咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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5.照魔鏡

 対局室 ルームU

 

 この予選で、運悪く宮永照と同じ部屋になった者達は、彼女が起家になることを願うだろう。東一局は、対戦相手のすべてを読み取ると言われる照魔鏡を実施するはずで、上りはほぼない。だから、流局さえしなければ、あの恐ろしい親の連荘を回避できる可能性があるからだ。しかし、福路美穂子の考えは真逆であった。できることならば照にラス親になってほしいと思っていた。だれにも話していない対宮永照の秘策、それにはその形がベストなのだ。

 ――席順が決定された。

 

 一回戦 ルームU 

  東家 三上寛子  南北海道代表(3年生)

  南家 湊未希   島根代表(2年生)

  西家 宮永照   西東京代表(3年生)

  北家 福路美穂子 長野代表(3年生)

 

(私がラス親……仕方がないわね、最後は早上がりを目指すしかない)

 最悪の席順ではないが、望ましいものでもなかった。――配牌の開始、ここは気持ちを切り替えるしかない。

 この東一局、美穂子もよほど手が進まなければ上がるつもりはない、照に対抗する為に、自分自身の方法で面子の観察を行わなければならないのだ。

(宮永さん、私はあなたとは違って人間本来の動きを見る。どんな人間でも、心理的な作用で動作が変化する。それはあなただって変わらない)

 美穂子が最も得意としていたのは、視点移動による手牌の推察であった。昨日の実験でも分かったように、通常時の目はあまり動かない。だが、手が進んだり、悪くなったりした場合は驚くほどに動く。視界の範囲にあるにも関わらず、早く、はっきりと見ようという心理が働くからだ。現に起家の三上寛子は良い配牌なのか実によく動いている。隣の湊未希も観察する。彼女の目は違った意味でよく動いていた。2年生で初出場、しかも初戦の相手がチャンピオン、恐れを抱いた者特有の慌ただしい動きをしている。そして宮永照、美穂子は念入りに彼女を観察した。

(優希ちゃんが言っていた『いつ見ても目が合う』、本当ね……)

 その理由は解っていた。宮永照は極端に目の動きが少なく、瞳はいつも中央にある。写真でも彫刻でもそうだが、瞳が中央にある目と対面した場合、人は目が合っていると意識してしまうのだ。

 ――美穂子の想定外のことが起こった。

(目が……まったく動かない!)

 動画等で調べた宮永照は、微かではあるが、確かに目が動いていた。それが彼女に対抗できると美穂子が判断した材料であった。

 ――配牌が完了し、東家の寛子が【北】を捨てた。

(なぜ? なぜ打ち方を変えてきたの?)

 宮永照の目は、ピクリとも動かなかった。続く未希の捨て牌でも同じだ。あり得なかった。あの宮永照なのだから見ていないはずはない。人間の視界には限界がある。いくら超人的な視力があるにせよ、その肉体的な構造は変えられない。

 照の自摸番、彼女は目を動かさずに牌を取り、それを手牌に入れ、無駄牌の【西】を捨てた。美穂子は困惑していた。照の行っていることが理解できなかったからだ。

 美穂子の自摸番だ。“動かない目”からの強烈な視線を感じていた。

(見られている……なんという威圧感なの……)

 これが照魔鏡の本質なのだろうなと思った。そこに宮永照がいて自分を見ている。それだけで魂を抜かれた気分になる。多くの対戦者はそこで既に敗北している。

 美穂子は口をきっと引き結び、自摸ってきた【中】を捨てた。三元牌、だれかが鳴くかもしれない。その時に照の目は動くのか? その確認だ。

「ポン」

 未希が副露した。照の上家だ、目を動かさなければ視界には入らない。

(……動かない)

 信じられなかった。絶対に見ているはずだ、ならば目は動かなければならない。それは正しい考え方だ。しかし、宮永照にはそれが通用しない。美穂子は恐れていた。目の前にいる絶対王者は自分の理解の範囲外にいるのだ。

 美穂子の手は進んでおらず、配牌時の三向聴のままだ。

(理解不能の相手とは闘えない……謎を解かなければ……)

 対応できるかどうかは別として、なぜ目が動かないのかを解明しなければ、これからの闘いは霧の中で行うことになる。美穂子は、必死の思いでそれを探っていた。

 ――そして13巡目。

(そう……面子に私がいるからなのね……)

 美穂子は愕然としていた。目が動かぬ謎、それが解けた。ただし、その答えは恐るべきものであった。目を動かす必要はない。体を動かせばよいのだ。照は見たい方向に体を微妙に傾け、調整していた。その動作はじっくり観察しなければ分からないほどであった。なぜそんなことをしなければならないのか? その答えも明白であった。面子に目の動きを読む者がいるからだ。それは自分だった。

(トレーニングされている……この動きは自然なものではない、私のような相手と闘うことを想定していたのね……)

 麻雀の歴史の中には、目の動きを読むと言われた雀士が何人かいた。宮永照はそのような相手にも対応できるように訓練されている。驚嘆に値する用心深さだ。いったいだれがどのようにして彼女をこんなマシーンに仕上げたのか、それが知りたかった。

(……咲ちゃん……あなたなの?)

 美穂子の脳裏に宮永咲の姿が浮かんだ。小鍜治健夜をして“魔王”と呼ばせるほどの強さを秘める照の妹。この極限まで無駄をそぎ落としたソリッドな打ち筋は、それに対抗する為ではないのか、美穂子はそう考えると、背筋に冷たいものが走った。

(なんて人達なの……宮永姉妹……均衡の破壊者……)

「ツモ、面前、平和、一盃口。1300オール」

 14巡目、親の寛子に3翻で上がられた。この状態では仕方がなかったが、局が進まなかったことには少し嫌な感じがした。美穂子はその要因である照を見た。

 ――完全に目が合った。照は真正面から美穂子を見据えていた。自分の背後に置かれた鏡、その存在をはっきりと認識した。

(違う……鏡なんて存在しない! 自分が作り出している……自分が心の中に鏡を作っているのよ!)

 大粒の汗が美穂子の額に浮かんでいた。こんな圧力に負けるわけにはいかない。自分の闘いを見ている者がいる。来年、この照の妹と確実に闘う後輩達が見ているのだ。抗いをやめることはできない。

 

 

 鶴賀学園 麻雀部部室

 

 鶴賀学園 麻雀部は長野に戻ってから活動を休止していた。麻雀漬けだった夏休みの残り少ない数日間、1,2年生にはそれを満喫してもらい、加治木ゆみは受験勉強に集中しようと考えていた。ただ、今日から始まるインターハイ個人戦には、よく知っている友人たちが出場するので、まだ部長である蒲原智美に連絡し、部室での観戦を提案していた。

「いきなりチャンプとかー。ゆみちん、ミッポの具合はどうだー?」

「まずいな……この局は何も掴めていないだろうな」

「ワハハ、それはイカンなあ、このままチャンプが突っ走ってしまうのかー」

「蒲原……福路美穂子はそんなに甘くないぞ」

 一人でパイプ椅子に座っている加治木ゆみは、4人掛けテーブルセットに座っている部員たちに言った。

「人のことは言えないが、美穂子は諦めが悪いからね。自分がダメなら他家を使ってでも抵抗するから」

「先輩も同じっス」

「……私はあそこまで徹底できない。見習うべき所ではあるがね」

「ダメならダメでスパッと諦めることも大事だぞー」

 智美の発言に部員全員が冷たい視線を送っていた。

「智美ちゃんは……見切りが早すぎるような……」

「それに不謹慎ですよ、私たちは長野代表を応援する為に集まっているんですから」

「そうっス、私も福路さんには色々指導をしてもらったっス、頑張ってほしいっス」

 部員達から集中攻撃を受けて焦っている智美を眺め、ゆみは声を上げて笑った。

「まあ、蒲原を許してやれ。みんなが言うように、美穂子はこのままでは終わらない。私が保証するよ」

 とは言うものの、画面に映る福路美穂子はまだ立ち直っていなかった。一本場が始まっていたが、彼女はまだ対宮永照の試行錯誤をしている様子であった。

 

 

 対局室 ルームU

 

 東一局の一本場、南北海道代表の三上寛子の【一萬】切りから始まった。美穂子は、寛子がセオリーを重視する実力者であることを知っていた。今年は有珠山高校に代表を奪われたが、北海道のインターハイ常連校の主将であり、個人戦に限っては3年連続の出場であった。

(字牌は持っていないのか、あるいはすべて役牌)

 ひっくり返されているドラ表示牌は【北】、親の寛子にしてみれば願ってもないことだろう。寛子は落ち着いていた。絶対王者を前にしても、自分の麻雀を崩そうとしない。彼女とはパートナーになれる。

 問題は次の湊未希であった。完全に守りに入っており、それゆえに隙だらけであった。過剰な危機意識により自分の手を狭めてしまう。強者を前にしたものがはまり込む負けパターンだ。彼女は目を慌ただしく動かして自風牌である【南】を切った。彼女はイレギュラーとして扱わねばならなかった。

 そして宮永照だ。彼女は自摸牌を引いて手牌の中に入れた。切った牌は【東】。

「ポン」

 寛子が鳴いた。これでW東ドラ3、上がれば最低でも12000点。こんなことは予想できる。なのに照は【東】を捨てた。美穂子はもどかしかった。照の手配を読むには、オーソドックスな河の捨て牌で判断するしかなかった。これまでに幾度となく美穂子を助けてきた心理的な挙動による判断ができず、照の意図がまったく掴めなかった。

 再び照の自摸番が回ってきた。今度の捨て牌は【一萬】。

(……咲ちゃんが言っていた。宮永照は上がれる牌が分かる、その為に最短で手配を組み上げると……)

 そう考えると現状も理解できる。これまでにも照は、意味不明な捨て牌をすることがあり、その時には必ず和了していたからだ。ただ、昨日、竹井久が『それだけではない、もっと重要な秘密がある』と言っていた。上がれる牌が分かる。それだけでも十分恐ろしいのに、更なるプラスアルファがあるとするならば、まさに怪物と呼ぶしかない。

 美穂子の自摸番、手牌はあまり良くない。かろうじて【白】が対子であるので、そこが起点になりそうだ。今回も三向聴、照より早く上がるには積極的な攻めが必要になる。有効牌を引いてきて、これで二向聴になった。短期勝負を考えるのなら、この局は照にも寛子にも上がらせるわけにはいかない。自分が上がるしかない。

「ポン」

 5巡目に【白】を副露できた。一向聴、勝負できる手牌になってきた。

(この局は、残念だけどスピード勝負をするしかない)

 数々の対戦者が宮永照に対して行った過ち、それがスピード勝負だ。過去に成功した者はだれもおらず、美穂子もそれは慎もうと思っていた。だが、場合が場合であり、照もまだ連荘モードには入っていない。今ならまだ先行できる可能性はある。

 美穂子は面子の視点移動を確認した。隣の寛子は手牌の二箇所を何度も見ている。彼女はその位置に筒子と索子を置くことが多く、聴牌を焦っていた。

 対面の未希の目は河と手牌を行ったり来たりしている。既に降りているのか、安牌の確認に忙しそうだ。

 絶対王者にはその手法が使えない。美穂子は別の判断材料である表情の揺れや思考時間も観察していたが、全く変化がなかった。対戦相手に与える情報を究極レベルで抑えた、凄まじい打ち方だ。

(この捨て牌……早上がりで考えるなら断公九かしら)

 美穂子も焦っていた。照の連荘地獄は低い点数から始まる。その仕組みに確信を持っていた。だからこそ焦っていた。この局は一桁の巡目の勝負になるはずだ。

 ――6巡目、美穂子の嫌な予感は的中した。

「ツモ、面前、平和、断公九。800、1400」

 宮永照の連荘モードが開始された。

 

 

 北海道・東北・関東エリア待機室 白糸台高校

 

『照選手の上りです。これは連荘の始まりと考えていいですか?』

『……お姉ちゃん、打ち方変えてきたねぃ』

『え? 照選手ですか? これまでと変わらないポーカーフェイスですが?』

『あの子はたまったもんじゃないだろうね』

『あの子とは、福路選手でしょうか?』

『そうだねぃ、これは福路殺しだよ……』

『よく分かりませんが、三尋木プロ命名“福路殺し”が炸裂しました』

『……えりりん、もしかして福与ちゃんに対抗してる?』

 

 

 弘世菫も、針生えりの意見と同じであった。画面で見るかぎり、これまでの宮永照と変わらぬように見えた。やはりプロの目は常人とは違うのだなと思っていた。

「辻垣内さんの時と同じですか?」

 亦野誠子もそう見えるのだろう。菫に尋ねてきた。

「おそらくね、あの照魔鏡は何パターンかあるらしいからね」

「部長は知っているんですか?」

「誠子……」

 菫は横を向いて誠子を見た。

「私たちのチームは、お互いに干渉しない、それが不文律だったはずだぞ」

「はい……」

「私も、照も、誠子の三副露、尭深のハーベストタイムには質問したことがないだろう」

「部長や宮永先輩はそうでした」

「……ああ」

 思い出してしまった。わがチーム虎姫にはもう一人メンバーがいたのだ。

「あいつは……お前に任せる」

 菫はその発言に罪の意識を感じ、誠子から目を背けた。

「……ずるいですよ、部長」

 痛いほどの視線が横から放たれていたが、渋谷尭深のつぶやきによってその感覚が消えた。

「……始まった」

 東二局、今回も一桁巡目で照が3900点で和了した。映し出されている照は冷酷な殺戮マシーンに見えていた。

(照……お前はさっき私に嘘をついたな。咲ちゃんが模倣できないのは二人ではない……お前を含めて三人だ)

 菫は、なぜ、宮永照がこんな複雑な技を使用するのか考えていた。答えは一つしかない。模倣されない為だ。照は、妹の宮永咲の完璧な模倣能力を恐れ、それを不可能にする高度な技術を使えばいいと考えた。それが照魔鏡の原点だと推理していた。

(照……)

 何という悲劇的な姉妹なのだろうと思った。妹は“魔王”と呼ばれるほどの支配力で対戦相手を蹴散らし、姉は殺戮マシーンのような精密さで場を完全な支配下に置く。その異常な力は互いを倒す為に、そして、自らを守る為に生まれていた。宮永照も妹と同じなのだ。彼女も“恐怖”に支配されている。

 

 

 対局室 ルームU

 

 東三局、宮永照の親番。連荘されてはいたが、低い点数なので失点はそれほど多くない。この局で断ち切れば十分に挽回できると考え、福路美穂子は昨日の実験で判明した、照魔鏡の弱点を突くことにした。

(見えない角度……通用するのかしら)

 大きな弱点ではあったが、美穂子はそれにやや懐疑的であった。最も遠い位置にある角牌を外側に傾けると、ほとんど眼には映らない。特に萬子は配色が同じで、区別が難しくなる。照魔鏡を破るきっかけになるかもしれないが――

(宮永さんは同じ過ちを繰り返さない。これも対策済みなのかも)

 と思ってしまう。

 8巡目、美穂子の手は二向聴で足踏みしていた。その角度で抱えていた単独牌【八萬】は、断公九一向聴のはずである三上寛子への差し込み用だ。まもなく照は聴牌するだろう。自分で上がるのは間に合わないが寛子は可能性がある。確実性はないが、この作戦で照の親を流すしかない。

 9巡目、宮永照の自摸番。

「リーチ」

 照は【二索】横にして捨てた。それを見た美穂子は照魔鏡の恐ろしさを再認識した。

(手牌が見えている……何というアドバンテージ。その牌を横にすると、三上さんは聴牌できなくなる)

 寛子の目の動きが早くなっていた。手を封じられた者の動きだ。彼女は余り牌の【四索】を捨てなければ聴牌できないからだ。それは照の当たり牌だろう。

(見えない牌は推測するのね……私が何故【八萬】を隠しているか、それを考えればいいだけ、あなたにとっては簡単すぎる問題だったのね)

 美穂子はこの局を捨てざるを得ないと考えていた。照は次で上がる。恐らくは、平和、立直一発の7800点。

「ツモ、立直、一発、平和。2600オール」

 予想通りの結果。美穂子は迷っていた。対宮永照の秘策を使うかどうかをだ。これ以上の失点は許されない。決断を急ぐ必要がある。

 

 

 龍門渕高校 麻雀部部室

 

 ほぼ龍門渕透華の私室と化している麻雀部部室に総勢5人の部員が集まっていた。全員が同い年で、ほぼファミリーのようなものだ。ソファーなどに適当に座って観戦していたが、いつもと違う様子の人物がいた。

「福路さん……」

 井上純は大型テレビを見てそうつぶやいた。豪快奔放な彼女らしくない深刻な顔つきだった。

「じ、純君……福路さんを心配してるの?」

「まあな、オレが完璧に負けたのはあの人だけだからな」

 質問した国広一を見ずに答えた。その目は画面に釘付けになっている。

「この一本場、福路さんは全開だ。オレを倒した時のように感覚を研ぎ澄ましている」

「そうだな……だがな純、宮永照はそれ以上だぞ」

「分かってるよ衣、でもね、なんて言うかな……勝ってほしいんだよ、福路さんにね」

「トモキー! 先ほど、三尋木プロが言っていたのはどういう意味ですの?」

 突然の龍門渕透華の質問に、沢村智紀はだるそうに、そして短く答えた。

「目」

「目?」

「そう、今日の宮永照は目を動かしていない。福路美穂子へのパーフェクトな対策」

 透華は画面に目を向けて青くなっていた。

「衣……気がついていまして?」

 天江衣は不安そうに頷き、透華に顔を向けて言った。

「全開の福路美穂子は恐ろしい存在だ……だが、このマシーンはそれを寄せ付けない。けだし福路美穂子は数手遅れるだろう」

「麻雀は読みがすべてではない、運やツキだって勝つ要因だ!」

「運か……」

 純は懸命に美穂子を擁護しようとしていた。しかし、衣はそれに冷たい回答を示した。

「絶対王者とは、その運やツキをも排除できる。私はそう考えている」

 東三局の一本場も中盤に差し掛かっている。画面で見るかぎり、天江衣の言ったことは正しかった。照は既に聴牌、美穂子はまだ一向聴だった。

 

 

 対局室 ルームU

 

(宮永さん、あなたはF1マシーンのようなもの。一つの目的の為に、最高の部品が組み合わされ、走り出したらだれにも追いつけない。照魔鏡、上り牌の予知、そして未知の力……それらの“部品”が噛み合った時、あなたは最高のパフォーマンスを発揮する)

 現在はその状態にあると美穂子は思っていた。先ほどまではアイドリングのようなもの、精密ゆえに繊細な“部品”をいたわる為に低い点数からのスタートになるのだと推測していた。

(次は満貫以上……最低でも12000点)

 福路美穂子は今、ベストな状態の自分が、絶対王者にどこまで食い下がれるか試している。前局までは、宮永照の予想外の動きもあり、自分の麻雀が打てていなかった。だが、この局はやるべきことが何であるかを思い出し、落ち着きを取り戻していた。

 10巡目、どうやら照は聴牌したらしい。目や表情は関係ない。美穂子は本能的な感覚でそれを察知した。対して自分は一向聴、一手遅れている。 

(華菜……久も、あなたたちは真実って言葉を未来に当てはめた私を怒るかもしれない。結果があり、真実がある。真実は最初から見ているものではない。そういうのでしょうね。でもね、私は見えてしまった。動かしがたい事実が……)

 照は立直をかけなかった。捨て牌はど真ん中の【五筒】しかも赤牌だ。照魔鏡により危険無しと判断したのだ。三上寛子も湊未希もぞっとした顔で見ている。

(宮永照と対戦した場合、勝負は対等ではなくなる)

 美穂子は山に手を伸ばして自摸牌を引いた。有効牌ではなくビハインドが継続されている。

(……ルールが変更されたルーレット勝負のようなもの。1から36の目が出たら彼女の勝ち……ほとんど勝ち目がない)

 11巡目の照の自摸、予想された和了はなかった。続けて美穂子の自摸番、有効牌を引き聴牌した。宮永照に追いついたのだ。

(けどね……0が出たら私の勝ち。――真実は残酷だけど決まっている。でも、結果はそれとイコールではない。私はそう考えるの。だから、私は、その受け入れを拒み続ける!)

 美穂子は立直しなかった。手牌は断公九、ドラ1、ここはダマで上がりに行く。寛子と未希はすで降りており、それぞれ安全牌を切っている。問題は次の照、いつ上がられてもおかしくない巡目だ。美穂子はその動きから目を離せなかった。

 照は通常動作で牌を自模り、それを裏返しておいた。

「ツモ、面前、平和、三色同順、一盃口。4100オール」

 美穂子はゆっくりと目を閉じた。心が驚くほどクールダウンされていく。

(宮永さん……照魔鏡には、重大な欠点がある……)

 美穂子は目を閉じたまま、自分の前にあった牌を、雀卓の投入口に入れた。騒がしい音で牌がセットされている。

(昨日の実験……最初は照魔鏡の謎が解けなかった。なぜなら私は華菜の両目を見て判断していたから)

 牌がせり上がってきたのだろう。雀卓が静かになった。

(答えは単純だった……あなたはどちらか片方の目だけ見ている。両目では情報量が多すぎる、だから片方に絞り込む、あなたらしいシンプルな考え方……)

 美穂子は右目だけを開いた。宮永照の目が初めて動く、その両目は美穂子の青い目に向けられた。

(私の場合は左目、いつ閉じるか分からない右目を選択するはずはないもの)

 

 

 中部・近畿エリア待機室 清澄高校

 

『……』

『三尋木プロ?』

『こんな手が……あったとはねぃ』

『はい、いつもとは違い、開始時から両目を開けていた福路選手ですが、ここにきて、いつもの状態に戻しましたね』

『えりりんの目は節穴?』

『はい?』

『よく見てごらん、今見えている目は青色だよ』

『そ、そうですね! いつもはブラウンの目が見えている!』

『リセットの為さ……知らんけど』

『知っていますよね……。り、リセットとは?』

『この局、チャンピオンは上がれないよ、連荘は止められるねぃ』

 

 

 竹井久は、友人である福路美穂子を誇りに思っていた。だれもが脅威に感じていた照魔鏡の秘密を、この大舞台で解いてみせていた。三尋木プロの言うように、この局の宮永照は美穂子の目のデータを取り直す必要がある。ラストは美穂子の親なので、不完全な情報のまま次局には移れない。

(美穂……私はまだまだね、またあなたの嘘を見破れなかった。この為なのね、あなたがずっと両目を開けていたのはこの為だったのね)

 昨日美穂子は言った『宮永照に対抗する為に両目を開けている』。それは、感覚の解放を常時続ける為の訓練だと久は思った。だが、そうではなかった。普段閉じていることが多い右目だけで、利き目の左目と同じことができるようにプラクティスしていたのだ。

(……でも一局だけよ、この局だけでチャンピオンが挽回不可能な点差を作り出さなければならない)

「キャプテン……」

 隣の池田華菜が不安そうにつぶやいた。この局、三倍満で上がれば美穂子は暫定トップになれる。しかし、オーラスで照はすばやく上がるだろう。のみ手でも照の勝ちだ。だから、勝つ為には、役満を上がらなければならない。

「華菜ちゃん、あなたも、咲やゆみ、衣ちゃんを相手に数え役満を上がったはずよ」

「……はい」

「私は、信じられる。美穂子はきっと絶対王者を倒してくれる」

「はい」

(嘘をついている……私も華菜ちゃんも。ごめんね美穂……私たちの心の中は不安でいっぱいなの)

 久は手を強く握り締めて画面を見た。そこには紺碧の目の友人が、殺戮マシーンを相手に決死の勝負を挑んでいる。

(美穂……真実とは後から作り上げられるものよ、あなたが見ているものは真実ではない。宮永照が作り出した幻影よ)

 美穂子の手配が映し出され、会場がどよめいた。萬子の清一色二向聴、神配牌だ。数えまで持って行ける可能性は十分ある。

 

 

 対局室 ルームU

 

 東三局二本場、8巡目。

 宮永照は序盤でデータ収集を終えようと考えているのか、あからさまに福路美穂子の目を見ていた。東一局とは違い、今は美穂子だけを見ていれば良いのだ。時間も三分の一で済むはずであった。だから、美穂子ものんびりとはしていられない。理想は10巡目以下で上がることだが、清一色で13翻まで乗せるとなると、それは無理な注文であった。

 照は、それを見透かしたように【九萬】を切った。鳴けば一向聴だが、それはできない。この手に一気通貫と一盃口を乗せなければならず、自分の自摸を信じるしかない。

(もうある程度は見えているのね……)

 照のことだ、自分の技の欠点は熟知しているのだろう、その対処法も準備しているはずだ。これがその答えなのかもしれないと美穂子は思った。

(でもそれはブラフよ、あなたの力は照魔鏡がベースになっている。照魔鏡が機能しなければ、他の能力は使えない)

 美穂子はゆっくりと山に手を伸ばす。照が見ている。この自模る牌も、あっという間に確認される。

(これで一向聴、一気通貫も乗った)

 美穂子の引いた牌は、先ほど照が切った牌と同じ【九萬】、これで萬子の一気通貫が役に加わった。頭で【七萬】が二枚、【四萬】も一枚ある。一盃口で上がれば三倍満だ。宮永照を1200点上回ることができる。

 10巡目、照は美穂子の妨害を企てた。捨て牌は、手牌から出した【発】。

「ポン」

 まだ勝負を捨てていない三上寛子が鳴いた。彼女はこれで聴牌するはずだ。美穂子はその目の動きを確認した。

(聴牌している。連荘を止める為の早上がり……)

 美穂子は思わず照を見た。見られていた。はっきりと見られていた。その機械のような目の圧力に、頭痛を伴うほどの不安感が美穂子を襲った。

(何という……恐ろしい人)

 照の狙いは、寛子への差し込みだった。自分の親番に、三倍満を上がろうとしている者がいるのだから当然の戦術だった。湊未希の動きも気になる。完全に降りていたが、そろそろ安牌が分からなくなっており、動きが怪しい。もちろん寛子が自摸ってしまう危険性だってある。

(諦めてしまえば楽になれるのね……でも、それはできない)

 美穂子は、軽い深呼吸をした。そして自摸牌を取り、指で盲牌する。【五萬】、これで聴牌、だが、一盃口がついても数え役満までは2翻足りない。

「リーチせずには……いられないわね」

 後輩の池田華菜の言葉を口にした。全員が美穂子を見ている。

「リーチ」

 美穂子は持っていた安牌の【西】を横にして捨てた。

(これで一発かドラが乗れば数え役満。次の宮永さんは高くても3900点止まり、ここが勝負の分かれ道)

 続く寛子は自摸切り、とりあえずは凌ぐことができた。次の未希は寛子と牌を合わせた。心音が聞こえてくるようだ。照が差し込む可能性は高い、何しろ彼女は牌が見えているのだから。

 照が牌を捨てる。

【西】

(……そうね、あなたも人間、同時に幾つものことはできない)

 美穂子はこの局の勝利を確信した。照は美穂子の目のデータ収集に集中しすぎていたのだ。彼女の手牌は怖くない。美穂子は勝負の牌に手を伸ばす。自模れば一発で役満だ。ほぼ勝利は確定する。

 牌をめくる【二索】、これで一発は消えた。残りはドラに賭けるしかない。

(簡単にはいかないわね……でも、まだよ、まだ私の攻撃ターンは続く)

 そして14巡目、引いた牌は【六萬】、美穂子は静かに牌を倒す。

「ツモ、立直、面前、平和、清一色、一盃口、一気通貫――」

 祈るような気持ちで裏ドラを確認する。

 ――乗らなかった。表示牌は【二筒】。

「6200、12200です」

「はい」

 ロンではないので、その必要はなかったが、照は美穂子に返事をした。

(そういうことなのね……ルーレットは、まだ回っていなかった)

 頭の中に回転を始めたルーレットが現れた。その速度はどんどん早くなっていく。次のオーラスは美穂子が親だ。球を投げ入れる権利がある。

(私は0に賭ける! 諦めない、見ていて華菜!)

 美穂子の両目が開けられた。

 

 

 北海道・東北・関東エリア待機室 白糸台高校

 

 画面の端には、ルームUの現在の点数が映し出されていた。

 

 福路美穂子 39800点

 宮永照   38600点

 三上寛子  13600点

 湊未希    8000点

 

「なんて試合だ……」

 弘世菫は無意識につぶやいた。それを聞き留めた亦野誠子が苦しそうに質問した。

「宮永先輩……勝てますかね?」

「……勝つとは思うが、これからが大変だな」

「そうですね、連荘の止め方が知られてしまいましたからね」

「だれでもてきるわけではないし、照も対応可能だろうが……厄介だな」

「!」

 誠子が画面を見て驚いていた。同じ反応をせざるを得なかった。7巡目に福路美穂子が立直をかけたのだ。

 

 

『いいねえ、この子、私の弟子にならないかねえ』

『……三尋木プロ、この立直は?』

『無意味ではないけど、必要はないねぃ』

『それでは、何の為に?』

『意思表示さ、上がり止めはしないってね』

『福路選手はトップなので、その選択もできますね』

『この子は強くなるよ、私のとこにくれば、この怪物だって倒せるかもねぃ』

『本当ですか!』

『知らんけど』

『……』

 

 

 対局室 ルームU

 

(宮永さん、あなたのもう一つの謎が解ったような気がする)

 美穂子はこの立直を無意味とは思わなかった。何れにせよ照が上がれば敗北が決まるので、ここは自分が和了するしかない。ならば、少しでも多く点数を稼いでおきたかった。前局で届かなかった点数をここで加点できれば、次の一本場を取られても問題がなくなる。だが、照は隙を見せていない、再び目が動かなくなっていた。この局を取りにきているのだ。

(あなたは完璧すぎる……その完璧さを満たす為には何が必要か、それを考えればいい)

 宮永照が自摸動作に入った。初めてリズムが崩れた。それはこれまでよりもゆったりとした動きであった。

(リアルな情報は照魔鏡で得る。結果も分かっている。だとすると、不足しているものは、そのプロセス……)

 ――ルーレットのポケットに球が落ちた。まだ回転速度が速いので、どの数字に落ちたかは不明だが、緑色の“0”ではなく赤か黒のポケットだった。美穂子は納得した気持ちになり、顔を上げて絶対王者を眺めた。その照は自摸牌を手牌の横に置き、美穂子を見ながら牌を倒した。

(……あなたは何らかの方法で、そのプロセスが分かるのね)

「ツモ、面前、平和、ドラ1。700、1300」

 試合終了のブザーが鳴った。

 美穂子は立ち上がり礼をした。

「ありがとう御座いました」

(ごめんね……華菜、届かなかったわ)

 そのまま目を閉じてじっとしていた。やるべきことはやったと考え後悔はなかったが、ある欲求が美穂子の心を動かしていた。

(こんなに完璧に負けたのに……真実を受け入れることができない。何でかな……もう一度って――)

 目を開けると、宮永照が目の前にいた。試合が終わり、ノーサイドのはずであるが、その表情は険しかった。そして、その口が開いた。

「福路さん……約束して下さい」

「え? 約束ですか?」

 照は頷いた。表情は険しいままだ。

「東風戦では満足できない……明日またあなたと闘いたい」

 美穂子は会心の笑顔で答えた。それは自分も望んでいたことであった。

「ええ、もちろん」

 

 

 中部・近畿エリア待機室 清澄高校

 

「キャプテン……」

 池田華菜がうつむいて泣いている。隣の吉留末春も顔をくしゃくしゃにして泣いている。

「池田ぁ! 泣くな! お前はいつも泣いている! 来年も負けて泣くつもりか!」

 コーチの久保貴子が怒鳴った。しかし、華菜は泣きやまなかった。

 そして、途切れ途切れながら、自分の決意を貴子に伝えた。

「いいえ……私は、もう……二度と泣きません」

「……」

「でも……今日だけは……今だけは……許して……下さい」

 指導者らしく、貴子は容易に涙を見せない。しかし、何かを言おうとしてやめていた。その口はへの字に曲がり、小刻みに震えていた。

 竹井久も耐えられなくなり、ハンカチを取り出した。

(ああ、完全にもらっちゃったなあ……)

 久は目にハンカチを当てて前かがみになった。

(美穂……伝わったわよ……華菜ちゃんにも、末春ちゃんにも。どうしてくれるの? 後輩をこんなに強くして……清澄のことも考えてよ)

 顔を上げて染谷まこを見た。まこもボロボロになっている。

「まこ……分かっているわよね?」

「ああ……風越は、やばいのう……」

 とても会話ができる状態ではなかった。

(クレームよ、もう、あとで美穂に文句を言わなきゃ……)

 

 

 一般観覧席 特別室

 

 この個人戦は一般客も観戦できる。団体戦と同じ大きなホールがその会場だ。その一角に、プロ雀士や関係者だけが入場可能な特別室があった。藤田靖子と戒能良子は並んで座り、この試合を見ていた。

「エクセレント……」

「ただ使いづらい手法だな。連荘は止められそうだが」

「あなたが子飼いにしている荒川憩には朗報でしょう」

「子飼いにしているつもりはない。それに、今年の憩のターゲットはチャンピオンではない」

 靖子はそこで言葉を区切り、腕組みをして大きく息を吐いた。

「……戒能、軽蔑するならしてもいい、私は、小鍛治健夜を止める為ならば、宮永咲が潰れてしまうのもやむを得ないと思っている」

「……軽蔑はしませんが、反論はします」

「反論?」

 横を向いて良子の顔を見た。その凶悪な表情は、靖子に後悔をさせていた。

(こいつはやばい……本気だ、戒能良子は本気で宮永咲を潰すつもりだ)

「宮永咲をデストロイするのは、わが主、神代小蒔です」

 戒能良子と霧島一族、彼女たちをこの闘いに巻き込んだことを、靖子は後悔していた。


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