咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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20.絆

 インターハイ会場 医務室

 

 鶴田姫子の目に90度傾いた光景がぼんやりと見えていた。ひどく疲れていて(まぶた)を持ち上げるのがやっとの状態だ。自分は寝かされているらしいが、ここがどこであるかは見当がつかない。――視界にセーラー服姿の女性が映った。ショートボブのヘアスタイルで、姫子は彼女に見覚えがあった。

(だれやったかな……園城寺さん?)

 姫子はその女性が千里山女子高校の園城寺怜ではないかと思った。

 視界がだんだん開けてきた。よく見ると隣には髪の長い胸の大きな女性もいた。彼女はよく知っている。清水谷竜華。団体戦で何度も闘った相手だ。間違えるはずはない。

(ここは医務室? うちゃ倒れてしもうたんやろうか……)

 怜は前半の宮永照戦で途中棄権していた。だとすると、自分もリタイアしたことになる。

 怜と目が合った。彼女は小さく笑い、遠くにいるだれかを呼んでいる。声は聞こえない。まだ、姫子の五感はそこまで回復していなかった。

 やがて、小さなペットボトルを持った花田煌が現れる。彼女が近づいてきてなにかを話しかけてくる。声は聞こえないが、その口の動きから水を飲むかと言っているようだ。

 姫子が頷くと、怜と竜華に背中を支えられ、ゆっくりと起こされた。煌はペットボトルを開けて、姫子の口に着ける。冷たい液体が喉を通り胃にとどいた時、すべての身体機能が回復した。

「試合は……?」

「終わりました。ああ、ちゃんと成立していますよ。姫子が倒れたのは試合終了後ですから」

「……」

 煌の説明を聞いても、姫子にはその記憶がない。東場はほとんどなにもできなかったのは覚えているが、それ以降はまったく覚えていない。

「安心してええで、あんたは哩さんにタスキをつないだから」

 怜が気怠(けだる)そうに話す。白水哩とタスキのキーワードが、姫子の記憶のスイッチを押した。

「部長……そうや。うちゃ最後に7翻ば上がろうとした……」

「上がったで。あんたは南二局に跳満を上がった。チャンピオンは阻止しようしとったけど、あんたはそれ打ち破った」

 感動したと言わんばかりに竜華が教えてくれた。そこで姫子の記憶が完全に戻った。そうだ。確かに自分は跳満を上がった。しかし、それには厳しい条件もついていた。

「……でも、三本場やったし」

 花田煌にインターハイ情報が表示されたスマホを渡された。

 ――そこには、姫子が望んでいたものが映し出されていた。

 

 

 インターハイ個人戦 第6戦 

  ルームA(対局中 現在:東一局)

   東家 黒井えり(富山代表 3年生)

   南家 宮永照(西東京代表 3年生)

   西家 白水哩(福岡代表 3年生)

   北家 佐々野いちご(広島代表 3年生)

  

 

「勝ったのですよ……姫子、あなたは勝ちました」

「でも……試合は始まったばかりだし」

「いいえ、チャンピオンは姫子を恐れていました。徹底的にマークしてあなたに上がらせないようにしていました」

「花田……」

「宮永姉妹は……ほかのだれよりも、あなたと部長の絆を恐れました。だから、結果はどうあれ、この試合が実現した時点で……あなたは勝ったのです」

 花田煌が涙ぐみながら話している。絶えず自分を気にかけてくれる同級生の言葉に、姫子の心が揺さぶられる。

「花田……あいがとう……」

「こちらこそ……人を信じることの大切さを教えてもらいました」

 竜華が力を緩め、姫子は再びベッドに横にされる。

「もうゆっくりしてもええで。あんたは十分闘うた」

 同じ宮永照を相手に壮絶な闘いをしてきた怜からの(ねぎら)いが、姫子に安らぎを与える。

「はい……」

 姫子は至福感(しふくかん)に包まれ目を閉じる。そう、あとは信じるだけで良いのだ。白水哩を信じるだけでいい。

(部長……がんばってくれん)

 

 

 対局室 ルームA

 

 そこにいないはずの鶴田姫子の声が聞こえた。か細い声で「がんばれ」と言っていた。

 白水哩は、心の中でそれに答える。

(姫子……任せときんしゃい)

 彼女の執念――いや、そうではない。姫子と哩の絆の力が、奇跡と呼んでも差し支えない出来事を作り出したのだろう。宮永照はリザベーション・ディレイの連続した時系列に取り込まれ、同じ南家からのスタートを強制されていた。

(どうすっかはあんた次第ばい……)

 姫子から渡された役満キーは南二局三本場でしか使えない。もちろんチャンピオンは百も承知で回避することだって可能だ。しかし、哩はそうは考えなかった。“絶対王者”宮永照は、昨年の団体戦で姫子のリザベーションを食い止めようとして失敗した。完璧を求める彼女にとって、それは看過(かんか)しがたいはずだ。

(あんたは妹には負けられん……そうじゃろう? チャンピオン)

 照の妹の宮永咲は、昨日の予選でリザベーションを破った。それは時間軸をずらすシステムそのものを破壊する想定外の手法であった。だが、今日は違う、リザベーションはすでに起動している。あとは、その条件が成立するかどうかの問題だ。

 ――東一局の12巡目まで進んだ。宮永照からのリサーチ受けながら、哩は手を進める。そもそも哩は引きの強い雀士であった。ただ、それは己のスタイルを維持できる場合のみで、極端な負荷がかかると、意外なほど脆弱(ぜいじゃく)になる。特に目の前にいる宮永照には、初対戦以来苦手意識を持っていた。

(照魔鏡は……もう未知ではない)

 昨日、風越女子高校の福路美穂子によって“照魔鏡”の謎が解かれた。それは哩にとってまさしく光明(こうみょう)であった。かつて自分の力量に絶対的な自信を持っていた哩は、宮永照に敗北してから、それに疑心暗鬼(ぎしんあんき)になっていた。“照魔鏡”の未知なる不安が、哩の心に影を作っていたのだ。

(見えるか宮永……こん手牌ん見えるか?)

 “照魔鏡”は脅威ではあるが未知ではなくなった。その意識変化が、哩の自信を復活させる。

「リーチ」

 哩は平和一盃口で聴牌した。赤ドラも一枚あり、一発ならば一気に跳満だ。宮永照が上りを放棄している東一局。前回までの哩ならば、他家に先駆けて上がらなければと、一種の強迫観念に駆られて打っていた。しかし、今は違う。必ず上がれるという自信が、哩の身体にみなぎっていた。

 13巡目。哩は自摸牌をつまみ、親指の腹で撫でる。当然のように当たり牌であった。

「ツモ。リーチ、一発、門前、平和、一盃口、ドラ1。3000,6000」

 これで勝負のできる環境が整った。このスタートダッシュがなければ宮永照とは闘えない。これから始まるのは“手札のフルオープンを強制されたスタッドポーカー”のようなものだ。よほどの物好きでなければ勝負しようとは思わない。

(あんたん妹ん教えてくれた……見たかとなら見せたらよか。勝てんていう現実ば見せたらよか)

 スタッドポーカーはディーラーが有利とされている。だが、ディーラーは手札が良ければ降りることができない。そう、宮永照は、負けると分かっていても勝負するしかないのだ。とはいえ、哩が不利なのは変わりがない。今獲得した12000点数を削りながらの試合運びになるだろう。ただ、勝負のポイントを間違えなければ、勝ち目がある。 

(勝負のポイントは……リミッターを解除させること)

 本大会で宮永姉妹はそれぞれ一度敗北している。宮永咲は神代小蒔に、宮永照は小瀬川白望に敗れている。白望は、照のリミッターを解除させる戦法であった。火力向上は恐ろしいが安定性を失い攻略できるという考え方だ。そして、白望はその正しさを実践して見せてくれた。

(宮永ん親番……少なか局数で止められれば、そんチャンスはある)

 南二局三本場の“ジャックポッド”を照はどうとらえるか? もしも、その場が実現したら、そこで勝負は終わるはずだ。その場合、持ち点が足りなければ、照は必ずリミッターを切るだろう。

(不純ではない……この絆の力の前には“絶対王者”も“魔王”も無力であることを証明する)

 

 

(愛宕さん。ここにもあんたの仲間がおるよ……目的を見つけたあんたの仲間が)

 佐々野いちごは、宮永咲に敗北し、悔し涙を流す愛宕洋榎の姿を思い出していた。あの気丈(きじょう)な洋榎が見せた涙が、いちごには衝撃であった。なぜならば、自分と洋榎との差が歴然としてしまったからだ。自分も宮永咲に負けた。完全敗北であった。決して勝てないと思い、負け勘定のできる相手として宮永咲を認定した。その絶望感を覚える強さに、大半の人間はいちごと同じ選択をするはずだ。だが、一部の人間は違う反応をする。その強さにすべての価値観が吹き飛ばされ、彼女を倒すこと自体が目的になってしまう者だ。

 強い雀士は、多かれ少なかれ、ランキングであるとか、知名度であるとかを気にする。もちろん、いちごもそうだ。アイドル的に扱われ、世間一般の注目度も高い。だからこそ、自分の価値を落とさぬように保守的になる。それは決して悪いことではないはずだ。

 しかし、いちごは、洋榎たちに身をよじるほどの嫉妬を覚えてしまう。

(その純粋さに……私は勝てない)

 それは麻雀の“あるべき姿”なのだ。強い者が勝ち、弱い者が負ける。負けた者は勝てるように努力する。そのシンプルな構図は、あまりにも純粋で美しかった。そしてその心は、自分も以前は持っていた。

(白水さん、あんたも同じじゃ。昨日の宮永咲戦から……あんたは変わった)

 東二局。いちごは自分の手牌を眺める。平和の二向聴で、勝負可能な好配牌だが無理をしない。自分の立ち位置は決まっている。飛ばされないこと。それが自分の価値を落とさない選択だ。

 白水哩は、目に見えるような気迫を放っている。その姿にいちごは唇を噛み締める。

(うらやましい……)

 羨望はすぐさま嫉妬に変わる。しかし、いちごには、その嫉妬心を表現する資格がなかった。それは放棄していたからだ。いちごは、照と哩との闘いに関与する資格を、東二局で放棄していた。

 

 

 インターハイ運営事務所

 

「戒能ちゃん、私と賭けをしないかい?」

 三尋木咏から突然の提案だ。戒能良子は迂闊(うかつ)な返事を避けるべきと考え、答えにワンクッション置くことにした。

「賭けるものはなんですか?」

「原村和」

 以前、アフターインターハイについて咏と話し合った。小鍛治トライアングル(小鍛治健夜、宮永照、宮永咲)が完成したとして、それに対抗できる戦力を仮定で組み上げた。実現の可否は別問題で、あくまでも仮定の話だ。その話の中で、良子と詠のメンバーに重複する戦力があった。それが原村和だった。

「それで? ベットすべきものは?」

 三尋木咏は、薄笑いを浮かべながら画面を凝視している。そこに映されているものは、対局室ルームDであった。

 

 

 インターハイ個人戦 第6戦 

  ルームD

   東家 宮永咲(長野代表 1年生)

   南家 春日千絵(新潟代表 2年生)

   西家 小笠原栄子(和歌山代表 3年生)

   北家 辻垣内智葉(東東京代表 3年生)

 

 

「もう一度聞くけど、戒能ちゃんはニューオーダーを受け入れる?」

「無意味な質問です。ニューオーダーは成立しませんから」

 日本の麻雀界の改革を目指すニューオーダー。その構想の基礎となる小鍛治トライアングルは完成しない。理由は簡単だ。宮永咲は神代小蒔によって抹殺されるからだ。良子はそのことに(わず)かの疑いも持っていなかった。

「だったら受けられるはずだよぉ」

「……」

「辻垣内智葉は、この対局で復活する」

「プレイヤーに残るとでも? 三尋木さんにしてはリスキーな賭け対象ですね」

「ふふふ……。それで返事は?」

 ちょうど辻垣内智葉の顔が映し出された。迷いが見える。しかしそれは、咏が言うような迷いではない。目の前にいるモンスターにどう対抗するかを迷っているのだ。彼女のプレイヤーとしての炎は、まさに風前の灯火(ともしび)に見えた。

「いいでしょう。リタイアに“原村和”をベットします」

「成立だねぃ。委員長、あんたが証人だよぉ」

 いきなり話を振られた大会本部委員長が迷惑そうに答える。

「本人の了解がない賭けは無効と思います」

「つまらない男だねぇ……」

 咏と委員長は、互いに相手を見下したような顔をしている。どちらが正しいかなど考えるのも馬鹿馬鹿しい話だが、賭けは成立している。戒能良子は思った。小鍛治トライアングルに対抗するには同等の戦力が必要だ。覚醒が間近い大星淡、そして原村和。もう一つの頂点は自分だ。

所詮(しょせん)は私も、霧島の人間か……)

 秩序の破壊は許されない。自分はニューオーダーなどという幻想を認めない。言葉にできない決意。戒能良子は、それを改めて認識した。

 

 

 対局室 ルームD

 

 宮永咲との対戦が決まってから、辻垣内智葉の頭の中で、ある設問への試行錯誤が繰り返されていた。

『攻めずに勝つ』

 ネリー・ヴィルサラーゼからの助言だ。今現在、この場を親として支配している宮永咲に勝つには、その方法しかないと言われた。

(なんという奴だ……上りがないのが分かっているのに……この呪縛感はなんだ?)

 この状態の咲は親では上がらない。ならば、ここで和了を狙うのは間違いではない。宮永照の東一局のように、その加点の有無で以後の展開に大きな影響を与えるからだ。

 ――智葉は8巡目の自摸牌を引く。よい牌が手に入った。これで一向聴。役はないが、赤ドラを含めてドラが3枚もあり、ほぼ跳満以上が確定している。

(これは私が引いているのではない……宮永に配られているのだ)

 咲の姉である宮永照は、智葉にプレイヤー引退を決断させた相手だ。三度の闘いで得た教訓は、『勝てない相手とは闘うな』であった。剣士としてならばそれは正論だ。命がかかっている勝負なのだ。死ぬような闘いはすべきではない。しかし麻雀は違う。負けても死にはしない。それを様々な理由をこじつけて麻雀に当てはめた自分を許すことができなかった。プレイヤーとしての辻垣内智葉はそこで死んでいた。だったら(いさぎよ)く身を引くしかない。それが智葉の選んだ道であった。

 宮永咲は姉に似ていない。むしろ真逆のように感じた。智葉は思った。宮永照の強さは、この妹がいてからこそのもの。また妹の凶悪さは、宮永照がいてからこそのものだ。二人は互いの影。我々は影を相手に闘っているのだ。有効な攻撃などあるはずがない。

(攻めずに勝つ……残念だが、答えはない)

 咲と目が合った。その光のない目で、智葉の心にシグナルを送る。

『この局は上がってもいい』

 智葉の自摸番が回ってきた。引いた牌で聴牌した。迷う必要はない、立直をかけて上がるべきだ。“魔王”もそれを許可している。

 しかし、智葉はそれを拒んだ。

「少し時間をくれ……」

 なにかが、なにかが智葉の心を動かした。『攻めずに勝つ』何度考えても答えが見つからなかった。だが、その設問にはもう少し幅があっても良いのではないかと思った。 

抜刀術(ばっとうじゅつ)……刀は(さや)の中に……攻撃は後の先の一太刀(ひとたち)のみ)

 それは辻垣内流抜刀術師範代 辻垣内智葉の出した究極の結論であった。殺気は鞘の中にあり、相手はそれを掴めない。攻めてきた相手に対し、初めて抜刀し後の先(カウンター)で倒す。それが抜刀術の神髄(しんずい)だ。

(ネリー……これを読んでいたか? いいだろう、やってみる)

 智葉は聴牌の状態のまま立直をかけなかった。そして10巡目の自摸和了も拒否した。

 

「ツモ」

 結局は15巡目での春日千絵の満貫和了で、東一局は終わった。

 

 ――続く東二局。今度は宮永咲も上がりにくる。

(こんなことなら、メグにやり方を聞いておくべきだった)

 智葉は苦笑いを浮かべて配牌を行う。理牌(りーはい)をしないでその位置を記憶する。13枚そろった時点でその手牌を伏せる。

 宮永咲を含め、全員が奇異(きい)な目で智葉を見ている。

「気にしないでくれ、メガン・ダヴァンと同じことをやるだけだ」

 宮永咲の目が怖くなる。

(いいぞ、その殺気(しび)れるようだ。だが、お前は私の殺気を認知できない。攻撃は一瞬だけだ。そして、認知した時……お前は私に斬られている)

 

 

 都内マンション 605号室

 

 沈黙が続いていた。宮永愛に娘の咲に勝てるかとの質問をされ、小鍛治健夜は曖昧ではあるが勝てると答えた。その理由として、咲の力はピュアではないとも付け加えた。

 さすがに気不味(きまず)いと思い、健夜は話題の切り口を変えようとした。

 ――おもむろに愛がテレビをつける。そこに対局室ルームDの緊迫した場面が現れる。

「またこんなことを……咲、お前は優しすぎる」

「……」

 愛が画面から目を離し、健夜に向かい合う。

「理想主義者の楽観論……私はニューオーダーの話を聞いてそう思った」

「咲ちゃんですか?」

「この子は勝負師ではない。あなたの考えるとおり、咲は“巨人”を倒せる力を持っているかもしれない」

「宮永さん、私は……」

 健夜の反論は愛に目に(さえぎ)られる。言う必要はない。健夜自身がそうであったように、咲の力もコントロールできると考えているのだろう。そんなことは分かっている。その目はそう言っていた。

「巨人とは違う……咲は相手を潰せない。致命的だよ。勝負師としては致命的」

「照ちゃんは違いますか?」

「もちろん……巨人は照が倒すしかない」

「……」

 愛が画面を見るように促す。

「辻垣内智葉……この子も咲に破壊されるだろうね」

「でも……智葉ちゃんは復活する」

「放っておけば消滅する敵を……咲は復活させてしまう。江口セーラ、愛宕洋榎……彼女たちのように咲を倒すことに夢中になってしまう」

 やはり避けては通れない話題のようだ。健夜は決心し、その質問を投げかける。

「だから、咲ちゃんを影にしたのですか?」

「影は本体を超えてはならない……」

 宮永愛の眉間(みけん)にしわが寄った。健夜が聞きにくい質問は、愛が答えにくい質問でもあるのだ。

「どうやらそこが引っかかっているみたいだね……小鍛治プロ」

「はい……」

 愛が自分の紅茶を飲み、軽くため息をついた。そして、カップを置いて重い口を開く。

「咲の弱点は……私との約束……」

「約束ですか?」

「そう……四つの約束……それが〈オロチ〉の弱点」

 宮永愛から初めて発せられた〈オロチ〉という言葉が健夜を戦慄させる。自分も闘わなければならない。制御するためには自分も〈オロチ〉と闘わなければならないのだ。 

 

 

 個人戦総合待機室 臨海女子高校

 

「なんとまあ……」

 日本人はよくこんなセリフを発する。自分の理解できないものや、自国の文化や風習と違う行為に対して、呆れたようにつぶやく。ネリー・ヴィルサラーゼは、その言い方が嫌いだったが、発した人物は日本人ではなかった。

 メガン・ダヴァンは画面上で辻垣内智葉が行っている行動に対してそのつぶやきを漏らしていた。“暗闇”は彼女がオリジナルなのだ。

「メグ、智葉にどこまで教えているの?」

「聞きたいデスカ?」

「うん」

 メガンは目を閉じて考える素振りを見せた。

 付き合いが長いというのは恐ろしい。言葉にしなくても彼女の返事がわかってしまう。

「実はなにも教えてイマセン」

「だと思ったよ……」

 メガンが嬉しそうに笑い、ネリーの背中を叩く。まったく、アメリカ人ってやつはどうしょうもない。ネリーは日本人の気持ちを少し理解した。

「だとすると、これは智葉のアドリブか?」

「そうでショウネ……でも的外れではナイ」

 監督のアレキサンドラ・ヴィントハイムの質問にメガンが答える。その後、二人はネリーに視線を移す。

 確かに間違いではない。――ネリーがあの団体戦で宮永咲の内部に侵入できたのは攻撃する意思を持たなかったからだ(後半戦ネリーは試合を放棄していた)。宮永咲の力は強大な防御力。攻めようとする者はその力により粉微塵(こなみじん)にされてしまう。だからネリーは智葉に『攻めずに勝て』と助言した。ただ、その方法は不明だ。結局は智葉の力量に任せるしかなかった。

(さすが智葉だ……こんなことは思いもつかなかった。一瞬ならば……宮永も対応できないかもしれない)

 アレキサンドラとメガンはまだネリーを見ている。上手い例えが見つからない。モビーディック(白鯨)も違う気がする。――そうだ、子供に頃に見た映画。あれならば今の宮永にピッタリ当てはまる。

「T-REXだよ」

「面白い例えだな。なるほど、動かなければ見つからない」

 頭の回転が速いアレキサンドラは、瞬時にネリーの話を理解した。ティラノサウルスは視覚嗅覚とも貧弱で、特に視覚は動く目標しか捉えられないとされている。今の智葉の心境はこうだ。至近距離のT-REXを前に、見つからないように息を(ひそ)めている。並大抵の度胸では実行できない。

「辻垣内流抜刀術師範代の面目躍如デスガ……“暗闇”は、付け焼き刃では無理デス」

 メガンの“暗闇”は、早い話が自分の手牌だけしか見ない素人の打ち方だった。手練(てだ)れの者が相手では、振り込みマシーンと化してしまう存在だ。だが、メガンはほとんど振り込みをしなかった。つまりはそこに“暗闇”の秘密があるのだ。彼女の言うように、物まねでできることではない。

「シット!――ああ失礼。智葉、やっちまいましたね」

 普段は下品な言葉を使わないメガンが思わずそう言ってしまった。東二局、辻垣内智葉は小笠原栄子に振り込んだ。宮永咲が面子にいるからには失点は安くはない。(かろ)うじて満貫には届かなかったが、智葉はさらに7700点を失った。

「本気だな……智葉」

「え?」

「本気だよ……智葉は本気でこのT-REXを倒そうとしている」

 智葉が再び手牌を伏せる。“暗闇”の続行だ。ネリーはアレキサンドラの言った『本気』が気になっていた。『本気』とはこの場かぎりのことか? それとも宮永咲を倒すことへの『本気』なのかだ。前者ならばそれでいいし応援もする。しかし、後者ならば、智葉はネリーのライバルになる。原村和、大星淡、高鴨穏乃。ただでさえ気を抜けないライバルたちに、辻垣内智葉が加わるのだけはごめんだなと、ネリーは思った。

 

 

 対局室 ルームD

 

(おじい様……無心とはこれほどまでに難しいことだったのですね)

 後の先を取る。それは言うほどたやすいものではない。相手が動きだしてからこちらは刀を抜くのだ。わずかでも速度が遅ければこちらが切られてしまう。だから、抜刀術は速度を極めることになる。

 智葉の師匠たる辻垣内善吉は言った。

(『無心になることだ。さもなければお前は切られる』)

 現代の世の中。刀を持っての決闘などあり得ない話だ。しかし、剣術、武術などの兵法は絶滅していない。その精神を残すべく現代に伝えられている。

 智葉は何度も師匠の善吉と立ち会った。互いに後の先、もしくは先の先(先に攻撃を仕掛けそのまま倒すこと)を狙い対峙する。無心になどなれなかった。頭の中ではありとあらゆるシミュレーションが繰り返される。何十分何時間もそれが続き、()れた智葉が攻撃を仕かけて後の先で倒される。それが毎度のパターンであった。

 抜刀のスピードは老齢の善吉よりも智葉のほうが早い。にもかかわらず一方的に負けるのは心が未熟だからだ。善吉の言葉がそれを裏付ける。

(『智葉、覚えておけ。刀は腕で振るのではない。心で振るものだ』)

 南三局。前局での試行錯誤で“暗闇”のコツは掴んだ。無論、メガン・ダヴァンと同じことができるという意味ではない。手牌を伏せて記憶し、場の河を見ないで牌を自模るという基本動作に関してのことだ。智葉は牌を自模る。メガンのように顔は伏せずにはっきりと山を見て自模る。一点集中の訓練が役に立った。見えるのは一点だけで、他の情報は無視できるのだ。

(一向聴……)

 有効牌を自模り手が進んだ。しかし、その感情は鞘の中に潜めなければならない。善吉の説いた無心とはそういうことだ。なにも考えず平常心を貫く。そして勝負の一瞬に全精神を集中する。

 10巡目。智葉は聴牌した。その打牌時に智葉の心が揺れた。

(メグ……お前はどうやって危険牌を見極める?)

 智葉はすぐにそれを修正する。わからないことを考えても仕方がない。今は本能に従い打つしかない。

 だが、“魔王”はわずかな心の隙も見逃さなかった。

「ロン。断公九、平和、ドラ3。8000です」

「はい」

 二回連続の振り込み。しかも今度は宮永咲にであった。

(甘くはないか……次は私の親番。ここが勝負か……)

 智葉の持ち点は7300点になった。満貫への振り込みや、他家の倍満自摸で飛んでしまう点数だ。

(おじい様……なんとなく……わかってきました)

 智葉がサイコロを回す。その出目に従い配牌を開始する。点数のことや宮永咲のことも智葉の頭の中にはなかった。智葉の脳を支配しているのは、指の感覚や空気の動き、集中された視力、聴力や嗅覚、果ては直感や霊感などの第六感までの、あらゆる感覚情報のみであった。

 無心とは無想なのだ。心にはなにも浮かべない。抜刀する時でさえ同じだ。体が勝手に動く。その行動には一切の無駄がなく最速で最強だ。

 智葉は自摸を繰り返す。危険と思われる牌も判別できるようになった。回し打ちし、手を再構築する。

 14巡目。智葉は平和一盃口を聴牌した。

(静かだ……)

 味わったことのない静寂さに智葉の心は包まれていた。

 その静寂を打ち破る強烈なインパクトが智葉を襲った。相手は宮永咲。

 ――時は来たのだ。

(……後の先)

 完全なる無意識の反撃。それは“無想の剣”という辻垣内流抜刀術の極意であった。

 ――智葉の目がその獲物を捉える。宮永咲が打牌した【四筒】は智葉の当たり牌だ。

「ロン。平和、一盃口……ドラ2。11600」

 宮永咲の表情が変わる。それは驚きでも怯えでもなかった。ただでさえ無表情な咲の顔が、さらに無表情になっていった。

(虎の尾を踏んだか……)

 もう後には引けない。虎の尾を踏むとはそういうことだ。虎を殺さなければ、自分が殺される。その覚悟をしなければならない。

 

 

 個人戦総合待機室 臨海女子高校

 

「Yes! yes! 智葉やりマシタ!」

 決して破れぬ宮永咲の八局縛り。辻垣内智葉はそれを攻略すべく親で和了した。その初めて見る光景にメガン・ダヴァンだけではなく、会場全体が興奮に包まれていた。

 だが、ネリー・ヴィルサラーゼはそれが危険な兆候だと感じていた。

(宮永……あいつを出すのか)

 宮永咲が霧に包まれていく。〈オロチ〉が姿を現した。その龍の表情は、これまでにない憤怒(ふんぬ)の表情であった。

 ネリーは知っていた。八局縛りは〈オロチ〉の弱点ではない。むしろその逆の足枷(あしかせ)なのだ。その足枷を作ったのは彼女の母親。

(宮永……それは大切なことなのか? そこまでして守らなければならないのか?)

 答えはわかっていた。自分がそうであるように、宮永咲もそう答えるはずだ。

(『もちろん。命にかえてでも』)

 

 

 

 個人戦総合待機室 永水女子高校

 

 急遽(きゅうきょ)画面が切り替わりルームCの神代小蒔が映し出された。その驚愕な映像を見て石刀霞は(あせ)っていた。

「巴ちゃん! 外に出て戒能さんに連絡して」

 これまでは滝見春が、神代小蒔と宮永咲の部屋を離す“操作”していたが、春が限界に達し、第6試合からは“操作”していない。

 恐れていたことが起こった。小蒔と咲が隣の部屋になってしまった。完全にレシーバーの範囲内だ。二人は互いに影響し合っている。

 

 

 ――実況の福与恒子が興奮して叫ぶ。

『なんと! なんと! 神代小蒔選手が嶺上開花和了! しかもドラ8だー!』

『神代……』

『藤田プロ。これは宮永咲選手へのデモンストレーションでしょうか?』

『いや……おそらく違うだろう』

『それでは。偶然の産物でしょうか?』

『そうとも言いきれないな』

『……ずいぶんと歯切れがわるいですね? 藤田プロらしくありませんね』

『このまま進めば……二人は決勝で相まみえる。前哨戦ではないが……その下調べは必要だよ』

『なにを言ってるの分かりませんが……“魔王”対“霧島の姫”の前哨戦も実行中だー!』

『……』

 

 

(知っている。藤田プロは小蒔ちゃんがなにをしているか知っている)

 狩宿巴がスマホを持って動きだす。

「応急処置の方法ですか? それとも今後棄権するかどうかの話ですか?」

「両方です。“オモイカネ”は戒能さんのほうが詳しいですから」

「棄権なんて……姫様が許しませんよ」

「私たちは見誤っていたのです」

「……」

「咲ちゃんは……ある想いに関しては容赦も慈悲もありません」

「姫様の心が乗っ取られると?」

「小蒔ちゃんは触れてしまったのです。咲ちゃんの守るべき記憶に」

 巴は小さく頷いて走り出す。急がなければならなかった。小蒔に恨まれたって構いはしない。彼女を失うことに比べたら、それはちっぽけなことだ。

(小蒔ちゃん……あなたは咲ちゃんを排除しなければならない。それを思い出して)

 神代小蒔は矛盾に苦しんでいた。抹殺しなければならない宮永咲を、小蒔は救う道を考えてしまっている。

(それはできないことよ……小蒔ちゃん、あなたは自分を犠牲にするつもり?)

 

 

 インターハイ運営事務所

 

(これはテストだ……)

 戒能良子は冷静にルームCの事件を見ていた。神代小蒔の嶺上開花ドラ8和了は、宮永咲の“オモイカネ”の能力を試すテストなのだ。“オモイカネ”が〈オロチ〉の力を手に入れたら、それをフル活用できるかを試している。そして、その答えは示された。

(“オモイカネ”は想定できる最大値を選択する……だとすると〈オロチ〉の実質的な限界値は嶺上開花ドラ8なのか?)

 当然、良子の頭にはそのような疑念が浮かんだ。未遂(みすい)に終わった四槓子、団体戦で見せたドラ16。だとすると、それらは〈オロチ〉とは無関係ということになる。

(フェイクか……もしくは姫様が……)

 良子は反射的に立ち上がってしまった。

「うわ! びっくりした。 どうしたの戒能ちゃん?」

 小蒔の嶺上開花に驚きもしなかった三尋木咏が、良子が突然立ち上がったことには肝をつぶしていた。

(宮永……姑息なまねを……)

 頭に血が上る。良子は、自分が今その状態であるとわかっていた。

「委員長、コーチングはどこまで禁止ですか?」

「すべてです。選手は試合中に外部からのアドバイスを受けられません。あなたのような優秀な指導者ならばなおさらです。不公平ですから」

 見かけとは違い――いや、見かけどおりと言うべきか、大会委員長は管理能力に()けた人物のようだ。言い方を変えるのならば頭がガチガチに固かった。

「例外申請します。私は永水女子高校の狩宿巴と連絡を取らなければなりません」

「その場合は神代選手が失格になりますが、それでもよろしいですか?」

「ですから例外なのです。これは試合に関するものではありません。神代小蒔のコンディションに関するものです。通話はレコーディングして提出します」

「……」

 疑り深い目で委員長は良子を眺めている。

「運営部の携帯が余ってるんじゃなかった? それを戒能ちゃんに渡したら?」

「しかたがありません……」

 咏の助言で委員長も折れた様子だ。机の引き出しを開けて古びた携帯電話を机の上に置いた。

「狩宿選手の電話番号をここで入れてください。もちろん個人情報なので、後ほど消去します。通話の録音を忘れずに」

「感謝致します」

 

 

 戒能良子は廊下を走っていた。

 あの映像を見た石戸霞なら、神代小蒔が宮永咲に心を支配されていると考えるはずだ。その場合は小蒔の棄権も選択肢に入る。

(姫様が怖いか? 宮永……お前は姫様には勝てないと認めたのだ)

 良子は携帯を取り出す。すべてがセッティングされ、通話ボタンを押す以外の行為は禁止されている。

(霞なら私との連絡を考える。その役割は巴しかいない)

 良子は六女仙の現状を(うれ)いた。中学生の二人はともかくとして、薄墨初美は入院中で、滝見春も医務室で休養回復を余儀(よぎ)なくされている。宮永姉妹に対抗する為だけに、戦力の半数がリタイアしてしまった。そのうえ、宮永咲は小蒔までをも計略でリタイアさせようとしている。それが良子には許せなかった。

(残念だったな宮永……永水には私がついている)

 良子は通話ボタンを押した。狩宿巴のスマホが非通知拒否になっているかもしれないし、知らない番号の電話には出ない可能性もある。しかし、良子は巴ならば出ると思っていた。このタイミングで電話するのは自分以外にはいないと、彼女なら考えるはずだ。

 ――予想どおり巴はとりあえず出ることを選択した。

『……』

「巴、私だ。戒能だ」

『――戒能さん。よかった。どうやって連絡しようか迷っていました』

「巴……無駄話はできない。姫様のコンディションだけ言う。それを霞に伝えろ」

『はい』

 良子はすぐには言わず一拍(いっぱく)おいた。それがいけなかった。話に良子の感情が入ってしまった。

「姫様は良好な状態にある……今の姫様には、どんな小細工も通用しない」

『わかりました……霞ちゃんに伝えます』

「頼む」

 良子は再び通話ボタンを押して電話を切った。委員長から許されている操作はここまでで、このまま携帯電話を提出する約束だ。

(よけいなことを言ってしまった……委員長がどう解釈するか……)

 

 

 30分前 都内マンション 605号室

 

 小鍜治健夜は持久戦を覚悟していた。超一級の雀士であった宮永愛には、心理誘導も暗示も通用しない。彼女からの話しを待つ以外になかった。そんな気持ちを見透かされてか、愛は声を和らげて話題を変える。

「小鍛治プロ……あなたは疑問に思わなかった? 私があなたと会うと言ったことが」

 愛の目的はウインダム・コールの打倒にあり、その為に宮永姉妹という最強のカードも持っていた。健夜は言わばライバルになる存在で、しかも宮永姉妹を奪おうとしているのだ。確かに会う必要などない。それでは、なぜ宮永愛は自分に会おうとしたのか? その理由は健夜にも推理できなかった。

「はい。むしろ私の存在が邪魔になるかと思っていました」

 健夜の答えに愛が笑う。その表情がなぜか刹那的(せつなてき)に見えた。

「理由はね……私が悪魔に魂を売り渡したからだよ」

「悪魔ですか?」

 愛は小さく頷いて視線を外す。

 やや間をおいてから、愛はからかうように健夜に質問した。

「あなたは将来自分の妻になるとウインダム・コールが言っていたけど?」

「……まあ、寝言ですね」

 愛が普通の笑顔になる。健夜もそれに同調する。あまり笑えない話であったが、引きつりながらも笑顔を作った。

「私にとっては……彼は悪魔でしかない」

「……」

 なにがあったのか聞きたいところだが、健夜はあえて話を()らす。

「彼が悪魔なら、咲ちゃんは勝ったも同然ですね」

「“魔王”だから?」

「はい」

 彼女のイギリス人の血がこのような皮肉を好むようだ。笑顔に血が通いつつあった。しかし、その後、彼女は長い沈黙を選んだ。

 数分後、愛から発せられた言葉は、健夜の予想に反するものであった。

「ミナモのことは?」

 姉妹の従妹(いとこ)のミナモ・オールドフィールド。なぜ急に彼女のことを聞かれたのか? 疑問に思ったが、ここは素直に答えるしかない。

「知っています。ただ、それを知ったのは今日ですが」

「西田さんか、彼女はしつこく調べていたからね」

「ええ……」

 愛は冷めた紅茶を飲みきり、ティーポットからお代わりを注いだ。健夜のカップを眺めて手を差し出す。お代わりを入れるから渡せということだろう。健夜はカップのみを渡した。確かこれでいいはずだ。なにしろイギリス人はマナーに厳しい。

「あの事故は……避けられないものだった。テレサの車は信号待ちで止まっていて、そこに居眠り運転のトラックが衝突した」

 愛からカップを渡される。少し熱かったが我慢してソーサの上に置いた。

「西田さんから聞いています」

「テレサは高度の難聴、ミナモは脊髄損傷による下半身麻痺……回復は不可能と言われたよ」

「……」

「運命と言われたらそれまでだけど……あの事故がなければと、毎日のように思ってしまうねえ」

「……そうですか」

 それが宮永姉妹の悲劇の始まりなのだなと健夜は思った。彼女もそれがわかっているのか、息を吐いて目を閉じた。

「テレサの自殺未遂も?」

「はい」

「エレナにしてみれば――エレナ・オールドフィールドはミナモの母親で私の妹だよ。――憤懣(ふんまん)やる(かた)なかっただろうね。彼女はテレサを責めまくった。一人娘のミナモをどうしてくれるのだとね……なにしろミナモを日本に呼んだのはテレサだから」

 罪悪感に(さいな)まれたテレサ・アークダンテがどのような自殺を図ったのかは不明だが、それは宮永家の火災につながり、地方新聞にも掲載された。テレサは一命をとりとめたものの酷い火傷を負ったという。

「当然ミナモはイギリスに連れ戻され、照も咲も悲しんでいた。特に咲は……よく泣いていたね」

「……」

「テレサの……家の火事の時……私と界(宮永姉妹の父親)は仕事で長野(市)にいて、照も咲も学校だった」

 健夜は嫌な胸騒ぎがしていた。ちがう、これは胸騒ぎではない。嫌な予測なのだ。

(なぜ言い直したの? まさか……咲ちゃんは……)

「消防署は気を利かせて家族全員に連絡してくれた……。でも、一番家に近かったのは咲の小学校」

「さ、咲ちゃんが……?」

「歩いて数分だからねえ……そこで咲は……テレサが助け出されるのを見てしまった」

「ああ……」

 健夜は思わず呻いてしまった。わずか10歳の子供が肉親の熱傷を直視できるわけがなかった。おそらく咲は心にダメージを受けたであろう。

「咲は……おばあちゃん子だったのか、テレサによくなついていた。それはもう、私が嫉妬するぐらいだったよ」

「そのテレサさんが……」

「あなたの考えているとおり……咲は、その後、心を閉ざしてしまった」

 自分の唇が震えているのがわかった。言葉も出せない。出すと泣き声になってしまうからだ。健夜は宮永愛を眺めているしかなかった。

 その愛の表情が変わる。それは笑顔でもなく怒りでもなく、後悔の色が浮かぶ普通を装う顔だった。おそらく、それが彼女の作れる精一杯の表情なのだろう。

「咲の為に……いいえ、嘘は良くないわね……自分の為に、私はウインダム・コールを憎んだ。すべての不幸の原因は彼にあると考えて、私は……彼を倒す為に、照と咲を……機械にすることにした」

「……機械」

 もう我慢できない。泣いているのがばれてもいい。自分は彼女の力にならなければならない。なんの目的で呼ばれたのかはわからない。だが、自分は宮永姉妹を救う為ならなんでもする。健夜はそう決意していた。

「ダンテの定理は?」

「……少しだけですが」

「教えることはできないけど、定理と呼ばれているが定理ではない。それはご存知?」

「名付けたのはウインダム・コールですから……うまい方法です。肯定も否定もできない」

「彼にもダンテの定理はわからない。だからわざと定理と言った」

 健夜は頷いた。実にウインダム・コールらしい。肯定でも否定でもそれが答えになってしまう。

「咲はダンテの定理の適性がなかった。でも、咲にはテレサも認めるほどの才能があった。私もそれは知っていた。もちろん照も……才能では咲にかなわないことがわかっていた」

 それが宮永照に時折現れる陰なのだなと健夜は思った。

「咲ちゃんは心の弱点を克服できなかった?」

「あの優しさはね……咲の本質だよ。それは親でも姉でも変えることができない」

「それで……影にしたのですか?」

「心を閉ざした咲には……はっきりとした目標を示すしかなかった。照がウインダム・コールを倒す。その為にお前は影になれ。私は咲にそう言った」

「咲ちゃんはそれを?」

「もちろん。咲は…………照を愛しているからね」

「……」

 言葉にならなかった。無償(むしょう)の愛。親子の愛や姉妹の愛は見返りを求めない愛の代表とされるものだ。その当時の宮永咲も、姉の為ならと、その役割を喜んで引き受けたに違いない。

「私を恨んだと思うよ。常軌(じょうき)(いっ)した厳しさで二人を機械にした。でも、そうするしか道がなかった。私はなにかに没頭していなければ、正気を保てなかった……。照と咲は……私の狂気が生み出した怪物だよ」

「怪物なんかではありません! 私が……」

(駄目だ……言葉が出ない……)

 小鍛治健夜はテーブルに手をつき、そのまま泣き崩れた。これほどまでの悲しみは初めての経験であった。呼吸音ですら泣き声になってしまう。

「私は……あなたに泣いてもらう資格がない」

「……なぜ……ですか?」

 泣きながら声を絞り出す健夜に、宮永愛は優しい笑顔を向ける。

「私は……悪魔に魂を売り渡した」

 そうだ、それが話の発端だ。それがどういう意味なのか? これまでの話には手掛かりがない。

「昨日ウインダム・コールが謝罪をしたいと言ってきた」

「謝罪ですか?」

「そう……テレサの件、ミナモの件。すべての責任は自分にあると彼は言った」

「……」

「そんなイギリス流の偽謝罪を真に受けるほど私はバカではない」

 宮永愛に、刹那的な笑顔が再び現れる。その理由を、健夜は知ることになった。

「でもね……彼のディールを私は受けてしまった」

「ディール? ウインダム・コールとなにを取引したのですか?」

「ミナモを歩けるようにすると……彼は言った」

「!」

(なんという狡猾(こうかつ)な……それが、それが一人で彼女に会いたがった理由……?)

 無論、彼にも善意の部分もあるだろう。しかし、真の目的ははっきりしていた。『ビショップを手に入れた』。羽田空港でウインダム・コールははっきりとそう言った。“悪魔”は対宮永姉妹の最強の駒を手に入れ、宮永愛から彼女の人生ともいえる姉妹を奪った。

「イギリスにその道の権威がいる……私などではその人にはコンタクトすらできない。だけどウインダム・コールは治療の約束まで取り付けていた。一年後にミナモは歩けるようになる……私は……その誘惑に負けてしまった」

「……条件はなんですか?」

「ミナモを彼の配下に置くこと……それと――」

「……」

「照と咲を……あなたに渡すこと」

(許さない……ウインダム・コール。私はあなたを許さない)

 これまでの健夜の人生では、憎悪なという感情は無関係であった。だが、今はそれをはっきりと意識した。やり遂げなければならない。“ニューオーダー”それをやり遂げる。最終目的は世界の“巨人”の撃破だ。

「宮永さん……」

「……」

 健夜は深々と頭を下げる。土下座は西洋人には理解できないものだ。だからテーブルに額がつくぐらいに頭を下げた。

 そして、健夜は、心の声を言葉にする。

「私を信じてください。必ず“巨人”を倒します」

 

 

 個人戦総合待機室 千里山女子高校

 

 待機室の大型モニターが目まぐるしく切り替わる。特殊な状態の宮永咲を相手にして、初めて親で上がった辻垣内智葉のいるルームDから、嶺上開花ドラ8を決めたルームCの神代小蒔に、そして今度は宮永照と白水哩が闘うルームAに切り替わった。

 満貫越えまで止めるのが難しいとされていた照の連荘地獄を、哩が二本場で止めてしまった。

 その経緯は以下のようになる。

 

 

 対局室ルームA(東二局二本場まで)

  東一局      白水哩  12000点(3000,6000)

  東二局      宮永照   1500点(500オール)

  東二局一本場   宮永照   3300点(1100オール)

  東二局二本場   白水哩   2700点(800,1100)

 

 持ち点(東二局二本場まで)

  白水哩     38100点

  宮永照     25700点

  佐々野いちご  19600点

  黒井えり    16600点

 

 

『藤田プロ……今度はお姉さんです。連荘が止められました』

『……』

 その異様な展開に、実況の福与恒子も解説の藤田靖子も困惑している。

『藤田プロ?』

『渦か……』

『うず? うずとはなんでしょうか?』

『すまん……独り言だよ。ただな、宮永姉妹も、神代も、辻垣内、白水も渦の中でもがいているように思えてな……』

『藤田プロ……』

『なんだ?』

『すこやん以上に訳がわからない解説ですね』

『なんだとぉ……』

『妹の咲選手に連鎖するように、“絶対王者”にも異常発生だー!』

『……』

 

 

(藤田……やっぱ自分は“そっち側”にいってもうたな。一昨日会うた時、私は自分の小鍛治の構想に対する憧れを感じた。熊倉さんも同意見やったで)

 愛宕雅恵は腕組みをして画面を睨む。声だけしか聞こえない藤田靖子を探し出すような鋭い眼差しだ。

(渦か……うまいことを言う。なるほど、中心の力が強ければ、渦は激しゅう大きなる。せやけど、力が弱なれば、その渦は消滅してまう)

 小鍛治健夜が発生させている渦。そこに宮永姉妹が加われば巨大化するのは避けられない。だたし、10年前がそうであったように、健夜だけならば自然消滅する可能性が高い。自分と熊倉トシ、恐らくは戒能良子と三尋木咏も“こちら側”の人間のはずだ。“こちら側”とは“ニューオーダー”の急進性に危機感を覚えるグループだ。

(小鍛治……急ぐな。10年前と違う……我々も変わりつつあるんや)

 とはいえ、このインターハイは確実に分水嶺(ぶんすいれい)になる。その結果はどうあれ、それは間違いないと雅恵は思った。

 

「監督、ご迷惑をおかけしました」

 前半戦での棄権後に、医務室で大事を取っていた園城寺怜が戻ってきた。ずいぶんとサッパリしている。というか、怜が持っていた病弱感が消え去っていた。隣にいる清水谷竜華よりも健康そうに見えた。

「怜……。そうか、お前もそうなのか?」

「……監督、どういう意味ですか?」

 愛宕雅恵は、その質問には答えられなかった。そして、自身のプロ時代を思い出していた。

 ――それは決して順風満帆(じゅんぷうまんぱん)ではなかった。自分の王道スタイルに自信はあったが、なかなか中堅の実力者から抜け出せずに悩んでいた。その雅恵が、なんのために闘うのかをはっきりと認識した時期があった。それはアイ・アークダンテという目標を見つけた時で、その充実した日々は、雅恵のキャリアのピークであったと言える。

(怜……セーラ……それは麻疹(はしか)みたいなもんやで)

 その充実した日々は、アイ・アークダンテの引退により、一年に満たない時間で終わった。――

「哩さん、すごいなあ」

「昨日の小瀬川白望戦とよう似てます。妹と連動してるようで……」

 竜華の率直な感想に、船久保浩子が解説を入れようとしたが――

「浩子……そらちゃう。こらな、白水哩にしかできんことや」

 ――怜が少し怒ったように(さえぎ)る。

 雅恵にはその気持ちが理解できた。闘った者にしか共有できない価値観。それを杓子定規(しゃくしじょうぎ)に語ってほしくない。怜はそんな気持ちなのだろう。

「私と竜華は、さっきまで鶴田さんと一緒やった。なんちゅうかな……うまく言葉にできへんな」

(そうやろうな……白水哩を応援してるが勝ってほしない。なるほど……怜、セーラ……洋榎もそうやろう。宮永姉妹を目標に定めてもうた。そらすばらしいことだ。せやけどな、その目標がおらへんようになったら……自分らはどないすんつもりや?)

 

 

 対局室 ルームA

 

(……これは幸運じゃなか。宮永ん状態がどうあれ、連荘ば止めたんなうちだ。……感じる。自分ん今ベストコンディションであることば感じる)

 連荘を止められた宮永照ではあるが、まだ仕切り直しが可能だ。次の哩の親番は、逆に彼女にとって好都合、連荘地獄再起動の安い手で上がれば良いと考えるはずだ。

 しかし、今の哩にはそんな弱気な戦術は通用しない。

 東三局。哩の手牌は、自らのベストコンディションを証明するものであった。

(見えるか……チャンピオン。あんたはリミッターば解除すっしきゃーなか)

 第一配牌での平和断公九の一向聴。立直で一発かドラが絡めば親の満貫だ。

 かつての哩の強運が復活した。宮永照への連敗により、鳴りを潜めていた引きの強さがが、今ここで復活したのだ。

 ――2巡目。その力は継続し、有効牌を呼び込む。

(聴牌……)

 哩は、捨て牌を横にして、千点棒を置いた。

「リーチ」

 佐々野いちごが驚いたように顔を上げる。黒井えりも同様だ。それはそうであろう。速い立直はさほど珍しくはないが、場が場なのだ。ここには面子の自由を奪う“絶対王者”がおり、哩の聴牌速度はその呪縛を解くものに思えるからだ。

(驚かないか……だが、これでどうだ)

 3巡目の哩の自摸。これが決定打になるだろう。そう、照はリミッターを切るしかない。

「ツモ、立直、一発、門前、平和、断公九。4000オール」

 宮永照を相手に連荘を決めた。しかも早上がりの照に対しての満貫自摸和了であった。

(くるか……)

 照の表情が変わる。無表情な宮永姉妹ではあるが、ここ一番では顔つきも変わる。

 哩は気を緩めない。過去の試合でもそうだが、ある局面から一方的に流れを変える怖さが照にはあった。

 一本場が始まった。哩の手牌は悪くはなかった。筒子が多めでばらけているが、断公九ならば三向聴だ。

 哩は照を眺める。妹とは違い、目には鋭い光がある。

(二桁巡まで持つか……シーソーゲームはしかたがなか)

 自分は弱気になったのではない。無意味なツッパリは無謀というものだ。それに、この局は、上がることが重要ではない。

 ――10巡目。哩は一向聴まで手を進めたが、“絶対王者”は勝負をかける。

「リーチ」

 その宣言を聞いて、哩は心の中でほくそ笑む。

(切ったな……あんたはリミッターを切った)

 これで対等の勝負を挑める。火力向上のリミッター解除は、すなわち“ダンテの定理”の放棄を意味する。謎が解けない定理に比べたら、高火力連荘は付け入る隙がある。

 次巡、照は自摸牌を晒す。まるで、哩に対する一発返しのようだ。

「ツモ、立直、一発、門前、混全帯么九(チャンタ)、三色同順。3100,6100」

 【北】と【九索】の二面待ちでの和了だ。作るのが面倒な役なので、狙って作ったものではないことがわかる。

(それが隙じゃろうな……“照魔鏡”で効率ん良か待ちはしきるばってん、定理ん確実性がなか)

 哩は次局が一つの山場だと考えていた。ここで照の連荘を許すと、一気に流れは変わる。

 東四局。親の佐々野いちごがサイコロを回し、出目に従い自五(じご)から配牌を開始する。

(佐々野さん……あーたは強か雀士やて思う。ばってん、ここぞちゅう時に弱気になる癖がある。……すまんとは思けど、うちゃあーたんそん癖ば利用すっ)

 すばらしい配牌であった。筒子の混一色(ホンイツ)の二向聴。哩の手牌が見えている照には、選択肢が二つしかないはずだ。高めを諦めて哩に先行するか、他家を誘導して哩の妨害をするかだ。

 局は6巡目まで進んだ。哩は混一色のドラ2の一向聴であったが、このままでは待ち牌が、場に出ていない照の風牌の【西】と混一色に絡む筒子になってしまうので、いちごからの出上りは望めない。

 哩の自摸牌は【二萬】であった。この牌ならば照が序盤で切っているし、いちごが抱えている可能性もあった。

(間に合うか……)

 哩は対子の【西】を落とし、手を組み替える。混一色も諦めなければならず、点数も下がる。しかし、ここはいちごから上がらなければならない。

 照が哩の意図に気が付いたようだが、対抗策はないはずだ。彼女は打牌によって哩の手牌が混一色であることを他家にアピールしてきた。筒子の待ちが予測しやすいようにというオマケも付けてだ。その哩が手を変えたのだ。もはや照にできることは早上りしかない。もっとも、それが厄介なことには変わりがなかった。照はまだ聴牌していないだろうが、哩に先行できるのは確かだった。

 11巡目。照は哩にプレッシャーを与えるべく立直をかける。

「リーチ」 

 それは確かにプレッシャーとなった。手牌の組み直しはほぼ完了し、筒子の一盃口で勝負することになるが、まだ一向聴であった。哩の(てのひら)に汗が(にじ)む。

 だが、勝利の女神は哩に味方した。自摸牌はドラ牌の【九筒】。

一気通貫(イッツウ)……ドラ3)

 哩は聴牌した。しかも【二萬】単騎待ちだ。こうなると照の立直が裏目に出る。間違いなく、佐々野いちごは照の安牌である【二萬】を捨てる。それが彼女の癖だからだ。

 哩は余った【四筒】を捨てる。立直は当然かけない。

 いちごが自摸牌を取り迷っている。彼女ほどの実力者なら、哩の動向も気になるのだろう。――迷った末に彼女が選択した捨て牌は、やはり【二萬】であった。

「ロン」

 いちごの顔が青ざめる。哩はすまないと思いながらも、上り役を伝える。

「一気通貫、一盃口、ドラ3.12000です」

「……はい」

 いちごが震える手で点棒を渡す。無理もない。彼女の持ち点はこれで500点だ。自力で上がらぬかぎり飛び終了が決定的だ。この状況を作り出すことが哩の狙いであった。

(南二局三本場……姫子がくれた幻想がうちん力になった。チャンピオン……そこまで進む必要ななか。次でうちが終わりにすっ)

 

 

 ルームA 持ち点(東四局まで)

  白水哩     57000点

  宮永照     33000点

  黒井えり     9500点

  佐々野いちご    500点

 

 

 都内マンション 605号室

 

 初対面の相手から『自分を信じてくれ』などと言われて『はいわかりました』という人間はほとんどいない。宮永愛だってそうだろう。数分前、小鍛治健夜からそう言われたが、返答を保留していた。その愛がテレビに目を移す。

 健夜はテレビの存在と個人戦の動向を忘却していた、それだけ愛との対話に集中していたのだ。

(咲ちゃん……)

 その画面を見て健夜は驚愕(きょうがく)していた。あの宮永咲の8局縛りを破る者が現れた。辻垣内智葉。園城寺怜と同じく心に悩みを抱える雀士だ。

「これが、照と咲との違いだよ……小鍛治プロ」

「辻垣内選手……いい顔していますね」

「……敗北は自分で選択できる。でも、勝利はそうではない。なぜなら、勝利とは相手を敗北させることだからね」

「咲ちゃんは勝利できない?」

「まあね」

 これは推測だが、智葉は燃え尽き症候群に近い状態であった。宮永照への連敗により、彼女は敗北を選択していた。だが、健夜の目に映る今の智葉は、かつての輝きを取り戻しているように見える。

「去年、照と闘った子だね。すごいよ……この咲から親で上がった者はいない。照も、私も……」

「どうなりますか?」

「わからない……でも、なにも変わらないだろうね」

 その言葉を証明するように、次局は咲が智葉から跳満を取り返す。ほとんど二人だけで点数のやり取りしていた。

(……重要なのは8という局数? 親で上がられても〈オロチ〉の崩壊につながらない)

 健夜の〈オロチ〉への疑念が深まる。ここはもう少し踏み込んだ話をしなければならない。

「宮永さん……咲ちゃんのやろうとしていることがわかりますか?」

「娘だからね……わかるよ」

「……」

「あなただってわかっているはずだよ、その実現が難しいことが」

「神代……選手ですか」

「彼女だけではない。咲の優しさが不要な敵を作る、辻垣内、荒川、そして原村和……」

「和ちゃんも……」

「愛情とは……最強の憎悪だよ」

「照ちゃんと咲ちゃんがそうだと?」

「そのとおり……だから、あなたの野望は今日終わるのさ」

(嘘はやめてください宮永さん……あなたは、私に会っている。それは私に一縷(いちる)の望みを見たから、二人を救いたいから。だったら……私を信じてください)

 

 

 対局室 ルームD

 

 対局室ルームD(東四局一本場まで)

  東一局     春日千絵   8000点(2000,4000)

  東二局    小笠原栄子   7700点(辻垣内智葉)

  東三局      宮永咲   8000点(辻垣内智葉)

  東四局    辻垣内智葉  11600点(宮永咲)

  東四局一本場   宮永咲   8300点(辻垣内智葉)

 

 持ち点(東四局一本場まで)

  春日千絵    33000点

  小笠原栄子   30700点

  宮永咲     25700点

  辻垣内智葉   10600点

 

(ネリー……違うぞ……宮永には攻撃オプションがある。私はそれを感じた)

 辻垣内智葉は再び窮地(きゅうち)に立たされていた。宮永咲から不意に直撃され、残り三局を闘うには心もとない10600点まで点数を減らしていた。

 防御だけしかできないはずの咲に、攻撃手段があるとするならば対抗するのが難しくなる。

 南一局。智葉は手牌を伏せ、残りわずかな時間で突破口を探す。とはいえ、手牌は望ましいものではなかった。平和か七対子かを迷う配牌で、手なりで局を進めるしかなかった。

 宮永咲から頻繁(ひんぱん)に攻撃の意念(いねん)が送られてくる。智葉はその都度対応し精神力を消耗していく。

(そうか……カットマンか)

 智葉の脳裏に、唐突に卓球のカットマンの姿が浮かんだ。防御に特化したカットマンは、他の球技では存在しえないプレイスタイルであった。卓球特有のボールの回転力を操りアタッカーのミスを誘う。宮永咲の攻撃オプションに共通点があるように思えた。

(回転が予測できなければカットマンには勝てない……宮永、お前は、攻めているのではない、回転を変えて私のミスを待っている)

 智葉は目を閉じる。これでメガン・ダヴァンの暗闇に更に近づいた。集中する。咲の意念の解読に集中する。

(同じだ……抜刀術のフェイントと同じだ。相手に刀を抜かせるためのフェイント)

 ざわめいていた智葉の心に、再度静寂が訪れる。こちらからは攻められない。フェイントを見抜き、一撃で倒すだけだ。

(なんだ……この充実感はなんだ……私は……引退を決意したはずだ……)

 それは迷いではなかった。無心無想の心の片隅に一瞬だけ芽生えたなにかだ。それを詮索(せんさく)している暇はない。今は、この対峙に集中する。

 静かに、ゆったりと局が進む。それは智葉が見出した新たな境地だ。無想の状態では感覚がすべてになる。咲がなんらかの陽動を仕掛ける。だが、智葉はそれを容易に見破る。

(七対子……)

 12巡目に智葉は聴牌した。

(静かだ……)

 目を閉じた智葉の心眼に侵入者が現れた。それは宮永咲からの使者で人間ではなかった。

 ――八つの頭に一つの体の龍であった。その怪物は智葉に近づき、八つの顎を躍動させ智葉に噛みついた。あちこちで服が破れ、流血した肌があらわになる。智葉は膝をつき、激痛に苦しみながらも頭を上げる。

 智葉は睨みつける。八つの頭の怪物を睨みつける。

(お前の牙は……私の身体に……なにひとつ傷をつけていない)

 その瞬間に激痛は消え、服も身体も元通りになった。

 ――智葉は目を開けて宮永咲を見つめる。

「お前の幻影は私には通用しない」

「……」

 火花が散る視殺戦(しさつせん)とはこのことだろうなと智葉は思った。咲の光沢のない目からの殺気。それは師匠の辻垣内善吉を凌駕(りょうが)していた。

「ここからだ。宮永……そうだろう?」

「はい」

 

 

  個人戦総合待機室 白糸台高校

 

 弘世菫には、大型画面に映し出されている光景が少々現実離れしているように思えてならなかった。宮永照の闘っているルームAは、新道寺女子高校 白水哩によってチェックメイト寸前の状態であった。佐々野いちごの残点は500点しかなく、哩との得点差は24000点もあり、照が逆転勝利するは三倍満以上の和了が求められていた。無論、そんなリスキーな選択をするはずはなく、もっと堅実な(とは言いきれないが)、いちごに点数を回復させる危機回避を選択した。その結果で哩との点差が開くのは(いた)し方がない。今は“チェック”から逃れることを優先する。

(予想どおりと言えばそれまでだが……)

 菫を困惑させていたのは、そのプロセスがあまりにもできすぎていたからだ。圧倒的な引きの強さで勝利目前だった白水哩が、配牌時五向聴に減速した。虫の息であった佐々野いちごが、跳満まで(はん)を重ねて聴牌する。まるで照に差し込んでくれと言わんばかりのシチュエーションであった。

 そして宮永照は、既定路線(きていろせん)のように佐々野いちごに差し込んだ。

 

『藤田プロ、これは照選手の意図的な差し込みでしょうか?』

『デジャヴだな……いや、違うか。実際に私はこれと同じ光景を見たことがある』

『差し込み自体は珍しくはありませんが、“この局面で”ということでしょうか?』

『そうだな、絶好調の白水哩と同卓で、わざわざ点差を広げる人間はいない』

『それを行った人間かいるのですか?』

『私は長野県団体戦予選を解説していた……その決勝戦で信じられないことが起こった』

『藤田プロにも信じられないことがあるのですね』

『……長野は魔境だよ。天江衣もいれば宮永咲もいる』

『……』

『大将戦の終盤に差しかかるころだ。天江衣によって風越の猫は飛び寸前だった。そこに宮永咲は槍槓(カンチャン)ドラ7を差し込んだ』

『猫に槍槓……を、差し込む? すみません。なにを(おっしゃ)っているのか……』

『……』

『な、なるほどー、昨年のインターハイMVPの天江選手ですかー』

『……天江衣を相手に10万点近いビハインドは絶望的だ。だが、宮永は、迷うことなく差し込んだ』

『と……ところで、風越の猫とはどなたですか?』

『……』

『……』

『……お前、知ってて質問してるな?』

『まさか。解説のエキスパート藤田プロにそんな失礼なことを致しません』

『……』

『……』

『……い』

『おおー!』

 

 

 藤田靖子と福与恒子のクイズ大会に会場から失笑が漏れていた。

「宮永先輩は三本場までもっていくつもりですかね?」

 亦野誠子の質問だ。彼女も呆れ顔であった。

「もちろん。そうしなければ苦しくなる」

「苦しくなる? 宮永先輩が?」

「白水哩のずば抜けた集中力と強運が復活している。苦戦はするさ」

 哩のポテンシャルの高さは、宮永照も認めるものであった。しかし、哩は照への連敗で、その自信を喪失し、一人では照にかなわないと判断してしまった。そして下級生の鶴田姫子と共同戦線を張り、リザベーションという強力な技を作り上げた。

(残念ですよ……照は、あなたをだれよりも警戒していた。あなたは自ら弱体化した……)

 リザベーションは強力ではあるが有効範囲が限定されていた。哩は、もはや照の脅威ではなくなった。

 誠子は納得がいかないようだ。彼女はリザベーションこそが最大の脅威だと考えている。

尭深(たかみ)の分析は、照にも伝えてあるよ」

「その分析は間違いありませんか?」

「それは私ではなく尭深に聞くべきだな」

 決勝初戦でチームメイトの大星淡と対戦した鶴田姫子は、明らかに挙動(きょどう)が変わっていた。菫は不審に思い、姫子と哩の相関を調査分析するように渋谷尭深に指示していた。

「間違いない……リザベーションは機能していない」

 尭深が簡潔に答える。誠子は相変わらず半信半疑だ。

 リザベーションのインプットアウトプットが逆転している。そして、リザベーションは機能不全に陥っている。それが尭深の分析結果であった。菫は尭深の分析を100%信じていたが、誠子の疑う気持ちも理解できた。

 尭深が詳細説明を繰り返す。

「鶴田姫子の午前中の和了は9回。それが倍数で正常に繋がったのは4回にすぎない。成功率は5割以下」

「でもなあ、白水さんは4翻から倍満も和了してるしなあ」

「おそらく……情報は伝達されている。白水哩は自力で上がっているだけ」

「それは白水さんだって承知の上だよ。機能しているが失敗もするというほうが正しいのでは?」

 何度も聞いた説明だが、誠子は引き下がらない。

 菫は尭深の説明を捕捉する必要があるなと考えた。もっとも、かなり抽象的な話ではあるが――

「逆だよ誠子……白水はリザベーションの機能不全を考えられない」

「なぜですか?」

「絆だろうな」

「絆?」

「深い絆は、疑う心を麻痺させる。今の白水がそうだ」

「三本場は役満……そこで初めて気が付く……なんというか、残酷ですよね」

 ――なぜか誠子は納得していた。しかも哩への恩情(おんじょう)も見せている。なるほどスキルが高い。亦野誠子は確実に成長している。菫は嬉しくなり表情を緩めた。

「大丈夫さ、白水はそんなにやわじゃない」

「はい」

「絆とは強固なものだよ……ちょっとやそっとでは壊れない」

「ええ……きっとそうです」

 

 

 対局室 ルームA

 

 対局室ルームA(南二局まで)

  東一局      白水哩  12000点(3000,6000)

  東二局      宮永照   1500点(500オール)

  東二局一本場   宮永照   3300点(1100オール)

  東二局二本場   白水哩   2700点(800,1100)

  東三局      白水哩  12000点(4000オール)

  東三局一本場   宮永照  12300点(3100,6100)

  東四局      白水哩  12000点(佐々野いちご)

  南一局   佐々野いちご  12000点(宮永照)

  南二局      宮永照  12000点(4000オール)

 

 持ち点(南二局まで)

  白水哩     53000点

  宮永照     33000点

  佐々野いちご   8500点

  黒井えり     5500点

 

 

 白水哩は、自分の詰めの甘さを嘆いていた。南一局は決定的な場面であったが、配牌が悪すぎた。予想された宮永照の差し込みを阻止できなかった。しかも、次局に満貫を和了され、実質的に振り出しに戻される形になった。

 三本場は哩の役満がリザーブされている。照がそれを回避する為には、哩への直撃か、跳満自摸で黒井えりを飛ばして勝ちきるしかなかった。とはいえ、哩の立ち位置も微妙であった。いや、一本場だけならば、哩の和了条件のほうが遥かに厳しかった。黒井えりは残点が5500点もあり、子の哩が自摸和了で飛ばすには三倍満が要求されていた。

(……直撃ば狙うしきゃーなか)

 自分がわざわざ難しい選択をしていることはわかっている。他者から観ればバカに見えるに違いない。なぜならば、この局面の最良の選択は、哩が安手で上がることだからだ。高めが必要な照に先行できる可能性は高く、そうすれば連荘地獄も切れるし、自身の優位性も維持したまま南三局に移行できる。実に単純な話だった。

(バカやて思われてん構わん……うちには南三局は存在せん)

 鶴田姫子が体をボロボロにしながら勝ち取った役満キーを、哩は捨てられなかった。二人で“絶対王者”を倒そうと誓ったあの日から2年。その集大成が今なのだ。

 ――南二局一本場が始まった。哩の配牌は理想的なものであった。

(断公九なら一向聴……三色も加えると二向聴。ドラん一枚でもあれば)

 黒井えりからの出上りを望むのならば立直はかけられない。このままでは5200点止まりで300点足りない。あと一翻が欲しかった。

(攻守逆転か……うちゃあーたん上り怯えながら打つことになる)

 自嘲的(じちょうてき)な考えであったが、間違いではない。照ならば跳満を組み上げるのはさほど苦にしないだろう。なにしろ哩には制約が多く、照に自由裁量を与えているようなものだ。

 凄まじい心拍数だった。手首の動脈の動きが見えるほどだった。しかし、哩は何事もないように自摸を繰り返す。ポーカーフェイス。それが麻雀の(おきて)だからだ。

 8巡目。哩の自摸牌は赤ドラの【五萬】。

(これで三色確定……)

 とはいうものの、まだ一向聴で、えりに振り込んでもらえる待ちをしなければならなかった。【二索】の対子があり、【九筒】と【八索】が一枚ずつあった。どれもえりが持っている可能性があった。理想はシャボ待ちにして照にプレッシャーをかけることだが――

「ツモ」

 ――哩の心臓が爆発しそうになる。和了の気配がなかった宮永照がいきなり牌を倒した。哩は、恐る恐る晒された牌を確認する。

(6300……。なして? そん手牌ならもっと高うしきるはず)

 哩が聴牌していないのはわかっていたはずだ。それなのに照は立直もかけずに上がった。その意図がわからなかった。ポジティブに考えるのなら、えりが哩に振り込む恐れがあったので回避したとも推測できるが、()に落ちないのも確かだった。

(これで黒井さんな3400点か……まだうちが不利や)

 持ち点では哩が10000点以上リードしているが、この二本場の自摸和了で決着をつけるには、満貫で良い照と比較して、哩は倍満で上がるしかなかった。

(……まさか)

 今度は急激に血の気が引いていく。照の意図がわかってきた。

(最初からここまで引っ張るつもりやったんか……)

 宮永照が行動でその考えを承認した。

「ツモ、門前、発。1200オール」

 哩は、後輩の花田煌が鶴田姫子に言ったセリフを思い出していた。

(「あなたの最大の武器は、最大の弱点でもある」)

 哩は目を閉じて牌を投入口に入れる。

(認められん……そがんことは認められん)

 “エミッタ”である鶴田姫子から送られるキーのヴィジョンは見えていた。白水哩は、そのすべてをクリアすることができなかったが、それは自分の“コレクタ”としての適性不足による失敗で、リザベーション自体の失敗ではないと思っていた。

 だが、宮永照ははっきりと宣言している。『リザベーションは機能していない。南二局三本場はなんの脅威でもない』と。

 その宣言に哩は抵抗する。14と刻印された役満キーはまだ手の中にある。これが偽物のはずがない。とはいえ、哩は配牌を直視できなかった。伏せたまま13枚揃える。

(姫子……)

 愛しき後輩の名を呼びながら手牌を起こす。その瞬間、哩の手から役満キーが消える。

 ――役満には程遠(ほどとお)い配牌であった。哩は照の宣言を、事実として認める他はなかった。最初からリザベーションは機能していなかったのだ。クリアしたと思っていたものは、哩が自力で上がっていただけだった。

「ふふ……」

 哩の口から乾いた笑いが漏れた。そして、その笑いに、意外な人物からの反応があった。

「白水さん……私はあなたが怖かった」

「……」

 宮永照の言葉に、哩は戸惑った。全高校生が恐れる“絶対王者”から怖いなどと言われたのだ。それは当然だろう。

「でもね、私が怖かったのは白水哩……リザベーションではない」

「ありがとう……ありがとうチャンピオン」

 そうだ、昨日わかっていたことだ。彼女の妹の宮永咲に敗北し、個の力を高めなければどうしようもないことは昨日わかっていた。でも、哩にはそれを選べなかった。いや、選ぶ勇気がなかったのだ。後輩の鶴田姫子との絆は、尊く大切なものだ。しかし、あまりにもそれに傾倒してしまい、致命的な欠点へと変異していた。

(これでよか……。姫子、これでよかとばい。うちらは精いっぱい闘うた。そん結果ばうちゃ受け入るっ。強うなろう……昨日も言うたばってん、うちらは個人として強うならんばならん。そん為にリザベーションば封印しよう。いつか……また……ふたりがそれば必要とすっまで封印しよう。大丈夫、いつだって復活はしきる。こん、素晴らしか2年間ん、それば可能としとー。だけん姫子……悲しまんでほしか)

 実質配牌時に勝負は決していた。白水哩はその結果に悲観していなかった。道は標されたのだ。自分はどこに行くべきか? 多数あった分岐路が一本になり、到着点もはっきりした。

(うちも仲間にかててもらうばい……)

 多くの者が同じ目標を持っているはずだ。打倒宮永姉妹。白水哩もそれを目標に定めた。この敗北は、その為の通過点にすぎない。悲観などする必要はなかった。

 

 

 対局室ルームA(試合結果)

  東一局      白水哩  12000点(3000,6000)

  東二局      宮永照   1500点(500オール)

  東二局一本場   宮永照   3300点(1100オール)

  東二局二本場   白水哩   2700点(800,1100)

  東三局      白水哩  12000点(4000オール)

  東三局一本場   宮永照  12300点(3100,6100)

  東四局      白水哩  12000点(佐々野いちご)

  南一局   佐々野いちご  12000点(宮永照)

  南二局      宮永照  12000点(4000オール)

  南二局一本場   宮永照   6300点(2100オール)

  南二局二本場   宮永照   3600点(1200オール)

  南二局一本場   宮永照   6900点(2300オール)

 

 

 最終持ち点

  宮永照     49800点

  白水哩     47400点

  佐々野いちご   2900点

  黒井えり     ー100点

 

 

 対局室 ルームD

 

「ツモ、門前、七対子、ドラ2。2000,4000」

 互いに聴牌し、どちらが先に上がるかの勝負は、ある意味麻雀の醍醐味(だいごみ)でもあった。辻垣内智葉は宮永咲との勝負に()り勝った。

(落ち着け……こんなに気が昂ってはだめだ)

 勝負師の本能とでも言うべきか、智葉の闘争本能に火が付きつつあった。宮永咲が相手の場合は、それを鎮めなければならない。彼女はそれをエサに巨大な怪物を操る“魔王”だからだ。

 ――南二局。智葉の心は落ち着きを取り戻し、無想の世界に入った。この戦法が咲に有効なのは実証されている。あとは逆転のチャンスを辛抱強く待つだけだ。

「ポン」

 7巡目に咲が【発】を副露した。彼女は槓を活用する。この対局では封印していたが、いよいよ伝家の宝刀抜くようだ。

 智葉は必死にはやる心を抑える。

(これもフェイント……宮永からの攻撃の気配はない)

 咲はまだ聴牌していないはずであった。智葉の研ぎ澄まされた感覚がそう教えてくれていた。しかし――

「ロン、白、発。2600です」

「……はい」

 ――予期しない宮永咲への振り込み。それは智葉を動揺させた。

(バカな……宮永は攻撃の意志を持っていなかった。それがなぜ?)

 智葉が方法を探っていた“攻めずに勝つ”は不可能ではない。咲はそれを証明していた。

 なぜできたのか? 智葉は、頭をフル回転させて考える。

(そうか、ルーチンワークか……点数調整は、お前にとってルーチンワークでしかないのか?)

 宮永咲の点数調整は、彼女の持つ謎の一つだ。無意味なように見えるが、実際は勝負を決定づける場面に多用していた。

(この点数調整には……どんな意味がある?)

 智葉はこれまでの流れからそれを考察する。

 

 

 対局室ルームA(南二局まで)

  東一局     春日千絵   8000点(2000,4000)

  東二局    小笠原栄子   7700点(辻垣内智葉)

  東三局      宮永咲   8000点(辻垣内智葉)

  東四局    辻垣内智葉  11600点(宮永咲)

  東四局一本場   宮永咲   8300点(辻垣内智葉)

  南一局    辻垣内智葉   8000点(2000,4000)

  南二局      宮永咲   2600点(辻垣内智葉)

 

 持ち点(南二局まで)

  春日千絵    31000点

  小笠原栄子   28700点

  宮永咲     24300点

  辻垣内智葉   16000点

 

 

 咲が智葉を見ている。その漆黒の目の圧力に、智葉は無想を貫くことができなかった。

(嶺上開花ドラ8で上がるということか……)

 宮永咲は次の南三局で終わりにすると言っていた。しかも、八局縛りを破った者に懲罰(ちょうばつ)を加えてだ。

『倍満で上がるが0点では飛び終了にはならない。その分は自分で補え』

 それが“魔王”からの懲罰だ。

 言うまでもなく、ただの幻想にすぎない。しかし、それは智葉の出した結論であった。

(そうだな……最初が悪すぎた。だが次の為に、お前の力を見ておく必要がある)

 自分の言葉が信じられなかった。次の為に? なにを言っている? お前は引退するのではなかったのか?

(メグ……ネリー……恥ずかしながら前言撤回(ぜんげんてっかい)する。私は、やり残したことがあるようだ)

 智葉は咲に笑顔を向ける。

「配慮に感謝する」

「……」

「待たせて悪かった……勝負といこうか?」

「ええ」

 智葉の闘争本能が全開になった。これまでの辻垣内智葉が、どこまで咲に通用するか試さなければならない。

 最終局になるはずの南三局の配牌が始まった。

(なんという……これが宮永咲の力か……)

 実に鮮やかな、そして実に恐ろしき手牌であった。智葉の13枚の牌はすべてが筒子であった。

 

 

 個人戦総合待機室 臨海女子高校

 

「私は日本人のこういった思考回路が理解できない」

 アレキサンドラ・ヴィントハイムが吐き捨てるように言った。

 画面上の辻垣内智葉は、こともあろうに清一色(チンイツ)で立直をかけた。アレキサンドラならそう考えて当然だ。

 ネリー・ヴィルサラーゼも同感だった。なるほど、宮永咲が面子にいるので裏ドラが期待できるし、うまく乗れば逆転への足掛かりにもなる。それが智葉の狙いであろうが、可能性はゼロに近い。

 ただ、ネリーには、智葉の思考回路が理解できていた。

(智葉……咲なら、きっと叶えてくれる)

 智葉は完全無欠な敗北を望んでいるのだなと思った。彼女は宮永照への敗北を認めていたが、どこかに未練があった。プレイヤー引退は、その未練を断ち切ろうとする手段にすぎなかった。

「ネリー、団体戦前夜の智葉のセリフを覚えていマスカ?」

 メガン・ダヴァンが画面を見ながら質問する。忘れるわけがない。その言葉により、ネリーは敗北感を知った。

「自分は負けるかもしれないと思ったことはあるが、負けてもいいと思ったことはない」

 ネリーは智葉のセリフを復唱する。メガンが歯を見せて笑った。

「帰ってきたら土下座でもしてもらいマスカ?」

「いいよ、許してあげる」

「ほう、ずいぶんと寛容(かんよう)でデスネ」

「……メグだって嬉しいはずだよ」

 メガンが肩を寄せる。アメリカ式のスキンシップはあまり好きではなかったが、いまは特別だ。智葉の復活がだれよりも嬉しいのは、3年間苦楽を共にしたメガン・ダヴァンだろうから。

「ええ、智葉は……帰ってきます」

 ――宮永咲が嶺上開花ドラ8を決めて、辻垣内智葉の飛び終了で試合は終わった。終礼が終わり、智葉の顔がアップになる。見たこともない晴れやかな笑顔であった。

(おめでとう智葉……あなたの望みは叶えられた)

 

 

 個人戦総合待機室 清澄高校

 

 個人戦決勝第六戦は波乱の連続であったが、宮永咲は強敵の辻垣内智葉を退(しりぞ)け、原村和もトップ通過した。

「なんとかしのいだの……」

 染谷まこが安堵のため息を漏らした。

「そうね……」

 竹井久も同感であった。見ているだけで疲れる。これならば出場していたほうがよっぽどましだと思っていた。

「神代もあの一局だけでした。それ以降はいつもの神代小蒔でした」

 隣に座っている池田華菜が、他の部屋の情報をくれた。神代小蒔は、もう一つの気懸りであった。咲と小蒔は互いに干渉共鳴(かんしょうきょうめい)しており、今回の波乱も要因はそこにあると久は考えていた。

「彼女どうだった?」

「ぶっちぎりでした。今回の神代はやばいですよ」

 久もそう思っていた。小蒔は、この個人戦の鍵になる一人だ。

「部長……」

 片岡優希にセーラー服の裾を引っ張られた。

「優希……どうしたの?」

 優希は青い顔をして、久の先の華菜を見ていた。

「風越の猫が……しゃべったじぇ」

 話を聞いていた周囲が爆笑に包まれる。

 池田華菜が真っ赤な顔をして怒っている。

「猫じゃにゃいし!」

 それが相乗効果になって、辺りは収拾がつかなくなった。

 ――突然、客席がざわめき始め、周囲の笑いも急速に収まっていった。皆、画面を見て口々に言い合っている。

 久も向き直る。なるほど、これならば、と思ってしまった。

 そこには第7戦の部屋割りが表示されていた。

「咲の天敵じゃの」

「荒川憩……お姉さんも苦手にしている相手。咲との相性は最悪……」

 ざわめきがどよめきに変わった。荒川憩と宮永咲の対決は観客が心待ちにしていたカードなのだろう。立場が別ならば久だって歓喜したかもしれない。しかし、自分は清澄高校麻雀部の部長なのだ。このカードの実現は悪夢でしかなかった。

 

 

 対局室 ルームE

  荒川憩    北大阪代表(二年生)

  三上寛子   南北海道代表(三年生)

  宮永咲    長野代表(一年生)

  島津祥子   宮崎代表(二年生)

 




次回:「魔王への刺客」

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