咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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22.誓いの時

 個人戦試合会場 連絡通路

 

(なにをするかは決まっています。あとは私の問題……)

 原村和は頭の中を完全にリセットした。〈オロチ〉との対戦が決まった今、宮永咲への愛情は心の奥底にしまい、表面に出ないようにしなければならなかった。なぜならば、和の憎む〈オロチ〉は、そのような心の弱みにつけこみ、凶悪化するからだ。

 ――周囲がザワザワと騒がしくなり、大星淡に肩を叩かれた。

「ノドカ……サキだよ」

 一瞬、和は振り返るのをためらった。咲の顔を見ると、この決意が揺らいでしまうかも知れないと考えてしまった。

(それこそが〈オロチ〉の望むもの……)

 和は大きく深呼吸し、いつも咲と接している顔を作り上げる。

 振り返ると、穏やかな、実に穏やかな笑顔の咲がいた。

「ありがとう、淡ちゃん」

「……うん」

 咲は、隣にいた淡に感謝の意を伝えた。それがどのような意味であるかを知っている淡は、言葉少なく返事をした。

 そして咲は、その穏やかな笑顔を和に向けて言った。

「行こうか、和ちゃん」

「はい」

 厳しくもあり、不安げでもある顔で、淡が見ている。和は小さく礼をしてそれに答える。

(大丈夫ですよ。私は迷いませんから)

 咲と並び、試合会場であるルームAに向かう。ランキングモニターは通路のほぼ中央にあるので、角部屋のルームAまでは結構距離があった。

「いつもの咲さんと同じように見えますね」

 目にも()っすらと光沢があり、今の咲には〈オロチ〉の状態とは思えぬ柔らかさが感じられていた。

「小蒔さんと一緒になってから……私は少し変わりました」

「神代さんはまだいるのですか?」

「うん。でも和ちゃんとの対戦が決まって、小蒔さんはちょっとだけ離れています」

「そうですか……」

 心の中に神代小蒔がいると咲は言っていた。それを信じるかどうかは別にして、咲が親しげに名前で呼ぶ小蒔に、和はジェラシーを覚えていた。

 咲が和の左手を握る。手を繋ぎたがる“いつも”の咲の癖だ。互いに震えている手を絡め合う。

「待っていた……」

「私も……です」

 まるで恋人同士の睦言(むつごと)のようにも聞こえるが、和たちが入ろうとしているルームAはそのような場所ではない。そこは闘いの場なのだ。

「和ちゃん、私にはもう一つ嘘があるの……」

「嘘ですか?」

「私は……和ちゃんと本気で闘ったことがない」

「……では、これから見せてくれるのでしょうね?」

 咲の手に力が入る。

「宮永の……私の本気はね、醜いの……醜く、汚い……」

「……」

「だから、もう一度言うよ……和ちゃんは、そんな私を見たら嫌いになる」

 和も手に力を入れる。会話が始まってから、和は咲と目を合わせていない。二人の意思の疎通(そつう)は、言葉と(てのひら)に伝わる感覚だけだ。

「それならば、私ももう一度言います」

「……」

「私が咲さんを嫌いになるなんてありえません」

 和は咲の顔を見る。

(目の光沢が消えていく……あいつが現れようとしているのね)

 ルームAのドアの前で、二人は見つめ合った。咲からは柔らかさがなくなり、完全に〈オロチ〉の状態になっていた。

「わかった、見せてあげる。私の本気を……」

「はい……それこそが私の望みです」

 それは咲との最初の約束だった。二人だけの約束はいくつもあるが、『本気で闘ってほしい』とは、和から願い出た最初の約束なのだ。

 ――和は咲から手を離し、ドアを開ける。

「入りましょう」

「うん」

 

 

 

個人戦総合待機室 清澄高校

 

 会場全体か興奮に包まれていた。大型画面には宮永咲と原村和が揃ってルームAに入場する様子が映し出され、清澄高校の同級生対決に観客の期待感がピークに達しているのだ。

 ――それを実況の福与恒子がさらに(あお)る。

『団体戦では決して見られない夢の対決! 宮永咲選手と原村選手の同校対決の実現だー!』

『個人戦の醍醐味(だいごみ)はこんな所にある。荒川憩と宮永咲の対決もそうだったが、これもまさにドリームカードだろうな』

『はい。実は私のラジオで注目カード人気投票を行っておりまして、この清澄対決は堂々の2位でした』

『堂々の2位……それで、堂々の1位は?』

『言うまでもないと思いますが?』

『……そうか、姉妹対決か』

『ええ、ぶっちぎりのダブルスコアでした』

『それが実現するかどうかはこの一戦にかかっているな』

『そうですね。しかし、35ポイントの点差は如何(いかん)ともしがたいのでは?』

『この原村の気迫を見てもそんなことが言えるのか? 恐らくは福路だってそうだろうさ』

『はい』

 

 

 竹井久の目にもそう見えていた。原村和は次の試合を考えておらず、この試合ですべての精神力を使い果たそうとしていた。

「竹井、立見席に移ろうか」

 名門風越女子高校麻雀部のコーチである久保貴子からの提言だ。彼女も和がなにをしようとしているかを見抜いていた。和が試合継続不可能になるのはほとんど確定事項だ。彼女が倒れてから席を立ったのでは遅すぎるので、あらかじめ出口に近い場所に移動しておこうということだ。

 久は隣の染谷まこに目配せする。意を察したまこは、片岡優希と須賀京太郎に移動するように指示を出している。

「私はそれなりに顔が広い。大会委員でもある三尋木咏にも緊急連絡が取れる。お前が危ないと思ったらいつでも言ってくれ」

「はい」

 原村和は荒川戦の敗北後、ペース配分を無視した闘いを続けており、明らかにオーバーヒート気味だった。そして、この咲との対戦だ。残念ながら予想をたがえることはないだろう。

「なあ竹井……お前はよくやったよ」

「久保さん?」

「宮永咲、原村和、片岡優希、これほどの強力な新人が入部してきたらだれでも優勝できる。口の悪い奴はそう言うが、私はそうは思わない」

「……」

「お前でなければ、清澄を優勝に導けなかった。だから私は、お前をリスペクトしている」

「……ありがとうございます」

 貴子の(ねぎらい)いの言葉を、久は意外に思わなかった。スパルタのイメージがある久保貴子だが、それは部員の将来性を考えてのことで、本当はとても優しい人間だと、福路美穂子から聞いていたのだ。

「この試合の結果次第では、うちの福路がトップ4に進む」

「そうですね」

 貴子はそれを喜ぶでもなく、逆に大きなため息をついた。

「私たちは、優勝決定戦の当事者になるかもしれない。ただな……それは形式的なものにすぎない」

「もう私たちの手の届かないところで闘っている……和も咲も、美穂子も」

 藤田靖子から忠告されていた清澄を取り巻く大きな(うず)。自分たちはそれに巻き込まれて漂っているだけだ。久も貴子も、その無力感に打ちひしがれていた。

「だから見届けようじゃないか……あの子たちの闘いをね」

「ええ」

 

 

 インターハイ個人戦 一般観覧席

 

――会場がどよどよと沸き立っている。どうやらルームAの席順が決まったようだ。

 

  個人戦第9試合 ルームA

   東家 風間えり子  静岡代表(三年生)

   南家 春日千絵   新潟代表(二年生)

   西家 宮永咲    長野代表(一年生)

   北家 原村和    長野代表(一年生)

 

 高鴨穏乃は画面を見ながらあるつぶやきを漏らしていた。

「白い光……」

「え?」

 それを新子憧に聞きとがめられ、穏乃は慌ててごまかす。

「ごめん、なんでもないよ。和、真っ白だなあって思って」

「……」

北家の席に座り、試合開始を待っている原村和から白い光が放たれているように見えていた。穏乃が今日それを見るのは二度目であった。

「今朝の咲と同じよね……」

「え?」

 今度は穏乃が聞き返す。

「あなただけが見えていたわけじゃないよ……咲も和も正しいのよ」

「そうだね……」

「より正しい者が勝つ勝負ではない。勝ったほうが正しい勝負でもない」

「でも結果だけは残る……」

「ええ……残酷すぎるけどね」

 画面に映る原村和は視線を動かさなかった。その両目が捉える者は宮永咲。

「シズノ……」

 対木もこが口を挟む。いつになく真剣な表情だ。

「どちらが勝ってもあなたには受け入れたくない結果が残るみたいだね?」

「……」

 穏乃は答えに詰まってしまった。違うとも言えないし、そうだとも言えない。はっきりしているのは、もこの質問が図星をついていることだ。

「友人の選択は尊重すべきだよ。そして、その結果は同様に受け入れる。私はそう思う」

「荒川さんのように?」

「そう。ケイはすべてを承知の上で闘い敗れた。だから、自分が弱体化させられても文句を言わずに受け入れる。おそらく、強さを取り戻すには死ぬほどの努力が必要になるはずだよ」

「もこさん……あなたは」

「それをサポートするのが私の役目」

 穏乃は唇を噛み締める。

(そうだ……あの時ネリーさんと確認したはずだ。目を背けてはダメだ)

 穏乃は、咲と大星淡の闘いを直視できなかった。自分の目の前から、目標である宮永咲がいなくなる恐怖に耐えられなかった。そして、逃げ出したフードコートで、同じ心の弱さを持ったネリー・ヴィルサラーゼと出会った。

(『自分たちは咲の闘いを見る義務がある』)

 ネリーが言ったその言葉が、再び穏乃の心に響いた。

(そうですね……私は二度と逃げ出しません)

 もこが言ったとおりだ。二人の友人が正しい闘いをするのならば、自分もその結果を受け入れなければならない。それが友人としての正しい闘いなのだ。

 

 

 対局室 ルームA

 

 原村和は、飽きもせず宮永咲を眺め続けていた。一緒に部屋に入って席を決めてから、言葉も発せずただ眺めていた。一方の咲も、それを迷惑がるわけではなく、自然に目を合わせている。

 奇妙な感覚であった。あれほど待ち焦がれた対戦であったが、今はこのまま始まらなければいいとさえ思っていた。

(本気とは醜いもの……分かっています。私の本気も同じです。それは醜く汚い)

 咲とは練習でほぼ毎日対局しているので、お互いの手の内は知り()くしている。だからこそ、勝つためには、本気で挑まなければならない。

(『和ちゃんとは本気で闘ったことがない』)

 咲はそう言っていたが、和は違った。咲が入部してからしばらくの間、和は咲を憎み、本気で倒そうとした。それには、嵌め手も使えば、ダーティーな駆け引きも使用した。しかし、それでも力が及ばなかった。

(本気とは憎悪ではない……それを教えてくれたのは、咲さん、あなたなのですよ)

『私と一緒に全国にいこう』

 それが咲から和への初めての要望だった。その言葉は和の世界観を大きく広げた。強さを追求するあまり、狭い視野しか持っていなかった和に麻雀を打つ楽しさを教えてくれた。

(楽しい日々は(はかな)いもの……私はそれを失うことを恐れない)

 和は目を閉じる。(まぶた)に浮かぶのは涙ながらの懇願する咲の姿だ。

『自分を倒してほしい』

 迷う必要などない。その二人の誓いは和にとってなによりも優先されるものだ。

(この対局……あなたを宮永咲とは思わない。それが私の本気です)

 午前中の荒川憩への敗北は、和に大きな教訓を与えてくれた。あの対局の後半戦、和は得意の確率勝負に持ち込んだが、憩に正面から受け止められてこちらが苦しくなってしまった。その時、和は考えてしまった。このまま負けると咲を救えなくなる。そして、その弱さを憩に捉えられた。

 咲への愛情を捨てなければ〈オロチ〉には勝てない。

 和は自覚していた。それはもはや友情ではなく、ほとんど恋愛に近いものなのだ。

 

 ――部屋付きの監視員が開始の合図をするために近づいてくる。

 残り時間はわずかだ。和は咲を見つめて感謝の言葉を心の中で伝える。

(あなたに会えてよかった……)

 聞こえるはずのない言葉だが、なぜか咲は頷いた。こころなしか少し笑っているように見えた。和は嬉しくなり、満面の笑顔で返答する。

 ――監視員が東家の風間えり子の脇に止まり、腕時計を見ている。まもなく個人戦第9試合が開始されるはずだ。

「始め!」

 その合図と同時に、起家のえり子がサイコロを回す。止まった目は二と三で自五からの配牌スタートになった。

 これからデジタル打ちの数十倍の情報を処理しなければならない。制御モードとはデジタル打ちでは切り捨てても良い情報を必要とするからだ。比較するならばデジタル打ちのほうが効率的なのは分かっている。スピードに特化した必要最低限の情報でつっぱるか降りるかを選択する。勝率向上が目的ならば最適だといえるが、この個人戦は負けることが許されなかった。だから和は制御モードを選択し、そのスイッチを入れる。

 人間の脳の処理能力に合わせたデジタル打ちとは違い、制御モードは脳を限界ギリギリまで使用する。記号化やフォルトツリー(注1)など可能なかぎり情報圧縮はしたが、常にオーバーフロー気味であることは(いな)めない。和は牌を自模りながら、呼吸を制御モード用に切り替える。2回吸って2回吐くマラソンの呼吸法だが、ずいぶんと楽になる。

 意識も制御モードに切り替わった。和の愛する宮永咲は、実体のないアバターの『宮永咲』に変わった。彼女の修正ゲート(注2)は槓を多用し、嶺上牌を効果的に使用するということだけで、その他の“能力”と呼ばれているものは、一切無視する。それと『宮永咲』の手牌予測には“巡目リセット”を使用する。

 “巡目リセット”とは、荒川憩戦で使用したもので、すでに有効性を確認していた。和の制御モードは推測を累計して全体像を確立するものだが、“巡目リセット”は累計推測を使用せず、咲の摸打(もーた)ごとにゼロから推測計算し直す。そのため、局が進めば進むほど、計算量は膨大なものになり、和の負荷も増大する。だが、“確率の反逆者”たちは、累計推測に不純物を混ぜ入れてくる。立ち向かうには、常に新しいピュアな情報を基にしなければならなかった。

 

 ――配牌が終わり、親のえり子がドラ表示牌をめくる。表になった牌は【九筒】だ。そして、えり子はすばやく【南】を捨てた。

 たかだか一枚切られただけだが、それは多くの情報を和にもたらす。序盤の字牌切りは不要牌処分と考えて良く、微細な可能性は切り捨てる。つまりはえり子と【南】の関連はゼロになった。そして、【南】を必要とする春日千絵との関連も50%になる。それに『宮永咲』の槓材も一つ減った。それには和の所持する牌も該当する。手牌は対子が2個あるので、合計11種の牌も『宮永咲』の槓材から除外される。大明槓は刻子と面子の手牌を判別できたら対応は可能であると考えているので、今はまだ考慮する必要がなかった。つまりは、この段階で『宮永咲』の使用できる槓材は21種まで減少している(ドラ表示牌を含む)。

 南家の千絵の捨て牌は【三索】で、それは和も持っている牌だ。槓材候補量に変化はないがその他の情報は多数あった。彼女がセオリーともいえる序盤の字牌切りをしないのはなぜか? 可能性は三つだ。一つ目は春日千絵がまったくの素人であること。二つ目は配牌時に字牌が存在しなかったこと。三つ目は持っている字牌が有効牌であること。あえて字牌を切らない陽動行為は排除して良い。なぜならば、牌効率的に無意味だからだ。全体の20%弱ある字牌が絡まない確率と、字牌の有効牌を配牌で持つ確率はほとんど同じだ。和は字牌があるものとして千絵のフォルトツリーを形成する。

 上家の『宮永咲』が【南】を河に置いた。序盤は様子見で情報量を極力減らす戦法に思えた。それでも、情報は計り知れない。千絵の手牌の絞り込みが進み、【南】の和了牌としての役割は終了していた。竹井久のような悪待ちは和の考慮の対象外だ。理由は簡単だ。確率の悪い待ちは脅威にはならない。

 和の自摸番だ。引いた牌は【五萬】の赤ドラであった。持っていた塔子(ターツ)に繋がり、順子になった。【五萬】がドラ牌であることはそれ以上の意味を持たない。この順子が『宮永咲』に見られているなどというオカルトはありえなかった。

 和の切る牌は【西】だ。和の制御モードは序盤の捨て牌が重要になる。三人の面子がどのような形の和了を目指すのか、それを推測し、コントロールする。とはいえ、三巡目ぐらいまでは情報収集が主軸になり制御も不完全なものになる。それが自分の弱点であることも承知している。例えば片岡優希などの極端な牌の偏りを見せるものには、速攻で一方的に敗北することもあった。しかし、それは単なる運の偏りで、実際和は優希を得意としていた。スピードに逃げる優希は、手が単純化しやすく、容易に頭を抑えられるからだ。

 ここでは面子にそのスピードを意識してもらう。それには、この場が自分に制御されていることを示さなければならなかった。

 

 ――2巡目の『宮永咲』の自摸番だ。和は彼女の手牌情報をリセットし、親のえり子の第一捨て牌から順を追ってフォルトツリーを組み直す。まだ2巡目なのでツリーは24本しかなく、一秒に満たない時間で完了する。

 『宮永咲』が【発】を捨てる。

「ポン」

 えり子が副露し、和の自摸番が飛ばされたが、晒された牌は確実な情報になった。これでえり子の手牌の半数は推測可能だ。『宮永咲』はまだ字牌切りに徹しているので、低い確率の推測しかできない。ただし、彼女の使用できる槓材は確実に数を減らす。推測も含めて牌が4枚見えていないものは14種になった。『宮永咲』は刻子の副露から加槓(かかん)することもあるが、和はそれを問題視しない。ポンは予測できるが制御はできない。ただ、その牌を加槓できる確率は『宮永咲』をもってしても普通の槓と同確率でしかない。つまりはそういうことだ。ただの槓を怖がる雀士などいない。

 和の自摸番が回ってきた。制御モードはデジタル打ちの基本の遵守(じゅんしゅ)しつつ実行する。自分の手作りが良好ならば制御はその範囲内で行い、逆に良い自摸が得られず、他家の未来形と比較して不利ならば、潔く降りて制御を優先する。まだ比較検討の段階ではないが、和の手牌は悪くなかった。断公九(タンヤオ)の二向聴で赤ドラも一枚あり、状況次第では平和も加えられる。この巡目までは手作りを優先する。そろそろアンドゲート(注3)ができ上り、面子の確定牌が出てきた。

 和の引いた牌は【七萬】で、これで断公九一向聴になった。捨て牌は【六索】を選んだ。これで春日千絵の索子所持パターンのテーブルを作る。千絵は1巡目に【三索】を捨てており、えり子の切った【四索】も見逃した。彼女ほどの実力者が序盤で鳴くとは思えないが、これで対子がどれだけあるか判別できる。

 千絵は和の捨て牌である【六索】を実にあっさりと見逃した。

 和は千絵の持ち牌テーブルを4パターン(えが)き、ランク付けする。最上位は【三索】【四索】と【七索】か【八索】の対子を持っているものだ。最初の【三索】切りは頭が複数あるための対子落としで、しかも二向聴以下の好配牌と推測可能だ。

 和はその他の可能性のテーブルも確率順に作成した。制御モードでは一人につき4パターンの持ち牌テーブルを並行で処理する。もちろん序盤は確度が低いが、アンドゲート等の消去法により最短6巡目には信頼できるものが完成する。

 和の額に汗が滲む。やはり“巡目リセット”の負荷はかなり大きい。ペース配分をしなければとても最後までもたない。

 

 ――4巡目の『宮永咲』の自摸番。彼女が牌を並び替えて倒す。

「カン」

 見えた牌は【九萬】。10種まで減った槓材候補の一つなので予測どおりといえる。それにより9枚残っている彼女の手牌も見えてきた。これまでの見逃し方からもう一つ筒子の刻子を持っている。刻子を揃えられる牌は3種類、槓が可能なものは【一筒】と【八筒】の2種類だ。確率が高いのはドラ牌である【一筒】だが確定するわけにはいかない。制御モードは修正ゲート以外の個人の特性を排除する。癖や傾向などは、推測に方向性を与えてしまうものだからだ。【一筒】の確率が高いのは、その牌がドラ牌であるという理由だけだ。

 『宮永咲』は嶺上牌を取り手牌に入れる。修正ゲートに合致する。有効牌になり手が進んだようだ。

 咲が切ったのはドラ牌の【一筒】。

 ――だれも鳴かなかった。

 えり子と千絵がその【一筒】をまじまじと見て、その後に和を見ている。まるで『鳴かないのか?』と問い(ただ)しているようだ。

 残念ながら、自分にはそんな小細工は通用しない。その【一筒】切りは、ただの無駄牌処理にすぎない。これで『宮永咲』の持っている刻子は【八筒】にほぼ確定した。

 

 

 龍門渕高校 麻雀部部室

 

「智紀……これは計算づくですの?」

「おそらくそうだよ。8巡目の宮永咲の【二筒】のポンから原村和は待ちを変えた。きっと【八筒】の刻子を持っていることも知っている」

槍槓(ちゃんかん)狙い……まるで加治木さんですわね」

「加治木ゆみは完全な槍槓狙いだったけど原村和は違う。両面待ちに槍槓の可能性を追加しただけ。牌効率的には矛盾しない」

「……」

 龍門渕透華が親指の爪を噛んでいる。これは彼女が極端なストレスを感じた時の癖だ。

「原村和は最後までもちますの?」

 透華がストレスの内訳を打ち明ける。

「可能性はゼロだよ。宮永咲は巧妙な紛れ手を混在させていたが、その影響を排除している。ということは、原村和は宮永咲の手牌データを更新し続けている。凄まじい情報量……私ならとっくにパンクしている」

 冷静に答える沢村智紀に透華のストレスは増大したようだ。少し声がヒステリックになる。

「ここで潰れてしまうつもりですの? 許せませんわ! そんなこと許せません」

「透華……和なんだよ」

「どういう意味ですの?」

「咲が負けないと誓った相手は……和なんだよ」

 こういった場合のなだめ役は国広一だが、今回は、その役割ゆえの発言ではないようだ。明かに和への同情があった。

「咲もそれが分かっている……これはそういう闘いだ」

「槍槓されるって気がついてるってこと?」

 今度は天江衣が感慨深げに言う。それに食って掛かるのは井上純だ。これもまた、役割の一つといえた。

「咲は、あえて副露している。和了にドラ8が必要ならば連続槓するしかない。それを和に見せている」

「じゃあ上がらねーよ。和は安手だけどリーチをかけて槍槓なら7700だよ。咲だって馬鹿じゃない」

「大うつけだぞ……咲も和も」

「……」

 真顔な衣に、さすがの純も言葉を失う。

「死ぬまで闘うことを止めない……それは愚か者のすることだ」

 

 

 対局室 ルームA

 

 対局は12巡目に突入した。原村和は前巡で聴牌したので、聴牌即立直の鉄則に従い牌を曲げている。

 風間えり子は、第一捨て牌と同じ【南】を自摸ったらしく、スムーズな動作でそれを切った。彼女は9巡目にすでに降りていた。和はその時点でフォルトツリーの作成を中止し、以降は最終確定パターンへの牌の出し入れで対応している。12巡目にもなると面子の手牌はすべて見えている。残り牌は40ほどで、その判別は容易だ。

 春日千絵も9巡目に降りを決めていた。好配牌であった彼女だが、二向聴から手が伸びず、8巡目の『宮永咲』の【二筒】の副露でそう判断していた。門前で手を進めているので安牌をいくつか持っており、彼女が振り込む心配はなさそうだ。

 『宮永咲』が牌を自摸る前に、和は“巡目リセット”による手牌予測を開始する。本来ならば、140本ものツリーからパターンを導かなければならなかったが、えり子と千絵が降りているので幾らか軽減される。とはいっても、それには2秒近くの時間を要し、完了する頃には『宮永咲』が自摸動作を初めていた。

 これまでとは比較にならない疲労が和を苦しめる。なんとか呼吸法は維持しているが、手にはベットリと汗が(にじ)んでいた。

 『宮永咲』の目の前には、晒された4枚の【九萬】と3枚の【二筒】がある。そして手牌には刻子の【八筒】と【二萬】【九筒】の対子があった。もうなにを狙っているかは明白だ。

 和の待ち牌は槍槓狙いの【二筒】と山の中に2枚眠っている【五筒】だ。『宮永咲』がチラリと和を見て、自摸ってきた牌を3枚の【二筒】に加槓する。

 『宮永咲』は、少し間をおいてその宣言をした。

「カン」

 嶺上牌を取りにいかない。『宮永咲』はそのまま和を見ている。

「ロン」

 その瞬間、『宮永咲』がわずかに微笑む。和はそれを無視して点数を申告する。

「槍槓です。立直、一発、平和、断公九。8000」

「はい」

 

 

 都内マンション 605号室

 

「咲ちゃんはなぜこんな闘い方を?」

 心に思ったことを直接口にすることは愚行(ぐこう)である。そう思っていた小鍛治健夜であったが、宮永咲と原村和の対局を見て、思わずその愚行をしてしまった。

「勝負師ではないからだよ」

 宮永愛が目を合わせず答えた。なにをいまさら的な言葉の粗さもあった。

「だから相手の攻撃を受けると?」

「受けるのではなく、見極めている。それは照も同じだよ」

 気まずい雰囲気で、会話がしばらく途切れる。

 

「咲の言っていたのは、この子かねえ?」

 その沈黙を破ったのは愛であった。なにか諦めたような表情で健夜に問いかける。

「はい。間違いありません」

 健夜の答えに、愛は娘が負ける可能性があると判断したらしい。そして、まるで(まぶ)しいものを見るかのように画面を見てつぶやいた。

「その優しさが……お前を苦しめる」

 そのつぶやきに、健夜はなんの反応もできなかった。それは立ち入ることができない親子ならではの領域なのだ。

「照のように見極めたら、自分の力で圧倒すればいいものの……」

「そうですね……咲ちゃんは、相手にその弱点を教えてしまう」

「あえて奇策を使う……愛宕さんの娘もそうだし、辻垣内さんもそう……だから、ライバルを量産してしまう」

 愛が画面を見たままの状態で笑った。その刹那的(せつなてき)な笑顔に、健夜は心苦しさを感じてしまった。自分は感化(かんか)されている。この凄絶(せいぜつ)な宿命を持った親子に感化されてしまったのだ。その抑えきれない感情が、健夜に再び愚行をさせた。

「宮永さん……もう一度言います。私を信じてください」

「……信じるも信じないもない。咲がこの子を倒せなければ、すべてが終わる」

 

 

 

 

鶴賀学園 麻雀部部室

 

 全国高校野球選手権大会とは、夏の甲子園の正式名称だ。それは多くの高校球児の最終目標であり、大会の終了でほとんどの選手は競技者を引退する。

 麻雀のインターハイ(全国高等学校総合文化祭)にも正式名称があった。

『全国高校麻雀選手権大会』

 野球を麻雀に変えただけのひねりのない名称だが、加治木ゆみたち鶴賀学園麻雀部もそれを最終目標に修練を積み重ねてきた。残念ながら予選で敗れてしまったが、その代わりに長野を勝ち抜いた清澄高校が全国制覇し、ゆみは、その快挙(初出場初優勝)をもって自分の麻雀キャリアのけじめとしていた。

 しかし、ゆみはモヤモヤとした気持ちに悩まされていた。受験勉強に打ち込み、なんとか対処していたが、症状が解消されることはなかった。

 

 昨日から麻雀部全員で部室に集まり、インターハイ個人戦を観戦している。気分転換にと思い、軽い気持ちで参加していたゆみだが、それが思わぬ特効薬となっていた。ここにいる間は心の鬱屈(うっくつ)が完全に振り払われていた。

 ゆみは自分がなにに苦しんでいるのかを理解した。けじめなどついていないのだ。だが、目標をどこに定めたら良いのかが分からない。その舵を失った船のような不安定さが、ゆみの心をいじめていた。

 

 

(なんという闘いをする……)

 インターハイ個人戦ルームAでは宮永咲が国士無双の一向聴に構えていた。それ自体は驚くに値しない。配牌時の九種九(十)牌は、確率こそ低いが決して珍しいことではなく、そこから国士無双を狙い一向聴までたどり着くことも十分ありえる話であった。

 加治木ゆみが驚いているのは、咲が原村和の死角から攻めていることだ。普通ならば国士無双は警戒こそすれ脅威にはならない役だ。無論、役満のプレッシャーはあるが、国士は捨て牌に特徴があり、見分けがたやすく、立直しなければ振り込む心配はほぼない。また、自摸上りにしても役満確率として無視できる。要は、国士狙いであるかどうかが判別できれば良いのだ。

「普段のおっぱいさんなら、とっくに見分けてるっす」

「普段ならな」

 息詰まる展開に耐えきれなくなった東横桃子がつぶやきにも似た感想を漏らす。桃子の言うようにデジタルの化身である“のどっち”ならば、なにも迷うことはないだろう。しかし、今は違うのだ。精密な手牌予測を求める和にとって、『国士を狙っているらしい』などというボンヤリした判定はできない。

「国士は単独牌の集まり……咲はそれを考えているのでしょうか?」

「単独牌は正確な予測はできない。残り牌か縦(前後)の捨て牌から推測するしかない。最も、和ならそれは無意味なことだと言うかもしれないが」

「9巡目で4枚見えている字牌がないんですよ」

「承知の上だよ。咲は国士を上がろうとしているのではない。実験をしているだけだ」

「実験……ですか?」

 津山睦月が不安げな表情をゆみに向ける。さもありなんと思った。正統派スタイルの睦月が苦手とする変則打ちを、咲は強烈な形で実行していたからだ。

 咲の第一捨て牌は【白】であった。これは単純に対子落としだが、国士無双を狙うのなら選択しにくいはずだ。また、咲は第六捨て牌にも対子になった【一索】を切っており、七対子を装う河を作っていた。

「これってフリテンにならないの?」

「ワハハ、インターハイはダブル役満がなしのルールだろう、だから現物以外はフリテンロンができるのさ」

「……?」

 自称初心者の妹尾佳織には難しすぎる解説のようだ。きょとん顔で蒲原智美を見ている。

「ゆみちん、咲は上がれる牌が分かってるからこんな打ち方なのか?」

 智美が、今度はゆみに質問をしてきた。蒲原智美にしてはなかなか良い質問であった。

「だろうな。それともう一つ、コンピューターの欠点を攻めている」

「コンピューターの欠点?」

「蒲原、1から10までで素数はいくつある?」

「素数ってなんだー?」

「……」

 力が抜けてしまう回答であった。『それでも受験生か?』と言いたくなり、蒲原智美を睨みつける。

「四つス」

 桃子が空気を読んで答えた。その緩衝(かんしょう)作用により、智美への怒りが幾分か和らぐ。 

「2,3,5,7、蒲原以外ならあっという間に答えが出るが、コンピューターは違う。約数があるかすべて計算して答えを求める」

「こんなフェイクを使って嶺上さんはなにをしようとしてるっスか?」

「だから実験だよ……高度な並行処理をさせて原村和がどれだけ消耗するかの実験だ」

「……」

 遠回しの説明だが、全員が理解したらしく、皆、渋い顔をしている。

(甘いな……こんなことでは来年も予選で敗退する)

 ゆみは咲の戦法を汚いとは思わなかった。相手の弱い部分は徹底的に攻める。自分だってそうする。この原村和の最大の弱点は持続力なのだ。そこを削るのは勝負のセオリーと合致する。

「フェアプレイなどというのは幻想にすぎない。確実に効果が得られるのならばどんな手段だって用いる……咲はそういう闘いに踏み込んだ」

「私たちも……追いかけなければなりませんね」

 睦月が覚悟を決めたように言った。そうだ、咲や和が次のステージに進んだのならば、我々も追いかけなければならない。なぜならば、鶴賀学園は長野県に所在するからだ。悲願のインターハイ進出には清澄高校を倒す必要がある。

(睦月……よく見ておけ。おそらく、この闘いは、お前の予想をはるかに超える展開になるはずだ)

 

 

 対局室 ルームA

 

 12巡目、春日千絵の打牌完了直後から原村和は『宮永咲』の手牌推測を開始する。まだだれも降りておらず、巡目リセットによるツリーの本数は152本もあった。しかも『宮永咲』は七対子に偽装した国士無双を狙っているので、その判別も並行処理しなければならない。他家に国士無双を栄和(ロンホー)されると試合が終わってしまう。千絵も風間えり子も老頭牌を何枚か持っており、それは彼女たちの不要牌候補になっている。千絵は『宮永咲』の国士無双を察知しているが、えり子は七対子だと思っているので、振り込む可能性があった。

 ――『宮永咲』が自摸動作に入ったが、解析はまだ半分も終わっていない。

『宮永咲には8局縛りがあるので、栄和は無視しても良い』

 そう考える人もいるかもしれない。ならばその人たちに聞きたい。

『なぜ『宮永咲』が今回も8局縛りを行うと分かるのか?』

 きっと答えはこうだ。

『これまでがそうであったから』

 そうなのだ。結局は単純な経験則から答えを出しているにすぎない。

 それは和にとって受け入れがたい答えだ。負けることが許されない勝負に、曖昧な経験則が入り込む隙間はない。

 ――『宮永咲』が【四筒】を捨てた。

 まだ解析が終わらない。七対子の場合の手牌予測は完了したが、国士無双の場合の配列予測に手間取っていた。13種の単独牌一つ一つの残数確率を算出し、『宮永咲』の河と見逃しツリーから手牌の予測をする。それは驚くほどの時間を要した。とはいえ、局の進行を遅延(ちえん)させるわけにはいかず、自摸動作をしながら解析を継続する。

 和は、その自摸牌に触れた瞬間、大きなため息をついた。親指の感覚が示す牌は【三索】だった。それは『宮永咲』が七対子の持ち牌として偽装していた牌の一つで、えり子の河に一枚出ており、千絵が順子で一枚持っている牌だ。三枚目がここにあるということは『宮永咲』の七対子はもうフェイクとして無視して良い存在になった。

 そして、和がその【三索】を手牌の上に置いた直後、最適化された国士無双の手牌解析が終了した。確定ではないが、まだ『宮永咲』は国士無双を聴牌していない。しかも雀頭もできていないはずだ。序盤の偽装による対子落としが、『宮永咲』の手作りを苦しくしていた。現状雀頭を作製可能な牌は【発】【北】【一筒】【九筒】【九萬】の五種類だけで、他は3枚の所在がはっきりしている。つまりは、危険牌になりうるものはその五種類に限られた。

 和は捨て牌に【一筒】を選択する。もとより、この局は配牌が悪かったので、制御に専念するつもりであった。『宮永咲』が聴牌していないのならば、飽和状態(ほうわじょうたい)の牌を目に見える形で増やすのがベストだ。それともう一つ、この【一筒】切りには、えり子に『宮永咲』が国士狙いであることを教える役割もあった。

 河に出された【一筒】をみて、『宮永咲』とえり子がそれぞれ異なる反応をした。『宮永咲』は口角(こうかく)が上がった笑顔になり、えり子は和の河と『宮永咲』を交互にみて青くなっている。だが、それらの反応はなんの意味も持たない。原村和にとって唯一信じられるものは確率でしかない。人間の表情などという不透明なものは、信じる価値がない。

 

 

 鶴賀学園 麻雀部部室

 

「りゅ……流局か……」

 その言葉を発した蒲原智美の表情は笑顔ではなかった。彼女から笑顔が消えるのはとても珍しいことだが、だれもそれを気にしていない。

 画面に映っている原村和はもはや疲労していることを隠そうとしていない。局が終わると同時に大量の水(スポーツドリンク)を飲んでいた。

「嶺上さんは国士無双を聴牌までもっていったっス。上がれなかったのはおっぱいさんが牌を飽和させたからっスか?」

「桃、それは違う。咲は、はなから流局させるつもりだった」

「そこまでして……おっぱいさんを……」

 恐れているのか? 東横桃子はそう言いたかったのであろう。それには加治木ゆみも答えようがなかった。勝負なら負けを恐れるのは当たり前だが、『そこまでして』という部分は宮永咲にしか分からないことだ。

「!!」

 津山睦月が言葉にならない声を上げた。画面を見つめてわなわなと震えている。

「咲ちゃん……」

 今度は妹尾佳織が、ほとんど悲鳴に近い呼びかけをした。その気持ちはよく解かる。ゆみも一人であったならば、きっと、そう言っていた。それほどのインパクトを画面の宮永咲は与えていた。

 東三局。親の咲はゆっくりとした動作で牌を自模ってきた。そして、それを手牌の横に置き、3秒ほど考えて、実にゆっくりとした動作で打牌した。

 牛歩(ぎゅうほ)戦術。

 この場では最大限の効果を発揮する戦術であった。宮永咲は、それを慈悲(じひ)もなく容赦(ようしゃ)もなく原村和に使用している。

 ゆみの心になにか煮えたぎるものが発生していた。なんであるかは分かっている。だから、ゆみはそれを宣言することにした。

「蒲原……お前は久や美穂と同じ大学に行くんだったな?」

「そうだぞー、ゆみちんもくるかー」

「そうする」

「え?」

 智美が驚いている。それはそうであろう。ゆみは大学まで麻雀を続けるつもりはなかった。そのため、竹井久や福路美穂子とは別の国立大学を志望していた。しかし、状況が変わってしまった。こんな闘いを見せられては、身体のほてりを(しず)めることができない。

「負けたままというのは身体に悪い……そうだろう?」

「ゆみちん!」

「宮永姉妹を倒す。それが私の新しいゴールだ。蒲原、だから協力しろ!」

 

 

 対局室 ルームA

 

(それでこそ……それでこそ私の宮永咲です)

 原村和の戦略は崩壊していた。宮永咲への愛情は、制御モードにエラーを生みだす。そう考えて、咲を実体のない単なる対戦相手として認識することにしていた。だが、咲の本気の攻撃は、和の処理能力を極限まで消耗させるものだ。このまま続けられると、あと数局でバーストしてしまう。牛歩戦術は想定内だが、咲がここまで選択肢を増加させてくることは想定外であった。

(甘かった……咲さん、あなたは私の想像以上の世界を見てきたのですね)

 オーラスまで制御モードを維持継続させるためには、これまで無縁であった執念という作用が必要になる。

 自分は混乱しているのだなと和は考えた。意地だの執念だの言葉だけの空疎(くうそ)な力に頼ろうとしている。バカバカしいとは思うが曲げられないものもある。それは荒川憩がただの信念と揶揄(やゆ)したものだ。

(咲さん……あなたを救うためなら……私はどうなっても構わない)

 和の自摸順が回ってきた。良い配牌であり、平和の二向聴で一盃口も追加できそうだ。和もゆったりとした動作で牌を引いてくる。わずかな時間ながら脳を休める時間を作るためだ。

「……あなたを倒します」

 それは心の声であった。和もその発言をしてしまったことに気がついていなかった。

「はい」

 突然の咲の返事に和は少し驚いた。しかし、咲の笑顔が、和の決意を固めさせた。

(今こそ……私の誓いの時です。だから、くじけてなんかいられない)

 

 

 

個人戦総合待機室 清澄高校

 

 場内は静まり返っていた。

 デジタルの神は“魔王”に立ち向かえるか? 原村和と宮永咲の同校対決は、観客にそんなファンタジー映画的な展開を期待させていた。しかし、大型モニターに映しだされている現実はまったく異なっていた。“魔王”宮永咲は、実に人間らしい手法で和を攻め続けている。

 

『これはルール違反にはならないのですか?』

 宮永咲の牛歩(ぎゅうほ)戦術に、実況の福与恒子がたまらず質問した。

『麻雀は将棋や囲碁とは違い思考の制限時間が存在しない。なぜだと思う?』

 解説の藤田靖子はそれには答えず、質問に質問を重ねた。

『……分かりません』

『単純だよ、試合速度を上げるためだ』

『そんな――』

 恒子が語気(ごき)を強めて反論しようとしたが、途中でそれを止めた。

『気がついたか福与アナ。そうだ、思考時間は打牌精度に直結する。持ち時間があるのなら、だれだってそれをフルに活用する』

『あえて制限時間を設けないのですか?』

『“(おおむ)ね3秒以内で打牌すること”。思考時間に関してルールはそれしかない。競技者を縛るものは、“テンポ良く行動すべし”というマナーだけだ。いいか、ただの遊戯であった麻雀は、マナーを積極的に導入することで競技として昇華できたのだ。だから、雀士ならばマナーは厳守する』

『……』

『そこで、質問の答えだ。原村と宮永の打牌までの時間を測ってみたらいい』

 

 画面では、ちょうど宮永咲が自摸を始めていた。ゆったりした動作で自摸牌の【七萬】を手牌の横に置くと、TVスタッフが気を利かせて秒数のテロップを入れる。1,2と表示され、3に切り替わる前に咲は【七萬】を自摸切りした。続く原村和も同じだった。やはり自摸速度は遅かったが、思考時間は3秒に満たなかった。

 客席がざわめく。咲と和の行為は、牛歩戦術には間違いはないが、最低限のマナーは守られていたのだ。

『藤田プロ、それでは宮永咲選手の狙いはなんでしょうか? 試合速度が遅くなれば原村選手に余裕ができると思うのですが』

『一度始動したエンジンは止まらない』

『え? しかし、コンピューターなら処理の負荷が減るとCPUの温度は下がりますよ』

『宮永は原村を熱暴走させようとしているのではない。お前だってスマホぐらい使うだろう、時間と共に気になるものはなんだ?』

『バッテリ―切れ……ですか……』

『……汚いと思うか?』

『高校生ならば……とは思います』

『勘違いするなよ。さっきも触れたが麻雀とはそもそもそういうものだ』

『……』

『打牌による暴力、点数での威嚇、謀略、策略、なにをしてもいい。雀士ならば高校生だろうとプロだろうとそれは知っている。フェアプレイ精神などは敗者の戯言(たわごと)にすぎない』

『しかし……』

『しかしもへったくれもない! スポーツだって弱点を攻めるのは当然だ。将棋や囲碁だって相手の集中力に問題があるならば徹底的にそこを攻める。宮永も同じだ』

 

 

(珍しい……靖子がこんなにしゃべるなんて)

 藤田靖子の熱の入った解説を聞いて、竹井久はそう思った。

 靖子とは久しい間柄で、よく麻雀についても議論したが、いつもは達観的(たっかんてき)な意見を短く述べることが多かった。だが、今の彼女は宮永咲と原村和の対決について、解説者であることを忘れているかのごとく持論(じろん)をまくし立てている。そう、藤田靖子も渦に巻き込まれているのだ。抵抗し難い変革の波に巻き込まれていた。

「部長……咲のやつは、この局上がるつもりじゃ」

 隣で眉をひそめて画面を睨んでいる染谷まこが言った。

「分かるの?」

「河の形がドラ8上りの時とよう似とる……」

 “親は常に流れる”という定説は辻垣内智葉によって覆されたが、咲はそれへの回答として“8局縛り”の新仮説を提示した。

(『親が連荘しても良いが、半荘は必ず8局で終わる』)

 わずかに見えたと思った希望の光を消し去る非情な回答であった。しかし、なればこそ咲がこの局を上がることは考えられなかった。対戦相手を畏怖(いふ)させる暗黒の法則を、自ら苦しくするはずがない。

「和は飛ばないわよ」

「飛ぶ相手は和でのうてもええ……咲は攻撃し続けにゃあならん」

「……なぜ?」

「防衛本能じゃ……」

「防衛本能? 咲の?」

「部長、分かっとるはずじゃ、こりゃ咲と和の闘いじゃない」

「……」

 久は、団体戦当日の咲の言葉を思い出していた。

(『今の自分は普通ではない。姉である“絶対王者”宮永照からも〈オロチ〉と呼ばれて恐れられた』)

 久は画面に目を戻す。そこでは咲が手前の山の角をチラリと眺めていた。

(まこ……違うわよ。これは紛れもない咲と和の闘いよ)

 槓できそうな山を見てしまう。それは咲の癖であった。つまりは、〈オロチ〉と咲とは同一の存在なのだ。

(和……あなたはそれを承知の上で〈オロチ〉を倒そうとしているのね……)

 久は、咲の言った『誓い』の意味が分かったような気がした。宮永咲は原村和に倒されることを望んでいる。だから和以外には絶対に負けられない。それが『誓い』の意味なのだろう。

 ――原村和の顔がアップになった。その蒼白(そうはく)な顔には悲壮感が漂っていた。

 久は唇を噛み締める。

(いいわ……私は試合を止めない。だから和……誓いを守ってあげて)

 

 

 対局室 ルームA

 

 東三局11巡目。親の宮永咲が【六萬】をスローな動作で河に捨てた。

 原村和は、その捨て牌の確認で“巡目リセット”による咲の手牌推測を完了させる。ドラの【九索】を刻子で持っているが、まだ聴牌はしておらず、【三萬】【四萬】と【三筒】【四筒】の塔子を持っており、索子の順子と合わせて三色を狙っている。和は咲の聴牌確率と自分のそれを比較する。【五萬】は赤ドラつきで自分が刻子で抑えている。【二筒】は風間えり子が雀頭で持っており、【五筒】は春日千絵の順子の中に一枚あった。河で見えているものを含めると、咲が必要とする牌の残数は【二萬】が2枚、【五萬】が0、【二筒】は1枚で【五筒】も1枚の計4枚だ。聴牌確率は約8.5%。対する和は【五萬】の刻子を抱えているので、断公九(タンヤオ)を狙っていた。こちらも聴牌していないが、自摸可能な牌は5枚もあった。聴牌確立は約10.5%で和が有利であった。和了率まで加味すると、和はさらに有利になる。なぜならば、そうなるように制御してきたからだ。しかし、気を緩めるわけにはいかなかった。咲の『槓を多用し、嶺上牌を効果的に使用する』という“修正ゲート”が単純計算を許さなかった。

 和は、計算をリスタートさせる。咲の“修正ゲート”は数値化が難しいので、聴牌率と和了率に補正値をかける。ただし、過剰な警戒は禁物だ。それは、制御計算そのものを崩壊させるからだ。

 和の視界がぼやける。連続した制御計算によるオーバーヒートではなかった。蓄積された疲労が和の眼球の機能を鈍らせているのだ。

(逆効果でした……少しでも早く局を進めなければ)

 このままでは脳の疲労よりも他の身体機能のほうが先に()を上げてしまう。和は決断した。咲の牛歩戦術に付き合うことを止め、処理速度を上げて試合時間の短縮を優先する。それはオーラスまで闘うための最悪中の最善の選択だ。

 ――和はスピードアップして自摸牌を取る。有効牌で咲に先行して聴牌した。さきほどの計算で、“修正ゲート”の補正値を加えても和了率では和が上回る。ならば迷うことはない。

「リーチ」

 えり子と千絵が顔を上げて和の河をじっくりと見ている。

(お二人とは重複しません。安心して手を進めてください)

 和の手は断公九で【五筒】【八筒】両面待ちだ。そのうち【八筒】は、まだどこにも見えていない牌だった。えり子と千絵はこう考えているのだろう。

(『その牌は宮永咲が槓子で持っているのではないか?』)

 そうではない。【八筒】は忘れ去られたかのように4枚とも山の中に眠っている。

 和は故意に分かりやすい打牌を行い、自分の待ち牌を面子に知らしめている。えり子と千絵に戦闘意欲を持ったプレイヤーとして存在してほしかったからだ。それは、咲にフリーハンドを与えないための重要なファクターだった。

(幻影の力……咲さん、私にはそれは通用しない)

 咲は〈オロチ〉を幻影の力だと言った。幻影とはなにか? 『実在しないが実在するように見えるもの』それが幻影ではないのか? だとするならば、意味どおりの対応をしたら良い。実在しないものはなにも怖くはない。

 咲が光のない目で和を見ている。表情はないが、自分の制御への(あらが)いの意志を感じた。

(あなたを制御して見せます……)

 12巡目に突入した。咲の自模った牌が手牌の中に入った。聴牌したはずだが立直をかけなかった。捨牌は【三萬】なので、今の自摸牌は【二萬】が濃厚だ。結果、咲の待ち牌は各一枚ずつの【二筒】【五筒】ということになる。

 多くの対局者は、なぜ咲が立直をかけないかに考えを巡らせる。そして嶺上開花(リンシャンカイホウ)を狙っているのではないかという疑念が渦巻く。ドラ牌も見えておらず聴牌の形跡もある。咲が何度も見せてきた槓ドラ8の残像が頭によぎるのはしかたがない。

 だが、原村和は違うのだ。たとえ100分の1の事例が何回連続したとしても、和は、それをただの偶然として処理できた。

 和はすばやく自摸牌に手を伸ばす。和了牌は残35枚の中に5枚もあり、約14%で一発が期待できる。

 盲牌の感覚は字牌の【中】だ。一発は成らなかったが落胆はしない。14%が外れるのは当たり前だからだ。しかし、条件に変化がなければ次巡は16%に確率が上がる。6%の咲と比べてかなり優勢だ。

 そして13巡目、咲は自模った牌を置く時に指が引っかかり手前に倒してしまった。見せ牌ではないので、監視員も特に注意を与えなかったが、起こす咲の手が小刻みに動いていた。表情は変わらないが、動揺ともとれる行動にえり子と千絵が驚いている。

『無敵の“魔王”が焦りを見せている』

 そう(とら)えたに違いなかった。ばかげている。それは不確実すぎる情報だ。ただ、自摸牌を見つめている宮永咲に対しては、言うべきことがあった。

(槓できなかったとでも言いたいのですか? 咲さん、そんなオカルトはありえません)

 

 

 インターハイ個人戦 一般観覧席

 

「インヴァデシャン・システム……」

 対木もこが放心状態でつぶやいた。

 彼女からそのセリフを聞くのは今日二度目であった。高鴨穏乃は、もこがなにを言いたいのかを理解していた。この巡目、宮永咲は嶺上開花を決めるつもりで自摸牌を取り、失敗していた。これまで完璧に近い精度の必殺パターンが咲を裏切った。その要因として考えられるのは原村和の無効化システムしかないからだ。

「もこちゃん、これは和が狂わせたってこと?」

 新子憧の質問に、もこは我を取り戻した。

「……どんなに精密な機械でも、100%同じ物を作れるわけじゃないよ」

不確定性原理(ふかくていせいげんり)?」

「違うよ、もっと単純だよ……いや、もっと複雑かな」

「どっち?」

「ケイとはよく話した……みんなが能力と呼んでいるものは、いわば集団ヒステリーみたいなものだよ」

「……嶺上開花を決めるにはなにかの要素が足りなかったってこと?」

「あるいは、その逆かも」

 もこの話は、穏乃を仰天(ぎょうてん)させていた。難しいことを言っているように聞こえるが、本質は分かりやすい。咲を強くしているのは周りの人間の心理的恐慌であり、和はそのストレスを無視することによって抵抗している。要はそういうことだ。

(……でも、それは簡単じゃない)

 和の教えてくれた対抗方法はだれにでもできるものではない。ありていに言うと、現時点では和にしかできない。自分には咲の力を根本的に否定することは不可能だ。わずかでも意識してしまったら、それは咲の、いや、〈オロチ〉の(かて)になり呑み込まれてしまう。

「私にも……できるかな」

 憧のその質問は、和への羨望(せんぼう)に満ちていた。隠してはいるが、新子憧の理想の雀士は原村和であることを穏乃は知っていた。

 もこが少し間をおいて口を開く。発せられた言葉は、穏やかではあるが残酷なものであった。

「アコには無理だよ……知っているとは思うけど」

「そうね……私は能力を認めているから」

「そうだね」

 

 

 ――画面に原村和の自摸牌が拡大される。

【八筒】

 その瞬間、会場に歓声が上がった。

『原村選手が突き放す! ドラが乗って跳満の炸裂だー!』

 福与恒子の絶叫実況で地響きを伴う大歓声になった。

 高鴨穏乃も興奮が隠せなかった。和の〈オロチ〉攻略は穏乃の予想をはるかに上回っていた。

『宮永との点差は34000点か……いいアドバンテージにはなると思うが』

『そうですね、荒川選手戦でも、大星選手戦でも、宮永選手は打点の高い上りで一気に挽回してきました。まだ勝負の行方は不透明ですね』

『“魔王”と呼ばれているのはだてではない。簡単には倒せないよ』

『次の原村選手の親番は大事ですね』

『宮永は攻守逆転を目論(もくろ)むはずだ。原村が退(しりぞ)けられれば勝ちの目は見えてくる』

 藤田靖子の冷静な解説に、穏乃は落ち着きを取り戻した。まったくそのとおりだ。一局や二局を取ったからとはいえ、なんの安心材料にはならない。〈オロチ〉とはそれほど恐ろしいのだ。

(和……〈オロチ〉は王牌(ワンパイ)を支配してくる。完全無欠の治外法権の悪魔、それが〈オロチ〉だよ)

 

 

 対局室 ルームA

 

 麻雀は常に勝てる競技ではないので、押すか引くかの見切りはとても重要だ。東四局は、原村和の親番であったが、配牌があまりよくなかった。6巡目の段階で平和の二向聴、和の予測した宮永咲の手牌と比較すると、明らかに劣勢だ。

(刻子が二つ以上ある……なんという速さなの)

 まだ序盤なので“巡目リセット”の計算は速い。咲は索子の刻子を二つ持っていると推測できた。おそらくはドラ牌である【二索】と【六索】か【七索】だ。その他は筒子の塔子も2から4の範囲で持っているはずで、残りはまだ不明だ。

(“修正ゲート”を私に過剰に意識させる……それが狙いですか)

 この局は取られても良いが、咲の戦術の確認はしたかった。和は捨て牌に字牌の【西】を選択した。まだ4枚見えていない字牌はいくつかあるが、【西】は咲が持っている見込みがあった。

「ポン」

 咲の副露。これではっきりした。和の制御の及ばない王牌を、咲は切り札にしようとしていた。王牌とは、神の手牌としてプレイヤーが一切手出しできない牌だ。しかし、咲は王牌に対して因果律めいたものを持っていた。それは偶然の範疇ではあるが、無視してよい偶然ではなかった。そのために、和はその偶然を咲の“修正ゲート”として定義した。

(『槓を多用し、嶺上牌を効果的に使用する』それ以下でも、それ以上でもありません)

 すかさず回ってきた和の自摸番、手を動かし牌を取ろうとしたが、突然視界がブラックアウトした。

(おちついて……まだ……大丈夫)

 和は目を閉じてゆっくりとした呼吸を反復する。

「少し失礼します」

 数秒後、目を開けると視界が戻っていた。飛び込んできたのは、無表情ではあるが心配そうに和を(のぞ)き込む咲の顔だ。和は微笑みを作り、大丈夫ですよと小さく頷く。

 和は、サイドテーブルにあるコップにスポーツドリンクを注ぎ飲んだ。身体機能が回復していく。

「お手数をおかけしました」

 自摸牌に手を伸ばす。大丈夫だ、まだまだ闘える。

 とはいうものの、身体と相談しながらの闘いになる。和は処理の精度を若干落とすことを選んだ。

(捨て局……やむを得ませんが、そうするしかないようです)

 ――だが、咲はそれを許さなかった。次の自摸番で、〈オロチ〉が牙をむいた。

「カン」 

 咲は、自摸牌の【西】を(さら)してある刻子にくっつけ、腕を嶺上牌へと向かわせた。

「もう一個……カン」

 盲牌で判断した咲は、その嶺上牌を表にする。

【二索】

 咲は手牌の同じ牌を並べ替えて【西】の隣につける。そして、ドラをさらに増やすべく表示牌を2枚めくる。

【一索】【四萬】

 これでドラ8、咲は指を滑らせて次の嶺上牌をつまむ。

「カン」

(三連続……これが……あの三連続槓)

 和は、咲の三連続槓を見たことはあったが受けるのは初めてであった。なんという衝撃だ。偶然という言葉を忘れてしまいたくなるほどのインパクトを和は体験した。

(なかなかの……なかなかの偶然です)

 しかし、原村和は(ひる)まない。考えろ、考えるのだ。和了されるのは構わないが、振り込んではならない。咲は倍満の圧力を和にかけてきた。『お前を休ませるつもりはない』そう言わんばかりの攻勢だ。

(いいでしょう……これは全力の闘いですから……)

 咲は約束を守っている。情け容赦のない全力の攻撃を和にしかけている。この咲を倒さなければ、二人の誓いは成立しない。

 和は再び脳をフル稼働させる。咲の前に立ててある4枚の牌の半分は予測済みだ。【二筒】【三筒】もしくは【三筒】【四筒】に違いない。残り2枚は不明だが、対子ではないのは確実だ。咲の圧力には屈しない。冷静に自摸牌を処理する。

(安牌が少ない……聴牌されたら数巡で苦しくなる)

 咲が聴牌する可能性は高いが、まだいつになるかは分からない。遅ければ遅いほど好都合だ。それまでの間に、予測推測を繰り返し、振り込まない態勢を作り上げられる。

 しかし、和には懸念材料(けねんざいりょう)があった。それは春日千絵の動向だ。彼女は配牌に恵まれ、咲の牌の暴力を見ても降りないだろう。だとすると、高確率で余り牌になる筒子(推測では【一筒】)を切る。そうすると咲に聴牌されてしまう。

 和は千絵の自摸動作を見守る。牌は手牌の上に置かれ、中央付近に入った。そして、彼女が捨てた牌は、和の予想にたがわぬ【一筒】であった。

「チー」

 咲が手牌の【二筒】【三筒】を倒して、千絵の河から【一筒】を略奪し、横につけた。残った二枚の牌から【東】を打牌し、裸単騎に構えた。

 ゆっくりと頭を動かし、和を見つめる。

 笑っていた、咲は笑っていたのだ。だが、それは和の好きな笑顔ではなかった。邪悪な〈オロチ〉の笑顔であった。

(降りきって見せます……所詮は、単騎待ちでしかない)

 低い確率を意識してはならない。それはデジタルの鉄則に反する行為だ。しかし、咲の邪悪な笑顔は和の心を大きく揺さぶっていた。

(ただの単騎待ち……恐れる必要など……ありません)

 

 

 都内マンション 605号室

 

 洋室の場合でも上座と下座は存在する。一般的には入口に近いほうが下座で、遠いほうが上座になる。小鍛治健夜は客になるので、リビングセットの上座に座らされていた。

「あのウインダム・コールですら王牌には手が出せない……王牌を操れる者は、娘の咲と……あなただけ」

 下座のソファーに深く腰を掛けていた宮永愛が上体を起こしながら言った。

「……はい」

 愛がなにを言いたいのかは想像がついた。ただ、それをこちら側から振るわけにはいかない。健夜はどうとでも取れる返事をした。

「“巨人”を倒すために咲の力を欲した。そう考えてもいい?」

「間違いではありませんが、ウインダム・コールを倒すのは過程であって目的ではありません」

「その目的がニューオーダーだと?」

「咲ちゃんと照ちゃんはそのために必要なのです」

 健夜の誠実な答えに、愛がいったん視線を外した。

「あなたは……ここにきてから大きな嘘はついていない」

 愛が目を合わせずに言う。

「信用するしかないか……いいよ、あなたに〈オロチ〉とはなにかを教えてあげる」

「感謝致します」

 愛は、少し腰を浮かせてソファーに座り直す。そして、完全に健夜に向かい合い、わずかに目を泳がせる。これから話すことは、おそらくだれにも話したことがないのであろう。

 健夜の緊張も高まり、膝の上に置いた手に力が入る。 

「照は……〈オロチ〉を作り出したのは自分だと思いこんでいる。でもね、それは違うのさ、〈オロチ〉を作り出した責任は100%私にある」

「……」

「さっき話した四つの約束。その矛盾が、咲を〈オロチ〉に変えてしまった」

「矛盾ですか?」

 愛が小さく頷いた。 

「一つはだれにも言えないけど、残りの三つは教えることができる。ただし、照には内密にしてほしい……これは照が知ってはいけないことだからね」

「はい」

 まだ迷っているのか、愛はテレビに映っている娘の姿を眺めている。ちょうど宮永咲の顔がアップになった。何度か見たことのある凶悪な笑顔であった。それは健夜をも委縮させる暴力的な圧力を持っていた。

「……ダンテの定理は、ある適性がなければできない。当然、咲にもその適性があるかをテストしてみた」

 意を決したのか、愛が話し始めた。

「残念だけどね、咲は適性がなかった。でも、テストするからには咲にダンテの定理のすべてを教えなければならなかった」

「……なるほど」

「そう、咲との一つめの約束は、『ダンテの定理の秘密をだれにも漏らさないこと』」

「嘘をついてでも?」

「そうだね。『上がれる牌が分かる』とでも言えと命じてある。でもね……咲は嘘がへたでね」

 それは娘のことを話す母の笑顔であった。悲しい宿命を背負った親子ではあるが、その本質は普通の親子となにも変わりがないのだ。

 健夜も笑顔を作り、それに応えた。

「咲は天才だった。だけど、照はダンテの定理を使えた……トレーニングを重ねていくとね、二人の差はみるみる広がっていった」

「……」

「そのうち咲はね……もう照に勝てなくてもいいと思うようになってしまった」

 健夜はシャツの(えり)を緩めてつばを飲み込む。なんという息苦しさだ。健夜の脳内では複雑なパズルのピースが、愛の言葉によってはめ込まれていく。完成する絵は決まっている。それは八つの頭の龍。そう、〈オロチ〉だ。

「だから私は、咲にウインダム・コールの帰納法(きのうほう)を教えてこう言ったんだよ……『照に負けてはならない。それが照のためなんだ』ってね」

 健夜は目を閉じた。もうパズルは半分以上完成している。

(残る要素は……私の力と……)

「分かったようだねえ、小鍛治プロ」

「……はい、さきほどお聞きしましたから、ウインダム・コールの模倣は不完全だった。だから私の力を模倣させた」

「“ドラゴンズ・アイ”は咲と相性が良かった。しばらくすると咲は手がつけられなくなった。逆に照が負けを認めそうになるぐらいにね」

「!!!」

 愛が懺悔(ざんげ)するように首を垂れる。そして救いを求めるように言った。

「分かるかい? この矛盾が」

「……はい」

「なぜそんなことを言ってしまったのか……今でも考える。きっと私は錯乱(さくらん)していたのだと思う」

「……」

「『照に勝ってはならない』……それが、咲とのもう一つの約束」

 健夜の頭の中で〈オロチ〉が完成した。矛盾が生み出した〈オロチ〉は、存在自体が矛盾に満ちていた。圧倒的な攻撃力を持った防御、勝つためには負けなければならないというパラドックス。すべては咲の二律背反(にりつはいはん)に苦しむ心が投影されたものだ。母親への愛、姉への愛、その深い愛情が、咲自身を殺してしまう。

(咲ちゃん……私も……そうだったの。だから……)

「小鍛治プロ……私はあなたを知っている」

「……」

 そうだろうなとは思っていた。宮永愛は、最初から咲と自分を同一視していたからだ。

「咲は……あなた以上に闇を抱えている。それでもあなたは『自分を信じろ』と言うのかい?」

「もちろんです……」

「咲の心は知恵の輪のように絡まっている。それを解かなければ、“巨人”と闘うなど、夢でしかない」

「分かっています……だれよりも」

「だれよりも?」

「はい、だれよりも……それは分かっています」

 

 

 対局室 ルームA

 

「ツモ、三槓子、ドラ8。4000,8000」

 東四局16巡目、宮永咲が自模和了した。

 原村和はそれと同時に背もたれに身体を預け、口を開けて肩で息をしている。

(徹底している……ここまで引っ張るとは思いませんでした)

 ほぼ序盤から今まで、咲は単騎待ちで圧力をかけ続けていた。和は11巡目から安牌がなくなり、危険牌察知に最大出力で脳を稼働させていたので疲労が凄まじかった。今は5秒でも10秒でも休みが欲しい。

 風間えり子が起家(チーチャ)マークを裏返し、南入した。ようやく折り返し地点まできたが、熾烈(しれつ)を極める咲の攻撃を止めなければならなかった。

(……この南一局で、あなたを止めます)

 体力の消耗はともかくとして、試合展開自体はこれまで和の想定どおりに進んでいる。最大の勝負ポイントはこの南一局にあった。最も、できるかどうかは運次第ではあるが。

 

 対局室ルームA(東四局まで)

  東一局    原村和   8000点(宮永咲)

  東二局     流局   聴牌者無し

  東三局    原村和  12000点(3000,6000)

  東四局    宮永咲  16000点(4000,8000)

 

 持ち点(東四局まで)

  原村和     37000点

  宮永咲     27000点

  風間えり子   18000点

  春日千絵    18000点

 

(春日さん……申しわけないけれど、私はあなたの実力を利用させてもらう)

 和は春日千絵の実力を認めていた。メリハリのある麻雀で打ち筋は大胆と堅実を併せ持っている。だからこそ和は、彼女を選んだのだ。この局は千絵を狙い撃つ。最低でも跳満を和に振り込ませる。

(咲さんの自摸上りに縛りをかける)

 対宮永咲の常套手段(じょうとうしゅだん)ともいえる手法ではあるが、成功した者はいない。

 困難ではあるが、制御モードを駆使すれば絶対に可能だと和は考えていた。しかし、それは和が正常な状態での話だ。

 ――牌がせり上がってきた。えり子がサイコロを回し、南一局が開始された。

 まだコンディションは回復していない。船に乗っているように視界が揺れている。

(あと4局……お願い……)

 原村和は自分の弱さに腹を立てた。だれが助けてくれるというのだ? 咲を救う者は自分しかいないではないか。愚かすぎる懇願(こんがん)に、和は口を真一文字に結ぶ。

(勝つしかない! 勝つしかないのよ和!)

 

 

 

 個人戦総合待機室 永水女子高校

 

 会場の大型モニターの右上には、トップ10の順位表がリアルタイムで表示されていた。そして、表の最上位にある宮永照の総合ポイントがハイライト点滅している。

 

 個人戦決勝 総合順位表(第8試合迄) 

  1位 宮永照(白糸台高校 3年)   “314.4pt”(第9試合終了)

  2位 神代小蒔(永水女子高校 2年)  259.6pt

  3位 宮永咲(清澄高校 1年)     254.3pt

  4位 原村和(清澄高校 1年)     219.1pt

  5位 福路美穂子(風越女子高校 3年) 218.8pt

  6位 白水哩(新道寺女子高校 3年)  214.0pt

  7位 愛宕洋榎(姫松高校 3年)    194.6pt

  8位 江口セーラ(千里山女子高校 3年)192.2pt

  9位 姉帯豊音(宮守女子高校 3年)  189.3pt

 10位 荒川憩(三箇牧高校 2年)    187.9pt

 

 息詰まる攻防を繰り広げているルームAが小さくワイプされ、第9試合が終わったルームFが拡大される。観客からは不満のブーイングが連続発生していたが、画面が拡大しきるとそれも止んだ。

 ――そこには終礼を終えて立ち去ろうとしている宮永照の姿があった。口をきっと結んだ厳しい顔は、姉妹対決への決意を観客に感じさせていた。

 

『最終ラウンド進出一番乗りを決めたのは、“絶対王者”宮永照選手だー!』

『飛び終了なしとはいえ……この点数は圧倒的だな』

『3連覇への体制は盤石(ばんじゃく)ということでしょうか?』

『半荘で逆転可能な点数はたかが知れている。30ポイント以上離されると絶望的だろうな』

 大詰めを迎えた個人戦。福与恒子と藤田靖子は、ルームAの様子を見ながら解説を続ける。

『2位の神代選手もトップでオーラスを競技中です。そうなりますと、3位4位にだれが入るかが焦点になります』

『実質、白水までが圏内だな。愛宕以下は無理だろう。この面子で20ポイント差は厳しいよ』

『その白水選手ですが……姉帯選手と同室になり苦戦しています。現在、南三局まで進んでいますが、順位は3位です』

『姉帯か……今の白水なら苦しいだろうな。福路はどうだ?』

『はい、ルームG福路選手はトップ通過しそうです。2位に20000点以上差をつけてまもなくオーラスを向かえます』

『精神力が強いな……普通、宮永姉に二連敗したら戦意喪失してもおかしくない』

『三度目の正直でしょうか?』

『まあ……ルームAの結果次第だがな』

 

 

 ――順位表2位の神代小蒔にも試合終了の表示がついた。その得点に観客席から『おおー』というどよめきが上がった。

 

  1位 宮永照(白糸台高校 3年)   “314.4pt”(第9戦終了)

  2位 神代小蒔(永水女子高校 2年) “294.7pt”(第9戦終了)

 

『永水女子高校 神代選手、トップ通過で最終ラウンド進出決定! ここまでパーフェクトの全勝で、宮永照選手を追撃します』

『20ポイントか……可能性はあるな』

『おや……神代選手、また椅子に座ってしまいましたね。なにかあったのでしょうか』

 画面の神代小蒔は、終礼の後、再び雀卓の椅子に腰を下ろしていた。部屋付きの監視員が確認のために近づいているが、小蒔は動こうとはしていない。

『神代はルームCだったな?』

『はい? そうですね神代選手はルームCでしたが……それがなにか?』

『いや……』

 

 

 石刀霞は自分の非力さを(なげ)いていた。六女仙のまとめ役として神代小蒔をサポートしてきたが、宮永咲との同化がここまで進んでは、もはやどうしようもなかった。

「もう距離は関係ないのでしょうか?」

 狩宿巴も霞と同じ気持ちのようだ。力のない声で質問した。

「そうね。一部屋空いていてもシンクロしています。そう考えるしかないわね」

「迎えにいきますか?」

「私がいきます。巴ちゃん、連絡お願いね」

 立ち上がる霞を、巴が心配そうに見上げている。

「小蒔ちゃんを信じましょう」

「……はい」

 とはいうものの、霞も不安がぬぐえなかった。

(『原村和に負けることを咲は望んでいる』)

 咲の心を読み取った小蒔は、そう言っていた。

(『望む者に倒されるのならば八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は消滅する。だから、もしも和が咲を倒すのならば自分は静観するつもりだ』)

 とも言っていた。

 しかし、映像にはその言葉と真逆の行動が映されていた。小蒔は、まるで咲に加勢するようにルームCに(とど)まっていた。

(……あなた自身で八岐大蛇を倒すつもりなの?)

 親友同士の悲痛な闘いに心を痛め、自らの手で八岐大蛇を征伐(せいばつ)しようとしている。心優しき小蒔は、そういう選択をしたのかもしれない。

 だが、霞を不安にさせているのは、もう一つの可能性であった。

(小蒔ちゃん……あなたもしかして、咲ちゃんに心を乗っ取られているのでは?)

 本家の“オモイカネ”は分家には詳細が伝えられていないが、概要(がいよう)ならば霞も知っていた。

 

 “オモイカネ”は霧島一族最高秘術だ。それは対象者の心を支配を可能とする。そのためにはレシーバーという“オモイカネ”の一部を対象者に埋め込まなければならない。

 

 そして薄墨初美の陽動により、宮永咲へのファーストステップは成功していた。ただ、心の支配を拒絶する咲からの反作用が小蒔を苦しめていた。試合前にシンクロしてから、咲との同化が急速に進んでいるように見えた。それは“オモイカネ”の地位的優位が崩されたのではないかと思えるほどだ。

(姫様……一族の主ならば、時には冷血にならねばなりません)

 六女仙は小蒔に助言はできるが進言はできない。

(八岐大蛇征伐には慈悲の心は不要です。それをお忘れなく)

 それが霞のできる精一杯の助言であった。

  

 

 対局室 ルームA

 

 南一局12巡目。非常に危険な状態であった。宮永咲は萬子の混一色特有の河を見せて一向聴まで手を進めていた。原村和も一向聴ではあったが、和了の条件が厳しく、どうしても咲に遅れてしまう。苦労に苦労を重ね、なんとか平和、断公九(タンヤオ)二盃口(リャンペーコー)の形を作り上げたが、必要とされる跳満までは一(ハン)足りなかった。春日千絵からの出上りが必須なので、自摸上りも立直もできない手詰まりの状態だ。

 春日千絵が【七筒】を打牌する。どうやら咲の河を見て降りることを選択したらしい。

(予測よりも早い。咲さんのプレッシャーに耐えられなくなりましたか……)

 千絵も平和の一向聴で、今切った【七筒】を二枚と【八筒】を持っており、残りは雀頭の索子を除いてすべて萬子で占められ、降りるのなら筒子か索子を切るしかなかった。

 和は、8巡目あたりで3人の手牌がほぼ見えていた。千絵がその並びを有効化できる確率は少なかった。必要である【九筒】は。風間えり子が刻子で持っており、【六筒】も河に2枚見えていた。仮に有効牌になったとしても、咲と萬子の和了牌を奪い合うことになる。堅実な千絵ならば必ず降りると思っていた。

 和は手牌の【八筒】を眺める。たった一枚のその牌は、和の切り札となる牌だ。ただし、今はなんの価値もない単独牌にすぎない。なぜならば、和は聴牌していないからだ。流れに変化がなければ、あと2巡ほどで千絵はその【八筒】を切るだろう。それまでに二盃口に不足な【五筒】を自模らなければならなかった。

 咲か自摸牌を取ろうと手を伸ばす。和は“巡目リセット”により咲の手牌を再推測する。表情を変えないように努力はしているが、その情報量に多さに、和の眉間(みけん)にしわがよった。

「リーチ」

 推測計算終了とほぼ同時に発せられた咲の宣言が和の呼吸を乱す。(かす)かに口を開けて、深呼吸を行い、和は冷静さを装った。

(確率的には絶望的……あとは偶然の作用に賭けるしかない)

 和はそれを“運”とは呼ばなかった。残り牌は王牌も含めて33枚、その中に【五筒】は2枚あり、うち一つは赤ドラだ。跳満まで翻数を上げるにはその赤ドラを引くしかない。さらに、咲よりも早く上がらなければならず、それには千絵の捨て牌選択が最大のキーとなる。それはもう、“運”などという都合の良い解釈ができる言葉では表せない。

(咲さんは、おそらく3面待ち。ここで聴牌できなければ、この局は負ける)

 気がつけば口は開けっ放しになっていた。呼吸は乱れまくり、心臓の鼓動音も聞こえている。逃げたい、逃げ出せるものならばそうしたい。そんな弱さも頭をかすめる。

(逃げたらそこで終わり……)

 自分はそういう相手と闘っていることを思い出した。〈オロチ〉は弱さを見せた相手を喰いつぶすのだ。

 だから、弱さは見せられない。

 焦りや不安、恐怖、それらは和の求める偶然になんの関与もしない。そう考えると、呼吸も心拍数も落ち着いてくる。勝負の行方は確率に左右される。それが和の麻雀的イデオロギーだ。他者よりも弱い確率で勝負することは何度もあった。今回だって、その一例にすぎない。

 ――和は雑念を消し去り、自摸牌をつまんだ。親指には【五筒】の感覚が伝わる。いいぞ、なかなかの偶然だ。そして、和はその牌を見る。赤かった、赤い【五筒】であった。すばらしい。まったくもってすばらしい偶然だ。これで跳満を聴牌した。あとは千絵に振り込んでもらえば、〈オロチ〉を倒す可能性が見えてくる。

 立直はかけず、聴牌しているかどうかも曖昧にしておく。和は、手牌から【二索】を捨てる。これは千絵の持つ雀頭の裏筋で、少しでも索子切りを躊躇(ちゅうちょ)してくれると、次巡で栄和(ロン)できる確率が上がる。

 13巡目。千絵が牌を自模った。わずかに考えて捨て牌を選択した。常識的に考えるのならば、前巡と同じ【七筒】を切るだろう。その場合は、咲に上がられてしまうかもしれない。その確率は高かった。ただ、もしかしたら千絵が【八筒】を切ってくれるかもしれない。実現性こそ低いが、それも確率であった。だから和は、神になど祈りはしないし、自分を信じるなどということもしない。和が要求するものは純粋な確率である“更なる偶然”なのだ。

 そして、その“更なる偶然”が目の前に現れた。

 ――千絵の捨て牌は【八筒】であった。

「ロン」

 

 

 個人戦総合待機室 千里山女子高校

 

「原村……」

 そうつぶやいたのは一年生の二条泉であった。泉は中学時代から原村和をライバル視していた。このつぶやきは、また差をつけられたという悔恨(かいこん)の気持ちが出たのだろう。

「泉、この状態を説明しろ」

 酷な質問であるのは分かっているが、愛宕雅恵は泉にそう指示をした。

「もしも……宮永に八局縛りがあるとするならば、これはもう()みかもしれません」

 泉がルームAの得点票を見ながら言った。眩しいものでも見るかのように目を細めている。

 

 ルームA 持ち点(南一局まで)

  原村和     49000点

  宮永咲     27000点

  風間えり子   18000点

  春日千絵     6000点

 

 泉が言いたいのはこういうことだ。

(『次の南二局は春日千絵の親番なので、宮永咲は跳満以上で自摸和了できない』)

 まあ、間違いではなく、的確な観察だとも言えた。だが、それは目で見えること頭で考えられることに限られている。それが今の泉の限界点なのだ。

「風間から上がるかもしれないぞ」

「風間さんは完全に戦意喪失しています。よほどのことがなければ宮永の誘いには乗りません」

「反撃は満貫以下に限定されるか……それで?」

「話は戻りますが、八局縛りなら宮永は南三局を上がれない。そこで原村が加点できれば、オーラスは役満縛りになる」

「“魔王”なら可能ちゃうんか?」

「……無理です。この原村が相手なら」

 実に優等生的な回答だなと思った。逆にそれが、雅恵を苛立たせる。

「そんな簡単に倒せるのならだれも苦労せえへん」

「……でも」

「よう観とけ泉……麻雀には勝利の方程式はあらへん。私は、それよう知ってる」

 画面の咲の姿に、母親の宮永愛の姿が重なった。それは雅恵が何度も何度も苦渋を飲まされた相手だ。

(泉、お前はアークダンテの亡霊の恐ろしさを知ることになる。宮永咲は、お前の考えてるような攻撃をせえへん。やつが攻撃するのは……原村和の精神や)

 

 

 対局室 ルームA

 

「ツモ、門前、断公九、一盃口。1000,2000」

 南二局7巡目、宮永咲は立直もかけずに自摸上りした。これで原村和との得点差は22000点から17000点になった。春日千絵を飛ばさないために、小刻みに加点して逆転の大きな手を狙う。そう考えるのが妥当(だとう)だが、咲のある特徴が和の脳裏をよぎる。

(点数調整……なんのために?)

 確かにこの加点により、オーラスでの逆転は跳満でも可能になる。しかし、それは不毛な計算であった。南三局は咲の親番で、その不確定要素を無視してオーラスのことを考えるなど無意味の極みだ。

 とはいえ、咲の早い和了は、和の助力にもなった。有利な得点差も維持し、体力もさほど消費しなかった。あと二局ならば、なんとかなりそうだと和は思った。

 ――南三局。咲の最後の親番が始まった。サイコロの目は3であり、咲は対面の風間えり子の山から配牌を始めた。和もそれに続こうとしたが、急に右腕の感覚がなくなり、意識も喪失してしまった。

 ――気がつくと、和の右腕は雀卓の上にあり、その右腕が崩したと思われる自分の山、えり子の山の麻雀牌があちこちに転がっていた。

「そのまま、全員そのまま動かないでください」

 部屋付きの監視員がそばによってきて指示をしている。状況がよく飲み込めないが、今は従うしかなかった。

「原村選手、大丈夫ですか?」

「…………はい」

 監視員は頷き、携帯電話を取り出してどこかに連絡している。

(そうか……私は牌山を崩してしまったんだ……)

 原村和は目を閉じて肩を落とした。

(弓が切れてしまった……もう私は……矢を放てない)

 

 

 個人戦総合待機室 清澄高校

 

 会場は“がやがや”という言葉がピッタリ当てはまるような喧騒(けんそう)に包まれていた。 ルームAは原村和のチョンボにより試合が止まっている。どのような罰則にするかを決めかねている様子だが、長引く中断によって観客の不安心理が増幅していた。

 

「竹井……止めたほうがいい、これは残るぞ」

 久保貴子からの忠告だ。この試合結果は、原村和のその後に大きな傷を残す。だから無効試合にして影響を軽減しろとの進言だ。

 竹井久は考える。止められるのならばそうしたいが、それは二人の誓いへの冒涜(ぼうとく)になってしまう。それに、自分はどんなことがあってもこの試合を止めないと決めたのだ。

「私は、この試合を止められない」

「いいのか? 荒川のようになるぞ」

「かもしれません……」

「……分かった。でもな、原村はもう持たないぞ?」

 久は隣にいる染谷まこの肩を軽く叩いた。まこは、なにも言わずに片岡優希や須賀京太郎に指示を出している。

「ええ。だから久保さんにお願いがあります」

「……」

「清澄高校麻雀部は、ルームAの前で待機します。それを運営部にお伝えください」

 しぶしぶながら貴子が頷く。

「久保さんのおっしゃるとおりです。和はもう持ちません」

 

 

 インターハイ運営事務所

 

 大会委員長が携帯電話でだれかと話していた。戒能良子にはその相手がだれであるかは想像がついていた。中断しているルームAの処置をどうするか? その監視員からの確認の電話以外に考えられない。

「三尋木プロ、通常の満貫罰符(バップ)でいいかの確認ですが?」

「いいよ、それで」

 簡単に答える三尋木咏を委員長が目を三角にして見ている。チョンボに関しては部屋付きの監視員に対処が一任されているが、このような局面(順位を決めるような重要な試合)では運営委員に判断を仰ぐ場合があった。この委員長の視線は再考しろとのアピールだ。

「楽にしておやりよ……この子の心は、もう折れている」

「……分かりました」

 委員長の表情が緩む。意外とも思える咏の優しい言葉には、堅物(かたぶつ)の委員長もそうならざるをえないようだ。

 咏は顔を良子にも向ける。

「戒能ちゃん……勘違いしないでね。原村和は賭けで私がもらったんだからね。潰れてもらったら困る」

「ええ、承知しています」

 勝気な人間は嘘が大の苦手だ。その典型的な例が良子の目の前にいた。まったく、優しさを見せることになんの抵抗があると言うのだ。

 ――今度は委員長席の固定電話が鳴った。

「久保さんからの電話ですが?」

 委員長が通話口を手で塞いで咏に問いかける。

「久保ちゃん? ……それもいいよって言っておいて」

「まだ要件を言っていませんが?」

「清澄だろう? いいに決まってるさ、この試合はもう終わる」

 あからさまな笑顔になり、委員長は電話対応している。咏はそれが気に入らない様子で、扇子を取り出し、無駄に開いたり閉じたりしている。良子はもう苦笑するしかなかった。

 良子はテレビに目を戻す。ルームAには、実に厄介な問題があった。それは神代小蒔の試合への関与だった。前回の荒川憩戦といい、小蒔は要所で宮永咲を助けるような動きをしている。それがなぜなのかを良子は掴みかねていた。

(姫様……迷いは禁物です。この怪物は、倒さなければなりません)

 

 

 対局室 ルームA

 

 対局室ルームA(南二局まで)

  東一局    原村和   8000点(宮永咲)

  東二局     流局   聴牌無し

  東三局    原村和  12000点(3000,6000)

  東四局    宮永咲  16000点(4000,8000)

  南一局    原村和  12000点(春日千絵)

  南二局    宮永咲   4000点(1000,2000)

  冲和(チョンボ)     原村和  罰符(2000,4000)

 

 持ち点(南二局まで)

  原村和     40000点

  宮永咲     35000点

  風間えり子   19000点

  春日千絵     6000点

 

 張り詰めていた緊張が一時的に緩和された場合、多くの人間は気の緩みによりミスを犯しやすい。ほとんど極限状態の緊張に置かれていた原村和が、その心理的な罠にはまり込むのも無理がなかった。

 ――試合が再開されている。チョンボはノーゲームの扱いなので、南三局が繰り返されている。巡目はかなり進んでいるが、和はなにも考えることができなくなっていた。今の和は、目で見える情報を頼りに条件反射的な摸打をしているだけだ。

(見えない……なにも見えない)

 何度もツリーを組み立てようと努力はしたが、集中力を維持できずに、ツリーはすぐに崩壊してしまう。これまで和を助けてきた制御モードは実行不可能になっていた。

 悔しかった。それは泣きたくなるほど悔しかったが、涙を留めている最後の(とりで)が和にはあった。

(あと二局……死に物狂いで逃げ切るしかない)

 宮永咲を相手にたかだか5000点のリードは心もとないが、自分はまだ負けていないし、負けられるわけがない。なんのためにここまで闘ってきたのか? 和はそれを思い起こす。

 強さを追求するということは、自分を追求すること。和は長い間そう考えていた。しかし、咲は、いつもだれかのために闘っていた。抵抗はあったものの、和はその行動を理解するようになった。理由は言うまでもなかった。愛するもののためならば、自分だってそうするからだ。

 それが今ではないのか? そう思うと、この試合を自分の弱さなんかで止めることはできなかった。

 ――しかし、和は、もう今が何巡かも分からなくなっていた。

(!)

 また視界がブラックアウトして自摸牌を途中で落としてしまった。運よく表にならなかったので、「すみません」と言って牌を拾い直した。

 手牌は【白】のみの三向聴。相手の手牌が読めないので勝負などかけられない。咲は聴牌しているように見えるが、待ち牌は特定できなかった。かろうじて索子が危険であることは分かっていた。

(いけない……私は……眠ろうとしている)

 視界がぼやけたりはっきり見えたりを繰り返している。きっと(まぶた)が閉じる寸前なのだなと和は思った。

(……和ちゃん) 

 咲の声が聞こえたように思えた。和は、瞼を押し広げて咲を見る。無表情で自分の手牌を眺めていて、和に話しかけた素振りはなかった。

(和ちゃん)

 今度ははっきりと聞こえた。和は答えてみることにした。もちろん声を出す気力など残っていない。心の中で咲に返事をした。

(咲さん……ですか?)

(ありがとう和ちゃん……約束を守ってくれて)

(守ってなどいません……私は、力尽(ちからつ)きようとしています。……ごめんなさい……誓いを守れなくて……私は、あなたを倒せなかった)

(ううん、和ちゃんは本気で私と闘ってくれた。だから、私も誓いを守るよ)

(誓い……ですか)

(私は、和ちゃん以外のだれにも負けない。たとえ、お姉ちゃんだろうと、神代さんだろうと、私は絶対に負けない)

 その言葉がもたらす幸福感が、和の涙を留めている砦を崩した。ほぼ脱水状態の体に見合わぬ大量の涙が、和の目から流れ落ちていた。

(……信じてもいいのですね?)

(私の誓いの時……それは今だよ)

 和は最後の気力を振り絞る。

(この一度だけ……一度だけでいい)

 和は目を大きく開けて制御モードを起動する。見逃しの推測が過去形になるのでツリーは不完全になるが、手牌パターンの形成は可能だ。何度も意識が飛びかけるが、拳を握り締めて制御計算を継続する。和は今が11巡目であることを初めて知った。そして、和の自摸番が回ってきた。

(自風牌と混一色(ホンイツ)の聴牌……上り牌は【六索】と【九索】)

 それが咲の手牌推測の結果であった。

 和は自摸牌を引いた。その牌は見る必要がなかった。いや、見る体力すら残っていなかった。最後の力は手牌の【九索】を切ることだけに使用する。

(これでいい……これで)

 和は【九索】を河に置いた。

 咲が顔を上げる。その表情は、和の大好きな咲の笑顔であった。

 

 

 

 ※(注1)(注2)(注3)

  説明が長くなりそうです。恐れ入りますが個人戦17話「届かぬ想い」を参照頂けたらと存じます。申し訳ございません。

 




次回:「愛は霧の中に」

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