咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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25.宮永照(中編)

 1.崩壊の始まり   

 

 

 ミナモ・オールドフィールドが日本にきてから3年近くが経過し、宮永照は中学一年に、宮永咲は小学5年生になっていた。テレサ・アークダンテが想定したとおりに、ミナモの存在が宮永姉妹に化学反応を起こした。統計学を応用したミナモのダンテの定理に対し、照と咲は、彼女の標本を無意味なものにすることに必死になった。照の場合は、のちに“照魔鏡”と呼ばれる“死んだ牌”を見る技術を取得し、ミナモに母集団形成を許さなかった。咲は、貪欲に過去の有力雀士のデータを取り込み、自らのスタイルと混在させることで、標本のバラつきを極端にさせていた。

『決定的なイニシアティブをとるためには、自分の力を進歩させる以外はない』

 それが三人の結論となり、各自の能力の成長を加速させることになった。

 

 

 宮永照の“照魔鏡”は、自分の驚異的な視力を認識することから始まった。PC相手では気がつかなかったが、咲が面子に加わり、テレサや宮永愛が面子に加わるようになってから、彼女たちの眼球に赤や緑のものが映っていることに気がついた。照はそれが、彼女たちの手牌にある【中】や【発】ではないかと推測した。そして、その正しさが分かった時、照は自分のダンテの定理の特性を認識した。最大の欠点を克服できる“照魔鏡”との融合は、いわばダンテの定理の最終形とも言えるものだった。

 ただし、その実現は困難を極めた。第一段階の5種類の牌(三元牌、風牌、萬子、筒子、索子)の見分けが確実になるまでは早かったが、その詳細を識別する第二段階からが地獄であった。三元牌は特徴がはっきりしているので容易だった。しかし、風牌は【北】以外はぼんやりした識別しかできず、筒子は4~7が、索子は4~6が曖昧な判定しかできなかった。萬子にいたっては【一萬】以外の牌はすべて二択になってしまっていた。

 限界を感じ始めていた昨年、照に光明が見えた。それは、まったく別角度の解決策だった。眼球に映る牌以外の識別要素を照は発見した。

 それは、虹彩(こうさい)に映る影であった。

 ものを見る時に無意識にグループを作る。それは人間ならばだれでも行っていることだ。例えば、針時計を見た場合、丸くて数字が書いてあり、短針と長針があるものをひっくるめて時計だと判断する。それ以降は時計という視覚イメージがグループ化される。

 麻雀の場合も同様だ。順子、刻子、槓子、対子、その視覚イメージは、虹彩に発生する影となり、照にそれが何個あるかを教えてくれる。あとは簡単だった。識別が不明確な牌は、その情報から確実な推測が可能だった。

 “照魔鏡”とは、その名のとおり、相手の隠された本体を映し出すことができる高度な技術だった。

 

 

 6月中旬。長野も梅雨入りし、連日音のない雨が降り続いていた。

 午前5時45分に携帯電話のアラームがなり、宮永照は目覚めた。

 カーテンを開けて、降り続いている雨を見て、照は少し憂鬱(ゆううつ)になった。徒歩で行けた小学校とは違い、中学校は電車で通学しなければならない。駅に着くまでに靴下やスカートは濡れてしまうだろう。

 照がキッチンに降りると、ミナモ・オールドフィールドが忙しそうに登校準備をしていた。

「照お姉ちゃん、おはよー」

 宮永家で家を出るのが一番早いのはミナモだった。彼女はこれからテレサ・アークダンテの車で長野市にある英語学校に向かう。

「おはよう、ミナモ。もう出るの?」

「昨日は道が混んでて遅刻しそうになったから、今日は少し早く出ようって」

「おばあちゃんが?」

「うん、もう車で待ってる。だから行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 ミナモの日本滞在期間は小学生の間だけだ。テレサの次女であるエレナ・オールドフィールドは、娘に“ダンテの定理”の適性があることを知っていた。エレナは、その指導者であるテレサのそばに置きたいと考え、ミナモの日本滞在を許可した。とはいえ、ミナモは帰国したら英語圏で生活しなければならないので、英語学校に通わせることをテレサに約束させていた。

 外から軽自動車のエンジン音が聞こえてきた。片道約1時間もの送り迎えを毎日行っているテレサも大変だなと照は思った。

 

 

 照が朝食の後片付けをしていると、妹の咲がパジャマのままで降りてきた。服はきちんとしているが、髪にはイワトビペンギンのような寝癖がついていた。

「お姉ちゃん、おはよう。ミナモちゃんはもう行っちゃたの?」

「咲……すごい寝癖がついてるよ」

「うーん、昨日お風呂から上がってすぐに寝ちゃったから」

 自分でも分かっていたようだ。咲は両手で跳ねている髪を押さえるようにしている。

「もう一度洗ったほうがいいよ。まだ時間あるでしょ」

「うん、お姉ちゃんももう出かけるの?」

「今日も雨だからね。ちょっと早く出ないと電車に乗り遅れちゃう」

 咲が笑顔でうなずき、洗面所に向かった。途中で車の誘導を終えた愛にあったのであろう、二人の笑い声が聞こえてきた。

「咲の髪見た?」

 母親の愛が笑いをこらえながらキッチンに入ってきた。

「お母さんに似たら髪はくせ毛になるよ、私だってそうだから」

「だからちゃんと乾かしてから寝ろと言ってあるのに……テレサにほどほどにしろって言っとくよ」

「まあ、おばあちゃんも咲も楽しそうだし、いいんじゃない?」

「……どう? 咲は」

 洗面所からドライヤーの音が聞こえている。咲がもうしばらく動けないと判断したのか、愛が真面目な話に切り替える。とはいっても、表情は笑顔のままであったが。

「こっちも必死だよ。多分ミナモも」

「すごいね……でもね、咲は――」

 ドライヤーの音が止んだ。愛はその話を中断する。

 照にはその続きが推測できていた。咲は強豪雀士の手法をコピーし、それを完璧に身につけている。その変幻自在なタクティクスに、照もミナモも四苦八苦の状態だ。

 模倣(もほう)は咲のスタイルに同化しており、識別は実に難しかった。だだし、咲自身には明確な癖が存在した。例えば、咲は槓のできる場所をチラリと見る癖があり、それは嶺上開花の予兆として照もミナモも認識していた。そして、およそ一年前から、咲に新たな癖が加わった。

(咲はおばあちゃんからダンテの定理を教わった)

 なかなかダンテの定理が発現しない咲にしびれを切らしたのか、テレサと愛は、咲にその秘密を教えて発現を促した。天才的な咲に、その力が加われば鬼に金棒(かなぼう)だと考えるのは当然だった。咲はその力を会得(えとく)しようと、初期の照のようにしきりに山に目を泳がせていた。

(おばあちゃんもお母さんも、咲にはダンテの定理の適性がないと考えている……咲は、完全な“レッド”側の人間だと)

 “レッド”側とは、ミナモがよく使う言葉だ。ダンテの定理とは真逆の、死んだ牌を見る力、いわばウインダム・コールの能力だった。

 テレサがチラリと言ったことがあった。

『能力だけなら、咲は“巨人”を(しの)ぐかもしれない』

 それは重要な意味を持っていた。『能力だけなら』最強だが、それを使う者の意思が(ともな)わなければ、真の最強にはなり得ない。つまりはそういうことなのだ。

『咲は勝負師ではない』

 母親の愛の言葉だった。残念ではあるが同意せざるをえなかった。今の咲では“巨人”には遠く及ばない。

「直った?」

 咲がバスタオルを首に巻いて戻ってきた。髪を洗い直したらしく、寝癖は完全になくなっていた。後ろ髪をちょこんと結んだ二つのおさげが実にかわいらしい。

「うん、直ってる」

「私、髪を切ろうかな」

「どうして?」

「なんか跳ねちゃって、お姉ちゃんみたいに上手にまとまらないんだよ」

 咲がおさげをいじっている。確かに先端は跳ねているが、そこがまたかわいいなと照は思っていた。

「まだ切るのは早いよ。もっといろいろ試してみてからでも」

「あのね、ミナモちゃんと話したんだけど、今度お姉ちゃんにトリートメントを教えてもらおうって」

「いいよ、教えてあげる」

「やった」

 照は携帯電話で時間を確認する。そろそろ家を出なければならない時間になった。

「行ってらっしゃい。お姉ちゃん」

「それじゃあ帰ってから」

「うん」

 咲は空気を読むのがうまい。話を切り上げるタイミングも絶妙だ。

 

 

 玄関を出て照は傘を差した。あまり強くはなかったが、雨は止む気配がない。

 最寄(もよ)りの駅までは30分以上の道のりだった。

 歩きながら照は考える。

 自分は咲から麻雀の楽しさを教わった。ならば、自分は咲に麻雀の厳しさを教えなければならない。負けることの悔しさ、勝つための努力の大切さを教えなければならない。咲は天才だった。それゆえに、愛の言う勝負師としての感覚が抜け落ちているのだ。自分ならそれを教えられる。

(咲……照魔鏡の本当の怖さを教えてあげる)

 照は“照魔鏡”を安定して実行できるようになっていた。それによって勝率は妹たちから頭一つ抜け出していた。しかし、それは一種のフェイクだと照は気がついていた。

(もう決して手加減なんかさせない)

 一か月ほど前からだろうか、照は、咲が意図的に上りを放棄していることを知った。上がれるのに上がらない。しかもその場合は照が勝利することが多かった。

(見切ったと思っているの? 残念だけどそれは間違っている。私たち姉妹は、自分の手札を相手に見せたりはしない)

 ミナモも咲も、照がなにをしているか推測し、牌の角度を変えたり、天地の向きを変えた牌をランダムに置いたりして、“照魔鏡”の有効範囲は確認したはずだ。強烈な優位性を持つ“照魔鏡”をもってしても、勝率への影響は微々(びび)たるものであった。なんという恐ろしい妹たちだろうと照は思った。しかし、それもまたフェイクであった。照自身も、まだ爪を隠している状態なのだ。

(咲を強くするためなら……私は嫌われてもいい)

 それは本心ではなかった。愛する妹に嫌われて嬉しいわけがない。だが、それ以上に、咲が自分やミナモに対する駒にされることが我慢できなかった。

 圧倒的な力を持つ咲ではあるが、唯一の欠点が致命的だとテレサと愛は判断した。しかし、照はそうは思わなかった。“巨人”討伐(とうばつ)二者択一(にしゃたくいつ)ならば、自分よりも咲のほうが適性がある。自分の力はテレサや愛の強化版にすぎない。だが、咲は“巨人”と同じ属性の力を持っているのだ。しかもそのパワーはテレサの折り紙付きだった。

(咲……私たちは普通じゃないんだよ。だから楽しさだけで麻雀を打ってはだめだ)

 

 

 雨は相変わらず降り続いている。放課後になり、照は小学校時代からの友人と少し寄り道をした。

「もう帰らないと」

「また咲ちゃん? ほんとに照のシスコンは重傷だよね」

 長い付き合いの彼女は、いやな顔はするものの、本気で照を責めたりはしなかった。

 いつものように「ゴメンね。また今度」というと、笑顔で手を振ってくれた。

 

 ――電車から降りると、時間は午後5時近くになっていた。

 なぜかは分からなかったが、家路を歩く照の心は、今の空のようにどんよりと曇っていた。

(ミナモが帰ってきてない?)

 家の敷地内に入ると、いつもはあるはずのテレサの軽自動車がなかった。それどころか、あるはずのない父親のワンボックスワゴンがエンジンをかけたまま止まっている。

「照、車に乗って」

 宮永界がサイドミラーで照を確認し、運転席から飛び降りて言った。

「お父さん……どうしたの?」

「とにかく乗って。わけは車の中で話すから」

 どこに行くかは分からないが、靴下などが濡れているので少なくとも着替えをしたかった。そう言おうと思ったが、すでに後部座席に乗っていた咲の不安げな表情が、それを(とど)まらせた。

「……」

 ただごとではないと考え、照はスライドドアを開けて咲の隣に座る。

「咲……どうしたの?」

「ミナモちゃんとおばあちゃんが……」

 その悲痛な話し方に、照の胸が締め付けられた。

「事故だ。信号待ちのお義母(かあ)さんの車に、居眠り運転のトラックが突っ込んだ」

 界が止めを刺すように言った。照の呼吸は乱れ、動悸(どうき)も伴っていた。

「……それで、二人は?」

「お義母さんは意識があるが、ミナモは重体だ。……助手席側から突っ込まれたからね」

「お母さんは?」

「愛は直接病院に行っている」

「……」

 車が走り出す。濡れた路面の耳障(みみざわ)りなロードノイズが、照の不安を掻き立てる。

「お姉ちゃん……」

「大丈夫だよ……信じよう。ね」

「うん」

 それは咲への(はげ)ましと同時に、自分への励ましでもあった。『祖母と妹になにかあったらどうしよう』そんないやなことを考えてしまう。だから、それを否定するためには自分を鼓舞(こぶ)するしかなかった。

 

 

「照、お母さんに電話してくれ」

「分かった」

 病院まであと数分の距離だ。界は、愛に連絡するようにと言った。

 照は携帯電話を取り出して愛に電話をかける。

「もしもし、お母さん?」

『照、もう着くの?』

「うん、あと5分ぐらい」

 愛は言葉少なめに状況を説明した。テレサは意識があるが面会謝絶だという。ミナモは意識不明で今現在まだ手術が続いている。警察とマスコミ(テレサは欧州では有名人)がきていたが、すべて愛が対応して今はいないとのことだった。

「どうだって?」

 界が心配そうに確認をする。

「お母さんが入口まで迎えにくるって」

「そうか……」

 

 

「照……咲も……」

 愛が照たちを出迎える。その顔はいささか疲れているように見えた。

「……ミナモちゃんは?」

 咲の問いかけに、愛は首を振った。 

「まだ分からないけど――」

 愛が病院側から渡されていた呼び出し用の携帯電話が振動した。

「はい」

 電話を取り、そう返事をしたあと、愛はずっと沈黙を続けている。相手の話を慎重に聞いているのだろう。

「承知しました。ありがとうございます」

 深刻な顔つきで愛が電話を切った。

「なんだって?」

 たまらず咲が質問をする。

 愛は小さく笑顔を作り、説明する。

「手術は成功したって。でも深刻な後遺症が残る可能性があるから30分後に担当医から説明がある。……照、咲どうする?」

「一緒に聞いていい?」

「……いいよ。でもいい話とは限らない。しっかり現実を受け止められる?」

「私も咲も大丈夫……多分だけど」

 咲も隣でうなずく。遅かれ早かれ聞かなければならないことだ。テレサとミナモの問題は、自分たちも共有しなければならい。なぜならば、二人は家族だからだ。

 

 しかし、テレサとミナモの状態は、照の予想を上回る過酷(かこく)なものであった。

 テレサ・アークダンテは頭部に強い衝撃を受けており、現在聴力を喪失しているという。回復の見込みはあるが100%は望めないとのことだった。精密検査もあるので、入院は二週間が予定されている。ミナモ・オールドフィールドはもっと重症であった。彼女の脊椎(せきずい)は大きく損傷し、命はとりとめたものの、下半身は麻痺している状態だ。担当医によれば、ミナモが再び歩けるようになる確率は限りなく低いと言っていた。入院期間は未定だ。

 あまりの衝撃に、照も咲も、そして愛も界も、ただうなずくしかなかった。とてつもなく泣きたかった。だが、これは現実なのだ。泣くとはそれから逃避(とうひ)することだ。だから泣かなかった。自分も咲も、必死に涙をこらえた。

 

 

 約一時間後、父方祖母の宮永美津子がやってきた。愛と界は、病院に残ることになったので、照たちを車で迎えにきたのだ。彼女は自分たちを(おもんぱか)り、『おなかはすいていないか?』とか『明日は学校を休んでもいい』とか気を使ってくれた。照は、美津子の優しさに感謝しながらも、暗い返事しか返せなかった。

「今日は……麻雀休みだね」

 咲が言った。言われてみればそうだった。麻雀を始めて7年。一日も欠かさず続けてきたトレーニングが、今日初めて休みになる。いや、今日だけではない。明日も明後日も、トレーニングはできないだろう。

「そうだね……」

 力なく照は答えた。それは悔しいからではなかった。なにかが壊れてしまった感覚が照にそんな答え方をさせた。

(いつかは壊れるもの……幸福は永遠には続かない)

 現実を受け止めろと宮永愛は言った。そう、これは現実だ。どんなに拒んでもなにも変らない。ならば、それを受け止めるしかなかった。

 宮永照は、自分の思い描いた幸福が崩れ去ったことを知った。

 

 だが、それは甘い認識であった。幸福の崩壊は、まだ始まったばかりであった。

 

 

2.火災

 

 

 あの事故から3週間が経過した。

 宮永家には日常が戻っていなかったが、宮永照と宮永咲の学校生活は再開していた。ただ、それは照たちの本当の家ではなく、父方祖母の宮永美津子の家から通学していた。

 照たちの両親は、リハビリ中のミナモ・オールドフィールドとエレナ・アークダンテにつきっきりで、ほとんど家に戻れなかった。そのため、宮永界の実家である美津子の家に照と咲は預けられていた。

 

「明日はようやく家に帰れるねえ」

 夕食を終えて、妹の咲とお茶の間でまどろんでいると、祖母の美津子がスイカを切って渡してくれた。

「テレサおばあちゃん……大丈夫かな」

 咲がスイカを取りながら言った。明日、テレサは退院して界と一緒に家に戻ってくる。

「エレナさん……すごく怒ってたからねえ」

 先週。ミナモの母親であるエレナ・オールドフィールドがイギリスからやってきた。娘の一大事に彼女は激怒し、面会が許されたばかりのテレサに罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせたという。

「美津子おばあちゃんはそこにいたの?」

 界の配慮で、照と咲は、その場にいなかった。

「いたけどね、全部英語だったから」

「ミナモちゃん、もうイギリスに帰っちゃうの?」

「エレナさんはそうしたいみたいだけど、病院側がリハビリのめどがつくまではダメだって。愛ちゃんがなんとかなだめていたよ」

 照と咲は、病院でテレサに一度、ミナモにも一度会っていた。

 自虐的な心境に(おちい)ったテレサは。かつての威風(いふう)が見る影もなく失われていた。彼女は聴力を喪失しており、その回復を待たなければ会話もおぼつかない状態で、なによりも事故のショックで日本語をほとんど話せなくなっていた。

 ミナモはかなり深刻だった。彼女の下半身は完全にマヒしており、今後は車いすのトレーニングが必要になる。照たちが会った時も、暗い面持(おもも)ちで一言二言(ひとことふたこと)話しただけで、「疲れたから寝る」といって、寝てしまった。それは二人と話したくないという彼女の意思表示だった。

 照は寂しさを覚えた。あの明るく素直なミナモ・オールドフィールドが、どこか遠くに行ってしまった気がした。おそらく、咲も同じように感じたはずだ。

「テレサおばあちゃんはもう耳が聞こえるの?」

「大きな補聴器をつけていたから聞こえるはずだよ。でも日本語はまだだめだね」

 咲が悲しそうにしている。だれよりもテレサと親密だった咲ならば、きっと元気づけようとテレサの部屋に入りびたりになるだろう。しかし、それは逆効果だ。今、彼女に必要なのは心を落ち着かせる(おだ)やかな時間なのだ。

「テレサさんに負担をかけちゃいけないよ。界からよく話を聞いて、慌てずにね。麻雀の話なんかしちゃあダメだからね」

 美津子も照と同意見のようだが、咲は納得できない様子だ。「うん」とだけ言って、黙々とスイカを食べていた。

 

 

 照と咲は同じ部屋で寝起きしている。空き部屋はいくつもあったが、二人の心は疲弊(ひへい)しており、お互いに一緒の部屋がいいと美津子に頼んだ。子供の頃のように同じ空間で生活し、心を(いや)そうと考えたのだ。

 不謹慎ではあるが、不幸が続いている照にとって、唯一よかったと思えるのが咲と同じ部屋にいられることだった。しかし、それも今日で終わりだ。明日からは、形ばかりではあるが、いつもの生活が戻ってくる。

「咲……もう寝た?」

 まだ10時前ではあるが、照たちは布団を並べて横になっていた。照明も保安球しかついておらず薄暗い。

「……まだ」

 あの頃に戻れた最後の夜だ。だから、あの頃のような素直な話をしたい。

「私たちは……いつから嘘をつき始めたのかな?」

「……私が、麻雀を始めてからかな」

 自分たちは、本当のことを話せない(いびつ)な姉妹だと照は思っていた。ダンテの定理、レッドサイド、照魔鏡、嶺上開花。それぞれの秘密は、絶対に話してはならないとテレサと愛から命じられている。“巨人”を倒すまでは、わずかな(ほころ)びも許さないと考える徹底した秘密主義だ。幼少期からそう教えられていた照たちにとって、その宮永家のルールは絶対的なものになっている。

「……咲、どうして手加減なんてするの?」

「……」

 照はそのルールを破ろうと決意した。

 もうずいぶんと麻雀を打っていない。いったん離れてしまうと、麻雀中心の考え方に疑問を持ってしまう。『なぜ普通に話してはいけないのか?』。答えがあるわけではないが、そんなことを考えてしまう。

「私たちが弱いから?」

「……お姉ちゃんもミナモちゃんも、とっても強いよ。だから、手加減なんてしていない」

「咲、私の照魔鏡はね、目に映る牌を見ているんだよ」

「……」

 自分の力の秘密を咲に話すことにした。自分が話さなければ、咲だって話し辛いはずだ。照は、それほどに、咲が手加減している理由を知りたかった。

「だから、嘘をつかないで」

 咲が少し考えている。秘密を話すべきかどうか迷っている。

「私は……お姉ちゃんがどこまで見えてるか探ってた。気がついてた?」

「まあね、理牌しなかったり、似たような牌を並べたり」

 咲が小さく笑った。

「ほとんど見られてる……私はそう思った」

「さすがだね……でもね、全部見えてるわけじゃない」

「……」

「私はね、順子や刻子が(いく)つあるか分るの」

「そんな……だって私は、牌をバラバラにしたりして……」

「どこにあっても同じ。順子は順子、刻子は刻子だよ」

「……」

 あの咲が混乱している。

(やだな……心が呪縛(じゅばく)されてる)

 話せるのはここまでだった。本質を話そうとすると、身に染みついた宮永家の掟が心にブレーキをかける。

「お姉ちゃん……」

「うん」

「私たちは……いつまで嘘をつかなきゃいけないの?」

「“巨人”を倒すまで……でしょ?」

「……」

 照はわざと答えをぼかした。咲の質問は、それがいつなのかという意味だった。

(ゴメンね、それはお姉ちゃんにも分からない。だって、私たちは、あてのない旅をしてるんだから)

 旅の目的は知っている。だけど、どこに行けばいいのかが分からない。照たちは、それをずっと続けている。だから、時にはよくない寄り道もしたくなる。

 咲も、その寄り道をしたくなったようだ。

「私には……ダンテの定理はできない」

「そう」

「だって……私はレッドサイドだから」

「おばあちゃんがそう言ったの?」

「うん、お母さんも……」

 自分がそうだったように、咲も宮永家の呪縛に(とら)われている。自分の秘密をどこまで話していいか選別している。

 少し間をおいてから、咲が話を続ける。

「さっきも言ったけど……私は手加減しているわけじゃないよ」

「……」

「私は……“アルゴスの百の目”をやろうとしているの」

「ウインダム・コール……レッドサイドだから?」

「そう……おばあちゃんから“巨人”の秘密を教わった。でも、お姉ちゃんには話せないの」

「……分かってる」

 “巨人”ウインダム・コールの能力は、いまだにベールに包まれているが、その謎に最も近づいた者が二人いた。

 一人は、数年前の世界戦で、“巨人”をチェックメイト寸前まで追い詰めた”ドラの支配者” 小鍛治健夜だ。

 そしてもう一人は、彼と同じ属性で、ブルーサイドの能力を持つ祖母のテレサ・アークダンテだった。

「全然できなかったけど……いくつかのパターンが見えてきた」

「パターン?」

「うん」

 これ以上は話せないのだなと照は思った。

(なるほど……私が手加減だと思ったのは、そのパターンを見つけるために?)

「でもね……私の“アルゴスの百の目”は勝つためのものじゃない。それが“巨人”との違い」

「おばあちゃんは、なにか言っていた?」

「……」

(そう……おばあちゃんが咲に“巨人”の秘密を教えたのは、私とミナモのためなんだね。“巨人”の特性を持つ咲は、これ以上ないトレーニングパートナーになる)

 そう考えると、照は何もかもがいやになった。“巨人”に勝てというのならば、その努力もするだろう。しかし、そのために妹を踏み台にしろと言われたら、「いやだ」と答えるしかない。

「咲は……まだ麻雀が楽しいの?」

「楽しいよ、お姉ちゃんは?」

 そんな扱いをされているのに咲は麻雀が楽しいと言った。きっとその言葉は嘘ではない。だが、それが咲の欠点だった。

(咲……お前は、自分の力がどれほどのものかを知らない。お前は捨て駒になってはいけない。それは私の役割だよ)

 咲に勝利への執着心を教えなければならない。もしも、それができたのならば、咲は真の意味で無敵になる。それこそが、照の望みであった。

「トレーニングが再開したら、お姉ちゃんの本気を見せてあげる。照魔鏡は、ダンテの定理と融合することで最強になる」

 自分でも驚くほどに冷たい口調になってしまった。だがそれでいい。咲を本気にさせるには、自分を憎んでもらわなければ困る。

「きっとね……もう麻雀が楽しいとは思えなくなるよ」

「……お姉ちゃん」

 咲が照のパジャマを(つか)む。

「咲……私たちは普通じゃないの。楽しいだけじゃダメなんだよ。分かってるでしょ」

「うん」

「“巨人”は強い。私だけじゃ勝てないかもしれない。でも咲と一緒なら絶対に勝てる」

「絶対に?」

「うん」

 咲は照の左手を掴んで布団から出した。

「約束してくれる?」

「……いいよ」

 咲と小指を結んだ。これでいい。これで自分の目的地は決まった。小鍛治健夜と同じコースをたどれば良いのだ。インターハイで優勝し、世界戦に進出する。そこで“巨人”を倒す。あと5年耐えたらいいだけだ。

「咲……私たちの本気は醜いんだよ。勝つためにはどんな手を使ってもいい。私はお母さんからそう教わった」

「……そうだね」

「一緒に世界に行くからね」

「……うん」

 

 

 あくる日。照と咲は、美津子の車で久方ぶりに家に戻った。父親の車が止まっている。ということは、テレサ・アークダンテも戻っているということだ。

 玄関に入ると、父親の宮永界が待っていた。

「お帰り……照、咲」

「ただいま」

 少しやつれたように見えるが、界は笑顔を取り(つくろ)う。

「キッチンにおいで、お茶を用意してあるから」

 咲とキッチン入ると、テーブルの上には軽井沢のチーズケーキと紅茶が用意してあった。

「食べながら聞いてほしい」

「うん」 

 照たちがテーブルに座ると、界が重そうに口を開いた。

「お義母さんは戻ってきているけど、しばらくは部屋から出てこない。お前たちが俺の実家にいる間、お義母さんの部屋には水回りの工事が入っている」

「水回り?」

「つまりトイレやお風呂だよ」

「じゃあ、おばあちゃんはお部屋から出てこないの?」

 咲の質問に、界は渋い顔でうなずいた。 

「咲……もしも、おばあちゃんと会っても、過度に喜んだり、(はげ)ましたりしてはいけないよ。むずかしいかもしれないけど、普通にしてほしい」

「……」

「おばあちゃんの対応は、お父さんとお母さんでするから、二人は見守るだけにしてなさい」

「……うん」

 

 

 界から、テレサの夫であるコウスケ・アークダンテが日本にきていたことを聞いた。ほとんど日帰りに近いスケジュールで、照たちと会う機会がなかったが、テレサのその後について父母と話し合ったという。

 コウスケはイギリスに連れ帰ろうとしていたが、テレサ本人が日本に留まることを望んだ。心の回復を待ちながら、照と咲の指導を続けたいという意思だった。

 照も、咲も、それを待ち望んでいた。あの誇り高い、ダンテの定理の指導者テレサ・アークダンテの復活を待ち()がれていた。

 

 

 その日の夜から照と咲の麻雀トレーニングが再開された。子供の頃のように、界の操作するPCが相手だった。

(やっぱり……こうなるよね) 

 界は二人分の役割をこなすので、照の対家と下家の中間にいる。手牌の正面に位置していないため、彼の目には照魔鏡が必要とする情報が一切映っていないのだ。

 これまで照魔鏡には、手牌の角度や、照明の明るさによって、牌を見分ける精度が下がる弱点が露見(ろけん)していたが、それは虹彩(こうさい)に映る影を見分けることで克服可能だった。しかし、今の状況はそれでは対応ができない。

(咲はどう動くか?)

 咲ならば、このぐらいの予測は簡単にしてしまうだろう。2面分の情報不足、そこを足掛かりにした咲の攻撃オプションは特定不可能だ。

 照は、その豊富な攻撃バリエーションを持つ妹に目を向ける。

(……咲)

 咲の集中力は散漫だった。手牌を見る頻度と、よそ見をする頻度がほぼ同等だった。彼女が気にしているのは、トレーニング室とテレサの私室を(へだ)てているドアだった。

「咲、練習に集中して」

「……うん」

 咲は、あのドアが開いて、テレサに出てきてほしいと願っている。照だって同じ気持ちだが、今は無理だと思う。

「時期がきたら……きっと、おばあちゃんが自分から出てくるから」

「……」

 ――咲の集中力は戻らず、照もそれにつられて不調だった。半荘一回の練習であったが、トップになったのは、スタンダードな戦術しかできない界のPCだった。

「咲、これで分かったでしょう?」

「……」

「心が弱ければ、初心者にだって勝てない」

「ごめんなさい。なんだか……落ち着かなくて」

「……分かった。でも、そういうのを理由にするのは今日が最後だよ。私たちは、どんなコンディションでも勝たなきゃいけないんだから」

「……うん」

 

 

 一週間後、父親の界と入れ替わりで、宮永愛が家に戻ってきた。ちょくちょく物を取りに帰ってきていたが、長期滞在するのは久しぶりだった。

「やっぱり家は落ち着くね」

 深々とソファーに腰をおろしている愛に、咲が紅茶を差し出した。

「お母さん、ミナモちゃんはどう?」

「リハビリは順調だよ」

「まだ会えないの?」

「……」

 愛は紅茶を飲んで深い溜息をついた。

「二週間後にエレナが迎えにくる。その時にミナモとお別れをしなさい」

「エレナおばさんがくるの? おばあちゃんと会わないよね?」

「会うよ。だから、三人でどこかに行っていてほしい。汚い親子喧嘩を見てほしくないからね」

「親子なのに……どうして? おばあちゃんは悪くない」

 思わず照は口を挟んでしまった。いくらなんでもひどすぎる。テレサが神経衰弱なるほどののしるなんて、親子ならばありえないと思った。

「照……親子だからこそだよ」

「どういう意味?」

「愛情と憎悪は同じものだよ。満たされない愛情は憎悪になり、過剰(かじょう)な憎悪は愛情に変化する。親子の愛情は底がない。だから憎悪も深くなる」

「……わかんない」

 愛に手を引っ張られた。

「咲もおいで」

 愛は姉妹を抱きしめる。

「それでいいよ。たいていの人は分からないまま……私たちは、運が悪かっただけ」

 子供の頃は、息ができなくなるほど強く抱きしめてくれたが、成長した照たちが相手ではそうもいかないのだろう。優しく抱えるように手をまわしている。

「でもね、照と咲には、知らないままでいてほしい」

 だから見ないでくれ。そう言うかのように、母の腕に力が入った。

 

 

 それから2週間、ミナモがイギリスに帰る当日になった。

 その日は日曜日であったが、照も咲も朝早くから目覚めていた。家族同然であったミナモがいなくなってしまう。その寂寥感(せきりょうかん)に二人は寝ていられなかった。

「お姉ちゃん!」

 咲がノックも無しに照の部屋に飛び込んできた。しかも、こんな日にもかかわらず、実に嬉しそうに笑っている。

「咲……どうしたの?」

 咲はその質問に答えず、照に抱きついてきた。

「どうしたの?」

 と、照はもう一度聞き直した。

「おばあちゃんに……会ったの。Morningって言ったら、Morningって」

「そう、よかったね」

「うん」

 咲はなかなか照から離れなかった。きっと泣いているのだなと思ったが、確かめはしなかった。ただただ、咲の頭を()でることしかできなかった。

(咲……おばあちゃんも同じなんだよ。いてもたってもいられない)

 今日は、エレナ・オールドフィールドがくるのだ。自分の娘の大切な孫を傷つけてしまったことへの罪悪感。それが、このつかの間の奇跡を発生させていた。だが、そんなことは咲に言えるわけがない。

(あとちょっとでエレナおばさんがくる。冷静だといいけど)

 彼女がわざわざここにくる理由ははっきりしていた。テレサに一言二言文句を言いたいのだ。肉親の憎悪とはここまで深いものなのかと照は思った。

 

 ――そして、10時ごろに、界のワンボックスに乗ってミナモを迎えに行く。三列目の座席が車いす用に改造してあり、照と咲は狭い二列目の座席に窮屈(きゅうくつ)そうに座っている。

「電話だ。ちょっとコンビニで止まるよ」

 家から連絡がきたようだ。娘たちには聞かせられないと思った界は、いったん車を止めて自分で応答しようと判断した。

「これでお父さんの分のお茶も買ってきて」

 界が財布を丸ごと照に渡した。電話をするから少し外に出ていろという意味だ。

 照と咲は、それぞれ自分の飲み物と、界に頼まれたお茶を買って車に戻った。

「エレナさんは昼頃に着くから、少し時間を潰してほしいって言っている。どこがいいかな?」

「それはミナモに聞いたほうがいいよ」

 照がそう答えると、界は「そうだな」と言って、車のエンジンをかける。

 ――車内ではだれもしゃべらなかった。重苦しい雰囲気だったが、医療センター到着まで残り数分に近づいた時に、咲が口を開いた。

「もう、ミナモちゃんと会えなくなるんだね……」

「……そうだね」

 それは漠然(ばくぜん)とした感想だった。だれもそんなことは言っていないし、絶対そうなるとは限らない。しかし、二人は、二度とミナモとは会えなくなると思っていた。

 ――医療センターに到着し、界と共に中に入った。

「咲ー! 照お姉ちゃん!」

 ミナモは看護師に補助されてロビーまできていたのだ。最後だと思って無理をしているのかもしれないが、照たちの知っているミナモが戻っていた。

「ミナモちゃん、調子良さそうだね」

「うん、とっても」

 ミナモは看護師におじぎをして、自分で車いすを操作して照たちのもとにやってきた。

「上手でしょ?」

「うん、上手だよ。でも手が疲れそうだね」

「まあ、慣れたけどね。でも押してくれると助かる。咲、押して!」

「いいよ」

 咲が車いすのハンドルを握って静かに押す。

「もっと普通に押していいよ。ゆっくりだとあくびが出ちゃう」

「分かった」

 とはいっても、そこは咲の優しさが出てしまう。若干速度は上がったが、普通の歩行速度よりはずいぶんと遅い。

 界が先回りして車のバックドアを開けて、車いす用のスロープを降ろしている。

「結構急だね……」

「大丈夫だよ、お姉ちゃんと一緒に押すから」

「うん」

 わずかな高さではあるが、スロープの長さが短いので傾斜は急になってしまう。照は、咲の後ろから抱きつくような格好で、ミナモの車いすを一緒に押す。

「お疲れ様」

 ここからは界の出番だ。車いすを車体に固定し、重いスロープを片付ける。そして、とても長いシートベルトを装着した。

「ミナモ、エレナお母さんが、少し時間をくれって言っている。どこか行きたいとこはある」

「どこでもいいの? 東京の夢の国でも?」

「それはちょっと遠いね。もっと近いところがいい」

「じゃあね……あの湖かいい。神社があるとこ」

「諏訪湖だね。分かった」

 何度か家族で諏訪湖に行ったことがある。ミナモは北と南に諏訪大社が鎮座(ちんざ)する諏訪湖の神秘性をたいそう気に入っていた。しかし、ミナモが指定した場所は、小さな桟橋のある湖畔であった。

「お父さんはここで待っているからね。あまり遠くに行かないように」

「はい」

 ミナモが桟橋の先まで行きたいと言うので、咲が車いすを押している。

「照お姉ちゃん、咲と二人で話したいの……ここで待っててくれる」

 桟橋の(たもと)まできた時に、ミナモがそう言った。

「……でも」

 いいよとは言えなかった。桟橋はそれほど広くなく、車いすだと危なそうに思えたからだ。

「お願い……」

「分かった……でも危なくしないでね。咲、頼むよ」

 咲がうなずいて、ゆっくりと前に進みだした。

 先端にたどり着くまでゆうに5分はかかっただろう。二人はそこで止まり、なにかを話している。

(ミナモ……)

 いやになるほど天気が良かった。ほぼ快晴で風もなく、ミナモの名前の語源である湖の水面(みなも)は、穏やかに揺れて太陽をきらきらと反射させている。

 二人がなにを話しているかは分からない。だが、照は目が良かった。15メートル以上離れている二人の表情さえも読み取れた。

 二人が泣いていた。泣きながらなにかを話している。もどかしい、実にもどかしかった。こんな時に妹たちのそばにいられない。地団駄(じたんだ)を踏みたくなるようなもどかしさだった。そして、それは涙となり、照の目から(あふ)れた。

(ミナモ……それは違う。咲は、まだ終わりじゃない)

 ミナモはテレサと考えを同じにしていた。恐るべき才能を持つ咲ではあるが、その基礎となる心が弱すぎると考えているのだ。だとすると、二人がなにを話しているかは想像できる。

 二人が戻ってくる。泣いていることを悟られてはならない。照は涙を拭いて、平静を装う。

「お待たせ」

 ミナモと咲も同じ思いだった。泣いていた形跡を隠し、小さな笑顔さえも作っていた。

「もういいの?」

「うん」

「それじゃあ……帰ろ……」

 ダメだ。声が裏返ってしまった。もう耐えられない。

 照は、顔を見られないようにと、ミナモたちに背を向ける。

「泣くな……バカ」

 背中をだれかに叩かれた。おそらくミナモだろう。

 もう涙を隠すことができなかった。照は、涙で頬を濡らしながら振り返った。

 ミナモが、精いっぱい手を伸ばして照の背中を叩いていた。涙でぐしょぐしょになりながらも、その表情は怒気を含んでいた。

「だれも悪くない……それは分かってる。分かってるの」

「……」

 咲のハンドルを持つ手が震えている。そして泣き崩れた。

「でも……私は恨んじゃったの……咲を……お姉ちゃんを……そして、おばあちゃんを」

「……」

「だから……私はここにいられない……大好きだった咲やお姉ちゃんのそばには……いられないの」

「ごめんね……」

 だれも悪くない。それはミナモの言ったとおりだ。しかし、照は謝るしかなかった。それ以外に、この自己嫌悪から逃れる(すべ)がなかった。

「あやまるな……」

 そう言って、声を上げて泣きだしたミナモに、照はもう一度謝罪した。

「ごめんね……」

 

 

 ――四人が家に戻ると、エレナ・オールドフィールドが腹立たし気に玄関で待っていた。愛ともひと悶着あった様子で、険悪な空気が漂っている。

 エレナは、簡単に挨拶をして、咲からミナモの車いすを受け取った。

「Going home(家に帰るよ)」

 親からそう言われたミナモは小さくうなずいた。そして顔を上げて照と咲を見ている。

「Good bye(さようなら)」

 一般的な英語ではあるが、『Good bye』は二度と会えない場合に選択される言葉でもある。

「さようなら」

「さようなら」

 照も咲も、同じ言葉を繰り返すしかなかった。心ではまた会いたいと思いながらも、『またね』とは言えなかった。

 ――これから界が、イギリス直行便のある羽田空港まで送って行く。ミナモを乗せた車が動きだした。そして、わずか5秒ほどで、それは見えなくなってしまった。

 咲が腕にしがみついて泣いている。照もそうしたかったが、もう一つの心配事がそれをさせなかった。

 照は、となりで一緒に見送りをしていた愛に、その心配事を訊ねる。

「お母さん……おばあちゃんは?」

「部屋にいるよ……エレナにひどくののしられたからね」

「大丈夫かな?」

「どうかな……でも希望はあるよ」

「希望?」

 愛は、照たちの肩に手をまわし、家の中に誘導する。

「なぜテレサがこんなになりながらも日本に残っているのか分かる?」

「……うん」

「ならいい……お前たちの成長が、テレサの最大の薬だよ。それを忘れないで」

 

 ――その日、照はなかなか眠れなかった。咲と約束した目的地に疑問を持ってしまった。自分と咲とで“巨人”を倒したらいいだけ。単純ではあるが、理にかなっている。祖母や母、そして自分と咲の要求を満足させる唯一の方法だと思った。

(本当に……それでいいのかな)

 ミナモとの別れが、その目的地に疑問符を投げかける。

(“巨人”に勝っても……ミナモは喜んでくれない)

 理想郷が幻想であるように、すべての人間を満足させることなどできはしない。だが、それを最低限の犠牲として切り捨てることは、照にはできなかった。

(咲との約束……必ず守る)

 疑問を持ってはならないことだと分かっている。ただ、その判断を下すには。照はまだ若すぎた。

(あてのない旅は……終わっていない)

 それだけははっきりしていた。見えたと思っていた目的地。それもまた幻想だったのだ。

 

 

 それから3日後の水曜日。宮永家は平常の生活ルーチンを取り戻そうとしていた。宮永愛は、長い間仕事を休んでいたが、それが限界に達しており、今日からの復帰を決めていた。家にはだれもいなくなるので、テレサ・アークダンテの様子は、祖母の宮永美津子が見ることになっている。

 午後の授業が始まっていた。担任教師の英語の時間だった。実は、照と咲は、英語の聞き取りはかなりできる。それはそうだ。家族にキングス・イングリッシュを話す人間が三人もいたのだ。耳も慣れてしまう。やはりというか、担任の話す英語は、どことなく違和感を覚える。

 ――授業中にも関わらず、教室の扉がノックされた。そして、ガラガラと扉が開けられ、頭髪がかなり危険になっている教頭先生が顔を見せて担任を呼んでいる。

 教室内に苦笑が漏れて、照もそれに同調していたが――

「宮永さん」

 ――名前を呼ばれて教頭から手招きされた。

(……)

 照はいやな予感がしていた。なぜかは分からないが、血の気が引いていくのを感じていた。

 担任と教頭から廊下に出るように言われた。

 心臓がドキドキしている。このいやな予感が気のせいであってくれと照は願った。

「宮永さん、落ち着いて聞いてください」

「……」

「あなたのお家で火災が発生しています。5分前に消防署から連絡がありました」

「消防署?」

「このまま帰宅してもいいですよ」

 照の頭は混乱していた。なにも(こた)えずに教室に戻り、自分のバックをひったくる。教室はその異常事態にザワザワしていた。

 携帯電話を取り出して時刻表アプリを起動する。

(13時55分……)

 それなりに田舎に住んでいるので、家に戻る電車の本数は少ない。その電車を逃すと、次は一時間後だ。

 現在時刻は13時39分。どんなに走っても、駅までは20分はかかる。

「教頭先生!」

 照は叫んだ。早く帰らなければならない。照に知らせがきたということは、咲にだっていっている。どう考えても徒歩通学できる咲のほうが家に着くのは早い。

「どうしました?」

「駅まで送ってください。私は、妹よりも早く家に着きたい」

「……いいでしょう」

 ――教育者らしく、教頭の運転する車は、制限速度を超えることはなかったが、確実に電車には間に合う。

「気を付けて」

「ありがとうございました」

 駅に到着した。照は、教頭に頭を下げて車から降りた。13時50分。駅はホームが近いので結構余裕はあるが、照は、改札に向かって走り出した。

(おばあちゃん……まさか)

 あれから一度も姿を見ることはなかったが、テレサは精神的に追い詰められていたらしい。母と父が何度もテレサの部屋に出入りしていたからだ。

(そんな……嘘だと言って)

 だれも答えるはずはなかったが、照の心は、その助けを必要としていた。

『テレサ・アークダンテは自殺をしようとした』

 その考えが、照の心を支配していた。

 ――電車が到着し、照は飛び乗った。

 3両しかないローカル電車。照の乗った車両には、他の乗客がいなかった。椅子に座ってなどいられなかった。照は立ったまま発車を待っている。

(早く!)

 もしもと考える。もしもテレサが死んでしまい、それを咲が見てしまったら、優しい咲の心は崩壊してしまう。

(なにを考えてるの! そんなはずはない!)

 なんどもそう思い直す。しかし、その思いも、すぐさま(くつがえ)される。

 電車が動き出した。照の心は焦るばかりだ。

 携帯電話が振動した。マナー違反ではあるが、照はそれを取り出して発信者を確認する。“美津子おばあちゃん”と表示されていた。

「はい」

「照かい?」

 美津子の声だ。ひどく慌てている。

「そうだよ、どうなの?」

「火は消えたよ。燃えたのは(はな)れのほうだけだから」

 照の鼓動が激しくなる。そんなはずはない。そんなはずはないと何度も心に言い聞かせる。

「おばあちゃんは?」

「助け出されたよ……これから三人で病院に向かう。界と愛ちゃんにも連絡しておいたから、照も直接病院にきて」

「……」

 照の心臓は止まりそうになった。三人? 三人とはどういうことだ? テレサと美津子と、もう一人はだれだ?

「咲も……いるの?」

「ゴメンね照……おばあちゃん……慌てちゃって」

「咲と……話せる」

「……今は……無理だね」

 照は、無意識に電話を切っていた。

 近くの座席に座りうなだれる。

(咲……)

 だれよりもテレサと親しかった咲が、なにかを見てしまったのだ。おそらくそれは、照の想像と違いはないだろう。

(私たちは……どこに行けばいいの?)

 照は悲しかった。何もかもが悲しかった。だから泣くしかない。泣くことでしか、この感情を抑えられなかった。

 

 

3.共犯者

 

 

「照!」

 宮永照が病院に到着すると、父親の宮永界が待ち構えていたかのように照を呼んだ。病院内なのであまり大きな声ではなかったが、それでも、周囲の人間が振り返る程度ではあった。

「お父さん! 咲は?」

「咲は……今、B棟の心療内科(しんりょうないか)で診察を受けている」

「おばあちゃんは?」

「……火傷がひどい。顔の右側から肩にかけてⅡ度からⅢ度の熱傷だよ」

 照が危惧したとおりだった。咲は、大好きだった祖母の変わり果てた姿を見て精神的なショックを受けたに違いなかった。

「咲は……それで?」

「分からない……ただ、母さん(宮永美津子)が、咲とお義母さんが話しているのを見ている」

「話した? おばあちゃんと?」

「そうだ。咲は、そこで座り込んで動けなくなった」

「なにを……話したの?」

「聞き取れなかったらしい」

「……」

 その宮永美津子が、B棟側から向かってきた。界はそれを確認して立ち止まった。

「照、お前は母さんと咲のところに行ってくれ。それが終わったら、また俺の実家に戻ってくれ」

「お父さんは?」

「もうすぐ警察が調査にくる。お義母さんも愛もそれなりに名前が知られている。マスコミだってくるだろう。お前たちを巻き込みたくない」

 今度は間違いなくそうなるなと照は思った。テレサ・アークダンテは、欧州ではレジェンド級の雀士として評価されていた。母親の愛もそうだった。わずか一年ではあったが、アークダンテ親子の強さは、欧州人の記憶にいつまでも残っている。その二人が、なんらかの事件事故に巻きこまれたのなら、それを伝えたくなるのは当然だ。

「……おばあちゃんは大丈夫なの」

「命には別状はない。ただ、皮膚移植が必要になる。ここは、愛と俺に任せて、照は咲のことを頼む」

「分かった」

 温厚な性格の界は、一見頼りなさそうに見えるが、どんな時でも決して慌てたりはせずに、的確な指示をしてくれる。照はそんな父を信頼していた。

 界と入れ替わりで、祖母の美津子が照のそばにくる。

「ごめんね……まさか、咲があんなに早く帰ってくるなんて思わなかったんだよ」

 本当にすまなそうに照に謝る。そんな必要はない。こんな非常事態ならだれだって慌ててしまう。

「咲はどんな感じ?」

「ぼーっとしてて、なにを聞いても、返事をしてくれないんだよ」

 こっちだと言うように、美津子は照に先行して歩き出した。それなりに大きな病院なので、迷子癖のある照では咲のいるB棟まではたどり着けなかっただろう。

「……お父さんはなにか言ってた?」

「急性ストレス障害……だったかねえ。咲はそれかもしれないって」

 聞いたことのある病名だった。強烈なショックや精神的なダメージで発症するものだ。

「美津子おばあちゃん……」

 照はジレンマに悩んでいた。皮膚移植が必要なほど重症のテレサよりも、妹の咲のことを心配していたからだ。果たしてそれは正しいことなのかと考えてしまう。

(お父さんは咲を頼むって言っていた……そうだね、おばあちゃんはお父さんたちに任せるしかない。私は、咲を優先しなきゃ)

 照は決断した。少なくとも、今、咲のフォローができるのは自分しかいない。

「咲とおばあちゃんの話……本当に聞こえなかったの?」

 身内が火災で大けがを負った。それは美津子にとっても思い出したくない出来事であろう。しかし、照は、咲とテレサがなにを話したかを知りたかった。

「近所の人が……界の家が火事だって教えてくれた。窓を見ると、そっちから煙が上がっている。私はもう大慌てで、携帯電話をつかんで駆けつけた」

「……」

「……離れがものすごく燃えていてね。私は、テレサさんはもうだめだと思ったんだよ」

 美津子が立ち止まり、ハンカチを取り出した。

「消防車がきてね、「だれか中にいますか?」って聞かれたから、テレサさんがいるから助けてくれって頼んだ」

 美津子は近くにあった椅子に腰をかけて涙を拭いている。やはり、彼女にしても相当なショックだったようだ。

「それからね……消防署の人から「連絡したい人は?」って聞かれた。私は……もう考える力がなくなっててねえ、携帯を渡して上から順番に連絡してくれって……」

「そう……」

「やがてね……テレサさんが担架に乗せられて運び出されてきた……ちょうどそのタイミングで……咲が帰ってきた」

「咲……」

「きっと走って帰ってきたんだろうねえ……何度か転んだみたいで、膝から血が出てた」

「……」

「テレサさんは顔の右側がひどい水ぶくれでね、髪も焦げてなくなっていた。でもね……咲は顔色を変えずに、テレサさんにいつものように寄り添っていた「おばあちゃん大丈夫!」って……何度も……何度もねえ」

 美津子は感極まってしまい、目を押さえるように泣いてしまった。

「ほんの一言二言だと思うよ……テレサさんが口を開いて、咲が耳を近づけた」

「……」

「なにを聞いたのかは分からないけど……咲は、そこに血だらけの膝をついてしゃがみ込んでしまった。もう、魂が抜けたようになってしまって、なにを話しかけても返事をしてくれない」

「日本語だった?」

「そうだと思うけど……」

 照は、身につまされる思いだった。日本語を話せなくなっていたテレサが、必死の思いで咲になにかを伝えた。それは悲しく、とても辛いことだ。

(咲……おばあちゃんからなにを聞いたの?)

 美津子が涙を拭きつつ立ち上がる。

「照、咲のところに行こうね」

「うん」

 

 

 ――病院は人が多かった。しかし、咲のいるB棟はそれほどでもなかった。照は美津子と並んで「診察室3」と掲示されている部屋の前に座っている。

「宮永咲さんのご親族の(かた)ですか?」

 ドアが開いて女性の看護師が聞いた。

「はい」

 美津子がそう答えると、看護師はドアを解放して中に入るように言った。

「先生からお話があります。お入りください」

 美津子と二人で中に入ると、40歳ぐらいの男性医師から椅子に座るように言われた。咲との間柄を聞かれ、いくつか火事についての質問をされた。多分、咲から聞いたことの整合性確認だ。

「咲ちゃんは別室で眠っています。神経が異常にたかぶる過覚醒(かかくせい)の状態でしたが、今は落ち着いています。目覚めるまで待ってあげたほうがいいでしょう」

「ありがとうございます」

 その落ち着いた声が、美津子を安心させたようだ。緊張で張り詰めていた表情が一気に緩んだ。

 ――医師の話は簡潔だった。咲ぐらいの年齢では、今回のような体験をすると、このような状態になるのは珍しくはない。急性ストレス障害かどうかは経過を見守るしかないと言う。自宅療養のほうが良いとのことで、咲が目覚めたら帰っても良いと言われた。

 そして、医師は照に視線を合わせて「咲ちゃんを安心させることを心がけてください。ただし、嘘をついたり、ごまかしたりしてはなりませんよ」と言った。

 それは、道徳的に当たり前の話なのだが、宮永家には嘘が常駐していた。

(私は、罪悪感なしに嘘をつける……慣れるとは恐ろしいものだね……)

 おそらく咲だってそうだろう。それゆえに、他者の嘘はすぐに見破れる。咲の不安を和らげ、信頼してもらうには、嘘はつけない。

(こんなことで……夢が……実現できるなんて)

 照には夢があった。子供のころのように咲と嘘のない話をしたかった。感じたまま、思ったままに妹と会話がしたかった。その夢が叶おうとしている。しかし、それは照の思い描いたシチュエーションではなかった。あまりにも辛く悲しい状況での成就に、心の中に一つの言葉が浮かんでいた。

(ダンテの定理の呪い……)

 

 

 ――1時間後、咲が目覚めたと言うので迎えに行った。看護師に付き添われて、心細げに咲は歩いてきた。その両膝には痛々しく包帯が巻かれている。

「大丈夫?」

「……うん」

 咲から返事が戻ってきた。火災から4時間以上経過している。その時間が咲の不安を少しだけ和らげたのだなと照は思った。

「なにか飲む?」

「いらない」

 二人で美津子の車に乗り、病院を離れる。咲は口を開かず、外を見ているだけだった。五分ほど経過して、咲に話しかけようとした時に、照の携帯電話が振動した。大きな音が出ないようにマナーモードにしていたのだ。

 かけてきたのは宮永愛であった。きっと今病院に着いたのだろう。

『照……咲はどう?』

「隣にいるよ、代る?」

『話せるようなら代って。ダメなら無理しないで』

 照は通話口を指でふさいで咲に話しかける。

「咲、お母さんだけど、どうする?」

「……大丈夫だよって伝えて」

「……そう」

 なぜ咲は愛と話そうとしないのか? テレサの言ったことと関係があるのか? そんな疑問が照の頭に浮かんだ。

「お母さん……咲が大丈夫だからって」

『そう……分かった。遅くなるけど必ずそっちに行くから』

「うん」

 電話を切って、咲の様子を確認する。

 咲はぼんやりと外を眺めていた。民家も少なくなり、外灯もまばらな黒いだけの空間を眺めていた。

「お母さんもくるって」

「……うん」

 小さな声であったが、咲はそう返事をした。

(焦ってはダメ……先生は回復には時間がかかると言っていた。今は咲を安心させなきゃ)

 とはいうものの、咲の悲痛な姿に、照は、いたたまれない思いになっていた。なんとかしてあげたい。ただ、どうしたらいいのかが分からない。ただそばにいることしかできない。そのもどかしさを忍ばねばならなかった。

 

 

 再び美津子の家に居候(いそうろう)することになった。部屋は以前と同様に咲と同じ部屋にしてもらった。

 咲は夕食をとらずに、風呂に入ることを希望した。いやな記憶のある煙の臭いを洗い流したいのかなと照は思った。

 咲が半袖半ズボンのパジャマに着替えて帰ってきた。前回の居候時に美津子に預けておいた衣服が役に立った。

「咲、ちょっと待って」

 膝の包帯がうまく巻けておらず血が(にじ)んでいる。美津子から替えの包帯と、不安が激しくなった時用の薬を預かっている。

「包帯を巻き直すから、お姉ちゃんに足を貸して」

 咲を座らせて巻いてある包帯を緩める。膝の傷はかなり深かった。照は患部を消毒してガーゼを当て、新しい包帯に巻き直す。

「痛かったでしょう?」

「……覚えてない」

「そう」

「……うん」

 テレサが心配で無我夢中だったのかなと思った。そう考えると、照は悲しくなり、泣きたくなった。しかし、今は泣いてはならない。それは咲を不安にさせる。

「はい、おしまい」

 照は無理やり笑顔を作った。だが、こんな嘘が咲に通じるわけがない。

「……ありがとう」

「咲……」

 そうだ、もう咲に嘘はつかない。そう決めたはずだ。

「お姉ちゃん、心配なの。おばあちゃんになんて言われたの?」

「……」

「今じゃなくてもいい……でも、必ずお姉ちゃんに教えてね」

「……あのね」

 咲の眼球が小さく動いた。それは嘘をつく時のサインだ。

「日本語でね……ごめんねって言ったんだよ」

「……そう」

「うん」

 それだけではないのだなと思った。もう一つのなにかを咲は隠している。ただ、追及してはならなかった。今、咲に必要なものは、回復のための時間だった。 

 

 

 午後11時。咲は薬の効果で良く寝ていた。なかなか寝付きが悪く、震えたりもしていたので、照は美津子と相談して不安を和らげる薬を咲に飲ませていた。

 長かった一日が終わろうとしている。照も少しウトウトし始めたころ、ドアを開ける音がした。

「お母さん……」

「静かに……照、静かに出ておいで」

 咲を起こさないようにゆっくりと起き上がり、部屋を出た。

「よく寝てる?」

「もらった薬が効いてるみたい」

 照と愛は、音をたてないように一階の台所まで降りた。

「おばあちゃんは?」

「皮膚移植は終わったよ。あとはどこまで回復するかだね」

「……お母さん」

「まだ分からないよ」

「……」

 愛が大きな紙袋を二つテーブルの上に置いた。

「照、そこに座って」

 言われるがままに、照は6人掛けのテーブルに座った。

「これは二人の一週間分の下着と服だよ。ただ、照のセーラー服だけはどうにもならない。明日家から持ってくる。母屋はほとんど燃えなかったからね」

「お母さん――」

「――テレサは今話せない。だから自殺かどうかは分からない」

「そう……」

 愛が照の隣に座った。疲れたとばかりに背もたれに体を預けている。

「咲はしばらく学校を休ませるからね」

「そうだね……」

 照は、テレサが咲に言った言葉を母に聞こうと思った。

「お母さん。おばあちゃんが咲になにかを話したみたいなんだけど、聞いてる?」

「界から聞いたよ」

「なんて言ったか……分かる?」

「さあ……分からないねえ」

 初めて感じる母への怒り。照はそれを感じていた。なにもこんな時にまで嘘をつく必要はない。

「嘘をつかないで……」

「……」

「私と咲は……嘘をつくことを強制されてきた。それは構わない。構わないけど、今だけは……本当のことを教えて」

「……いいよ」

 愛は椅子から離れ、戸棚からティーカップを二つ取りだしてお湯を入れる。それを照と自分の前に置き、ティーバッグを(ひた)した。

「忙しい時は便利だよね」

 愛は一口紅茶を飲んでから口を開いた。照と目は合わせない。これからの話は、本来話すべき事柄(ことがら)ではないのだ。

「わが母親ながら……私はテレサを時々怖く感じる」

「怖い?」

 愛は小さく二度ほどうなずいた。

「あらゆることに意味がある。お前と咲に本当のことを話すなと言ったのは、嘘をつく心理を学ばせるためだよ。結果はどうだい? お前は私の嘘も、咲の嘘だってすぐ分かるだろう?」

「麻雀は騙し合いの競技だから?」

「照……テレサは、麻雀が競技になる前から一流だった。彼女が最も重要視したのは、相手の嘘を見抜くことだった。全自動卓がない時代はいかさまだって横行していた。すべての神経を研ぎ澄まさなければ生き残れない世界だったんだよ」

「……」

 それは納得できる話だった。その効果は、いやになるほど分かっていた。しかし、今聞きたいのはそんなことではない。

「話をそらさないで」

「そらしていないよ……テレサが咲に言ったことだって意味がある。ただね、それには説明がいるんだよ」

 愛が紅茶を飲み干した。口をへの字に曲げている。やはりティーバックでは母の嗜好(しこう)を満足させられないようだ。

「破局点のことは、テレサから聞いた?」

「うん」

「私とテレサの破局点には共通点があった。なんだか分かる」

「……分かんない」

 愛が控えめに笑った。

「そうだね。分からないようにしているからね。でも、答えは簡単だよ。それは敗北だよ」

「お母さんは……負けていない」

 テレサの場合はそれが当てはまる。世界戦でウインダム・コールに敗北して能力を失った。だが、愛は違った。母は世界戦を前に力を喪失していた。

「負けたんだよ……私は、ウインダム・コールに負けたのさ」

「……」

「私のダンテの定理は、テレサと完全に同じものだった。あとは分かるね?」

「おばあちゃんは対策があると言ってたよ」

「そう……一発勝負だけど勝てる可能性はあった」

「……」

「でもね……世界戦が決まった段階で、私の心の中で、ウインダム・コールは文字通り“巨人”になっていた」

「負けを認めたんだね……」

「そうだね。ダンテの定理の呪いは容赦(ようしゃ)がない。あっと言う間に力がなくなった」

 愛は席を立って、ティーカップをキッチンシンクに片付ける。照のティーカップを見てそれはどうすると聞かれたので、半分以上残っていたが一緒に洗ってもらった。

(ダンテの定理の呪い。お母さんも……そう思ったんだね)

 ほんの数時間前に、同じ言葉が照の頭にも浮かんでいた。ダンテの定理を引き継いだ時から、その呪いは始まっていた。

「照とミナモ……後継者となり得る者が二人も現れた。私とテレサはね、ある賭けをすることにしたんだよ」

「賭け?」

「私たちは歳をとってからダンテの定理が発現した」

「……」

「もしも成長期の……今の照やミナモたちの年齢ならば、敗北しても再起動できて、その後の(うれ)いもなくなると考えた」

「お…お母さん」

 愛の表情が厳しくなった。

「照……お前は本当にテレサの言ったことを知りたいのかい?」

「うん」

「そう……ならば、お前は私の共犯者になる」

「……共犯者」

 愛が目を閉じて唇を噛み締める。

「私が咲を復活させる……どんな手を使ってでもね」

「……」

 照は言葉が出なかった。これまでに見たことのない鬼気(きき)迫る母の表情に圧倒されてしまった。

「どちらでも良かった……照でもミナモでも……咲によってどちらかが完全敗北するはずだった。そのために、私たちは咲を鍛えたからね」

「そ……そうか……ミナモが脱落したから……」

 愛が首を縦に振った。そして、絞り出すような声で、テレサの言葉を照に告げた。

「照に勝て! テレサはそう言ったんだよ」

「……」

「お前はそれを知ってしまった。だけどね、それを表にしてはならない」

「え?」

「だから共犯者なんだよ……。咲はレッドサイドの力でお前を敗北させようとするだろう。知らなければ負けても良かった。だが、お前は知ってしまった。死に物狂いで咲に負けないようにしなければならない」

 めまいを覚えるような混乱状態に照は陥っていた。形はどうあれ、嘘のない本当の姉妹になれると思った矢先(やさき)に、これまでと同じ、いや、これまで以上の地獄に突き落とされた。

「お母さん……私は……どうしたらいいの?」

「すべてが……すべてが遅すぎるんだよ……照」

「……」

「テレサはこう言ったはずだよ、『ダンテの定理を引き継いだら必ず後悔する』ってね」

 その言葉が照を混乱から引き戻した。そうだ、なにもかも承知の話なのだ。自分がダンテの定理を引き継いだきっかけは、驚異的な才能を持っていた咲に対抗するためだった。その対価として呪いを受けることも、姉妹が分断されることも、なにもかも承知していた。

(咲……お前は、こんな辛いことも受け入れられるんだね)

 咲はテレサの言葉を守ろうとしている。わずか11歳の少女が、実の姉を倒すという凄絶(せいぜつ)な決意を固めていた。

(でもどうして……どうして私たちがこんなことをしなきゃいけないの?)

 (くすぶ)っていた憎しみの感情が増幅されていく。ダンテの定理への憎しみ。それが、照の心の中で炎になっていた。

(どうしたら……復讐できる……)

 

 

 翌日の朝。照は眠い目をこすりながら目覚めた。寝たのか寝なかったのかよく分からなかったが、布団に横になることで、疲れが取れた気がしている。

「おはよう」

 咲も起きていたようだが、布団からは出ていない。

「おはよう。昨日お母さんがきてね、咲は今週休んでいいって」

「うん」

 愛は、朝早く出かけると言っていた。界と交代するためだ。今日はイギリス人記者からの取材もあるので、愛本人でなければ対応できない。

 ――照は着替えを済ませて、通学の準備を整える。

「なにか買ってきてほしいものはある? そんな高いものは買えないけど」

 咲がくすりと笑う。その見慣れた笑顔が、照の涙腺を刺激する。

「あれ……おかしいな」

 ボロボロこぼれる涙を、照は必死で抑えようとしたが止まらない。近くにあったタオルを取って、そのまま顔を押さえてしゃがみ込む。

「お姉ちゃんの学校の図書館から、本を借りてきて」

「……本? なんでもいいの?」

「うん、なんでもいい」

「分かった。じゃあね咲、きちんとご飯食べるんだよ」

「行ってらっしゃい」

 照の涙は止まらなかった。理由は簡単だった。咲の笑顔が嘘だったからだ。自分のことよりもだれかを優先して考えてしまう。その咲の優しさが、テレサや愛の非情な決断につながった。いつだれが敵になるかもしれないという恐怖感、それが宮永家の掟を作り上げた。そして、敵になったら最も恐ろしい存在が咲だった。

(お母さん……だからあなたは、咲の心の弱さを補正しなかった)

 それが、咲の弱点を内包させたままにしている理由だった。あまりにも身勝手でどす黒い。いわば咲が敵になった場合の保険なのだ。

(そんなことはさせない……私は咲と一緒じゃなきゃ世界にはいかない) 

 

 

 ――その日の昼休み、本に詳しくない照は、友人に図書館で本を選んでもらった。刺激が強くないもの、火災に関する描写(びょうしゃ)のないものをリクエストした。友人は悩みながらも、3冊の本をピックアップしてくれた。

 放課後、照はその本を抱えて家に帰る。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 布団は敷いたままだった。咲は朝見た場所で同じように横になっていた。

「なにしてたの?」

「なにも、ずっと寝てたかな? あ、ご飯は食べたよ」

「そう」

 普通を装っているが、あまり回復していないように見えた。

 照は、咲に頼まれた本を渡す。

「ありがとう、3冊もあるの」

「多かった?」

「ううん、でも貸出期間って2週間だっけ」

「中学校は延長もできるから大丈夫だよ」

「ほんと」

 咲は体を起こし、嬉しそうに一冊を手に取ってページをめくっている。読書にはネガティブ思考を抑止する効果があると友人から聞いた。咲がそう考えたかどうかは不明だが、いやな記憶を一時的にでも忘れられるのなら、それもいいのかなと照は思った。

 

 

 ――その日の夜。愛と入れ替わりで界が帰ってきた。ひげを()る暇もないのか、口の周りが青っぽくなっている。

「雀卓はメンテナンスに出しているからね。明後日戻ってくる」

「雀卓? トレーニングルームにあったやつ?」

 照は疑問に思った。あんなことがあったのなら、全部新品に替えるべきだ。あの雀卓にはテレサの記憶があまりにも強く残っている。

「あの雀卓はね、日本に一台しかないものなんだよ」

「え?」

「世界戦の決勝卓と同じ物だ。“巨人”からの贈り物の一つだよ」

「……」

 あらゆるものに意味がある。愛はテレサを評してそう言っていた。

(おばあちゃん……すべては世界戦のためだったんだね)

 恐怖すら覚えるストラテジーだった。咲と二人で子供の頃から慣れ親しんできた雀卓。そんなものにさえ、テレサは妥協(だきょう)していなかった。動作音や打牌の音、マットの感触や牌のさわり心地など、あの雀卓は、もはや照たちの体の一部になっている。

「――照」

「え?」

「聞いていた?」

「ゴメンお父さん、聞いてなかった」

「まったく……」

 父の話はこうだった。火災のあった家は取り壊してしまい、美津子が所有する道路沿いの農地を宅地転用して新しく家を建てる計画だ。工期はおよそ半年。それまではここに居候することになる。

「咲は?」

「本を読んでる。少し落ち着いてきたみたい」

「そうか……明日は愛がくるからね。少し話したらいい」

「そうだね」

 界は咲の様子を見てから病院に戻ると言った。今日は泊まる予定だったのだが。テレサの容態(ようだい)に変化があったらしく、愛から緊急メールが入っていた。

 照が大丈夫かと聞くと、界はいつものように心配しなくていいと言って家を後にした。本当のことは分からないが、今は界を信じるしかなかった。

 

 

 ――あくる朝。咲は照よりも早く起きて本を読んでいた。話しかけると普通に返事をするのだが、照は少し心配になった。

(現実逃避……今はしかたがないかな)

 照は学校で先生に相談してみようと思った。読書に依存することが良いことなのか分からなかった。

 ――照の学校にはスクールカウンセラーがいた。担任に予約してもらい、昼休みに相談させてもらった。

 

「もちろん現実逃避ですよ」

 丸顔の女性カウンセラーが職業的な笑顔でそう言った。

「ただ、読書による現実逃避は健全な部類になります」

「健全ですか?」

「妹さんは現実逃避せざるをえない状態だと思います。極端に依存しない限りは、それを続けさせてください。決して否定してはいけませんよ」

 やはり専門家は違うなと照は思った。その他の質問にも、彼女は的確な答えをくれる。

「本当にありがとうございました」

「また咲ちゃんの様子を聞かせてくださいね」

 

 ずいぶんと気持ちが楽になった。今度の日曜日、咲と一緒に本屋に行こうかなと考えられる余裕ができていた。

 ――帰宅の途中、照は書店を物色(ぶっしょく)していた。学校の駅前にある書店は規模も大きく、在庫量も豊富に見えた。咲とくるならここかなと目星(めぼし)をつける。

 そして、家に戻った。玄関を開けると愛の靴が置いてある。

(お母さんが戻ってる?)

 16時45分。夕方ではあるが、まだ太陽が見えている。そんな日中に、なぜ母親が家にいるのか? 照には理由が分からなかった。

「お姉ちゃんお帰り」

 キッチンから咲が顔を見せた。

「咲……」

 なにかが違う、どこかが違う。それがなんであるかが判明した時、照は現実を思い知らされた。

(現実逃避していたのは……私だった)

 かわいらしかった咲のお下げが、綺麗(きれい)に切り落とされていた。

「その髪は……どうしたの?」

「跳ねてまとまらないから……お母さんに切ってもらったの」

「……」

 もう逃げられないなと照は思った。それは、不幸を伴いながら執拗(しつよう)に照たち姉妹を追いかけてくる。

(咲……私を倒すつもりなんだね。でも、私は負けないよ。だって、私は“共犯者”だから)

 ダンテの定理の呪い。それは決して解くことのできない呪いなのだ。

 

 

4.プラスマイナス・ゼロ

 

 

 宮永照は、妹がくせ毛に悩んでいたのは知っていた。髪を短く切りたいと相談されたこともあった。しかし、今、このタイミングで切る必要は全くない。ショートカットになった宮永咲を、普通の目では見られない。

「照、お帰り」

 咲の背後から、母親の宮永愛が姿を見せる。

「キッチンにおいで、話があるから」

 いつもの母ではなかった。咲となにを話していたのかは分からないが、その表情からは柔らかさが消えていた。

「明日、雀卓が帰ってくるって聞いてる?」

「お父さんから聞いた」

 キッチンに入ると、テーブルの上には人数分に小分けされたドーナッツが皿に置かれている。どうやら、照が帰ってくるのを二人で待っていたらしい。

「お姉ちゃんはこっちだよ」

 照が適当に座ると、咲が置かれていた皿を取り換える。よく見ると、きちんと好みで分けられていた。照の皿にはチョコ系が、咲の皿にはフルーツ系ドーナッツが置かれていた。

「ほんとだね」

 咲はうなずいたが笑顔ではなかった。

「しばらく休んでいたけど、明日からトレーニングを再開する」

 愛が話を始めた。その声には感情がこもっていない。

「でも、おばあちゃんはどうするの?」

「今の時間に私がここにいる理由はなんだと思う?」

「……」

「コウスケを迎えに行ってきた。さっきまで、家にいたんだけど、テレサの様子を見に病院に向かった」

「コウスケ? コウスケおじいちゃん?」

「テレサを引き取りにきたんだけど、おそらくテレサは帰らない。だからコウスケは日本に滞在する」

「あっちの仕事は?」

「もうとっくに定年だよ。ただ、コウスケは技術者だからね。会社に引き留められていた」

 照は、祖父であるコウスケ・アークダンテと子供の頃に会っていた。彼は背が高くがっしりした体型で、口には見事なカストロ髭を貯えていた。

「咲、おじいちゃんに会った?」

「会った」

「髭でジョリジョリってされたでしょう」

 コウスケの癖で、照も子供の頃にそれをされていた。

「された。おもしろかった」

 楽しそうに咲が笑った。髪型に慣れておらず少し違和感を覚えたが、咲に笑顔を返してくれたのなら、あまり好きではない祖父の癖にだって感謝できる。

「明日またくるよ。それよりもトレーニングの話だ」

 愛は、なごんでいた空気を張り詰めたものに戻した。声にはあいかわらず高揚がない。

「私と界が面子なるけど、もしも、どちらかがいない場合は、シャドートレーニングをしてもらう」

「……子供の頃によく咲とやったよ」

「そのレベルの話をしているわけじゃない」

「……」

 愛がふうと息を吐いた。そして、眉を寄せて話を続ける。

「お前たちには外での対局を禁じているから自分の力が分かっていないと思う」

「……高校までダメなんだっけ?」

「照……3年後、お前は怪物扱いされているだろうね」

「……」

「他の高校生とは差がつきすぎている。お前と咲は、もう世界にだって出られる」

「……じゃあ、どんなトレーニングをしたらいいの」

「一対三だ」

 照を睨みつけるように愛は言った。

「お前たちは包囲されることを前提に闘わなければならない」

 愛の指示はこうだった。

 どちらかが包囲される側になり、もう一方は三人分を担当する。それぞれ包囲の打ち破り方と、包囲して叩き潰す方法を研究する。

(……ダンテの定理の精度を上げろということ?)

 三人分担当する側は立って対局することになる。そうなると照魔鏡は使えない。しかも、相手は明確な意思を持った咲なのだ。絶望感すら覚える練習になる。

(これはミナモの練習と同じだ……対戦相手の心理を学び、データを収集する)

 ミナモ・オールドフィールドは統計のために、一人麻雀を一日中繰り返したという。なにに対しても客観視できる彼女ならではの練習法だが、自分では同じ効果は得られないと思った。なぜならば、ミナモとは違い、照は感覚を優先してしまうからだ。

「技量が同等ならば……残るのは心理戦だ。照、咲、お前たちの闘う相手は、その心理戦の天才だよ」

 愛が言った相手とはウインダム・コールのことだ。知略に()けたテレサ・アークダンテを下し、その娘である愛をも闘わずして敗北させた麻雀界に君臨する帝王であった。

(咲を……道具にするつもり?)

 これまでの反応を見ると、咲は立ち直っているように見えた。しかし、それは元に戻ったのではなかった。切り落とされた髪と同様に、心のなにかを切り捨てたのだ。

  照の心に、再び母に対する怒りの感情が発生していた。

「お母さん……咲になんて言ったの」

「目新しいことではない」

「……なんて言ったの」

「照に負けるなと言っただけだ」

 その無感情な言いかたが気に入らなかった。ただ、“共犯者”としての罪悪感が、照の感情の爆発を抑えていた。

「咲……本当なの」

「本当だよ……それがお姉ちゃんのためだって」

「咲……」

 なにもかもが変わってしまった。ほんの数週間前まで、照は夢のような生活を送っていた。かわいい二人の妹、優しい母と祖母、この生活がいつまでも続いたらどんなに幸せだろうと思った。だが今は、それらのものがすべて崩れ去り、ウインダム・コールを倒すという共通の目標がなければ、皆、自我(じが)が保てなくなっている。

(私も……そうなんだね)

 咲と愛が照を見ている。その目は揺れがなく覚悟を決めた者の目だった。お前はどうする? 言葉無き声が照を問い詰める。

「分かった。母さん、咲、明日から練習を再開しよう」

 言ってから気がついた。照は、母親のことを“お母さん”ではなく“母さん”と呼んでいた。理由は想像ができる。それは“共犯者”としての軽蔑(けいべつ)の感情だった。

 

 

 あくる日、コウスケ・アークダンテと共に、あの雀卓が帰ってきた。マットが張り替えられて、ボタンやLEDなども新品同然に取り換えられている。

 母に連れられてコウスケが部屋に入ってきた。“巨人”ほどではないが、1m80cmを超える大男だ。

「照……わしを覚えているかね?」

 その大男が不安そうに照にたずねる。

「コウスケおじいちゃんだよね。10年ぶりぐらい?」

「おおー」

 大男は笑顔になり、例の髭の儀式を照にしようとした。無下(むげ)に拒絶するのもかわいそうなので、照は手で髭をわしゃわしゃすることにした。

「大きくなったのう」

 そう言って、コウスケは好々爺(こうこうや)となった。

 

 ――その後、コウスケは深々と頭を下げて娘と孫に謝罪をした。そして、テレサ・アークダンテの現状を説明した。彼によると、テレサは短い時間なら会話ができるまで回復しているとのことだった。

「まだイギリスに帰ることはできない。テレサがそう言うのだよ」

「……おばあちゃん」

 それは咲のつぶやきだった。小さな声だが、愛にも、コウスケにも聞こえたはずだ。

「愛……せっかく雀卓が帰ってきたのだ。一勝負といこうじゃないか」

 コウスケは雰囲気を変えるように穏やかな笑顔を作り、愛に対局を所望(しょもう)した。

「コウスケ……この子たちは、私や母さんとは違うんだよ」

「だからだよ、テレサが、照や咲になにを見たのか? それを確かめたい」

 愛が困った顔でこっちを見ている。どうするとでも言いたげだ。

「おじいちゃん……麻雀強いの?」

「強くはないよ。でもな、テレサに麻雀を教えたのはこのわしだ」

 不敵な笑みという言葉がピッタリと当てはまった。なるほどと照は思った。コウスケ・アークダンテもまた勝負師なのだ。

「半荘一回だけだよ」

 ため息交じりに愛が言った。

「結構」

 

 ――四人で雀卓に移り、適当に座った。仮東(カリトン)の席にはコウスケが座り、そこから愛、咲、照の順番だ。

 雀卓のスイッチが入る。短い時間の撹拌(かくはん)を終えて、山牌がせり上がってきた。

(そんな……私、ワクワクしてる)

 家族に不幸をもたらした元凶の麻雀。それなのに、今、自分は、久々に打てることに興奮している。照はそんな自分を否定したかった。しかし、これもまたダンテの定理の呪いなのだなとも思った。

 照は妹を見る。必死にこらえてはいるが、咲もうずうずしている。

(私たちは……麻雀から(のが)れられない)

「エキシビションなので私の親からでいいかな?」

「……」

 愛が眉をひそめている。ということは、コウスケがなにかをやろうとしているのだろう。咲も注意深くコウスケを見ている。

(おばあちゃんから聞いたことがある。いかさまの大半はおじいちゃんから教わったと)

 つまり、コウスケ・アークダンテは不正行為を行おうとしている。すべてが映像記録として残される公式試合とは違い、このような野良試合では、“ぶっこ抜き”(山牌とのすり替え)や“拾い”(河牌とのすり替え)などはいかさまを発見しても指摘は難しい。なぜならば、証明ができないからだ。

(世界戦の雀卓だから“積み込み”や“グラサイ”(サイコロの出目操作)は不可能……いや、この人なら……)

 なぜ自分の親から始めたがったのか? この初回だけは積み込んでいたのではないか? 

(イニシアティブをとられた……いかさまされることを前提に闘わなければならない)

 対戦相手によけいなことを考えさせる。それは闘いを有利に進める基本だ。この老勝負師はそれを熟知している。油断はできない。

 コウスケが余裕しゃくしゃくでサイコロを回す。出目はピンゾロの2だ。たかが36分の1の現象にすぎないが、これまでの流れによって偶然とは思えない。

 配牌が開始される。コウスケは熟練した動作で手牌を作り上げている。天和(テンホウ)ならば積み込みされていたということだ。

「ほう、天和か……今日はついているな」

 コウスケは手牌の14枚を左から順番に倒した。いわゆる蛍返(ほたるがえ)しという技だ。

 ありえなかった。普通の雀卓ならいざ知らず、この雀卓は、いかさまを排除できる世界戦用の雀卓なのだ。

(だとすると……)

 その答えに達したのは、照よりも咲のほうが早かった。

「気がついてたけど、この雀卓は、おばあちゃんの雀卓じゃないよね」

 コウスケは、驚いたというように目を大きくしている。

「なんと! 咲、どうしてそう思う?」

「音だよ。牌がぶつかる音、卓に置いた時の音、サイコロの回る音、よく似てるけど違う。それにね、前におばあちゃんから聞いたの、あの雀卓が壊れたら日本じゃ修理できないって」

 照も薄々は気がついていたが、確信が持てなかった。だが、咲ははっきりと言いきった。

「それじゃあ、咲はわしがいかさまをしていると言うのかな?」

「おじいちゃん……サイコロはどうやって入れ替えるつもりだったの?」

 咲はそう言ってサイコロを回すボタンを押した。出目は当然ピンゾロだ。

「咲……見ていろよ」

 早々に謎を解いた孫に、コウスケは上機嫌だった。

「このサイコロボックスは球状になっている。今見えているのは4分の1だけだ」

 コウスケはボタンをすばやく2回押した。出目は2と5の7だった。

「――肉眼では見えなかっただろう? 今ボックスは高速で90度回転して普通のサイコロに変わった」

「他にも出せる目はあるの?」

「出そうと思えば4種類は出せる。でも、今日仕込んでいるのはここまでだよ」

「だから言ったでしょう。この子達にはいかさまは通じないって。全部テレサが教えたんだから」

 愛が呆れたように言った。やはり二人は協力していたらしい。

「照も分かっていたな?」

 眼光鋭くコウスケが聞いた。気の良い祖父の優しい目から、完全な勝負師の目に変わっていた。

「全自動卓のいかさまはおばあちゃんからの課題の一つだから」

 照の答えにコウスケは満足そうにうなずいた。

「テレサが見込んだだけある。それなら、この不利な条件でも勝つ研鑽(けんさん)を積んでいるだろうな。ウインダム・コールならこれぐらい朝飯前だ」

「……いいよ、でもサイコロのいかさまは無しにしてよ。“巨人”だってそれはできないはずだから」

「いい駆け引きだ。それじゃあ愛、始めようじゃないか」

(なるほど……母さんが仲間かどうかも見極めろってこと? 場馴れしてるねおじいちゃん)

 親に役満を上がられて持ち点9000点からの再開だ。しかもコウスケはいかさまを使うと公言してはばからない。

 

 ――次局。コウスケは完全に逃げ切りに入っていたが、いかさまを使うタイミングも狙っていた。

(7の出る確率は六分の一。その目が出た時は要注意)

 コウスケ・アークダンテは照たちの祖父ではあるが、明確な対抗心があった。家族麻雀を繰り返していた照と咲にとっての初めての対外試合と言えた。

 サイコロの目は5だった。まずはコウスケの手牌を確認する。【白】が2枚あり、それを鳴いて手を進めるしかない。【一筒】【二筒】【三筒】の順子と【二索】の対子がある以外はバラバラだ。とはいえ、照魔鏡はほぼ完成の域に達しているので、なにを持っているかは7割がた判明している。

(これでおおよその流れが分る)

 照の自摸番が回ってきた。引いた牌は【七筒】だった。

 ダンテの定理が発動した。青く見える牌は山の奥のほうにあった。

(【八筒】は使えない。咲が一枚持っているけど残り三枚は最後のほうだね)

 照の捨て牌は一枚持っている【白】に決まっていた。まだ一枚目とはいえ、上がる意思があるのならコウスケは鳴くだろう。そうでなければ親流れを容認しているということだ。48000点のアドバンテージがあればそんな戦術だって可能だ。

 コウスケは【白】を平然と見逃した。いいだろう。ならばこちらは、反撃をスタンバイさせてもらう。

(母さん……どうする?)

 愛の手牌は良くなかった。順子が二つあるが、平和(ピンフ)狙いなら四向聴だ。コウスケの援護をするには手が遅すぎる。ダンテの定理をよく知る母ならば、ここは傍観者(ぼうかんしゃ)に徹するだろう。始まりの得点は無視できるからだ。要は照に連荘させなければよいのだ。

 照の予想どおり、愛は様子見を決め込んだ。

(咲……)

 咲は上りを放棄していた。手牌が悪いせいもあるが、彼女は照の連続和了の限界を考えていた。自摸上りを続けられると、いずれ愛か自分がハコになってしまう。咲はそう考えているのだ。だから、可能なかぎり失点を押さえて、コウスケへの直撃だけを狙っていた。

(そのあとは私に任せるということか。いいよ、でも、私だってバカじゃない。どっちが早くおじいちゃんに直撃できるか競争だよ)

 “麻雀が楽しい”咲がよく言っていた言葉を照は実感していた。負ける気がしなかった。咲と一緒ならば、こんな劣勢などどうにでもなると思っていた。ただ、手始めとして、この局は自分が和了しなければならない。

 ――照の第二自摸牌は【四萬】だった。持っていた【三萬】と繋がり塔子(ターツ)になり、平和の一向聴になった。そして、青い牌である【五萬】はだれも鳴かなければ6巡後に自分が引くことになる。それまでの間に、もう一つの塔子である【三索】【四索】が繋がればそこで上がれる。

(おじいちゃんが【二索】を二枚持っている。【五索】は咲が一枚……可能性は十分)

「チー」

 次巡、コウスケの打牌を愛が副露(フーロ)した。照の和了予兆を察知した彼女がよく使う手だ。しかし、照は慌てなかった。軌道を元に戻す手段を持っていたからだ。

 照は自分の自摸番にその手段を実行した。

「ポン」

 咲が持っていた対子へのアプローチだ。妹は阿吽(あうん)の呼吸でそれに応える。

 そして、再度の照の自摸牌は【一索】だ。青き牌の【二索】は二巡後に自分は自模る。これですべてのレールは()かれた。現状のコウスケと愛の手牌では自摸牌で偶然か重ならなければ副露は不可能だ。

 愛の口角(こうかく)が上がる。娘たちの戦法に満足の様子だ。

(怪物か……母さん、私たちがどれだけ怪物か試させてもらうよ)

 

 

 当然のように照の連荘地獄が始まった。役の上がり方は抑えていたが、四連荘目に、早くも限界が訪れてしまった。次は跳満以上が必要だが、そうすると咲が飛んでしまう。

 対応できるオプションはいくつかあるが、照が回したサイの目によって、最良のものが選択される。

(7……)

 ここでコウスケは勝負をかけるはずだ。相手を倒そうと思うのなら、倒されるリスクを()うことになる。その原則は麻雀にだって当てはまる。

 天和は仕込めないはずであった。7の出るタイミングが予測できないからだ。

(シンプルな手法。牌を4枚固めておく……起点は私が親の時)

 ダンテの定理のスタックにより青い牌が複数見えるようになっている。前局、照はあることに気がついた。それは同じ牌が一か所に固まっている現象だった。ランダムな設定だが、どこかの山に4枚同じ牌が並べられていた。前の局はサイの目が8だったので、そこにとどく前に照が上がってしまったが、今回はきっとベストタイミングで到達するはずだ。いつなんの牌が引けるか分かっているのなら、手を組み立てやすい。

 照はコウスケの手牌を確認する。平和か断公九(タンヤオ)ならば一向聴の実に良い配牌だ。続いて、愛と咲も確認した。二人共門前(メンゼン)で手を進めたくなるような良い手牌だ。しかし、照が考察するのはコウスケがなにを待っているかであった。良くばらけた配牌で、4枚見えていないのは8種類しかなかった。その内、コウスケの上り牌候補になるのは【六索】【九索】【八筒】のみだった。そして、その場合の立直牌もしくは終盤での捨て牌になり得るものを洗い出す。

(安牌を決めてもらうよ、おじいちゃん)

 スタンダードでクラシックなコウスケの打ち筋は、ある意味、麻雀本来の姿と言えた。つまりは、これで振り込んだらしかたがないという考え方だ。照は捨て牌のギミックを使い、コウスケに最後に【一筒】を捨てさせるように誘導する。

(咲……やっぱりお前もここが勝負どころだと考えたんだね)

 照にははっきりとした情報があった。それは照魔鏡やダンテの定理がもたらす確実なものだった。では、なぜ咲もそれが分かったのか? それは天才の一言では済まされないなにかだ。

(レッドサイド……死んだ牌を見る力)

 咲は以前にその力を理解できるようになったと言っていた。“アルゴスの百の目”それについては、おおよその推測はできている

帰納法(きのうほう)……おばあちゃんと母さんがヒントをくれた)

 照は、自分の自摸牌により現実に戻された。それは【八索】で連荘地獄が始まってから4回目の自摸だ。スタックによりコウスケの待ち牌候補の【九索】がすべて見える。

 それは同じ場所に4枚固まっていた。

(これだね……あと8巡、高めじゃなきゃ直撃の意味はない)

 少なくとも跳満、可能ならば倍満が要求される。出上りを狙うのだから立直はかけられない。しかもコウスケへの欺瞞(ぎまん)も同時進行だ。だが、照にとってそれは困難なことではなかった。目的達成のための羅針盤(らしんばん)であるダンテの定理が舵を決めてくれる。

(……四暗刻)

 咲の恐ろしさを照は再認識した。コウスケの和了まであと4巡となった時、このまま進めば、咲が2巡後に四暗刻単騎待ちを聴牌することが確定した。待ち牌は照と同じ【一筒】だ。ダブロンの場合は、放銃者に近い者に優先権がある。つまりは、照は咲との競争に敗北したのだ。

(勝てるのかな……私は、咲に勝てるのかな)

 咲に負けないことは母との約束だ。いや、それは約束などという綺麗(きれい)なものではなかった。咲を道具にすることを決めた罪人たちが背負う十字架なのだ。 

「リーチ」

 予定のポジションに達した。コウスケは大事にとっておいた安牌であるはずの【一筒】を河に捨てる。

「ロン」

 コウスケは大きく息を吐いた。とはいえ、狼狽(うろた)えはしていない。納得したような表情で咲を見ている。

「四暗刻。32000だよ」

 コウスケは笑顔でうなずいて、顔の向きを照に移した。 

「照も見せてみなさい」

 照は牌を倒す。

「こっちは倍満か……所詮(しょせん)わしの負けは決まっていたか」

「父さん……続ける?」

 愛が初めてコウスケのことを父さんと呼んだ。

 それをきっかけに、コウスケ・アークダンテは好々爺に戻っていた。

「いや、もういいよ。これじゃあテレサは帰らないわけだよ。この子たちには、テレサの夢がある」

 コウスケは照と咲とに交互に顔を合わせる。

「テレサはわしが責任を持って復活させる。照、咲……その時は、必ず会いにきておくれよ」

「うん」

 それは二人にとって待ち遠しいことであった。あの優しかったテレサともう一度話がしたい。彼女に自分たちの成長を見てもらいたい。もちろん咲だってそう思っている。なぜそんなことが分るか? だって、咲があんなに楽しそうに笑っているから。あの事故の日以来、初めて見る妹の本当の笑顔に、照は、その日が早く来るといいなと思った。

 

 

 翌日から本格的にトレーニングが再開された。本物のテレサの雀卓はイギリスにメンテナンスに出されており、戻ってくるまで半年はかかるとのことだ。コウスケが持ってきた雀卓はテレサが依頼していた予備用の雀卓だった。しばらくはこれを使うことになる。無論、コウスケが改造したサイコロボックスや制御基板、麻雀牌は既定のものに交換している。

「咲、どうしよう?」

「お姉ちゃんが一人役をやって」

 愛から帰宅が遅くなると照にメールがあった。指示されていたシャドートレーニングをする日だった。

(最初はなにもできないよね……ダンテの定理だけでは咲に勝てない) 

 母親のことを照は考えていた。ダンテの定理という常識外の力を持っていた愛ではあったが。自らの能力不足を悟り、ウインダム・コールに闘わずして敗北してしまった。レッドサイドの能力はそれほどのものなのだ。

 だが、母親と同じ(てつ)を踏むわけにはいかない。ダンテの定理の精度を極限レベルまで上げる必要がある。

 ――配牌を始める。照は普段と同じ動作で良いが、咲は大変だった。三人分の牌を取り、手牌を並べる。いつもの倍以上の時間がかかった。

「コンビ打ちしてもいいんだっけ?」

「いいよ、三対一だって母さんが言ってたから」

 咲はうなずいて、親の第一捨て牌を行った。

「ポン」

 すかさず“南家”の咲が副露する。

(そうなるよね……)

 咲はダンテの定理を知っている。最も効果的な対策は“近づく牌”をスタックさせなければ良いのだ。早上がりの連続は、その有効な対策だ。

「ツモ」

 わずか3巡だった。照は二向聴にするのが精一杯だったが、“南家”の咲は易々(やすやす)と役牌ドラ1を上がって見せた。

(焦ってはいけない……まずは咲ができないことを探す。そこが突破口になる)

 なす(すべ)がなかった。圧倒的な咲の高速麻雀に、照は取り付く島もなく負けを重ねる。しかも咲は、まだ自分の属性を発揮してもいない。

「もう半荘やる?」

 放心状態の照に、咲が語りかける。その表情には照を気遣(きづ)かう色が見えていた。

「ううん……少し考えてみたい」

「うん」

 咲が麻雀牌を片付け始める。機械内部には収納しない。東家の面に牌を表にして並べる。それには136枚のすべての牌があることの確認作業も付随(ふずい)する。照も咲も、さっと目を通しただけで判別可能になっていた。

「お姉ちゃん」

「……なに」

「なんでお母さんを母さんって呼ぶの?」

「……」

 その質問には答えられるわけがない。だから照は、すぐばれる嘘をつくことにした。

「もう中学生だからね。いろんなことがあって、なんとなくそう呼んでるだけだよ」

「……」

 こんなのは嘘に決まっている。だが、咲はそれを追求しない。このいびつな姉妹関係をいつまで続けなければならないのか? 咲にそう聞かれたことがあった。見えかけていた答えは、今では混沌としてしまった。

 

 その翌日もシャドートレーニングになった。今度は逆の立場で、咲が包囲される側になる。さすがの咲も、三対一では苦戦する様子で、東場は照が一方的に和了した。しかし、南場に入ってから、照は次第に捨て牌を迷うようになっていた。

 そして、南二局。ダンテの定理でがんじがらめにしていた咲の力が解放された。

「カン」

 咲の腕が嶺上牌に伸びる。

「ツモ。嶺上開花――」

「……」

 それは恐怖ではなかった。ただ、あまりにも強い妹に対する劣等感が照を苛立たせていた。

(ダンテの定理の破壊者。もっと、もっと強くならなきゃ……私は自滅する)

 

 

 次の日は、ようやく四人で卓を囲むことができた。

 ただ、その日の咲の打ち筋は、実に不可解なものであった。降りるかどうかは優柔不断。好配牌でも高めを狙わない。とはいえ、上りを放棄しているわけでもなかった。

 

 ――南一局。今日二度目の咲の和了だ。

「ロン。門前、ドラ1。500,1000」

 プラス収支ではあるが、照とは10000点以上差がついている。その安手上りはとうてい納得できるものではない。

(なぜ平和にしなかった? なぜ立直をかけない?)

 照魔鏡で手牌が分かる照にしてみれば、咲の摸打は理解に苦しむものだった。

(咲……なにをやろうとしている)

 また手加減しているのではないか? そんな疑念すら頭に浮かぶ。

 

 

 ――南三局。トップは42000越えの照であり、続いて30000点台の咲、父親の界は次にだれかが自摸上りするとハコになる点数になっている。

 照は、キーマンである界の手牌を確認する。

(こんな手もあるんだね)

 偶然か意図したものかは不明だが、界には照魔鏡が通じなくなっている。原因はそばにあるPCのモニターだった。部屋の照明よりも強い光源が近くにあると、眼球に映るものは、そちらが優先されてしまう。かろうじて数枚確認できる情報から察すると、彼はもう聴牌している。

「ロンだよ、咲。なんだい? お父さんへの(おぼ)()しかい?」

「えへへ」

 南四局は照の親番なので、逆転狙いの救済処置に思えたが、別の目的も感じられた。

 

 ――そしてオーラス。照の配牌は良くなかったが、愛や咲の配牌も同様であった。高めを上がられなければ、トップ終了は確実だ。

 13巡目。照は平和を聴牌した。上り牌は2巡先に確定している。あらためて面子の手牌を確認するが、特に危険要素はなかった。愛はまだ一向聴で、咲は聴牌しているが、上がっても3900点にしかならない。

 照は、安心して局を進める。

「ツモ。3900」

「……ツモ?」

 咲の和了に照は困惑していた。なぜそんな手で上がれるのか? その理由が分からなかった。

「咲……手加減したの?」

「違うよ……おねえちゃん」

 なかば怒りながらの照の質問に、咲は冷徹に答えた。

(じゃあ、なんなの? 手加減じゃなきゃ、この和了にどんな意味があるの)

 その答えは、咲ではなく、愛の口から発せられた。

「できるようになったのか?」

「うん」

 できるとはなんだ? なにができるというのだ? 照はその疎外感(そがいかん)に声を荒げる。

「母さん、どういう意味?」

「咲の点数を見ろ」

 言われた通りに咲の前の点数表示を確認する。

 “30500”

 そう表示されていた。

(どんな意味がある……30500……プラマイゼロ)

 まさかと照は思った。こんなことは不可能に近い。意識してプラマイゼロを作り上げるなんて人間業ではない。

 しかし、それとは逆の考えも去来(きょらい)している。 

(一致する……これまでの咲の奇妙な動き……あれは点数調整のためなの?)

 愛が笑っている。それはこれまでの優しい笑顔ではなかった。もっと野蛮な人間が、欲望が満たされた時に見せる笑顔に酷似(こくじ)していた。

「いいぞ咲。照に負けるな。それが照のためだ」

 照は拳を握りしめる。そうしなければ母親への憎悪を抑えられなかった。

(分かった……。母さん、あなたが咲になにを言ったのか分かった)

 プラスマイナス・ゼロとは、咲の心の葛藤が生み出したものだ。別の言いかたをするのならば、咲の優しさによる弊害(へいがい)だ。

(私に負けるな……それだけじゃないよね、母さん? あなたは咲に別のことも言ったはずだよ)

 “アルゴスの百の目”。その力を安定的に使える手段を咲は模索していた。咲の才能ならば、とっくに使えていてもおかしくはない。ただ、それに足枷(あしかせ)をはめている者がいたのだ。

 それは、母親の宮永愛であった。

(私に勝つな…………あなたは咲にそう命じた)

 思いどおりにはさせない。照は怒りの目で愛を睨んだ。

「分かっているとは思うが、お前は咲の“アルゴスの百の目”を破るしかない」

 冷たく答える愛に、照は反駁(はんばく)する。

「いまさらすぎるよ……母さん」

 

 

5.ドラゴンズ・アイ

 

 

 その日の夜、宮永照はなかなか眠れなかった。となりの部屋で寝ている宮永咲に「おやすみ」と言ってから1時間以上が経過していた。眠ろうと思い目を閉じると、トレーニング中の情景が思い起こされる。

(すべての元凶(がんきょう)は、私にある)

 なぜ妹が“アルゴスの百の目”を使う条件としてプラスマイナス・ゼロを選んだのか? 理由を突き詰ると、その結論にたどり着いてしまう。

(私の弱さが……キマイラを作ってしまった)

 レッドサイドの力と、咲の持つ優しさが融合したものがプラスマイナス・ゼロだろう。だが、それが生み出された経緯は単純ではなかった。

 母や祖母の矛盾極まりない指示も原因の一つだ。照も咲も、幼いころから『決して敗北してはならない』と教えられていた。勝利と敗北には明確な違いがある。勝利は選べないが、敗北は容易に選べる。そして、一度敗北を選択した者には、勝者との間に壊すことが困難な壁を作り上げる。テレサと愛は、それをよく知っていた。だからこそ娘たちに(いまし)めたのだ。しかし、ダンテの定理破局点の恐怖が、二人にボタンの掛け違いを発生させる。

 祖母のテレサは、極限の状態で『照に勝て』と咲に命じた。優しい咲のことだから、それは絶対に守ることになったはずだ。ところが、愛の心に迷いが生じ、それが咲を混乱させる。

(勝つな……か。それはどこまでの意味があるの?)

 本当にそう言ったのか、母に直接聞いたわけではない。ただ、そう考えなければ辻褄(つじつま)が合わなかった。あの火災前に、咲は“アルゴスの百の目”のパターンを掴んだと言っていた。そこに、愛の曖昧な指示が加わった。

(咲は私を敗北させないことを選んだ……勝利はできないが敗北もしない。矛盾から生まれた矛盾に満ちた選択……)

 もしもと考える。もしも自分が、咲よりも強かったら、こんなに苦しい思いをさせなくて済んだはずだ。強力なレッドサイドの力を持ちながらも、“巨人”と闘う適性を持たないと判断した咲は、自ら照のサポート役になることを選んだ。

(ごめんね……悩んだでしょう)

 やり直しなどもう不可能だと照は思った。妹は、自分の役割を定め、それを可能にする力を発現させた。照は、『私のためにそんなことしないで』と言いたかったが、それは咲の決意を踏みにじることになる。

(私が強くなるしかない……)

 それが偏執的(へんしつてき)な考えであることに照は気がつかなかった。妹への罪悪感と、母への怒りの感情が、照から客観的なものの見方を排除していた。

 なぜ姉妹でこんなことをしなければならないのか? お互いに競い合えば良いのでないか? 当然の主張ではあるが、あの事故が、照からそれを言う機会を奪った。理不尽(りふじん)なのは分かっている。ただ、照も、愛も、そして咲も、その理不尽なレールが必要なのだ。今はなにかに没頭していなければ心の安定を保てなかった。

 

 

 プラスマイナス・ゼロを破れと愛に命じられてから一週間が経過していた。

 その特性上、基本は咲の上り止めになるので、破るのはたやすく思える。要は、最後の咲の和了を阻止したら良いだけで、それまでの過程は無視しても良い。

(これがアルゴスの百の目……)

 照は、母親が闘わずして敗北したわけを理解した。咲を上がらせない。そんな簡単なことが、一度も成功しなかった、

(おばあちゃんと同じ方法を取るしかない……どこまで見えているか、どのように見えているかを探る)

 トレーニングはオーラスに差しかかっていた。得点では照がリードしていたが、咲は中盤に安手の点数調整を行い、2000点までの役を自模ればプラスマイナス・ゼロが達成できるようにしている。

(リーチならばプラマイゼロそのものは阻止できる……)

 立直による加点は、だれもが思いつくことだろう。29600点から30500点までの範囲で終了しなければならない性質上、唐突(とうとつ)に追加される1000点には対応できないと考える。もちろん照もそう考え実行した。だが、咲はそれに対応できる柔軟さを持っていた。翻数を下げて達成可能な場合はそれで対応し、できない場合は、アルゴスの百の目をスイッチした。

(その場合は咲に振り込む……それも100%)

 敗北とは点数の優劣ではない。“この人には勝てない”という心の格付けなのだ。プラスマイナス・ゼロはそれを否定するためのものだ。そのシステムを壊さない限り、破ったことにはならない。

(リーチは分からないということか)

 アルゴスの百の目とはなにか? 照はその答えをテレサ・アークダンテから聞いていなかった。だが、咲や愛は、取得するため、破るために、その謎を聞いているはずであった。それ自体には文句はなかった。祖母と同様に、自力で謎を解いたほうが免疫力は高くなる。そのためのヒントも聞いている。

(王牌は見えていない。立直も予測できない。そして手牌も見えていない)

 ウインダム・コールの圧倒的な強さから、すべての牌が見えているのではないかと噂されていた。だが、照はそれを否定する確証を得た。咲は対戦相手の手牌を考慮した打牌をしていなかったからだ。照魔鏡により他家の手牌を可視化できるのでそれが分かった。咲の打牌の仕方は、見えていない人間と一致する。ただ、それは照の能力の優位性を示すものではなかった。それどころか、絶望感すら覚える結論を導き出していた。

膨張(ぼうちょう)と収縮……死んだ牌を見る力と死にゆく牌を見る力……)

 それはテレサがよく使っていたブルーサイド、レッドサイドの力の比喩だった。

 ――オーラスの13巡目。咲は前巡から平和を聴牌しており、自摸上りならば1500点で計29900点のプラスマイナス・ゼロが成立する。

 もはやそれは止められそうにない。照と愛は手牌が悪すぎて立直などかけられなく、界も一向聴であった。

 とはいえ、照に収穫がないわけでもなかった。

(母さん……これが一発勝負のタネ?)

 照と愛は、オーラスの序盤から同じ考察をしていた。上家下家と同じ牌を捨てる。つまりは合わせ打ちだ。それを繰り返していた。調べていたのは咲がそれを読み取れるかであった。

(……できるためにはなにがあれば良いかを考える。おばあちゃん。これがウインダム・コールの秘密なんだね)

 その主語こそが“アルゴスの百の目”の見ているものであった。

(河だ……咲は河が見えている……最初から最後まで)

 多くの人間がそう仮定するが、証明まではできなかった。“引退後”のウインダム・コールは対局情報を秘匿(ひとく)していたからだ。しかし、照には、咲というリアルタイムのソースがあった。

(視覚的なイメージではない……連続した情報だ。その捨て牌がだれのものであるかは、自分の手牌から判断するしかない)

 かつて、テレサも同じ実験をし、一度だけではあったがウインダム・コールを(あざむ)いていた。映像データは残っていなかったが、“巨人”との闘いはテレサの記憶として残されていた。彼女は、全局の牌譜を作成していた。照はそれを何度も見たことがある。

(証明されたよ、おばあちゃん。でも……どうやって勝てばいいの?)

 河のシリアルデータを持つ敵にどうやって勝てというのか? 照にはその策が思いつかなかった。いつ終わるかが分る相手、どのような経緯で終わるかが分る相手だ。たとえ副露(フーロ)で河を乱したとしても、それはシナリオ上のイベントにすぎない。

「ツモ、門前、平和。400,700」

 咲がプラスマイナス・ゼロを完成させた。まさに天敵であった。“アルゴスの百の目”はダンテの定理の天敵なのだ。死にゆく牌を見る力は、死者の牌を見る力の前では無力だった。たとえ、そこに照魔鏡を加えたとしても、破るのは困難に思えた。

(分かった……分かったよ。絶対に破って見せる。それが、咲の望みなんだね)

 咲が微笑んだような気がした。勘違いだとは思うが、照は、咲に心を読まれたような気がした。

(『これで分かったでしょ。自分の力ではウインダム・コールは倒せない。だからお姉ちゃんが倒して』)

 そんな咲の言葉が聞こえてくるようであった。限定的にしか“アルゴスの百の目”を使えない。しかも、それは勝つためのものでもない。だから姉にすべてを(たく)す。咲はそういう決断をしたのだ。

(……咲)

 照には代替案が思いつかなかった。一時は咲を勝負師として育てようとも考えたが、それは不可能になった。ならば、理不尽なレールでも、それに沿って進むしかない。

 

 

 “アルゴスの百の目”。それは、底が知れない能力であった。照が試みた様々な攻略は、すべて咲に跳ね返されてしまった。何度かは一時的に勝つことはできる。しかし、すぐに対応されてしまい、結局は振り出しに戻される。

 袋小路に入り込んだ照は、“アルゴスの百の目”の模倣(もほう)をしてみることにした。照魔鏡により三人の手牌は見えている。ダンテの定理で勝負のマイルストーンも分る。情報量で自分は咲を圧倒している。ならば、局の道筋だって予測できるはずだ。

(すべての局で咲が上がるわけではない。シリアルデータは勝つ時も負ける時も平等に見えているはず……その判断を狂わせるしかない)

 そう考えた時点で、照は、咲の策中にはまっていた。ウインダム・コールがそうであるように、咲も大局的な紛れを打ち筋に混在させていた。それを見破るまでに、照は3か月の時間を必要とした。

(今度こそ……本当に手加減されていた……)

 それは100%と60%の予測力の差であった。照は、自分の力をフル稼働して40%の差を縮めようとしたが、あまりにもレベルが違い過ぎていた。咲は、弱点のようなものを照に見せ、そこに意識集中させるように仕向けていたのだ。もちろん、その弱点はイミテーションだった。

(あきらめたら終わり。気持ちを……リセットするしかない)

 3か月に渡る照の試みは、再び振り出しに戻された。光の見えぬ暗闇からの脱出経路は、まだ見つけられない。

 

 

 翌年の4月。宮永照は中学2年生になり、妹の宮永咲は小学6年生になっていた。長い間居候(いそうろう)していた祖母の宮永美津子の家から、道路沿いの一軒家に宮永家は引っ越していた。周囲にまったく人家がない寂しい土地ではあったが、良い部分もあった。照は駅までの時間が5分も短縮され、咲も学校までの距離が短くなった。

 

 照が家に戻ると、咲はまだ帰っていなかった。照よりも社交性のある妹は、友人が結構いて、最近ではそちらと遊んでいる時間が多くなっていた。成長の過程としての姉離(あねばな)れはしかたがないことだったが、照は、それが少しだけ寂しかった。

「ただいまー」

 咲が帰ってきた。照は、玄関で彼女を出迎える。

「お帰り」

「お姉ちゃん、今日は早いね」

「咲が遅いだけだよ。もう5時過ぎてるよ」

「本を選んでた。友達に付き合ってもらってたから」

「友達? あの須賀君とかいう男の子?」

「京ちゃんじゃないよ。図書委員の同級生だよ」

「そう」

 なぜかは分からないが、照はそう言われてほっとしていた。

「お腹すいた」

「美津子おばあちゃんが晩御飯作っていったよ。一緒に食べよう」

「うん」

 

 咲と二人だけの食事だ。以前なら、そこにテレサがいて、ミナモがいた。その幸せの記憶が、照と咲の口数を少なくしていた。とはいっても、二人は、それを二度と戻らないものとして理解しており、なんとか新しい日常を作ろうともがいていた。

「咲、母さんに携帯を買ってもらうように言おうか?」

「持たないとダメかな?」

「だって、遅くなったら心配になるよ」

「……家には家族だけでいたいから」

 以前にも同じ話をしたことがあった。今は小学生でさえ、ほとんどの子が携帯電話を持っていた。だが、咲は、それを欲しいとは言わなかった。理由は今の答えと同じだった。携帯電話を持つということは、いつでもだれかと繋がっているということ。咲は、家という家族だけのエリアに他者が入ることを嫌ったのだ。本音で言えば、照だってそうしたい。ただ、周囲の同調圧力が、それを許さなかった。

「友達からなにも言われない?」

「言われるけど……私はいらない」

「……」 

 照は、咲との会話に違和感を覚えた。

(私……トレーニングと現実の区別がつかなくなってる)

 あまりにも過酷なトレーニングが、日常にまで影響を及ぼしていた。どんなに厳しい訓練であっても、それが終われば普通の姉妹に戻れる。照と咲との関係はそういうものであるはずだった。

 

 ――その日、両親の帰宅は午後9時をすぎていた。それでも、トレーニングは開始された。

 照は、夕方に感じた違和感を引きずっている。自分たちは嘘がまかり通る奇妙な姉妹関係だが、だからこそ心の奥底では深く繋がっていると思っていた。どんなに咲が強くても、照は一度も憎悪の感情を持ったことがなかった。だが、泥沼のようなプラスマイナス・ゼロとの闘いは、照の心に闇を作っていた。

 咲に勝ちたいという貪欲な欲求。それが照の心を支配していた。“アルゴスの百の目”への嫌悪感(けんおかん)。打ち砕いてやりたいというシンプルな感情が、それを使う相手が、愛する妹の咲であることを忘れさせていた。

(これは……憎しみ?)

 焦りや苛立ち。これはなにゆえに発生しているのかと照は考える。自分の不甲斐なさであることは間違いない。ただ、あまりにも強い妹への(ねた)みがないかと問われれば、完全に否定することはできなかった。

(そんなはずはない……よく考えて……咲はだれのために闘ってるの?)

 もちろん照のためであった。それは分かっている。分かってはいるが、頂上が見えない壁を前に、妹への感謝の気持ちが(ゆが)められる。

 

 

 プラスマイナス・ゼロの悪夢は、文字通り、悪夢となり、照を苦しめる。

 咲の大きくかわいらしい目から光沢がなくなり、“アルゴスの百の目”の名のとおり、あらゆるところにその目が出現する。雀卓にも、部屋の壁にも、あげくの果ては照の指先にも咲の目がある。逃げることも叫ぶこともできなかった。その目に囲まれて麻雀を打ち続けるしかなかった。

(お姉ちゃんは私には勝てない)

 完全なる無表情で咲が言った。凍りつくような冷たい声に、照は、体も、口も、動かすことができなかった。

 ――照は、汗だくになり飛び起きる。呼吸は乱れまくり、心臓も波打っていた。

(負けるわけにはいかない……だって、私は共犯者だから)

 これが夢なのは分かっている。ただし、夢だけでは済まないことなのだ。照は、テレサと愛の策略の秘密を知り、その時から、共犯者としての十字架を背負ってしまった。だから受ける苦難に対して文句を言う資格がなかった。

 

 

 さらに二か月が経過し、照の嫌いな梅雨のシーズンがやってきた。あの事故からもう一年だ。意識しないように心がけていたが、しとしとと降り続く雨を見ていると、どうしても思い出してしまう。

 ――浅い眠りが続いていた照は、授業中に居眠りしてしまうことがあった。いけないとは思いながらも、強烈な睡魔には抵抗できなかった。

 照はうとうとして、レム睡眠の状態にあったと言える。その活発に動いている脳に、プラスマイナス・ゼロを破るサジェスチョン(暗示)が聞こえた。

(変数……宣言?)

 今はなんの授業だったかを思い出す。特別授業だったはずだ。照の嫌いなコンピュータープログラムの基礎の授業だった。

 家庭環境によりある程度英語を理解する照ではあったが、コンピューター用語はまるで宇宙語であった。

(変数とはなに? 照魔鏡……ダンテの定理……宣言以外の値を代入するとエラーを起こすの?)

 プラスマイナス・ゼロを高度なプログラムコードだとする。それを実行する前提として、様々な変数を定義するはずだ。

 照は、カッと目を見開き、気がつけば手を挙げていた。

「み……宮永、質問か?」

「一度定義した変数は、途中で変えられますか?」

 プログラムとはまったく関係のない質問であったが、眼鏡の教師は、いい質問だと言わんばかりの笑顔だ。

「プロシージャ、ルーチンの途中では変えられない。それが終わってからなら宣言し直せば――」

 教師の得意満面な解説が続いている。途中から宇宙語になったが、聞きたいことは聞けた。『途中では変えられない』。それだけ分かれば良かった。問題はプラスマイナス・ゼロのプロシージャがどこまでかということだ。半荘すべてか、それとも一局だけか。いずれにせよ、“アルゴスの百の目”の有効範囲は絞り込める。

(変数は決まり切っている。ダンテの定理のスタックだ。咲はそれを知っているからね)

 

 その日の夜、照は、変数の型不一致(かたふいっち)を試そうと考える。その実行タイミングをいつにするかが悩みどころだった。

(オーラスでは意味がない……スタックを意識させて誤った定義をさせなければ)

 見える牌を増やされると不利になる。それは咲だって同じ考えだろう。だから、ダンテの定理の情報スタックを警戒し、それで変数を定義するはずだ。

(咲、私がダンテの定理を強制解除したら……どうする?)

 ――東三局。照は始まりの儀式として3900点上りを咲に許可された。プラスマイナス・ゼロ時の特徴で、ダンテの定理の連荘は高点数になる前に止められる。もちろん、点数上昇が絶対条件ではないことは咲だって知っている。しかし、見える牌が増加し続けるのならば、少しでも高い点数で上がったほうがより合理的だ。照たちは、祖母からその合理性を叩き込まれていたので、原則論として体に染みついていた。

断公九(タンヤオ)……平和も絡めることができる。しかもそれを可能にする牌も見えている)

 東四局。照は配牌に恵まれていた。門前、断公九、平和まで一向聴だった。立直をかければ5200点で、ダンテの定理の定石的な流れだ。

「チー」

 だが、照はそれを意図的に崩す。咲の見ている河の流れが不変のものならば、なにも問題ないはずだ。しかし、それがいくつもの変数から導き出された結論ならば、なにかが狂うだろう。  

(だれもいない森で倒れる木は音をたてない。……でもね、それはだれもいないからだよ。咲……お前はそれを認知した。音が聞こえるはずだよ)

 見ていなければ、見えていなければ成り立たない。照は“アルゴスの百の目”をそういうものだと考えた。これまでも、上りを放棄したり、いきなり高めで上がってみたりもしたが、まるで効果がなかった。それはだれもいない森で倒れた木だったからだ。

(迷った……今迷ったね。そうか、レッドサイドの力がダンテの定理の天敵であるように、その逆も同じだ)

「ツモ、断公九。300,500」

 流石だなと照は思った。想定外の照の和了にも、咲は顔色一つ変えずに点棒を処理している。だが、照は確信した。変数定義の不一致を認知させること。それこそが、“アルゴスの百の目”を破る手段なのだ。なるほど、母親の宮永愛が言ったように、ウインダム・コールが相手なら博奕的(ばくちてき)な要素はある。しかし、咲のプラスマイナス・ゼロに関しては、こちらが主導権を握れる。

(精度を上げるのはダンテの定理ではなかった。それは照魔鏡……咲が模倣できない私だけの切り札)

 冷静を装ってはいるが、咲の混乱は続いていた。プラスマイナス・ゼロ時の理解不能な摸打から、オーソドックスな打ち筋に変わっている。能力の復活を待っているのかもしれないが、それならば、照魔鏡の優位性がある内に、点数調整が不可能な得点差をつけるだけだ。

(強制解除すると見える牌はスタックされない。でもね、私には照魔鏡がある。咲……前に言ったはずだよ。照魔鏡の怖さを見せてあげるって)

 “アルゴスの百の目”の模倣を繰り返し、照の予知予測能力は高度に練り上げられていた。正直、照は、負ける気がしなかった。初めて妹を超えたと実感した。そしてその自信は、好配牌と神自摸となり、だれもが天才と認める妹への反抗メッセージとなった。

「ツモ、九蓮宝燈(チューレンポウトウ)。16000オール」

 一生に一度上がれるかどうかの芸術的な役満をここで和了した。照は、それが無意味な偶然とは思えなかった。

(私は超える……咲を超える。だって、それは咲が望んでいることだから)

 

 

 そこから咲との一進一退の攻防が続いた。照は妹が天才であることを改めて認識した。凄まじい対応力で照の強制解除にパッチを当ててくる(修正プログラムで不具合を修正する)。しかし、あくまでも主導権は照側にあった。数か月が経過した頃、咲のプラスマイナス・ゼロの成功率は50%以下になっていた。

 

 季節は秋になり、肌寒くなったトレーニング室には暖房がつけられている。トレーニングが終わり、少しあきらめの表情が伺える咲に、愛が声をかける。

「咲、少し残りなさい」

「……うん」

 照は嫌な予感がして、母親を問いただす。

「母さん、なにを――」

「口を出すな!」

 それは激怒の声であった。愛に怒られたことは何度もあったが、ここまで激しい怒りを見せたことはなかった。

 父親の宮永界が、照に目配せする。『ここはおとなしく部屋に戻れ』。彼はそう言っていた。

 照は咲を見た。小さくうなずいて、大丈夫だよと言っている。

(母さん……今度よけいなことをしたら、私はあなたを許さない)

 憤懣(ふんまん)やるかたない気持ちで、照は部屋を後にする。

 照は決意していた。愛からなにを話されたのか、咲が戻ってきたら絶対に聞いてやると考えていた。だが、10時になり、11時になっても咲は戻ってこない。照は心配になり、一階に降りてトレーニング室の中を(うかが)う。

 ドアノブを回しても開かない。中から鍵がかけられているのだ。

 照はたまらずドアをノックする。

「母さん?」

「照、中に入るな」

 新しいトレーニング室は防音されていない。だから愛の声ははっきりと聞こえる。

(麻雀牌の音……まさか、ずっとトレーニングしてるの?)

 カチャカチャという牌がぶつかり合う音が聞こえていた。

「母さん! なにやってるの!」

 大声でドアを叩く照のそばに、父親の界が近づいていた。

「照、心配ないよ。お父さんが見てるから。だから、照はもう寝なさい」

「お父さん……咲はなにをされてるの?」

「人聞きが悪いね。ただ練習しているだけだよ」

 父親の笑顔が、照を安心させる。少し心が落ち着き、声も普通に戻った。

「練習? なんの?」

「さあ、ただ、お義母さんから指示があった」

「おばあちゃんから? なんて?」

 界はわずかに考えてから、照に言う。

「本当は内緒(ないしょ)なんだけどね。ただ、照がおとなしく部屋に戻ってくれると約束したら教えるよ」

「……分かった」

 そう答えざるを得なかった。反抗して暴れたって愛がドアを開けるわけがないと思った。

「ドラゴンズ・アイを咲に教えるようにと言われた。電話に出たのは俺だよ。愛に伝えると厳しい顔をしていた」

「ドラゴンズ・アイ……咲は模倣できるの」

「小鍛治プロの能力も謎だらけだよ。でも、お義母さんは、咲ならできると思っている」

「……」

 “巨人”を追い詰めたと言われる小鍛治健夜の力には、テレサも愛も注目していた。特にテレサからは、『これは咲と同じ力かもしれない』と説明されていた。

(ドラゴンズ・アイ。小鍛治さんの操るドラは目を持っている……レッドサイドの変形型。おばあちゃんはそう考えてた)

 だとするならば、咲にもできる可能性があった。しかし、そのためには、能力の謎を解かねばならない。界が言ったようにドラゴンズ・アイはまだ謎だらけだ。

 

 

 いつ自分が寝たのか記憶がなかった。1時を超えて、2時近くまで起きていたのは覚えている。ただ、平日ゆえの疲れがたまっていたのか、照はいつの間にかベッドに横になり寝ていた。

 照は飛び起きて、咲の部屋のドアをノックする。

「咲、起きてる?」

 聞こえなかったのかもしれないが、まったくの無反応であった。つまりは、中に咲がいないか、寝ているかであった。

 照は一階に降りてトレーニング室を覗いた。

「照……咲は今日休ませるからね」

 下瞼(したまぶた)に寝不足の(くま)を作った愛が、雀卓の椅子にもたれかかりながら言った。

「なにやってるの?」

「……」

「……母さん、こんなことは――」

「こうするしかないんだよ」

 それは、照に話した言葉ではなかった。おそらくは、自分の(おこな)った愚行に対する自己弁護の言葉だったのであろう。愛の表情には悲しみが色濃く浮かんでいた。

 照はなにも言えなくなった。愛だって咲が憎いわけではない。むしろ照以上に愛しているはずだ。ただ、もう止まれなくなっていた。“巨人”を倒すという目標のためには、親子の愛情も犠牲にしようとする狂気が、彼女を支配していた。

(私も……同じだ)

 自分はこの一年、愛する妹である咲を打ち負かすことだけを考えていた。寝ても覚めても、プラスマイナス・ゼロを破ることだけを考えていた。そして、それを達成できた時、照は言い様のない幸福感を覚えていた。

(共犯者……私が……咲を追い詰めている)

 “巨人”を倒す。その思いは照も愛も同じだが、手段は違うはずであった。愛は咲を犠牲にすることを考えており、照は咲とともに歩もうと考えていた。しかし、それは完全に否定された。同じだった。自分も愛と同じだった。咲を犠牲にして、“巨人”に勝とうとしていた。

 

 その夜の練習から、咲の打ち筋が一変した。なにかを試しながらの摸打なので、勝ち負けは度外視されており、ハコになってしまうことも何度もあった。そして、毎夜繰り替えされる愛との追加練習に、咲も疲労していた。

 

 ――12月になり、雪でも降りそうな寒い日であった。照が家に戻ると、キッチンには祖母の美津子が作ってくれた晩御飯が用意してあり、電子レンジで温めて食べるようにとのメモ紙も残されていた。

 6時近くになるが、咲はまだ帰ってこない。照は不安になり、懐中電灯を持って外に出た。辺りはもう真っ暗であった。

 照の足は、かつて宮永家があった場所に向かっていた。なぜかは分からないが、咲がそこにいるような気がしたのだ。火災の嫌な記憶が残る家、しかしまた、あの幸福な美しい記憶の残っている家でもあった。

 そして、咲はそこにいた。

「なにやっているの?」

 暗闇で表情は読み取れないが、咲は声のした方に振り返った。

 大きな咲の目が、月明かりを反射させている。

 声をかけたのが姉であることを確認してから、咲は目を元に戻した。

「ここにおばあちゃんの部屋があってね、ここにはトレーニング室があった」

 咲のシルエットが指差す場所を、照は懐中電灯で照らす。

 そこは、更地に戻されていて、不自然な土の盛り上がりがあるだけであった。

「そうだね……ここで、みんなで麻雀を打ったね」

「うん……」

 昨日のようにその情景が目に浮かぶ。咲がいて、ミナモがいて、愛やテレサが笑っている。そう、だから照はこの場所に来たくなかったのだ。その幸福の記憶が、今の照を苦しめる。

「咲……寒くなってきたから、もう帰ろう」

「お姉ちゃん、一緒に群馬のおじさんのところに行かない?」

「それって、家出したいってこと?」

「家出か……それもいいかも」

「咲……」

 照は咲の手を掴んだ。

 咲は、なにかに耐えられなくなり、照にしがみついて泣きだした。

「私……お母さんのことが嫌いになっていくの……私どうしたらいいの」

 周囲は凍りつくような寒さであった。だが、涙は、熱い液体のまま、照の頬を滑り落ちた。

(ごめんね……咲、ごめんね)

 悔しくてしかたがなかった。そうしよう、一緒に家出しようと言えない自分がもどかしかった。

「私が……“巨人”を倒すから……そうしたら、きっと、優しい母さんは帰ってくるから」

 これで、自分は完全な共犯者になったと照は思った。もうこのまま進むしかない。このまま進むことでしか、自我を保てない。

「本当……」

 泣きじゃくりながら咲が聞き返す。すぐには答えられなかった。その()をごまかすように、照は、妹を強く抱きしめた。

「約束する」

「絶対に?」

「……うん、絶対に」

 自分の言った言葉は嘘ではない。だが、心が嘘をついている。照は、自らが背負う十字架が、持ちきれない重さになっていくのを感じていた。

 

 

 トレーニング終了後。咲は深刻な顔で愛を見つめている。そして、母親に驚きの要望をした。

「おばあちゃんに会わせて」

 歯車がかみ合わないドラゴンズ・アイへのアドバイスが欲しかったのかもしれない。咲にとっては、テレサ以上の麻雀の指導者はいないのだ。

「テレサに?」

「うん」

「ちょっと待ってて」

 愛は携帯電話を開いて、通話を始める。相手はコウスケ・アークダンテだろうなと推測した。

(ドラゴンズ・アイ……やっぱり、それがキーワードか)

 意図的に早口の英語を使用していた。ネイティブすぎて、照でも聞き取れなかったが、何度も繰り返されたドラゴンズ・アイという言葉が耳に残った。

 通話が終わり、愛が携帯電話をたたむ。

「土曜日でいい?」

「うん、いい」

 照もテレサに会いたかったが、今回は自分がいるべきではないと思い、いっしょに行きたいと言うのを我慢した。

(咲……)

 咲が照を見ている。それは今日の約束への咲からの回答だった。より“巨人”に近づき、あるいは超えた存在になる。約束したからには、それを倒して見せろ。

 恐怖を覚えるほどの凄みのある回答だった。

(ドラゴンズ・アイ。咲……お前は、なにをしようとしているの?)

 

 

 




次話:「宮永照(後編)」

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