咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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24.宮永照(前編)

 1.宮永照 

 

 

 11年前(1998年)の1月。宮永照と宮永咲は、父親の宮永界と共に、開通して間もない長野新幹線(今の北陸新幹線)に乗っていた。行先は東京で、目的は母親である宮永愛に会うためであった。

 

 照と咲の子育ての目途がついた昨年、愛はプロ雀士として欧州リーグに復帰した。彼女のプロライセンスと実績ならば、日本リーグ戦でも引手あまたではあったが、軌道に乗ったばかりの日本と、システムが確立されているヨーロッパでは、ギャランティに天と地との差があったので、愛はイギリスの実家をベースにして欧州リーグに参戦した。

 母親のテレサ・アークダンテは前期で欧州チャンピオンになり、その娘の愛は「ダンテの定理の後継者」として欧州雀士に恐れられていた。

 その欧州麻雀界の脅威となっていたアークダンテ親子を打破したのは、まだ引退前の“巨人”ウィンダム・コールであった。世界選手権の決勝戦でテレサと“巨人”は闘い、だれにも止められないと言われていた“ダンテの定理”を“巨人”は後半戦に完封して勝利し、テレサ・アークダンテを再起不能にしたと噂された。まだインターネットが本格的に普及し始める前の90年代後半、“巨人”はその対局映像を加工して意図的に世界に流した。勝負の肝となる部分を曖昧にして、オーラスの勝利の瞬間を強調した映像は、その噂を浸透させるには十分なものであった。

 そして、それを裏付けるように、テレサはプロ雀士を引退した。ただし、その実態は再起不能になったからではなかった。もっと重要な、テレサの選手生命にかかわるアクシデントが発生したのが理由だった。

 アークダンテ親子は主戦場を日本リーグに移す決意をした。もはや報酬の問題ではなくなっていた。世界選手権への出場権は日本にも2枠割り振られている。戸籍上は日本人であるアイ・アークダンテならば、その枠に入り込める可能性がある。それは欧州リーグで世界選手権の出場枠に残るよりも容易であると判断したのだ。

 なりふりなど構ってはいられない。“巨人”への報復を急がなければならなかった。なぜならば、“ダンテの定理”には時限爆弾が仕掛けられているからだ。

 

 

 四人掛けのグリーン席、宮永照と宮永咲は窓側に向かい合わせで座っている。咲の隣には父親の宮永界が座って、咲を危なっかしそうに見ている。

「咲、そんなに身を乗り出したら危ないぞ」

「へいき」

 咲は初めて乗る新幹線が珍しいのか、窓に顔をくっつけるようにして外を眺めている。

「とんねる」

 真っ暗になった車窓を咲が不満そうに見ている。

「早くお母さんに会いたいね」

 窓ガラスに映った咲の目が動き、照に向き直る。表情は、当然笑顔に変わった。

「うん」

 界が車内販売のワゴンを止めて、咲の好きなヨーグルトドリンクと照の好きなオレンジジュースを買っている。

「お父さん、チョコも買って」

 照はお菓子に目がなかった。特に甘いチョコ系のものは大好物と言っても良かった。

「咲は?」

「おねえちゃんと同じの」

 界は、動物の形をしたチョコビスケットを買ってくれた。咲と二人で箱を空ける。

「これなーに」

「なんだろう? 犬かな」

 このお菓子には、ビスケット部分に動物の名前が英語で書かれている。咲が見せてくれたものには(TAPIR)と書かれていた。

「お父さん?」

「どれどれ……ティパだね。バクだよ」

「ばくってなに? 犬?」

「犬じゃないよ、咲も照も茶臼山動物園で観ただろう。あの白と黒の夢を食べる動物だよ」

「あー、ばく」

 咲が笑顔で界に抱きつく。

「おおー、咲、ずいぶんと重くなったな」

 界は両腕でしっかりと咲を抱えて、座席に座り直させた。そして、満面の笑みで咲に質問する。

「咲は本当に覚えているのか?」

 咲はちょっと考えてから、自慢げに界に答えた。

「しってる、鼻の長い牛さんだよ。ね、おねえちゃん」

「そうだね、咲は良く覚えているね」

 咲が今度は照に抱きついて嬉しそうに笑っている。

「おねえちゃん大好き」

「私も咲が大好きだよ」  

 新幹線は長いトンネルを抜けて、車窓が開けた。咲は照の膝の上に乗ったままで、窓を眺めている。

「あとどれぐらい?」

「東京は遠いからもうちょっとだね」

「遠いの? ぐんまより遠い?」

 祖父方の親戚が群馬の安中にいるので、宮永親子はちょくちょく遊びに行っていた。咲が知っている最も遠い場所はそこなのだ。

「群馬よりは……遠いよね、お父さん」

「新幹線ならたいして変わらないよ。あと1時間もしないで着くよ」

「「本当!」」

 照と咲が同時に言った。界はそのシンクロに笑っている。

(あと1時間でお母さんに会える……)

 そう思うと、照は嬉しくてたまらなくなる。もちろん咲もそうだ。それは楽しそうに笑っている。

「よかったね、咲」

「うん、おねえちゃんも」

 

 

 宮永照は、東京駅の人の多さに度肝を抜かれていた。それは川のように流れを作り、逆らうことなど絶対に無理だと思っていた。ところが、父親の宮永界はそれに慣れている様子で、照と手を繋ぎながら、器用にタクシー乗り場への支流に移動していた。

「咲、手を離しちゃだめだよ」

「うん」

 5歳になったばかりの宮永咲が不安そうに返事をする。

 照と咲には、おそろいのパーカーワンピースが着せられていた。目立つようにと界は赤系の色をチョイスしていた。

「照も、手を離しちゃだめだぞ。今日は平日だから人が多いからね」

 照も自分の迷子癖を知っているので、必死に界の手を握っていた。

 

 駅構内を抜けて外に出たが、人の多さはあまり変わらなかった。ただ、空間が開けているせいか、それほどうるさくはなかった。当時の丸の内は、まだ高層化が進んでおらず、それほど高くないビルが乱立している完全なビジネス街であった。

 

 照たち親子は、タクシーに乗り込み、母親のいる羽田空港近くのマンションに向かった。

「お母さんはそこに住むの?」

 照は気になっていたことを界に聞いた。宮永愛は日本に戻ってきたが、長野の家ではなく、東京に住むのではないかと思っていた。そうなると結局は同じだ。また一年の半分以上は母親に会えなくなる。

「これから行くとこはテレサおばあちゃんの家だよ。お母さんの家はまだ長野だからね。心配しなくていいよ」

「でも麻雀の時はこっちにいるんでしょう?」

「それはしかたがないね、でも、週一回は帰ってくるし、オフの時は長野に戻るよ。それとも、照はこっちに住む?」

「いや」

「どうして?」

「だって、人が多くて、うるさいし」

「咲は?」

「咲は、おねえちゃんと一緒がいい」

 咲は景色を眺めるのが好きなようだ。ただ、高さが足りないので、精いっぱい伸びをして窓を眺めている。照は疲れないようにと、咲の背中を支える。

「たわー」

「ほんとだね、東京タワー」

 テレビなどでよく見る東京タワーが間近に迫ってきた。咲は珍しそうに「おっきいね」を繰り返し、振り返る。照は、咲のおさげをまとめているゴム紐が落ちそうになっていることに気がついた。

「咲、ちょっと動かないでね」

「なーに?」

 照はクワガタの飾りのついたゴム紐を外して、咲の髪を整える。なにをするのか分かったらしく、咲はジッと我慢していた。

 照は髪を綺麗に揃えて、ゴムで縛り直す。

「はい、おしまい」

「ありがとー、おねえちゃん」

 そう言って咲は、また照に抱きついた。自分にべったりな妹、普通ならうざく感じてしまうのだろうが、照はそうではなかった。本当にかわいいと思っていた。そう、照は咲がかわいくて仕方がなかったのだ。

 

 

 愛のいるマンションは、羽田空港の近くにあったが、飛行機の発着方向とは逆側で、騒音に悩まされることはなかった。とはいえ、周囲は工業地帯で、高速道路もそばにある。閑静な住宅街とは言えないが、うるさいというほどでもなかった。

 

 タクシーを降りた照たち親子は、マンションのエントランスホールに入り、605と書かれたボタンを押す。

「はーい」

 久しぶりに聞く母の声だ。照は話したくなる感情を抑えて、咲をマイクの前に立たせる。

「咲です」

「あら、珍しいお客さんですね。今ドアを開けますのでお入りください、咲お嬢様」

「はーい」

 内側のドアのロックが解除され、照たちはエレベーターに乗った。もうすぐ母親に会えると思うと、照は笑顔が隠せなくなっていた。

 そして、605号室のドアが開くと、照と咲は、争うようにして愛に抱きついた。

「うわ」

 愛は娘二人に抱きつかれて倒れそうになっていたが、なんとか踏みとどまり、娘たちを撫でている。

「会いたかったよ、照、咲」

「私も……」

 照は嬉し涙を初めて体験していた。どこか痛いわけでもないし、悲しいわけでもない。だけど目から涙が出てしまう。きっとそれは嬉しいからなのだと思った。

 

 

 まだ引っ越しの片付けが終わっておらず、室内にはあちこちに段ボールが転がっていた。

「おや、照大きくなって……咲は初めましてでいいのかねえ」

 キッチンの片付けをしていたテレサ・アークダンテが姿を見せる。彼女はハーフである愛とは違い、完全な西洋人の風貌であった。背も高く、目こそブラウンではあるが、頭髪は金髪で、肌の色も白かった。しかし、孫への感情は、日本もイギリスも変わりないようだ。温和な目で照と咲を眺めている。

「はじめまして」

 咲がテレサに挨拶をする。テレサはたまらず咲をハグしている。

「本当は初めてじゃないんだよ。おばあちゃんは咲が赤ちゃんのころに一度会っているからねえ。本当に大きくなって」

「てれさおばあちゃん」

「はい、テレサですよ」

 テレサは咲を抱いたまま、照に目を向ける。

「照はお菓子が好きだと聞いたのでお土産を買ってきたよ」

「テレサ……この子達は口が肥えているから」

「それを言うのなら舌が肥えているだろう。まあ、そんなのは百も承知だよ。珍しいお菓子だからね」

 テレサ・アークダンテは日本語が堪能であった。彼女の夫は日本人技術者で、テレサとの結婚後にイギリスに帰化した。常日頃から日本語に慣れ親しんでいるせいか、テレサはほとんどネイティブに近い話し方であった。当然その娘である宮永愛も日本語が上手かったが、まだまだ母親には及ばなかった。

 

 

 照の目の前には、見たことのないお菓子が並べられていた。犬の形をしたクッキーのようなものや、ひょろ長いキャラメルのようなもの、出来損ないの大判焼きに似たものもあった。

「おばあちゃんこれは?」

 照は興味津々で犬の形をした食べ物を指さす。

「それはショートブレッドだよ。まあクッキーだね」

「だべるー」

 結構大きいサイズなので、照はひとつつまんで半分に割った。

「あーあ、犬さんが半分になっちゃった」

「咲には大きすぎるから」

 照は、その半分を咲の口に入れた。途端に咲の表情が曇った。

「おいしくないの?」

「……ううん」

 照は残った半分を食べてみる。

「……」

 それはクッキーと言えばクッキーなのだが、バターの風味が濃厚すぎて、おいしいとは言えない代物であった。だが、せっかくのお土産を不味いとは言えなかった。

「おいしい……」

「照、無理しなくてもいいんだよ。正直イギリスのお菓子はそれほどおいしくないから」

 娘の反逆にテレサは嬉しそうだ。それならばと、次の一手を披露する。

「なるほど……これは手強いねえ。じゃあこのファッジはどうだい?」

「お義母さん……それは虫歯になるから」

 界がたまらず口を挟む。

 照は、その言葉に興味をそそられた。虫歯になるとはどういうことだろうと思った。それは途轍もなく甘いものではないかと想像した。

「食べてみたい……」

 テレサが嬉しそうにデザートナイフでファッジをカットし、皿にのせて照の前に置いた。見た目はキャラメルそのものなのに、ナイフで簡単に切れた。その予想外のことに、照の興味はますますそそられていた。

「咲は?」

「いらない……」  

 咲は興味を喪失していたが、照のチャレンジは楽しそうに眺めていた。

 照はフォークでファッジを口に運んだ。キャラメルによく似た味だが粘着質ではなかった、普通に口の中で溶けてしまった。そして、その後強烈な甘さが照を襲った。

「お母さん……お水もらえる」

「だから言ったでしょう」

「ほら、照」

 界がこうなることが分かっていたかのように水を差し出した。照はそれを一気飲みして、舌の感覚をリセットする。すると、もう一度あの強烈な甘さが欲しくなった。

「おいしい……おばあちゃん! これおいしい」

「ほんとかい?」

 テレサがホクホク顔になっている。

「うん、でも咲は食べちゃダメ」

「えー、どーしてー」

「だって……虫歯になっちゃうから。また、あんなに痛くなっていいの?」

 咲が不満そうにしているが、照はこんな甘いものを咲には食べさせられないと思った。

「よし、照、咲、お母さんと散歩に行こう」

 愛が二人の手を掴んで立ち上がる。照たちも大喜びで後に続いた。

「散歩!」

「さんぽー!」

 界も一緒に行こうと立ち上がるが、テレサにそれを止められる。

「界、あんたはここの片付けだよ。男手が必要なんだからね」

「やっぱりそうですか……」

「男は諦めが肝心だよ」

 界は仕方がないとばかりに、段ボールの荷ほどきを始める。

「それじゃあ界、たのむよ」

「愛! 携帯持って行けよ」

 

 

 マンションから歩いて10分ほどに、大井ふ頭中央海浜公園があった。そこは工業地帯のど真ん中にあるのが信じられないほどに緑が豊かであった。テレサと愛は、この公園に惚れこんでた。そもそも、あのマンションはウィンダム・コールの口止め料のようなもので、世界選手権の決勝戦の様子を秘守するという条件でテレサ・アークダンテに譲渡されたものだ。どこでもよいとのことだったので。いくつかの候補の中から、大井ふ頭中央海浜公園に近いマンションを選択していた。

 

 京浜運河沿いの散歩道を照たち親子は手を繋いで歩いている。運河では頻繁に魚が跳ねて、そのたびに咲が「さかな」と言って喜んでいる。

 運河の向こう側では、モノレールが上下しながら走っている。風もあまりなく、日差しも1月とは思えないほど暖かかった。三人で歩く公園は、周囲から隔離された別世界のように、ゆったりと時間が流れていた。

「あったかいね」

 愛が照に話しかける。その優しい笑顔に、照は幸せな気持ちになり、ただ笑顔だけを母親に返す。

 愛の左側にいた咲が突然立ち止まる。

「咲、どうしたの?」

「ぼっくり」

 咲がおおきな松ぼっくりを拾って愛にみせた。

「大きいね」

「うん」

 照も辺りを見回すと、結構な色々な所に落ちている。

「そうだ、リースを作って玄関に飾ろう!」

 いいことを思いつたとばかりに愛が言った。しかし、照にはリースがなんであるか分からなかった。

「それなあに?」

「ほら、クリスマスとかに飾る丸い輪っかのやつ。その材料をみんなで集めよう」

「楽しそう」

「りーす」

 愛はしゃがんで、娘たちと目の高さを合わせた。

「ほしいのは松ぼっくりが6個とどんぐりとかの木の実だね」

「「わかった」」

「それじゃあ開始! あんまり遠くに行かないでね」

 ――それは夢のような幸せな時間であった。咲と二人で木の実を拾い、愛のところに持って行って判定してもらう。愛は大体ダメとは言わずに、あっという間に、愛の持っていたバッグが一杯になった。咲の笑顔、愛の笑顔、それは照の目に鮮明に焼き付いた。できることなら、この時が永遠に続いてほしいと照は思っていた。

 

 

「おといれ」

「お母さん、咲が」

 少し冷えてきたのか、咲がトイレに行きたいと言い出した。都内の公園らしくトイレには困ることはない。照たちは公園の中に入ってトイレを探す。

「あったー」

 咲がトイレを見つけて走り出した。

「照も行っておいで」

「うん」

 

 照と咲がトイレを出ると、愛が携帯を見つめて途方に暮れている。

「もしかして迷ったの?」

 照と咲は、自他共に認める方向音痴であったが、母親の愛も似たようなものであった。よく父親の界はこう言っていた。

(「照と咲の方向音痴はお母さんに似たんだよ」)

 愛は作り笑いを浮かべているが、確実にここがどこだか分からなくっている様子だ。

「電話したの?」

「それが……」

 携帯の液晶画面は暗いままであった。つまりは、バッテリーが切れているのだ。

「まあ、なんとかなるよ。あそこに見える建物に行ってみよう」

 そう言って愛は「野鳥公園管理事務所」と書かれている建物に入っていった。

「すみません」

 窓口にいた初老の男性職員は、愛を見て少し戸惑っていた。

「ホ、ホワッツ・ザ・マター?」

「日本語で大丈夫です。恐れ入りますが、電話を貸していただけないでしょうか」

 職員は、薄くなった頭を掻いて笑顔になる。

「どうしました? 道に迷ったんですか?」

「お恥ずかしながら……」

 まあ寒いでしょうと言って、職員は照たち親子を事務所に招き入れる。

「お嬢ちゃんたちはこっちにおいで、暖かいよ」

 照と咲は、応接セットに座った。職員の言うように、暖房の風が当たり、とても暖かかった。

「はい、ココアだよ」

「ありがとう」

 子供好きの職員なのか、照と咲にココアを入れてくれた。二人でそれを飲む。

「あったかいね」

「うん」

 飲み終わると、咲は、照にもたれかかり目をこすり始めた。

「眠いの?」

「ちょっと」

 愛が電話を終えて照たちのところにきた。

「界が迎えにくるって……」

 照は口に指を立てる。隣では咲がすやすやと寝息を立てていた。

「毛布を持ってきましょうか?」

 職員が笑顔で愛に聞いた。実に小さな声だ。

「お願いします」

 愛も小声で返事をした。

 職員から毛布を受け取り、咲と自分に掛ける。幸せそうな咲の寝顔を見ていると、なんだか自分も眠くなってきた。

 ――それからどのぐらい時間が経ったのかは分からないが、界が事務所のドアを開けて、事務員にしきりに礼をしている。目を開けて起きようと思えば起きられたが、咲の暖かい体温とリズミカルな寝息がそれをさせなかった。

 母と目が合った。どうやら嘘寝がばれてしまったようだ。でも、きっと許してくれるはずだ。だって、母はあんなに楽しそうに笑っているのだから。

 

 

 

 2.才能の芽生え

 

 

 その年の長野県は、日本で二度目の冬季オリンピックが開催されており、まるでお祭り騒ぎの様相を呈していた。3月初めぐらいまでは新幹線のチケットの入手が困難で、宮永愛が長野に帰郷できたのは、オリンピック熱気が冷めた春分の日以降になっていた。

 愛は、母親のテレサ・アークダンテと一緒にやってきて、およそ一週間滞在した。長女の宮永照の入学準備をするのが目的だったが、同行していたテレサは違っていたようだ。彼女は滞在期間中に孫娘の宮永咲に熱心に麻雀を手解きし、宮永界に家の増築を指示していた。

 

 それから2か月が経過した。家の増築も終わり(部屋二室の追加、うち一室は防音設備付き)、照の小学校生活も順調で、愛も日本麻雀界に鮮烈デビューした。多忙ではあったが、愛は、休みが続く日は、必ず家に戻ってきており、宮永家にも、ようやく普通の家族らしい環境が整っていた。

 

 

「ただいまー」

 宮永照は、小学校から帰宅し玄関の扉を開けた。遠くから「お帰りー」と、小さな声が聞こえる。それは、増設された防音設備のついた部屋から漏れたものだ。きっとドアが開いているのだなと思った。照はランドセルを背負ったままその部屋に近づく。

(やっぱり、ドアが開いていた)

 去年まで照と咲は同じ部屋で暮らしていたが、照の小学校入学を契機に、二人は部屋を別けられていた(とはいえ、咲は照の部屋にいることが多かったが)。咲は、寂しさからか、自分の部屋のドアを開けっぱなしにしていることが多かった。まあ、まだ5歳なので、仕方がない話であった。自分だって同じ立場ならば絶対にそうする。

「ただいま」

「お帰り照、ゴメンね、迎えに出られなくて、咲の相手をしていて」

 謝ったのは祖母である宮永美津子だった。彼女は界の母親で、家は歩いて往来できる距離にあった。それが、宮永愛が長野に住んでいる理由だった。愛は、子育てで6年間活動を休止していたが、いずれは雀士に復帰しなければならない。父親の界にも仕事があり、だれかが娘たちの世話をしなければならなかった。保育園や幼稚園の選択肢もあったが、愛は、一番信頼のできる界の両親を選択していた。

「おねえちゃん、おかえりー」

 咲が雀卓から笑顔を向ける。

 ここは、テレサによって増築された部屋だ。完全防音の8畳ほどの空間に、全自動卓とテレビとビデオ(当時、DVDはまだ一般的ではなかった)、ネットに接続されたPCが置かれていた。いわば、麻雀のトレーニングに特化された部屋であった。

「咲、なにやってるの?」

「もーはい」

 咲が楽しそうに裏返された麻雀牌を指で触って表にしている。

「照、ランドセルを置いてきなさい」

「はーい」

 照は階段を上り、自分の部屋で着替えをしながら考えた。

(テレサおばあちゃんは、なんであんな部屋を作ったのかな?)

 照も5歳の時に愛から麻雀を教わっていた。咲も昨年5歳になっていたが、愛がイギリスにいたので開始のタイミングがずれてしまった。ただ、その分、指導は徹底していた。教えたのが元欧州チャンピオンのテレサだったからだ。それは、厳しくはなかったが、実に念入りな指導で、咲は嫌な顔もせずに次々と教えられたことをマスターしていった。そして、テレサは思いついたように、このトレーニング部屋を作れと界に言った。無論、増築費用はすべてテレサ持ちだ。

 照にも咲の凄さが分かっていた。自分が一か月近い期間で覚えたことを、咲は、テレサの在宅中だけで、一通りのことができるようになっていた。ただ、それにしても、こんな防音設備はやりすぎだと照は思っていた。

(麻雀はうるさいから……かな?)

 実際、麻雀は騒がしい競技だ。じゃらじゃらと鳴る牌の音、全自動卓の動作音、ポンやチーなどの人の声、確かに近所迷惑にはなる。しかし、この宮永家の周囲には、そのような民家は存在しなかった。

 照は、部屋着に着替え、トレーニング室に向かった。まだおやつの時間には早かった。しばらくは咲と遊びたい。

「咲、盲牌うまくなった?」

「うーん……」

 牌をつまんで答えに詰まっている咲の代わりに、美津子が答える。

「咲は凄いんだよ、もうほとんど当てちゃうんだから」

「へーえ」

 照は咲の対面に座った。それを見計らって、美津子が立ち上がる。

「照、おばあちゃん、夕飯の買い物に行ってくるからね。咲をお願いね」

「わかった」

「おやつはなにがいい?」

「プリン」

「咲は?」

「同じのー」

 美津子は分かったと頷き、ドアは開けっぱなしにしておくからと言って、外出した。

 5月の長野は、もう暖房の必要のない季節だが、ときおり肌寒く感じる時もある。照は長袖のルームウエアであったが、咲はもう半袖を着ている。

「咲、寒くない?」

「このお部屋は、あったかいよ」

 防音が完璧ということは断熱効果も優れている。咲の言うように、ドアを締め切ると汗ばむほどになる。

「おねえちゃん、問題出して」

「いいよ」

 咲は自分が盲牌を当てられるか試してくれと言っていた。照は、適当に麻雀牌を立てて咲への問題を選ぶ。

(最初は簡単なものから)

 盲牌は分かりやすいものがいくつかある。【白】【一筒】【二筒】【四筒】【二索】【三索】【八索】などが該当する。

 咲がある程度できるのは知っているので、照は紛らわしい【四筒】を選んだ。

「これは?」

「すーぴん」

 咲は軽くなでて牌をひっくり返す。当たって嬉しいようだ。凄いでしょと言わんばかりに照を見ている。

「じゃあ次はちょっと難しいよ」

「うん」

 照が選んだのは【一索】だった。一見分かりやすそうに思えるが、照もいまだに字牌と間違うことがあった。

「とりさん」

「咲……凄いね」

 照は少し驚いていた。咲は迷うことなく【一索】だと言いきったからだ。2年近く麻雀をしている自分とは違い、咲はまだ初心者なのだ。

「次は凄く難しいよ」

「いいよ」

 最も判別が難しいとされている【東】【南】【八筒】【九筒】【六索】【九索】と萬子のすべての中から、照は最高難易度の【七萬】を咲に渡す。この牌は【九萬】との区別が困難だった。

「ちーわん」

「……どうして分かったの?」

 あまりにもあっけらかんと答える咲が信じられなかった。もしも、はっきりと見分けられるとしたら、咲は天才なのではないかとさえ思っていた。

「どっちかだから」

「どっちか?」

「おねえちゃんが、すごく難しいっていったから、七か九のわんずだよね」

「咲……」

 にこやかに笑っている咲に、照は凄みを感じていた。わずか5歳の、初めてまだ二か月の妹に、自分は駆け引きで負けてしまった。

(咲……おまえは……)

 

 

 3.ダンテの定理

 

 

 初めての夏休みが始まって一週間が経過した。宮永照は、夕飯を食べ終わってすぐに、部屋の机に向かっていた。終業式の日に渡された宿題は膨大な量ではあったが、日割りで考えるとそれほどでもなかった。日中は妹の宮永咲と遊びたかったので、照はこの時間を宿題消化に充てることにしていた。

 部屋のドアはわざと開けっ放しにしている。咲は照が勉強している間は、決して邪魔をすることがなかった。もちろん、たまにのぞきにきたりはするが、声をかけたり部屋に入ったりはしない。だから照は、あえてその姿を見えるようにしていた。

「おねえちゃん」

 しかし、今日は例外の日だった。

 母親の宮永愛の個人戦最終日の試合中継があるので、咲には勉強していてもいいから試合が始まったら呼びにくるように言ってあった。

「もう始まるの?」

「もうちょっとで」

 照は、机のランプを消して立ち上がった。咲が嬉しそうに部屋の入口で待っている。

「勝つといいね」

「うん」

 咲が手を繋いで引っ張る。そんなに慌てなくてもいいのにと思ったが、その可愛らしい仕草に、思わず笑みがこぼれる。

 

 

 居間には大型の32インチブラウン管テレビが置いてあり、その前にはL字のローソファーがセットされていた。父親の宮永界は、その真ん中に座って、リモコンをいじっている。

 発足して間もない麻雀リーグは、当然TV中継などされておらず、それを視聴するにはケーブルTVに加入するしか方法がなかった。家族の一員がリーグ参戦しているのだから、宮永家にはその設備が導入されていた。

「もう始まってる?」

「ちょうど今からだよ」

 界が缶ビールを飲みながら言った。テーブルには空の缶が一本あるので、これはもう二本目ということだ。界は酒が入ると陽気になるタイプだったので、照はそれほど嫌いではなかったが、アルコールの臭いには辟易(へきえき)していた。そのため、照は界から少し離れて座った。

 TVを眺めると、左上に前期優勝決定戦と大きな字幕が出ており、母親の宮永愛もそれ相応に厳しい顔をしている。

「またこの人……」

 愛の下家に、胸の大きな雀士がいた。そのメガネ越しの視線は実に鋭い。

「愛宕さんだよ。お母さんをライバル視しているみたいだね」

 欧州チャンピオンの娘という肩書を持つ愛ではあるが、日本リーグのレギュレーションにより来年まで団体戦には出られない。この愛宕雅枝という選手は、団体戦のレギュラーポジションがあるにもかかわらず個人戦にシフトチェンジしていた。愛に標的を定めての決断であろうが、麻雀の華である団体戦から、注目度の低い個人戦に移行する選手は、愛宕雅枝が初めてであった。

「おねえちゃん、はい」

 咲がマーブルチョコのカップアイスを照に差し出す。『お姉ちゃんの分も取ってきてあげる』と言って、咲は冷蔵庫にアイスを取りに行っていた。

「ありがとう、咲」

 照が受け取ると、咲はくっつくように隣に座って自分のモナカアイスを食べている。

「お父さんが、このおばさんをすきだって言ってた」

「ええーどうして?」

 咲の爆弾発言に照は大声で質問した。

「咲! あれは冗談だよ!」

 界がさらなる大声で弁解している。照はなおのこと気になり、咲に教えてくれるように言った。

「咲、どうして?」

「おっぱいがおおきいって」

「……」

 酒のはずみで言ったのだろうが、あまりいい気分ではなかった。照はジト目で界を睨んだ。

「明日なんでも買ってあげるから、お母さんには内緒で……」

「……」

「買わせて下さい……」

 弱り切った顔で謝罪する界を、照は許すことにした。ただし、それなりの対価は必要だなと思った。

「咲、よかったね。明日お父さんがクワガタのクッション買ってくれるって」

「ほんと! おっきいやつでもいいの?」

「もちろん……照は?」

「松本のバウムクーヘン」

「ははは……」

 

 

 照は画面に目を戻す。

 対局中の母親は、普段の優しい面持ちとは違い、実にクールであった。家族で打つ時はそんなことはないのだが、いざ試合になると表情が一変してしまう。

 照は、その愛の顔が好きではなかった。ただ、“あること”のためには、そうならざるを得ないのかなと考えていた。

 ――東二局に愛が3900を和了した。中継の実況解説が、その“あること”について話している。

『熊倉監督……これはダンテの定理の始まりでしょうか?』

『そうだねえ、早めに止めないとこの試合も東場で終わってしまうよ』

 解説者の熊倉トシは事業団チームの監督で、彼女と愛は、かつて監督と選手の間柄であった。当然ながら、昨年プロ復帰を決めた愛に、トシはチームに戻るようにアプローチしてきた。しかし、愛はテレサ・アークダンテと共に欧州リーグへの参戦を選択していた。

『愛宕選手がいかにして止めるかでしょうか?』

『ダンテの定理は……そう簡単には止められないよ。私はアイちゃんのこれをよく知っているからね』

『そういえば、熊倉さんは両選手の監督だったわけですね。二人の実力差はそれほどのものですか?』

『前年度欧州チャンピオン、テレサ・アークダンテの娘。その実力は母親にも匹敵する。それが、アイ・アークダンテだよ。彼女はもう昔の“宮永愛”ではない』

『そのテレサ・アークダンテは、欧州の若き帝王、ウインダム・コールに再起不能にされたと言われています。ダンテの定理にも弱点があるのでは?』

『再起不能か……なにか違う気もするけどねえ』

 ――東三局も愛が満貫で上がった。この局は愛が親だったので、ダンテの定理の連荘スタートは確実だ。

「だんてのていり……」

 咲がとなりで言った。不思議そうに照を見ている。

「どういう意味?」

「ゴメンね咲、お姉ちゃんもわかんない」

「そう」

 疑いもしないで咲は目をTVに戻した。照は少し心苦しかった。

 実際に、照もダンテの定理とはなにかを知らなかった。しかし、ダンテの定理と言うものが存在することは知っていた。なぜならば、照も愛に同じ質問をしたことがあったからだ。

(『今はまだ教えられない。その時がきたら教えるよ』)

 愛は曖昧な答えを返したが、ダンテの定理を否定してはいなかった。

(『照、もしも咲が同じことを聞いたら、分からないと答えるんだよ』)

(『どうして?』)

(『ダンテの定理が最大限に効果を発揮するには、その原理が謎でなければならない』)

(『……嘘をついてでも?』)

(『違うよ、照。ダンテの定理を引き継ぐ者には……それは義務になる』)

(『……咲にも?』)

(『そうだよ、妹だろうが、娘だろうが……その掟に例外はない』)

 左腕を咲に引っ張られた。

「おねえちゃん……アイス溶けちゃうよ?」

 照はアイスの蓋を開けたままでほったらかしにしていた。

「ほんとだ」

 照が慌ててアイスを食べる。

 咲はそれを見て笑っている。

(咲に……嘘はつきたくないな)

 愛はそれが義務だと言った。ならば、自分にはダンテの定理は必要がないと思った。姉妹で嘘をつきあう。そう考えるだけで、照の気持ちは暗くなってしまう。

 ――中継では愛が4連荘を決めていた。持ち点が三桁になる選手が出てしまい、飛び終了も見えてきた。

「このおばさんは、お母さんが嫌いなの?」

 愛宕雅枝が敵意むき出しで愛を睨んでいる。咲はそれを見て照に聞いた。

「愛宕さんはね、悔しいんだよ」

「くやしいの?」

「咲だって、麻雀で私に負けたら悔しいでしょ?」

「ぜんぜん」

「え?」

「だって、お姉ちゃんとまーじゃん打つのは楽しいよ」

「……咲」

 確かに照にもそういう時期はあった。しかし、宮永照はプロ雀士の娘なのだ。娯楽として麻雀を楽しめたのは実にわずかな期間だった。

「つぎでお母さんが勝つよ」

 咲が照に寄りかかり言った。

 なるほど、画面には愛の手牌が映し出されており、筒子の両面待ちで聴牌していた。無駄な得点を嫌う愛らしく立直はかけていない。自摸上りさえすればこの試合は終わるからだ。ただ、咲の言った和了の確実性を示すものを、照は見つけられなかった。

「どうして分かるの?」

「なんとなく」

 咲はいずれ自分を超えることになる。照はそれを漠然と受け入れていた。麻雀を始めてまだ数か月の妹に、照は何度も驚かされていた。それは才能の違いとしか思えなかった。

 ――咲の予告通りに場は進んだ。愛が自摸和了して、前半戦の優勝が決定した。

「ね?」

「凄いね、咲」

 自慢そうに見上げる咲を、照は抱きしめた。

「はやく明日になるといいね」

 嬉しそうに咲が言った。

 明日は愛が帰ってくる。咲と松本空港まで迎えに行くのだ。そう考えると、モヤモヤしていた気持ちが吹き飛んだ。

「そうだね、早く明日になればいいね」

 

 

 この時期は、団体戦の東西ドリームマッチ(野球のオールスター戦のようなもの)があるので、個人リーグはおよそ一週間の夏季休暇になる。宮永愛は、その期間を利用して祖母のテレサ・アークダンテと共に長野に戻ってくる。

 

 松本空港(現信州まつもと空港)はそれほど大きくなく、到着ロビーもローカル駅の改札口程度の大きさしかなかった。

 宮永照は目が良かった。ずいぶん前から、こちらに歩いてくる母親と祖母を見つけていたが、最初に母親を見つける役割は、妹の宮永咲に任せようと思っていた。

「あ、おかあさんだ」

「どこ?」

「あそこ」

 咲が大きなクワガタのクッションを抱えながら指差した。愛たちも気がついたようで、手を振っている。

「おねえちゃん、むかえに行こう」

「うん」

 咲とゲート付近まで移動し、愛とテレサが出てくるのを待っていた。

「咲、なにを持ってるの?」

 体の半分ほどもある黒い塊を持っている娘に、愛は聞いた。

「クワガタさん。お父さんに買ってもらったの」

 愛が咲の頭を()でる。

 咲が手を繋ごうとしていたが、クワガタが落ちそうになったので慌てて手を戻した。

「咲、それをお貸し。おばあちゃんが持ってあげるよ」

 咲はありがとうと言って、テレサにクワガタを渡して愛と手を繋いだ。

 ――テレサと目が合った。

 その目は、温和な祖母の目ではあったが、違う側面もあった。3月以来、テレサは必ず愛に同行して長野にきており、その都度(つど)、照や咲と卓を囲んだ。彼女は自分たちの成長を見ている。自分や咲がどれほど打てるようになったか確認しにきている。

「お母さん、優勝おめでとう」

 照は、その目から逃れるように、愛に言った。

「まだ前期だからね、世界戦に出るには後期も取らなきゃ」

「そうだね……」

 そんな照を見て愛が微笑んだ。やはり、母親には嘘はつけない。自分が隠し事をしていることに気がつかれてしまった。

 愛が差し出した手を、照は握った。それは暖かく柔らかい母親の(てのひら)であった。

「ごはん食べて帰ろうか、照はどこがいい?」

「諏訪湖のレストラン」

「いいよ」

 照の心は、幸せと不安が入り混じっていた。

 咲と打ち始めてから、照はある現象に悩まされていた。まだはっきりとは分からないが、気のせいではないことは分かっていた。照は、それが“ダンテの定理”と関係あるのではないかと考えた。もしそうだとするならば、自分は、これから咲に嘘をつき続けなければならなくなる。

(私は……“ダンテの定理”なんていらない)

 妹を愛する照の素直な想いであった。しかし、もう一つの想いもあった。成長著しい咲のために、自分は常に目標であり続けたいという想いだ。それは、照の心の中で、自らが気づかないほど肥大化していた。

 

 

 宮永親子とその祖母は、諏訪湖湖畔のレストランで昼食をとり、帰宅した。

 宮永照はまだ子供であった。やはり、母親のそばにいると、ついつい甘えたくなってしまう。まだ5歳の宮永咲はなおさらで、宮永愛にべったりであった。

 ――夕食を終えて、全員で増築された防音室に集まった。これから、テレサ・アークダンテと宮永愛、咲と麻雀のトレーニングをする。

 照と咲は、一日一回は麻雀を打つように愛とテレサから指示されていた。しかも、3人麻雀(サンマ)は、勝負勘を狂わすとの理由で厳禁とされていた。とはいっても、普通の日は、照たち姉妹と父親の宮永界しかいないので、少し裏技を使っている。はっきり言えば、界の雀力は高くなく、姉妹のスキルアップには不適当だった。だが、界は腕の良い技術者で、画像認識機能を使用したPCによって、界は二人分の役割をこなすことができた。もちろん、PCの思考回路はまだ貧弱で、姉妹に振り込んでしまうことは多々あったが、基本的な打ち筋を見せる照たちの良きトレーニングパートナーであった。

 しかし、今日は違っていた。照の上家には、前期個人リーグチャンピオンの愛が、対面には前年度の欧州チャンピオンのテレサがいるのだ。家族とはいえ、照が緊張するのはしかたがないと言えた。

 咲の親から対局が始まった。対面からのスタートなので咲は手が届かない。愛が、笑顔で優しく咲に牌を配る。

「ありがとー、おかあさん」

「いいえ」

 そのやり取りに、照の緊張は解けてしまった。

 これは勝負ではない、トレーニングなのだ。しかも相手は母であり、祖母であり、妹だ。自分の良いところ悪いところを見せることに抵抗を持つ必要はない。

 

(まただ……)

 照を悩ませている現象が現れた。

 それは、照の自摸時に発生するもので、パターンも分かっている。

 照が字牌以外の牌を自模った時に、山にある牌が青く見えることがある。そして、その青く見えた牌は、必ず自摸牌の次の牌であった(自摸牌が一萬ならば、青く見えた牌は二萬)。

 照は、その牌に目を泳がせる。目を戻して顔を上げると、テレサと目が合った。彼女はなんでもない素振りで対局を続ける。

(おばあちゃん……これがダンテの定理なの?)

 そう聞きたかったが、ここには咲もいれば愛もいる。普通に話せることではなかった。

「界、ここから軽井沢は遠いのかい?」

「軽井沢は近いですよ。お義母さん、行ってみたいのですか?」

「あそこの街づくりにイギリス人宣教師(せんきょうし)が関係したと聞いている。一度見てみたいねえ」

「いいですよ、愛?」

「照も咲も、明日は軽井沢だよ」

 咲が喜んで愛に答えた。

「プリンジャムー」

 それは照と咲の大好物だった。軽井沢に行くと必ず買ってもらうものだ。

 無邪気な妹を愛とテレサが笑顔で見ている。そして、その笑顔を照にも向ける。

(咲とは違う意味かも……)

(『ようやくできるようになったのか』)

 照には、二人の笑顔がそう言っているように思えた。

 

 

 翌日、宮永親子とその祖母は、軽井沢へと車で向かった。その途中の大きな観覧車があるレジャー施設の中で休憩を取ることにした。

 宮永咲が、観覧車に乗りたいと言って、宮永愛を引っ張っている。

「おねえちゃんも一緒に」

「私は高いとこが怖いから……」

 本当はそんことはないのだが、宮永照はそう答えた。

 咲が不満そうに見ている。

「じゃあ、お父さんも乗るよ。咲、それでいいだろう」

「うん、じゃあ、おねえちゃん見ててね」

「わかった」

 咲と父母がゴンドラに乗り込み、楽しそうに手を振っている。

 残された、照とテレサ・アークダンテはそれに応える。

 三人が乗ったゴンドラは見る見る高くなっている。

「さすがは愛の娘だねえ、勘が鋭い」

「……おばあちゃんが、なにか言いたいことがあると思って」

「言いたいことがあるのは、私かい? それとも照かい?」

「……」

 照は見上げていた頭を戻す。テレサは笑みを浮かべてはいたが、どこか冷たい口調で照に言った。

「照は、昨日の対局中に何度か山に目を泳がせて、なにかを確認していた」

「……」

「まるで牌に色でもついているようにね」

「おばあちゃん……」

 照は震えていた。それは恐れかもしれないし、期待かもしれなかった。ただ、はっきりしていることもあった。それは、ついにその時がきてしまったということだ。

「そうさ、それがダンテの定理。終わりを見る力さ」

「終わりを見る力……」

「まだ照には難しいので、言葉だけ覚えておいで」

 照が頷くと、テレサは表情から笑みを消した。

「英語ではドップラーシフト、日本語では青方偏移。青く見えるものはそれに近づくもの、麻雀で言うのならば次の牌」

「お……おばあちゃん」

「図星のようだね……照、お前は、ダンテの定理を引きつがなければならない。これは拒否できないよ」

 照は、つばを飲み込む。

「私は……咲のためにこの力が欲しい」

「咲のために? 咲が天才だから?」

「おばあちゃんもそう思うの?」

 テレサは、咲たちの位置を確認するように観覧車を見上げる。三人が乗ったゴンドラは今一番高いところにいるようだ。

「ウインダム・コールのことは?」

「知ってるよ、おばあちゃんが負けた相手」

「彼はね、紛れもない天才だよ。愛がこのまま勝ち進んで彼と対戦したとするよ、一度は勝てるかもしれないが、二度目はない。それが天才だよ」

「おばあちゃんは……咲を……」

「まさか、”巨人”は愛が倒す」

 ゴンドラの高さがかなり下がっている。あと数分で咲たちが戻ってくる。

「照、どうやら覚悟ができているみたいだね。明日から少し夜更かししてもらうよ」

「はい……後悔はしません」

 その言葉に、テレサは冷徹な目を向ける。

「するさ」

「……」

「予言してあげる。照、お前はダンテの定理を引き継いだことを……必ず後悔する」

 

 

 4.破局点

 

 

 宮永照は、机に向かって宿題をしていた。普段は夕食前に行うのだが、今日は外出していたのでかなり時間がずれている。

 時計の針は、午後9時30分を指していた。

「おねえちゃん……咲、もう寝るね」

 開けっ放しにしているドアの前で、妹の宮永咲が眠そうに言った。

 決して照の勉強の邪魔はしない咲だが、「おやすみ」や「おはよう」は特別だと考えているらしい。

「今日は疲れたでしょう。ゆっくりおやすみ」

「うん、おやすみ」

 パジャマ姿の咲が、もうお気に入りになってしまったクワガタのクッション(ぬいぐるみ)を抱えて自分の部屋に戻っていく。

(また一緒に寝たいね……) 

 照が小学生になり、咲とは部屋を別けられてしまった。遊び盛りの妹と同室では勉強もおろそかになる。そう考えてのことかもしれないが、正直、照には迷惑な話であった。初めの頃は、咲も寂しくなり、よく一緒に寝にきていたが、最近はそれに慣れてしまった様子で、めったにこなくなった。

(おばあちゃん……部屋を別けたのはこのためなの?)

 今日から、咲が寝た後にテレサ・アークダンテから個別のトレーニングを受ける。それは咲と同じ部屋で寝起きしては絶対に不可能なことだった。照は、それが偶然だとは思えず、なぜかテレサと関連付けてしまう。なぜならば、優しい祖母であるテレサのもう一つの側面を、照は見てしまったからだ。

(そんなに“巨人”が憎いのかな?)

 

 ――午後10時になり、照は机のランプを消して、テレサの待つトレーニング室に向かう。こそこそしたりはしない。普通にドアを閉めて、普通に歩く。

 一階に降りて、照はキッチンに向かった。なにか飲み物を携行したかったのだ。

「あれ?」

「照、これから?」

 キッチンのテーブルに座って文庫本を読んでいたのは、母親の宮永愛であった。

「お母さんはこないの?」

「咲が起きるかもしれないからね」

「……そうだね」

 用心深いなと照は思った。確かに母親がそばにいれば、咲だって疎外されたとは考えないだろう。

「照」

 コップにオレンジジュースを注いで、トレーニング室に移動しようとした照を、愛は引き留めた。

「え?」

「もしも……もしもだよ」

「うん」

「咲が照の敵になったらどうする?」

「……なんでそんなこと聞くの?」

「咲は違うかもしれないからね」

「違うって……なにが?」

「テレサから聞いておいで……」

 そう言って、愛は再び文庫本を読みだした。

 照は、なにか()に落ちないものを感じながらも、とりあえずテレサの話を聞こうと思い、キッチンを出た。

 

 ――増築された一階の廊下は以前の倍の長さになっていた。

 最奥部にはテレサの個室があり、その途中に完全な防音設備が施されたトレーニング室があった。

 でき上がった当時、照はやりすぎなのではと思っていたが、現状を考えると必要な設備かなと考えていた。聞かれたくない話は、外にも内にもあるのだ。

 照は扉の横にあるドアホンを押した。通常ならば家の玄関にあるものだが、ドアを締め切ると、ノックをしても聞こえなくなるこの部屋には必須のアイテムだ。

 内開き式のドアが開いた。

「照、お入り」

「うん」

 雀卓の電源は入っているが、牌はセットされておらず、卓上にバラバラに置かれている。テレサが東家の席に座ったので、照はその下家に座った。

 テレサは年齢相応の落ち着いた色のカーディガンを(まと)っており、椅子(いす)にゆったりと腰をおろして紅茶を飲んでいる。

「ダンテの定理と名付けたのはだれか知っている?」

 テレサがいきなり本題に入った。その話は何度か聞かされていたので照は答えを知っている。

「“巨人”?」

「そう、ウインダム・コールだよ。それまで私たちは、ただドップラーシフトと呼んでいた」

「……」

「ウインダム・コールだって定理などとは思っていない。しかし、彼はダンテの定理と名付けた。なぜか解るかい?」

「ゴメン、おばあちゃん……よく解んないや」

 その照の答えを予測していたのか。テレサはニッコリと笑った。

「解らなくてもいいよ、でも、これは必ず最初に話しておかなければならないことだからね。聞き流してもいい、意味は嫌でも解るようになる」

「うん」

 なにか食べるかとテレサが聞いたので、照は東京で食べたファッジをリクエストした。寝る前に食べると太るよと言いながらも、テレサは、それをカットして用意してくれた。

 あいかわらずの強烈な甘味が、照の舌を喜ばせる。

「ダンテの定理の謎を解かれては困る。だから彼はそう名付けたのさ」

「どうして?」

「彼も私もイギリス人。ただね、イギリスは広いからね。細かく言うのなら、私たちはスコットランド人だよ」

「それって、関東と関西みたいなもの?」

「そうだねえ……関東と北海道みたいなものかねえ」

「おばあちゃんは北海道の人」

「そうだよ。ウインダム・コールもね」

 なぜかは分からなかったが、照はその答えかたに不安心を掻き立てられた。

「本当に勘が鋭いねえ……照、さすがは私の孫だよ」

「……」

「そうさ、ダンテの定理と“アルゴスの百の目”は同系のものなのさ。だから、彼は、わざと紛らわせるような言いかたをしている」

「“アルゴスの百の目”……」

「私たちがドップラーシフトのブルーならば、彼はその逆のレッド。赤方偏移(せきほうへんい)だね」

「じゃあ……“巨人”は始まりを見てるの?」

「よく覚えていたね。でもこの場合はそうではない」

「……」

「終わりを見る力の逆は……終わったものを見る力」

「終わったもの……」

「“アルゴスの百の目”は、死んだ牌を見る力……その力は、邪悪で強烈だよ」

「……」

 言葉が出なかった。祖母や母は、そんな相手と闘っていたのかと考えると、身震いをするしかなかった。

「照、素直な意見を聞かせておくれ。私や愛の打ち方で、一番不思議だと思うことはなんだい?」

「次の牌が見えるのは分かったけど……どうしてあんなに連続で上がれるの?」

「そうだね、それがダンテの定理の最大の謎だね。そしてそれは、定理という言葉にこだわっている限りは、解くことができない」

 容赦なく難しい話しかたをするテレサではあったが、照は、だからといって腹を立てたりはしなかった。

(『今は解らなくてもいい、いずれ解るようになる』)

 その言葉が、本当にしっくりきていた。今は聞くだけだ。母親の愛だってそう言っていた。

「私や愛の連続和了にはルールがあるはずだけど、照はそれを知っている?」

「知ってる。だんだん翻数(はんすう)が上がるやつでしょ」

「そう、あれはわざとやっている」

「わざとなの?」

「段階的に上げる意味はない。最初は低く、準備ができたら高くする。本当はそれだけでいい。でもね、麻雀は高度な心理戦だよ。相手を怖がらせるギミックも必要なのさ」

「ギミックって?」

「仕掛けかねえ……悪く言えば罠だよ」

「……」

 テレサはまだ答えを示していなかった。まるで、照がそれに気がつくのを待っているようであった。

「おばあちゃん……準備ってなに?」

 できの良い孫に、テレサは嬉しそうだった。

「照、近くに【二筒】があったら私におくれ」

 照は、自分の前の牌から【二筒】を探し、一枚をテレサに渡した。

「ありがとう」

 テレサは、すでに他の三枚を見つけており、照から渡されたものを含めて、四枚の【二筒】を自分の前に並べている。

「照が【一筒】を自模った時に見えるものはこの牌かい?」

 照が頷くと、テレサはその四枚を裏返した。

「青く見える牌は、照の最も近い場所にある牌」

 と言って、テレサは照から見て一番近い牌を表にした。

「お……おばあちゃん」

 その照の慌て方に、テレサの笑いが深くなった。

「連続である必要はないけれどね。例えば、照がもう一度【一筒】を自模ったら――」

 二枚目の【二筒】が表にして、照を見ながらテレサは言った。

「その情報はスタックされる」

(これが……これがお母さんの秘密!)

 照は(たかぶ)る気持ちを抑え、テレサに追加の質問をした。解ってきた。連続和了の秘密が解ってきた。

「次も……【一筒】なら?」

 テレサはなにも言わずに三枚目を表にした。そして――

「次もそうならば――」

 そう言って、テレサは四枚目も表にして、それをすべて重ねた。

「これがスタック。ただし、スタックとは重ねるという意味だけではない。重なると同時に攻撃力も強くなる。このスタックの仕組みが解らない限り、ダンテの定理の謎は解けない」

 小学生には荷が重い話であったが、照はそれをシンプルに考え、貪欲にその力を欲した。

「【二筒】が山になかったらどうなるの?」

「終わりを見る力は……終わったものを見ることができない。他家に配られたものは終わった牌。だから見ることはできないねえ」

「そうか……四枚見えなきゃいけないものが三枚しか見えなかったら、それはだれかが持っている」

「あるいは……」

「あるいは?」

「王牌にある」

「王牌も終わった牌なの?」

「いいや、王牌はその名のとおり手が出せない牌なのさ。私たちも、ウインダム・コールも、王牌にだけは手を出せない」

「だったら……王牌を支配したら“巨人”に勝てるの?」

「……可能性はある。私もウインダム・コールと対戦した時、ドラを絡めて揺さぶりを掛けてみた」

 テレサは、雀卓の投入口をオープンし、卓上の牌を入れ始めた。照もそれにならい、近くにある牌を投入口に入れた。防音されていなければ、咲を目覚めさせるような大きな音で、牌がセットされ、せり上がってきた。

「でもね、結局は効果がなかった。解ったことはただ一つ、彼も王牌には手を出せないということだけ」

「おばあちゃん……」

「うん?」

 青ざめた顔している照を見て、テレサはやれやれといった顔になる。

「愛からなにか聞いたのかい?」

「咲が……私の敵になるかもって」

「あの子も困ったものだねえ……」

「教えておばあちゃん。これから咲に嘘をつかなきゃいけないことは我慢する。でも、これだけは知りたいの」

 テレサはティーポットからお茶を注いでゆっくりと味わうように飲んだ。そして、照にも飲むかと聞いた。

 それどころではなかったので、照は首を横に振った。早く答えが聞きたかった。咲と闘うなんて考えたくもないからだ。

「照だって昨日見たはずだよ」

(やっぱり……)

 テレサが答えを待っている。言ってみろ。お前の成長を見せてみろといった顔だ。

「咲の……嶺上開花」

「あれでね……愛のスタックはリセットされてしまった」

「え?」

「偶然役は無視するしかない。嶺上開花だってそうだよ」

「で、でも……咲は」

「解っていたねえ……上がれることが」

「それは、ダンテの定理を崩すことができるの?」

「おばあちゃんにも解らない。なにしろ、王牌を操作する人間には会ったことがないからねえ」

 テレサが照の前の山を指さした。一枚取ってみろと言っているのだ。

【七萬】

「見えるかい?」

「ううん」

「慌てることはない。まずは意識すること。見えて当たり前と思うことだよ」

「うん」

 食い入るように牌を見ている照の頭を、テレサは優しくなでる。

「今日はここまでにしておこうかね。今週はずっとこっちにいるから、また明日だね」

「うん、ありがとう。おばあちゃん」

 トレーニング室を出て、照はすぐにキッチンに向かった。咲が起きていないか気になってしまった。やはり、咲への隠し事は心苦しい。

「終わった?」

「うん」

 愛の姿勢と位置は、最後に見た記憶と完全に一致していた。そんな短い時間だったのかなと訝しみ、愛に聞いてみることにした。

「今何時?」

「11時半だよ」

 1時間以上経過していた。なんという濃密な1時間だったのだろう。それは、照の時間感覚を麻痺させるほどだった。

「もう遅いから照もおやすみ」

「咲は? 起きた?」

「よく寝ていたよ。安心して」

「……うん、おやすみ、お母さん」

「おやすみ」

 

 

 部屋のシングルベッドで横になっていた照だったが、色々なことがありすぎて、なかなか眠れなかった。

 照は、枕と毛布を持って立ち上がる。

 それは抑えられない感情であった。咲への罪悪感が、逆に激しいまでの愛情に変わってしまった。

 照は自分の部屋を出て、咲の部屋をノックする。

「咲……入るよ」

 返事がないので、照は勝手に咲の部屋に入った。

 よく寝ている。やはり暑さを感じているのか毛布は半分しかかかっていない。

「おねえ……ちゃん」

「ゴメンね咲、起こしちゃって」

「どうしたの?」

「一緒に寝ていい?」

「いいよ」

 そう言って咲は、奥にずれてくれた。

 照は、その空いたスペースに体を入れる。マットレスには、まだ咲の体温が残っていて温かい。

「おやすみ、咲」

 咲は返事をしなかった。その代わりに、咲は寝返りをうって、照と向かい合い、身体をぴったりとくっつけてきた。一緒に寝る時の咲の癖だ。

(ゴメンね……おねえちゃん、咲に嘘をつかなきゃいけなくなったの)

 熱いまでの咲の体温は、寝苦しいと言えばそれ以上のものはないほどであったが、妹のそばにいるという安らぎが、照の睡眠中枢(すいみんちゅうすう)を活性化させた。

(私は……咲の壁になる……)

 照の抵抗はそこまでであった。咲の発する熱、規則的な呼吸音、そして、心を落ち着かせる咲の匂い。それらのヒーリング効果が、照を眠りの世界にいざなっていた。

 

 

 翌日からのトレーニング。宮永照は、ダンテの定理の手ごたえを掴もうと必死になっていた。なにしろ、あと三日しかなかった。テレサ・アークダンテと宮永愛は、個人リーグ再開に合わせて、また東京に戻ってしまうからだ。

 打ち方も一変している。極力感情表現は抑えて、目や首の動きも極端にまで減らした。自分がなにを見ているか、妹に気付かれてはならない。

「おねえちゃん、どこか痛いの?」

 咲が心配そうに照を見て言った。

「大丈夫、お母さんの真似(まね)をしてるだけだから」

「あら、私そんなしかめっ面だったかしら」

「ねー」

 愛と咲が照を揶揄(やゆ)する。

「そんなにひどい?」

「うん、ひどい」

 咲が楽しそうに笑った。そんな笑顔で言われては、照も抵抗できなかった。

「じゃあ、やめるよ」

 とはいえ、試行錯誤は継続する。表情は戻すが、視点移動の抑制は続ける。

(二局でだいたいのイメージは掴めるはず)

 麻雀牌は34種類しかない。その内、字牌の7種類と、次の数字のない牌(【九萬】など)はダンテの定理の範囲外にあるが、残りの24種は識別できる。単純計算だが、一局18回自摸できたならば、その三分の二の12種を識別可能だ。二局で24種、三局目からは見える牌も増え続ける。七局目以降は四枚見える牌も多くなり、優位性は圧倒的になる。

(これが連続和了の秘密……)

 ただし、それには条件があった。上がり続けなければならなかった。ドップラーシフトは加速し続けることで効果が最大限に発揮される。止まってしまうと、それは最初からのやり直しになるのだ。

(咲は……それを強制的止められる……)

 あれ以来、咲が嶺上開花を上がることはなかったが、照も愛も、咲の嶺上開花をそう考えていた。

 しかし、それを危惧するのはまだまだ先の話だ。現状、照が見える牌は二割にも満たない。今は、確実に見えるようになることを最優先にする。

(嶺上開花……王牌からの使者……咲、おねえちゃんにもう一度見せて)

 

 

 宮永愛とテレサ・アークダンテが帰京する前日。宮永照は、テレサからダンテの定理の最後の謎を聞いていた。

破局点(はきょくてん)? それなあに?」

「そうだねえ、ちょっと難しいね」

 ここはトレーニング室。あいかわらず、照とテレサの二人きりだ。最初のような緊張を照は感じなくなっていた。今目の前にいるのは、照が好きな、そして妹の咲も好きな、二人の祖母なのだ。

「おばあちゃんはもうダンテの定理を使えない。それは解った?」

「うん、おばあちゃんは普通に打ってたから、物凄く強いけど」

 テレサが笑顔で軽く会釈する。

「照は映画でもアニメでもいいけど、もうすぐ終わるなあって解る?」

「まあ時間とかで解るかも」

「そうだね、それが普通だね。でもね、破局点にはそれがない」

「……」

「なんの予兆もなく、突然それはやってくる」

「……ダンテの定理ができなくなるの?」

 テレサは自分の目を指さした。

「違うよ……見えなくなるのさ、色がね」

「お母さんも?」

「まだだよ……でもそれは、必ずやってくる。私のようにね」

 照は、なぜ愛がこんなに急いでいるか分かったような気がした。いつ訪れるかもしれぬ破局点。愛はその恐怖と闘っていたのだ。そしてそれは、自分にも必ずやってくる。

 

 

 ――それから数が月後、宮永愛は突然引退を宣言した。個人戦を前後期で制覇し、世界選手権出場もほぼ確定していただけに、周囲は騒然となった。

 しかし、宮永照はそうではなかった。

(お母さん……きてしまったんだね)

 愛の引退は、破局点の到来を意味していた。対ウインダム・コール最大の武器を奪われたのだ。引退するのは当然の結果だと思っていた。

 

 

 5.嶺上開花

 

 

 昨年、欧州チャンピオンのテレサ・アークダンテは、若き天才“巨人”ウインダム・コールに世界選手権で完敗した。しかも、テレサはその後にダンテの定理の能力を失い、雪辱の機会はほぼ失われたかに見えた。

 しかし、テレサの“巨人”打倒の執念は、娘である宮永愛に継承された。

 愛は、闘いの場を日本に移し、“巨人”打倒へのファーストチケットである世界選手権出場を目標に定めた。そして、それが九分九厘(くぶくりん)確定した矢先に、ダンテの定理の(ことわり)が愛にも訪れた。テレサと同様に、愛もその力を喪失してしまった。

 「不運な」、「悲運な」、そんなありきたりな形容詞を飛び越えて、愛は「不幸」であったと言える。しかし、彼女は悲観しなかった。「不幸」は「幸福」の一部であり、「幸福」は「不幸」の一部であると考え、だとするならば、自分が力を失ったのは「不幸」ではあるが、それを娘に継承できるのは、疑う余地のない「幸福」だと思った。

 それは再び継承された。テレサ・アークダンテから宮永愛へ、そして、彼女の娘たちへ――ウインダム・コールを倒すこと。それは、アークダンテ一族の信念になっていた。

 

 

 それから三年の月日が流れた。

 宮永照は小学4年生になり、妹の宮永咲は2年生になっていた。

 5月中旬の午後4時、照は下校途中であった。友人たちと一緒に下校していたが、家は山の上にあるので、途中からは一人になってしまう。とはいえ、照は退屈したりはしなかった。家に向かう山道は、自然が豊かで、この時期はあちらこちらでつつじが咲いており、その蜜を求めて蝶たちがひらひらと舞っている。照はこの時期の長野が大好きであった。厳しい寒さの冬と、盆地特有の蒸し暑い夏の間の、最もすごしやすい春の季節だ。何度か行ったことのある東京も面白くはあったが、この季節の長野に勝てるものはない。

「お姉ちゃーん!」

 後ろから妹の咲の声が聞こえた。照は慌てて振り返る。

「咲、走っちゃだめだよ!」

 咲は、体が弱いわけでもなければ、運動が苦手なわけでもない。ただ、よく転ぶのだ。だから照は、その場にとどまり、咲が追いつくのを待っていた。

「どうだった?」

 照は苦笑した。いきなりどうだったかと聞かれても答えようがない。

「咲は今日6時間?」

「うん、今日と明後日だけ。おねえちゃんは毎日そうでしょう?」

「まあ、もう慣れたけどね」

「それよりも身体検査どうだった?」

 その話かと照は思った。確かに今日は全校一斉の身体検査があったが、咲に話して聞かせるほどの結果は出なかった。

「身長が2センチ伸びた」

「私もそれぐらい。おばあちゃんに似たら大きくなるはずなのになあ」

「お父さんに似たらダメかもね。咲は大きくなりたいの?」

「だって、おばあちゃんかっこいいから……私もああなりたい」

「私はお母さんぐらいでいいよ」

 咲が手を繋いできた。小学生になってもこの癖は直らない。最も、照はそれでもいいかなと思っていたが――

「あー! 咲見て! カモシカが!」

 ――家のすぐそばの林の中に見慣(みな)れぬ動物がいるのを見つけた。照は、それが野生のニホンカモシカではないかと思った。

「えーカモシカ? どこに?」

 鹿やリスならたまに見ることがある。ただ、天然記念物のカモシカは滅多(めった)に人里には現れない。咲も興奮が隠せないようだ。

「ほらあそこ……」

「どこ?」

 咲に顔をくっつけて指差す。カモシカは林の中で樹皮を食べている。

「見えた?」

「全然……もっと近づいてみようよ」

 咲がそう言って歩き出した。照は逃げられないか冷や冷やしながら後に続いた。

「本当だ……」

 50mほど歩いてから咲もカモシカを見つける。

「凄い……お姉ちゃん、私、初めて見たよ」

「私も」

 しばらく二人で、カモシカを眺めていた。やがて、カモシカは見られていることに気がついたのか、恥ずかしそうに林の奥に消えた。

「お姉ちゃん、視力はいくつだった?」

「知りたい?」

 不思議そうに咲が見ている。

「私は2.0だったよ? お母さんに目を大切にしろって言われてるから。お姉ちゃんだってそうでしょ?」

「私は4.0だよ」

 咲が笑いだした。

「お姉ちゃん……測れるのは2.0までだよ」

 笑いをこらえて、咲が言った。

「そう思うでしょう。でもお姉ちゃんは、みんなの2倍の場所から2.0が見えたんだからね」

「だから……4.0?」

「そう」

 咲は耐えられなくなったのか、照の袖を引っ張り、声を上げて笑っている。言った自分もなんだかおかしくなり、咲と一緒に笑いながら家路についた。

 

 ――テレサ・アークダンテが移住してきてから、家の玄関には指紋認証の鍵が取り付けられている。そのタッチパネルに照が人差し指を触れると、カチャと音がしてロックが解除された。

「ただいまー」

 咲が靴を脱いで玄関に揃えている。こういうところはしっかりしている。

 しかし、咲は廊下を走ろうとしてすぐさま転んだ。

「咲、大丈夫?」

「私……おばあちゃんの部屋に行くね」

 結構いい音がして、実に痛そうに思えたが、咲は『なんでもないよ』という顔で言った。

「じゃあ、私も着替えてから行くよ」

「うん」

 照は階段を上がり、自分の部屋に入る。ランドセルを置いてハンガーにかけてあるジャージ素材の部屋着に着替えた。私服通学の小学生なので、特に着替える必要はなかったが、家ではゆったりした服装でいたかった。

 父と母は、仕事で長野市に行っており、7時ぐらいまで帰ってこない。まもなく祖母(父方)の宮永美津子が夕飯の準備でやってくるが、それまでの間は、テレサと一緒にいることが多かった。

 照は階段を下りてテレサの部屋をノックする。

「おばあちゃん、入るよ」

 返事がなかった。その代わりにトレーニングルームのドアが開いた。

「お姉ちゃん、こっち」

 咲に呼ばれてトレーニングルームに入った。

「またビデオを見てるの?」

「この人凄いんだよ。おばあちゃんにもお母さんにも勝ったんだって」

 咲がテレサの膝の上に座り、PCの画面をジッと見ている。そこに映されているのは欧州リーグのテレサの対局シーンであった。

「アレキサンダー……」

 映像の対局者は英語表記されている。照はおおよそしか分からなかったが、名前だけはなんとか読めた。

「それは英語読みだねえ、彼女はドイツ人、読み方はラテン読みだよ」

「なんていう人?」

「アレクサンドラ・ヴィントハイム……マジシャンだよ」

「手品を使うの?」

 テレサは意味深な笑顔になり、「まあ、見てなさい」と言った。

 

 ――それは異様な打ち筋であった。アレクサンドラと呼ばれた雀士は、時には速く、時には遅くといったトリッキーな摸打(もーた)でテレサを惑わしていた。そして14巡目、テレサはアレクサンドラの見え見えの倍満に振り込んでしまった。

「どうして? どうしておばあちゃんは【七筒】を捨てたの?」

「トリックかねえ」

「トリック?」

 テレサは手を広げて、咲が立てるようにした。

「咲、そこのリモコンを取っておくれ」

 咲は、テレサの膝の上を離れ、雀卓の上にあるビデオのリモコンを取って渡した。 

 テレサは、それを操作して、時間を少し戻す。

「アレクサンドラは私の対面にいる。彼女の河にはなにがある?」

 照はその質問の謎を解こうとした。――ごく普通の河だった。正逆の比率はほぼ均等で、なんらおかしなところはなかった。

(これは……)

 その視覚イメージに照は違和感を覚えた。河の中盤に【三筒】と【六筒】が逆向きに並べて置かれており、さっと見るだけでは【七筒】に見えてしまう。

「おばあちゃんがこんな罠に引っかかるはずはないよ」

 咲が怒ったように言った。このトリックを見破ったらしい。

 テレサは優しい笑顔になり、咲をなでる。

「それがね、引っかかったんだよ」

「どうして?」

「彼女はずーっと合わせ打ちをしていたからね。念入りに仕込んでこの一撃に賭けた。たいしたものだよ。この勝負はおばあちゃんの完敗だったねえ」

「お母さんも? お母さんもこの技で負けたの?」

 照は納得できなかった。技の仕組みを知っているのならば、母が同じ(あやま)ちを繰り返すはずがない。ダンテの定理による驚異的な対応力、それは凄まじいものなのだ。

「違うよ、愛へのマジックはもっと面白い」

 テレサは椅子から立ち上がり、雀卓に向かった。

「照も咲も、私の対面にいてちょうだい。そこからじゃなければこのマジックは成立しない」

 テレサは東家の席に座り、卓上にあった牌を適当に13枚集めて手牌にした。近くにあった【白】を照たちに見えるように取り、それを自摸牌に見立てる。そして、テレサは、右から3枚目の牌をつまみ、見えないように裏にして、それを切った。

「なんだと思う?」

「……」

 答えようのない質問だった。テレサの手牌への手がかりがなさすぎる。

「咲は?」

「わかんない」

 テレサはニヤリと笑い、牌を表にする。

【白】

「ええー!」

 その声は自分が発していた。どういうトリックを使ったのか分からないが、テレサは自摸切りをしていただけであった。

「おばあちゃん……横から見ていい?」

 咲が興味深そうに言った。

「いいよ。照もおいで」

 咲と一緒にテレサの横側に移動する。

「ゆっくりやるからね。よく見ているんだよ」

 テレサは先ほどと同じ動作を繰り返す。牌を自模り手牌の横に置く。そこから、このマジックの種明かしがされる。

「人差し指から薬指の三本で手牌の右から3枚目までを隠す」

 そう言った後、テレサの小指と親指は自摸牌を手牌の影に隠した。

「相手はこの人差し指しか見ていない」

 その人差し指が、3枚目の牌を後ろに倒し、自摸牌と入れ替えた。倒された牌は、再度親指と小指によって自摸牌の位置に移動された。

「すばやくやられたら見分けがつかない。愛はこのマジックにやられてしまった」

 テレサが照を見ている。『お前ならその理由が解るはずだ』テレサはそう言っていた。

(ダンテの定理は死んだ牌は見えない。手牌は死んだ牌……)

 照は、なぜ母親が負けたかを理解した。実に巧妙(こうみょう)初見殺(しょけんごろ)しだった。この技には、テレサでも愛でも即効性の対策はとれないだろう。

「面白い! やってみたい」

「いいよ、咲、やってみて」

 咲は興味を持つとなんでも自分でやってみたがる。そして、それをほぼ完璧にマスターしてしまう。それは才能としか言えなかった。まるで乾燥しきったスポンジのように、それらの技術をすべて吸収してしまう。

「あれ?」

 とはいっても、咲の小さな手ではこの技は困難を極める。牌をバラバラと倒してしまった。

「そんな簡単にはできないよ。これは技術だからね」

「ぎじゅつ?」

「そう、何度も何度も練習しなきゃマスターできないよ」

「うん」

 何度も牌を崩しながらも、咲は止めようとしなかった。役に立つかまったく分からない技術ではあるが、咲は、楽しそうに練習を繰り返していた。

(咲は……まだ麻雀が楽しいの?)

 照は、数年前から麻雀を打つことの喜びを見失っていた。ダンテの定理をマスターし、照の麻雀は楽しむものではなく、勝つためのものに変貌した。照にとって技術とは、強くなるためのものというよりは、勝つための必須条件になっていた。だから、その練習に喜びを感じることはできない。

 

 

 ――しばらくして部屋のドアホンが鳴った。おそらくは宮永美津子であろう。照はドアを開けて美津子を部屋に入れた。

「照、咲も、宿題は終わったの? 麻雀は愛ちゃんが帰ってきてからにしなさい」

 美津子は部屋に入るなり、照と咲を注意した。それはもはや“お約束”になっていた。照たちは、彼女がきたら部屋に戻って勉強しなければならない。

「はーい」

 照はそう返事をして立ち上がったが、咲はまだ牌をいじっている。美津子に大目玉を喰らいそうだったので、テレサが慌てて咲を止めた。

「咲、続きは明日だね」

「……うん」

 心残りそうではあるが咲も雀卓を離れる。そして、半怒りになっている美津子の手を握る。

「美津子おばあちゃん、シュークリーム」

「……はいよ。照も同じのでいい?」

「うん」

 まったく、咲にはだれも勝てない。美津子は、咲のおやつのおねだりに、瞬く間に笑顔になった。

 

 

 ――プロ雀士を引退してからの宮永愛は、かえって多忙になっていた。英語と日本語を自在に操り、閉鎖的な日本の麻雀界にコネもある。欧州の雑誌記者やネット関係者は、知名度の高い愛にコンタクトを取りたがった。昨年から日本麻雀界への注目度が高まっていたのだ。小鍛治健夜という稀代(きだい)の天才が突如現れ、無敵のウインダム・コールを窮地に陥れた。同じく天才と呼ばれていたアイ・アークダンテに彼女の手がかりを求めるのは、情報関係者としては当然とも言えた。

 

「ただいまー」

 愛と宮永界が一緒に帰宅する。愛は少し疲れているようだ。

「おかえりー」

「咲、照、ご飯食べた?」

「食べたー」

 遅くなる時は、先に夕飯を取るように愛からメールが入る。ここしばらくはその日が続いている。

「そう。じゃあ、お母さんも食べるから、練習はそれからだね」

 もう8時近くなっているが、どんなに遅くなっても、どんなに疲れていても、愛は練習を休むとは言わなかった。

『一日休むと、取り戻すのに一週間かかる』

 それが愛の口癖だった。しかし、照は思った。

(疲れている時ぐらい休んだっていいのに……)

 自分たちのことを考えてくれるのは嬉しいが、照は愛の体が心配だった。

「照、30分後にトレーニングルームにきてね」

「……うん」

 母は照の心を読み取ったようだ。「そんなに心配するな」というような笑顔でキッチンに消えた。

 

 

 ――きっちり30分後、愛は着替えもせず雀卓についている。軽く食事はしたらしいが、風呂などには入っていないだろう。まだ小2である咲の就寝時間(しゅうしんじかん)を優先していた。

 半荘一回のみとの約束で練習が始まった。

 

 東家 宮永愛

 西家 テレサ・アークダンテ

 南家 宮永咲

 北家 宮永照

 

「私、お母さんのフィッシュアンドフライドポテトが食べたい」

「どうして? 咲はおいしくないって言ったじゃない」

 それは咲なりのアピールだった。やはり咲も母親に早く帰ってきてほしいのだ。

「咲、それを言うならフイッシュ・アンド・チップスでしょ。おばあちゃんがタルタルソースで食べたらおいしいかもって」

 照も咲の援護射撃をする。理由は同じだった。

「なるほどね……でも、タルタルソースの作り方を知らないや」

「咲が美津子おばあちゃんから聞いといてあげる!」

「テレサじゃなくて美津子さんなんだ……まあいいよ、じゃあ咲、お願いね」

「うん」

 愛は少々複雑な笑顔だが、咲は満面の笑顔だった。

 正直、愛もテレサも、料理が得意ではない(言いかたを変えるなら下手)。ただ、照も咲も、母親が作ってくれた食べ物は、味はともかくとして、大好きであった。

 ――宮永家の麻雀トレーニングはこんな感じだった。今日なにがあったとか、夕飯になにを食べたとかを母と話せる楽しい場であった。しかし、麻雀には妥協(だきょう)がなかった。元欧州チャンピオンと元日本チャンピオンの打ち筋は、実に厳しいものであった。ダンテの定理が使えなくなったとはいえ、それを知り尽くしている二人なのだ。照の上り牌の確定は容易ではなかった。

 

 ――トレーニングもほぼ終わりの南四局二本場。四局前から連荘を開始していた照が、点数で一歩リードしている。とはいうものの、この面子が相手では気を抜くことができない。

(また嶺上開花狙い……信じられない)

 特に咲だ。彼女は最初から徹底して嶺上開花を狙っていた。ただ、一度も上がれていないので、点数はマイナスになっていた(トレーニングは飛び終了なしのルール)。

 12巡目の照の自摸番、【二筒】を引いたが、一枚もドップラーシフトは起きなかった。

(もう咲が槓子で持っている? だとすると聴牌待ちかな)

 照は自分の能力が悪魔の定理と言われていることを理解していた。山の中の牌の位置が分かる。それは、だれも太刀打(たちう)ちできぬほどの圧倒的な有利さであった。

 テレサから教えられた青方偏移(せいほうへんい)というものを照は調べたことがあった。光のドップラー効果のことで、大体は天文学の膨張宇宙と収縮宇宙に関連付けられていた。ビックバンから始まった宇宙は、膨張から収縮に転じることで終焉(しゅうえん)に向かうという。麻雀で考えるのならば、配牌開始前が最も膨張した状態だ。そこからは常に終わる方向に進む。ダンテの定理はそれを捉えることができる。収縮している間は、見える牌は増え続ける。そして、自らが加速することにより、その数を劇的に増やすことができる。それが連荘地獄だ。ただし、大きな欠点もあった。加速中に減速か止められると、青方偏移のスタックはリセットされ、ゼロからのやり直しになる。

 加速の真っただ中にある照は、もう一度の自摸で4枚見える牌が出てきている。【二筒】は4回目だ。【三筒】がどこにも見えないということは、それはもう死んだ牌なのだ。

 咲の自摸番、自模る牌は見えている【五索】だ。照にはもう1枚の【五索】も見えていた。それは次巡でテレサが自模る牌になる。連荘開始から累計3回目の【四索】を引いたので、3枚見えなければならないものが2枚しか見えない。残りはだれかが持っている。

(咲……)

 照は、咲が天才であることを思い知らされた。

 咲は、あの技をやって見せた。アレクサンドラ・ヴィントハイムのマジックを、よりによって愛にやって見せたのだ。

 咲の捨て牌は【六筒】。

(落ち着いて……この行為には、なんの意味もないただの(まぎ)れ……)

 紛れとは、囲碁や将棋で形勢不利な側が起死回生を狙うものだが、麻雀では意味が違う。意味のないことに意味を持たせる。その逆も(しか)りだ。麻雀では、そもそも不確定要素が多すぎるので正確な判定はできない。ダンテの定理を受け継いだ照にも、適度に紛れを混ぜるように言われていた。

 照にはもう和了が見えている。14巡目で聴牌し、次巡で満貫を上がる。その紛れはなんの意味のないことだ。

 13巡目の愛の自摸番、咲のマジックに楽しそうに笑い【三筒】を捨てた――愛は、勝負よりも咲の意図の確認を優先したのだ。

「ポン」

 咲が愛の河から【三筒】を奪い、(さら)した牌につける。そして、楽しそうに照を見ている。

(そうだね……咲、楽しいよ。私が【五索】を切れるか試しているんだね。切れるよ、だって、それはブラフだから)

 照が引く【五索】は、咲に大明槓されるかもしれないが、聴牌状態になければ嶺上開花を恐れる必要はない。なるほど、15巡目の自分の和了はブロックされたが、ダンテの定理は次も考えてある。そのチャンスは17巡目だ。

 照は咲にずらされた【五索】を自模り河に捨てる。

「カン」

 予想どおりの咲の槓だ。しかし、その嶺上牌では上がれない。

 ところが――

「もう一個、槓」

 その嶺上牌は【三筒】だった。咲は、晒してある牌に加槓する。そして、再度嶺上牌を取る。

「もう一個、槓」

(咲……)

 咲は、ダンテの定理の弱点ともいえる字牌の【西】を暗槓した。なんということだ。咲は三連続槓という非常識な手段で強引に聴牌してしまった。ならば、結果は見えている。

「ツモ、嶺上開花――」

 照は、その時の愛とテレサの顔が忘れられなかった。呆気(あっけ)にとられたような、なにかを恐れるような、なんともいえない顔だ。おそらくは、自分も同じ顔をしているに違いなかった。

 照は大きく息を吐いて目をつむった。

(そうだね……もっと楽しめってことだよね。いいよ、お姉ちゃん強くなるから、咲の真似(まね)のできない力で、ダンテの定理の弱点を克服する)

 照は自分が驚異的な視力を持っていることに気がついていた。それを咲に対抗する技術に育て上げる。そのためには血のにじむような練習を繰り返さなければならなかった。

(久しぶりだな……私は、麻雀が楽しいと思っている)

 練習の半荘が終了した。点数的には照がトップであったが、結果的な勝者がだれであるかは、言葉にするまでもなかった。

 

「愛……界を呼んできてくれないかい」

「……ええ」

 テレサが声を絞り出し、愛が似たような声で答えた。

 

 ――愛が界を連れてきた。彼はアルコールが入っているようで、顔がちょっと赤かった。

「お義母さん、呼びましたか?」

「もう一部屋増築できるかい? 費用は私が払うけど」

「はあ、申請すればなんとかなると思いますが……まただれかを?」

 その質問には愛が答える。

「ミナモだよ。エレナの娘のミナモ・オールドフィールド。新学期が間もないから急いでね」

「え? 新学期って来年じゃないの?」

「なに言ってんの。向こうの新学期は……9月だよ」

 

 

 6.天国の日々

 

 

 8月中旬、長野に限らず、全国的なお盆のシーズンだ。宮永照の家は、父親である界の実家付近にあり、当然ながら迎え盆の風習もそれに従う。界と宮永愛が、家の玄関の前で「かんば」と呼ばれる筒状の白樺の皮に火をつけて迎え火にしている。祖母のテレサ・アークダンテも、日本のお盆という風習をよく知っており、慣れた様子で見守っていた。

「照お姉ちゃん、これはなにをしているの?」

 しかし、宮永家にはお盆の行事を初めて見る人物がいた。

 一週間前に、テレサがイギリスから連れてきたミナモ・オールドフィールドだった。

 愛の妹エレナ・オールドフィールドの娘で、照とは従妹(いとこ)の間柄になる。金髪ではあるが、顔立ちは日本的で、どちらかといえば、咲よりも照に似ていた。

 彼女はなぜ家の前でものを燃やすのかが理解できないらしかった。

「ご先祖様に場所を教えているんだよ。家はここですよってね」

「ご先祖様ってなあに?」

 ミナモは普通に日本語が話せる。テレサの夫である日本人(現在は英国に帰化)のコウスケ・アークダンテが同居しており、日本語に慣れ親しんでいたからだと言っていたが、さすがに宗教習慣の言葉は難しいようだ。

「死んだ人かな」

「死んだ人……リビングデッドのこと?」

「なにそれ?」

 咲が逆に質問した。ゾンビのことかなと照は思っていたが、ミナモに説明させたほうが面白そうだった。

「こんなのだよ」

 ミナモが口を斜めに開けて、手をだらりとさせてゆっくりと歩いてみせる。映画でよく見るゾンビの歩き方だ。

「幽霊のこと?」

「なにそれ?」

 話がかみ合わず、(らち)が明かないと考えたのか、二人で照を見ている。

「あとでお父さんにレンタルビデオ屋さんに連れて行ってもらおうよ。ミナモと咲でお勧めの怖い映画を借りて見せっこしたらいいよ」

「……おねえちゃんもいっしょに見てくれる」

 咲は怖がりなのだ。ホラーや心霊映画は大の苦手だった。

「ミナモは一人で大丈夫」

「……私も照お姉ちゃんといっしょがいい」

「じゃあ、三人で一緒に見よう」

「うん」

 界と愛が笑って見ている。逆にテレサが不謹慎(ふきんしん)だといわんばかりに渋い顔をしているが、宮永家のお盆とはそういうものだった。自分たちが生まれてきたことを先祖に感謝し、今を生きる自分たちの命にも感謝する。それに堅苦しさは必要ない。元気な姿を見てもらうことが、最大の先祖供養になるのだ。

 

 ――長野ではお盆に天ぷらを食べる習慣があった。テレサや愛は、数ある日本料理の中でも天ぷらが大好物だった。父方祖母の宮永美津子が作ってくれたものをおいしそうに食べている。

「これはなんの天ぷら?」

 ミナモが不思議そうに美津子に聞いた。天ぷらそのものは知っているらしいが、丸い形の中身がなにか想像できないらしい。

「それは天ぷらまんじゅうだよ。おいしいからミナモも食べてみて」

「おまんじゅうなの?」

 それは普通のまんじゅうに衣を付けて揚げた長野独特のお菓子だった。照は大好きだったが、くせがあるので外国人のミナモの口には合わないだろうと思っていた。

 そのミナモが天ぷらまんじゅうを一口食べて動きが固まる。

「お水!」

 咲が慌てて水を取りに行こうとするのを、ミナモが服を掴んで止めた。

「……み、ミナモちゃん大丈夫?」

 ミナモは激しく首を縦にふっている。

「Yummy!(おいしい!)」

「ええ!?」

「This is the best thing I’ve ever had(今まで食べたもので一番おいしい)」

「おいしいってこと?」

 ミナモは興奮すると英語になってしまう。咲は分からないまでも、ミナモの表情と声質からおいしいと言っているのだなと推測した。

「ゴメン咲。でもおいしい、毎日でも食べられる」

「よかったね、ミナモちゃん」

 興奮して話すミナモに、咲が楽しそうに応じている。もう二人は仲良くなれたようだ。

 

 ――しばらくして、照は妹二人と父親の車で近郊のビデオレンタル屋に行き、咲とミナモに、自分がこれだと思う恐怖映画を選んでくるように言った。ミナモは早速ホラーコーナーのDVDを物色しているが、咲はなにを選んだらよいか決めかねていた。

「これなんてどう?」

 照は助け舟を出すことにした。有名な呪いの映画を咲に進める。

「あ、それ知ってる。見たことないけど」

「じゃあこれにする?」

「でも日本語だし……」

「あ、そっか」

 確かに咲の言うとおりだ。ミナモは日本語を話せるとはいえ、細かい話は難しいはずだ。

「確か……英語バージョンもあったような」

「じゃあ、ミナモちゃんのところにあるかも」

 そう言って、咲は走り出した。

「あ……」

 止める間もなく、咲はあっという間に転んだ。それを見てミナモが大笑いしている。もちろん助けながらではあるが。

「咲、走ったらだめだって言ってあるでしょう」

「ゴメンね、お姉ちゃん――あ! これかな」

 ミナモの手を借りて起き上がった咲が、例の映画の英語版を見つけた。照が頷くと、咲はそれを抜き取り、ミナモに見せる。

「ミナモちゃん、これ見たことある?」

 ミナモが目を細くしてパッケージを眺めている。

「それ怖いの?」

「え? 怖いよ。どうして?」

「だって血が出ていないじゃない。こんな風に」

「!!」

 ミナモが選んだDVDを咲に見せる。いかにもといったゾンビ映画で、パッケージは血まみれで残酷そのものだ。

 耐性のない咲が照の腕を掴み怯えている。

「一回戦はミナモの勝ちだね。でも勝負は映画を見てからだよ」

「OK! 照お姉ちゃん」

 

 ――家に戻り、映画鑑賞会が始まった。最初はゾンビ映画からだ。居間のテレビで見ていたが、咲があまりにも怖がるので防音設備のあるトレーニングルームに移動させられた。

 もう大騒ぎであった。映画が日本ホラーになると、独特の驚かせる演出にミナモが大絶叫している。いつの間にか、ミナモも咲も照にべったりとくっついていた。その二人の妹の怖がりようが楽しくて、照は、怖い映画を見ていることをすっかり忘れてしまっていた。

 

「照おねえちゃん、どっちが勝った?」

 映画が終わり、ミナモがどっちの映画が怖かったかの判定をしてくれと言った。咲も興味深そうに見ている。映画自体なら判定できるが、観る側の優劣なら判定するまでもない。

「どっちも負けだよ。咲もミナモもハコにされちゃったね」

「……」

 まあ納得せざるをえないだろう。自分たちの臆病さを思い出した二人の妹は、笑顔で相手をバカにする。

「咲は泣きそうだったし」

「ミナモちゃんだって大声で叫んでた」

 楽しそうにじゃれ合っている妹たち。そのどこにでもある光景が、宮永照の心を幸せにさせていた。 

(ミナモ……壁を作るのは麻雀の時だけだよ)

 ――ミナモ・オールドフィールドは、すでにダンテの定理を継承していた。対局を繰り返し、咲にはまだ発現していないことを彼女なら見抜いたはずだ。咲もまた、自分以外はダンテの定理という能力を使用していることを知っていた。そして、それが二人の間に壁を作らせる。

 しかし、従妹とはいえ、二人は血の繋がった一族なのだ。打ち解けあったその姿は、まるで本当の姉妹のようであった。

(ずっと、このままなら……)

 アークダンテ一族は常に勝つことが要求されている。それが妹であれ従妹であれ例外はない。ただ、照の本音は違っていた。普通の姉妹、普通の従姉妹として穏やかに暮らしたかった。

 

 

 麻雀のトレーニングにはお盆も正月も関係なかった。今日は午後8時からそれは始まっている。ミナモが日本にきてからは、愛が面子に加わることが多かった。テレサは対局データを取集し、終局後に各自にアドバイスを与える役割だ。

 基本半荘2回がスタンダードコースだが、愛の仕事の都合などで開始が遅くなった場合は1回になることもあった。しかし、練習が中止されることは、照が麻雀を始めてから一度もなかった。

 今日は愛が夏季休暇中なので当然半荘2回のコースだ。

「これは凄いね……」 

 それは最初の半荘を終えた後のテレサのコメントだった。最終局にミナモは、愛の読みを外して倍満を直撃し、元日本チャンピオンをハコにしていた。

(統計学かな……ミナモちゃんは統計学を取り入れている?)

 ダンテの定理を引き継いだ者にはある掟があった。それは自分のダンテの定理の特性を他者に話してはならないことだ。ミナモも、愛も、テレサも、基本となるドップラーシフトに各自アレンジを加え、継承者同士でも細部を秘密にしている。

 異常なまでの警戒心であった。たとえ親であれ娘であれ、いつ敵になるかもしれぬと考え、それが正しいことだと(いまし)められている。

常軌(じょうき)(いっ)していると思うかも知れないが、その正しさは、今ミナモが証明した。

 ダンテの定理創始者であるテレサも、その正当後継者であった愛も、ミナモのアレンジを読み切れないのだ。

「やった! 初めて愛おばさんに勝てた」

「なるほど……でも次は負けないよ」

 愛が含みのある言いかたで答える。

 トレーニングではダンテの定理という言葉を口にしてはならない。なぜならば、部外者である咲がいるからだ。

『力を持たぬ者には、その本質を教えられない』

 テレサも愛も、その方針を徹底していた。

 テレサの血縁者全員がドップラーシフトを捉える目を持つわけではなかった。現にミナモの母親のエレナ・オールドフィールドはその力が発現しなかった。咲だってそうかもしれないと考えるのは自然なことだ。

 とはいえ、咲はテレサも認めるほどの才能を持っていた。自分たちがなにをしており、どうやったらそれを凌げるかをすでに把握していた。咲にはダンテの定理を狂わす武器があるのだ。

(次の局かな……)

 ミナモは咲の嶺上開花を知らなかった。咲がこれまでの対局でそれを秘匿(ひとく)していたからだ。どの場面で使用したら最大の効果を発揮するか? 咲はそれを探っている。

 ミナモだってバカではない。ダンテの定理の盲点が字牌と【九萬】【九筒】【九索】であることは百も承知だ。咲がそれを軸にして手作りしていることも喝破(かっぱ)していた。

 しかし、今のミナモは、愛に勝利して自分のダンテの定理に盲目的な自信を持ってしまっている。咲がその機会を(のが)すはずがない。

 ――場は南一局9巡目まで進んでいる。ミナモは三連荘目でもうかなりの牌が見えているだろう。山の残牌と死んだ牌を差し引いて、咲がまだ聴牌していないと判断した。おそらくそれは間違っていない。咲はまだ聴牌はしていないはずだ。だが、咲には聴牌していないから上がれないという常識論は通用しなかった。

 それは究極の初見殺しだった。理屈を知らなければ、咲の嶺上開花は止められない。

「カン」

  ミナモの捨て牌は【九萬】。そして、それは咲に大明槓された。迂闊(うかつ)といえば迂闊だが、理にかなっているといわれたらそうともいえた。

 一枚も見えておらず、だれかの筋になっている気配もない。つまりは刻子で持っている者がいるのだ。ミナモはそれが咲だと考えていた。しかし、それが【九萬】の打牌を躊躇(ちゅうちょ)させる要因にはなり得なかった。大明槓されたところで、それが和了に連携することはないはずだ。だって、咲は聴牌してないのだから。

「もう一個カン」

 初めて見るミナモの狼狽(うろたえ)の表情だ。連続槓などという異常現象を平常心で受け止められる者などいるはずがない。

(ミナモ……これが咲だよ。ダンテの定理の破壊者)

「ツモ、嶺上開花、混一色(ホンイツ)。3900オール」

「嶺上……開花?」

 これがただの偶然役ではないことをミナモも理解したはずだ。そして、彼女は、これから本当の恐怖を知ることになる。

 

 南二局。咲を疑心暗鬼(ぎしんあんき)眼差(まなざ)しで見ていたミナモであったが、配牌が始まると、次第に冷静さを取り戻していた。このへんはさすがにダンテの定理の継承者といったところではあったが――

「What's this?(なにこれ?)」

 ミナモが三枚目の自摸牌を眺めて青ざめていた。無理もないと照は思った。なぜならば、照もその経験をしていたからだ。

 ダンテの定理は、加速中に止められると、それまで複数見えていた青方偏移(せいほうへんい)が一枚にリセットされてしまう。それは自分もミナモも変らないだろう。だが、咲の嶺上開花はそれをゼロにしてしまう。

『信じられない』

 自分も愛もそう感じ、咲の嶺上開花を恐れた。一局にも満たない能力の喪失であるが、咲に対してはそれが致命傷になった。

「Amazing……(凄い……)」

 ミナモは、その後になにかを言おうとして止めていた。なにを言おうとしていたのかは、照も、愛も、テレサも分かっていた。

 

 

 ――トレーニングも終わり、照は部屋に戻って宿題をしていた。風呂に入る時間だが、今は咲が入っている。照の順番はそれからだ。

「照おねえちゃん」

 ドアのノック音と共にミナモの声が聞こえた。彼女の要件はおおよそ見当がついている。

「入ってもいい? すぐ終わるから」

「いいよ」

 照はミナモを招き入れ、外にだれもいないことを確認してからドアを閉めた。

「咲はレッドなの?」

 欧米人らしく、ミナモはいきなり本題に入った。咲は自分たちとは違い、赤方偏移(せきほうへんい)を見ているのではないかと言っていた。

 立ったままでは、居心地が悪いので、ミナモにベッドに座るように勧め、照は机の椅子に座った。

「ミナモ、それはフェアじゃないよ」

「フェア?」

「私たちは、咲にダンテの定理をなにも教えていない。だから、私たちで咲の能力についてあれこれ話し合うのはフェアじゃない」

「でも……咲はウインダム・コールと……」

「そうかもしれないけど、違うかもしれない――」

 再びドアがノックされた。照もミナモも口から心臓が飛び出るほど驚いた。

「照……開けてくれる」

 愛の声であった。照はほっと胸をなでおろす。咲に話を聞かれたのではないかと思い、冷や汗をかいてしまった。

 ドアを開けると、愛が布団を抱えて立っていた。

「お母さん、どうしたのその布団?」

「咲がね、今日は怖い映画を見たから照と一緒に寝たいって。ミナモはどうする?」

「照おねえちゃん……」

「いいよ、三人で寝よう」

「やった!」

「じゃあ、もう一枚持ってくるから、二人でこれを敷いといて」

 愛が布団を置いて部屋を出た。照とミナモは丁寧(ていねい)にそれを敷いていく。

「もう一枚敷けるかな?」

「もう一枚ならね。でも三枚は無理だよ」

 ――部屋の外からなにかを引きずる音が聞こえてきた。

「お姉ちゃん、お布団持ってきたよ」

 咲が布団を引きずりながら入ってきた。

「お母さんが自分で持って行きなさいって。あ、お姉ちゃん、お風呂お先」

「一階から持ってきたの?」

「まさか、二階でお母さんにあってそこからだよ。ミナモちゃん、そっちの端っこ引っ張って」

 几帳面な咲らしく、きれいに布団を敷いた。

「私、ぬいぐるみ持ってこなきゃ」

「じゃあ、私も」

 二人の妹が、自分の部屋からぬいぐるみを持ってきた。咲はお気に入りのクワガタだが、ミナモは緑色の恐竜のようなものを持ってきた。

「ミナモちゃん、それなあに」

「ネッシーだよ」

「ねっしー? ネッシーって本当にいるの?」

「いるよ」

「ふーん」

 咲はそう言って、自分のクワガタの(あご)で、ネッシーの首を(はさ)む。

「ああ、私のネッシーが」

 ミナモの反撃だ。ネッシーの首でクワガタをバシバシ叩いている。ここにきていた理由を忘れてしまったかのように、楽しそうに、実に楽しそうに咲と遊んでいる。

「そういえば、お姉ちゃんもぬいぐるみ持ってるんだよ」

「え? どこに?」

「お姉ちゃん」

 確かに、昔、咲と一緒に買ってもらったぬいぐるみがあるが、あまり見せたくはないものだ。

「いやだ。見せたくない」

「照お姉ちゃん……ミナモ、見たいの」

 ミナモがかわいい妹を演じてせがむが、なおさら見せたくなくなった。

「ミナモ! かわいくない。だから、いや」

「そんなこと言わないで、ね、お姉ちゃん」

「……」

 どうやら敗北のようだ。咲にそこまで言われては拒否できなかった。

 照は立ち上がり、自分の黒歴史であるぬいぐるみをミナモに渡した。

「照お姉ちゃん……こ、これって」

「ロールケーキだよ」

 ミナモと咲が爆笑している。

「あのね、ミナモちゃん……私、お姉ちゃんになんでこれ買ったのって……聞いたことがあるんだよ」

「……なんて?」

「おいしそうだからって」

 二人共涙を流しながら笑っている。要はバカにされているわけだが、まったく腹が立たなかった。それどころか、笑い転げる二人の妹のかわいさに、心が満たされる感じさえした。そうはいっても、このままではいけない。少し怒った様子を見せなければならない。

「お姉ちゃんお風呂に入ってくるからね。部屋の中のものいじったりしないでよ」 

 返事など返ってくるはずがなかった。二人は、ただ笑いながら頷いているだけだった。

 

 風呂から上がり部屋に戻ると、二人の妹はすでに寝ていた。多分、愛かテレサが寝具を整えて妹たちを寝かしつけたのだろう。

 髪も洗面所で乾かし、歯も磨いた。照も寝る準備が整っていた。

 妹たちを踏まないように気をつけて、ベッドに上がろうとしたところ、咲にパジャマを掴まれた。

「お姉ちゃんもいっしょに寝よう」

 咲がそう言って、中央にずれる。ミナモはもう熟睡しているようだ。

「電気消すよ?」

「うん」

 照は咲の隣に横たわり、しばらく肘をついて咲とミナモの寝顔を眺めていた。暗さに目が慣れて、はっきりと見えるようになった。

(おばあちゃん……私は後悔の意味が分かった気がします)

 それは、テレサの予言の言葉だった。

『ダンテの定理を引き継いだことを必ず後悔する』

 彼女はそう言った。

(もしも……もしもダンテの定理なんてなかったら……この幸せがずっと続くような気がします)

 それは考えても意味のないことだった。そのとおりだ。確かにそのとおりだが、すやすやと眠る二人の妹の顔を見ていると、そんな意味のないことも考えたくなる。

 だから照は願った。この天国の日々が、一日でも長く続くようにと。

 

 

 




次話:「宮永照(中編)」

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