咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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14.羅睺の脅威

  インターハイ個人戦 試合会場通路 

 

 姉帯豊音と小瀬川白望は、それぞれ強敵が待ち構えている対局室へと歩いていた。白望のルームFには“超新星”大星淡と“新道寺のWエース”鶴田姫子が、豊音のルームBには因縁の相手である“魔王”宮永咲が待っていた。

 姉帯豊音の属性である羅睺(らごう)は団体戦で使用できなかった。熊倉トシから決勝までの温存が指示されていたからだ。白糸台高校3連覇阻止の為、宮守女子高校の切り札として解放する予定であった。

 だが、それは幻と終わった。2回戦、あのトシですらも力量を見誤った怪物が、豊音達の計略を粉々に打ち砕いたのだ。

(……あなたは羅睺を見せてもいい相手だった)

 その宮永咲との再戦、豊音は己の属性の発揮を決意していた。

 

 

 ――白望が突然止まる。

「じゃあ……豊音、頑張って」

 豊音はあたりを見渡した。ルームBを5mほど過ぎている。白望がさりげなくそれを教えてくれた。

「うん、シロもね」

 白望が頷く。表情は変わらない。いつもと同様のダルそうな顔だ。

(今度は私の番だよ、怪物退治、2匹目……)

 豊音はルームBのドアを開けた。身長が規格外なので、部屋の出入りでは必要あり無しに関わらず屈む習性がついていた。

「よろしくお願いします」

「よろしくでー」

 北海道代表の三上寛子と、語尾に特徴のある兵庫代表の森垣友香であった。友香はマイペースだが、昨日に続いて初戦で宮永姉妹とぶつかる寛子は、顔色が悪かった。

「よろしくー」

 場決め牌をひっくり返す。

 【南】であった。まだ出ていないのは【東】のみ、これからくる宮永咲はそれを引くことになる。

(やだなー……なんだか昔を思い出しちゃった)

 試合開始を待っている豊音の脳裏に、思い出したくない羅睺の記憶がフラッシュバックしていた。

 

 

 ――豊音の住んでいた村は、かつては林業でおおいに栄えたが、現在は寒村という言葉がぴたりと当てはまる集落だった。神仏習合の信仰が強く残っており、各家には九曜(くよう)の星の名前に由来する屋号が付けられていた。豊音の家は羅睺で、幼い頃から、その教えを聞かされ、羅睺の暗示を、自らの属性として自然に受け入れていた。

 高齢化が進んだ集落で、豊音とその両親以外は60歳以上の住民しかいなかった。同世代の遊び相手はおらず、入学した小学校も廃校寸前の分校だった。同級生は6年生の男子生徒だけで、2年からはたった一人の小学校生活を送った。豊音は孤独であった。無論、親や周囲の住民は、唯一の子供である豊音を大切にしてくれた。それはそれで幸せではあったが、豊音の求めていたものは、ふざけ合いじゃれ合うことのできる同世代の友人であった。

 中学生になり、念願の同級生に出会えた豊音だが、そんな幼少期を過ごしたせいか、コミュニケーションがうまく取れなかった。悩み苦しむ豊音にあるきっかけが訪れた。学校に麻雀同好会が発足したのだ。小学校時代の楽しみといえばTVかゲームしかなく、それも麻雀に偏ったものであった。共通の話題を持つ初めての仲間、おぼつかなくはあるが、豊音は必死に打ち解けようとした。

 そして、麻雀の市民大会に出場した。同好会は正式な部活動ではないので、公の大会には出場できない。しかし市が主催する大会ならば出場可能。豊音は中学生部門にエントリーした。

(なんで羅睺を使ったのかな……)

 理由の分かっている自問であった。豊音は認めてほしかったのだ。仲間に自分の価値を認めてほしかった。だから羅睺を使用した。しかし、その異様な打ち筋は周囲を騒然とさせた。豊音を異物として眺める多数の目。それに耐えきれなくなり、豊音はその場から逃げ出してしまった。

「お待ち」

「……」

 会場を出ようとする豊音に声をかけたのは、講師として招待されていた熊倉トシであった。

「大きいねえ、名前は?」

「姉帯……豊音」

「豊音かい、少し私と話をしようじゃないか」

「……」

 近くのファミリーレストランに誘われた。トシを警戒してはいたが、その優し気な目に豊音は断ることができなかった。

 トシは、興味深げに豊音の話を聞いていた。余計な質問はせずに、ただ頷いているだけだが、なぜかそれが心地よかった。気がつけば豊音は、自分のことをすべて話していた。

「豊音、転校する気はないかい?」

「家は……しきたりが厳しいので……」

 トシは、「それじゃあ」と言って、そのまま豊音の家までついてきた。

「豊音さんを岩手の学校に転校させたいのですが」

 トシは、豊音の麻雀の才能を両親に説明し、なんとか転校の許可をもらおうとしていたが、頑固者の父親に放り出されるようにして断られてしまった。

「私はね、諦めが悪いんだよ。だから豊音、安心して待っておいで」

 不安そうに見送る豊音に、そう言い残してトシは去っていった。

(先生……)

 その後、トシは毎月豊音の家を訪れた。それが1年続き、2年続いた頃、豊音の父親は心を開いた。豊音の宮守女子高校への転校を許可したのだ。

 トシは、その高校の麻雀部顧問だった。同年の冬、豊音は麻雀部メンバーと顔合わせすることになり、トシと二人で電車に乗っていた。

「みんなに羅睺を見せちゃいけないよ」

「え?」

「あれはね、見せてもいい相手限定だよ」

「そんな人いるんですか?」

「東京に怪物が一人いる、彼女なら羅睺に耐えられる」

「宮永照さんですか」

「……なんだい、分かっているじゃないか」

 トシが笑った。いつもの優しい笑顔だ。それは豊音を落ち着かせた。羅睺は自分の属性なのだ。制御は自我の制御に他ならない。困難を極めたが、トシの為ならばできるような気がした。

(初めて出会えた本当の友達……先生のおかげです)

 4人の友人達、臼沢塞、鹿倉胡桃、小瀬川白望、エイスリン・ウィッシュアート。彼女達が羅睺を見たら驚くに違いない。だが、豊音は信じていた。きっと自分のことを理解してくれる。いや、分かってくれなくてもいい、それならば、分かってくれるまで待つだけだ。待つのは慣れている。17年間待ちに待ち続け、ようやく知り合えた本当の友達なのだ。失うことなんて考えたくもなかった。

 

 

 宮永咲が入室してきた。“魔王”化した彼女とは、初対面になる。

「よろしくー」

「よろしく……」

 咲は無表情で形式的に場決め牌をめくり、豊音の隣に座った。

(そう……あなたは、私と一緒なんだね……)

 だれもが恐れる“魔王”に、豊音は親和性を感じていた。孤独から自分の力では抜け出せない者が持つ絶望と羨望が混在したオーラ。宮永咲はそれを発しているように見えた。

「姉帯さん……今日は手加減しないでください」

 光のない目で咲が見ている。なんということだ。見抜かれていたのだ。あの2回戦で豊音が羅睺を封印していたのを咲に見抜かれていた。

「宮永さんも……」

「ええ」

 豊音は思っていた。結果はどうあれ、この闘いが自分を変えてくれる。長い長い孤独から救い出してくれると。

 そうだ、彼女は姉帯豊音が待ち焦がれた相手、熊倉トシが言った“羅睺を見せてもいい相手”なのだ。

 

 

 対局室 ルームF

 

「小瀬川さん、私は宮永照の後輩です。だから、あなたにリベンジしたいと思います」

 大星淡は、昂る感情を必死に抑えて、宮守女子高校の小瀬川白望にチャレンジ宣言をした。自分を差し置いて公式戦で照に勝利した相手だ、そうしなければ気が収まらなかった。

「……やだな」

 ダルそうに白望が答えた。

 淡は気勢がそがれ、当惑していた。

(打っても響かない……そうか、テルーもこれにやられた……)

「大星、久しぶりやなあ」 

 新道寺女子高校の鶴田姫子が入室し、淡に笑顔で声をかける。

「鶴田さん、よろしくでーす」

 軽めの返事でごまかしたが、彼女も団体戦準決勝で苦戦した相手、負けるわけにはいかない。

(サキと闘うまで1敗もできない……あの姉妹を対戦させてはいけない)

 試合開始のブザーが鳴り、仮東の白望がサイコロを回し、起家が確定した。

 

 対局室 ルームF

  東家 大星淡(西東京代表 1年生)

  南家 小瀬川白望(岩手代表 3年生)

  西家 秋葉葉月(岐阜代表 3年生)

  北家 鶴田姫子(福岡代表 2年生)

 

 起家の淡は、全身の神経を研ぎ澄ましてサイコロのボタンを押す。

(絶対安全圏……速度型)

 親番を簡単に流されてはたまらない。ここは速度を優先する。

「リーチ」

 絶対安全圏の効果が現れていた。役もドラもなかったが、親なので自摸ならば6000点だ。ジャブには十分すぎる。

 面子にも安全圏が作用しているのなら、一桁巡目は淡の好き放題だ。

(とはいっても、【三筒】の辺張待ちか……)

 速度型はW立直後の展開が完全な運頼みになる。一人聴牌の優位性はあるが、待ちが悪ければその効果は限定的だ。

 7巡目、淡は自摸牌に手を伸ばす。【三索】であった。立直後なので切るしかない。

「たんま……」

 下家の小瀬川白望が、淡の捨てた【三索】と手牌を見比べて考えこんでいる。

 ――長い、実に長かった。額に手を当てて、ピクリとも動かず、眼球だけが忙しく移動していた。

(なんなのこれ……?)

 面子を絶対安全圏に引きずり込んで個別撃破する。それが淡の打ち筋だ。その為には自分のリズムの維持が重要だった。

(テルーを倒した人……それなりの理由があるのね)

 1分が過ぎた頃、白望は「すみませんでした……」と言って顔を上げた。

「チー」

 白望が晒した牌は【一索】【二索】【三索】。まだ何とも言えない順子であった。

「ポン」

 秋葉葉月が、白望の捨て牌である、赤い【五萬】を副露した。

 完全にリズムを崩されていた。この局は、もはや自分のステージではない。

(いいよ、この親番、くれてやる!)

 白望は中張牌ばかり捨てている。あの長い迷いは、チャンタ系への切り替えの為だったのだろう。

 そして13巡目、淡の引いた牌は、ドラの【九索】。まだ見えていない牌だ。だれが持っているかは分かっている。――淡は白望を見ながらそれを切った。

「ポン」

 これでドラ3、チャンタ系なら満貫以上が確定だ。

 16巡目。白望は深い溜息をついてから自摸宣言をした。

「ツモ、全帯幺九、ドラ3。2000,4000」

バラバラと牌を倒した。天地逆の牌が半数ほどあり、彼女の雰囲気と一致していた。

淡は、白望に点棒を渡しながら考える。

(小瀬川さん……あなたを私の世界に招待します。無気力麻雀はこれで終わり、次の局が終わったら、あなたは思うでしょう……)

 東二局、小瀬川白望の親番だ。配牌が開始され、大星淡も牌を並べていく。絶対安全圏が正常に作動した。再びの聴牌、連続W立直の準備が整った。後は宣言するだけだ。

「リーチ!」

(『生意気な1年坊め、お前を懲らしめてやる』……あなたは、きっとそう思う)

 

 

 

 現状は傍観者であった。鶴田姫子は、大星淡と小瀬川白望の意地の張り合いに、何ら関与することができなかった。

(部長、今日はこん二人には勝てんかもしれん。私は覚悟ん足らんやった。自分ん力だけで闘うなんて考えもさんやった。いつも部長ん側におってほしいて思うとった)

 昨日の白水哩の言葉が思い起こされた。自分達は逃げていた。個の力量不足を認識することを拒んでいた。そのとおりであった。目の前で繰り広げられている現実が、姫子にそれを教えていた。

(そうばい……私は部長に甘えとったんや)

 姫子の手牌は、淡の力の影響で五向聴であった。すでに3巡目であるが、一歩も手が進まなかった。

(私は、ずっと部長ば追いかけとった。強う曲がらんそん姿に憧れ、真似ばっかいしとった)

 淡が3回目の山の角を曲がる直前に暗槓をした。団体戦で対戦校を恐怖のどん底に陥れた得意のパターンだった。

(部長……私は来年もあるんや。こん二人ん負けんぐらい力ばつけて再戦したらよか。ばってん、部長は今年ん最後。だから今日は……部長ん為に闘う……)

 大星淡が牌を倒し、裏ドラの確認をする。当然のように乗っていた。

「ツモ、W立直、門前、ドラ4.3000,6000」

 親番を流し返す強烈な反撃であった。白望の表情も少し変わっていた。

 姫子は手牌を倒し、投入口に流し込んだ。

(決して諦めん、上がろうとすっ強か意志。そして必ず届くちゅう気持ち……)

 姫子は、その言葉を何度も何度も繰り返していた。

 ――東三局が始まり、配牌を終えた。平和、断公九の二向聴、淡の絶対安全圏は、とりあえず回避した。

(部長……これが私の選択ばい)

 自摸番が回ってきた。姫子はその牌に触れる前にコミットした。

(リザベーション……4)

 虚空から鎖が伸びて両手両足に絡み付く。その苦痛に姫子はうめき声を上げた。

(お願い…届いて……)

 

 

 個人戦総合待機室 宮守女子高校

 

 対局室 ルームB

  東家 三上寛子(南北海道代表 3年生)

  南家 森垣友香(兵庫代表 1年生)

  西家 宮永咲(長野代表 1年生)

  北家 姉帯豊音(岩手代表 3年生)

 

 辺りがザワザワしている。皆、豊音の打ち筋に不安心を掻き立てられていた。東一局は流局であった。“魔王”の支配ではなかった。なにか得体のしれない力が作用していた。だれも聴牌できずに、ただ親が流れた。

「先生……これが、羅睺ですか?」

 異様な雰囲気であったが、臼沢塞にはなにがどうなってるのかが分からなかった。

「豊音以外の面子は、こう思ってるだろうねえ、なぜこうも裏目るのかってね」

「裏目る?」

「麻雀は2択になることが多い……それがすべて裏目ったらどう思う?」

「!」

 画面上には森垣友香の手牌が映し出されている。今、熊倉トシが言った局面であった。【二萬】【四萬】【六萬】のリャンカン形から、友香は【六萬】を打牌した。しかし、次の自摸牌は【五萬】だった。あの宮永咲でさえもそうだ。二つの搭子の落としたほうが、次巡で繋がっていた。

「これが……本当の豊音ですか……。まるで、天江衣の一向聴地獄」

「そうだね、二人はよく似ている……」

 咲が槓をした。観衆からは「おお」という声が上がる。

「これは確認だろうね。羅睺の力が王牌まで及ぶかどうかの」

「繋がりました。豊音は王牌を支配できない?」

 トシはそれには答えなかった。しかし――

「天照大神(アマテラスオオミカミ)って知っているかい?」

 と、見当違いの質問を始めた。

「日本神話の神様ですか?」

「それじゃあ月読命(ツクヨミ)は?」

「同じです。夜を統べる神様」

「天照大神は太陽、月読命は月の神格化だよ」

 エイスリン・ウィッシュアートがきょとんとした顔をしている。

「エイちゃんゴメンね、後で説明するからね」

「ウン」

 トシが笑いながらエイスリンを撫でている

「それじゃあ、須佐之男(スサノオ)とはなんだと思う?」

 塞に向き直って、トシが聞いた。

 実に難しい質問であった。三神の一人である須佐之男は、なんの天体の神格化かはっきりしていない。

「いいかい、須佐之男は高天原で粗暴を繰り返し、天照大神はそれを恐れて天の岩戸に隠れてしまった」

「日食……まさか……須佐之男は羅睺ですか?」

「そういう説もあるのさ」

 東二局も流局で終わった。ざわめきが大きくなった。だれもが“魔王”の支配が破られているのではないかと考えていた。

 だが、それだけでは“魔王”には勝てない。彼女の暴虐無人な火力に匹敵する攻撃力が、豊音にも必要であった。

「豊音は上がれないのですか?」

「次は宮永咲の親番だよ」

「……」

「さっきの話だけどね、須佐之男はある怪物を倒したはずだよ」

「!!!」

 そうか、そういうことか。勝てる。豊音は、宮永咲を倒せる。

「須佐之男の倒した怪物は……八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」

 

 

 龍門渕高校 麻雀部部室

 

「透華……豊音はコクマに出るのか?」

 天江衣がTV画面を見ながら質問した。龍門渕透華は、情報参謀ともいえる沢村智紀を見ている。

「間違いない、姉帯豊音、小瀬川白望は岩手のメンバーに選抜される」

「衣はどうかな、選ばれるか?」

 予想外の言葉に、透華達は顔を見合わせる。

「衣、あなた出場しますの?」

「確認したい……前に言ったと思うが、豊音は衣の天敵になった」

「羅睺……ですの?」

「見ろ透華、現れているぞ。三つの目に三つの顔、頭には九匹の蛇……羅睺だ」 

 透華だけではなく全員が画面を凝視していた。だが、羅睺の姿が見えているのは衣だけであった。

「これは……」

 智紀がなにかに違和感を感じ、困惑の声を上げた。東三局4巡目、森垣友香の自摸が映し出されていた。

「気がついたかトモキー、この局は選択が裏目にならない。普通に手が繋がっている」

「姉帯さんが攻勢に出た?」

「羅睺の暗示は疑念だ。前2局の流局で、咲たちにはそれが浸透している、自分の選択に自信が持てないはずだ。豊音はそれを待っていた」

「咲は、負けますの?」

 不満げに透華が言った。天江衣はそれには答えなかったが、7巡目の豊音の自摸動作時に、小さな声でつぶやいた。

「豊音……恐れるな。咲なら……お前を解放してくれる」

 

 

 対局室 ルームB

 

 信念と不信の中間、そのどちらでもない状態、それが疑念だ。姉帯豊音の属性である羅睺は、それを相手に植え付ける。三上寛子、森垣友香、宮永咲の3人はそれに囚われ、自身の選択に常に疑いを持ってしまう。

 東三局8巡目、豊音は有効牌を引いて聴牌した。

【三萬】【三萬】【三萬】【三筒】【三筒】【三筒】【三索】【三索】【三索】【四索】【四索】【六索】【七索】

 まさに羅睺であった。三つの目に三つの顔、そして――

「リーチ」

 九匹の蛇、つまり羅睺は、次巡での和了が確定している。

 宮永咲が笑っている。団体戦のオーラスで見せたほどの凶悪さはないが、それでも強烈なインパクトだ。

 9巡目に突入した。咲が笑みを浮かべたまま自摸切りした。

 豊音の自摸番、長い手を伸ばして【八索】を引き当てた。

(2度目の羅睺和了……今回は後悔しない)

 牌を倒した。今ここに羅睺が具現化したのだ。

「ツモ、立直一発、門前、断公九、三暗刻、三色同刻――」

 豊音は裏ドラを確認する。

「!」

 【二筒】、ドラが送り込まれていた。“魔王”は死んではいなかった。

「――ドラ3。6000,12000です」

 一万点棒と千点棒が2本、あらかじめ準備していたかのように豊音の前に置かれた。それをボックスに収めながら、豊音は“魔王”に問いかける。

「これからですか?」

「はい、これからです」

 初めて出会った、本気で闘っても壊れない相手。豊音は、その宮永咲に感謝していた。

(夢のようなめぐり逢い。私は……きっと今日の為に生きてきた)

 東四局、豊音の親番だ。親の和了を許さない“魔王”の反撃は、おそらく熾烈を極めるだろう。

 

 

 対局室 ルームF

 

 鶴田姫子の額から汗が一筋流れた。手足に繋がれた鎖が、姫子の体を引き千切ろうとギリギリと音を立てている。その苦痛に堪えるのが精一杯で、勝負に集中できていなかった。

 東三局8巡目、自摸牌は【四筒】、持っていた順子につながり聴牌した。だが、雀頭2個のシャボ待ちになり、平和が消える。

(リー自摸で一発か裏ん乗れば4翻……)

 コミットした4翻に手が届く、この局は面子の自摸も良さそうだ。先行立直で気勢をそぐのは間違いではない。姫子の弱気は、そんな選択をしようとしていた。

 姫子は思い直し、歯を食いしばりながら【四筒】を自摸切りした。

(部長なら……こがん選択はせん)

 コミットするとは、どういうことかを考えた。責任ある約束。4翻で上がるという意思表示に、不確定要素である裏ドラを含めるわけにはいかない。苦しみから早く逃れたい。当たり前の感覚だが、リザベーションでは許されない。それは責任の放棄につながるからだ。

「リーチ」

 大星淡の立直。団体戦準決勝で闘った相手だ。新道寺女子高校は白糸台高校に敗北したが、個人的な得点で姫子は淡を上回った。とはいっても、今の彼女はあの時とは別人だ。精神的にも技術的にも進化を遂げている。やはり宮永咲戦が影響したのだなと思った。

(自分ん本質ば見せつけられた対戦……)

 姫子も昨日のそれを思い出していた。リザベーション・ディレイを破られ、個人の力ではどうにもならないと自覚させられた闘い。それは恐怖でもあり希望でもあった。

(“魔王”の恐怖ば克服した者は……彼女に希望を見出す。大星のように……そして私のように)

 世代は変わる。全高校雀士の倒すべき目標は“絶対王者”宮永照から、彼女の妹である“魔王”宮永咲になりつつあった。姫子の相手は、言わずもがな宮永咲だ。

 親愛する白水哩は、口には出さないものの打倒宮永照を胸に納めていた。自分には来年もあるが、哩はこれが最後なのだ。

(今日は、部長の為に……)

 9巡目、姫子はゆっくりと手を伸ばし、自摸牌を掴んだ。

 【五筒】、しかも赤ドラであった。聴牌、上り牌は【三筒】と【六筒】。

 平和、断公九、ドラ1の3翻、自摸で和了ればコミットをクリアする。姫子は不要牌を打牌した。

「う……」

 鎖の力が強くなる。姫子から苦痛の声が漏れた。

『本当に上がれるのか? お前のような臆病者がそんなに強い意志を持っているのか?』それを聞かれていた。

 姫子は答える。

(私は……もう臆病者ではない……)

 姫子の自摸番が回ってきた。僅かに俯き、山を睨みつける。鎖の強い力に反抗し、手を伸ばす。

(部長ぉー!)

 指に伝わる感覚は当たり牌。姫子を引き絞っていた鎖が千切れ飛んだ。

(リザベーション……クリア)

 姫子は自摸牌の【三筒】を表にして置き、手牌を倒した。

「ツモ、門前、平和、断公九、ドラ1。1300,2600」

 姫子は肩で息をしていた。リザベーションがこれほどまでのものだとは思わなかった。そして、この結果が、姫子の愛する白水哩に伝わることを、目を閉じて願っていた。

 

 

 対局室 ルームH

 

 気もそぞろとは、こういうことをいうのだろうなと白水哩は思っていた。鶴田姫子が気になり、哩は現在最下位だ。面子には佐々野いちご、小走やえ、古塚梢、それぞれの県を代表する打ち手が集っている、ぼんやりと打っていては、この結果も当然だ。

(大星淡に小瀬川白望……気合ば入れんば勝てんぞ、姫子) 

 姫子の結果次第では、この個人戦の意味が失われる。残念ではあるが仕方がなかった。そもそもリザベーション自体が不純な戦法であると宮永咲に教えられた。哩は、彼女の姉である宮永照に2度挑み、2度敗れ、その敗北を受け入れてしまったのだ。 

 哩は自虐的な笑みを浮かべた。

(自分では勝てん、だけん姫子に勝たすっ……不純ばい……なにもかも)

 “絶対王者”には勝てない、だったら、二人がかりではどうか? それがリザベーションの動機だ。敗北主義と言われても反論できない。

(……なんだ?)

 哩の頭の中に、眩しい光のヴィジョンが映し出された。そこから鍵が現れた。キーヘッドには8と刻まれている。哩はそれを掴む。姫子の想いが、滝のように体に流れこんできた。

(部長……リザベは不純じゃなか。私達にしかできんすばらしか力。だれも勝てん。だって、あん“魔王”ですら、直接ん対決ば避けたんやけん……)

(………………そうだ……そうだな姫子)

「白水さん?」

 小走やえが不思議そうに哩を見ている。そうであった。今は対局中なのだ。

「ああ、すまん考えごとをしていた」

 哩は自摸をしようとした。

「いや、そうじゃなくて……」

「涙を拭いてからにしんさい」

 佐々野いちごに広島弁で注意された。気がつけば、頬や制服が自分の涙で濡れていた。ハンカチを慌てて取り出し、それを拭いた。

「なんか最後やて思うたら感極まって……」

 哩は嘘の言い訳をした。

「この卓は3年生しかいない。涙は最後まで取っておいてください」

 その嘘を見破ったのか、古塚梢が丁寧な忠告をする。

 哩はぎこちなく頷いて自摸を再開した。

 すでに南場に入っていた。愛しい下級生の鶴田姫子は哩に闘えと言っているのだ。

(よかよ姫子……これが2人ん最後ん闘い……燃え尽きっしかなか)

 

 

 インターハイ運営事務所 休憩室

 

 戒能良子は三尋木咏に呼び出されていた。昨日、藤田靖子と訪れた部屋とは別の場所を指定されていた。そこに入ると、咏が一人で長椅子に座り、TV画面を睨んでいた。

「こいつはなんだい?」

 映し出されているのはルームBの姉帯豊音であった。

「羅睺(らごう)ですね」

「ふーん、それって戒能ちゃんのなんとかってのと同じ?」

「似たようなものです」

「この自摸のバラつきは姉帯の仕業かい?」

「バラつかせているのは打っている本人ですが……。疑念でしょうか? それが羅睺の力だと思います」

「どうなる……?」

「解りません」

 良子は咏の隣に座った。

「要件を聞いてもいいですか?」

 良子は、なぜ一人だけで咏に呼ばれたのか見当がつかなかった。

「アフター・インターハイさ」

 良子の口真似をしているのだろうが、発音が良くなかった。

「After Inter-High school Championships?」

 良子のネイティブな発音に、咏が気まずそうな顔になった。

「このインターハイは、これからの麻雀を変える。だから私達も準備が必要なのさ」

「どのパターンでですか?」

「小鍛治健夜、宮永照、宮永咲のトライアングルが完成したとして……」

「最悪のパターンですね」

「最悪で考えるのが一番賢いやりかただよぉ、知らんけど」

「……それで?」

 咏が扇子を取り出し、パタパタと扇いでいる。

「トライアングルは凶悪すぎる……だからこちらもそれなりの対抗手段がいる」

「分かりました……人の話ですね?」

「……頭の回転が速いねえ、藤田にも見習ってほしいもんだねぇ」

「この世代は突出しすぎている。奪い合いは避けたいと?」

「“この世代”なんて言うと、戒能ちゃんだって入っちゃうけどね。そのとおりだよ、私にはほしい人材がいるのさ」

「言ってみてください」

 扇子をたたみ、着物の袖に入れる。咏は迷うことなく3名の名前を挙げる。

「辻垣内智葉、福路美穂子、原村和」

「辻垣内はプロ志望ではありません」

「指導者としての適性もあるけどね、彼女はプレイヤーへの未練があるのさ」

 自信満々な態度だ。辻垣内智葉を自分の陣営に引き込む目論見があるのだろう。

「原村ですか……」

「バッティングした?」

「ええ、宮永咲が生き残ると仮定したならば、彼女は必要です」

「ちなみに……」

 咏が探るように質問した。

「まだ決めていませんが、原村和と大星淡が軸になるでしょうね」

 それを聞いて咏がうんうんと頷いている。

「戒能ちゃん……あんた小鍛治さんと打ったことあるのかい?」

 突然の問いかけ、咏の表情は真剣なものに変わっている。

「残念ながら……」

「強いというレベルではないねえ、だから現実味があるのさ」

「現実味?」

 咏がTVを指さす。そこには藤田靖子が福与恒子と映し出されていた。

「この藤田の阿保が言った“ニュー・オーダー”さ」

「New Order……小鍛治さんはそれを?」  

「荒川憩や天江衣は藤田が抑えるだろう? もしも、藤田が小鍛治さんと同調したら」

「なるほど……」

「熊倉のばあさんや愛宕さんのように対抗軸になるか、小鍛治さんに迎合するしかない。戒能ちゃん、あんたはどっちだい?」

「……」

 横目で覗かれながらの質問。良子は答えられなかった。現実味に温度差があったからだ。良子はこう考えていた。宮永咲が生き残る可能性は皆無だと。

 

 

 個人戦総合待機室 宮守女子高校

 

 待機室のざわつきは増していた。東四局6巡目、姉帯豊音の三倍満のパターンが継続されていた。“魔王”の支配下では、和了が不可能とされている親番で、二向聴まで手を進めていた。ただ、前局との違いも存在していた。豊音の手牌は3の三色同刻ではなく、6の三色同刻であった。

 

 

『ふ、藤田プロ……これ、ど、どうなっているんですか?』

『……分からない、3の倍数ならいいのだろうが……』

『6の三色同刻ですね。前局は9巡で和了しました。ということは、今回も?』

『可能性はある……しかし、この対局は異様すぎる』

『宮永咲選手もおとなしいですね』

『役がないが二向聴……なにを狙っている?』

  

 

「藤田プロには羅睺が見えていないんですね?」

「靖子ちゃんは正統派だからね。見える見えないにかかわらず、彼女は強いよ」

 画面では姉帯豊音が7巡目の牌を自模った。一向聴になったが、塔子が二つあり、どちらかを落とす選択肢が発生していた。豊音は僅かに考えて【二索】を切った。

「……」

 臼沢塞は嫌な予感がしていた。前回はこのような二択はなかった。

 8巡目、羅睺が正常に機能していれば、ここで聴牌のはずだ。しかし――

 豊音の自摸牌は【一索】、完全に裏目っていた。

「先生……」

「豊音……騙されるな……それは計都(けいと)ではない。宮永咲はお前の模倣をしているだけだ……」

 熊倉トシが、届くはずのないアドバイスをしている。豊音を信じているのか、表情は変わらない。

 だが、突然、彼女が驚愕の顔になった。

「模倣……模倣だって……?」

「先生!」

 塞の呼びかけに、トシが顔を向ける。その目は落ち着きなく動き回っていた。

「勘違いをしていた。宮永咲のベースは宮永愛ではない……」

「……」

「まだ……我々は勝てない」

「……なぜですか?」

 トシが力なく崩れる。まるで絶望に身をよじるかのように。

「アルゴスの巨人……百の目を持つ怪物……それが、宮永咲のベース……」

 塞は震えていた。それほどまでにトシの言葉は衝撃だった。

「百の目を持つ巨人……ウインダム・コール……」

 

 

 個人戦総合待機室 千里山女子高校

 

(なんという奴だ……宮永愛。お前は……娘を“巨人”のコピーに仕上げたのか)

 愛宕雅恵はわなないていた。恐怖ではなかった。怒りでもなかった。“巨人”を倒すという目的の為に、自分の娘でさえも犠牲にする執念。それに怯えていたのだ。

(露子……答えてくれ。私は圧倒されている。アイ・アークダンテに呑まれている。教え子たちに道を示さなければならない。私は……どうしたらいい)

 若くして他界した親友の松実露子。彼女が学生時代に雅恵に何度も言っていたことがあった。

(『無理しないで、雅恵ちゃんが一人で悩む必要はない。私がいるでしょ』)

(そうやなあ……お前がいてくれたら私は……)

 だれかが自分を揺すっている。

「おばちゃん! どないしたん?」

「浩子……」

「浩子ちゃう、どないしたんですか、固まってもうて」

 姪の船久保浩子が心配そうに見ている。

「残念ながら……今日は宮永姉妹には勝てない」

「……」

 雅恵は震える自分の手を3人に見せる。

「怖うてこないになってもうた……」

「監督……」

 笑っては見せたが、須水谷竜華にフェイクを見抜かれた。こういう感覚は相変わらず鋭い。

「ウインダム・コールだ……宮永咲は彼のコピー」

「プラマイ0……“巨人”の力……」

 二条泉が青ざめた表情で言った。

「……怜、セーラ」

 親友の二人を竜華は案じている。それはそうだろう。“巨人”との闘いがトラウマになり、廃業した雀士は数知れない。

「午前中は当たらんことを願うまでや」

 

 

 都内マンション 605号室

 

 宮永愛の自宅は、羽田空港近くのマンションであった。都内にしては広く、3LDKの間取りで、宮永照との二人暮らしではスペースを持て余し気味であった。愛は日課の観葉植物への水やりを終え、ソファーに座ってテレビをつける。自分の娘の一人、宮永咲が映し出された。

 宮永愛は、それを眺めていた。なんの感情も表にせず、ただ眺めているだけであった。

 ――15分ぐらい経過した頃、愛は目を細め小さくつぶやいた。

「咲……」

 瞬きもせず、TVの宮永咲を見つめている。

「決して負けるな……それが、照の為だから……」

 愛はリモコンを操作してTVを消した。遠くで飛行機の発着音が聞こえている。

「許しは請わない。私達親子は……もう戻れない」

 

 

 対局室 ルームB

 

(これは……計都?)

 姉帯豊音は、羅睺の対極にある計都の話を思い出していた。九曜の最後の天体である計都は、やはり日食月食を引き起こす星であった。疑念、猜疑心の象徴で、力も羅睺とほぼ同じ、姿形もよく似ていた。羅睺をたばかることができるもの、それは計都しか考えられなかった。

(宮永さんの裏をかいたつもりだった……)

 “魔王”に同じ手は通じない。熊倉トシからそう助言されていた。だから豊音は6の三色同刻を作った。【三萬】がドラ表示牌として表になっており、1巡目で宮永咲はそれを捨てていた。3の三色同刻を消す為の戦法だ。

(3にこだわってくれると思ったんだけど……読まれていた)

 9巡目の自摸牌を引いた。【四索】で聴牌したが、立直は掛けられない。羅睺にとって9は聖なる数字で、それを越えると急速に力を失うからだ。それは羅睺の限界とも言えた。

 咲の自摸番だ。ここで上がられると、豊音の疑念は深まる。宮永咲は計都の属性を持っているではないかという疑念だ。咲は自摸牌を手の中に入れて、牌を並び替えている。

「カン」

 暗槓、晒された牌は【九筒】、新たにめくられた槓ドラは【五筒】。豊音の背筋が凍りついた。すべては咲に操られていた。6の三色同刻は羅睺が作ったのではなかった。宮永咲に作らされていたのだ。8巡目に裏目ったのはそれが理由だった。

 咲は嶺上牌をめくり、手牌の横に置いた。

「ツモ、門前、嶺上開花。1000,2000」

 光のない目、感情の乏しい表情、咲が豊音を見ている。

(種明かしをする必要はない……だけどあなたはそれをした)

 試合開始前の咲の言葉を思い出した。

(『今日は手加減しないでください』)

 すべてを見せろ。“魔王”はそう要求していた。

 咲の背後に、恐ろしい怪物が姿を現した。八つの首を持つ蛇、いや、蛇ではなく龍が頭を揺らして、豊音を16個の目で睨んでいる。

(……おいしいお酒を準備してあります。すべて飲み干して……私に討たれてください)

 南一局、八岐大蛇討伐戦が開始された。まずは酒を飲ませせて動きを遅くする。

(お見せします……これが羅睺の切り札です)

 

 

 個人戦総合待機室 清澄高校

 

 ルームBの闘いに、観客の声は少なめであった。最初はザワザワしていたが、この異質な展開に気圧されていた。観客だけではなかった。竹井久の目には、宮永咲と姉帯豊音の対決に、同卓の三上寛子と森垣友香も、被害の飛び火を恐れ、萎縮しているように見えた。

「部長……咲ちゃんの対局、なんか怖いじぇ……」

 片岡優希に制服の袖を掴まれた。仲間でさえもこうなのだ。久は、三上寛子と森垣友香に心から同情していた。

「なんじゃ、これは!」

 染谷まこも、怯えを大きな声として表現していた。

 画面に映し出されている咲の手牌は九種九牌であった。

「咲の奴は……降りるかのう?」

 九種九牌のオプションは2つしかない。流局を宣言するか(鳴かれると無効)、国士無双を狙うかだ。まこの質問。咲ならどうするか?

(九種九牌ではない。九種十牌、【中】が二枚ある)

 久は他家の手牌を確認した。【中】は親の寛子が持っていた。

(……まさか)

 長野団体戦決勝の天江衣戦を思い浮かべた。咲は三連続槓で一気に形勢を逆転した。

「無理じゃ……流局しないなら、国士の3%に賭けるしかない。衣ちゃんの試合とは違う。九種九牌からは普通に上がれない」

 記憶の雀士染谷まこが、脳にあるデーターベースからはじき出した答えだ、きっと間違いない。ところが――

 咲は、親の第一捨て牌を鳴いた。「ばかな!」とまこが叫ぶ。久は興奮していた。もし咲が嶺上牌を活用して手を組み上げていけば、最短8巡でこの勝負は終わる。

(咲……あなたは本当に“魔王”なの)

 

 

 対局室 ルームB

 

 姉帯豊音は混乱していた。羅睺が九種九牌を強制した宮永咲は、流局も国士無双も選択せずに、【中】を副露していた。

 豊音に自摸の順番が回ってきた。この局も9巡で和了可能。三色同刻のような高得点ではないが、九種九牌を送り込まれた相手には、絶対に届かないという絶望感を与えられる。多様性のある羅睺の最終モードだ。

(この点差……流局はしないと思ってたけど、国士も狙わないなんて)

 豊音の引いた牌は【北】で自風牌の対子ができた。まだ一向聴だが、この局は点数ではなく上がることが重要なのだ。

 上家の咲が、山に手を伸ばす。

「カン」

 “魔王”の目が鈍く光り、【中】を加槓した。嶺上牌を取り手牌に入れ、新規のドラ牌をひっくり返す。

【発】

(ドラ4……まさか……)

 豊音の記憶にあるシーンであった。宮永咲は、団体戦2回戦で石戸霞の絶一門を嶺上牌を駆使して攻略していた。

 3巡目、森垣友香は慎重に牌を自模る。いつもの豪快さが消えていた。

 捨て牌は【西】。

「ポン」

(また……。そんなことは不可能)

 豊音は理解した。咲は嶺上牌で対子を作り、次巡に副露、そして加槓。それを繰り返し、豊音に先行しようとしている。

 “魔王”の圧力に、豊音の血の気が引いていった。

「カン」

 再びの加槓、咲の腕が龍の首のようにうねる。嶺上牌を取り、追加ドラをめくった。

【南】

 八岐大蛇の八つの首が一斉に豊音に襲いかかった。

「!」

 全身を鋭い牙で噛み付かれた。豊音の服は破れ、血だらけの満身創痍になった。

(なぜ殺さない……? 手加減無用と言ったはずだぞ宮永!)

 豊音は顔を上げ、怒りに任せて咲を睨みつける。

「手加減なんてしていません……」

 咲はそう言って、三上寛子の捨て牌の【一萬】を副露した。

「ポン」

 漆黒の目で豊音を睨み返す。そうだ、咲は本気だった。

(『もっとうまい酒を用意しなければ今度は殺す』)

 その目はそう言っていた。

 豊音は、瞼を閉じて心を落ち着かせる。

(いいよ……残り4巡、お酒が効いてくるのはこれから。私は羅睺を信じる)

 6巡目、予定されていたように咲は加槓した。多分、彼女は一向聴まで手を進めたはずだ。豊音も有効牌を自模り聴牌した。しかし、豊音は9巡まで上がることができない。その点では、咲が有利であった。

 7巡目は咲に動きがなかった。ポンができなかっただけかもしれないが、不気味な動きだった。

 そして、運命の8巡目がやってきた。論理的には咲の和了は可能だ。ドラ8の三倍満以上、恐らくは役満だろう。

 咲が自摸牌を引く。

「!」

 豊音は自分の目を疑った。咲の背後で凶悪な形相を見せていた八岐大蛇がいきなり消えた。

(なんなの……なぜ、八岐大蛇は消えたの?)

 咲は上がらなかった。捨て牌は【三萬】。その牌にどのような意味があるのか分からない。しかし、豊音は、この打牌があらゆる秩序を乱すものであると感じていた。

 9巡目――咲は和了した。それは、豊音の感じた“カオス”の投下であった。

「ツモ、対々和、三槓子、中、西、ドラ8。8000,16000」

 驚愕の打ち筋に、豊音は身震いをした。羅睺は“魔王”に打ち砕かれ、完全なる敗北を喫してしまった。豊音は口を引き結び、悪夢のような現実を直視していた。

「……なにこれ!」

 信じられない異常事態に気がついた。豊音は持っていた点棒を床にばら撒いてしまった。三上寛子と森垣友香も同様だ。口を半開きにしながら、咲の晒した牌と河を見比べている。

「私は……四槓子を上ることができません」

 咲は、それが節理であるかのように言った。理解不能、まったくもって理解不能であった。

 

 

 個人戦総合待機室 白糸台高校

 

『大逆転! “魔王”宮永咲の数え役満炸裂だー!』

『……』

『あれ……なんか私浮いています?』

『……8巡目の宮永咲の手牌映像があったら再生してほしい』

『え?」

『……』

 会場の大型モニターに衝撃の映像が映った。8巡目の咲の手牌には、確かに【三萬】が4枚あった。

『こ、これは……四槓子ですか?』

『そうだ……大会ルールでは、四つ目の槓が揃った時点で四槓子が成立する。彼女はそれを拒否した……』

『役満で上がると、三上選手が飛びそうになるからでしょうか?』

『……さっき宮永が数えで上がったって言ってなかったか?』

『……』

 

 

 会場のざわめきはどよめきに変わった。出現確率が最も低い役満それが四槓子だ。宮永咲はその上がりを放棄したのだ。だれだって仰天する。 

 亦野誠子が画面と弘世菫を交互に見ている。答えを知りたい様子だ。

 菫は、顔の前で手を組み、それを口に当てた。

「上がれないのさ……咲ちゃんは四槓子を上がれない」

「……理由はなんですか?」

「分からない……だが、照がそう言っていた」

「それが〈オロチ〉の謎ですか?」

「ああ……ただし、その謎は解けていない」

 渋谷尭深は露骨に怯えていた。震える声で菫に質問をした。

「淡ちゃんはその為に槓を……?」

 菫は頷く。

「効果は不明瞭だがそのとおりだ。淡の積極的な槓はその為に行っている」

「王牌ですか?」

 菫は答えを少し躊躇った。話が核心に触れすぎている。だれかが耳をそばだてているかもしれない。ここは曖昧な返事をするべきだ。

「そうだな……」

 真の答えを、心の中で後輩に諭した。

(尭深、誠子……宮永咲は王牌をすべて支配できない。いいか、来年はお前たちがこの怪物に苦しめられる。それを、学び取れ)

 

 

 龍門渕高校 麻雀部部室

 

「見えたぞ透華……ようやく咲の底が見えた」

 天江衣は笑っていた。これまで〈オロチ〉に恐怖していた衣だが、この事例に、なにか光明を見出しているようであった。

「四槓子を上がれない……それははっきりしましたわね」

「咲の戯れではない……なにか意味があるのだ。それが咲の弱点」

「……久しぶりに見ましたわ」

「なにがだ?」

 龍門渕透華が笑いながら答える。

「悪い顔で笑う天江衣ですわ」

 

 

 個人戦総合待機室 臨海女子高校

 

「ネリー……これに気がついていたか?」

「……はい」

「そういうことか?」

「そういうことです」

 麻雀部監督のアレクサンドラ・ヴィントハイムとネリー・ヴィルサラーゼは、まるで暗号のような会話をしていた。

「そういうこととは、なんデスカ?」

 メガン・ダヴァンが焦れたように言った。はっきりしろというクレームだ。

「48枚だよ。宮永が見えている牌は58枚ではない」

「……それが分かレバ、凄い進歩だと思いマスガ?」

 アレクサンドラは腕組みを解いてメガンに体を向けた。

「そのとおりだメグ。しかしな、それだけの話さ」

「……ナルホド、根本的な対策にはならナイ」

 メガンは隣に座っているネリー・ヴィルサラーゼの肩を叩いた。

「なぜ上がれないのか? その謎こそが〈オロチ〉の本質だよ」

「ネリー、アナタは……」

 メガンはそこで口を閉じた。“そういうこと”の意味を理解したからだ。

 

 

 対局室 ルームF

 

 ルームFは、全対局が終了し、全員で起立の礼をしていた。

「ありがとうございました」

 とはいいつつも、大星淡の心中は穏やかではなかった。

(危なかった……後半の小瀬川さんと鶴田さんの追い上げ。紙一重だった)

 

 

 ルームF 試合結果

  東一局      小瀬川白望  8000点(2000,4000)

  東二局      大星淡   12000点(3000,6000)

  東三局      鶴田姫子   5200点(1300,2600)

  東四局      小瀬川白望  4000点(1000,2000)

  南一局      大星淡    7800点(2600オール)

  南一局(一本場) 秋葉葉月   2300点(大星淡)

  南二局      鶴田姫子   7900点(2000,3900)

  南三局      小瀬川白望  8000点(2000,4000)

  南四局      大星淡    1500点(400,700)

 

 最終得点

  大星淡    33700点

  小瀬川白望  30800点

  鶴田姫子   25800点

  秋葉葉月    9700点

 

 

 頭を上げると、小瀬川白望が淡を見ている。

「リベンジできた……?」

 相変わらずダルそうな口調だ。しかし、顔は微妙に笑っているように見えた。

「……ええ、まあ」

 もうそんなことはどうでもよかった。淡は、小瀬川白望の強さに驚嘆していた。

「また対戦できるといいですね」

「ダル……」

 白望はその場を動かない。淡は空気を読んだ。

(そう……生意気なことを言ってほしんだね)

「今度は小瀬川さんがリベンジする番だからね。いつでも受けるよ」

 白望がはっきりと笑った。普段笑わない人が笑っているの見ると、淡は嬉しくなる。そう、あの宮永照のように。

 

 

 対局室 ルームB

 

 ルームB 南三局までの結果

  東一局      流局(聴牌無し)

  東二局      流局(聴牌無し)

  東三局      姉帯豊音  24000点(6000,12000)

  東四局      宮永咲    4000点(1000,2000)

  南一局      宮永咲   32000点(8000,16000)

  南二局      三上寛子   8000点(宮永咲)

  南三局      森垣友香   8000点(姉帯豊音)

 

 現在の得点

  宮永咲    41000点

  姉帯豊音   31000点

  森垣友香   18000点

  三上寛子   10000点

 

 

(31000点……)

 姉帯豊音は自分の持ち点を見て思った。

 宮永咲は苦しくなるとプラマイ0に逃げる。そう熊倉トシが言っていた。その対象は、本人であったり、面子全員であったりするわけだが、今回は自分のようだった。もちろん偶然なのかもしれないが、故意だとしても腹は立たなかった。

(強い……こんな強い子がいたんだ)

 すべてを出し尽くした。自分の闇である羅睺を解放して負けたのだ。悔いは残らない。

「カン」

 8巡目に咲が暗槓をした。決定的であった。逆転に高めが必要な豊音は、役作りに専心し、咲にフリーハンドを与えてしまっていた。

「ツモ、門前、嶺上開花。700,1300」

 試合終了のブザーが鳴る。

(衣さん……あなたの気持ちが分かりました)

 一昨日、龍門渕高校での練習試合、対局後の雑談時に天江衣は宮永咲について話していた。

(『豊音、私は自らの力の虜囚だった。断ち切ってくれる者を探して彷徨っていた。咲は、圧倒的な強さで、衣の願いを叶えてくれた。感謝している』)

 豊音もそうであった。自らの力の虜囚、繋がれたる鎖は自分の内部にあり、どんなにもがき苦しんでも切ることができなかった。

(感じる……私は解放された。鎖は……断ち切られた)

 礼を終えると、宮永咲が帰ろうとしていた。豊音は慌てて引き留める。

「宮永さん!」

「……はい」

 豊音はテーブル上のバッグから、色紙とサインペンを取り出した。

「サインお願いします」

「……団体戦でも――」

「だから個人戦って書いてください」

 咲の眉毛が下がる。豊音は笑顔で強引に色紙を渡した。

 咲は諦めてサインを書き始めた。

「……これで」

 弱り顔で色紙を返された。前と同じく真っ直ぐな字で“個人戦 宮永咲”と書いてあった。

「ありがとうございます」

 豊音は大喜びでお辞儀をした。咲も軽く返礼し去っていった。

 色紙をもう一度見直す。右下に小さな文字でコメントが書かれていた。

 “麻雀って楽しいですよね”

「……うん……うん」

 なぜかは分からなかった。目から涙が溢れ出ている。けれどもちっとも悲しくなかった。生まれて初めての経験だ。笑いながら泣く。豊音はしばらくの間、その不思議な感覚を楽しんでいた。

 

 

 個人戦総合待機室 千里山女子高校 

 

「怜……セーラ!」

 清水谷竜華がモニターを見て叫んだ。あの竜華がうろたえるのだ。なにを見たのかは想像がつく。

(私の因果応報はまだ続くのか……)

 愛宕雅恵は心を決めて竜華と同じものを見る。

「……是非もない」

 それは個人戦2回戦の対戦表であった。ルームAでは、園城寺怜と“絶対王者”宮永照が、ルームGでは、江口セーラと“魔王”宮永咲が同室になっていた。

「監督……」

 船久保浩子と二条泉が不安な顔を向けている。

「見ておけ」

「……」

「お前たちの先輩が、怪物にどう立ち向かうか、目に焼き付けておけ!」

「はい」

 教え子達に弱気を見せられない。無理をしてでも空元気を貫く。

(アークダンテの亡霊……その跳梁を許してはならない)

 しかし、その対抗手段は皆無であった。雅恵は途轍もない無力感にひしがれていた。

 


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