咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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12.十字架

 インターハイ運営本部 委員長室

 

 宮永咲が原因不明の意識消失で病院に搬送され、その姉の宮永照も不可解な打ち筋を見せた。インターハイ個人戦は混迷の色を深めている。危機的なものを感じた藤田靖子は、大会の運営委員でもある三尋木咏に連絡し、面会を求めた。

『委員長室にいるから勝手にこい』

 という、いかにも咏らしい返事が返ってきたので、戒能良子と共にそこを訪れた。形だけのノックをして部屋に入ると、咏は真面目な顔で大会運営委員長と並んで椅子に座って、ノートPCを見ながらなにかを話し合っていた。そして、面倒くさそうに靖子に目を合わせる。

「これはこれは藤田プロ。おやおや、隣には戒能プロまで……まあ、くるとは思っていたけどねぃ」

「では、私がきた理由がお分かりで?」

「もちろん、宮永咲だろう?」

「ええ」

「棄権させるなとでも?」

「そうです」

 咏は扇子を広げて口元を隠した。

「だってさ委員長。どうする?」

 隠された口は、きっといやらしく笑っているのだろうなと靖子は思った。相手の神経を逆なでし、自分のペースに引きずり込む。それは、強豪雀士 三尋木咏の行動様式と一致する。

「ちょっと気分が悪くなったとか、貧血気味で体調を崩したとかならば、藤田さんの意見は尊重します。ただ、今回の宮永咲選手は、そうではないと報告を受けていますので……」

 大会運営委員長は、どこかの市役所の助役というポジションがしっくりくる風貌と言葉遣いで冷たく言った――その後を咏が引き継ぐ。

「さっき連絡が入った。宮永咲は命にこそ別状はないが、いまだに意識が戻らない。そんな選手に明日試合をさせるわけにはいかないねぃ」

「三尋木さんは分かっているはずですよ……」

「いや……分かんねーよ、なにもかも分かんねー」

 どうやら、まともに話し合うつもりはないようだ。靖子も感情を隠さずに、咏と少し睨み合った。

「それは、予選の順位表ですね?」

 険悪な雰囲気を察したのか、良子はPCを見て話題を変えた。

「そこにお座りください。お二人の意見をお聞きしたい」

 委員長に指定された椅子に靖子は渋々と座る。こんなことをしている場合ではなかったが、良子が慌てるなと目で合図をしていたので、それに付き合った。

「予選のトップ20ですか?」

「よく見て感想を聞かせてほしい。冗談やおチャラけは無しだよお」

 どの口がそんなことを言うのだと怒鳴りたくなったが、靖子はそれを抑えた。モニターのトップ20の表は、それを可能にするだけの説得力があったのだ。

 

 

 インターハイ個人戦予選トップ20

  1位 荒川憩    508.7pt  

  2位 宮永照    500.1pt 

  3位 宮永咲    500.0pt

  4位 園城寺怜   495.4pt

  5位 愛宕洋榎   494.6pt

  6位 辻垣内智葉  477.2pt

  7位 末原恭子   410.9pt

  8位 原村和    410.3pt

  9位 福路美穂子  404.5pt

 10位 大星淡    403.5pt

 11位 姉帯豊音   386.0pt

 12位 江口セーラ  380.1pt

 13位 銘苅美勒   377.3pt

 14位 小瀬川白望  376.9pt

 15位 神代小蒔   368.8pt

 16位 獅子原爽   366.2pt

 17位 白水哩    348.4pt 

 18位 佐々野いちご 310.6pt

 19位 鶴田姫子   310.0pt

 20位 小走やえ   299.7pt

 

 

「園城寺と愛宕が基準ですかね」

「……して、そのわけは?」

「2人の戦術はオカを取りこぼさないこと。トップになれば、黙ってでも20ptが手に入る。他で大量得点するよりも、よっぽど効率がいいと考えた」

「ふーん、見直したよ藤田。あんたのいうように2人は全勝だからオカだけで400ptだよ」

「――2人がいかに細かい勝ちを積み上げたかがよく分かります」

 戒能良子が三尋木咏を遮って口を挟んだ。自己中な咏であったが、嫌な顔をしていない。むしろ喜んでいるように見えた。

「6位と7位で大きな点差があるだろう。それはどうしてだい?」 

 咏は、笑いながら良子に幅の広い意地悪な問題を出した。

「辻垣内までは全勝か19勝で、末原からは17勝以下になりますので、40~60ptの点差は当然だと思います」

 咏は、着物の中に腕を入れて余った袖をぶらぶらさせていた。外れですとでも言いたそうな馬鹿にした態度だ。靖子はさすがに頭にきて、正解を叩きつけることにした。

「目的が違うんですよ……」

「ほう……」

「園城寺怜、愛宕洋榎と辻垣内智葉は、目的が優勝ですから、決勝を憂慮してなんとか負けずに闘う方法を模索していた。それはそうでしょう、上位3人は潰し合わなければ全勝する可能性があるのですから」

「末原からは?」

「ダークホースの銘苅や獅子原は別ですが、他の選手は宮永姉妹を潰すことに目的が変わっています。結果は二の次ですね」

 疲れたように咏は椅子にもたれかかった。袖から手を表して扇子をいじっている。もはや正解云々はどうでも良いらしかった。

「さっきの宮永照の試合を見たかい……?」

「ええ……」

「あんたの子飼いの荒川憩はともかく……あの姉妹はなんなんだろうねぇ」

「互いを潰すことが正しい道と思い込んでいる……まるで」

 扇子を閉じて靖子に向ける。そこでやめておけと咏は動作で言っていた。

「委員長、宮永咲はこの藤田靖子が責任をもって本選出場可能かを判断する」

「三尋木さん……」

「明日の8時までに、彼女の状態を確認し委員長に連絡する。客観的な視点で頼むよ、藤田プロ」

「承知しました」

 苦虫を噛み潰したような顔で溜息をつく大会運営委員長をよそに、咏はにこやかに立ち上がる。

「ちょいと外にでようか」

 

 

 三尋木咏に促され、3人は職員休憩室までの通路を歩いていた。

 藤田靖子は過去に着物を一度着てみたことがあった。その制約の多さに呆れ、自分の着るものではないと判断し、以降袖を通すことはなかった。咏はそれを普段着として着こなしている。それはそれで尊敬してはいたが、ご多分に漏れず、咏の歩く速度は牛のように遅かった。

「小鍛治さんを止めたいのなら、荒川憩をけしかけたり、姫様にお願いしたりする必要はない……」

 咏が、少し後方から話しかける。感情のない口振りであったが、靖子と戒能良子は振り返らざるをえなかった。

「“まるで死に急いでいる”か……そのとおりだよ。あの姉妹を対決させたらいい」  

「あとは勝手に心中してくれる……ですか?」

「……残念ながらね」

 咏は、ちょこちょこと歩いて靖子たちを追い抜いていった。

「藤田……戒能ちゃんも、あんたたちねぇ、気づいてないみたいだから教えてあげる」

 休憩室に到着し、咏は、どさっという効果音が聞こえる勢いで長椅子に座った。良子は2人の為に飲み物を買いに行って、それを靖子達に渡した。

「宮永姉妹の行く末は三つだよ。2人とも死ぬか、どちらかが生き残るか、両方生き残るか」

「……」

 よほどの潔癖症なのか、咏はペットボトルに直接口を付けることを拒否していた。どこからか取り出したマイ湯呑にお茶を移し替えて飲んでいる。靖子はそれを知っていたが、良子は初めて見るようで、珍獣を見る目で咏を観察している。

「ほっとけば2人とも死ぬ……だから戒能ちゃんは宮永照を救おうとしている」

「……そんなことは……」

 良子らしからぬ言い方だ。彼女は気がついたのだ。結果的にそうなることをだ。霧島一族は宮永咲を標的に定めた。一族の規律を考えるのならば、2人共倒さなければならないはずだ。だが、そうはしていない、恐らくは――

(戒能、お前は宮永姉妹の才能を惜しんだのだな。特にお前と関連がある宮永照の……〉

「藤田」

 呼ばれても靖子はそちらを向かなかった。 

 靖子は怖かった。咏の言葉を聞くのが途轍もなく怖かった。子供のように耳を塞いでしまいたいとさえ思っていた。

「あんたは、2人共救いたいんだろう?」

「……」

 心の半分はそれを否定している。しかし、もう半分は肯定していた。昨日まで靖子は、小鍛治健夜の野望阻止の為なら、宮永咲が潰れるのは必要な犠牲と考えていた。しかし、今日の咲の闘いに靖子は圧倒されてしまった。そして健夜とほぼ同じ夢を見てしまい、無自覚の内に彼女に協力していたのだ。

「昨日、連絡があった時に私はこう思った。“藤田靖子は小鍛治健夜のパートナーになる”ってね」

「確かに私は、宮永姉妹が無傷のままインターハイが終わるのを望んでいる。それは認めますが……」

 靖子は、見透かされるのを承知の上で精一杯の虚勢を張った。立ち上がり、咏を見下ろす。

「小鍛治健夜の思い通りにはさせません……」

「それで、どうする?」

「どうもしません。すべての歯車は巻き戻せないレベルに動いてしまっています……」

「藤田さん、それでは?」

 問いかけたのは良子だった。彼女はこのまま宮永咲がリタイヤするのがベストだと考えているのだ。だがそれは、靖子の意見とは異なる。

「明日の8時迄でしたか?」

「そだね」

「必ず連絡します」  

 言葉にしなくても、頭の良い戒能良子ならこれで答えになるだろう。靖子はそう思い、2人に礼をして別れた。

 時刻はもう午後7時を超えている。これから数時間の内に会わなければならない人間が多数いた。焦っているわけではないが、自然に足取りも速くなる。

(「あなたは必ず、私に協力することになる」)

 昨日の健夜のセリフが何度も頭の中で繰り返されていた。靖子は目を閉じて立ち止まる。

(違うよ小鍛治さん……私が宮永姉妹を残したい理由はね……2人を、あなたの敵にする為だよ)

 

 

 都内 大学病院

 

 試合会場から宮永咲を見てくれている女医は、どうやらこの病院の所属医師らしかった。彼女は少々疲れた笑顔で、咲の意識が戻ったことを竹井久ら清澄高校のメンバーに告げた。

「宮永さんは、ハードなスポーツ選手並みに疲労しています。しかも交感神経の過緊張が戻りません」

「……つまりはどういうことですか?」

「普通の疲労はゆっくり体を休めれば回復しますが、あの子は現状それが望めない、まるで慢性疲労症候群のようです。したがって、明日の試合出場は医師として認められません」

 彼女はアスリートを担当することが多いのか、こういった告知には慣れている様子で、なんの感情も表にせず事務的に答えた。

「そうですか……」

 久は振り返り、麻雀部のメンバーを眺める。染谷まこは悔しそうであったが、1年生の3人は微妙な顔つきであった。

「原村さんはどちらですか」

「はい……私です」

 女医に呼ばれた原村和が不安そうに答える。

「宮永さんが会いたがっています。10分間だけ面会を認めます。時間は順守してもらいますよ、彼女は安静が何よりも必要ですから」

 和が許可を求めるように久を見る。彼女の心は迷いに迷っているようだ。

「和……参考までに私の意見を言うわ。もちろん、それに従う必要はない。咲を一番よく知っているのはあなたなのだから」

「……」

「棄権したほうがいい」

「……はい」

 不完全な作り笑いを浮かべて和は頷いた。そして、女医と一緒に咲のいる入院棟へと向かっていった。

 

 

 ――時刻はもう20時を過ぎている。大病院とはいえこの時間になると人はまばらだ。うろうろしているのは病院の関係者がほとんどであった。竹井久達は、だれもいない待合室の長椅子に並んで座り、原村和が戻ってくるのを待っていた。

 そこに、警備員と思われる初老の男性が近づいてきた。手には無線機を持っている。

「あのう、清澄高校の皆さんですか?」

「……はい」

「阿知賀女子学院の生徒さんが面会を求めていますが、通してもよろしいでしょうか?」

「え?」

「あー、それなら穏乃と憧ちゃんだ! 私が連絡したからな」

 片岡優希が何気なく言った。しかし、阿知賀の面子は団体戦終了後に奈良に帰ったはずで、その2人がここにいることが、久には不思議であった。

「高鴨さんと新子さん? なんでまた」

「決勝を観にくるって言ってたじぇ。まあ、のどちゃんと咲ちゃんが心配なんだな」

(そういえば、阿知賀の3人と友達になれたって咲が喜んでいたな)

 それを思いだした久は、警備員に2人を通してくれと伝えた。すかさず彼は無線で連絡をしている。

「きたじぇ」

 久は驚いていた。訪れた2人の内、新子憧は女子高生らしい私服で、特に膝丈のフレアスカートは彼女のすらりとした脚とマッチしていてとてもオシャレに見えた。問題は高鴨穏乃だ。彼女は服装に無頓着なのか、またもやジャージだった。

(この子……ジャージ以外の服持っているのかしら?)

 そのジャージ女子が優希に駆け寄る。

「優希さん」

「おー穏乃! それに憧ちゃんも、久しぶりだじぇ」

 久しぶりと言うほど時間は経過していないのでは? と思ったが、やはり友人と会うのは嬉しいらしく、優希は先程までの硬い表情を解いていた。

「こんにちは、自己紹介の必要はなさそうね?」

「はい、皆さんのことはよく知っています。竹井さん、その節はありがとうございました」

 憧が礼儀正しく返事をした。それはそうであろう。自分達にしても阿知賀の5人については、性格から好みまで調べ尽くしている。当然彼女達も同じことをしているはずだ。なにしろ清澄と阿知賀は敵同士だったのだから。

「男子マネージャーがいるなんて羨ましいですね」

 穏乃が須賀京太郎を見て言った。

「ゆ、優希……?」

 京太郎が眉毛をぴくぴくさせて優希を睨んでいる。優希は涼しい顔でそれに対応する。

「背景のように私達の後ろにいる男子は何者だと聞かれたら、そう答えるしかないじぇ」

「違うんですか? 清澄高校には5人しか部員がいないって公式情報に書いてましたよ?」

「ああ、これはあんたが悪いわ……」

 染谷まこに肩を叩かれた。身に覚えのある話だった。久はインターハイに出場登録する時に構成人数を女子部員だけと勘違いして5名で申告していたのだ。

「須賀君ゴメンね」

 てへぺろでもしようかと思ったが、自尊心がそれを許さなかった。

「もういいですよ背景で……」

 女子高のせいか、男子が弱り果てている姿を見るのが珍しいようで、阿知賀の2人が楽しそうに笑っていた。

 

 

「すみません、その、和はどこに行ってるのですか?」

「和は咲に会いに行っているわ……」

 スマホで時間を調べながら穏乃の質問に答える。もう30分以上経過しているので、もうそろそろ戻ってくるはずだ。

 振り返ると、その原村和がちょうどエレベーターから降りてきていた。

「のどちゃん……」

 優希がそうつぶやいてしまうほど、和は落ち込んでいるように見えた。近づくにつれ、こちらの人数が2人増えていることに気づいたのか、ちょっとだけ表情が明るくなった。

「穏乃、憧」

「和……大丈夫?」

「はい」

 和は幼馴染2人の手を握った。そして、久に向き直り、宮永咲の状態を報告した。

「咲さんは……明日の試合出場を望んでいます」

「さっき担当医がダメだと言っていたわ」

「私もそう聞きました。でも、途中で藤田プロから電話がありまして」

「……靖子から?」

 和は頷き、報告を続けた。

「明日の7時に咲さんの状態を確認しにくるそうです。大会運営部から委任されているみたいで、藤田プロが最終的にその是非を判断します。担当医師も渋々承知していました」

「私達も立ち会えと?」

「そうです」

 ここまでは、ただの現状報告だ。久が知りたかったのは和個人の意見だ。藤田靖子が出すと言っても、和がダメだと言えば断固拒否するつもりであった。

「咲になにがあったの?」

「……うまく言えません」

「神代さんだね?」

 そう質問したのは、阿知賀の大将、高鴨穏乃であった。インスピレーションが鋭い彼女は、咲になにが起きているのか見当をつけているのだろう。

「……そう言ってましたが、私には、そんな呪いのようなものは信じられません」

「呪い? 咲がそう言ったの?」

「いいえ、ただ、そう説明するしかありません。なにしろ、それを解くには、神代さんを倒すしかないみたいですし」

 予想以上に複雑な話であった。久は、〈オロチ〉の状態が咲に過度の精神負担をかけて、今回の状態を引き起こしたのだと思っていた。しかし、和の報告は、神代小蒔が咲を精神的に追い詰めたのだと言っている。これでは、本人以外に対策の取りようがなかった。

「和……あなたはどうするの?」

「私は……なにが正解が分からなくなりました」

 心細げに和が、小さな声で言う。咲となにを話したのか詳細は分からないが、それは和にも衝撃だったのだろう。

「和……もしも、正解がないとしたら?」

「え?」

「そう、きっと正解はないんだわ、できるのは選択だけ。あなたはその選択をしなければならないの」

「……そうですね」

 短くそう言って、和は口を針金のように固く結んだ。

 

 

 宮守女子高校 宿泊ホテル

 

 夕食が終わって、麻雀部全員が臼沢塞と熊倉トシの部屋に集まり、談笑していた。明日の作戦会議の名目で集合がかけられてはいたが、インターハイ最後の夜という雰囲気が塞達にそれをさせていた。鹿倉胡桃の部員三人時代の話が引き金だった。そこから、姉帯豊音との初顔合わせや、エイスリン・ウィッシュアートの入部など、とめどもなく話が続いていた。

 ――突然、トシのスマホが振動し、席を外す。全員でそれを見ている。短時間で通話を終え、トシは戻ってきた。

「すまないねえ、これから千里山の監督と会ってくるよ。遅くなるだろうから先に休んどくんだよ。明日も早いんだからね」

「先生……」

 豊音が寂しそうに呼びかける。トシは豊音の前に座り、優しく両手をその大きな肩に乗せた。

「豊音……豊音、大丈夫だよ、あの子は必ず出てくるから。そうしたらね、お前の力を見せておやり」

「うん、でも……」

 長い間の孤独は、豊音を極度の寂しがり屋に育ててしまっていた。豊音はトシにもたれかかる。

「そうだね、宮永咲はとても強い……だから負けたって構わない。だけど、本当の姉帯豊音の怖さをあの子は知るんだよ」

 トシは豊音の背中をポンポンと叩きながら言った。

「シロ! おいで」

 呼ばれた小瀬川白望がトシの傍に座る。自分よりもはるかに大きい2人を、トシは両手で抱きしめる。

「明日は、2人とも精一杯楽しむんだよ……これが、私からの最後の指示、反論は認めない」

「はい……」

 2人が同時に答える。涙もろい豊音はボロボロの涙声だ。トシは顔を上げて塞達3人にも無言の指示を出していた。

『あんたたちも一緒だよ。哀しい、辛い、それはもう食べきれないぐらい味わってきた。だから、最後ぐらい、みんなで楽しもうじゃないか』

 そんな声が塞の心に響いた。胡桃もエイスリンも一緒のようで、ほぼ同時に頷く。

(そうですね……永遠に続くお祭りはありません。だからこそ、そのフィナーレは、より盛大により豪華に、そして……より楽しく……)

 

 

 新道寺女子高校 宿泊ホテル休憩室

 

 白水哩と鶴田姫子は学年が違うので同じ部屋ではなかった。哩は安河内美子と、姫子は花田煌と同室であった。先程までの作戦会議では詰められなかった部分があったので。哩は姫子をホテルの休憩室に呼んでいた。

「はい部長」

「ありがとう」

 ソファーの隣に座った姫子から飲み物を渡され、受け取る。

「明日は宮永咲ば倒さんば気んすまん」

 半怒りで姫子が言う。無理もない話だ。

 姫子は順調に前半戦を5位で折り返したが、リザベーション・ディレイを宮永咲によって切られてからがたがたになってしまい、順位を19位まで落としていた。

「妹は強かよ、姉と同じかそれ以上……私も今日闘うて判った」

「そいばってんリザベなら……」

「姫子……」

「……明日だけばい」

 姫子も哩の言わんとしていることが分かっているのか、先回りにいいわけをした。その表情は、恥ずかしそうでもあり、悲しそうでもあった。

「私は妹とん対戦中にこう考えていた」

「……」

「私達は逃げとったんばい」

「そがんことはなか!」

 哩はキャップを開けて炭酸水を飲む。喉のプチプチが収まるまで少々時間を要した。姫子が怖い顔をしている。きっと悔しいのだなと哩は思った。

「宮永姉妹ば恐るっがあまり二人がかりで倒そうとした。だけん私達は二人で一人や」

「いけんですか?」

「いけのうはなか。ばってんね、個人戦は個ん闘いや、彼女たちん前に立つ時は、いつも一人や」

「……」

「あん二人はそれば知っとー。だけんそれば強制してくる。個人としてん闘いばね」

「……圧倒的やった、宮永咲」

「そうやなあ」

 それは強烈な記憶であった。宮永照との初対戦以来の衝撃を、その妹から受けてしまった。姫子も似たようなものらしく、“宮永咲”という言葉には恐怖とその裏返しの怒りが込められていた。それは今日明日でクリアできるものではなかった。だから哩は、それ以上のプレッシャーを姫子に与えて、それを乗り越えさせようと考えた。

「繋がりが切られてる明日の初戦、姫子は自力で勝つこと。負けたらリザベは中止する」

「部長……」

 厳しい顔で哩は言った。それは、長い付き合いの姫子でも怯むほどであった。

「それだけじゃなか、姫子ば止むっには私ば封じっのが一番やと誰でも知っとー。だけん常にリザベん効果んあるとは限らん。よかか姫子、一敗でもしたら、そこで私達ん闘いは終わりばい」

「……」

 姫子は涙目になっていた。これまでの努力の結晶であるリザベーション・ディレイを一回戦で負けたら中止すると言われたのだ、その泣きたくなる想いは哩にも理解できる。なぜならば、自分も同じ想いだったからだ。

「姫子……」

 哩は、いつもの笑顔に変えて両手を広げる。姫子はその胸に寄りかかり声を上げずに泣き始めた。

「来年は私もおらん。これからは一人で闘わんばならん。強うならんばね……姫子」

「……はい」

 

 

 荒川区マンション一室

 

 荒川憩の父親は高名な心理学者であった。自宅は大阪にあるものの、一年の半分は東京で生活していた。その為、荒川区にマンションを賃貸契約しており、憩は父親から鍵を借りて個人戦出場の仲間達と生活していた。三箇牧高校の監督が個人戦を前にやってきたので、さすがにここ二日ばかりはそちらに居たが、今日の宮永照との試合が、憩の足をこちらに向けさせていた。

「ケイ……ミヤナガサキは?」

 対木もこが独特な切り口で質問をした。彼女の質問は言葉どおりではない。何種類もの質問を短い言葉にまとめてくる。憩は彼女を天才だと思っていた。麻雀を始めて5か月で東海王者になった彼女は、クアッドコアのCPUでも入っているのかと疑うほど頭が切れた。

「咲ちゃんなあ。怖いけどなんとかなる思うで」

「明日は違う……」

「どういうこと?」

「ジンダイが変えた……」

 原村和ほどではないが、憩もオカルトは否定していた。ただ、なんらかの力があることは認めている。そうしなければ自分のものも含めて、仮定すら成り立たないものがあるからだ。もこが言った神代小蒔の件もそうだ。あの“魔王”宮永咲を病院送りにするには、そんな力があるものとして考えなければならなかった。

「どう変わるの?」

「オーバーロード……」

 その言葉には様々な意味がある。プログラミングから支配者まで多種多様だ。憩は、もこが上位概念という意味で使っていると推測した。

「やったらもうだれも勝てへんね」

「そう……」

「もこちゃんも?」

「今は……」

 彼女の冗談は聞いたことがなかったので、これも本当にそう思っているのだろう。憩は少しだけ怖さを覚えた。

 ――タイミング良く呼び鈴がなる。玄関近くにいた百鬼藍子がこちらを見ている。

「藍子ちゃん、藤田プロやさかい入れたって」

 先程メールが入っていた『話があるから立ち寄る』そう書いてあったので、憩はこう返信した『人数分のプリンをよろしく』。藤田靖子が入ってきた。手には白い箱を持っていた。

「ありがとなー藤田さん」

「結構苦労した……。もこ!」

 靖子はもこにプリンを渡して憩の前に座った。

「三箇牧の監督が心配してたぞ、早く帰れよ」

「分かってます。それで、用件は?」

「幾つか聞きたいことがある。一つ目は今日の最終局だ」

「強制順子場やろか」

「やはりそうか」

「私も辻垣内さんも中盤まで気が付かへんかった。最も、気づいた時点で終わっとったけどなぁ」

 もこからプリンとスプーンを渡された。憩の大好物だったのですぐに食べる。あまりのおいしさに、どんな質問でも答えてもいいと思っていた。

「もう一つは宮永咲だ」

「うーん、やっぱ咲ちゃんかあ」

「……どういうことだ?」

「さっきももこちゃんと話しとってね、もっと怖うなるんちゃうかって。どう思う藤田さん?」

「可能性はあるが分からない……」

 プリンを食べ終え、憩は満足していたが、少し物足りなさも感じていた。靖子は配られたプリンに手を付けていない。これはジャンケンだなと考えていた。

「迷ってますね、藤田さん」

 気持ちを落ち着けて靖子に対応する。

「お前に嘘をついても仕方がない。そうだ、私は迷っている」

「どうしろと?」

「なにも……なにも変わらない。ただ、確認をしたい」

「……」

「本当に宮永咲を倒せるか?」

 憩は笑った。それは靖子を馬鹿にした笑いではなかった。ただ純粋に可笑しかったのだ。ほとんど原理主義者に近い藤田靖子の心の変化、それが可笑しかった。

「変わってますな藤田さん」

「……」

「質問に答えます。私は、宮永咲を潰せます」

「……ありがとう、時間を取らせた」

 最後に刹那的な笑顔を見せて靖子は帰っていった。自分のした選択に迷いが生じる。よくあることだが、それは耐えられないほどの圧迫になる。だから、その選択が正しかったという裏付けが欲しくなるのだ。靖子もそうだったのだろう。

 ――靖子がいたテーブルには、未開封のプリンが残っている。憩はバトルの時間がきたと認識した。

「ここはジャンケンで――」

「待って……」

 もこが歯を見せて笑っている。やばい、本気だ。対木もこが本気になっている。

「ここは麻雀で……」

 

 

 臨海女子高校 学生寮 食堂

 

 不満足な予選結果ではあったが、辻垣内智葉は勝負師らしく切り替えが早かった。予選の結果は決勝に持ち越されず、明日は均等に0からのスタートになる。宮永照に3連敗したダメージは、皆無とは言えなかったが、真っ向勝負でも立ち向かえる自信はついた。だからもう一度だ。これが自分にとって最後の試合になるのだから。

 智葉は、チームメイトのネリー・ヴィルサラーゼに大事な話があると呼び出されていた。少なくとも試合後のミーティングでは切り出せない話だったのだろうなと思い、近いとは言えない智葉の自宅から、この学生寮に足を運んでいた。

 ――ここにくると良く案内される食堂に一人で座っていた。いつきてもラーメンを食べているメガン・ダヴァンも、たまに歌謡ショーを開いている雀明華もいなかった。

「ゴメン智葉、呼び出しておいて私が遅れちゃあダメだよね」

「そうだな、ダメだろうな」

 ネリーが慌てて部屋に入ってきて謝る。冗談半分で少し怒ってみせた。

「そんな服も持っているんだな?」

「安いファストファッションの店で買った。まあ、メグに選んでもらったけど」

 いつものジョージアの民族服ではなく、イージーなTシャツとコットンパンツのネリーは、なんだか別人に見える。智葉にはそれが面白かった。

「智葉の決意は変わらない?」

「変わらないよ……明日が最後だ」

 ネリーはその質問の後、しばらく口をつぐんだ。なにかを話そうとして何度か躊躇していた。智葉には、それがなんであるか分かっていた。

「智葉……これはアドバイスじゃないよ、ただ聞いてほしいんだよ」

「宮永咲のことか?」

 ネリーが頷く。すべてを話す決意をしたようだ。

「咲だけじゃないよ、この話はきっと照にも共通するよ」

「……そうなのか?」

「少し私の話をしていい?」

「ああ」

 ネリーのことは知っているつもりであったが、それは不十分な認識だろうとも思っていた。良くも悪くも日本は平和慣れしている。ジョージアのことなど10分の1も分かっていない。

「私が住んでいた街では、仲の良かった友達が突然いなくなるのはごく普通の話なの」

「……」

「昨日まで楽しく遊んでいた友達が、次の日にはいない。母さんに聞くと死んだと言う。悲しかったよ、バイバイも言えないんだから」

 食堂には無料の飲料サービスがある。ネリーは紙コップにお茶を注いで智葉に渡した。ネリーは自分用のマグカップにそれを入れて飲んでいる。

「でもね、いつの日か悲しくなくなった。それがあまりにも続いたから……」

「……そうか」

「私はね、母さんが大好きだった。優しくて、いつも笑顔でね。でも、紛争はね、そんな母さんも変えてしまった」

 メガン達とは違い、ネリーは故郷の話をしたがらない。きっとそれは、良い記憶よりも、悪い記憶のほうが多いからなのだろう。

「生きるのに精一杯でね、笑顔もどんどん少なくなっていった。私もそうだったよ、毎日同じことばかり考えて祈っていた。『母さんが死にませんように』ってね……そうしたらね、それが見えるようになったの」

「運命か?」

「そう……運命は変えられる。街のあちらこちらには、そこに行けば死んでしまう場所があった。だから私は、そこに近づこうとする母さんや家族を、泣いてでも止めたの」

「……」

「ある日ね、戦闘が激しくなって、私達の家族は避難所まで移動することになった。大勢の人達と一緒に歩いていたんだけど、そのまま進むと死ぬ運命が見えた。私は泣き叫んで、一度家に家族を戻させたの……」

「……他の人達は?」

「死んだよ……誤爆でね」

 ネリーは真っ直ぐと智葉を見ている。これが我々日本人との違いなのだろうなと思った。それは彼女にとっても悲劇ではあろうが、当然の事実として受け入れている。智葉は、なぜネリー・ヴィルサラーゼがあれほどまでに強いのか理解した。

「そこからね、母さんは私を気味悪がり、あまり話もしてくれなくなった。……それはそうだよね」

「……」

「それでも私は、その後もそれを続けた。だって私は……母さんが大好きなんだから当たり前じゃない」

 智葉は祖父から泣くことを禁じられていた。剣の道は喜怒哀楽を超えた所にある。だから感情に揺さぶられて泣くなんてもってのほかだと教えられていた。ネリーも人前で感情を表にすることが少なかった。ただ、その理由は智葉とは違っている。過酷すぎたのだ。ネリーは幼い頃にあまりにも過酷なものを見すぎていたのだ。

 しかし――ネリーの右目から、涙が一滴落ちた。

「いつかは……いつかは分かってくれる。そして……前と同じように……優しい母さんになってくれる……その為なら……私はなんだってするから……」

「ネリー……」

 限界だった。息継ぎもままならない状態のネリーを智葉は抱きしめた。修行が足りないのか、剣の道は人の心には無力なのか分からないが、智葉の涙腺は崩壊していた。

「宮永も……同じなの……私と……同じ記憶を守ろうとしている」

「そうか……」

「宮永咲が……あそこまでして追い求めているものは……母親の愛情。それは多分……照も同じだよ」

 智葉は両腕に力を加えて、ネリーに優しく言う。

「分かったよ……それがあの姉妹の弱点なんだね?」

「そう……だよ」

 無論それはネリーの弱点でもあるのだ。その弱点を責めるのは簡単だ。それを知っていることを2人に教えたらいい。だが、智葉は心に決めていた。

(ネリー……私には無理だよ。それができるのはお前しかいない。約束したはずだよ、宮永咲を必ず倒すって。だから……その約束を守ってくれ)

 

 

 天王洲アイル デッキ

 

 この天王洲アイルは、弘世菫の自宅と宮永照の自宅とのほぼ中間にある場所だ。高校3年生は大人とは言えないが、菫はこのちょっぴり大人びた場所によくきていた。特に夜は、運河にゆらゆらと揺れて映る夜景を見るのが好きだった。

「お待たせ……」

 宮永照は意外と言っては怒られそうだが、服装のセンスが良かった。大星淡のようにどこでもTシャツではなく、その場所に合った服装をチョイスしてくる。

「そこに入ろうか?」

「うん」

 菫と照はオープンデッキのあるカフェに入った。照の要望で人のいない奥のテーブルに座っている。

「明日早いんだから10時には帰るよ」

「それでいい……」

 話がしたいと持ちかけたのは照であった。しかし、彼女が話をリードできるわけがなく、結局は菫が質問する形になる。

「照、なぜあれを使った?」

「ゴメン……抑えられなかった」

(まいったな……再々々認識あたりかな……)

 宮永照の最大の弱点は宮永咲。またもやそれを見せつけられた。もはや鉄板としか言えない。

 ――運河から涼しい風が流れてきた。菫の長い髪が僅かに揺れる。

「原村さんと話をした」

「原村か? なんて言っていた?」

「咲が私と心中しようとしているって」

「……」

「それはね、簡単なんだよ」

「簡単……?」

 甘いものが好きな照は、なにものかがグラスの上に山盛りの、もはや飲み物と呼べないなにかを飲んでいる。そして、グラスを置いて言った。

「〈オロチ〉の状態でもう一度私に勝てばいい。おそらく私は耐えられない、再起不能だよ」

「照……」

「そして〈オロチ〉は目的を失う……私に負けないこと、その目的を失った〈オロチ〉は、消滅するしかない。ね、簡単でしょ」

「……そうだね」

「菫……咲は違う道を考えている。その結果によっては、私だけが再起不能になる可能性もある」

「……」

「だから聞いてほしい、私と咲のことを。そして、もしも私がそうなったら、それを淡に伝えて、咲を倒してほしい」

「……原村ではダメだと判断したのか?」

「そんなことはない……ただ、彼女は咲に愛情を持ちすぎている」

 それを言うならお前以上の奴がどこにいるのだと指摘したかったが、さすがにやめた。いつになく饒舌な宮永照。彼女も明日は決戦だと考えている。

「私の祖母の話は?」

「テレサ・アークダンテか? 知ってるよ。12年前の欧州麻雀前期王者でウィンダム・コールとのこともね」

 照は話が早いとばかりに笑う。

「遅咲きだった祖母は、当時20歳の“巨人”との非公式戦で叩きのめされ、心が虚ろになってしまった。だから、母さんはプロを辞めて祖母を長野の家に引き取った」

「そうか、突然の引退にはそんなわけが……」

「でもね、それはいい決断だった。祖母は復活したんだよ、私と咲に麻雀を教えることに生き甲斐を見出していた」

 それはそうだろうなと菫は思った。こんな二人に教えられるのだ。指導者冥利に尽きる話だ。

「最初はね、私と咲、母さんと祖母の4人でトレーニングしてたんだけど、私が小4の時に、祖母がもう一人呼ぶって言いだしてね」

「もう一人?」

「従妹のミナモだよ」

「水面? 日本人か?」

「違うよ、母さんの妹の娘でイギリス人だよ。歳は咲と同じ」

 照が笑っている。初めて見る穏やかな笑顔だ。そして声も初めて聞く優しく柔らかい声になっていた。

「だから、咲とミナモは仲が良かった。それでね、そこから私達3人と母さんで練習するようになったんだよ。楽しかった……学校が終わるのが待ち切れなかった。みんな笑顔でね、私も、咲も、ミナモも、母さんも……」

「だれが一番強かったんだ?」

「実はねミナモだよ。母さんでさえも、ハコにされたことがあったよ」

「そうか……」

 菫は言葉に詰まってしまった。こんなに楽しそうに家族の話をする宮永照に、菫は心を掴まれてしまった。なにがあったのだ。この家族になにがあったのだ。

「だけどね……その幸せは、たった2年で終わったの」

 穏やかではあったが笑顔ではなくなった。これから照は、菫の知りたいと思っていることを話すはずだ。

「あれは事故だった……祖父が日本人なのでミナモは日本語を話せたの、だけど日本に帰化するわけじゃないので、英語学校に通っていた。その送り迎えは祖母の役割」

「事故……交通事故か?」

 照が頷く。話に夢中になっていた為か、照のドリンクはなにものかが溶けて飲める状態ではなかった。だから照は最初に出されていた水で喉を潤した。

「祖母の運転する車は事故に巻き込まれた。その結果は……」

「まさか……」

「ううん、死にはしなかった。でも、ミナモは下半身マヒが、祖母は聴力障害の後遺症が残った」

「……」

「イギリスの叔母はそれはそれは怒ったよ。それでミナモは本国に戻された」

「咲ちゃんは悲しかっただろうな」

「そうだね……ずっと泣いてたよ」

 菫は店員を呼んで、照のドリンクを下げさせた。新しく普通のトロピカルドリンクを注文した。

「そして……祖母は追い詰められて自殺を図った……」

「前に言っていた家の火事の件か?」

「よく覚えていたね、そう、あれは祖母が起こしたもの、大きな火傷を負ったけど命に別状はなかった。でも自殺願望が酷くてね、そのまま施設に入れられた」

 届けられたトロピカルドリンクを照は口に含みうつむいた。声の質もいつもの照に戻っていた。

「それから母さんは人が変わってしまった……」

「……」

「一切の反抗は許されなくなった。私にも咲にも毎日課題が与えられ。できなければできるまでやらされた。その為に学校も休まされたこともあった」

「そんなにか?」

「母さんはすべての不幸の原因は“巨人”にあると考えて、あの人を倒すことに憑りつかれてしまったんだよ」

 菫は言葉が出なかった。

「辛かったよ……本当に辛かった」

「……」

「咲がね……その辛さに耐えきれなくて、私にね、一緒に家出しようって言ってきたことがあった」

「咲ちゃんが?」

「うん、泣きながらね……でもね……私は、咲にこう言ったの……」

 照がうつむいていた顔を上げる。その表情に浮かんでいるものは、紛れもない後悔の色であった。

「我慢しよう。母さんのいうことをきいて“巨人”を倒せば、きっと優しい母さんは帰ってくるからって」

「……」

「咲が何度も本当かって聞くから……私は本当だよって……そしたらね……咲が約束だよって……」

「それが……それが、お前たちの十字架なのか……」

「違うよ……菫」

 名前を呼ばれたが、照は菫を見ていなかった。見ているのは、おそらく過去の自分。

「これは、私だけが背負う十字架だよ……その約束が、〈オロチ〉を作り上げたのだから」

 

 

 都内 大学病院

 

「本当にいいんですか? 私達も一緒で」

「ええ、咲だって友達が多いほど嬉しいでしょ。でも、朝早いから遅刻は厳禁よ」

 監督もコーチもいない清澄高校麻雀部を一人でまとめ上げてきた竹井久が、明日の朝7時に藤田プロが行う宮永咲の確認に、いわば部外者である高鴨穏乃と新子憧の立ち会いを許可してくれた。穏乃は優れたリーダーとは杓子定規ではない部分が必要なのだなと思った。

(そういえば、赤土さんも結構無茶苦茶だしな……)

「それじゃあ、私達はもう戻るわね。あなたたちも気をつけて」

「はい、ありがとうございます」

「また明日ね、和。優希ちゃんも。あ、マネージャーさんも」

「……」

 憧にマネージャー呼ばわりされた須賀京太郎は、なにか言いたげに口を開いたところを、片岡優希と染谷まこに両腕を掴まれて引き摺られていった。

「和……笑わなかったね」

「うん」

 去り際、原村和は穏乃達に軽い挨拶はしたが、その表情は暗いものであった。

「私達も帰ろ、明日早いしね」

「そうだね」

 

 

 その病院と駅との間には、大きな幹線道路があった。その為、駅に向かう穏乃達は長い信号待ちをしている。

 病院の出入り口付近から後を尾付けてくる不審者がいた。サングラスを掛け、妙な飾りが付いた帽子を被っている。無造作に縛られた長い髪と、Tシャツのシルエットから女性であることは分かっていた。

「シズ、後ろの人ってあの人じゃないの?」

 新子憧もその存在に気がついていたようだ。そのとおり、だれであるかは見え見えだ。穏乃は振り返り、その人物の名前を呼んだ。

「大星さん。なにやってるんですか」

「……なんで分かったの?」

 意外そうに反応する淡に、分からないほうがどうかしていますよと言いたかったが、穏乃はオブラートに包んで返事をした。

「まあ、なんとなくですね」

「サキはどうだった?」

 その質問に、今度は穏乃が呆気にとられた。なぜ、大星淡が宮永咲をここまで気にかけるのだろう。それが分からなかったからだ。

「咲さんが心配なんですか? でもそれだったら私達より清澄に直接――」

「――そんなことできるわけないじゃない。私は白糸台から大会に参加してるんだから」

「……なるほど」

 考えてみればそうであった。淡本人も個人戦の選手だし、白糸台高校には咲の姉である宮永照だっている。気安く『どうだった?』なんて聞けるわけがない。

「あんたたちが入ったのが見えたから、外で待ってたんだよ」

「淡は咲の知り合いなの?」

 いつもながら憧は聞き方がダイレクトすぎる。淡は帽子やサングラスを外し、持っていた紙袋に入れている。そのもたもたした動作を見て、穏乃はヒーローの変身を待っている怪人の心境を理解した。

「高鴨穏乃! なんなのこの生意気な女は!」

 変身を完了した“大星淡”が、いきなり必殺技の“いちゃもん”を繰り出してきた。

「なにって、憧ですよ新子憧。渋谷さんと対戦してたじゃないですか」

「分かってるわよ、私が言いたいのは、私を名前で呼んでいいのは私の友達だけってことよ!」

「ふーん」

「……なによ」

「じゃあ私も高鴨穏乃じゃなくて、穏乃って呼んでくださいよ、淡さん」

「そうしないと咲の容態は教えないわよ、淡」

「……」

 

 

 大星淡は声が大きかった。外で話していると喧嘩と間違われそうなので、高鴨穏乃は近くにあったファミリーレストランに淡を誘った。ドリンクバーだけだと怒られるので3人ともちょっとしたデザートも頼んでいた。

 穏乃は、原村和から聞いた宮永咲の容態を伝える。すると、淡の表情が不安に曇っていった。

「意識は戻ったんだね……」

「ええ、しかも明日の復帰を望んでいます」

「……ノドカは?」

 今、淡は自然にノドカと言った。つまり二人はもう友達だということだ。

「和は迷っていました」

「そう……そうだよね」

「ねえ淡、今度はこっちから質問させて。無理だったら答えなくていいから」

「いいよ」

 もう新子憧に呼び捨てにされるのは慣れた様子だ。淡は普通に頷いた。

「咲のお姉さんはどうしたいの?」

「テルーは……」

 長い沈黙が続いた。話せないのか話したくないのかは不明だが、大星淡は“答えない”を選択したらしい。穏乃はそれを汲み取り、質問を変える。

「淡さん……それじゃあ、あなたはどうですか?」

「私……?」

「そうです……あなたはどうするんですか?」

 その質問に淡は、目を伏せて長い思考モードに入ってしまった。そして、やっとのことで発した言葉は――

「シズノ、アコ」

 という自分達の名前であった。どうやら、大星淡に友達と認められたようだ。穏乃は憧と目を合わせて笑った。

「私は友達が少ないの……だから、それが増えるのは正直嬉しいよ」

「ええ、私達もですよ」

 淡は少しだけはにかんだ笑顔になり、すぐにそれを真面目な顔に変えた。

「だから二人に共有してほしい話があるの……これは友達だけの大事な話」

「……」

「シズノは分かってると思うけど、サキは……〈オロチ〉は強すぎる」

「ええ」

「でもね……サキはね……倒してほしいんだよ」

 穏乃は違和感を覚えていた。淡は、咲と〈オロチ〉を同一の存在として語っている。

「淡さん……咲さんと〈オロチ〉は同じものですか?」

「〈オロチ〉はね……サキそのものだよ」

「……」

「そして……サキは、倒されることを望んでいるの」

「和は……それを躊躇っている?」

 無論、和もそれは知っているはずであったが、なんらかの事情が、和の心を揺らしているのだろう。しかし、淡は和とは違う、その表情に迷いがなかった。竹井久の言った心の選択を既に終了させているのだ。

「私は、サキの望みを叶える。それが私のできることだから」

 

 

 姫松高校 宿泊ホテル

 

 夕食の後、監督の赤阪郁乃が『今日の調整はなしやでえ』とのんびりした口調で解散を命じた為、麻雀部のメンバーは最後の自由行動を満喫していた。真瀬由子と2年生二人は外に出かけている。明日試合のある末原恭子と愛宕洋榎は、風呂に入ってから、休憩室でぼんやりと話をしていた。

「7位か、まんざらでもないな」

「宮永妹に負けてから、ちょっと集中力が切れまして、福路にも姉帯にも遅れを取ってしまいました」

「姉帯か……リベンジされたってわけか」

「そうですね、気ぃつけてくださいね、なんかけったいな打ち方やったので」

「まあな、やることは変わらんけどな」

 洋榎はいつもどおりだ。自分のスタイルがあるというのは凄いなと恭子は思った。ただ、一つ懸念もあった。例えば洋榎が負けたとしたら。それが普通の負けならばなんの問題もない。しかし、自分のように完全敗北してしまったらどうだろうか、耐性はあるのだろうか? そんな心配をしてしまう。愛宕洋榎は恭子の知っているかぎり、宮永姉妹と同等の強敵とは闘っていない。

「妹はどうやった?」

「恐怖が見えました」

「あははは、そらおもろいな」

「おもろいですか」

「見えないもんが見えたか……ほな怖うのうなったな」

「……主将」

「幽霊の正体見たり枯れ尾花ってな。見えたらなんも怖いことあらへん」

 この人なりに自分を励ましてくれているのだろうなと思い、恭子は笑った。

「私達は3年生や。これは団体戦やない、もっと自分の為に闘ってもええ」

「自分の為も色々ありますよ……」

「……そうか」

「そうです」

「不器用やからな恭子は……昔からな」

「あんたには負けますよ……洋榎」

 洋榎の言ったように自分たちは3年生だ。そしてインターハイも間もなく終わる。彼女の主将の任もそれと同時に終わりを迎える。だから恭子は、親しみを込めて、洋榎を去年までと同じ名前で呼んだ。

 

 

 都内 総合病院

 

 薄墨初美の倒れた原因は血中鉄の極端な不足とはっきりしていたので、会場から近いこの病院に緊急搬送されていた。錠剤投与では間に合わないレベルで、鉄材を直接静脈注射していたが、ヘモグロビン量があまり回復しない。その為、現在は様子を見ている状態だ。

「どうだ初美は?」

 戒能良子が忙しそうにやってきて石戸霞に尋ねる。

「それが、丸薬を渡し損ねて……」

「そうか。先生には?」

「言いましたけど、そんな胡散臭いものは飲ませられないって」

 それを聞いて良子は笑い、『貸せ』と霞から丸薬を受け取り、医療室の中に入っていった。――担当医となにか話している。やがて看護師がカップに入った水を持ってきて初美にそれを飲ませた。これで、ひとまずは安心だ。

 良子が出てきたので霞はそのわけを聞いた。

「凄いですね私の時とは対応が違いました」

「それなりに大人だからね。それにトリックを使ったから」

「トリック?」

 良子の掌の中には、先程霞が渡した丸薬があった。それを霞に渡した。

「これは?」

「開けてみて」

 言われたとおり包みを開けると、あの胃薬の強烈な臭いがした。

「すり替えたのですか?」

「伝統薬みたいなものだって言って医者にそれを渡した。まあそれだったら飲ませてもいいかと思うだろう」

「初美ちゃんには本物を渡した」

「そうだ」

 この2歳年上の戒能家の長女は、掟を破った者として神境から追放された。我々一族の一生は決まっている、あの神代小蒔でさえも、せいぜい大学までは許可されるかもしれないが、その後は神境に戻り、残りの人生を次の世代の為に使う。だが、野心家の戒能良子はプロ雀士への道を選んだ。霞には分かっていた。それは自分勝手な傲慢ではない、むしろその逆、いばらの道の選択なのだ。

「分かっていると思うけど、初美は入院することになるよ、回復には時間が必要だ。禁忌の技とはそういうものだよ」

「姫様もですか?」

「“オモイカネ”は分からない……このまま事が成就すればいいが」

「姫様が敗れたら……?」

「さあ……本家に聞くしかないな。ただし、気になる情報はある」

「知っています……“オモイカネ”を使った姫様はいずれも短命」

「……偶然であってほしいがな」

 良子は追放後もなにかと自分たちを気にかけてくれる。清澄高校と同じで永水女子高校にも監督がいない。石戸霞は同い年の狩宿巴となんとか部をまとめていたが、経験不足で分からないことも多かった。そんな時に良子は色々とアドバイスをしてくれた。

「姫様と春は大丈夫か、宿舎で回復しているんだろう?」

「春ちゃんは順調ですが、姫様は苦しそうでした」

「人を呪わば穴二つってね、“オモイカネ”はそういう力だから反動は大きい」

「良子さん……」

「なんだ」

「“オモイカネ”は止められないのですか?」

「ああ……止められない。宮永か姫様のどちらかが決定的なダメージを受ける」

 霞は後悔していた。あの時、神代小蒔が“オモイカネ”を使うと決断した時に、本気で止めておけばよかった。秩序を守る為とはいえ、あの優しい神代小蒔が青春を犠牲にしていいはずはない。そう思うと霞は衝動的に立ち上がってしまった。

「祓うことはできない……」

 良子に手を掴まれ、冷たく言われた。図星だった。霞は滝見春と明日の朝までかけて祓おうと考えていたのだ。

「霞……思い出せ。姫様は覚悟していたんだろ?」

 あの個人戦終了時の小蒔の姿を思い出した。目を逸らさず、自分の行ったことに直面する姿は、凛々しきまでのものであった。

 霞は目を閉じ、静かに答える。

「はい……姫様は、すべてを覚悟していました」

 

 

 千里山女子高校 宿泊ホテル

 

 監督の愛宕雅恵が『出かけるので、ミーティングは早朝に行う、だから早く寝とけよ』と命令に近い指示を出していたが、3年生の3人にとっては最後の夜。なかなか寝付けなかったので、一部屋に集まり、長話をしていた。 

「私は少し眠うなったなあ、竜華、寝てもええか」

「ええよ、明日も丸一日の対局やさかい、早めに寝といて」

「ほな……」

 園城寺怜は清水谷竜華の浴衣の裾を捲り上げ、太ももを露出させた。

「ちょっと怜、なにすんの。きちんとベッドで寝てよ」

「直ちゃうと寝た気がせえへん。それに二人の話も聞きたいから」

 そう言って怜は、膝枕で横になった。いつものこととは言え、なぜか笑ってしまう。

「そうや、竜華、宮永照の対策は?」

 江口セーラは怜が聞いているのを承知の上で質問した。

「船久が頭抱えてたで、最後の一局で全部ぶち壊されたってな」

「そうやな。あんなのがあったらな」

「まあ、ええんちゃう。怜は小細工なしで闘ったほうが強いと思うで」

 その竜華の言葉に、セーラはなぜか嫌な予感がした。新しい怜の未来予知は1巡先までしか見えないと言っていたが、照の打倒は怜の悲願だ、また無理をするのではないかと考えてしまう。

「言っとくけどな。準決みたいな無茶したら承知せえへんよ」

 セーラは念のために釘をさしておく。宮永照は妹との対決を望んでいる。その妨害をする者は、だれであろうと容赦しないはずだ。

「あかんか?」

「怜!」

 膝枕の上から怜はセーラを見ている。その顔は哀しそうであった。

「セーラは、私が止めてって言っても、宮永妹を道連れに負ける気やろ」

「……」

「だから私も、セーラの為に宮永照を道連れにしたる」

「そないなことは、オレはしてほしゅうない!」

「私もやで……セーラ」

 返す言葉がなかった。怜の為にと思っていたことが、彼女を苦しめていたのだ。穏やかな怜の視線が、セーラには逆に痛かった。

「ゴメンな……私は二人を団体戦で優勝させたかった。2年も悔しい思いをしてきたんやもんな。だからチャンピオンをなんとしてでも倒したかった。でもな……」

 竜華が怜の口を手で塞いだ。そして上から怜を見つめて、優しく言った。

「あほやなあ、私とセーラの夢は優勝なんかやないんやで……」

「そうや、この3人で団体戦に出場する。それがな、オレと竜華の夢やった」

 怜が涙を隠すように顔を竜華のももに埋めた。その竜華は、怜の髪を撫でている。

「だからなあ、それはもうとっくに叶っとったんやで」

「……ありがとな」

 言葉になってない怜の声であったが、セーラにはちゃんと聞こえた。感謝はお互い様だ。自分達も、怜のおかげで勝つことが至上の勝負の世界から逃れることができた。だから、明日のラストはその集大成をしてやる。セーラにとってのそれは、“魔王”宮永咲を倒すことに他ならなかった。

 

 

 清澄高校 宿泊ホテル

 

 午後11時、まだ寝るのには早い時間であったが、部長の竹井久が明日に備えて早めに睡眠をとることを命令しており、部屋は消灯され、全員布団の中に入っていた。もちろん寝ろと言われても普通はできない。原村和は目こそ閉じてはいるものの、その頭は起きている時以上に働いていた。数時間前の咲との会話。それが、何度も何度も繰り返されていたのであった。

 

 

 3時間前 都内 大学病院 治療室

 

 宮永咲は検査衣に着せ替えられ、ベッドに横たわっていた。周りには様々な検査装置が置かれているが、今はすべて停止している。ただ、咲の左腕には時間が掛かりそうな点滴が打たれていた。原村和に気がついたのか、咲は顔をこちらに向ける。

「和ちゃん……」

 和は、咲が立とうとするので慌ててそれを止める。

「咲さん、そのままで、私がそこまで行きますから」

 近くにあった尻が痛くなりそうな丸椅子を取り、咲のベッドの側に置いて座った。

「ごめんね、迷惑かけて」

「いいえ」

 点滴のチューブがつながれている咲の左手がぴくっと動いた。和はその手を軽く握る。

「安心しました。顔色がいいですね」

 それは嘘ではなかった。咲には酷い疲労があると言われていたので、和は覚悟してこの部屋に入っていたが、良い意味でそれを裏切られた。それどころか、今の咲は〈オロチ〉の状態であることを忘れさせる表情であった。

「気分はね……凄くいい」

 咲が笑った。陰のない咲のいつもの笑顔だ。和は嬉しくなり、握っていた手に力が入ってしまう。

「なにがあったのか聞いてもいいですか」

 今度は咲の手に力が入った。咲の癖だ。これからの咲の話は真実なのだ。

「和ちゃんは信じないと思うけど、今の私の体の中には、もう一人の自分がいるの」

「もう一人の自分?」

「うん、よくアニメであるよね。なにかを決めようとすると天使と悪魔が現れて……あんな感じかな」

「……」

「神代さんは、それを私の中に侵入させたの」

「そんなオカルト……ありえません」

 また咲が笑った。よく笑う、まるで〈オロチ〉の呪縛が解けたようだ。

「咲さん……〈オロチ〉は……?」

 咲は答えずただ首を振った。そして、自分に起こったことを和に告げる。

「神代さんが侵入させた者は、絶えず私を否定するの、それこそ、時には天使のように、時には悪魔のように……なぜそんな力を使う? 相手がどうなってもいいのか? とか、もっとやれ、生温いぞとか……」

「……」

「その否定する者の姿を見たの……それは私自身だった。そして、私の心の中で、どっちが本当の自分か区別がつかなくなった」

「今もそれはいるのですか?」

「うん、でも声は聞こえなくなった」

 和はチラリと時計を見るもう5分が過ぎていた。

「私はどのぐらい気を失っていたの?」

「2時間ですかね」

「……その間中、私はもう一人の自分と話し合っていた『私はなぜ闘うのか?』って」

「咲さん……」

 咲が目を閉じ、少し上を向く、その状態のまま、静かに口を開く。

「和ちゃん……約束ってね、時には物凄い足枷になるんだよ」

「え……?」

「私と和ちゃんの話じゃないの。私とお姉ちゃんとの話」

「照さんと?」

「そう……その約束が、お姉ちゃんをずーっと苦しめている。お姉ちゃんは私を救おうとしてるのだろうけど、それは違うんだよ。本当に救われなきゃいけないのはお姉ちゃんなんだよ」

「それが闘う理由ですか……?」

 咲が目を開ける。ゆっくり顔を傾け、大きな目で和を見ている。なにかが変わっている。〈オロチ〉の宮永咲でもなければ、普通の宮永咲でもなかった。ただ、その咲は、哀しいまでのなにかを纏っているように見えた。

「違うよ……」

「……」

「私の闘う理由は、和ちゃんに負ける為だよ」

「え……」

「だから……私は絶対に負けない。神代さんにも荒川さんにも、淡ちゃんにも、穏乃ちゃんにも。そして、私とお姉ちゃんとお母さんに纏わりつく運命にも……」

「私は!」

 和は叫んでしまった。自分はこの大会で咲を倒す決意をしていた。ただ、今の咲の話を聞いて、その決意が大きく揺らいでしまったのだ。だから、叫ぶ以外に方法がなかった。

「私は……私はどうしたら……いいのですか?」

 咲の手を握り、和は慟哭してしまった。

 咲はその手を握り返し、優しく和に語りかけた。

「いいよ……私を倒してください……」

 

 

 

『正解はない、できるのは選択だけ』竹井久はそう言っていた。しかし、その選択も原村和には困難であった。宮永姉妹を闘わせないことが最良と考えていた。それは宮永咲が姉共々消えてしまうことを望んでいると想定したからだ。だが咲は、宮永照を救いたいと言っていた。前に少しだけ聞いたかぎりなく不可能に近いなにかをやろうとしているのだ。そしてそれには運が必要だとも言っていた。

(咲さん……運は……裏切ることが多いんですよ。だから、私は……あなたを……)

「倒すしかありません……」

「……咲ちゃんか?」

 声に出てしまったようだ。隣で寝ていた片岡優希に質問された。彼女もなかなか寝られないらしかった。

「ごめんなさい……」

「咲ちゃんが心配かもしれないけど、寝ないと部長に怒られるじぇ」

 やや離れた場所から、竹井久の咳払いが聞こえた。和はそれに謝り布団を被った。

(咲さん……あなたの望みは……必ず叶えます)

 

 

 風越女子高校 宿泊ホテル

 

 福路美穂子は、朝の4時半から起きていた。とはいえ、それは異常ではない。普段の美穂子も5時には目が覚めていた。今日はほんの少しだけ早起きをしただけだ。

 風越女子高校の宿泊ホテルは、長期滞在型でマンションの一室をそのまま宿泊施設として開放しているものだ。だから、大きな冷蔵庫も使いやすいシステムキッチンもある。今日はインターハイ最後の日、自校の分と清澄高校の分を合わせて10人分の弁当を作ろうと思っていた。

「キャプテン、今日も早いですね」

 池田華菜が目をこすりながら冷蔵庫から“池田”と書かれたお茶を取り出し飲んでいる。

「おはよう、華菜」

「なにか手伝いましょうか?」

「ううん、いいわ。そうだ、華菜そこに座って」

「え?」

 華菜にキッチンの対面にあるカウンターに座るように言った。理由が分からないながらも華菜はそれに従った。

「オムレツを作ってあげる」

「あー咲のオムレツですね。作るの見てていいですか?」

「いいわよ」

 オムレツは難しい。美穂子の苦手な料理の一つだ。

 ボウルで混ぜた卵を強火のフライパンに入れる。よくかき混ぜて形を整える。ここからが難しい所だ。フライパンの柄を叩き、卵を徐々に剥がしていく、そして完全にひっくり返す。

「おおー」

「まだよ、ここからの火加減が大事なの」

 フライパンを叩きながら強火の火に出し入れして卵に熱を加える。完璧だ、これまでのオムレツで最高のものができた。美穂子はそれを皿に移し、華菜の前に出す。

「どうぞ、ケチャップいる?」

「いいえ、このままで」

 華菜がフォークでオムレツを割る。半熟の卵がトロリと皿に流れている。

「凄いですね……」

「早く食べて、感想聞かせてね」

「はい……」

 華菜がそれを口に入れ、幸せそうな顔をしている。これだから料理作りはやめられない。

「おいしい……今まで食べたどんな卵料理よりもおいしい」

「ありがとう」

 美穂子は弁当作りを再開する。華菜はかちゃかちゃと音をたてながらオムレツを食べていたが、その音が止んだ。

「華菜……?」

「私は……昨日キャプテンが宮永照に負けたのを見て、大泣きしてしまいました」

「そう」

「コーチに言われました『お前は泣いてばっかりだ』って」

「そうね、華菜はよく泣いていたわね」

「だから決めたんです。もう泣かないって」

 その気持ちはよく分かる。美穂子もキャプテンに指名された時にそう思っていた。しかし、それは無理であった。泣くのは素直な感情表現、悪いことではない。

「できそう?」

「無理です……」

 華菜の両目には涙がいっぱい溜まっていた。もちろん、意思の力でそれが流れるのを止めることはできないが、美穂子には華菜がそうしているように見えた。

「キャプテンには……迷惑ばかりかけて……だから、今までありがとうございましたって言おうと思って早起きしたんですけど……」

 意思の力が限界を迎えた。その両目から、涙がこぼれ落ちた。

「キャプテン……ありがとう……ございました」

 美穂子はキッチンを出て、華菜を後ろから抱擁する。ありがとうなんてとんでもない話だった。人付き合いが下手な美穂子を支えてくれたのは、この池田華菜なのだから。

「こちらこそありがとう。でもね、まだ終わりじゃないの」

「……」

「もう一度、私はもう一度あの人に挑む。それを見ていて」

「……はい」

 

 

 都内 大学病院前

 

 原村和は、仲間の4人と中央線の駅を出た。そこには高鴨穏乃と新子憧が待っていて、なにも言わずに笑顔で会釈をして合流した。引切り無しに車が通る幹線道路を渡り、病院に向かった。

「靖子はもう待っているはずよ」

 部長の竹井久が言った。その言葉にたがわず藤田靖子が入口に立っていた。

「時間ピッタリか、お前はいいビジネスマンになれるよ」

「もっと優秀なビジネスマンは10分前にはきているものよ。靖子みたいにね」

 藤田靖子が歯を見せて笑う、そして体を翻して病院の中に入った。

 ――宮永咲は、病院内の庭園が見えるガラス張りの壁の近くに座っていた。清澄高校の制服に着替えて、側にはあの担当医もいた。

 その担当医が和達を見つけて咲にそれを教えていた。

 咲が立ち上がり歩いてくる。

 逆光になっているせいか、咲のシルエットが白い光に包まれているようにみえた。

(咲さんが纏っていたものは……これだったの……)

 正しきものが纏う衣、それは白き衣。和にはそう見えていた。

「宮永……」

「……」

 藤田靖子が咲と向かい合う。靖子も咲になにかを感じたのか、ただ一言短く聞いた。

「できるか?」

「はい」 

 




あとがき

熊倉トシと愛宕雅恵のパートもあったのですが、余りにも生々しかったので削除しました。
 
本文中の宮永咲のセリフに感想で頂いた言葉を引用させて貰っています。雨宮様には心から感謝いたします。

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