取った。

 ――咲と目が合った。

(似ている……テルーとよく似ている。どこから見ても合う目、すべてを見透かされていると感じる目)

 宮永照と同じチームの淡にとっては、それだけならば、問題なく対応可能であった。しかし、咲のその目には、姉の照にはない凶悪な側面があった。それは、対戦相手を破壊し尽くそうとする殺戮者の目であった。

(数時間前は圧倒されたけど、今は平気。サキ、私はあの時、あなたに言ったよね、叩き潰してやると)

 反射率ゼロの黒い目。その咲の視線を浴びながら淡の配牌は完了した。

 既に聴牌しており、淡の代名詞のダブル立直が可能であった。これまでならば、迷うことなく牌を曲げていたが、淡は躊躇した。

 この配牌は自分の力によるものだろうか? そんな疑念が淡の判断を鈍らせていた。

(テルー、菫……。ゴメン、私は、試してみたい……)

 試合前に照から忠告されていた。

(『〈オロチ〉に対しての立直は死を意味する。だから、決して立直しないこと。立直できる局面が発生した場合は、すべて咲の罠だと思え』)

 とんでもない話であった。そんなことができる人間がいるとは思えなかった。

(じゃあ、これもサキの罠だって言うの?)

 淡は対面にいる咲を見た。

「!」

 声が出なかった。咲は光のない目で、淡を直視していた。『早く立直しろ!』その目はそう言っていた。淡は歯ぎしりをして、その威圧に抵抗した。

(サキ! お前なんか……私は怖くない!)

「リーチ!」

 大将戦 東一局は白糸台高校 大星淡のダブル立直から始まった。

 

 

(ダブル立直、六向聴。大星の作用か?)

 これがうわさに聞く大星淡の絶対安全圏かと思ったが、迂闊な判断はできない。何しろ、ネリー・ヴィルサラーゼにとって、この3人の波動は。まだ掴み切れていなかった。

 ――運の波、それは、ネリーに波動の形で伝わる。良い自摸が続き、聴牌、和了が近い人間からは、上昇波動。その逆は下降波動が発生する。ネリーはそれを捉えることができるのだ。自分のものは、もっとアクティブに制御可能であった。例えば、良い波にもかかわらず。上がりを保留した場合などは、その上昇波動をストックできる。そして、一気に高めて放出する。それがネリーの爆発力の秘密であった。

(おかしい……大星からはその波動が感じられない。高鴨からも……)

 試合前にメガン・ダヴァンが言ったように、波動は個人差があるので、把握するには時間がかかる。だから違和感を覚えるのかもしれないと考えた。だが、真実は違っていた。

(いや……私は認めたくないんだな……)

 実際は、強い波を掴んでいた。ただ、その波動は、ネリーが心から嫌悪すべきものだった。その発生源は――宮永咲。

(これが人間から発せられるとは……宮永、お前は、本当に悪魔なのか?)

 ネリーの波動を感じ取る力は、家族を守る為に発現していた。内戦中だったネリーの祖国では、死に近づく危険な場所が多数あった。そこからは強烈な波動が出ており、幼いネリーはそれを察知し、家族をそこに近づけないようにして、動乱の時代を生き延びてきた。

 今、咲から感じられるものは、その危険な波動に酷似していた。

(宮永……分かっているのか? これは……悲しみと憎しみ……絶望の波動だ!)

 ネリーは理解していた。ダブル立直、六向聴、これは大星淡の力ではない。宮永咲の罠であると。

(悪魔め! 掴んでやる、お前のウィークポイントを!)

 ネリーは、宮永咲を絶対に倒さねばならぬ敵として認識した。なぜならば、宮永咲の放つ波動は、ネリーがこの世で最も憎んでいるものであった。

 

 

 高鴨穏乃は、自分のテリトリーである山の奥に、何者かが侵入してきたのを感じていた。それは、大きなものであるが、霧のようにはっきりとした形がなかった。しかし、ある一部分だけは、明確に形が見えていた。

 それは、目。

 不安定にうごめく体の上部に2つの目が鈍く光っていた。穏乃は、それがなんであるか分かっていた。その理由は簡単だった、同じ目をもつ者が上家に座っていたからだ。

(この怪物は、咲さんから送り込まれた……私が服従していれば、怪物はこのまま動かない。だけど、私が反逆したら、こいつは暴れ狂うのだろう)

 穏乃は、朝のミーティングの赤土晴絵からの指示を回想した。

 

 

 本日 午前 阿知賀女子学院 宿泊ホテル

 

「前半戦は宮永咲に絶対服従すること。なにがあっても、決して反抗してはダメ」

 赤土晴絵のその指示は、当然ながら意味不明だった。

「それは上がるなということですか?」

 高鴨穏乃の問いに、晴絵は首を横に振った。

「前半戦の収支は、おそらくシズがトップになると思う」

 ますます意味が分からなくなった。穏乃は混乱していた。

 晴絵は表情を緩めて、その理由を説明した。

「昨日、小鍛冶さんとで意見が一致したんだ。大将戦開始時、私達は白糸台に大差をつけられている」

「え?」

「白糸台はそれほどのものだよ。玄と宥は防御で手一杯。憧の面子は曲者揃い、灼は薄氷を踏むがごとしだろう。だから、副将までは挽回するチャンスが一切ない」

「大将戦はあるんですか?」

 晴絵は、少し考えてから、穏乃に質問をした。

「白糸台で最も不安定な選手はだれだと思う」

「……大星さんですか?」

「正解だよ。シズは一度闘っているから分かると思うけど、彼女は激情の人だ。付け入る隙が多い」

「……」

 それはそうかもしれないが、だからと言って大星淡が凌ぎやすいとは思えなかった。彼女は桁外れに強い。前回勝てたのは、ほんの少し自分に運があっただけだ。穏乃はそう考えていた。

「宮永咲は…ドラを絡めた支配をかけてくる」

「ドラ……支配?」

「具体的にはなにも分からない。ただ、彼女はシズ達を自分の駒として使うと思う」

「大星さんを削る為の?」

 晴絵は笑顔で大きく頷いた。

「宮永咲の怖さは、嶺上開花ではない、信じられない精度の点数調整能力だよ。今日の彼女は、ドラを自在に操ってそれを行う。まさに無敵だ」

「点差が縮まった時がチャンスですか?」

「とは言っても、分からないことが多すぎる。だがら、前半戦は彼女の好きにさせるんだ。シズは、従順な振りをして弱点を探る。時間がないけどできる?」

「……私は、赤土さんを信じます」

 穏乃のその台詞に、晴絵は困ったような顔をした。

「私も……自信があるわけじゃないよ。だけど、阿知賀が勝つには、そうするしかない」

「勝負は後半戦ですか?」

「うん。だれもがこう思っている。阿知賀が優勝できるわけがないとね。――見せてやろうじゃないか。私達の闘いを、最後の奇跡を!」

 阿知賀女子学院 麻雀部 監督 赤土晴絵の口から“奇跡”という言葉が発せられた。それは、考えようによっては、悲痛な叫びとも思われた。実力不足の阿知賀が優勝するには、それに頼るしかなかったのだ。

 

 

 六向聴から始まった穏乃の手牌は、8巡目の自摸により聴牌できていた。六向聴の場合、この巡目で聴牌できる確率は1%もない。明らかになにかの力が作用していた。大星淡の絶対安全圏を凌駕する力が。

(でも、手牌にはドラがない。この局は上がれないのかな)

 穏乃は宮永咲を見た。全くの無表情で、目だけがあらゆる方向を向いている。――いや、違う。この目には、そもそも方向性がないのだ、だから常に目が合う。穏乃はそう思った。そして、その目が、テリトリーに侵入した怪物の目とシンクロした。

(咲さん……こいつは、私の監視役だね? だけど、自分のやっていることが分かっているのかな?)

 穏乃は、咲に対しての怒りの感情が芽生えていた。

(あなたは、私の領域に無断でこんなものを送り込んだ……)

 その怒りは、力強い打牌として表現された。

(だから、私は、こいつを無傷で帰すことはできない!)

 東一局は9巡目に入った。間もなく大星淡の暗槓のタイミングが近づいてきた。

 

 

 清澄高校 控室

 

 竹井久は、画面に映る宮永咲の手牌と、ドラ表示牌を見比べていた。裏返された牌は【南】であり、ドラ牌は咲の自風の【西】であった。

(咲……いきなり、数え役満を上がるつもりなの?)

 咲の手牌には、その【西】が刻子で存在していた。大星淡の絶対安全圏の作用があったかどうかは定かではないが、既に咲は聴牌していた。萬子の一盃口と【西】、そして、【白】と【七萬】の対子。狙っているのは【西】の槓からの嶺上開花だろう。

「和、ドラは必ず8枚乗るんだったわね?」

「はい……咲さんはそう言ってました」

 計算の早い和は、その結果がどうなるか理解しており、顔を青くしていた。

(だったら、それは槓ドラね、でも、この巡目で大星淡は暗槓をしてくるはず。そうなると、咲はその前に上がらなければならない)

 ――それは、余計な心配であった。久は、いや、この対局を見ているすべての者は目撃した。この場に魔王が降臨したのだ。

 

 

 決勝戦 対局室

 

 大星淡にしてみれば、それは通常の流れで、3回目の山の角を曲がる直前に暗槓し、その槓に裏ドラが乗る。これが対戦相手を恐れさせた淡の打ち筋であった。手牌には【三索】と【四筒】の刻子を持っていたので、どちらかをこの自摸で引くはず。

 淡は牌を自模り、それを確認した。

 ――淡の背筋は凍り付いた。そして自身の置かれている立場を、はっきりと認知した。

(そう……本気なんだね……)

 あの時、顔合わせの場で咲は言った。淡を再起不能にすると。それは、冗談ではなかったのだ。淡は震える手で、その自摸牌【西】を捨てた。

「カン」

 手牌の【西】の刻子を倒した咲の手が、淡の捨牌を掠め取っていった。その手は嶺上牌へと向きを変えて、牌をつまんで裏返し、そのまま場に置いた。嶺上開花、その行為はそう宣言していた。そして、槓ドラ表示牌をめくる、隣と同じ【南】、咲の前に晒されている4枚の【西】は8匹の龍となった。

(こ、これが……〈オロチ〉)

 目の前の敵は、ただの敵ではなかった。あの宮永照でさえも恐れた〈オロチ〉なのだ。

「ツモ、混一色、西、白、嶺上開花、ドラ8。32000」

 〈オロチ〉は生贄を要求していた。それは自分。白糸台高校 大星淡であった。

 

 

 高鴨穏乃のテリトリーで、形なくうごめいていた怪物は、はっきりとした形を取り始めた。

 ――2つの目が、いきなり16個に増殖した。その目から、うねうねと動く8本の首が形成されていく、ただし、体は1つしかなかった。その姿は日本神話の八岐大蛇を連想させた。

(そうか、〈オロチ〉、八岐大蛇か……大星さんはこいつを知っていたのか)

 その恐ろし気な実態を明らかにした〈オロチ〉ではあったが、まだ動きはなかった。8本の首をゆらゆらと動かしているだけであった。

(刺激しては駄目だ……このまま、前半戦はおとなしくしてもらう)

 内部に怪物を送り込まれた穏乃にできることは限られていた。それは服従。怪物を暴れさせない為には、絶対服従をするしかなかった。

(宮永咲……)

 どんな相手でも、常に敬語で対応していた穏乃であったが、この魔王にはそれを拒否することにした。

(臥薪嘗胆だ、見ていろ宮永咲!)

 

 

 強烈な波動が連続してネリー・ヴィルサラーゼに来襲していた。その痛みに、ネリーは顔を歪めた。考えてみれば、この波動とは直接対峙したことがなかった。察知したら回避する。それがネリーのサバイバル術だったからだ。

(意識をはっきり持たなければ殺られる……もういいやと思ったら殺られてしまう!)

 波動の威力が減少してきた。ネリーは耐える力をそれに合わせて緩めていった。

(まずいぞ……波が読めない)

 ネリーは焦っていた。時間がなかったからだ。前半戦で確実な情報を掴まなければならないが、宮永咲からの波動の対応で手が一杯であった。

(このままでは……なにもできないで負ける)

 大粒の汗が、ネリーの額に浮かんでいた。

 

 

 決勝会場 観覧席

 

 観衆は静まり返っていた。咲がやってみせたことは、それほどまでに異常であったのだ。皆が思っていたのは、“凄い”ではなかった。もっと素朴な“なにこれ”という、未知のものに対する恐怖心であった。

『嶺上開花……ドラ8……数え役満』

『……』

『小鍛冶プロ……これ、わざとですか?』

『……そう考える他ありません』

『でも……宮永選手の槓はドラが乗らないんじゃ……』

『乗るんですよ、本当は』

『すこやん……怯えている?』

『いえ、怯えてはいません。ただ、想像を超えていました』

『想像? なに?』

『福与アナ、しっかりして下さい。宮永咲選手ですよ』

『咲ちゃん……』

『そうです。現時点では……だれも彼女を倒せない』

『すこやんでも?』

『私どころか……今は、無敵でしょう』

 

 

 白糸台高校 控室

 

「て、照……」

「まだだ……まだだよ菫」

「え……」

「〈オロチ〉の恐ろしさはこれからだ」

 絶対王者 宮永照が見せる苦悶の表情、それが弘世菫の恐怖心を倍増させていた。

 菫は、精神の均衡を保つ為に、ある情報を照に要求した。

「照……お前の妹は、何枚見えているんだ」

 宮永咲が配牌時に見えている牌、その具体的な数値が知りたかった。

「分からない」

「お前の考えでいい、教えてくれ」

「……」

 言いたくなさそうであったが、僅かの間を置いて、照は答えた。

「最小で、18枚」

 それは、菫の予想と合致していた。ドラ、裏ドラの8枚、赤ドラの4枚、ドラ表示牌2枚に、嶺上牌4枚。合計で18枚。菫は続けて、懸念すべき点を質問した。

「槓をすると、それが増えていくのか?」

 照は、首を縦に振ったが、言葉ではそれを否定した。

「私の考えでは……最初からすべて見えている」

「な!」

「48枚。咲は配牌時にそれだけ見えている……」

 精神の不均衡は改善されなかった。それどころか、激しい動悸が菫を襲っていた。心音が菫の耳に響きわたっていた。

「淡ちゃんは、勝てるんですか……?」

 中堅戦で怪物ぶりを発揮した渋谷尭深が、怯えながら聞いた。

「殴り合いで……〈オロチ〉に勝てる者はいない」

「どうすれば……いい?」

「〈オロチ〉を倒すには、その根本的な部分を封じるしかない。だけど、それができる者は今はいない」

(今は、か……つまり希望はあるということか)

 その言葉が、菫の薬になった。動悸が和らいでいった。そして、同じ質問を繰り返した。

「淡は、どうしたらいい?」

 照の表情は冷酷であった。それは、画面に映っている妹の表情に瓜二つであった。

「逃げ回るしかない……今は」

 

 

 決勝戦 対局室 

 

 大星淡は、数え役満への振り込みを冷静に捉えていた。上級生の警告を無視して立直した。何もかも自分の責任、ならば、それを挽回することが白糸台の為にできること。淡はそう考えていた。

 東二局、ドラ表示牌は【八筒】、当然のように、ドラは淡の手牌にはなかった。しかし、それをターゲットにできる牌が集まっていた。

(国士無双……二向聴。【九筒】待ちなら槍槓できる)

 役満 国士無双の槍槓ルール、インターハイでは、そのルールが採用されていた。1面待ちなら、暗槓でも槍槓が許可されていたのだ。もちろん、それにこだわる必要はない、国士無双の最良の待ちは13面待ちなのだから。

(できすぎている……これもサキの罠なのかな?)

 その可能性を捨てきれなかったが、前局の振り込みが、役満和了への大きな誘惑となった。このまま手を進めて、危険と思えば降りれば良い。淡の判断はそのようなものだった。

(ドラ牌を囮に、国士を対戦相手に狙わせる。……そんなことが可能なの?)

 判断に迷いが生じた。淡は心の中で、助けを求めていた。

(テルー……。あなたの妹は……サキは、どれだけの力を持っているの?)

 当然答えは返ってこない。――淡は自力で決断しなければならないのだ。

(ここは……攻める!)

 自分と咲の親番以外は、すべて降りるように命じられていたが、淡は、再度、警告無視を選択した。目の前の宮永咲に屈服することは、自我の崩壊に等しかった。淡の闘争心を支えているものは、咲への憎しみなのだから。引くことはできない。

(サキ!)

 淡は、心の中で、何度もその名前を叫んでいた。

 

 

 阿知賀女子学院 控室

 

「もし、宮永咲が人間ならば……こんなことは、できるわけがない!」

 あまり声が大きくない鷺森灼が、皆に聞こえる声で言った。それは、恐れを抱いた者特有の大声であった。

「灼、落ち着いて!」

 赤土晴絵は、灼をなだめる為に手を伸ばしかけた。

「ああ……」

 その声は、チームの中で、最も冷静な新子憧が漏らした。晴絵は、手を止めて、憧の見ているモニターに目を向けた。

 東二局 13巡目、宮永咲は、阿知賀女子学院 大将 高鴨穏乃の捨て牌【四索】をポンした。その鳴きは、咲の手になんの影響も及ぼさなかった。全くの無意味な鳴きであった。

 再び穏乃の自摸。――ドラ牌【九筒】。穏乃は“聴牌”した。

「同じ場に、国士無双を聴牌している者が二人もいる……人間ではない。小鍛冶健夜が言った魔王だよ。この子は」

 残念ではあったが、その灼の意見に同意せざるを得なかった。高鴨穏乃は今の有効牌で国士無双13面待ち。対する大星淡は、ドラの【九筒】待ち。淡の劣勢は、火を見るより明らかであった。

(小鍛冶さん……あなたの言った最凶の怪物が現れました。私達は、蹂躙されるしかないのですか?)

 答えは、昨日、既に聞いていた。“Yes”小鍛冶健夜は冷たくそう言っていた。

 

 

 決勝戦 対局室 

 

(気がつかなかったのではない、可能性を排除していたんだ)

 大星淡は、高鴨穏乃の河を見てそう思った。そして、宮永咲を睨みつけた。

(高鴨穏乃にも国士を仕込んだね、しかも、13面待ちで!)

 淡の選べる道は2つしかない。穏乃より先に上がるか、中張牌を引き続けて降りるかであった。和了するのは無理かもしれないが、降りるのはなんとかなりそうであった。

「チー」

 14巡目、親のネリー・ヴィルサラーゼの捨てた【六筒】を、咲が副露した。

(また……、この鳴きは……)

 淡の自摸番が回ってきた。嫌な予感がしていた。取るべき牌からは黒いオーラが漂っているように見えた。咲のチーは、淡にこの牌を引かせる為の誘導のはずだ。

(お願い……)

 本能的に発せられた願いであったが、それは、無残にも打ち破られた。

 引いた牌は【中】。

 淡の手牌は、字牌と老頭牌だけの完全な手詰まりであった。2連続役満振り込みが目前に迫っていた。

 淡は、歯を食いしばり、いま引いてきた自摸牌の【中】を捨てることにした。

(まだだ! サキ! これで勝ったと思うな!)

 

 

「ロンです。国士無双、32000」

「……ハイ」

 役満を上がった感動は皆無であった。高鴨穏乃にとって、この役満和了は、主に命じられたことを、忠実に実行しただけであったからだ。監視役として穏乃の領域に居座っている〈オロチ〉は、その結果に満足しているのか、ピクリとも動かなかった。

 大星淡から点棒を受け取った。2連続で役満に振り込んだ彼女ではあるが、闘志の衰えは見えなかった。

(大星さん、あなたは凄い。この宮永咲に真っ向勝負を挑むのだから)

 穏乃は引け目を感じていた。それは、強大な敵に対して、挑む者と逃げる者の差であった。赤土晴絵から服従を指示され、それに従っている自分は、逃げる者に他ならなかった。そして、それは穏乃にとって、我慢ならないことであった。

 東三局、宮永咲の親番。彼女はサイコロを回し、出た目の位置から配牌を開始していた。穏乃達もそれに続いて、牌を取っていった。

 穏乃の心は揺れ動いていた。服従と反逆、宮永咲への自分の立ち位置を決めなければならない。服従から得られるものは安堵であり、反逆は主人から恐怖を与えられる。多くの人間は安堵を選ぶだろう。しかし、選ばれた人間は、恐怖を選択できる。なぜなら、選ばれた人間とは、それに打ち勝つ勇気を持っているからだ。

 穏乃は思った。

(私に……その勇気があるのかな……)

 その結論は出ていた。そう考えている時点で、穏乃は選ばれた人間ではなかった。

 

 

(宮永からの波動が止まった!)

 ネリー・ヴィルサラーゼは、その理由をシンプルに考えていた。つまりは、“宮永咲は親番時には弱体化する”そう仮定していた。情報不足の現状では、そう定義するしかなかったのだ。その為、ネリーはもっと重要な情報収集に、この機会を活用しようと思っていた。

 東三局は7巡目まで進んでいた。大星淡、高鴨穏乃の波動は、ほぼ掴めていた。2人共、上昇波動を発生させており、比較すると淡のほうが強かった。

(白糸台はこんなやつばっかりなのか? 弘世菫、亦野誠子、そして大星淡。メンタルが強すぎる。普通65000点も減らしたら、こんな波は出ない)

 まだ、はっきりとは分からないが、大星淡は高めを狙っているはずであった。それに対して、高鴨穏乃はそれほどでもない。

 ネリーは最も警戒すべき相手を見た。蝋人形のような宮永咲。彼女からの波動は完全に途絶えていた。それが、ネリーを困惑させていた。

(こんなことは有り得ない……生きている人間ならば、必ず波が発生する)

 8巡目、咲から痛みを伴う波動が送られてきた。それと同時に、咲は【五萬】を切った。その牌をネリーは対子で持っていた。

(……これを……鳴いて、大星の運を下げろと……?)

 穏乃が自摸の動作に入った。ネリーは慌てて叫んだ。

「ポ、ポン」

 ネリーは屈辱の思いで咲を睨んだ。しかし、咲は表情を変えずに、再び回ってきた自分の自摸牌を引いた。

「カン」

 咲は、【二索】を暗槓した。槓ドラがめくられた。その牌は【七筒】であった。

(なん……だと)

 ネリーは咲の恐ろしさを再認識した。淡と穏乃の波動が逆転した。淡は和了不可レベルの下降波動に変化し、穏乃は倍満以上の波になった。

(……今は、従ってやる、だが、見ていろ、掴んでやる、お前の弱点を)

 自分を利用した咲に、ネリーは強烈な怒りの眼差しを向けていた。

(2度目だ! 私を利用したのはこれで2度目だ! 必ず報いを受けさせてやる!)

 

 

 臨海女子高校 控室

 

「ネリー……怒り狂ってマスネ」

「そうだね、ネリーにとって、初めての経験だろうからね」

 メガン・ダヴァンがモニターに映るネリー・ヴィルサラーゼを見て呟いた。辻垣内智葉にも、それが見て取れた。

「これまでのネリーは、今の宮永咲の立場だった。相手を蹴散らして勝ち続けていた」

「順番さ……だれでもいつかはそうなる。その覚悟はしておくべきだよ」

 監督のアレクサンドラ・ヴィントハイムは、当たり前のようにその発言をした。しかし、それは智葉の心に突き刺さった。今日の試合で自分に不足していたものは、まさにその覚悟であったからだ。

「大星は、宮永咲の恐ろしさを、姉の宮永照から聞いるのだろう。覚悟ができているよ」

 画面の中では咲が、2度目の副露を行っていた。目的は、淡に危険牌を送り込む為。アレクサンドラは、それを見て忌々し気に言った。

「……こいつは、小鍛冶健夜と同じかそれ以上だ。ドラが見えている。おそらく二桁以上だろう」

「……」

「魔王か……言い得て妙だな。こいつは何十匹もの龍を支配下に置いて、自在に場をコントロールする。勝てるわけがない」

 智葉は驚いた。監督のアレクサンドラから初めて聞く、弱気な言葉であった。

「ネリーは、まだ負けてまセン」

「そうだな、どのみち宮永は前半戦では勝負を決めないだろう。白糸台が突出しすぎていたからね」

「後半戦が勝負デスカ?」

 メガンの質問に、アレクサンドラは頷いた。そして、いつもと同様に、あまり大きくない声で最後の指示を出した。

「メグ、休憩所間にネリーに会いに行ってくれ」

「指示は?」

「潜れ、宮永の弱点は深い所にある。勝負はワンチャンスだ」

「それだけデスカ?」

「もうひとつ……」

 それは苦渋の指示なのであろう。アレクサンドラの声が、更に小さくなった。

「失敗したら……2位を死守しろ」

 

 

 決勝戦 対局室

 

(サキの親番……唯一のチャンス)

 昨日、宮永照から聞いていた〈オロチ〉の弱点。この局は宮永咲は上がれないはずであった。それともう一点、〈オロチ〉の暴力的な力の一部が削がれている。だが、それがなにかは分からない。照でも分からないのだから、今の自分ではなおさらだ。

(なにが見えていない? 嶺上牌?)

 大星淡は、そのように推測していた。先程から鳴きによって、咲は場をコントロールしている。だとしたら、それはドラ牌がベースになっているはずだった。

 12巡目、淡は【発】で聴牌していた。手牌には赤ドラが2枚あるので、自摸なら8000点、ロンなら5200点。可能ならば咲に直撃したいと思っていた。

(テルーも直撃したことがあるって言ってた。でも、すんなりとはいかないようね)

 自分は包囲されている。その包囲網を指揮しているのは宮永咲。面子のネリー・ヴィルサラーゼと高鴨穏乃を動かして絡め取ろうとしている。淡はそう感じていた。

(サキは、この2人のどちらかに上がらせようとしている。私からの直撃で)

 自摸牌の【南】を捨てた。既に1枚切れている咲の風牌。なんの問題もないはずであったが、淡は少し戸惑ってしまった。咲が方向性のない目でそれを見ていた。

(認める……認めるよ、宮永咲。お前は、最大で最強の敵だ! 私は、お前が怖い……だけど――)

 淡は咲と視線を合わせたまま目を閉じた。呼吸3回分、5秒ほどの後、目を開けた。咲とは目が合ったままだ。

(だけど、それ以上に、私はお前が憎い! だから……倒してやる!)

昨日、照が話した完全なる敗北。淡はそれを理解していた。この咲への憎しみが消えた時、それは訪れるのだろう。ならば、消さなければいい、何度打ちのめされても構わない。咲を憎悪し続けるかぎり、自分は敗北しないのだ。

 

 

 高鴨穏乃は、宮永咲の指示通りに手牌を組み上げていた。なんの変哲のない断公九であったが、咲の槓によって、持っていた【八筒】の刻子がドラ3に化けた。

(私に、大星さんから直撃しろということか?)

 穏乃の自摸番、赤ドラの【五索】であった。聴牌したが、待ちが【二萬】の頭待ちになってしまったので、様子見の為にダマで不要牌を捨てようとした。

 監視役の〈オロチ〉が咆哮し、動き始めた。

(ま、また……これで立直しろと……)

 逆らうことができなかった。穏乃は牌を曲げた。

「リーチ」

 深淵の山の木々をなぎ倒し、前進していた〈オロチ〉は停止し、首だけが警戒の為に動いていた。

 ホッと安堵の溜息をついた。そして、穏乃はその自分を恥じていた。

(絶対服従……約束だから守ります……。けど、こんなに辛いなんて……)

 18巡目、安牌がなくなった淡は、迷った末にその【二萬】を切った。

「ロン……」

 淡が、唇を嚙み締めた。その姿を見て、穏乃の目に涙が浮かんだ。

(大星さん……後半戦です。この化物を2人で退治しましょう)

 裏ドラを確認した。槓ドラの裏表示牌は【一萬】。ドラは6枚まで増えた。

「立直、断公九、ドラ6、16000です」

「はい」

 淡は、点棒を穏乃に渡してから、大きな声で「失礼」と言って、咲に話しかけた。

「サキ、槓ドラ全部見ていい?」

 咲は表情のない顔の角度を変えて、小さな声で答えた。

「はい。でも見ないほうがいい……」

 その警告が聞こえなかったかのように、淡はドラの8枚を乱暴に晒した。

 ――大星淡の目が泳ぎ、困惑の表情に変わった。おそらく彼女の手牌の中には、そのドラ牌が何枚もあるのだろう。ネリー・ヴィルサラーゼも同じであった。戦慄によって顔が青ざめていた。もちろん、穏乃も同じだ。手牌の順子にそのドラ牌が2枚も絡んでいた。

(勝てるのか……こんな化物に……どうやって立ち向かえばいい……?)

 その感想は、3人に共通するものであった。魔王の支配への反逆。それは、現状では不可能と思われた。

 

 

 決勝会場 観覧席

 

 大星淡の行動は、モニターにも映されていた。ドラ牌が見えていたのは、数秒であった為、気がついた人間は多くなかった。しかし、感知できた者はすべて衝撃を受けていた。解説者の小鍛冶健夜は、その最もたるものであった。

『こーこちゃん……私は、今すぐにでも……宮永選手と闘いたい』

『はい? でも、すこやんはリーグに所属してないし』

『そうですね、今すぐは無理ですね……』

『それじゃあ……』

『私は……宮永咲選手と闘う為なら、なんでもしますよ』

『おっとー! 爆弾発言が飛び出したぞー! 小鍛冶健夜プロリーグ復帰宣言だー!』

 

 

 龍門渕透華は、天江衣のその顔を見るのは2度目であった。ぴくぴくと動く眼球の周りの筋肉、中途半端に開かれた口、衣の怯えの表情だ。長野予選の決勝戦の対宮永咲戦で見せた表情。

「衣、怖いのですの?」

「ああ……衣は怖い、どうシミュレートしても、この咲には勝てない」

「そうですわね」

「あれと直接対峙している穏乃達の恐怖はどれほどのものだろうな」

「衣がそんな弱気では困りますわ。私達は清澄を倒さなければならないのですから」

 衣は透華と目を合わせずに呟いた。

「宮永照の戦術を取る以外にない……」

「え?」

「咲との対戦は回避する。今は、それしかない……」

 衣の表情は変わらなかった。彼女は、本気で恐れていた。この宮永咲を。

 

 

 決勝戦 対局室

 

「ツモ、嶺上開花。400、700」

 東四局、宮永咲はあからさまな点数調整の安手で上がった。

(ここで点数調整? プラマイ0を狙うつもりなの?)

 続く南一局、大星淡の親番も、咲が9巡目で、面前清摸和の300、500で和了した。

(サキ! 舐めた真似を!)

 淡には咲の意図するものが読めていた。

(次は、高鴨穏乃の跳満自摸か、ネリーの私への三倍満の直撃……)

 その予想は当たった。南二局は、13巡目に高鴨穏乃が跳満を自摸和了した。

(テルー……私……もう、限界かも……)

 咲の意図するもの、それは、4校すべてをプラマイ0にすることであった。淡は、その魔王の悪戯に恐れおののいた。不可能とは思えなったからだ。

(どんなに警戒しても、私が振り込む可能性はある。だって、こいつは、私に危険牌を送り込んでくるんだから)

 淡は考えていた。完全なる敗北とは楽になることなのだろうと。今自分は苦しい、途轍もなく苦しい。だけど、負けを受け入れてしまえば、きっと楽になる。それは、魅惑に満ちていた。思わず飛びついてしまいたくなるほどに。

 淡は揺れ動いていた。そして、淡にとって、神に等しいその名前を心の中で叫んでいた。

(テルー……)

 

 

 大星淡の推測した宮永咲による全校プラマイ0の工程は、以下のようになる。東一局からの経緯を含めて考察してみる。

 

  東一局  宮永咲       32000点(大星淡)

  東二局  高鴨穏乃      32000点(大星淡)

  東三局  高鴨穏乃      16000点(大星淡)  

  東四局  宮永咲        1500点(400,700)

  南一局  宮永咲        1100点(300,500)

  南二局  高鴨穏乃      12000点(3000,6000)

 

 現在の各校の持ち点

  白糸台高校    124600点

  阿知賀女子学院  101100点

  清澄高校      97800点

  臨海女子高校    76500点

 

 南三局の結果予想と各校の持ち点の変化

  南三局  ネリー・ヴィルサラーゼ  24000点(大星淡)

 

  阿知賀女子学院  101100点

  白糸台高校    100600点

  臨海女子高校   100500点

  清澄高校      97800点

 

 南四局の結果予想と各校の持ち点の変化

  南四局  宮永咲        2700点(700,1300)

 

  清澄高校     100500点

  白糸台高校     99900点

  阿知賀女子学院   99800点

  臨海女子高校    99800点

 

 麻雀の点数は五捨六入で計算する為、全校プラマイ0となる。

 

 

 清澄高校 控室

 

「振り出しに戻す……か」

 染谷まこの、その呟きが、竹井久の頭の中で木霊していた。確かに宮永咲は試合前にそう言っていた。しかし、それが現実になりつつあることに、久は驚愕していた。

「大星さんだって、それは分かっているはずです。実現は難しい」

 原村和らしくない歯切れの悪い発言であった。彼女も、チームメイトの宮永咲に畏怖の念を抱いていたのだ。

(いや……咲は怖くない。怖いのは、この化物〈オロチ〉だわ)

 久の頭の中で、天秤の傾きが変わった。自分の野望よりも後悔のほうに振れていた。

(こんな化物を解き放ってしまった。この〈オロチ〉は今後の麻雀を一変させてしまう)

 

 

 決勝戦 対局室

 

(分かったよ宮永。利害関係が一致した。三倍満を大星から上がればいいんだね)

 宮永咲からの波動が減少していた。それにより、ネリー・ヴィルサラーゼは自由に動くことができた。今の自分の波は最高潮に達していた。しかし、それはネリー自身が高めたものではなく、明らかに〈オロチ〉の力が働いていた。

(構わない……プラマイ0、お前はそんな悪戯をしたいんだね。いいよ、協力する。今はね)

 ネリーの手牌は索子に染まっていた。大星淡だってバカではない。清一色の多面待ちでなければ振り込みは期待できない。

 12巡目、ダマで清一色を聴牌していたネリーは、字牌の【白】を引いてきた。当然それを切ろうと考えた瞬間、強烈な痛みを伴う波動がやって来た。

(なに……【白】を切るなと言うの?)

 考えてみればそうであった。淡は立直しているわけではないので、捨て牌の自由度は高い。ネリーが清一色で待っているのは見え見えだろうから、索子さえ切らなければいいのだ。

(索子を囮にして【白】で待てと? ――分かったよ、【九索】を切れば、清一色が聴牌したと思うだろうから)

 13巡目、淡の捨てた【四筒】を咲がポンした。またも不可解な鳴きであった。再び、淡の捨て牌を咲がポン。今度は【一萬】だった。

(なんてやつだ……大星の安牌を減らす為か……)

 そして15巡目、咲は【一萬】を加槓、その槓ドラによって、ネリーの手牌にはドラが6枚になった。面前、混一色、一盃口と合わせて11藩の三倍満に達した。

(後は……大星次第か……)

 

 

 宮永咲の槓によって増やされたドラは【一索】であった。ネリー・ヴィルサラーゼは索子で染めているはずだから、確実にドラが何枚か増えていると思われた。淡はこの局は、降りることを決めていた。咲の親番ではあったが、状況が悪すぎて攻められない。既にネリーは、咲のサポートを受けて、清一色を多面待ちで聴牌しているはずであった。残り4巡、降りきるしかない。

(索子は捨てられない。となると、この5枚の中から選択しなければ)

 数巡前の咲の連続副露により、淡の手牌には索子が9枚もあった。今自模って来た【白】は一見安牌に思えるが、ある疑念がその牌を切るのをためらわせた。

(本当に、清一色なの……)

 これまでの壮絶な経緯が、超新星と呼ばれたほどの猛者 大星淡を不安にさせていた。何しろ、相手は、自分の見えない牌が見えている。すべてをコントロールできる相手なのだ。

 淡の呼吸は大きく乱れていた、手の震え、発汗、それは恐怖によるものであった。何もかも投げ出したい、そうすれば楽になれる。何度もそう考えた。

 だが、淡は踏みとどまった。なぜなら、その選択は敬愛する宮永照を失望させるからだ。それに比べたら、こんな恐怖は耐えることができる。

(振り込んでもいい……。でもね、サキ……私は、あなたには負けたくない)

 淡の表情が穏やかになり、咲への憎しみが和らいでいた。しかし、それは完全敗北を意味しなかった。ギラギラとした闘志から、咲の強さを認めたうえでの、静かな闘志に変わっただけで、大星淡は大星淡のままであった。

 淡は、静かに【白】を切った。

 

 

 白糸台高校 控室

 

「淡……」

 宮永照が、短くチームメイトの名前を呼んだ。その声は憂いに満ちていた。

 モニターの中では、ネリー・ヴィルサラーゼが三倍満の宣言をしていた。宮永咲の全校プラマイ0の準備は整っていた。

『こ、小鍛冶プロ……こんなことが可能なのですか』

『現実は予想を裏切る。大将戦開始前に私はそう言いました。受け入れて下さい』

『な、南四局が開始されました。ここでもしも、宮永選手が2700点で自摸和了すると、全校がプラスマイナス0の状態に戻されます』

『宮永咲選手は二回戦でも同じことをしていました。ただし、それは自分にだけでしたが』

 

 チーム虎姫の4人は、黙ってそれを眺めていた。

「咲のプラマイ0は強力だよ。〈オロチ〉の状態なら、ほぼ破ることは不可能だ」

「完成するか?」

 弘世菫は、現実を直視していた。0に戻るならそれでもいい。要は仕切り直しだ。淡もまだ死んではいない。後半戦にすべてをかければ良い。

 照が答えるまでもなかった。現実がその答えを出していた。予想通りに宮永咲が2700点で自摸和了、彼女の、いや、〈オロチ〉の遊戯は完了したのだ。

 前半戦終了のブザーが鳴った。

 

 宮永照が立ち上がり、菫に向かって言った。

「淡の所に行くよ、一緒に来て」

「ああ……」

 菫は嫌な予感がしていた。

(宮永咲と出会ってしまうんじゃないのか? 照、それでもいいのか?)

 

 

 試合会場 通路

 

 弘世菫の嫌な予感は的中した。前方から宮永咲が歩いてきている。このままでは、この姉妹は出会ってしまう。

「照……咲ちゃんだぞ」

「大丈夫、このまままっすぐ進んで」

 宮永照は正面を向いたまま足を進めた。咲はもう目の前まで迫っている。菫は思わず目を閉じて立ち止った。

 ――咲は、そのまますれ違い、去っていった。まるで、照が見えていないようであった。

「ね、大丈夫でしょう」

「……」

「今の咲はね、私と案山子の区別もつかない……」

「照……お前……泣いているのか?」

 菫は見た。隠しもせず目から大粒の涙を流す宮永照を。

「一日に2回も泣くなんて……」

「……」

「私はね……咲に、いえ、〈オロチ〉に完全敗北して壊された。その日から私は……感情を捨てようと思ったの。だってそうでしょう、人間は感情があるから傷つき苦しむ。だったら、そんなのはないほうがいい」

 照は両手を顔に被せ、言葉を詰まらせながら言った。

「だけどね……咲のことを思うと……私は……」

「照……」

 両手を顔から離した。照の目は閉じられていた。そして、その目を開けて、菫を見た。

「咲はね、信じられないぐらい優しい子でね、いつだって私の自慢の妹だった」

 照は、菫から目を逸らし、下を向いた。再び涙が溢れ出ていた。

「その咲を……追い詰めて……あんな怪物にしたのは……私だから」

「照、自分を責め過ぎだ」

「分かってる! 分かってるよ! 私も咲も!」

 大声を出す宮永照を、菫は初めて見た。

「だからだよ。だから……私達姉妹は分かり合えない。一生ね……」

 その考え方は、菫には理解できなかった。しかし、次に宮永照から発せられた言葉には、姉の責任感と優しさがあるように思えた。

「咲は……〈オロチ〉は、私が倒す!」

 


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