第一話 坂の途中
東京23区は様々な台地上に街が形成されており、あちらこちらに坂道が点在する。その数は、名前の付いているものだけでも700以上あった。
大星淡の住んでいる家もそんな坂道の頂上付近にある。淡は通学に使用している駅を降り、そこから自宅へと続いている長く急な坂を見上げてげんなりしていた。午後2時、8月の東京では、一日中で最も暑くなる時間帯だった。
淡は眉をひそめ、知らない人がみたら、確実に怒っていると思われる表情で、だらだらと坂道を登っていた。
その中程にある団子屋の親父が、日焼けしきった顔によく目立つ白い歯をのぞかせて、淡に声をかけてきた。
「よう、淡ちゃん。しけた顔してるね、かき氷でも食っていかねえかい」
「ひとこと余計だよ……今汗だくだからパス。また、後で寄るよ」
「そうかい、じゃあ待ってるよ」
淡は面倒くさそうに手を振って、団子屋を通り過ぎた。
(まだ半分もある……もう、なんとかならないのかな、この 坂道)
暑さによって判断力 が鈍っているのか、そんな無駄なことを考えていた。やがて、自分の家にたどり着いた淡は、部屋にバックを放り投げて、浴室に駆け込んだ。
――シャワーを浴びて気分も一新した淡は、何の装飾品のない殺風景な部屋のベッドに寝っ転がり、目を閉じて今日の出来事を回想していた。
3時間前 MVP表彰式および記者会見会場
午前中のMVP表彰式終了後に実施された合同記者会見は、進行役の針生えりが決勝の先鋒戦から時系列に沿って行うインタビューであり、あらかじめ定められたプログラムであった。本当の意味での記者会見、つまりは雑誌等の記者たちが選手に直接質問できる時間は、それが終わった後の30分に限られていた。
恐らくは、運営部の配慮だろう。だれがどう考えても、宮永姉妹に質問が集中するに決まっている(事実そうなり、30分に満たない時間で打ち切られた)。
進行役のえりの質問は、なかなか手厳しく、先鋒戦から副将戦までで、1時間近い時間を要した。そして、大将戦のそれが開始され、最初は何事もない受け答えが続いていたが、淡への質問から、その風向きが変わった。
「大星選手は、大量リードが合ったにも関わらず、宮永選手との真っ向勝負を選択しましたが、それは、なぜでしょうか?」
「どういう意味ですか? 私に勝ち目がなかったとでも?」
「いいえ、決してそんな意味ではありません。ただ、白糸台高校は史上初の3連覇を達成目前でした。それにしてはアグレッシブ過ぎる闘いかなと思いまして」
プロのアナウンサーというのは、相手の心理を見抜く感覚が鋭いのであろう、淡の反応を見て口調を穏やかなものに変えてきた。
「サキは守ろうとして守りきれる相手ではありません」
淡は感情を抑えて話す努力をしていたが、決勝の闘いを否定されるのは我慢できなかった。言葉の端々にトゲがあった。
「闘い方が間違っていたとは思いません。敗北は、ただの結果だと思っています……」
努力もここが限界だった。淡は、心の内を吐き出した。
「個人戦では……必ず、サキを倒します」
自分でも、ひどい顔をしていただろうなと想像できた。それほど、怒りがこみあげていた。
進行役の視線が淡から外れ、阿知賀女子学院の方向を向いた。高鴨穏乃が手を上げていたからだ。
「た、高鴨選手?」
「大星選手には申し訳ありませんが、宮永選手を倒すのは私です」
「で、でも、高鴨選手は個人戦には出場しませんよね?」
臨海女子高校のテーブルからも挙手する者が現れた。それはネリー・ヴィルサラーゼであった。
「宮永には個人戦でも勝ち抜いてもらいたい。なぜならば、彼女は、私が倒すことになりますから」
ネリーも穏乃も、その眼光は鋭かった。まあ、それは当然だなと淡は思った。2人はあの場所で自分と一緒に魔王に立ち向かい、完膚なきまでに負けたのだから。
「宮永選手……みんなからご指名されていますけど、どうしますか?」
針生えりは引きつった笑いを浮かべ、清澄高校 宮永咲に質問をした。
咲は、昨日とは全くの別人のようで、困りきった表情でオドオドとしていた。しかし、彼女の発した答えは衝撃に満ちていた。
「私は……負けられません」
「それはどうしてですか?」
「誓ったんです。決して負けないと」
表情に変化はなかったが、その「負けない」という言葉には咲の強い意志が感じられた。
「誓った? お姉さんの宮永照選手にですか?」
「いえ、お……宮永選手ではありません」
意図的ではなかったのであろうが、それは誘導尋問になっていた。咲の回答は完全に宮永照が自分の姉であると宣言していた。ざわめきの声が上がり、向けられていたカメラのフラッシュが一斉に瞬いた。何人かの記者達は、会社への連絡の為に会場を飛び出していた。
「それではだれでしょうか?」
「それは……言えません」
淡の考えも、針生えりと一致していた。咲が不敗を誓った相手がいるとするならば、それは姉の宮永照であると思っていた。だが、咲は違うと言った。それが衝撃だったのだ。そんな誓いができる相手、それは咲が強さを認めている相手に他ならなかった。
淡は横目で照を確認した。無表情を装ってはいるが、付き合いの長い淡には、彼女の動揺が見抜けた。
淡は、閉じていた目を開いた。エアコンの効いた室内は涼しかったが、窓からの強烈な太陽光が差し込んでいる。その眩しさに、淡はもう一度瞼を閉じた。
(テルー……)
照の表情は、嬉しそうでもあり、悲しそうでもあった。妹を何よりも大切にしている照には、咲の発言は厳しすぎるように思えた。
そして、淡の咲への感情も変化していた。それは、全く理解不能な感情だった。
最も強く感じていたのは、咲が不敗を誓った相手に対する嫉妬であった。
(テルーに対してのサキの存在を羨んだ気持ちと同じ……なぜだろう)
宮永照は、尊敬すべき人で失いたくない友人。その為に彼女への執着心が生まれ、自分より親しい人間に嫉妬してしまう。淡にもそれは分かっていた。だからこそ、戸惑っていたのだ。照は特別な存在なので、そういった感情を抱いてしまうのは仕方がない。だが、咲は違う。まともに話したこともなく、何よりも自分に“真の敗北”を味合わせた相手、リスペクトの対象になるはずがなかった。
“頭”ではそう否定していた。しかし、“心”では別のことを思っていた。
(私は……なぜこんな風にサキと出会ってしまったのかな)
友人を作るのが下手な淡は、それゆえに友人になれる人間の見極めは確かだった。もしも同じ学校で咲に出会ったとしたならば、彼女は、自ら進んで友人になろうとした存在に違いなかった。そう考えると、淡は少し悲しくなった。
(考えても……仕方がないか……)
それが、淡の精一杯のまとめであった。咲とは敵として出会ってしまった、ならば運命に従うしかない。単純ではあるが明瞭な答えであった。
淡は、目を開けてベッドから起き上がり、団子屋の親父との約束を守るべく準備を始めた。
(うー、暑い……)
外に出た淡は、自分の発言に後悔をしていた。普通に「また今度」とでも言えばよかったと思った。それほどまでに暑かった。
淡の身なりは、何の模様もない水色のTシャツに白いショートパンツだった。近所に出歩くだけなのでこれでいいと思っていた。
(菫に見られたら怒られるかな……)
麻雀部部長の弘世菫は、身なりに厳しかった。それは学校の中だけではなくプライベートでもそうであった。休みの日には、たまにチームで集まることがある。そこに適当な服装で行くと、菫に大目玉を食らってしまうのだ。
(今頃、きっと菫はおしゃれして出かけてるんだろうな)
記者会見終了後の移動車両の中で、菫は、阿知賀女子学院の松実宥と会うと言っていた。人の趣味をとやかくいうつもりはないが、淡にはそれが鬱陶しかった。
(全く……あれさえなければ、菫は完璧なんだけどな)
亦野誠子が、学校に戻ったらミーティングを開こうと提案していたが、菫はそれを理由に明日の延期を決定していた。とは言え、菫は時間を無駄にはしなかった。そのミーティングのテーマを車内会議で話し合った。
1時間半前 白糸台高校 送迎用車両内
「今日の咲ちゃんの発言、相手は本当にお前じゃないのか?」
弘世菫は、ダイレクトに宮永照に聞いた。こんな聞き方ができるのは菫しかいないと淡は思った。
「そんな約束をした記憶はない」
「お前は、だれだか分かっているんだろう?」
「……まあね」
「原村和か?」
照の表情が驚きのものに変わった。
「なんで……そう思ったか聞いていい?」
実に良い質問だった。淡もそれが知りたくて仕方がなかった。
「〈オロチ〉を倒せる者の3人に彼女が含まれていた。姉のお前がそう考えるのだから、咲ちゃんだってそう思うだろう? 後は消去法だ、照でもなければ淡でもない、だったら原村しか残らない」
言われてみればそのとおりであったが、普通はそんな風に理路整然と考えられない。淡はそういう部分の菫を尊敬していた。
「咲自身が出した答えだろうから、尊重するよ」
照も納得したのだろう。表情が笑顔になっていた。
「いいのか?」
「手をこまねいて見ているつもりはない。私も……姉としての責任を果たしたい」
淡には気になっていることがあった。昨日の先鋒戦の休憩時間に、照は『咲は真の敗北を知れば再起不能になる』と言った。もしそうならば、それは看過できない。淡にとっての宮永咲はそれほどの存在になっていたのだ。
「テルー……サキは負けてもいいの?」
不安そうに訊ねる淡の気持ちを察知したのか、照は穏やかに、そして優しく話をした。
「咲はね……いつも、怯えながら麻雀を打っていた。負けることを常に恐れていた」
「……」
「でもね、今の咲は……負ける相手を自ら探している」
「……理解できないけど」
「大丈夫、きっと大丈夫だよ、咲は、私の知らない間に成長したんだ……それを信じる」
おそらく、今までだれにも話せなかった話なのであろう。照は満足そうに外を眺めていた。
「お前は変わったな。これまでは妹の話はタブーだったのに、自ら進んで話すなんて……」
菫が冗談めかして言ったが、照の笑顔は消えなかった。
会話が途切れた、淡達の乗っている車は、そこそこ高級車なので騒がしくはなかったが、東京によくあるデコボコ状の道を通過しているのか、振動が激しかった。
――その僅かな間が、照の表情を真剣なものに変えていた。会議はようやく本題に入った。
「淡、協力してほしい……個人戦が〈オロチ〉を倒す最後のチャンスなんだ。ここを逃したら、私は3年間待たなければならない……」
(どうして? どうして公の場にこだわるの? サキと仲直りして打てばいいのに)
先程までの照の話し方を見ると、咲とのしがらみは解かれているように思えた。ならば、いつでも機会はあるはずだった。
(私には分からない姉妹の何かがあるのかな……)
そう考えて納得するしかなかった。一人っ子の淡にとって、姉妹の繋がりは、他者が口を挟めないほど深いという認識があったからだ。
「何をしたらいいの?」
照の要望に対する淡の答えは決まっていた。〈オロチ〉は付け焼刃では倒せない。自分自身が一番分かっていた。
「〈オロチ〉はね、負けてからじゃないと発動しないんだ……運良く初日か、決勝の前半戦で咲と対戦できれば可能性はあるんだけど」
「お前にしては、ずいぶんと弱気だな」
「〈オロチ〉発動の判断基準はプラマイ0だ、それが阻止された場合に、初めて選択肢に加わる。……至難の業だよ」
普段は口が足りない照であったが、今回は丁寧に説明していた。菫の乱暴な質問も無視をせずに回答をしていた。
「プラマイ0を破ればいいんだね」
簡単そうに言った淡に、照は苦笑を向けた。
「天江衣、末原恭子……あの2人でも破れなかった。そんなに甘くはないよ」
「臨海のネリーさんは、それだけ凄かったのですか?」
普段は聞き役に徹することの多い渋谷尭深が、耐えきれずに口を挟んだ。
「準決勝、あの試合の後半、咲は全力だった。おそらく、ヴィルサラーゼが妨害しなければ、咲は勝っていたよ。だからこそ恐れたんだ……放置できないと思うほどにね」
「淡にも、その可能性がある、そう思っているのか?」
「そうだよ、他には荒川憩、神代小蒔、原村和――かな」
「あのう、宮永先輩は園城寺怜を過小評価しているような気がするんですけど」
亦野誠子の問いかけに、照は小さく頷いた。
「彼女は強いと思う。でもね、あの力は……見ることしかできないんだ」
「……?」
また照の言葉が足りなくなった。淡には意味が分りかねていた。こういった時に頼りになるのは、やはり菫であった。
「お、園城寺怜は見た未来を変えられない……そ、そういうことか?」
照は肯定も否定もしなかった。照は一度闘った相手の能力を見透かすと言われている。怜も例外ではないはずであった。
(園城寺怜を敵として尊敬している……だから答えないんだね)
その気持ちは何となく理解できた。これまでの淡は、倒すと決めた相手は、常に憎悪を向け打ちのめしてきた。しかし、それができない者が現れた。淡の意識を変えたのはその者“宮永咲”であった。
「ねえ、テルー」
「ん?」
「協力はするけど……もし、ダメだったらどうするの?」
「その時は淡、お前に倒してほしい。きっと咲も、納得すると思う」
「サキが……?」
淡はその言葉に驚いた。なぜだろう? 自分は咲に認められる人間ではない。そんな疑問が頭に浮かんでいた。
「うん、淡の強さを咲は知ったから」
「強くなんかない! あんなにボロ負けしたのに!」
「前にも言ったけど点数は関係ないよ、自信を持って」
「……私は、あの最終局に思ったの。絶対にサキに勝てないって、負けを認めてしまったんだよ」
照は、淡を見て、優しく、優しく微笑んだ。
「分かってるよ」
「え……」
「だから言ったでしょう? 淡は、それを知れば、もっと強くなるって」
「あ……」
淡は思い出した。その言葉も先鋒戦の休憩時間に、照が自分に言っていた。
(そうだ、あの時は理解できなかったけど……今は実感できる)
それは超新星 大星淡の復活であった。
(サキ……見てなさいよ、あなたは、私とテルーとで、必ず倒すんだから)
そこには憎悪はなかった。あるのは咲への尊敬と、未だに整理がつかない彼女への気持ちであった。
話が煮詰まったと考えたのか、菫は会議のクロージングを宣言した。
「淡も淡なりに考えてみてくれ、そして明日のミーティングで報告しろ。照も、もう少し具体的な戦術を言ってほしい。――団体戦では遅れを取ったが、個人戦ではそうはいかない。チーム虎姫全体で照の3連覇をバックアップする」
「ちょっ、ちょっと淡ちゃん、どこ行くんだよ!」
突然、団子屋の親父に呼び止められた。うっかり通り過ぎるところであった。
「え、ああ……もうこんな所まで来てたんだ」
「全く、考えごとしながら歩いてたら危ねえぜ」
人懐っこそうな笑顔で、淡を店に招き入れた。
「相変わらず……冷房があんまり効いてないね」
淡は暑そうに、年季の入ったテーブルに座った。
「本職が団子屋だからな。乾燥は大敵だよ」
団子屋は、よく冷えた緑茶を差し出した。淡は一気に飲み干した。
「冷えたお茶って抵抗あったんだけど、ここで飲んでから好きになったよ」
「だろう。今日は好きなもん頼んでいいぜ、おじちゃんが奢ってやるよ」
「ほんと! じゃあ一番高いやつ!」
「言うと思ったぜ。てえと、抹茶、白玉、練乳、餡子入りかな?」
真っ白な歯を光らせて団子屋が言った。
「それの白玉無しでお願い」
「何で? 白玉は嫌いかい?」
「だって、ここの白玉は団子じゃん」
「分かっちゃいねえな淡ちゃんは、団子粉のほうがコシが強いんだよ」
「だからって、焼団子入れちゃダメだよね。なんか喉に引っかかるよ」
「へへ……」
そんな無駄口を叩きながらも、団子屋は手回しのかき氷機を器用に操っていた。氷の削れるシャリシャリという音が気持ちよかった。
「へい、お待ち」
昔ながらの器に入ったかき氷が目の前に置かれた。淡はスプーンですくって口に運んだ。それは、頭が痛くなるほど冷たかった。
「うまいかい?」
「うん、おいしいけど」
「なんだい?」
「この間、テルー達と天然氷のかき氷を食べたよ、頭も痛くならないし、ふわふわしておいしかったよ」
奢ってもらっているにもかかわらず、平気で他店を褒める。淡らしいと言えばそうであったが、この団子屋の親父は、子供の頃からの顔馴染みであり、何でも言える間柄であった。
「ああ、ごちそうかき氷な」
団子屋はそんな淡に嫌な顔もせず答えていた。
「かき氷が1000円もしちゃあいけねえわな」
「ああ、ここに慣れてるから高いって感じたよ」
「かき氷にしろ、もんじゃにしろ、子供が気軽に食えなきゃな、俺はそう思うぜ」
「へえ―」
そう言って、淡は団子屋をまじまじと見つめていた。これまで考えたこともなかった尊敬の心が生じていたのだ。
淡にそんな視線で見られるのは初めてなのか、団子屋は江戸っ子らしい照れ隠しをした。
「莫迦野郎、照れるじゃねえか、早く食って帰んな、明日も忙しいんだろう?」
「うん」
団子屋に礼を言って、店を後にした。
外は、かき氷で冷えた体が、一気に沸騰するような暑さであった。淡は、再び長く続く坂道を見上げ、家へと歩き始めた。
(まだ、途中だよ……まだ、坂の途中……)
第二話 坂の途中 完