咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

44 / 66
23.愛は霧の中に

 個人戦試合会場 連絡通路

 

 竹井久は、チームメイトの染谷まこ、片岡優希と共に、やはりチームメイトの宮永咲と原村和が闘っているルームA前のベンチに座っていた(須賀京太郎は母校への連絡のために別行動)。

 個人戦の最終試合はトップ4が別枠で行われるので、第9試合までの結果が確定しなければ抽選を開始できない。そのため、選手たちには一度控室に戻るように運営側から通達されており、周りには人っ子一人いなかった。

 長い待ち時間が久を不安にさせていた。待機室を出たのは南三局なので、到着する頃には試合も終わっていると思っていたが、ドア横にあるモニターの“南三局競技中”という表示はピクリとも動かなかった。

「……ちいと心配になるのう」

 まこも同じように不安に駆られているらしい。腕組みをしながら貧乏ゆすりをしている。

「まこ、それ行儀がわるいわよ」

「ああ……すまんの」

 まこが腕組みを解いて姿勢を正した。

 優希にも注意しなければならない。彼女は落ち着きなく足をばたつかせている。

「優希も、それやめなさい」

「だって……のどちゃんは限界を超えてたじぇ」

「大丈夫よ、人間の体はちゃんとセフティー機能があるから。優希だって疲れたら動けなくなるでしょ?」

「……」

 なんの根拠もないただの出まかせではあるが、優希はとりあえず落ち着いてくれた。

 もちろん、久も優希もそんなことは信じていない。ただ、そうあってほしいという気持ちでは一致している。

 ――ようやくと言うべきか、モニター表示が“試合終了”に変わった。

 三人はほぼ同時に立ち上がり、ドアが開くのを待っていた。

「清澄高校の皆さんですか?」

 静かに開けられたドアから部屋付き監視員が顔を出す。久が頷くと、監視員はドアを引いて開放し、入室するように促す。

「現在、原村選手は失神しており、ドクターの到着を待っている状態です。どうか冷静にお願いします」

「わかりました」

 久たちは会釈をして監視員の前を通過する。

(咲……)

 短い通路の先に、原村和と宮永咲がいた。

 咲は、椅子にもたれかかっている和の左手を取り、(かたわ)らに(ひざまず)いている。信仰心の薄い久ではあったが、その光景は神に罪を告白する懺悔(ざんげ)に見えた。

 久は、二人に近づく、物言わぬ天使である和は、わずかに微笑んで目を閉じている。慈悲を()う信者である咲は、その和の顔を瞬きもせず見つめていた。

 ――外からは、カチャカチャと医療機器のぶつかる音と、キャリアーのローラー音が聞こえてきた。

「咲、ドクターが来たわ……」

 久の声が聞こえたのだろう。咲が何度か(まばた)きをしている。

 ――昨日と同じ女性のドクターが助手2名を連れて入ってきた。

 久は、その場を動こうとしない咲に近づき、手に触れる。

(冷たい……氷のよう……)

 ありえない体温であった。悲愴感(ひそうかん)漂う咲の視覚イメージが、自分の皮膚感覚を狂わせているのだなと久は思った。

「咲……手を離して。和を()てもらいましょう」

 咲は、一度目を閉じてから、握っていた和の手を膝の上に置いた。そして、静かに手を離した。

 ドクターが有無を言わさず咲の前に割って入り、和の脈や眼球の確認をしている。

「咲ちゃん、もうちょっと離れないと、助手さんの邪魔になるじぇ」

 優希とまこは、結構強引に咲を立ち上がらせて、後ろに下げる。

 その空いた空間に、二人の助手が移動用のキャリアーや簡易式バイタルモニターを運び込み、検査端末を和に装着する。TVでよく見る独特の波形が映し出され、不快感を覚える電子音をたてている。

 ドクターの指示で、助手たちは和をキャリアー移し、横向きで寝かせた。そして、手際よく点滴台にボトルを吊り下げて和の左手に打っている。

 なんと自分は無力なのだろうと久は思った。団体戦の経験から、和がこうなることは分かっていたので、すぐに駆け寄れる段取りをした。しかし、いざその場に立ってみるとできることはなにもなく、そばで心配するのが精々なものだった。

 和が目を覚ます気配はない。あの咲とギリギリの闘いをしたのだ、疲労度は前回とは桁違いのはずだ。

「部長……私は、和ちゃんを、本気で潰そうとしました」

 咲が自らの罪を告白した。そのか細い声から、痛みを覚えるほどの罪悪感が伝わってきた。気持ちは理解できるが、咲は自分を責めすぎる。

 久は、少しケアしなければならいないと思い、咲に顔を向ける。

(なに……これは、咲の心の色?)

 一瞬だが、咲が灰色のオーブに包まれているように見えた。すぐに消えてしまったが、久にはそれが咲の心の色に見えた。

(灰色……邪悪な黒に変わる途中なの? それとも白に戻る途中?)

 咲は、和を潰そうと思ったと言った。どちらともとれる曖昧な言葉ではあるが、はっきりしていることもあった。それはなぜそう思ったのかという動機だ。

「あなたは……和が怖かったのね」

「……」

「咲、和はあなたを信じて負けたのよ」

 意識のない人間に喜怒哀楽は表現できない。和が微笑んでいるように見えるのは、意識があった状態の感情が残っているだけだ。

 久は、さっき見えた灰色のオーブは、咲本来の色である白に戻る途中なのだと思った。そうでなければ、和がこんな穏やかな微笑みを浮かべているはずがない。

 しかし、咲はそれを否定した。

「私は……嘘をつきました」

 まるで本当の懺悔のように、苦しげに咲は言った。

 久にはそれが衝撃であった。嘘? 嘘とはなんだろう? だれがだれに? 様々な疑問が頭をよぎる。

 ――和の診察を終えたドクターが近づいてきた。この話はセンシティブすぎる。ここまでにしなければならない。

「これから和ちゃんを医務室に搬送します」

 ドクターの簡単な説明が、久の不安を軽減させる。彼女は病院ではなく医務室と言った。少なくとも昨日の咲よりは症状が軽いということだ。

「どうする? 静かにしているのなら一緒にきてもいいわ」

「お願いします」

 ドクターは効果的な笑顔で頷く、優れた医師の笑顔は患者や関係者を安心させる力があるのだ。それは苦悩にあえぐ咲の表情から硬さを取るほど強かった。

 和の乗せられたキャリアーが移動を始め、ドクターがその後を追う。もちろん咲や優希もそれに同行する。

「まこ」

 久は、まこを呼び止める。

「なんじゃ?」

「お願いがあるの、須賀君を捕まえて和の容態を学校に報告し直して」

「ああ、そうじゃったね」

「それとね、まこはそのまま須賀君と一緒に最終戦の観戦にまわって。どうせ男子は医務室には入れないだろうから」

「なんじゃ、京太郎のお守か」

「いいえ、あなたたちの役割は重要よ」

「観戦だけじゃなく分析もしろと?」

「もう来年は始まっているのよ、部長さん」

「……」

 

 

 対局室 ルームC

 

 ルームCには、石刀霞と神代小蒔の二人しかいなかった。部屋付き監視員は、突然動かなくなった小蒔に手を焼いていた。霞は事情を話して、小蒔が目を覚ますまでとの条件付きで退出してもらっている。

 小蒔は雀卓の西家の位置に座っていた。目を閉じて微動だにしていない。霞はその横に立ち、彼女が目覚めるのを待っている。最高秘術である“オモイカネ”を実行中の小蒔には、たとえ六女仙でも手を出せない。

 ――小蒔の(まぶた)が持ち上がり、黒目の部分があわただしく動いた。

「どのぐらい時間が経ちましたか?」

 小蒔は、視線を霞に固定し、はっきりとした口調で言った。

 霞はほっと胸をなでおろす。どうやら彼女は神代小蒔のようだ。宮永咲に心を乗っ取られてはいなかった。

「20分ぐらいです」

「そうですか……もっと長く感じました」

 立ち上がろうとした小蒔がよろめく。霞はそれを両手で抱える。

「小蒔ちゃん、大丈夫?」

「疲れました……時間があるのなら、少し眠りたいですね」

「最終戦まで1時間ぐらいあるけど、仮眠室に行こうか?」

「そうしてください」

 足取りがおぼつかない小蒔をサポートしながら歩く。それは二人三脚のようになるので、部屋から出るのも一苦労だ。

「神代選手……大丈夫ですか」

 廊下で待っていた監視員が小蒔の状態を確認する。

「ご迷惑をおかけしました」

 小蒔がそう答えると、監視員は連絡用の携帯を取り出した。

「神代選手は最終ラウンドへの進出が決定しています。開始時間は追って連絡しますので、一度待機室にお戻りください」

「よろしければ、他の3人がだれか教えて頂けますか?」

 霞は念のための質問をした。小蒔がこの部屋に(とど)まっていたことを考えると、4人目が福路美穂子であることは明らかだ。

 監視員が持っていたバインダーを見ている。

「宮永照選手、宮永咲選手……そして福路選手ですね」

「ありがとうございます」

 予想どおりの答えであったが、霞を不安にさせる答えでもあった。

 とりあえず、今は小蒔を仮眠室に運ぶことを優先する。霞は監視員に礼をして、その場を離れた。

 

(小蒔ちゃん……なぜあなたは咲ちゃんを助けるの?)

 霞はそれが知りたかった。荒川憩との試合、そして今回の原村和戦、咲が苦境におちいると小蒔はそれを援護するような動きをしていた。

「私は……咲が負けそうだから助けたわけではありません」

 小蒔は霞の心を読んだかのように答えた。いや、多分読んでいるのだ。“オモイカネ”の力が覚醒されると、レシーバーなしでも心を読めると聞いたことがあった。

「じゃあ……どうして?」

「私は、咲を守るために助けました」

「守る? だれから?」

「〈オロチ〉です」

 気になることがあった。小蒔は宮永咲を咲と呼んでいた。どんなに親しい相手でも、小蒔は必ず『さん』や『ちゃん』などの敬称(けいしょう)をつける。例外は自分を呼ぶ時だけだ。つまり、咲は小蒔にとって自分に最も近い存在だということだ。

「小蒔ちゃん……あなた、咲ちゃんと……」

「そうですね、私と咲は、もう同一かもしれませんね。だから許せませんでした。咲が〈オロチ〉という魔物に心を(むしば)まれることが」

「助けなければどうなったの?」

「宮永咲という人格は〈オロチ〉に侵食されてしまいます。そうなると“オモイカネ”では制御できなくなります」

「それが咲ちゃんを助けた理由?」

「はい」

 話の筋は通っている。通ってはいるが辻褄(つじつま)の合わない部分もある。霞はもう堪えられなかった。六女仙の掟を破ってでも小蒔に忠告しなければならない。

「それは嘘よ。だって、あなたは和ちゃんが勝つのを認めていたはずよ。それがなぜ?」

「……」

「……咲ちゃんの意思なの?」

「いいえ……私の意思です。原村さんの愛は深すぎました。彼女が苦痛を味わう必要はありません。それは、私の役割です」

 その答えは霞も想定していた。親友同士が潰し合う。慈愛に満ちた小蒔ならば、いたたまれなくなる気持ちも理解できる。

 しかし、霞には目の前にいる人間が神代小蒔だと思えなかった。

「教えて……あなたは小蒔ちゃん? それとも咲ちゃんなの?」

「どちらでもありません。私と咲は、互いの記憶を共有しています」

「記憶?」

 小蒔が足を止め、腰を支えていた霞の手を優しく外し、霞と向かい合う。

「レシーバーの圏外なので、今は咲と繋がっていません。でも、私の心には――」

 小蒔は右手を心臓の位置に置いた。

「――いつも咲の記憶があります。それは咲も同じ、心に私の記憶を持っています」

 霞は、その右手を咲から奪い取った。自分よりも小蒔に近い存在――分かっている。自分は今、咲に嫉妬しているだけだ。それは分かっているが、言わずにいられない。

「忘れちゃだめ! あなたは勝たなければならないのよ!」

 小蒔が笑った。それは、紛れもない優しい姫様の笑顔だった。

「分かっています」

 小蒔は逆に霞の手を握り返し、両手で柔らかく包み込んだ。

「咲が〈オロチ〉を消滅させるには……私を倒すしかありません。だから、決着をつけます」

「……信じていいの?」

「はい。“オモイカネ”は負けたことがありません」

 

 

 個人戦総合待機室 風越女子高校

 

 第9試合を終えた個人戦出場選手達が多数戻ってきていた。普通ならば、試合結果の確認やアドバイスなどで、わいわいがやがやと騒がしくなるはずだ。しかし、この待機室は意外なほど静かであった。理由は大型モニターに映し出されている映像にあった。そこには、原村和がルームAから運び出される様子が映されていた。

『リタイアが多いな……原村で何人目だ?』

『お待ちください……』

 画面が実況席の福与恒子と藤田靖子に切り替わった。二人は総合ポイント集計が終わるまで時間つなぎの解説をしなければならない。

『予選の薄墨選手から始まりまして……棄権にはなりませんでしたが、宮永咲選手も病院搬送されました』

『ああ、そうだったな』

『決勝で園城寺選手、鶴田選手……原村選手ですね』

『4人か、リザーバーも大忙しだな』

『ところで藤田プロ、今回の原村選手の棄権は、これまでとは違い試合が不成立になっています。得点はどのようにカウントするのですか?』

『麻雀のルールは厳しい。試合不成立の原因となった選手には、強制最下位のルールが適用される』

『最後の持ち点に関わらず、原村選手が最下位になるのですか?』

『まあ、得点を見ながら話したほうが分かりやすいだろうな』

 

 

 対局室ルームA(南三局で終了(試合不成立))

  東一局    原村和   8000点(宮永咲)

  東二局     流局   聴牌無し

  東三局    原村和  12000点(3000,6000)

  東四局    宮永咲  16000点(4000,8000)

  南一局    原村和  12000点(春日千絵)

  南二局    宮永咲   4000点(1000,2000)

  南三局    原村和    冲和罰符(チョンボバップ)(2000,4000)

  南三局    宮永咲   8000点(原村和)

 

 南三局までの持ち点

  宮永咲     43000点

  原村和     32000点

  風間えり子   19000点

  春日千絵     6000点

 

 

『この時点での春日の得点が基準になる。原村は強制的に6000点にされて、余った26000点は南三局の親が50%、子が25%で振り分けられる』

 

 

 対局室ルームA 確定得点及びポイント

  宮永咲     56000点 31pt

  風間えり子   25500点 0.5pt

  春日千絵    12500点 -12.5pt

  原村和      6000点 -19pt

 

 

『なにかポイント計算がおかしいですね』

『試合不成立の場合はオカが付かない。25000点返しで計算する』

『なるほど……だとすると、他の選手と微妙な差が出ますね』

『そうだ、だから麻雀のルールは厳しいのだ。試合の途中棄権は重大なマナー違反、それは対局者の全体責任になってしまう――』

 恒子にアシスタントが原稿を渡した。どうやら集計作業が終了したらしい。

『出たか?』

 靖子が空気を読んで解説を中断する。最初はぎこちなかった二人だが、どうやらうまくこなすコツをつかんだようだ。恒子もごく自然に対応している。

『はい。これよりトップ10の発表を行います』

 

 

 個人戦決勝 総合順位表(第9試合迄) 

  1位 宮永照(白糸台高校 3年)     314.4pt

  2位 神代小蒔(永水女子高校 2年)   294.7pt

  3位 宮永咲(清澄高校 1年)      285.3pt

  4位 福路美穂子(風越女子高校 3年)  246.9pt

  ――以上最終ラウンド進出選手

 

  5位 愛宕洋榎(姫松高校 3年)     224.1pt

  6位 江口セーラ(千里山女子高校 3年) 220.8pt

  7位 姉帯豊音(宮守女子高校 3年)   217.1pt

  8位 辻垣内智葉(臨海女子高校 3年)  209.0pt

  9位 大星淡(白糸台高校 1年)     202.2pt

 10位 白水哩(新道寺女子高校 3年)   198.4pt

 参考得点 原村和(清澄高校 1年) 200.1pt

 

 

『驚いたな……トップ4以外は、全員宮永咲に負けた者ばかりだ』

『そうですね。なにかこの大会を象徴しているように思えます』

『象徴か……10年前の小鍛治健夜を思い出すな』

『あれ? 藤田プロはお(いく)つでしたっけ?』

『……』

『よ、4位の福路選手はダークホースでしょうか?』

『……福路は類稀(たぐいまれ)なオールラウンド・プレイヤーだよ。実力は本物だ。優勝の可能性は限りなく低いが、最終ラウンドは彼女の立ち回りが鍵になる』

 

 

 ――周囲が騒がしくなった。靖子が話題にしていた福路美穂子がジャスト・タイミングで総合待機室に戻ってきたからだ。

「今帰りました」

 美穂子は落ち着いていた。周りの声は耳に届いているはずであったが、何事もなかったかのように風越女子高校の仲間の元に戻った。

「遅かったな。竹井とは会ったか?」

「はい、原村さんが大変だとかで、あの人には珍しく慌てていました」

 久保貴子の隣で池田華菜が目を輝かせていた。美穂子と早く話がしたくてうずうずしているようだ。

「華菜、吉留さん、久保コーチも……少し場所を移動しませんか? お話したいことがあります」

 話し出したら止まらなそうな華菜に先んじて、美穂子は場所の変更を申し出た。華菜と吉留末春は意外そうな顔をしているが、貴子はさもありなんとばかりに頷いた。

 

 

 福路美穂子たちは、待機室の外にある休憩所に移動していた。

 美穂子は試合の連続で時間感覚がマヒしていた。あらためて時間を確認すると、もう午後5時をすぎている。辺りには、この小休止を利用して軽い食事をしている選手もいた。

「はい、キャプテン」

 久保貴子もその準備をしていたようだ。吉留末春から飲み物とサンドイッチが渡された。なんとカツサンドだ。

「ありがとう」

 喜んでは見せたものの、美穂子の気持ちは微妙であった。ゲン担ぎのカツサンドであろうが、美穂子がこれから話そうとしていることは、それに見合わぬものだった。

「キャプテン! 最終ラウンド進出おめでとうございます!」

 そこから池田華菜のワンマンショーが始まった。興奮気味に美穂子の試合の感想をまくしたてている。放っておくとエンドレスになりそうなので、美穂子は自分の話をすることにした。

「でも、もうここまでかな」

「……はい」

 華菜は少し寂し気な笑顔を作り、話をやめてくれた。華菜は、美穂子が限界であることを知っていたのだ。

 美穂子は感謝の意を込めて、いつものキャプテンスマイルを華菜に向けた。

「残念だけど、今日は手詰まり……」

 二度の宮永照戦を、美穂子は全力で闘い持てる力をすべて出し切ったが勝てなかった。その対戦で、美穂子は照との格差を思い知らされた。彼女の闘っている相手は、自分でもなければ末原恭子でもなく、妹の宮永咲だった。照は、極限まで自分を追い込み、ストイックなまでに勝利にこだわっていた。その執念ともいえる姿に、美穂子は圧倒されてしまった。

 そして、美穂子はこう結論したのだ。

「今の私では……宮永姉妹に勝てません」

「そうか」

 久保貴子には美穂子の敗北宣言が読めていたらしい。叱責(しっせき)するでもなく、ごく普通に受け流している。

 美穂子は、貴子に深々と頭を下げた。それは謝罪のためではなく、謝意のためだ。

「ここまでこられたのは、コーチのおかげです。ありがとうございます」

 美穂子の本心であった。本来自分は人の上に立つ人間ではなかった。良し悪しをはっきりと言える資質、美穂子にはそれが欠如(けつじょ)していたからだ。だから、突然のキャプテン指名に戸惑い、貴子を恨んだりもした。だが、その理由を理解した時、貴子の慧眼(けいがん)に感謝した。

 試合前にあれこれと考え、中途半端な麻雀を打っていた美穂子に、貴子はあえて負荷を加え、その癖を取り除こうとしたのだ。

 名門風越高校のキャプテンという重責、美穂子のできることは少なかった。“ありのままの自分を見せること”指導力不足に悩む美穂子にはそれしかなかった。無我夢中だった。美穂子は没頭するあまり、自分のことを考える余裕がなくなっていた。しかし、それがプレイヤーとしての美穂子から中途半端さを消し去ってくれた。

 先ほど、藤田靖子が美穂子をオールラウンド・プレイヤーと言っていた。なるほど、今の自分はどんな局面にでも対応できる自信がある。その基礎を作ってくれたのは、目の前にいる久保貴子だった。

「……それで? どうする?」

 貴子の感謝を(こば)む癖は直っていなかった。迷惑そうに頷き、最終ラウンドをどうするかを、野暮(やぼ)ったく聞いてきた。

 運の要素もあったが、夢にまで見た最終ラウンド進出だ。美穂子もただで終わらせるつもりはない。

「今は無理でも未来なら勝てます」

「ネリー・ヴィルサラーゼと同じか?」

「宮永姉妹の強さは永遠ではない。必ず攻略できます」

 美穂子は、その未来を任せられる池田華菜と顔を合わせた。

「照さんとは、これからも闘うことができる。でも、咲ちゃんとはしばらく闘えない」

「キャプテン……せめて、最後ぐらいは、自分のために……闘ってください」

 二度と泣かないと言ったのに、華菜はまた泣きそうになっていた。しかたのない後輩だ。しかたがないが愛おしい。

「もちろん、最終ラウンドは、私が一番欲しいもののために闘う」

「キャプテンが……欲しいもの?」

「それはね……来年のインターハイの切符」

「キャプテン……」

 華菜だけではなかった。吉留末春も美穂子の側で泣きそうになっている。

「その切符を手に入れるには、清澄を、咲ちゃんを倒さなければならない」

「はい」

 二人共かろうじて涙は留めている。しかし、声は完全に涙声だ。

「私は咲ちゃんとは一度も対戦したことがない……きっと手も足も出ないかもしれない。でもね、だからこそ見える部分があると思うの」

「……」

「私は……宮永咲の謎を解こうと思う」

 

 

 個人戦総合待機室 白糸台高校

 

 福与恒子と藤田靖子のつなぎ解説はまだ続いている。順位発表は終わったので、ここからは最終試合開始まで間をもたせなければならなかった。

 

『インターハイ運営本部からの連絡です。個人戦第10試合の開始時刻が午後5時30分に決まりました。その後のスケジュールですが……トップ4最終ラウンド開始が午後6時30分、閉会式は最終ラウンドが終わり次第、即行われる予定です』

『あと10分か……消化試合になりがちだが、選手達には最後までモチベーションを保って闘ってほしいな』

『藤田プロ……熱でもあるのですか?』

『……まあいい、怒ったりはしないよ。トップ4の試合を別枠にした私たちの責任だからな。選手を(ねぎら)うのは当然だ』

『ええ』

『でも判断は間違っていないと思う。最終ラウンドは選手達にも見てもらいたいからね』

『10年に一度の大勝負でしょうか?』

『10年に一度か……なかなか意味深だな』

 

 

 このインターハイで白糸台高校が目標に定めていたものは、前人未到(ぜんじんみとう)である二つの偉業であった。一つは団体戦3連覇、もう一つは宮永照による個人戦3連覇だ。残念ながら、団体戦のほうは、清澄高校に優勝をさらわれてしまったが、個人戦3連覇の偉業は達成できそうだった。現在トップの宮永照は、2位の神代小蒔から約20pt、3位の宮永咲から30ptほどリードしていた。最終ラウンドは飛び終了なしの特殊ルールなので、まだ確実とは言えないが、照ならば間違いないと弘世菫は思っていた。理想的な展開で迎えた最終戦、普通ならば喜んでも良いはずだが、チーム虎姫は重苦しい雰囲気に包まれていた。

「照、いよいよだな」

「そうだね」

 個人戦開始前、照は妹の宮永咲との決着をつけたいと言っていた。菫たちは、それをバックアップするために行動してきた。『いよいよ』とはそういう意味があった。ただし、本心はまったく逆の『いよいよきてしまった』という後悔の意味だった。

 回避できるチャンスはあった。姉妹対決が実現する前に咲を倒して〈オロチ〉を機能不全にしてしまえばよかった。それは照も認めていたし、おそらく咲だって認めていただろう。

 しかし、その使命を背負った大星淡は敗北し、菫が最後の希望を(たく)した原村和も、咲の非情とも言える攻撃で敗れていた。

 

 

 ――画面ではトップ4以外の最終試合の抽選が行われている。大星淡が彼女に似合わぬ真面目な顔でカードが決まるのを待っていた。

 菫は、淡の意中を察した。第9試合が早く終わった淡は、あの宮永咲と原村和の試合を見ていた。友人同士の悲痛な闘い、宮永咲の姉妹対決への決意を淡は見てしまったのだ。そして、淡は宮永照の確固たる思いも知っていた。

 ――もう姉妹対決は止められない。

 それは淡だけの気持ちではなかった。チーム虎姫全体の気持ちだった。

 

 淡の最終戦のカードが決まった。その中に恐るべき強敵が含まれていた。

「辻垣内智葉……」

 その名前を口にしたのは宮永照であった。戻ってきて以来、質問の返事ぐらいしかしていなかった照が、ようやくそれ以外のことを話しだした。

「私は一つでも上の順位で終わりたい。辻垣内さんはちょうど一つ上の人だし、倒すしかないよね」

 淡もそれが嬉しいようだ。いつもの話し方で照とキャッチボールしようとしている。

「淡……辻垣内さんは消えるんだよ」

「消える……どういうこと?」

「昨日の最終戦、辻垣内さんは私の目の前から完全にいなくなった」

 照は会話を楽しもうとはしていなかった。先輩として、チーム虎姫の一員として、淡に最後のアドバイスをしようとしていた。しかし、宮永照はそれがあまり得意ではなかった。ならば、自分がサポートするしかない。

「それは意識的に消えると言うことか?」

「一局だけなのでなんとも言えないけど……見えていたはずのあの人を、私は見失ってしまった」

 菫と淡は、顔を見合わせた。正直、よく分からないアドバイスだが、あの試合で智葉に連荘をプロテクトされたのは事実だった。

「辻垣内さんは咲に負けてその力を覚醒させた。苦しい闘いになるよ」

「大丈夫だよ、私だってそうだから」

「……そうだね」

 大星淡が笑顔で立ち上がる。最終戦開始間近になり、あちこちで選手が移動開始し始めている。チーム虎姫からも淡を送り出さねばならなかった。

「淡、辻垣内さんを倒せたら、お前はもう一歩成長できる」

「淡ちゃん、しっかりね」

 亦野誠子と渋谷尭深からのエールだ。インターハイ終了後、チーム虎姫は解散する。ただ、来年もチーム制が維持されるのならば、誠子、尭深、淡の三人は同じチームになるはずだ。短い期間ではあったが、チーム虎姫の絆は、それほど深く確実なものになった。

 試合会場に向かおうとした淡が、足を止めて振り返る。

「テルー、私が帰ってくるまで待っててね」

「……ああ」

「絶対だかんね! 約束だかんね!」

「分かったから早く行け」

 照が答えるまで動かないというような淡を、董は軽く押して移動させる。

 不満気な淡を見て、照が苦笑している。

(そんな約束はできないか……)

 菫はそう思った。宮永照は大星淡の帰りを待つことないだろう。漠然としているが、それは、ほとんど確信に近い予測であった。

 

 

 都内マンション 605号室

 

 小鍛治健夜は迷っていた。もうここに来てから4時間以上になる。まだ核心の話はしていなかったが、さすがに長居(ながい)しすぎだと思っていた。ここは一度帰ったほうが、宮永愛への印象は良いはずだ。

 だが、その愛から意外な提案をされた。

「小鍛治さん、最後まで見届けましょう」

「……よろしいのですか?」

「ええ、そろそろ本心で話すべきかと……」

「わかりました」

 愛はいったん席を外し、キッチンに入った。少し前のマンションらしく、オープンキッチンになっており、なにをしているのかが見えている。

 愛は、電子レンジで温め直したなにかと飲み物を持って、キッチンから出てきた。

「イギリスが誇る大衆食のフィッシュアンドチップスだよ。最も、おいしいかどうかと言われると困る。私もそれなりに味音痴だからね」

 テーブルの上には、一人分ずつプレートに分けられたフィッシュアンドチップスとアイスティーが置かれた。

 健夜は、名前こそ聞いたことあるが、見るのは初めての食べ物に興味をそそられた。

「よく聞きますけど、初めて見ました。これはなんですか」

 健夜はなにかの揚げ物を指さした。

「それはタラのフライだよ。チップスというのはポテトチップスではなくて、フレンチフライ(フライドポテト)のこと。本当はビネガー(酢)と塩で食べるのだけど、子供たちがおいしくないと言うのでタルタルソースにしている」

 健夜は笑った。愛の言った子供たちが照や咲だと考えると、なぜか微笑みが浮かんでしまった。

「どのように食べるのですか」

「普通に手掴みで食べる。サンドイッチもそうだけど、イギリスには直接手掴みで食べる習慣がある」

 そう言って愛は、チップスをつまんで食べた。

「いただきます」

 健夜はタラのフライをつまんでソースにつけて食べてみた。――驚くほど素朴な味だった。言い換えるのなら、ただの白身魚のフライだった。

「思っていたより食べやすいですね」

 愛が大笑いしている。それはそうだろう。自分でもなんと素っ頓狂(すっとんきょう)なことを言ってしまったのかと、恥ずかしくなった。

「まあ、それ以外には褒めるところがないからねえ」

「すみません……」

 

 

 軽い夕食を終えて、宮永愛はテレビをつける。その辺は文化の差としか言えなかった。食事の時間は食事に集中する。それがイギリス流なのだろう。

「さっきも言ったけど、ミナモの手術と引き換えに、私はあなたに照と咲を渡すことをウインダム・コールに約束している」

「はい、お聞きしました」

「ただし、それには免責事項(めんせきじこう)がある」

「免責ですか?」

 愛が健夜に紅茶を渡す。いわゆる食後の紅茶というやつだ。

「“もしも、照か咲が雀士として行動不能になった場合はそのかぎりではない”。それが彼との取り交わし」

「承知しています。私の構想には二人共必要ですから」

「あなたはとんだ勘違いをしている」

「え?」

「あなたは咲のことしか考えていない。咲さえ救えたら、自分の構想が構築できると考えている」

「……」

 愛の含みのある言いかたに健夜は混乱していた。確かにそうなのだ。宮永咲を救うことは宮永照を救うこと、健夜はそう考えていた。

「照は……リビングデッドなんだよ」

「……ゾンビですか?」

 正直、なにを言い出すのかと思った。宮永照とゾンビを結びつけるものはなにもなかった。

「ちょっと違うねえ。もちろん、私は詳しくないので、違うかもしれないけど、ゾンビとは、心は死んでいるが肉体は生きているものだろう」

「私も詳しくはありませんが、そうかもしれません」

「リビングデッドはその逆……肉体は死んでいるが、精神は生き続けているものだと思う」

 愛の言いたいことがなんとなく分かった。分かったが、そんなことは認められない。それを認めると、健夜の構想は完全に崩壊してしまう。

「照ちゃんが……そうだと言うのですか?」

「あの子は……咲に完全敗北した時に、雀士としての命を終えたのさ」

「……しかし」

「だからリビングデッドなのさ」

 愛が目を閉じる。彼女は本心で話したいと言っていた。ならば、この話は――

「照を動かしているのは二つの感情……いや、執念かねえ」

「……」

「咲を怪物にしてしまった罪悪感……その贖罪(しょくざい)のために死に体(しにたい)を動かしている」

「も、もう一つは?」

「私への復讐……」

「復讐?」

「私がすべての不幸の原因がウインダム・コールにあると思ったように、照はそれをダンテの定理にあると思っている」

「ふ……復讐とは?」

 ――この話は本心に違いない。健夜は、自分のニューオーダー構想が崩れかけているのを意識した。復讐とはなにか? その答えが欲しかった。その答え次第では、すべてが無に帰すことになる。

 愛は目を開いて健夜を見つめた。それは残酷なまでに冷めた目であった。

「誇らしいほど仲の良かった照と咲……二人を()けたのは、ダンテの定理ができるかどうかだけ。だから照はダンテの定理を憎んだ」

「……」

「簡単な話さ、照はダンテの定理を自分で終わらそうと思っている」

「でも……ミナモちゃんも」

「ミナモは不完全なんだよ……完全なダンテの定理ができるのは照しかいない」

「……そんな」

「これで照の執念が分かったと思う……咲に勝って〈オロチ〉を消滅させる。そして、自分もまた……元の死に体に戻る。それが、私への復讐だよ」

 健夜の心も崩壊しそうであった。それを留めているのは、100キロ先の灯台のようなわずかな光だ。そう希望だ、宮永咲という希望。それがあるかぎり、自分はニューオーダー構想を諦めるわけにはいかない。

「宮永さん……見届けましょう。いまはそれしかありません」

「そうだね……それしかない」

 

 

 個人戦総合待機室 白糸台高校

 

 宮永照が心配したように、大星淡は辻垣内智葉に大苦戦していた。いや、もう勝負は決したも同然だった。場は南二局まで進み、淡は智葉に20000点以上離されていた。

「淡は完全に翻弄(ほんろう)されているな。これが辻垣内の本当の力か?」

「そうだね、私も勝てないかもしれない」

「照……」

 菫が照の名を呼んだのにはわけがあった。それは彼女が笑っていたからだ。

「咲はいつもそう……だれかを……強くしてしまう」

「……お前もか?」

「そうだよ」

「……」

 宮永照が立ち上がる。彼女がなにをしようとしているか想像がつく。そして、それはだれにも止められない。

「淡にゴメンって言っておいて。私、もう行くから」

「そうか……」

「……止めないの?」

「分かっているけど……どこに行く?」

「分かってるなら聞かないでよ」

「咲ちゃんを迎えに行くのか?」

「うん」

 目に焼き付ける。そんな言葉がピッタリするぐらいに、照がチーム虎姫のメンバーを見ている。亦野誠子、渋谷尭深、弘世菫の順番だ。そして照は小さく礼をした。

「ありがとう、楽しかった」

「そんな言いかたは止めろ」

「ゴメン」

 照が笑顔を残して去って行った。菫は再び『いよいよだな』と思った。照と咲の対決は、もう運命という言葉でしか表現できない。その運命の姉妹対決が、いよいよ始まってしまうのだ。

 

 

 選手仮眠室

 

 広い仮眠室の角に当たる部分。神代小蒔は、そこに布団を敷いて眠っていた。姫を守る六女仙の石刀霞は、その(かたわ)らに座り、小蒔を見守っている。

 代々、霧島の姫様はよく眠るとされている。それは、眠ることにより、強い神様の依り代(よりしろ)なるためだと霞は聞いていた。実際に小蒔はよく眠る人で、起きている時間のほうが少ないのではないかと思うこともあった。

(なにを考えているの……小蒔ちゃん)

 素直で品のある寝顔。それが小蒔の寝顔のはずであった。しかし、今の小蒔の表情は違っていた。綺麗(きれい)に揃えられた眉毛は、中央に寄っており、ふくよかな頬の筋肉にも張りがあった。うなされたりはしていないが、明かに苦しみが見て取れる顔だ。

 ――仮眠室の扉を開けて、狩宿巴が静かに入ってきた。手には大きな荷物を二つ抱えている。

「持ってきました」

「ご苦労様です」

 巴が持ってきたものは、小蒔の着替えであった。巫女服を新品に着替えて最終戦に(のぞ)みたいと、寝る前に小蒔から言われていたので、巴に準備してもらっていた。

「装束は着替えに時間がかかります。もうそろそろ起こさないと」

 霞は部屋にかけられている時計を見る。もう6時を過ぎていた。確かに小蒔を起こすべき時間だった。

「……小蒔ちゃん」

 霞は、小蒔の肩を小さく揺すった。

「……時間ですか?」

「そうね」

 目を閉じたまま小蒔が答える。

「少し汗をかきました。タオルをお借りしたいのですが」

「持ってきてありますよ、姫様」

 巴が新しい巫女装束とタオルを差し出す。

「お手数をおかけしました」

 目を開けた小蒔が、肘をついて起き上がろうとするので、霞と巴はそれを補助する。

 立ち上がるなり、小蒔は巫女服を脱ぎ始めた。部屋の角に寝場所を取ったのにはそういう理由があった。仮眠室にはだれもいないが、ここは更衣室ではない。小蒔の着替えを隠すものは、霞たちが広げてかざしている千早(ちはや)という羽織しかなかった。

 小蒔が全裸になっている。さほど大きくない千早では、すべてを隠しきれるものではなかった。彼女の体は、おびただしい汗で光り輝いていた。その幻想的な美しさに、霞は目を奪われてしまった。

 小蒔は、汗を丁寧(ていねい)にタオルで拭い、新しい装束を(まと)っていく。

「巴ちゃん、私の千早はありますか」

「用意してあります」

 小蒔が白衣(はくえ)緋袴(ひばかま)まで着たのを確認してから、巴は別の紙袋に入った姫様の千早を渡した。

 千早を纏うということは、これから神事に奉仕するということだ。小蒔の最後の闘いは“オモイカネ”と共にあるのだ。

「まいりましょう」

 新しい装束、新しい千早を羽織った小蒔の姿は、(りん)として彼女自身をも新品に見せていた。別の言いかたをするのならば、まるで生まれ変わったようだ。

「あとかたづけはしておきます。霞さんは姫様と」

「お願いします」

 

 

 ――対局室に向かって歩く小蒔の後を、霞は少し遅れて追随(ついずい)している。

「小蒔ちゃん……」

「はい」

「さっきは聞かなかったけど、咲ちゃんと決着をつけるって勝つということよね?」

「……」

 霞は小蒔の腕を掴んで止めた。そして、霞は、感情を爆発させた。

「どうして、どうしてすぐに答えないの? 小蒔ちゃんがいなくなったら私たちどうしたらいいの?」

 小蒔は、霞を抱擁し、優しい姫様の声で語りかける。

「決していなくなったりはしません。ただ、咲との闘いは、勝ち負けの話ではないのです」

「それも嘘よ……一人の人間に二つの人格は共存できない。どちらかが、必ず排除される。排除されたほうは、負けたということよ」

「そうかもしれません……でもね、霞ちゃん思い出してください」

「……」

「“オモイカネ”は負けたことがありません……信じてください」

 

 

 試合会場 医務室

 

 質素な医療用ベッドに原村和は寝かされていた。周囲にはバイタルサイン・モニターと点滴台が置かれ、竹井久、片岡優希、宮永咲の三人は、和の右側に固まって座っている。おそろしいほど静かな空間であった。音と呼べるものは、医療機器の動作音と点滴の泡の音だけだった。久も優希も極端に口数が少なくなっている。咲にいたっては一言も口をきいておらず、ただ和を見つめているだけだった。

 久は時間を確認した。もう6時20分だ、まもなく最終ラウンドの開始時刻だ。

「咲ちゃん……もうそろそろ行ったほうがいいじぇ」

 優希も心配になったのか、顔だけを向けて咲に忠告した。

「優希ちゃん……和ちゃんをお願いね」

「分かったじぇ……」

 とはいえ、咲は直ぐに立ち上がらなかった。和の全身を眺め、はみ出ている右腕を毛布にしまってから、意を決したように立ち上がった。

「待って!」

 試合会場に向かおうとする咲を、久は(とど)めた。

「あなたの言った嘘とはなにか……教えてくれる?」

「……言えません」

「……分かった。でも、その嘘は和を悲しませたりしない?」

「悲しませるかも……しれません」

「咲……」

 咲が歩いて行く。一度も振り返らずに、咲は医務室から出て行った。なんという無力さだ。葛藤に苦しむ部員の手助けすらできない。久は自分の無力さが腹立たしかった。

「咲ちゃん……」

 優希が咲のいなくなったドアを見ながらつぶやいた。きっと、優希は、何事もなく姉妹対決が終わるように祈っているのだろう。

 久もそうだった。もはや祈ることしかできなかった。

(祈りか……あなたはそれを無力さの言い訳にするの!)

 心の声の“あなた”とは自分自身のことだった。祈りなんてだれでもできるし、なんの効果もない。なにもできないが、なにかしたことにする。それが、この祈りの正体だ。腹立たしい、本当に腹立たしかった。自分がこんなに偽善(ぎぜん)に満ちた人間だとは考えもしなかった。

 しかし、それは事実だった。竹井久は思う。自分は醜悪(しゅうあく)なる偽善者なのだと。

 

 

 

 インターハイ個人戦 一般観覧席

 

 高鴨穏乃は、まもなくインターハイが終了することに、とてつもない寂しさを感じていた。思い起こせば一年前の今頃だった。かつての同級生の原村和が全中制覇したことに刺激を受け、新子憧と共に阿知賀女子学園麻雀部の復活を決心した。それからは無我夢中で突っ走ってきた。奈良の強豪である晩成高校を一回戦で撃破し、奈良予選を突破した。全国に進んでからは2回戦で、千里山女子高校に煮え湯を飲まされ、準決勝では優勝候補筆頭だった白糸台高校に土をつけた。そして、絶体絶命の状態に置かれた決勝戦。阿知賀女子学園は総力を結集して最後まで戦い抜いた。優勝はできなかったが、穏乃は夢が叶ったと思い、この一年を締めくくろうとしていた。

 しかし、夢はまだ続いていたのだ。個の闘いに興味なく、不参加を決めていた個人戦が、団体戦以上の人間模様を見せて穏乃を誘惑していた。もちろん、友人である原村和、宮永咲、大星淡の悲痛な闘いは、穏乃にもこたえた。だが、自分がそこに加われない悔しさに、穏乃はいても立ってもいられなかった。

 そう、去年の今頃、自分は走っていた。和の優勝に興奮し、阿知賀の町中を走っていた。また夢を見れる。来年は、必ず個人戦にも出場する。

「シズ、来年は必ずここにくるからね」

「そうしたいけど……そんな簡単じゃないよ」

 新子憧が睨んでいる。どうやら、彼女も穏乃と同じ夢を見ているようだ。ただ、少しアクティブすぎると思った。まあ。憧に関しては毎度のことではあるが。

「分かってるよ、だから絶対にこれるように練習を積めばいいんでしょ」

「そうか……憧、頭いいね」

「まったく……」

 ――会場に『おおー』という声が(あふ)れている。大型モニターには大きな文字で「最終ラウンド開始まで〇〇秒」と表示され、カウントダウンが続いていた。もう数字は20秒を切っている。

「始まるね……」

「そうね」

 

 

 その数字が0になった時、画面は見覚えのある特設ステージに切り替わった。ピラミッドの頂上に雀卓があり、選ばれた者しかそこには上がれない。文字通りの頂上決戦がこれから始まる。

『選手入場です!』

 客席が大歓声に包まれた。

 福与恒子の掛け声と同時に、特設ステージの東扉が開いた。そこから入場してきたのは福路美穂子であった。

『まずは、長野が生んだ英雄! 福路美穂子の入場だー!』

『英雄か、福与アナにしてはうまいことを言うな』

『はい、予選では“絶対王者”最大の謎であった“照魔鏡”の謎を解き、本選では、その“絶対王者”をあと一歩のところまで追いつめました』

『怪物揃いの本大会でも人知をつくせば対抗できる。福路はそれを証明してくれた。確かに、英雄かもしれないな』

(あお)き瞳のオールラウンダー! 福路美穂子が力強い足取りで階段を上って行きます』

 

 

 続いて南扉が開いた。そこにいたのは神代小蒔であったが、千早を纏っており、これまでとは違い、なにか神聖さを感じさせる出で立ちであった。

『まさに神がかり! “絶対王者”を肉薄追随(にくはくついずい)すべく、全勝でここまで勝ち上がった神代小蒔の入場だー!』

『神代……』

『いかがなされましたか? 藤田プロ』

『いや、少し圧倒された。なんというか、空気が変わった感じがする』

『それは、神代選手の影響ですか?』

『そうだな……彼女にとっては、ここが決戦の舞台なのだろうな』

『闘う霧島神境の姫! 神代小蒔が、今、決戦の舞台に向かいます』

 ――観客席の大声援が甲高いものから、曇ったような低音に変わった。その理由は簡単だった。観客同士は話し合っているのだ。次の入場者がだれであるかを、話し合っていた。

 

 

 試合会場 通路

 

 宮永咲が医務室を出て、一つ目の角を曲がった先に、その人、宮永照は立っていた。

「咲……」

「お姉ちゃん」

「一緒に行こう」

「うん」 

 照と咲は横並びで歩いていた。なにも話さず、まっすぐ前だけを見て試合会場へ歩いていた。

「お姉ちゃん……」

「なに?」

 団体戦決勝でも使われた特設対局室、そこに向かう最後の直線通路の途中で、咲が話しかける。

「私たちは……いつまで嘘を付き続けなければならないの?」

「その答えは、今朝、咲から聞いたよ」

「……」

「今日まで……そうでしょう?」

「そうだね……」

 そのまま二人は対局室のドアの近くまで進んだ。

「お姉ちゃん」

 もう一度、咲が姉を呼んだ。今度は照も足を止める。

「お姉ちゃんは……まだお母さんを恨んでるの?」

 照は、その質問に直接は答えなかった。しかし、照は、姉妹にしか分からない言葉で、咲の質問に答えた。

「約束を……守れなくてゴメンね」

「……」

「咲……時間だよ」

「うん」

 二人は西側の扉から揃って入場する。

 

 

 個人戦総合待機室 白糸台高校

 

 会場は完全な無音になった。多くの人間は、期待したものを見ると、感極まって興奮し、歓声をあげる。しかし、それがあまりにも唐突に現れると逆に声を失ってしまう。

 宮永姉妹が揃って入場する。それは観客全員が期待していたと言っても間違なかった。ただ、大多数の人間は、それがありえないことだと思っていた。

『……福与アナ』

 真っ先に我に返ったのは、年の功(としのこう)と言うべきか藤田靖子であった。

『と……鳥肌が……』

『私もだ……でも実況を続けてくれ』

 福与恒子は一度咳払いをして、呼吸音をマイクが拾うぐらいに大きく息を吸った。

『なんと! なんとー! 宮永姉妹が揃っての入場だー!』

 遅れてやってきた興奮が観客を熱狂させた。足を踏み鳴らす音や、ところかまわず湧き上がる声援によって、地震でも起きているのでないかと錯覚するほど会場が揺れている。

『10年に一度、いや、100年に一度の大決戦! 運命の姉妹対決が今始まろうとしています』

『腹を(くく)ったか……』

『3連覇へ向けてわが道を貫くのか、“絶対王者”宮永照! それを阻もうとするのか、“魔王”宮永咲! 究極の対決、これはまさに究極の対決だー!』

 

 

「こんなの、究極の対決なんかじゃない!」

 その大星淡の叫びは、大歓声にかき消されていた。

「テルー……サキ……」

 インターハイの前は、この勝気な淡が泣くなど考えもしなかった。しかし、最近の淡はよく泣く、やたら滅多ら泣くと言ってもいいほどだ。

 ――やめろ淡、こっちを見るな。涙は移ってしまう。自分はまだ泣くのが嫌いだ。

 弘世菫の抵抗は無駄に終わった。淡の言うとおりだった。この対決は究極の対決などでなない。あってはならない禁断の対決なのだ。 

 

 

最終ラウンド対局室

 

 インターハイの最終戦は、団体戦も個人戦も特設会場にて実施される。地上数メートルの位置に雀卓が設置され、その頂から、東西南北に階段が延びている。遠目で見ると、低い富士山の天辺(てっぺん)にポツンと雀卓だけがある不思議な設備だが、そこは、文字通りの頂上決戦が行われる(おごそ)かな舞台なのだ。

 高校生雀士ならば、だれもがそこに立つことを憧れる。もちろん、福路美穂子も同様だった。一昨年、昨年のインターハイでは、それが叶わなかったが、今、自分は確かにここに立っている。

恍惚(こうこつ)と不安の交錯……こんな感情もあるのね)

 美穂子は感慨無量であった。しかし、不安はその何十倍もあった。異様な胸騒ぎにより心拍数が上がる。美穂子は周囲を観察して平常心を取り戻そうとした。

 

 ――目の前には席決めに使用した【東】が置かれている。インターハイの席決めは、単純化されたWMSO方式(四枚の東南西北の牌をめくり、それが席順となる)が採用されているので、美穂子の仮東が決定していた。この卓には“絶対王者”もいれば“魔王”もいる。起家がだれになるかは非常に重要だが、それを決められるのは、自分が回すサイコロの目だけだ。

 

 ――美穂子の左には【北】を表にした神代小蒔が立っていた。藤田靖子が“牌に愛された子”に挙げる一人だ。昨年も含め、対戦するチャンスは何度もあったが、結局彼女と絡むことなくここまできてしまった。

(無軌道の打ち筋……初戦では対応しきれない)

 緻密な洞察力が持ち味の美穂子でも、小蒔の攻守パターンが絞り切れなかった。彼女の対局データは、まるで一貫性がなく、ほぼ別人が打っているように見えた。アウトボクシング的な美穂子の麻雀が最も苦手とする相手だ。

 小蒔はいつもと同じ巫女服を着ているが、なにかストールのようなものを肩からかけている。それがどんな意味を持つのかは分からないが、なにか神聖な儀式の装束にも見える。おそらく、彼女にとっても、この闘いは特別なものなのだろう。

 

 ――美穂子の向かい側の階段から、宮永照が上がってくるのが見えた。

(咲ちゃん……)

 美穂子を驚かせたのは、照の後ろにもう一つの頭が見えたからだ。この階段は狭いので二人並んでは登れない。姉の照の後ろには、妹の宮永咲がいた。ということは、二人揃ってこの会場に入ったことになる。

 照が場所決め牌をめくった。

【西】

 照は美穂子の前に立つ。“絶対王者”とは三度目の対決になる。その表情は、これまで以上に厳しかった。

 ――そして、咲が残った【南】をひっくり返した。

(う……)

 美穂子は左手で腹部を押さえる。胃液が逆流するような気分の悪さだった。咲から放たれる漆黒のオーラが、美穂子の戦闘意欲を()ごうとしていた。

 咲のことはよく知っている。もっと言うのなら、〈オロチ〉の状態の彼女だって知っている。しかしながら、この臨戦状態の凶悪さは、美穂子の認識外のものだ。

(逆に考えるのよ……私は咲ちゃんと対戦経験がない。だから、現時点で彼女を恐れる要素はなにもない)

 それは奇妙なめぐり合わせだった。個人戦選手同士の対戦が御法度(ごはっと)であった合同合宿はさておいて、長野予選、インターハイと、60試合ほど咲と対戦する機会があったにもかかわらず、一度も同卓になることはなかった。幸か不幸かは不明だが、美穂子のスタンスを考えるのならば、ここはポジティブな選択がベストだ。

(咲ちゃんに勝つ必要はない。見極めることが大事。彼女がなにに強いのか、なにに弱いのか……)

 美穂子は自分を恥じていた。不安など感じる必要はなかった。あの臨海女子高校ネリー・ヴィルサラーゼのように、明日のために、未来の風越のために闘えば良いだけだ。なにもできなくたっていい、神代小蒔や宮永姉妹にボロボロにされたって構いはしない。自分が闘う理由を違えなければ、それで良いのだ。

 

 最終ラウンドを闘う四人が揃い、監視員が雀卓の東と南の間に立った。

「始め」

 始まりぐらいは元気にいこう。美穂子はそう考え、普段以上の大きな声で礼をした。

「おねがいします」

 いつもの耳ざわりな開始ブザーが鳴り、美穂子は席に座る。そして、運命のサイコロを回した。

 出目は二と六の八であった。それにより、席順は以下のように確定した。

 

 

 個人戦最終ラウンド席順

  東家 神代小蒔(永水女子高校 2年)

  南家 福路美穂子(風越女子高校 3年)

  西家 宮永咲(清澄高校 1年)

  北家 宮永照(白糸台高校 3年)

 

 “絶対王者”がラス親になってしまったが、美穂子はこれも運命だと思った。

(あなたとのめぐり逢いも……私にとっては運命だった)

 こんな大勝負の前に、美穂子は親友の竹井久のことを想っていた。運命とは人間の意思ではどうにもならないもの。そして、それは必ず幸福か不幸のどちらかをもたらす。

(弱い……私は弱すぎる)

 なぜ久のことを思い出したのか? 理由ははっきりしている。それが美穂子に幸福をくれた運命だったからだ。今回もそうであってほしいという願望が、美穂子の記憶からそれを引き出したのだ。

(私はキャプテンなのよ……風越女子のキャプテン)

 それは、再発した自分の弱さを治す呪文であった。効果は絶大で、リセットされた美穂子の両目が、卓上を、宮永照を、宮永咲を、神代小蒔を査察する。

 起家の神代小蒔がサイコロを回して配牌を始めた。続く美穂子も山に手を伸ばす。

(インターハイ最終戦。でも、これは終わりの闘いではない、未来への始まりの闘い……それを忘れてはいけない)

 

 

 

 ――それは“オモイカネ”の予測どおりの展開であった。

 今現在、神代小蒔と宮永咲との繋がりは遮断されている。予選のオーラス同様に、小蒔には咲の心が見えていなかった。“オモイカネ”のレシーバーは咲に作用するものであって、〈オロチ〉には作用しない。多分、咲は意図的に〈オロチ〉の比率を高めてレシーバーを無力化しているのだろう。ただ、その戦術は小蒔になんの驚きも与えていなかった。

(咲……この局は上りを放棄するのですね?)

 “オモイカネ”の地位的優位は揺るがない。たとえ咲の心が見えなくとも、こちらからはアプローチ可能だ。もちろん返事など期待していないが、咲を懐柔(かいじゅう)させる意図はあった。

(“オモイカネ”の特性を逆手に取るつもりですか?)

 あいかわらず返事はないが、咲はその特性を知っているはずだった。知恵の神である“オモイカネ”は常に相手を上回る予知予測が可能だ。特性とは“常に”という部分で、麻雀に当てはめるのならば、“オモイカネ”は、“常に”咲が上がろうとする役以上で和了できるのだ。

 咲はこう考えている。その条件ならば、0か100を繰り返せば“オモイカネ”は身動きできないはずだと。なるほど、面白いアイデアではあった。倍数のない0の流局と、上回る得点のない100の役満の矩形波(くけいは)攻撃では“オモイカネ”が機能しないのは確かだった。しかし、それは絵に描いた餅としか言いようがなかった。なぜならば、咲が“オモイカネ”を知っているように、小蒔も〈オロチ〉を知っているからだ。

 咲が0を選択した場合は、放置しても良かった。それは敗北の否定という〈オロチ〉の存在意義に反するからだ。100を選択した場合はもっと簡単だった。〈オロチ〉の仕組みを知る“オモイカネ”の前では、咲が役満を上がることなど不可能なのだ。

(咲……私はあなたのすべてを知っています)

(私もです……小蒔さん)

 観念したのか、咲が小蒔の問いに答えた。

 ――東一局は着々と進んでいた。“照魔鏡”のデータ収集で和了を放棄している宮永照。良い手牌で早上がりが可能であったが、あえて高めを上がろうとしている福路美穂子。そして、戦意なく上りを放棄している宮永咲。

 すべては“オモイカネ”の予測と一致していた。

(“福路美穂子が満貫以上で和了する”)

 それが“オモイカネ”の導き出した東一局の結論であった

 そして15巡目。美穂子が跳満を自摸上りした。

 

 

(咲……聞こえる?)

(はい、聞こえています)

 神代小蒔は(いぶか)しんでいた。宮永咲とは心の声で会話ができるが、これまでのような、意識の融合ができなくなっていた。なぜそうなのか? これまでとはなにが違うのか? 小蒔には、それが分からなかった。

 “オモイカネ”が情報を要求している。様子見の東一局は終了したのだ。ここからは宮永照も、福路美穂子も、宮永咲も、本気を出してくる。

 小蒔は、東二局を始める準備をしながら、咲との会話による情報収集を試みた。

(次は役満を上がるつもりですか?)

(はい)

(その次はどうしますか?)

(次はありません……)

(……なぜですか? なにもしなければ、あなたは負けてしまいます)

(そうは……思いません)

 その言葉が、咲との意識融合ができなくなった理由を教えてくれた。 

(そう……そうだったのね)

 小蒔は理解した。すべての原因は、自分の心の中にあった。

 時間が欲しい。その結果を受け入れるためには、なによりも時間が必要だった。

 

 ――神代小蒔は、東二局を開始すべくサイコロを回そうとしていた美穂子の手を止める。

「お待ちください」

「……」 

 虚をつかれたように美穂子が固まっている。宮永照も、何事だと言いそうな顔で小蒔を見ている。監視員が慌てて駆け寄ってくる。ありがたいことだ。監視員を呼ぶ手間が省けた。

「恐れ入りますが、精神集中のために5分ほど時間を頂けないでしょうか?」

 小蒔の要望に、監視員が面食らっている。体調不良や不慮の事故での試合中断はそれなりに発生するだろう。だが、『精神集中させろ』という要望は聞いたことがないはずだ。彼の心中は察せられる。

「せ……精神集中ですか?」

「申し訳ございません」

 監視員は『どうします?』と言わんばかりに宮永姉妹や美穂子を見ている。問われたほうも、答えようがないので頷くしかない様子だ。

「よろしいでしょう……ただし、今回のみとします」

「ありがとうございます」

 そう言って、小蒔は目を閉じる。

 

 

 ――すべてが分かってしまえば、これまでと同じく咲との意識融合ができた。自分と宮永咲は二人で一人、咲は親よりも姉妹よりも自分に近い存在だった。言い換えるのならば、宮永咲は、もう一人の神代小蒔であった。

(咲……私のところにきて)

 小蒔は、自分の心の中に咲を招き入れる。今まで小蒔は、咲の心のビジターであったが、最後のこの時だけは、自らの心を咲と共有したかった。

 咲が小蒔の心に入ってきた。彼女は一糸まとわぬ姿で、心も〈オロチ〉に侵食されていない正真正銘の宮永咲だった。

(もっと近くに……)

 呼び寄せる小蒔も全裸であった。心の中には衣服の概念はないし、二人にとって必要もなかった。

 小蒔と咲は、あたかも磁石がくっつくように重なり合った。

 胸に顔をうずめる咲の頭を、小蒔は優しくなでる。言葉にできぬ安らぎが、小蒔に中に満ち溢れていた。

(霧が……)

(そうね、私の心には、いつもこの霧が漂っています)

(晴れることはないの?)

(いいえ……見ていて)

 小蒔の心にかかっていた霧が晴れていく。まるで奇跡でも見ているようだが、それは断じて奇跡ではなかった。

(私とあなたは……お互いに不足しているものがあったの)

 その不足していたものが、この霧の正体だった。とはいえ、それがなんなのかは、小蒔にも分からない。

(でも、私たちは、こうして一緒になることで、それを補うことができました)

 霧が完全に晴れ、柔らかく温かい風が、小蒔と咲の体を包み込む。

(小蒔さん……)

 咲に強く抱きしめられた。やはり、もう一人の自分にはなにも隠せない。

 どうやら、告白する時がきたようだ。

(咲……私はね、すでにあなたに負けていたの)

(……はい)

(初めてすれ違ったあの時ね……私は、あなたの意思と、その美しさに負けてしまった)

(……)

(でも忘れないで、あなたに負けたのは神代小蒔であって“オモイカネ”ではありません)

(約束します……必ずもう一度小蒔さんと……)

 小蒔は、なにかを話そうとした咲の唇を、自分の唇でふさいだ。あらゆる力が体から解放され、まるで、咲と溶け合うような一体感であった。

 小蒔は唇を離し、咲を強く抱擁した。

(いいえ、今度咲と闘う時は“オモイカネ”は使いません。神代小蒔で闘います)

(約束ですよ……)

 咲も小蒔の背中に手を回す。

(咲……私はあなたを抹殺しようとしていたのよ)

(私だって、小蒔さんを再起不能にしようとしていました)

(ふふ……)

 小蒔と咲は、一つになりながら笑った。永遠に続いてほしいと思える安らぎの時間であったが、そろそろ、終わりにしなければならなかった。

 目的遂行に失敗した依り代(よりしろ)は、神々から懲罰を受ける。小蒔は自分の体を虚空に引き込もうとする力を意識した。

(時間がきました)

(いかないで……)

 強力な力が、小蒔の体を咲から引き離す。咲が小蒔の左手を掴んで抵抗している。

(あなたは正しい……お姉さんを救うにはそれしかない。必ずやり遂げてください)

(小蒔さん……いっちゃやだ……)

 抵抗していた咲の手が離れた。小蒔は、あっという間に暗黒の世界に引き込まれた。しかし、自分と咲には距離や空間の隔たりなど関係ない。心さえ繋がっていれば、意思は疎通(そつう)できる。

(さようなら咲……短い時間だったけど、私にとっては、永遠の時間でした。そして、ありがとう……また、いつか……)

 小蒔の抵抗もそこまでだった。これから自分は、長い沈黙を強制される。懲罰が解ける時期は、それこそ、神のみぞ知るものだ。

 

 

 ――神代小蒔が目を開ける。ただし、彼女は口に微笑みを浮かべているだけで、なにも話さなかった。

「神代選手? もういいのですか?」

 約束の5分を過ぎて、監視員が小蒔に確認する。

「はい、小蒔さんは試合を続けられます」

 監視員に答えたのは、神代小蒔ではなかった。

「宮永……咲選手?」

「試合を……続けましょう」

 

 

 インターハイ運営事務所

 

(姫様……なぜ? なぜ負けを認めるのですか?)

 戒能良子は両腕を振り上げていた。

 それは怒りの意思表示であった。そして、拳をテーブルに叩きつけたいという欲求は、一種の自傷行為でもあった。

 神代小蒔の敗北を受け入れられずに、怒りに転化した。しかし、その怒りをぶつけられるものがなかった。だとしたら、それは自分の痛みに変えるしかない。

「戒能ちゃん……それどうするの?」

 三尋木咏が怯えたように言った。いつでも逃げられるように少し腰を浮かせていた。

「私は……」

 良子は拳を上げたままだが、振り下ろすつもりもなかった。ただ、気持ちの整理がつかずに、そのままにしているだけだ。

「私は、子供の頃映画が好きでした。特にハリウッド映画がね……」

「え……映画?」

 突然関係のないことを話始めた良子に、咏は本気でビビッていた。

「拳を振り回してなにかを壊す。あるいは、なにかを投げつけて破壊する。そういうシーンを何度も観ました。ああ、アメリカ人て、どうしてこんなに短気なんだろうなと、疑問に思ったものです」

「そのテーブル……壊しちゃう?」

 咏の苦笑いを見て、良子はようやく拳を下ろした。

「いいえ、やっぱりアメリカ人の気持ちは分かりません……ただ痛いだけですから」

 ――委員長席の固定電話が鳴った。

(姫様……)

 だれからの電話か大体想像がつく。良子は立ち上がり、委員長からの指示を待っていた。

「戒能プロ、特設会場から派遣要請です。神代選手の様子を見てほしいと」

「承知しました。三尋木さん、一緒にきてください。話があります」

 

 

 良子と咏は特設会場に向かって歩いていた。急いでほしいと委員長に言われていたが、着物を着ている咏と一緒なので、その要求には応えられそうになかった。

「本家にオーダーしましたか?」

「やっぱりその話か……」

 良子の直接的な質問に、咏は話し辛そうに言った。

「“オモイカネ”は姫様の個人的な意思だけでは動かせられない。もっと大義(たいぎ)的な指示が必要ですから」

「鋭いねぇ、そうだよ、評議会から正式に霧島神境にオーダーした。……良子ちゃん、それが気にくわない?」

「いいえ」

 もちろん嘘だった。“オモイカネ”をそんなことに使うなんて我慢できなかったが、共犯者としての罪悪感が、良子に嘘をつかせていた。

(そう、勝てばよかっただけ……。ただそれだけのこと。自分に三尋木咏を責める資格はない)

「あなたに原村和だけでなく大星淡も差し上げます」

「……どうするの? 引退でもする気?」

 良子は足を止めて咏と向かい合った。さすがは三尋木咏だ。敵味方の見分けが完璧だ。そう、今、自分は麻雀評議会の敵になった。

「まさか……ですよ」

「そうか……第三勢力か」

「そうです。小鍛治さんのニューオーダー派、麻雀評議会のアンチ・ニューオーダー派……私の組織はどちらにも属さない」

 咏が扇子を取り出して口を隠す。口は見えないが目が笑っている。良子のプランを面白がっているようだ。

「でも、姫様は復活できるのかい? それに神境の子はプロになれない。自分が一番知っているはずだよぉ」

「私が破壊します」

「……良子ちゃん」

「姫様の復活を待ち、六女仙と共に第三勢力を作り上げる。邪魔をするものは、神境だろうと、なんだろうとすべて破壊します」

「……」

「宮永姉妹をあなたたちに独占させない。倒すのは、私たちです」

 

 

 最終ラウンド対局室

 

 宮永照は、津波のように押し寄せる怒りを制御できなかった。両拳(りょうこぶし)を強く握り、全身を震わせながら妹を睨みつけていた。

 照はすべてを終わらせる贖罪として、妹との試合に臨んでいた。〈オロチ〉の呪縛、“ダンテの定理”の呪い、それらのものを、己の選手生命を捧げてあがなうつもりであった。しかし、宮永咲は、東一局のみの闘いで、神代小蒔を敗北させ、〈オロチ〉を自力解除してしまった。

「咲……許さないぞ」

 照は怒りに震える声で言った。

 妹がした行為は、照を(あざむ)き、咲自身をも欺いていた。許すことができなかった。照は、本気で咲を許せないと思っていた。

 咲が照の怒りの眼差しを跳ね返すべく睨み返す。

 その目には――“光沢”があった。

「許さないのなら、どうするの!」

「なに……?」

「私は、宮永咲でお姉ちゃんに勝つ!」

「嘘を……つくな」

 咲は毅然(きぜん)とした態度で答えていたが、照にはそれが嘘であることが分った。

 もう限界であった。照は怒りに任せて立ち上がり、雀卓に両拳を叩きつけた。

「嘘をつくなー!」

 照の絶叫にも咲は怯まなかった。瞬きもせず、照と対峙している。

(咲……なぜおまえはいつも自分を犠牲にする? 子供の頃からずっと……おまえは私のために……)

 




次話:「宮永照(前編)」

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。