咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

47 / 66
26.宮永照(後編)

 1.誕生

 

 

 テレサ・アークダンテが所有する東京のマンションは、娘の宮永愛への譲渡(じょうと)が決まっていた。その理由は、孫の宮永照の高校進学を考えてのことであった。長野県には風越女子高校という麻雀の名門校もあったが、テレサは、旧敵ではあるが、その実力を評価しているアレキサンドラ・ヴィントハイムが監督就任した臨海女子高校に孫の入学を希望していたからだ。 

 そのようなわけで、テレサは、娘夫婦が転入予定のマンションではなく、軽井沢の貸し別荘に、夫のコウスケ・アークダンテと暮らしていた。

 テレサの欧州での知名度は非常に高かった。小鍛治健夜が現れるまで、“巨人”ウインダム・コールが最も苦戦した相手として言及しており、彼の関連する書籍、ゲーム、映像コンテンツなどには、テレサの名前が必ず使用された。そのパブリシティ権等で、彼女には生活に困らないレベルの収入があった。

 

 

 妹の宮永咲が、テレサへの面会を求めた当日がやってきた。

「じゃあ行ってくるね」

 玄関で見送る照に、咲が靴を履きながら言った。

「おばあちゃんによろしくね」

「うん」

 やはりと言うべきか、咲の表情は硬かった。あの事故以来、心を閉ざしてしまった祖母との面会だ。だれよりもテレサと親しかった咲にとって、それは辛いものになるはずだった。

 車のドアが閉まる音が聞こえた。これから咲は、両親とともに、車で軽井沢に向かう。

(おばあちゃん、本当にドラゴンズ・アイができると思っているの?)

 ドラゴンズ・アイとは、その名のとおりドラ牌が目を持っているかのように作用する小鍛治健夜の能力であった。彼女は表裏の8枚のドラ牌を操り、その前後の牌をサーチする。単純に言えば、24枚の牌位置情報がドラによって彼女に伝えられる。しかも、槓ドラにより、それは比例して増加する。だから、彼女が面子にいる場合、絶対に槓をしてはならないというのが定説になっていた。

 その話を初めてテレサから聞いた時、健夜は咲の天敵になると照は考えた。しかし、それは杞憂(きゆう)であった。咲の槓はドラゴンズ・アイの有効範囲外にあった。

(咲の槓は勝負を決めるもの……小鍛治健夜のプラス要因にはなり得ない)

 それが咲の凄さであった。見える牌が48枚になる、あるいは72枚になる。それがなんだと言うのだ。咲が槓をした時点で、勝負は決まる。

(……嫌な予感がする)

 ウインダム・コールと小鍛治健夜。どちらが咲に近いかと問われれば、間違いなく小鍛治健夜と答えられる。もしも、咲とドラゴンズ・アイの相性が良ければ、きっと、咲に急激な変化をもたらすかもしれない。照はその結果を恐れていた。

(おばあちゃん、あなただって認めていたはずだよ、咲は天才だって。……天才が天才の力を得たら、それはもう手がつけられない)

 咲との約束、共犯者としての罪悪感。それらのものが、照に勝ち続けることを強制していた。プラスマイナス・ゼロでさえ、破るのに1年を要した。これ以上強くなった咲に、果たして自分は勝てるのか? と、照は自問自答を繰り返すしかない。

 

 夕方になり、咲が家に戻ってきた。

「ただいま」

 そう言うなり、咲は照に抱きついた。まったく、来年は中学生だというのに、この癖だけは変わらない。照は注意しなければと思い、咲の肩に手をかける。

「咲、もう子供じゃないんだから――」

「おばあちゃんと、話した」

 咲の嬉しそうな声に、照は引き離すのをやめて、その手を背中に回した。

「……よかったね」

「一度だけ、笑ってくれたの!」

 咲が顔を上げる。実に幸せそうな顔をしている。こんな咲の顔を見るのは久しぶりだった。

「私も、おばあちゃんに会いたいな」

「いつか……」

 咲の表情が曇った。

 照は、咲がなにを言いたいか分かったような気がした。

「いつか二人で……おばあちゃんに会いにいこう」

 そういうことだ。今、咲と一緒にテレサに会うことはできない。それが可能になるのは、先の見えない未来の“いつか”でしかないのだ。

 

 その日の練習から、咲の打ち筋は、元のプラスマイナス・ゼロに戻っていた。ただし、それは微妙な違和感を覚えるものであった。それこそプログラムのように正確であった点数調整や、照の陽動への的確な対応に乱れが生じていた。そのため、プラスマイナス・ゼロの成功率は極端に低くなっていた。

 練習が終わってからの咲と愛の居残りトレーニングも継続されている。以前に比べて、11時前には終わっていたので、照はなりゆきを見守るだけにしている。

 

「咲、終わったの?」

 とはいうものの、照は、咲が部屋に戻るのを確認してからでなければ眠れなかった。時々、照は咲の様子を確かめることにしていた。

「お姉ちゃん、まだ起きてたの?」

 その日は少し遅くなっていた。時間は12時近くになっている。

「今日は遅いなと思って」

「ありがとう、お姉ちゃん」

 あの家出騒ぎ以来、咲は練習と普通の状態とをはっきり分けている。練習時は口数の少ない求道者(ぐどうしゃ)のようになり、それが終わると、いつものかわいい妹に戻る。意識の切り分けができない照とは大違いであった。

「大丈夫? 寝不足なんじゃないの?」

「お姉ちゃんだってそうでしょ? 私を待ってなくていいから、ゆっくり寝てよ」

 当然のようにばれていた。自分たちは、あらゆる嘘に対して敏感になるように育てられている。こんなことは、ばれないほうがおかしかった。

「咲……」

「平気だよ。あともう少しだから」

「……そう」

「うん」

 咲は、「おやすみ」と言って、自分の部屋に戻った。

 照は、自分が両手を強く握り、その掌には汗が(にじ)んでいることに気がついた。

 その両手を眺めながら、照は考える。

(あともう少し……。咲、なぜそんなに自分を犠牲にする? 私がそれほど価値のある人間だと思ってるの?)

 それは焦りであった。

(「咲に勝てるのか?」)

何度も繰り返している自問自答ではあるが、その答えはすでに出ている。

(「自分は咲に勝つしかない」)

 そして、照に問いを反復させている理由も分かりきっていた。

(「それは……できるのか?」)

 

 

  二学期も終わり、明日から冬休みが始まる。周囲は師走のあわただしさに奔走(ほんそう)していたが、宮永家の日常は変わらなかった。

 その日の咲の居残りトレーニングは、日が変わっても終わっていない。

(あともう少しって言ってたからね……)

 明日から長い休みになるので、ちょっと無理をしているのかなと照は思った。冬休みの解放感に気が緩んでいたのだろう。ベッドに横になると、照は、瞬く間に眠りに落ちてしまった。

 ――目が覚めると、時間はもう朝の8時になっていた。

(だれも起きていないの?)

 眠りが浅くなっている照は、ちょっとした物音でも目が覚めてしまう。それがここまで眠れたということは、まだだれも起きていないとしか思えない。

 照は不安になり、部屋着に着替えて一階に降りた。

 長野の冬は寒さが厳しい。断熱材の入った家ではあるが、それでも室温は0℃近くになる。

 トレーニング室のドアが開いていた。照が中を(のぞ)くと、愛が一人で雀卓に向かって座っていた。

「母さん、なにやってるの! 暖房もつけないで」

 照はドアを閉め、そばにあったエアコンのスイッチを入れる。暖気が出てくるまで時間がかかる。照はソファーの上にあったフリースを愛にかける。冷え切った室温と同様に、愛の体も冷たかった。

「照……今日の練習から、半荘2回だからね」

「なに言ってるの? まさか、今まで練習してたわけじゃないよね?」

「……」

 エアコンのウォームアップが終わり、暖かい風が吹き出し、照の顔に当たった。

「咲は?」

 室温が上がるにつれて、照の気持ちも落ち着いてきた。

「部屋で寝ているよ……」

「母さんは?」

「……少し、考え事をしていた」

 愛の顔色は、部屋の温度に反比例していた。その青さが際立っている。

「照……私は間違っていたかもしれない」

「なにをいまさら……」

「私は……怪物を作ってしまった」

「怪物? 母さん! 咲になにをしたの!」 

 自然と声が大きくなる。咲への無意味な干渉、これで2度目だ。今度は母親だって許さない。

「ヤマタノオロチ……あれは……小鍛治健夜も、ウインダム・コールも超えている」

「ヤマタノオロチ? どういう意味?」

「見れば分かるよ……照」

「……」

 照は母が疲れているのだなと思った。ただでさえ張り詰めていた神経が、徹夜同然の練習で疲弊しきっているのだろう。

「母さん、少し寝たほうがいい」

「……照」

 愛が移動しようとした照の服を掴んだ。

「なに?」

「必ず勝て……私が言えるのはそれしかない」

「勝てって……咲に?」

「いや……あれは、もう咲ではない」

「……」

「あれは別のものだ。〈オロチ〉だよ」

「〈オロチ〉……」

 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の話が出ていたので、愛の言った〈オロチ〉とは、そのことだろうと照は考えた。しかし、咲と八岐大蛇になんの関係があるのだろうか?

「〈オロチ〉ってなに?」

「説明するより見たほうが早い。おそらく今夜、あいつは現れる」

 言い様のない不安に襲われた。母親は、〈オロチ〉というものを、自分の娘ではないかのように言い放った。それが罪悪感によるものなのかは不明だが、明らかに彼女の表情には恐怖の色が浮かんでいた。

(母さんを恐怖させるほどのもの……〈オロチ〉とは……?)

 

 どうにも落ち着かなかった。照は部屋に戻り、宿題をすることにした。麻雀とは一切関わりのないことをして、不安を取り除こうとした。だが、数学の計算をしている時でも、漢字の書き取りをしている時でも、頭の中に一つの言葉がこびりついていた。

(〈オロチ〉って……なに?)

 ドアをノックする音が聞こえた。

「お姉ちゃん、お昼だよ」

 咲が呼びにきている。

 時計に目をやると12時を過ぎていた。ということは、照は現実逃避を3時間も続けていたことになる。

 ドアを開けると、いつもと変わらぬ咲が立っていた。

「お母さんは寝てるから、美津子おばあちゃんがきてるよ」

「咲は?」

「私? 私は良く寝たよ」

「……そう」

 キッチンに降りると、美津子が焼きそばを作ってくれていた。

「照はなにがいい?」

「なにがいいって、焼きそばだよ」

「そうじゃないよ、今日はクリスマス・イブなんだから、なにが欲しいって聞いたんだよ。界に買ってこさせるからね」

「そうか、今日はイブなんだ」

 隣で咲が、焼きそばを食べながら笑っている。それを見ていると、愛の言った言葉を忘れそうになる。

「咲は? 咲はなにを頼んだの?」

「本だよ」

「また本?」

「だめ? 本は面白いよ」

 少し不満そうに咲が言った。そう、忘れなければならない。咲がそうであるように、麻雀と日常は別のものだ。

「私はなにがいいかな……そうだ、リンゴパイが食べたいな」

「またお菓子?」

「だって、お菓子はおいしいよ」

「でも、クリスマスプレゼントでそれはないよ」

「咲」

 からかうように笑う咲に、少し怒って見せた。まあ、本気ではないことが知れているので、まるで効果がなかったが。 

「欲がないねえ、年に一回なんだから、もっと高いものだっていいのに。二人は本当にそれでいいのかい?」

 美津子が携帯電話を取り出して、照と咲に最後の確認をする。はっきり言えば、照には物欲がなかった。本当に欲しいものはある。だがそれは、お金で買えるものではなかった。自分たちはどこに行けばいいのかという答え。それこそが、照の心から欲するものであった。

 

 ――夜になり、父親の界が沢山の荷物を抱えながら帰ってきた。ケーキや七面鳥のロースト、照や咲へのプレゼントなどだ。スコットランド式のクリスマスは、日本とそれほど変わりはない。ただ、友人や恋人と祝うのではなく、家で家族と一緒に祝うのが定番であった。

「照、なんでリンゴパイなんだよ」

「だって高いし、めったに食べられないから」

「……まったく」

 きらびやかにラッピングされた箱を界から渡される。確かに、中身がリンゴパイだと思うと、少し可笑(おか)しく感じてしまい、笑いながらお礼を言った。

「ありがとう、お父さん」

 界は、続けてハードカバーの本を三冊取り出した。

「咲は絶対携帯電話を欲しがると思って、お父さん予約をしていたんだぞ」

「だから携帯はいらないって言ったでしょ。私はその本のほうが嬉しいよ」

「……」

 界は無言で本を差し出した。

「やった! ありがとう、お父さん」

 本当に嬉しそうに咲はそれを受け取った。まあ、娘が喜んでいるのだから、気分を悪くする父親などいない。自然と口角が上がっていった。

「それじゃあ、始めるか。愛は?」

「お母さんはキッチンでスタフィング(ミートローフ)を作ってるよ」

「ああ……あれか。まあ、イギリス料理だよな」

「そう? 私は母さんのスタフィングが好きだよ。咲は?」

「私もー」

 まずい立場になったと思ったのか、界は、照たちに買収工作を持ちかける。

「明日、別のものを買ってあげるから、内緒にしてくれると助かる」

「よかったね二人とも。(うち)にはサンタクロースが二回も来てくれるみたいだよ」

「……」

 良くない企ては、大抵はうまくいかないものだ。結局、界は愛に土下座することになった。

 

  ――界が買ってきたケーキを中心に、様々なご馳走(ちそう)が並べられている。愛が沢山のキャンドルライトに火をつけ、照明が消された。柔らかな炎の明かりが照たちを包み込む。

 宮永家のクリスマス・イブは、他の家のようにクラッカーを鳴らしたり、大声で「メリークリスマス」などと言ったりはしない。静かにゆっくりと家族だけで聖夜を過ごす。

 照は、その安らぎの時間が好きであった。

 しかし、今年はなにか落ち着かなかった。いや、その原因は分かっていた。ある疑問がクリスマスの神聖な力を弱めていた。

(〈オロチ〉とはなにか?)

 その疑問の答えを知る愛は、時計を見る動作が目立っていた。おそらく、練習を始める時間を気にしているのだろう。

 宮永家の麻雀トレーニングは、盆も正月も関係なく行われる。もちろんクリスマスだって同様だ。昨年の事故後の数週間と、照や咲が学校行事でやむを得ず家にいない場合以外は休んだことなどなかった。

 

 そして当然のように、照たちはトレーニングルームに移動し、雀卓を囲む。

 時刻は午後11時を過ぎていた。愛が言ったように半荘2回なら、日をまたいでしまう。

(どうして2回なのかな? それも〈オロチ〉と関係あるの?)

 照は、その理由を探った。思いついたのは、〈オロチ〉というものが出現するには、なんらかのトリガーが必要なのではないかということだ。だとするならば、この1回目はその仕込みだろう。

 照は注意深く妹を観察する。

 いつもと変わりがなかった。厳密に言えば、テレサと会ってからの咲と変わりがなかった。

(見えていない……一歩及ばないよ、咲)

 場は南三局まで進んでいる。咲はここで点数調整しなければ、修正困難な21000以下の点数になってしまう。平和を聴牌していたが、それは上がることができない。なぜならば、咲は照の下家だからだ。

 ダンテの定理によって、次の自摸で照の和了が確定していた。

(ラス親は母さんだ。親の連荘はありえない。それに立直をかける人間だっていない)

 照は自摸牌が当たり牌であることを確認してから表にした。

「ツモ、門前、南、ドラ3。2000,4000」

 これで咲の持ち点は20600点だ。だれかが立直しない限りプラスマイナス・ゼロは達成できない。

 咲が点棒を揃えて照に渡す。その顔は、感情が喪失されており、能面のように動かない。そして、彼女の目から光が消えていく。

 (あの悪夢が……現実に……)

 照はこの咲を見たことがあった。ただし、それは現実の世界ではない。プラスマイナス・ゼロの悪夢の中での表情であった。

 その悪夢の再現は、照の心の深層にある恐怖感を揺さぶった。

(なぜ……こんなことに?)

 恐怖に包まれた者の陥る感情。それは現実からの否定だ。なぜかなんて分かっている。自分が咲を追い詰めたからだ。照と咲は、互いに共存の道を選ばなかった。だから、いつかはこうなることは分かっていた。だが、妹を愛する照にとって、その現実は、決して受け入れられなかった。

「咲……どうした?」

 なにも知らぬ界が、怯えながら咲にたずねる。咲はそれが聞こえないかのように、オーラスが始まるのを待っている。

 聖夜とは思えぬ異様な空気が流れていた。紙に落とした墨のような咲の目が、照と愛に、言葉を発する許可を与えていなかった。大きく見開かれ、まったく動かぬ漆黒(しっこく)の目は、どの位置にいても見据えられていると感じてしまう。

 愛は、その目に操られるかのように配牌を開始する。

 

 ――恐ろしいまでの静寂さで局が進む。聞こえるのは牌がぶつかり合う音と、母と自分の不規則な息遣(いきづか)いだけだった。

「ロ……ロン」

 11巡目、なかば意図的に愛が界に振り込んだ。それは早くこの半荘を終わりにしたいという意思表示であった。

 時刻は11時40分、まもなく降誕日(こうたんび)になる。その聖なる日と、〈オロチ〉という何者かの誕生を同時にさせたくないという信仰心ゆえのものかもしれない。

「咲、すぐに始めるよ。いい?」

「いいよ、お母さん」

 それは、モノラルのスピーカーのような立体感のない声だった。一致する。あの悪夢の中の咲と完全に一致する。

(〈オロチ〉が生まれようとしている……)

 恐怖感が増幅され、巨大な波となって照に襲いかかった。その波圧(はあつ)に、照は目を細め、口を引き結んで耐えるしかなかった。

 

 ――前の半荘の最終親であった愛が仮東になり、サイコロボタンを押した。結果、愛が起家になり、あわただしく配牌を始めた。照も汗ばんだ手で牌を取る。咲は支配者のようにゆったりとした動作だ。界はおどおどした動きでそれに続いた。

 そして、照は最初の自摸牌を引いた時に、思わず声を出してしまった。

「なに……」

 自摸牌は【三萬】だが、見えるはずの“死にゆく牌”の【四萬】が見えなかった。咲の手牌には一枚もなく、愛もそうだった。界はPCの影響で見えにくいが、持っていないようだ。だとすると、考えられるのは二つしかない。【四萬】は残りすべてが王牌にあるか、咲に存在を消されたかだ。

(嶺上と同じか……何巡これが続く?)

 照はそう考えた。かつてない恐怖感がダンテの定理を狂わせた。決して突拍子(とっぴょうし)もない結論ではなかった。しかし、それは正しくはなかった。ダンテの定理は10巡を過ぎても復活していない。

(完全なダンテの定理殺し。私は、この咲と、照魔鏡だけで闘わなければならないの……)

 プラスマイナス・ゼロ攻略時は、少なくとも次の“死にゆく牌”だけは見えており、それと照魔鏡を組み合わせて、咲の帰納法推論(きのうほうすいろん)を機能不全にすることができた。その対抗手段の片方が〈オロチ〉により失われていた。

 その底知れぬ力で、これまで照を支えてきた対宮永咲のセオリーがすべて崩壊していた。

(なぜだ……なぜ和了しない……)

 14巡目。照の目には、咲の手牌がはっきりと映っていた。【発】の刻子があり、その他の条件も満たしている和了形であった。なのに、咲はそれを崩した。

「……ツモ」

 上がったのは、またもや父親の界であった。断公九ではあるが、ドラ牌の刻子があったので、8000点まで点数が伸びる。

(これは偶然なの……)

 界がドラを3枚持っていたのは知っていた。そのほかにも、愛には赤ドラが2枚、照にも1枚それはあった。その散りばめられたドラ牌に意味はあるのか? そう思い、照は、妹の咲を見る。

(咲……)

 咲は、微動だにしない目で、照に無言の答えを伝えた。

(「小鍛治健夜とはなんであるかを考えたらいい」)

 “ドラの支配者”。小鍛治健夜は畏怖(いふ)の念を込められてそう呼ばれていた。〈オロチ〉が健夜の模倣を発展させたものならば、このドラ牌は咲がばら()いたものだ。

 

 ――次の局は照の親番。配牌を行うと、またもや手牌にドラ牌が混入していた。これで、推測は確信に変わる。咲は、健夜の力である“ドラゴンズ・アイ”を手に入れたのだ。もしもそれが、これまでの咲の力にプラスアルファされるとしたら、無敵に近い状態になる。

「ロン」

 東二局は、愛の混一色、ドラ2和了で唐突に終わりを告げた。

 いや、唐突ではなかった。愛が聴牌しているのも、咲が当たり牌を持っているのも、照魔鏡で見えていた。だが、咲がそれに振り込むとは考えられなかった。

 愛が咲になにかを言おうとして、途中でやめていた。さながら、蛇に睨まれた(カエル)のように、凍りついている。

 照には母の感情が理解できていた。あの優しい咲が、まるで“魔王”のように変貌し、ドラによる支配をかけてくるのだ。言葉を失うのは、親ならば至極当然だ。

(圧倒されてはダメだ……私はこの咲を倒す義務がある)

 その母の姿を見て、照は必死に落着きを取り戻そうとした。

 

 ――東三局。その咲の親番に、ダンテの定理は突然復活した。

(なぜ? 咲が親だから?)

 結論を急いではならないが、この局だけに当てはまる条件は、咲が親だということしかない。だとすると、〈オロチ〉は親で弱体化すると仮定しても良いだろう。

 もはや勝ち負けは論外だった。母を恐れさせた〈オロチ〉というものが、なにができるかを見極める必要がある。

 9巡目、照は役牌の一向聴で、ドラも赤ドラを含めて2枚あった。対する咲は、刻子を二つ持っており、その内の【四萬】は、次巡で槓が可能であることがダンテの定理で判明していた。

 照の自摸番になり、引いてきた牌で聴牌した。しかも、その“死にゆく牌”によって、次の自摸での上りも約束されていた。

(咲は一向聴か……)

 咲との対局において、彼女が聴牌していないことは安心材料にはならなかった。ただし、それは既知(きち)の脅威であった。次々現れる新たな脅威は、照を恐怖させるには十分であった。

 しかし、そんな恐怖は、ほんの序の口にすぎない。これから宮永照は、真の恐怖を味わうことになる。

「カン」

 予測されていた暗槓だ。それが連続するかどうか? 照は、咲の動向を、固唾(かたず)を飲んで見守る。

 咲に即めくりされた槓ドラが、照に衝撃を与えた。

(なんだって……?)

 見えた牌は【七筒】だった。照の手牌には【八筒】が雀頭として存在していた。

(まさか……十枚のドラ牌をすべて支配できるの?)

 咲の連続槓はなかった。そのまま、嶺上牌を捨てて、局は継続した。

 疑念が疑念を呼び、照の思考回路は暴走気味になる。呼吸が早くなり、心拍数も上昇している。それに伴う発熱によって、額から汗が滲んでいた。

 照の自摸番だ。上りは分かっている。問題はその後だ。

「ツモ」

 照は、牌を倒して役が成立していることを面子に確認させた。だが、口から発せられた言葉は、点数宣言ではなく警告だった。

「咲! 母さん、お父さんも動かないで!」

 界が驚いたように照を見ている。それが普通の反応だろう。ただ、愛と咲は、それぞれ違う反応をしていた。

「咲、ドラを全部見ていい?」

 目ではなく顔を動かして、咲は照と視線を合わせた。無表情ではあるが、照の行為を()めるように咲は答えた。

「いいよ」

 愛が照を心配そうに見ている。『それは見てはいけないものだ』。そんなセリフが聞こえてくるようだった。

 照は、見えていない8枚のドラ牌を、すべて表にした。

「これは……」

 ありえなかった。照の手牌だけではなく、愛の手牌、界の手牌にも、咲の操る龍たちが侵入していた。まさに支配だった。この場は、暴れまわる龍たちに支配されていたのだ。

(でもなぜ……なぜ咲は上がらないの?) 

 愛が時計を見て(まぶた)をぴくぴくさせている。照も気になり、それを確認する。

 12時を過ぎており、降誕日となった。よりによってこんな日に、邪悪な咲の力が誕生しようとしていた。

 

 ――東四局、再びダンテの定理は封じられている。しかも、より強いなにかの力で配牌も操作されているように思えた。照にできることは一つだけだった。それは見届けることだ。なにが生まれるかを見届けるしかなかった。

 9巡目、咲がドラの【一筒】の刻子を持ち、聴牌した。

(まさか……)

 照は母親の例え話を思い出していた。あの時、愛は(うつ)ろな表情で『ヤマタノオロチ』と言った。八岐大蛇とはなにかと考える。それは一つの体に八本の首を持つ大蛇であった。西洋人には東洋の龍と蛇の区別がつきにくいと聞いたことがあった。愛が似たような勘違(かんちが)いをしているのならば、それは八本の首を持つ龍だったのではないか?

 だとすると、それは――

「カン」

 ――見たほうが早いと愛は言った。まさにそのとおりだった。

 〈オロチ〉は、照の前に、完全な姿となり、具現化(ぐげんか)した。

「ああ……」

 照のその声は、脳を経由して発せられたものではなかった。恐怖による条件反射に近いものであった。

 咲の目の前に(さら)された四枚の【一筒】は、追加でめくられた【九筒】によって、八匹の龍になった。その龍たちは、咲を守るように囲み、照に牙を剥いている。

(母さん……この咲を作ったのは……あなたではない)

 八匹の龍を従えた咲が、照を見据えて点数宣言をした。

「ツモ、嶺上開花、白、ドラ8。6000,12000」

(私だ……私が、咲を〈オロチ〉にした……)

 照は、なぜ咲がこれまで上がらなかったかを理解した。それは、あまりにも火力が高すぎるからだ。咲は手加減して和了を拒否していたのではない。自分が上がるための準備をしていただけだった。

「咲……」

 愛も〈オロチ〉の完全な姿を見るのは初めてなのであろう。恐慌に近い状態になり、娘の名前を呆然とつぶやいた。

 自分だってそうしたい。そうしたらどんなに楽かと思う。しかし、照にはそんなことは許されなかった。

(どうしたら……元に戻せる)

 この咲を作り出したのが自分ならば、元に戻せるのも自分しかいない。照は、そのことで頭がいっぱいになっていた。こんな咲は存在してはならない。照にとっての咲は、限りなくなく優しい自慢の妹だった。そして、たった一人の自分の理解者。

 すべての責任は自分にある。だとするならば、その責任の取り方を、絶対に見つけ出さなければならない。

(倒せばいいの? 咲……お前を倒したら……元に戻ってくれる?)

 それはプラスマイナス・ゼロの時とは比べ物にならない困難さだった。

 相手は、完ぺきに近い攻守能力を持つ〈オロチ〉なのだ。

 

 

 ――南場も同じことが繰り返され、半荘は8局で終了した。

 咲の目に光沢が戻り、声や表情も普通になっている。

「咲……お前は〈オロチ〉を覚えていないの?」

「……〈オロチ〉ってなに?」

 咲が不思議そうに首を(かし)げる。照が説明すると、恥ずかしそうに笑った。

「〈オロチ〉か……なんだかかっこいいね。全部覚えているよ」

「でも……対局中、咲は、ほとんど話さなかったよ」

「だって、あの状態の私は……恐怖の塊だからほとんどしゃべれないよ」

「恐怖の塊?」

「おばあちゃんが教えてくれた……負けるのが怖いのなら、それに抵抗しちゃダメだって」

「……」

 絶対に負けるなと言われて自分たちは育ってきた。特に咲は、その宮永家の掟を守ろうとする意志が強かった。その思いが、敗北への極端な拒絶反応となり、プラスマイナス・ゼロを生み出したのだ。しかし、咲は、更に一歩踏み出した。拒絶反応とは恐怖のことだ。その恐怖を受け入れ、自らの歯止めを外すことに成功した。だから〈オロチ〉にも歯止めが効いていない。天才である咲の力を、慈悲(じひ)も容赦もなく100%発揮可能だった。

 その狂暴な力を見せつけた咲は、今は元のかわいい妹に戻っている。以前からそうであったが、咲は練習と日常をはっきり分けられる。

(咲……どうしてそんなに割り切れるの?)

 照はそうなれなかった。愛が怪物と比喩した〈オロチ〉を作り出した罪悪感。それが照の心に焼き付けられていた。

 

 

 ――部屋に戻っても、照は眠れなかった。目を閉じると、あの咲の目が瞼に浮かんだ。いや、目を開けていても同じだった。いつまでも、どこまでも、あの目が照に付きまとう。

(どうやって勝てばいい……ダンテの定理も使えずに、あの強力な支配を、どうやって破ったらいい……)

 照は焦っていた。プラスマイナス・ゼロのように1年かけて攻略しようとは思えなかった。すぐにでも、明日にでも咲を元に戻したいと思った。ただ、考えれば考えるほど、その糸口は見つからなかった。

 ――いつの間にか眠っていた照にも、〈オロチ〉は容赦しなかった。

(「お姉ちゃん……私を倒さなければ“巨人”は倒せない」)

 咲があの表情で照に語りかける。

(「約束だよね? お姉ちゃん」)

「そうだ……約束だ」

 夢の質問に、照はリアルな声で答えた。

 そして、かつての悪夢と同様に、布団(ふとん)を剥がして飛び起きた。

「まだ……見えている」

 それは咲の目であった。あのブラックホールのような暗黒の目が、照には見えていた。

 

 

 ――年が明けて正月になった。松の内の最終日、宮永家は、テレサの別荘に新年の挨拶に向かっていた。車は2台で、1台目には界と咲が乗り、2台目には愛と照が乗っている。なぜ、こんなことをするかと言えば、照がテレサと話がしたいと願い出たからだ。その場に咲はいられない。そのため、帰宅の時間に大きな差ができてしまうので、2台の車で移動している。

 

 宮永照は、愛の運転する車の後部座席に座っていた。ミナモの事故以来、両親は助手席に娘が乗るのを嫌っており、よほどのことがない限りここに座らされる。

 車はかなり揺れていた。雪は降っていないものの、路面には所々に踏み固められた残雪があり、その段差で車が上下していた。

 揺れるルームミラーに映る愛の目が動いた。

「照、お前が責任を感じる必要はない」

「……」

「〈オロチ〉を作ったのは私だよ」

 照は、ミラー越しに愛と目を合わせた。

「……分かっちゃいない」

「なに?」

「母さんは……なにも分かっちゃいない」

「……」

「私との約束がなければ……咲は、〈オロチ〉にならなかった」

「約束?」

「私は咲に“巨人”を必ず倒すと約束した」

 それは単なる手段にすぎなかった。本当の約束とは、自分たちが大好きだった優しい母親に愛を戻すこと。それこそが、咲との約束だった。

 愛がルームミラーの視線を外した。

「咲は“巨人”を倒せないからねえ」

「3回勝負だから?」

 苦戦した小鍛治健夜との闘いを教訓にして、ウインダム・コールは頂上決戦の試合方式を変えていた。それまでの半荘2回で得点の高い者を勝者とするルールから、半荘3回でより上位にいた者を勝者とするものに変えていた。

「〈オロチ〉の特性を考えると、ウインダム・コールに勝てるのは2回目だけだよ」

「そうだね……」

 あのクリスマスの夜以降、〈オロチ〉は、照の前に四度現れた。発現の条件は実に分かりやすかった。咲のプラスマイナス・ゼロを阻止することであった。そして、〈オロチ〉の特性もはっきりしてきた。半荘は必ず8局で終わり、親での和了は、一切許されなかった。これまでのレッドサイドの力にドラゴンズ・アイの力も加算されているので、上り手はドラが絡むことが多く、高火力の点数のやり取りになった。咲が嶺上開花で上がる場合は、必ずと言ってもよいほどドラが8枚乗った。

 また、弱点らしきものも照は見つけていた。咲が親の場合、あからさまに手が遅くなる。なにかが見えていないのか、なにかの力が弱くなっているかは分からないが、照はその隙を突いて、一度だけ咲に直撃した。

 しかし、その報復として〈オロチ〉が行った非情な反撃が、照にテレサの助言を求めさせた。

(四槓子……咲、なぜ上がらない)

 麻雀の役で、最も出現率が低いものが四槓子だ(一説では1/43万)。その日の咲は、暗槓と加槓で三つの槓子を晒していた。

 相手の牌が見えることの残酷さを照は思い知らされた。咲の手牌には、確かに四つ目の槓子が存在していた。だが、咲はそれを崩した。

(「なぜ上がらない!」)

 対局中にも関わらず、照は大声で叫んだ。

(「四槓子は上がれない」)

 冷徹に咲は答えた。そして次巡、咲は三槓子で和了した。

 この時、照は、敗北というものを意識した。かろうじて拒絶したが、そこから先は虚脱状態(きょだつじょうたい)になり、牌を自模って捨てるだけの作業麻雀になってしまった。

 練習が終わってから、照は咲に、自分もテレサ・アークダンテに会っても良いかと聞いた。普通の妹に戻った咲は、笑顔で良いと答えた。

(「私は咲の秘密を聞くかもしれないよ、それでもいいの?」)

(「いいに決まってるよ……お姉ちゃん」)

 自分はウインダム・コールに近いレベルまで能力を高めた。だから、それを踏み台にしろ。それが、照との約束への咲の回答であった。

 その自己犠牲に照は苦悩していた。〈オロチ〉を倒せたら“巨人”だって倒せる。それはそうかもしれない。だからといって、愛する妹が〈オロチ〉という魔物に束縛(そくばく)されるのは許容できなかった。

 照は自分の弱さを呪った。もっと強ければ、自分がもっと強ければ、こんなことにはならなかったはずだ。

(終わらせるには……倒すしかない)

 宮永照は、気がつかないうちに、母親と同じ道を歩んでいた。近視眼的(きんしがんてき)になり、()りつかれたように一つの答えだけを追いかけていた。

(どうしたら〈オロチ〉を倒せる?)

 

 

 初めて訪れるテレサの別荘は、北欧風のログハウスであった。その内部には暖炉が設置されており、大きなテーブルや壁はチーク素材で統一されていた。暖かみを感じる落ち着いた空間だなと照は思った。

 娘や孫たちを迎えるコウスケ・アークダンテは、相変わらずのニコニコ顔だ。

「テレサは調子が悪い。奥の部屋にいて出てこないけれど気にしないでくれ。みんなが来たことは、わしが必ず伝えるよ」

 咲が少し寂しそうにしていた。少しだけでもいいから話をしたいと、家で言っていた。

 ――2時間ほど、家族でコウスケと談笑し、帰り際に、照たちはお年玉をもらった。テレサとコウスケの二人分で、中には結構な金額が入っていた。

「愛と界に渡したら駄目だぞ。貯金なんて嘘っぱちだからな。二人で思う存分使い切ってくれ」

 コウスケの忠告に、両親は苦笑いしている。

「咲の部屋が本だらけになりそう」

 照も楽しくなり、咲に冗談を言った。

「お姉ちゃんだって、お菓子の食べ過ぎで体重が増えるんだからね」

「……」

 なかなか厳しい反撃であった。冬休みは体重管理が難しく、実際に2kgほど増えていた。

「……貯金でもいいかな」

 咲が笑っている。コウスケも両親もだ。ただ、楽しい時間はここまでだった。咲と界は帰途につき、照と愛だけが別荘に残った。

「照……一人であの部屋に入りなさい。テレサが待っている」

 コウスケが居間の奥にあるドアを指差す。怖くはないが、少し厳しい表情だった。

 照は母親に振り返る。愛は、『いいよ』と言うようにうなずいた。

 ドアの前に立ち、ノックする。

「おばあちゃん、入るよ」

 返事がなかったが、照は、ドアを開けて中に入った。

 8畳ほどの部屋の中央に、マホガニー製のアンティークな椅子が置いてあり、テレサはそこに座っていた。同じ素材のテーブル上にあるノートパソコンをいじっていた。周囲の調度品(ちょうどひん)に対して、パソコンのミスマッチングさが際立っていた。

 テレサは厚めの化粧をしており、室内にも関わらずニット帽を被っていた。火傷の治癒(ちゆ)が完全ではないのだ。

「おばあちゃん……久しぶりだね」

 立ったままの照に、テレサはPCから目を動かし、近くにあった椅子を指差した。

 照は、その椅子を動かして、テレサの近くに座った。

「母さんから聞いてると思うけど――」

 照は咲に発現した〈オロチ〉の説明をした。コウスケから日本語でも大丈夫だと聞いていたので、日本語で話していたが、テレサはPCに目を向けたままで、聞いている素振りがなかった。

 ところが、ある一つのキーワードがテレサの興味を()きつけた。

「四槓子を拒否した?」

 一年ぶりに聞くテレサの声に、照は涙が出そうになっていた。

 しかし、テレサはお構いなしに、矢継ぎ早の質問をしてくる。

 その答えを聞き、テレサは笑った。ただし、それは、照たちが愛した優しい祖母の笑顔ではなかった。鉱山を掘り当てた山師(やまし)のような、欲望溢れる笑顔だった。

「なにか意味があるの?」

「あるよ」

 テレサは、PCを閉じて、照と向かい合う。

「ウインダム・コールには謎がある。照、それはなんだと思う」

「……彼がなにを目指しているか?」

「いいぞ、照、さすがは私が見込んだ孫だ」

「……」

「なんのために河を読むのか? 逆に言えば、河を読んでなにを作ろうとしているのか? それが分からないから、だれもウインダム・コールには勝てない」

「咲は、それがプラスマイナス・ゼロだった」

「四槓子の出現確率は数値化できない。数十万分の一とも、兆を超えるとも言われている。咲はそれを最終到達点に決めたんだよ」

「お……おばあちゃんが……それを?」

「もちろん」

 言葉が出なかった。四槓子を上がるために咲は河を読んでいる。そんな、ばかげたことは信じられなかった。それに、その理由だと〈オロチ〉の説明がつかない。

「言いたいことは分かる。ここからは少し抽象的な話になるよ。いいかい、照?」

 隙のない会話が戻っている。テレサ・アークダンテは復活しつつあると照は思った。

「小鍛治健夜の龍は、なぜ目を持っていると思う?」

「さあ……分かんない」

「仲間を探すためさ。彼女の操る龍は、仲間を探すために目を持っている」

「……」

 本当に抽象的な話だと思った。なにかを擬人化したり、無機物を生き物のように例えたりすることはあるが、大抵のものは意味がない。

 反応が鈍い照に、テレサは不満の表情を浮かべた。

「彼女の龍は、永遠に仲間を見つけられない。それが、ドラゴンズ・アイの条件だよ」

「!」

 頭をハンマーで殴られたような衝撃が走った。なるほど、それなら理解できる。〈オロチ〉とはなにかを理解できる。

「永遠に……未完ってこと?」

「咲の操る八匹の龍も……残りの二匹を見つけられない」

「だから……四槓子を外した……」

「未完であることが〈オロチ〉の条件。おそらく、ウインダム・コールも未完の状態を続けているはずだよ。なにかは分からないけど」

「……」

 それを咲に指示したとテレサは言った。満足そうに笑うテレサに、母親と同じ狂気を感じた。そしてそれは、間違いなく自分にも伝染している。

 別れ際に、照は、咲を元に戻せるかをテレサに聞いた。

 テレサは、棚に置いてあった瀬戸物(せともの)の人形を指差し、シンプルな答えを告げた。

「その人形を割ってしまったら、元どおりには復元できない」

(そうだね……〈オロチ〉を倒すということは、人形を割ってしまうということ。その破片を一つ残らず集めても、元には戻せない)

 とはいえ、宮永照は後戻りできなかった。絶望する結果と分かっていても、それが正しいことと信じて進むしかなかった。

 もちろんそれには苦痛が伴う。それは昼も夜も区別なく照に襲いかかる。

 

 

 それから2か月間。照は神経衰弱になるほど悩み苦しみ〈オロチ〉を倒す手法を探った。だが、〈オロチ〉は、照の攻略最大のツールであるダンテの定理を奪っていた。8局の内、2局のみ限定復活するが、あまりにも手数が少なすぎる。

 〈オロチ〉は、あざ笑うかのように、照の(こころ)みを踏み潰していった。

 照は、日常とトレーニングの区別がつかなくなっていた。自然と咲との会話も少なくなり、急に話しかけられると、怯えてしまうこともあった。

 

 ――三月の中旬、咲は、その日が小学校の卒業式だった。

「お姉ちゃん、定期券って携帯?」

「うん」

「じゃあ、私も携帯買ってもらおうかな」

「……」

 四月からは、咲と一緒に中学校に通学する。咲はそれを嬉しそうに話してくれるが、照は逆に苦痛だった。

 こんな風に育てられた自分たちだ。照は咲のことが、咲は照のことが手に取るように分る。咲は、あえて、普通に接してくれる。現実と虚構の見境(みさかい)がなくなった自分に、いつもと同じように接してくれる。しかし、照には、その咲の優しさが苦痛だったのだ。

(ごめんね……)

 心では感謝している。それどころか、照は咲を愛していたと言える。だが、もっと深い部分では、憎んでいるのではないかと思えてしまう。愛情と憎悪は、根本が同じだと聞いたことがあった。照は、自分の咲に対する憎悪の感情が制御できなくなることを恐れた。 

(ごめんね……私が弱いから……)

 だから、照は、心の中で謝り続けた。そうしている限り、咲への憎悪を隠せる。

 咲は一足早く春休みに入った。照が帰宅すると、必ず笑顔で「お帰り」と言ってくれる。

(話したい……以前のように……咲と話したい)

 照は、目を閉じて「うん」とだけ言って、自分の部屋に(こも)った。もう、自分は咲と普通に話せないだろう。もしも話したら、自分の口から出るのは、咲を傷つける言葉ばかりになる。それを抑える方法は〈オロチ〉を倒すしかない。

(ごめんね、咲……もうちょっとだけ……お姉ちゃんに時間を頂戴(ちょうだい)) 

 もうちょっととは、いつまでなのか? それは照にも分からなかった。

 

 そして3月26日。綱渡り的に平常を維持していた宮永照の精神は、その日、崩壊した。

 照魔鏡を最大限に活用し、照は、疑似的な順子場を作り上げることに成功した。〈オロチ〉は、それを興味深そうに観察していたが、邪悪な笑いと共に、それを悪しきものとして評価した。

「ああ……」

 照の愛する宮永咲が、邪悪な笑いを浮かべている。

「カン」 

(やめろ! もう、やめてくれ!)

「カン」

(お前はだれだ!? お前は咲じゃない!)

「もう一個カン」

 その三連続槓で、咲の持つドラが16枚に増えた時、宮永照は(おのれ)の敗北を認めた。

(私が……この怪物を作った……もう、だれにも止められない)

 自分の心が崩れるのが分かった。

 照はその場にうずくまり、頭を抱えて泣いていた。

(私の……私のせいだ……ごめんね、ごめんね咲)

 

 

 気がつくと、照は自分の部屋で寝ていた。

 目を動かすと、母親の愛が、そばに座っていた。

「母さん……」

「照、気がついた?」

「うん」

「照――」

「母さん。東京の家ってどうなってるの?」

 なにか言おうとする愛を(さえぎ)る。自分に残された最後の選択を告げなければならない。

「空き部屋になってるよ。月一回、業者に清掃してもらってる」

「引っ越ししてもいい? どうせ来年引っ越す予定だったんでしょ?」

「照……」

「負けたんだよ……私は、咲に負けた。もう、どうにもできない」

「咲と離れたいってこと?」

「違うよ……もう、壁ができてしまった。だから、私は、咲とは一緒にいられない」

 敗北者が自己防衛で作ってしまう壁。照はそれを咲に対して作ってしまった。壊すことなんてできない。それは、一生、照に付きまとうだろう。

「いつ?」

「明日」

「明日は無理だね。土曜日でいい?」

「いいよ」

 

 

 それから転居の日までの3日間。照はほとんど部屋に引きこもっていた。もちろん、学校も休み、トレーニングも休んでいた。家族には、引っ越しの件が伝えられ、照と愛が東京に、咲と界が長野に残る別居生活をすることになった。

 動揺した咲が、何度も照の部屋をノックする。出ることはできない。いや、自分は咲に会う資格がない。そう考えると、照は、なにも反応できなくなっていた。ただ耳を(ふさ)ぎ、咲が諦めて部屋に戻るのを待っていた。

 引っ越し前日の金曜日。その日の夜も、咲はやってきた。

「お姉ちゃん……開けて」

 三度ほど同じことを繰り返して、照がドアを決して開けないと分かったのだろう。咲はドア越しに話を始めた。

「おばあちゃんが、イギリスに帰るんだって……もう会えなくなるんだよ」

 その話は愛から聞いていた。テレサ・アークダンテの野望も、照の自滅によって崩壊していた。かなり錯乱(さくらん)していたとも聞いていた。

「ごめんね……きっと、私のせいだよね……」

(違う……咲のせいじゃない……全部、全部私のせい)

 なぜ声に出して言えないのだろう。心からそう思う。咲が悪いわけがない。そう、悪いのは自分だ。ダンテの定理の呪いに負けた自分なのだ。

「私……お姉ちゃんと離れたくない……」

 咲が泣いている。

 そのあまりの悲しさに照も心の中で泣いていた。だが、目には涙が一粒も浮かばなかった。ダンテの定理の呪いは、照から涙さえも奪っていた。

 ――長い時間、咲はドアの向こうで泣いていた。そして、咲は部屋に戻って行った。

(咲……約束を守れなくてごめんね……)

 心の中でそうつぶやくと、ダンテの定理の呪いが解けた。照の目から、延々と涙が溢れ続けた。

(私だって……咲と離れたくない)

 

 

 最終ラウンド対局室

 

 プロ雀士の戒能良子が、東家に座っている神代小蒔を覗き込んでいた。

 小蒔は瞬きをまったくせずに、雀卓を眺めている。良子は脈を調べたり、眼球の瞳孔の動きを見たりして、小蒔の状態を、同行してきた三尋木咏に伝える。

「完全なトランス状態です。ある意味正常な神代選手と言えるでしょう」

「ふん、確かにこれまでも姫様はこんな感じだったからねぇ」

 良子が宮永咲を睨んでいる。それは、当主を敗北させた咲への憎しみの感情だろう。

「戒能ちゃん、そこまでだよ。それで、姫様は試合を続けられるのかい?」

「Yes」

 咏が福路美穂子、宮永咲、宮永照の順番で目を合わせる。試合再開するが準備は良いかと確認している。

「10分後だよぉ。各自座って待機するように」

 咏は背を向けて階段を降りていく。良子はチラリと咲を見てから、監視員に詳細を説明している。

 最終ラウンドの再開が決定された。あとは時間がくるのを待つだけだ。

 

 

 宮永照は、妹を睨み続けている。

(「宮永咲でお姉ちゃんに勝つ!」)

 そんな嘘をつく咲が許せなかったのだ。

(咲、私にそんな嘘が通じるわけがないでしょう。お前がなにを考えているか、分からないと思ってるの?)

 光沢のある大きな目、それは、照の知っている最愛の妹の目だ。だが、その目は、嘘によって影ができていた。

(私は……お前のお姉ちゃんなんだよ)

 嘘がばれたと悟ったのか、咲は視線を神代小蒔に向ける。

(お前は、私に負けようとしている。そして、再び〈オロチ〉を発現させて共存しようとしている)

 照は目を閉じる。

(そんなことできるわけがない。それに……そんなことはさせられない)

 目を開けると、また、咲と目が合った。照は少しだけ表情を緩める。

(午前中、お前の選んだ原村さんと会った。彼女からね、ハッとするようなことを言われたよ)

 一番良い終わり方とはなにか? それが原村和から言われたことだ。その時の答えが、宮永照の信念となっていた。

(咲……私たちはいつ間違ってしまったんだろうね? もう、やり直しなんてできないよ。だから、私と一緒に消滅しよう。それが……一番良い終わり方だ)

 ――係員が近づいてくる。東二局、福路美穂子の親スタートになるので、彼女の隣で腕時計を見ている。

 そして、手を挙げて宣言した。

「最終ラウンド、再開します!」

 

 

2.旅の目的地

 

 

 試合会場 決勝ラウンド南口

 

 

 神代小蒔を守るべき六女仙も、現在動ける者は石戸霞と狩宿巴のたった二人だけになってしまった。神境に残っている中学生の二人はさておき、小蒔のサポートのためにここにきていた四人の内、薄墨初美は小蒔の“オモイカネ”発動の陽動役として禁忌(きんき)の技である“ボゼの目”を使い、宮永咲に(にえ)として喰われていた。滝見春は“オモイカネ”が最大効果を発揮できるように“操作”を連続して実行し、体力を消耗して行動不能になっていた。

(小蒔ちゃんは再起不能になるかもしれない……)

 霞は、巴と共に、南口の前で(たたず)んでいた。小蒔をリタイアさせるために試合会場に向かっていたが、途中で戒能良子と出くわし、ここで待機するように言われていた。

 良子は、一族の掟を破り神境から追放された人間だ。とはいえ、霞は、良子の一族への想いを知っている。

(『姫様の様子を見てくるから待っていろ』)

 良子は一呼吸置けと言っていた。このままだと、霞が感情的に行動しそうだと判断したのだろう。

 「霞さん、戒能さんですよ」

 予想外の方向から良子が現れた。多分、三尋木咏から自分たちを隠すために別の出入口を使ったのだ。

「戒能さん」

「姫様は、なんとか持つと思う。ただ、“オモイカネ”は……」

 良子らしからぬ歯切れの悪い言いかただ。“オモイカネ”は本家の最高秘術であり、霞たち分家の者には分からないことが多かった。

「そうですね」

 ヤキモキしている霞を落ち着かせるように、普段笑うことの少ない良子が笑顔を向ける。

「霞……私には夢がある。その夢には、姫様もお前たちも必要だ」

 まったく意味不明ではあるが、なぜかその言葉は、霞の気持ちを和らげた。

「夢……ですか?」

 その問いへの回答はなかった。良子は、ただ頷くだけだった。

「私は、姫様を信じている。必ず復活できるよ」

「……」

 今の神代小蒔は、依り代(よりしろ)として神が降りている状態ではなかった。むしろその逆で、降りてきた神が行き場を失い、小蒔の心体を奪っている状態なのだ。しかも、最強と呼ばれる“オモイカネ”を降ろして目的が成就(じょうじゅ)されなかった。その懲罰は、どれほどの時間を要するのかは見当もつかない。

 確かに、良子の言ったように、いずれ小蒔は復活するかもしれない。だが、それは1年先なのか3年先なのかは分からない。覚悟していたとはいえ、あまりにも非情な仕打ちだった。神境に仕える者にとって、この高校時代は宝物のような貴重な時間だ。神代小蒔は、それを失うことになる。

「良子……お姉ちゃん?」

 その声の方向に振り向くと、巫女服を着た滝見春が立っていた。

「はるる、大丈夫なの?」

 狩宿巴が心配そうに寄り添う。あれほど疲労していた春がこの場所にいるのが信じられない様子だ。

「結構寝たから……楽になった」

 春の声には力があり、顔にも赤みが戻っていた。

「お姉ちゃん、姫様は?」

「向こうに行ってしまった……しばらくは戻ってこられない」

「ちがうよ、まだ少しだけ……姫様はここにいるよ」

「春、それはないよ。私は、姫様に直接触れて直霊(なおひ)を確認したけど……」

「姫様の体の中じゃないよ」

「……」

 良子が絶句している。きっと答えを察していた。

 小蒔の直霊が他の場所に在るとするならば、答えは一つだけだ。

「咲ちゃんの体の中に……少しだけ姫様は留まっている」

 霞は、仮眠室での小蒔の動向を思い返していた。そうだ、あの時から、小蒔は決意していたのだ。宮永咲と融合し、その悲しみを知ってしまった小蒔は、もう一人の自分を救済することを決めていた。

(小蒔ちゃん……あなた、咲ちゃんを救うために……わざと負けたのね)

 戒能良子がブルブルと震えている。おそらく、霞と同じ結論に至ったのだ。

「霞……一度待機室に戻れ。試合が終わったらみんなで姫様のケアをしよう」

「……はい」

 

 

 最終ラウンド対局室

 

(咲ちゃんが元に戻っている)

 試合が再開され、福路美穂子は改めて面子の観察を行った。

 下家の宮永咲からは、邪悪なオーラが消えていた。それは、彼女から聞いた〈オロチ〉の話と一致する。〈オロチ〉を鎮めるには、発現させた相手を敗北させなければならない。団体戦ならばネリー・ヴィルサラーゼ、この個人戦では神代小蒔がその対象だ。元に戻った咲は、光沢のある大きな目で、姉の宮永照を見ている。

 その照も、妹を見ていた。ただ、彼女の目からは咲への対抗心は感じられず、まるで絵や彫刻を眺める芸術家の眼差(まなざ)しであった。

 そして神代小蒔。彼女はすでに咲に敗北しているはずだった。にもかかわらず、試合を続行しようとしていた。

(優希ちゃんからの助言どおり……この状態の神代さんには注意が必要ね)

 美穂子の知人で、唯一小蒔と対戦経験がある片岡優希から忠告を受けていた。彼女が言うには『魂が抜け落ちたようになった小蒔には気をつけろ』とのことだった。今、小蒔はその状態に見える。〈オロチ〉の咲以上にハイライトが消えた目、そして宮永照以上に動かぬ目。無駄な動きが削げ落とされた動作。まさに神が憑依(ひょうい)しているようだ。

(どんな意味があるの? 神代さんはなにをしようとしているの?)

 

 ――試合再開が宣言され、東二局の親である美穂子はサイコロのボタンを押した。

 一と四の五だったので、目の前の山から配牌を始める。咲がそれに続き、対面の照がゆっくりと牌を4枚抜いていった。小蒔は顔を正面に向けたまま、腕だけを動かして牌を取った。見なくてもその位置が分かっているような動作だ。

 美穂子は焦っていた。三人が三人共なにを考えているかが分からなかった。無論、膨大な得点差があるので、勝とうなどとは思っていなかった。しかし、だれもが認める怪物たちと対等に闘うためには、詳細な情報収集が重要だった。

(時間がない……照さんにはもう目のデータを取られた。咲ちゃんは私の打ち筋をよく知っている。神代さんは……予測の範囲外にいる)

 美穂子が最も恐れたのは宮永姉妹が本気の殴り合いを始めてしまうことだ。もしそうなったら、自分はただの傍観者になってしまう。来年の風越女子高校のためにも、宮永咲のデータが必要だ。姉の後を継いで全高校生共通のラスボスとなる咲は、風越にとって避けて通れない危険因子(きけんいんし)なのだ。ネリー・ヴィルサラーゼのように、彼女の弱点を掴まなければ、風越は長野から出られない。

 配牌が終わった。悪くない手牌であった。高めは狙えそうにはないが、平和ならば二向聴で、照が連続和了を開始しなければ先行できるかも、と思った。ここは連荘をして、少しでも長く咲を観察したかった。

 その咲は、長野県予選とよく似た動きだった。オーソドックスな眼球移動、基本に忠実な牌の出し入れで、比較的手牌を読むのは楽であった。ただし、彼女の恐ろしさは、その手牌が、常人の理解の外にあることだ。発生確率300分の1以下の嶺上開花。そんな役を軸にした打ち筋は、もう一人の長野の怪物天江衣をも敗北させていた。

(染谷さんなら、咲ちゃんは大将のまま……)

 来年、清澄高校は染谷まこを部長とした体制に切り替わるはずだ。堅実な保守派。美穂子はまこをそう評価していた。悪い意味ではない。成功を収めた事例があるからには、それを踏襲(とうしゅう)するのは理にかなっている。しかしながら、それは清澄攻略の手がかりともなる。

 もしも――

 美穂子は目を閉じで心をリセットする。

(私の考えることじゃないわね……それは華菜が、久保さんが考えること。私は、この対局に集中しなきゃ)

 東二局は8巡目に差しかかっていた。照が連続和了する気ならば、もう上がられていても不思議ではない。

(相変わらず目が動かない。こんなに点差があっても私を警戒している。なぜだろう?)

 2度の対局で見せた彼女の勝利への執念。それは、妹を〈オロチ〉から解放したいという執念なのだなと思っていた。それほど望んでいた姉妹対決ならば、美穂子の存在など無視できるはずだ。

(咲ちゃんが〈オロチ〉じゃないから? そういえば、さっき照さんは激怒していた……咲ちゃんはなんて言っていたのかな?)

 神代小蒔が敗北し、〈オロチ〉の呪縛(じゅばく)が切れた時に、咲は照になにかを言っていた。美穂子はそれがよく聞き取れなかった。だが、その後の照の怒りから察するに、きっと姉妹のデリケートな問題なのだろう。

 ――神代小蒔は上りを放棄しているようであった。彼女の自摸牌は、時折手牌の中に入ったりもするが、それは役を作ると言うよりは、熟練者が危険牌を一時保留する行動と類似していた。ただ、彼女がそれを行うのは、この局だけなのか、全局なのかはまったく不明だ。

 9巡目。美穂子は一向聴から手が進まなかった。咲が聴牌しているのは確実だ。そして照も、捨て牌からの推測で聴牌が濃厚だった。

(咲ちゃん……)

 咲が自模牌をそのまま河に捨てた。その目の動き、手の動きから、咲が和了を放棄したのが分かった。高めを上がれないのなら、局が進まないほうか良いと判断したのかもしれない。そうなると、彼女は宮永照が上がらないと判断したのだ。

(どうして? この姉妹の動きにはどういう意味があるの?)

 10巡目。美穂子はようやく聴牌できた。平和のみだが、待ち牌も良好で、上がれば親も継続する。自模で2100点と安めではあるが、サンプル数を増やすという目的とは合致(がっち)する。

 しかし、得体の知れないノイズが、美穂子の行動パターンを狂わせる。

「リーチ」

 それは普段の美穂子らしくない行為であった。

 宮永姉妹と神代小蒔が絶対に上がらないと保証されているわけはでない。ここは確実にダマ上りで連荘したほうが良いに決まっている。だが、美穂子は、自分に発生しているノイズが気になって仕方がなかった。それを消すためには、発生源を見極めるしかない。

 美穂子はこう考えた。

(未知なるもの……通常の私では、それは突き止められない)

 

 

 試合会場 医務室

 

 咲との闘いで精神力が枯渇してしまった原村和は、ベッドに横たわって泥のように眠っている。その細い腕から点滴のチューブが伸びており、スタンドに吊り下げられた輸液(ゆえき)と繋がっていた。ここに運ばれた時は真っ白だった和の顔が、若干血の気が戻り、回復の兆しが見えていた。

 竹井久と片岡優希は、ベッドのそばで和を見守っている。

「顔色が良くなった。もう大丈夫よ」

 担当の女性医師から10インチのタブレットが久たちに渡された。小さな音なら決勝ラウンドを見ても良いとのことだった。

 久と優希は、くっつくようにしてタブレットの電源を入れた。

 試合が再開されており、四人全員が聴牌していた。ただし、立直しているのは福路美穂子だけだった。

「美穂子……」

 画面に映し出される美穂子の姿に、久は判然としない不安を覚える。

「照姉ちゃん……上がりを拒否したじぇ」

「咲と神代さんの河も見て……」

「部長……この三人はなにをやってるのだ?」

「……」

 咲と小蒔の河にも、和了牌であったと思われる牌が捨てられていた。無論、洞察力の鋭い美穂子ならば、それは周知のことだろう。

「ごめん優希……さっぱり分からないわ」

 ――東二局14巡目。福路美穂子が自摸和了した。立直平和に裏ドラが1枚乗り、7800点まで点数が伸びた。

「この照姉ちゃんと巫女さんはやばいじぇ……」

 優希が怯えるように言った。彼女は四人全員と対戦したことがあるのだ。当事者にしか分からない場の雰囲気も、すでに経験済みだ。

「優希……宮永照はなにをしようとしているの?」

「照姉ちゃんは袋小路に追い込もうとしている。私の時は、味方がいたけど、今、福路さんは独りぼっちだじぇ」

「……」

 自分は清澄高校麻雀部部長なのだ、チームメイトである宮永咲の優勝こそが決勝ラウンドのベストな終わりかただ。しかし、立場上許されることではないが、今の久の心は、親友である美穂子のことが最優先になっていた。

「優希、久保さんに会ってきたいんだけど、和を()ていてくれる?」

「部長……」

「そうね、試合中はなにもできない。それは分かっているけど、確認をしておきたいの。久保さんや華菜ちゃんがこの展開をどう見ているか」

「……分かったじぇ」

 久は、女医に『すぐに戻りますから』と言って廊下に出た。

 そして、全速力で走り出す。

(美穂、それは悪魔の誘惑よ、あなたは試されている……石はパンに変わらないし、敗北を受け入れてもなにも得られない。自分を見失ってはダメ)

 

 

 個人戦総合待機室 風越女子高校

 

「竹井か……原村はもういいのか?」

 竹井久から声をかけられ、久保貴子は強面(こわもて)に返事をした。

「だいぶ回復しています。それよりも美穂子が――」

「池田、吉留。移動するぞ」

 強豪校の周囲には、情報収集を目論(もくろ)む人間が必ず存在している。貴子はそれを嫌って、場所替えを部員に指示した。

「ちょうど良かった。お前の意見も聞きたかった」

「……ええ」

 

 移動した場所は、最後列の立ち見エリアだった。見通しが良いので、不審者が近づいてもすぐに対応可能だ。

「つくづく考える」

 仁王立ちという言葉がしっくりくる貴子の出で立ちだった。腕組みをして軽く足を開き、どっしりと構えている。そして、その(まなこ)は部員が闘っているスクリーンを睨みつけていた。

「どうやったら……こんな悪魔を作れるのか? 竹井、お前には分るか?」

「……いいえ」

「たった2戦しただけで、宮永照は、福路の欠点を掴んでしまった。きっと、咲もそうだろうな」

「……そうですね」

 池田華菜と吉留末春も心配そうに画面を眺めている。

 久は安心していた。多分、この試合で、美穂子はボロボロにされるはずだ。だが、美穂子には、彼女を理解してくれる仲間がいる。きっと立ち直れる。それは間違いない。

「最善と最良……どういうことか分かるか?」

「美穂子と宮永姉妹のことですね」

「そうだ。福路は最善の選択を積み重ねることで強敵を打倒してきた。ある意味、咲や天江に近い天才肌だ。ただな、福路はフリーハンドを与えられると、池田にも負けてしまう存在になる」

「昨日と今日の宮永照戦もそうでした」

「お前は福路と二度闘って二度とも勝っている。あいつの弱点はなんだ?」

「美穂子の選択は常に最善。だから……未来形が容易に読めるのよ」

 そうだといわんばかりに、貴子は深く頷いた。

「特定の範囲内でのベストな選択。それが最善だろう。しかし、それは結果が伴わなくてもいい。福路の心の拠り所(よりどころ)はそこにある」

「……」

 貴子が顔を久に向ける。その表情は、荒々し姿や声に似合わぬ穏やかなものだった。

「咲の……宮永姉妹の選択には結果がついてくる。信じられない手段や方法でも、結果的にそれが最良のものになる」

「久保さん……美穂子は……」

「案ずるな。福路は自分のことをよく知っている」

「……」

「さすがだな、竹井。要はそういうことだ」

「欲望ですか?」

「そうだ。それこそが、福路にとって、未知のものだ」

 

 

 インターハイ運営事務所

 

 戒能良子が運営事務所に戻ってみると、そこは怪獣が通り過ぎたような有様(ありさま)になっていた。テーブルはひっくり返され、置かれていた菓子類はあちこちに飛び散っていた。

 どうしてこんなことになったのかは想像できる。良子は、まず大会委員長と顔を合わせた。

「毎度のことですから……三尋木プロにはきちんと弁償してもらいます」

 と、委員長は涼しい顔をしている。まあ、なんだかんだで、この二人はいいコンビなのだなと思った。

「戒能ちゃん……あんたの気持ちが分かったよ」

「私は実行しませんでしたが?」

 神代小蒔が敗北した時、良子は怒りに身を任せて、テーブルを叩き壊そうとした。三尋木咏が言った気持ちとはそのことだろう。

「私はあんたより直情的(ちょくじょうてき)だからね。知ってるとは思うけど」

「Of course(もちろん)」

 咏は立ったままTV画面を見つめている。

「宮永愛め……なんてことをしやがる」

「アイ・アークダンテですか? 宮永照ではなくて?」

「こんな化物を作れるのはあいつしかいないよ!」

「失礼ながら……もう一人いますよ」

 その良子の言葉が、咏に冷静さを取り戻させた。力が抜けたように椅子に倒れ込んだ。

「小鍛治健夜……お前の思い通りにはさせない」

 咏の感情は目まぐるしく変わる。それは彼女の欠点でもあり、長所でもあった。

「福路ちゃん……無傷で帰っておいで……私が、あなたを強くしてあげるから」

 怒りの感情を余すことなく次のタクティクスに転嫁(てんか)できる。今回は長所として認めてもよさそうだ。

「トップを狙える位置まで福路の点数を引き上げる。“絶対王者”の狙いはそこですか?」

「そだね……姉妹対決の邪魔をさせたくない。だから福路ちゃんを弱体化させる。……悪魔め……こんな奴らを野放しになんてできない」

「ふふ……」

 思わず笑ってしまった良子に、咏は『なにが可笑しい!』というような怒りの目を向けた。

「失礼しました。ただ、三尋木プロも、藤田プロと同じかなと思いまして」

「……そう思われても構わないよぉ。ただね、ニューオーダーは発動しない。理由は言わなくても分るだろう?」

「宮永姉妹は自滅しないかもしれません」

「あんたの姫様はとっくに敗北した。福路ちゃんも篭絡(ろうらく)される。あの姉妹は死にたいからそんなことをしているのさ。二人が生き残る道はない!」

 激昂する咏に、良子は一つの可能性を告げる。

「確かに、神代小蒔は宮永咲に敗北しました」

 良子は、画面に映る咲を指差す。

「しかし、姫様の意思は、まだここにあります」

 

 

 個人戦総合待機室 清澄高校

 

 “絶対王者”宮永照と“魔王”宮永咲の姉妹対決。この会場の全員が待ち望んでいたビックカードと言っても決して過言ではないだろう。

 ところが、その宮永姉妹は、一向に闘う姿勢を見せず、実に異様な展開が続いている。最終ラウンドは東二局三本場まで進んでいたが、ここまで和了した者はただ一人、福路美穂子だけであった。

 

 

 個人戦決勝 最終ラウンド(東二局二本場まで)

  東一局     福路美穂子  12000点(3000,6000)

  東二局     福路美穂子   7800点(2600オール)

  東二局一本場  福路美穂子  12300点(4100オール)

  東二局二本場  福路美穂子  16600点(6200オール)

 

 東二局二本場までの総合得点

  宮永照    298500点

  福路美穂子  295600点

  神代小蒔   275800点

  宮永咲    269400点

 

「染谷先輩……咲たちは舐めプしてるんですかね?」

「逆じゃ、あほう」

「え?」

 染谷まこと須賀京太郎は、会場の目立たない位置に陣取り、最終ラウンドを観戦してデータ収集している。

「なあ京太郎、なして福路さんは大将にならん思う?」

「そういえば……風越の大将は、去年も今年も池田さんですね」

 ――まこがその理由を話そうとした時、会場が大きなどよめきに包まれる。

 福路美穂子が三本場を上がり、単独トップに躍り出た。挽回困難な得点差を跳ね返す快挙であったが、観客が選んだ反応は、大歓声ではなくどよめきであった。

 

『これで福路選手の5連続和了になりますが……』

 いつでもハイテンションが売りの福与恒子らしからぬ実況だ。通常営業ならば大絶叫でアナウンスすべき事柄だろう。

『ここまでとはな……』

 なにか含みを持たせた言いかたで、藤田靖子が噛み合わぬ回答をした。

『ここまでとは、どのような意味でしょうか?』

『福路は昨日今日と宮永照と対戦している。その結果を覚えているか?』

『福路選手は、いいところまで“絶対王者”を追い詰めましたが、一歩及びませんでした』

『偶然だと思うか?』

『ま……まさか』

 靖子は、福路美穂子の弱点を公共電波で流せないと考えたのだろう。曖昧な言葉で説明を締めくくる。

『妹が神代を無力化し、姉が福路を弱体化させる。姉妹対決は、すでに始まっている』

 会場のどよめきが積み重なり、大きなうねりになっていた。

 

 

 京太郎が口を開けてあ然としてる。

「福路さんは勝ちきれんのじゃよ。優位になると守りに徹してしまう。ほいで、その守りは、意外なほど(もろ)い」

「そういえば…、部長との対戦の時も……」

 まこの補足説明に、京太郎が相槌をうった。

「福路さんだって自分の弱さは知っとる。だけど、チャンピオンと咲の攻めは生半可じゃないぞ……精神的に耐えられないかもしれん」 

「咲……」

 京太郎が苦虫(にがむし)を噛み潰したよう顔で、幼馴染の名を呼んだ。

「咲とは中学からか?」

 気まずい雰囲気を感じ取り、まこが話題を変えた。

「いえ、家が近かったので小学生のころから遊んでいました」

「ほいじゃあチャンピオンも知っとったのか?」

「染谷先輩、俺は咲が麻雀をできるのも知らなかったんですよ。お姉さんがいるとは聞いてたけど、あんな凄いお姉さんだとは……」

「京太郎」

「はい」

「おぬし、女を見る目がないのう」

「……」

 

 

 都内マンション 605号室

 

「藤田プロはあなたと同じ人?」

「多分そうだと思います」

 宮永愛はずいぶんと穏やかな顔をしている。自分のすべてを注ぎ込んだ娘たちの闘いを、母親として、満足の笑みを浮かべて観ている。それが自滅への闘いだと分かっているにも関わらずだ。

 ニューオーダー構築には宮永照と宮永咲が不可欠な存在だ。しかし、このまま進めば、愛の予測どおり姉妹は雀士として真の死を迎える。

 果たして、奇跡は起こるのか? 

 小鍛治健夜にできることは、姉妹の母親と共に、(こと)の成り行きを見守るしかなかった。ただし、健夜には希望があった。限りなく小さくはあるが、それを信じ続けているかぎり、ニューオーダーは夢ではない。

「あなたや藤田プロのように、照と咲に希望を見る者もいる。私だってそうだった。もしかしたら奇跡が起きて、照も、咲も……昔のように……一緒に麻雀を打つことができる」

「……」

「でもね……それは夢なんだよ」

「照ちゃんはこのままですか?」

 愛が頷く。表情は変わらない。笑みを浮かべたまま、TV画面を眺めている。

「もしも、咲が〈オロチ〉のままだったら、照は強制順子場で敗北させるはずだった。ダンテの定理と照魔鏡を組み合わせて、疑似順子場(ぎじしゅんつば)を作る。照は麻雀を再開してから、そればっかり練習していた」

「チャンスは2回だけですね」

「2回で十分さ。団体戦で一時的に〈オロチ〉をプロテクトした子がいただろう?」

「高鴨穏乃ちゃんですね」

「咲をバーサーカーにできればいい。あれは、咲が恐怖を解放した状態だからね。攻撃がワンパターンになる」

「でも……その攻撃は止められないほど強力です。照ちゃんはそれができるのですか?」

「照は死者だからね……トラウマなど、もはや存在しない」

 健夜は母親の強さというものを思い知らされた。

 愛には絶望を受け入れる準備ができていた。妹を怪物にしたのも自分、姉を死者にしたのも自分。だとしたら、自分が同様の報いを受けるのは当然だと考えている。

「福路さんを利用して咲を欺く……普通の嘘など通用しない。だからここまで大掛かりなギミックで姉妹対決を咲に演出して見せた。でも、照の頭の中には、ここから先のストーリーはない」

「……復讐ですか?」

「そうだよ……すべてを終わりにする私への復讐」

 

 

 最終ラウンド対局室

 

(対価のない愛は絶望を招くだけ……そして、憎悪も同じ。対価が得られない憎悪は破滅への道)

 福路美穂子は場違いなことを考え続けていた。いや、場違いではない。まさしく今、美穂子は、己の欲望というものに向き合えと宮永姉妹から要求されていた。

 美穂子とて聖人ではない。人並みに欲望というものがあった。そして、それが、自分の判断を狂わせるのも知っていた。コーチの久保貴子の適切な指導により、それを麻痺させることを習得した。欲望が満たされると心が楽になる。しかし、欲望がなければそれ以上に楽になる。美穂子はそう結論付けて、あえて聖人のようにふるまい、名門風女子高校のキャプテンを務めあげてきた。

 だが、それも終わりに近づき、心の中の欲望が目覚めだした。

(対価が得られない憎悪は破滅への道……)

 美穂子は呪文を唱え続ける。欲望を抑えつけるために、呪文を唱え続ける。

「福路選手……遅延行為(ちえんこうい)は減点の対象になります。試合を再開してください」

 いつの間にかそばにきていた監視員から警告を受ける。

 美穂子の目の前には、宮永咲、宮永照、神代小蒔から2900点ずつの棒が置かれていた。

 美穂子はその点棒を震える手で回収する。

 

 東二局三本場までの総合得点

  福路美穂子  304300点

  宮永照    295600点

  神代小蒔   272900点

  宮永咲    266500点

 

 最終ラウンドは25000点持ちの30000点返しなどという生易しい半荘戦ではなかった。これまでの持ち点すべてをかけて、決着がつくまで闘うことになる。暫定トップになったことにより、福路美穂子はかつてないほどの重圧に苦しめられていた。

(すべての手札を出し()くした……私は、見切られていたのね)

 難しい問題やテーマに対して美穂子は非凡な力を発揮できる。だが、それらのものが取り払われ、自由を与えられると、美穂子は凡人になってしまう。その欠点は分かっていた。だからこそ他者に気づかれないよう慎重に立ち振る舞っていた。

 しかし、“絶対王者”はいとも簡単にそれを見破り、逆手(さかて)にとった罠をしかけた。立ち向かえば捉えられ、回避すれば無害化される。美穂子は身動き一つできなかった。

「すみません。私も少し時間を頂いてもよろしいですか?」

「……精神集中ですか?」

 監視員は後悔しているようだった。小蒔に例外を認めてしまった以上、美穂子の申し出を断るわけにはいかなかった。彼は歯止めがかからなくなることを恐れていた。

「いいえ、目を閉じて少し考えごとをしたいだけです。一分もかかりません」

 美穂子は、その懸念を解消するように柔らかな口調で言った。

 監視員は渋々頷き、準備ができたら速やかに始めるようにと注文をつけて席に戻った。

 美穂子は目を閉じる。与えられた数十秒で、自分の心に決着をつけなければならない

(運命は決まっている……私は悪あがきをしていただけなのね)

 この個人戦は、運命との闘いだと美穂子は思っていた。認められない、受け入れられない運命に(あらが)い続ける。宮永姉妹との対決をそう位置付けていた。

 ところがどうだ? 自分は己の欲望とさえも立ち向かえないではないか? ちっぽけで愚かな自分に、激しい怒りを覚え、唇を血が出るほど噛み締めた。

無償(むしょう)の愛……私なんかじゃ立ち向かえない)

 対価を求めない愛。親子の愛や姉妹の愛は、あらゆるものを凌駕(りょうが)する最強の愛だと美穂子は考えていた。そして、目の前にいる宮永照は、その無償の愛、いや、それが変化した憎悪にて燃え尽きようとしていた。

(負けたのね……私は)

 美穂子は両目を開けて、愚かで気高(けだか)い宮永姉妹と、それを見守っているのであろう神代小蒔をじっくりと眺める。

(風越のために……ここからは風越のために! 全力で――)

 ――美穂子の身体が躍動した。

「再開します」

 美穂子の気持ちが乗り移ったかのように、サイコロは激しく回転し、なかなか止まらなかった。

 

 

 透明のドームの中でサイコロが生きているかのように激しく回転している。福路美穂子はそれが止まるのを待ちきれない様子で見守っている。

 宮永照は、胸の中で美穂子に謝罪をした。

(福路さん……許してください。私は、咲を(あざむ)くために、あなたを利用しました)

 二度の対戦を経て、照は美穂子の弱点を掴んでいた。

窮地(きゅうち)に立たされたあなたは、まるで鬼神(きしん)のような強さでした。でも、あなたは優位に立つと、突如弱気になってしまう。――自主性の欠如。あなたはそう思っているのかもしれない。そうじゃない。あなたは自分の価値が分かっていないだけです)

 自信過剰すぎるのはとても悪いことだ。だが、(おのれ)を過小評価しすぎるのはもっと悪い。その典型が美穂子だと照は考えていた。

(本当のあなたは、とても強い人です。そして、あなたは長野の人間。当然、咲もそれを知っています。だから、私は利用した)

 宮永咲は、神代小蒔をわずか一局で敗北させ、無力化して見せた。当然、咲は、照の動きも、もう一人の強敵である福路美穂子を無力化するためだと判断するはずだ。

 咲には普通の嘘が通じない。だから、照は本気を貫いた。本気で美穂子を恐れているように(いつわ)ったのだ。

(これで……すべての準備が整った)

 あらゆる雑念が照の頭から消え去っていた。これから行おうとしていることは、あまりにもねじ曲がった常人には理解できないことだろう。だが、いいのだ。理解してくれるのは、目の前にいる妹だけでいい。

(もう……ダンテの定理も……照魔鏡もする必要がない……なんという安堵感。そう、私はこれを知ってしまった)

 照は、3年前の3月26日を思い出していた。暴走した〈オロチ〉に、照は完膚(かんぷ)なきまでに敗北した。妹を救えなかった罪悪感と失意により、照の精神は完全崩壊した。

 絶望の淵にいた照は、その片隅に柔らかな光を見つけ、たまらずそれにしがみついた。

(『お疲れ様。よく頑張った。だから、もうあきらめてもいい』)

 自分の声ではない。もちろん咲の声でも愛の声でもなかった。だれのものか分からぬ優しき声は、これまでの照の苦悩を慰めるように語りかけてくれた。

 それは()も言われぬ安堵感であった。照は、長い間その殻の中に逃げ込んでいた。

 だが、照はその正体を知ることになった。

(絶望の果ての光……それは私にとって残酷な生きる意味を示すものだった。

『お前は十字架を背負い続け、死者のように生きなければならない』

 あの優しき声は、冷酷にそう告げていた。

 そして、照は、それを受け入れた。

 ただ、自分にはやり残したことがある。それは、妹を救うことと、母への復讐だった。そのためには、この血の通わぬ体を、生きているように見せなければならない。

 ――照は、顔を傾けて隣にいる妹を眺める。決戦の開始を予感してか、闘う意思がはっきりと見て取れた。それでいい、それでなくては、このシナリオは成立しない。

(咲……なぜ〈オロチ〉を解除した?)

 それは唯一の心残りだった。自分をゾンビたらしめたのは〈オロチ〉を倒すという信念だけであった。だからこそ、照は死者であることを受け入れた。死者は死を恐れない。〈オロチ〉がもたらす恐怖を無効化できる。

 だが、今の妹は〈オロチ〉ではなく宮永咲であった。

(まあ、結果は同じ。ちがうのは過程だけか……)

 そう、たとえ咲が〈オロチ〉であってもなくても、姉妹そろって消滅するという結果には変わりはなかった。

 咲は、照のために強くなり、照のために怪物になった。その前提条件である照が、すでに死者であることを知ったなら、咲も、〈オロチ〉も、その存在意義を失う。

(母さん……これが私の復讐だよ。巨人打倒の夢も、ダンテの定理も……私がここで終わらせる)

 ――サイコロが止まり、美穂子が左8(ひだりっぱ)から配牌を始めた。咲がそれに続き、照も普通を装って山に手を伸ばす。小蒔も機械のように同じ動作を繰り返した。

 照は、感慨無量(かんがいむりょう)であった。ついにこの時がきたのだなと思った。

 嘘に塗り固められた姉妹ではあったが、ただ一つだけ嘘のない世界があった。それは麻雀だった。なにをバカなことを言うのか? そもそも麻雀とはフェイクに固められた競技ではないのか? そのとおりだ。麻雀とはそういうものだ。しかし、咲の打牌に込められた意志には嘘がなかった。無論、自分も同じだ。残酷かつ非情な会話ではあったが、そこには嘘というものが存在しなかった。

(咲、これが本当の私の姿だよ。お前の求める宮永照は……あの日死んだ)

 配牌が終わり、自摸番が回ってきた。照は眼球を動かし、咲、美穂子、小蒔の順番で眼を確認する。そこには牌が映っておらず、瞳の影も見えなかった。照は自摸牌を取り、手牌の横に置いた。

【七萬】

 山に示されるはずの青い影も出現しなかった。ダンテの定理を拒否しているのでない。ごく自然な状態でダンテの定理が機能しないのだ。

(もう……無理しなくていい……死者としての安寧(あんねい)……私は……)

(――お姉ちゃん) 

 頭の中で咲の声が聞こえたような気がした。照は顔を上げて咲を見る。

 咲は手牌を見つめて、勝負に集中している。気のせいだ。咲の声など聞こえるはずがない。きっと咲への罪悪感の残り火なのだなと、照は思った。

(私も同じだったの……昨日、小蒔さんに〈オロチ〉にされた時……もう、お姉ちゃんと一緒に消えるしかないかなって思った)

 再び照は咲を見た。同じだった。咲は手牌を見続けている。福路美穂子と目が合った。彼女は、照の変貌ぶりに戸惑っている様子だ。照は、軽く目配(めくば)せして顔を元に戻す。

 返事をしてはダメだ。これは迷いだ。自分は迷っているのだ。すでに決められたことを粛々(しゅくしゅく)と行うしかない。何年も思い描いてきたことに疑問の余地はない。

(でもね、お姉ちゃん……奇跡ってね……あるんだよ)

 照は、聴力のシャットダウンを意識した。だが、咲の声は、耳から聞こえていなかった。それは、心から聞こえていた。

(小蒔さんがね……あきらめちゃいけないって……お姉ちゃんと話せって。それで……私にわざと負けて……少しだけ力を残してくれたの)

 咲は手牌を見たままだ。しかし、その両眼には今にも溢れそうなぐらに涙が溜まっていた。

 照は逆側にいる小蒔に目を移した。まったく表情のない彼女であったが、その目が、少しだけ細くなった。

(お姉ちゃん……私がどうして和ちゃんに〈オロチ〉を倒してって頼んだと思う?)

(……)

(和ちゃんは強い。いずれ私は和ちゃんに勝てなくなる。だから、この人だと思った。……でもね、それだけが理由じゃないの)

(……嘘をついたの?)

 なにをしている。会話などしてはいけない。『迷いは後悔に繋がる』。大星淡が言ったではないか。迷ってはいけない。

(うん……私は、大好きな和ちゃんにだって嘘をつける。だから、私も、こんなのを終わりにしたい)

(……)

(お姉ちゃんとは、もう闘わない。今日が最後だよ)

(やめろ! そんなことはさせない!)

 照はすべてを理解した。なぜ咲が〈オロチ〉解放者に原村和を選んだのか? そして、なぜ自分に負けようとしているのか? それはあまりにも過酷な選択だった。それと同時に、それしかないとも思える選択でもあった。

(やめない!)

(咲……)

(これしかないんだよ……お姉ちゃんが……私を〈オロチ〉にして)

(そんなことはできない!)

(〈オロチ〉を……私の中に封印する。そして、私の武器にする)

(咲! 自分を犠牲にするな!)

(分かってるよ……だから、半分こなんだよ)

(私に……〈オロチ〉の苦痛を共有しろってこと?)

(……うん)

 ――だれかが自分の右肩を叩いていた。照は我に返り、その方向に顔を向けた。

「宮永選手、手牌を伏せて、手を雀卓から離してください」

 監視員が半怒り状態で照に指示をした。

「遅延行為により、宮永選手にペナルティーを()します。局を無効にするかどうか確認しますので、そのままで待機してください」

「……はい」

 言われたとおりに、照は手牌を伏せて、雀卓から手を離した。どうやら自分は、咲と話している間、監視員の警告を無視していたらしい。

 監視員がピッチでインターハイ運営事務所と話をしている。

(お姉ちゃん……私たちの約束を覚えてる?)

 再度の咲からの問いかけだ。それは照の最も触れられたくない部分であった。

(もう、その約束は……果たせない)

(お母さんのことじゃないよ……私たちにはもう一つ約束があったんだよ)

(咲……)

 照は妹と正面から目を合わせる。その目は三年前のものとはちがっていた。もう照の影という弱々しさは感じられず、宮永咲個人の意思がその目に宿っていた。

 過去にしがみつき、あてもなくさ迷い歩く亡者の自分には、その目と向かい合う資格がないと思った。

(忘れたことはない……でもその約束だって守れない)

 照はたまらず目を()らす。

(『咲と一緒なら“巨人”にも勝てる。だから二人で世界に行こう』)

 それが咲の言ったもう一つの約束だった。だが、自分にはもう無理だ。なぜならば、自分はもう死に人(しにびと)なのだから。

(小蒔さんが時間がきたって……もう話せないよ……でも私たちはずっと――)

 そこで咲の声は途切れてしまった。

 何秒待っても、咲の声は復活しなかった。だから照は、咲の言いかけていた言葉の続きを、実際の声として発した。

「ずっと……麻雀で、話をしていた」

「……うん」

 咲が小さな声で返事をした。顔は合わせない。互いに正面を向いたままだった。

 照の心は葛藤していた。咲の言ったことは単に破滅の先延ばしにすぎない。だから、ここで消滅するのが正しいことだ。だが、姉妹のなにかが、照の心を揺さぶっていた。子供のころの記憶が(よみがえ)る。どれもこれも美しいものだが、それはただの記憶にすぎない。決して元に戻らぬものだ。

(壊れた人形は元に戻らない。咲……私たちは互いに壊れてしまったんだよ)

 ――監視員がピッチを切りながら近づいてくる。どうやら再開が決まったらしい。だが、自分の心は、まだ揺れ動いている。

「このまま継続します。ただし、宮永照選手は1000点の罰符とします。供託(きょうたく)として場に置いてください」

「はい、すみませんでした」

 照は言われるままに1000点棒を場に置く。

「宮永選手、すぐに試合を再開してください」

「はい」

 照は、伏せていた手牌の14枚を起こす。その並びには、なんの意味もないはずだが、幼いころからの習慣が、平和の二向聴であることを教えてくれた。そして、無意識の内に、最大の不要牌である【北】を選んで切っていた。

(死んでまでも……この癖が抜けない……)

 照は、迷っていた自分の心を恥じた。このざまを見ろ。自分はゾンビなのだ。生きていたころの本能だけで動いているのだ。

(遅すぎた……なにもかもが遅すぎた。どんな名医でも、どんな聖人でも、死んだ人間を復活させられない)

 それが最終結論となった。照の心は初期化され、母への復讐の炎に再点火された。

(私は、お前の期待には(こた)えられない。だから、私と一緒に消えてくれ)

 照は、本能のままに局を進める。意識の通わぬ摸打(もーた)を続け、咲があきらめるのを待った。そうだ、言ったとおりだ。自分たちは麻雀で会話をしてきた。ならば、自分の言っていることが分るだろう?

 11巡目。照の問いかけに対する咲の答えが、その河にて示された。

(これは……エメット・クーパー?)

 咲は、子供の時分から強豪雀士のコピーをしていた。その中で、最も照が苦手としていたのは、エメット・クーパーという男性雀士の模倣だった。彼は、近代麻雀では無意味とさえ言われる迷彩のスペシャリストで、スピードと和了率を落とさずに、染め手迷彩や筋引っ掛け迷彩を仕掛けられた。

 咲は、そのエメット・クーパーの河を作っていた。

(咲……それは攻略済みだよ。その迷彩は、照魔鏡の前では無意味だ)

 照は視線を咲の瞳に集中する。見える。咲の手牌がすべて見える。萬子の染め手迷彩であったが、実際はとんでもない話であった。手牌の中には【南】と【八筒】の刻子があり、聴牌していた。上りは【一索】の単騎待ちなので、明らかに嶺上開花を狙っている。

 照の自摸番が回ってきた。引いた牌は【七筒】。照は、ダンテの定理を発動させて【八筒】がどこに在るかをサーチした。

(4巡先の咲の自摸牌……間に合うか?)

 

 

 個人戦総合待機室 白糸台高校

 

 観客のどよめきが大声援に変わった。再開された最終ラウンド、宮永咲の萬子染め偽装を見破った宮永照が、妹の捨て牌を副露(チー)した。そして、15巡目の照の自摸牌が【八筒】であったことが、観客を興奮させていた。

「菫! 見て!」

 大星淡が弘世菫の肩を激しく叩いた。

「ああ、ああ!」

 菫はそのことに腹を立てなかった。こんなものを見せられては、だれだってそうするしかない。

「照が笑ってる! あんなに……あんなに楽しそうに!」

「話しているんだ。咲ちゃんと……話をしているんだよ」

「……」

 淡がなにか言ったようだが、まるで言葉になっていない。

(だからそんな目で私をみるな。お前の涙は……うつる)

 親友として、いや、チーム虎姫にとって、宮永照は家族も同然だ。その家族に、奇跡が起きた。それを喜ばない人間などいない。

 大星淡が、亦野誠子が、渋谷尭深が、大粒の涙を流して画面を見つめている。もちろん、董も同様であった。

(照……全部お前のせいだ。どうしてくれる? 私は、泣くのが大嫌いだ)

 ――最終ラウンドで初めて照が和了した。断公九に切り替えて妹の嶺上開花を阻止していた。

「咲も……笑ってる。でも……」

 ほとんど聞き取れない声で淡が言った。

「そうだな」

 この勝負の最良の終わり方は、照が勝利することだ。しかし、それは最悪の結果を残すことになる。つまりは、咲の〈オロチ〉が復活してしまう。

「照だってそれは承知の上だ。だから信じろ。信じるしかない」

「うん」

 

 

 個人戦総合待機室 宮守女子高校

 

『絶対王者の反撃開始! “魔王”宮永咲選手の嶺上開花を回避しての断公九和了。藤田プロ、これは連荘地獄の幕開けと考えてもよろしいでしょうか?』

『……』

『藤田プロ? あれ? もしかして泣いています?』

『奇跡だよ……これは、奇跡だ』

『あの……』

『新しい秩序が始まる……』

『……ニューオーダーですか?』

『……』

 

 臼沢塞は、福与恒子の言った“ニューオーダー”という言葉を聞いたことあった。確か顧問の熊倉トシからだなと思い、となりのトシに意味を訊ねようとした。

「……」

 なんという穏やかな顔をしているのだろう。まるで仏像のように、柔らかな笑みを浮かべて、トシは画面を見ていた。

「戒能良子は……永遠に語り継がれる存在になった。塞、どうしてだか分かるかい?」

 声も同じだった。トゲや角のない、柔らかい声で、塞に質問した。

「宮永照を倒したからですか? それだったらシロだってそうですよ」

「そうだね、白望も永遠だよ。そして豊音も、宮永咲を苦しめた相手として永遠の存在になった」

 ()められているのだが、小瀬川白望も姉帯豊音も微妙な顔をしている。なぜトシがそんなことを言い出したのかが分からなかったのだ。

「私は、宮守に骨を埋めるつもりだった。お前たちが全員いなくなった来年も、麻雀部復活のために尽力(じんりょく)しようと思っていた」

「先生……」

 トシが頭を下げる。

「許しておくれ……私には最後にやらなければならないことができた」

 塞には、その意味が理解できていた。かつて、彼女は日本麻雀界保守派の旗手であった。世代交代により、ほぼ引退の状態ではあったが、今だって大きな影響力を持っている。

 老兵と言っても言い過ぎではないだろう。その熊倉トシが最後の闘う相手として小鍛治健夜を標的とした。塞たちにはそれを止める理由がない。

 塞は席を立ち、トシの前でお辞儀をした。

「シロや豊音が永遠なら、私たち宮守も永遠です。先生……私たちを導いてくれて……ありがとうございました」

 別れの挨拶ではない。ただ、区切りはつけたかった。弱小どころか団体戦出場の権利すらなかった自分たちに、トシはこんな素敵な夢を見させてくれた。だから、心から感謝の気持ちを伝えた。

「このインターハイ、絶対に忘れません」

 塞に続いて鹿倉胡桃がトシに頭を下げる。いつも強気の胡桃らしからぬ涙声だった。

「Thank you, Master. I have eternal memories(先生、有難うございます。永遠の思い出ができました)」

「初めての仲間……全部先生のおかげだよー」

 エイスリン・ウイッシュアートと姉帯豊音はトシに抱きついて礼を言った。

「……」

「シロ、なんとか言いなさいよ」

 小瀬川白望が恥ずかしそうに立っている。塞はそれを肘でつついた。

「もう少し……麻雀を続けてもいいですか?」

 場違いな質問ではあったが、それがトシの涙腺を刺激したようだ。目の端の(しわ)に沿って、大量の涙がこぼれ落ちた。

「いいに決まっているだろう……シロも、豊音も、胡桃もエイちゃんも塞も……ずっと麻雀を愛しておくれ」

 

 

 個人戦総合待機室 千里山女子高校

 

「一年坊が……なめるなや! 泉、この怪物はうちらが倒すで」

 激昂しているのは船久保浩子だ。想定以上の怪物ぶりを見せた宮永咲に対して、自らの能力不足の裏返しとしての怒りをぶつけていた。

「はい」

 それは二条泉の覚悟の返事であった。“魔王”宮永咲は、泉の同級生だった。倒さなければ再起不能にされかねない相手だ。泉はそうなっても構わないと返事をしていた。

(ええ返事や。せやけどな、怜でもセーラでも……あの姉妹に手も足も出ーへんかった。その強さはお前らの想像を超えてる。泉、浩子、血涙(ちなみだ)流す覚悟はあるんか)

 愛宕雅恵は、その姉妹と対決した三年生に目を向ける。

「怜、妹は泉と浩子に任せてええんか?」

「ええで、うちと竜華のターゲットはチャンピオンだけ。妹は手に負われへんさかい船Qに任せる」

「咲ちゃんはセーラの担当やね」

 園城寺怜、清水谷竜華。二人は、宮永姉妹の生存を喜んでいるようだ。まったく、大人の悩みを知らないにもほどがある。

(まあ……私も同じか……)

 雅恵が若き雀士だった時、姉妹の母親である宮永愛の引退に目の前が真っ暗になった。なぜだ? なぜ引退する? そんなことを自分は許した覚えはない。勝手な言い分ではあるが、あの時は本気でそう思った。

 目標となる人物がいなくなる。雅恵はその絶望を知っていた。だとすると、自分の望まないこの結果は、千里山の若き雀士たちには朗報なのかもしれない。

 そうだ、もう一人の意見を聞くのを忘れていた。

「セーラ! どないや?」

「船Q! 妹の情報は逐一(ちくいち)俺に連絡しろや!」

「江口先輩……そら泉に宮永妹を倒すなってことですか?」

「そんなん言うてへん!」

「ほな何ですか?」

「そやさかい……泉が倒してもええけど、少しだけ残してほしいちゅうか……」

「セーラ、なに言うてんの?」

「ああーもうなんや分からへん」

 雅恵は腹を抱えて笑った。江口セーラの不器用さが雅恵を心から笑わせた。

 これでいい、小鍛治健夜の野望が動き出したのなら、こっちも態勢を整えるだけだ。だからいい、このインターハイは、みんなの笑顔でけじめをつけよう。

 園城寺怜は、打倒宮永照という新たな目標を見つけ、ガラスのエースと呼ばれた脆弱(ぜいじゃく)さを払拭(ふっしょく)しようとしていた。大丈夫、彼女なら可能だ。そばには良きパートナーである清水谷竜華もいるのだ。

 江口セーラも自分の進む道を宮永咲戦で見つけていた。悩んだという点では、セーラは怜や竜華以上に悩んだはずだ。そして彼女は、自分のスタイルを確立した。

(時代は移り変わる……宮永愛、小鍛治健夜、ほんで、この子達には宮永姉妹。露子……これで良かったのかもしれへんな。お前の子供たちにも、うちの子供たちにも、だれを倒したらええか、はっきりと教えられる)

 雅恵の頭に、娘たちの顔が浮かんだ。

(洋榎、絹。こいつらを倒したらんかい!)

 

 

 個人戦総合待機室 姫松高校

 

「絹……よう見とけ。こいつらに好き勝手させたらあかん」

「お姉ちゃん……」

「うちにはしばらく妹と闘うチャンスがあらへん。おそらくこいつらは国麻には出てけえへん。絹、自分にやったら妹を倒すこと許したる」

「宮永姉はどないすんの?」

「姉は恭子に任せる。ええか絹、宮永妹はうちらの麻雀を侮辱(ぶじょく)してん。ただでは済まさへん。100ぺん泣かしたる 」

「勝手に名前出さんといてくれます」

 末原恭子は、どこまで本気か、どこまで冗談か分からない愛宕姉妹の話に割り込んだ。確かに絶対王者を倒すことも目標の一つだが、宮永咲に負けたままというのも寝起きが悪い。

「三度目の正直です。うちにも妹と闘わしてください」

「昨日が三度目ちゃうんですか?」

「……漫ちゃんええ度胸しとるな」

 上重漫の天然度の高さが、重苦しい雰囲気を和らげるための良いきっかけとなった。彼女には気の毒だが、いつものイベントをさせてもらう。

「由子、漫ちゃんをおさえて」

 真瀬由子が漫をフルネルソンでホールドする。

 恭子は胸のポケットから油性マジックを取り出す。 

「なんでそんなんがポケットに入ってるんですか?」

 漫が腕をバタバタさせてもがいている。

「ええ質問や、それはな、かわいい後輩に、いつでもご褒美を上げられるためにや」

 恭子が漫の額に書いた文字は「牛」だった。今年の干支(2009年)を書いつもりであったが、由子はちがう意味に捉えたようだ。

「恭子ちゃん……それはちょっとひどいのよー」

「え?」

 由子が耐えきれずに笑う。

「寝てばっかりで、おっぱいも大きい……」

 洋榎が関西人らしいガハハ笑いで由子に続く。

「おっぱいなら、うちの絹も負けへんで」

 そう言って妹の巨乳をわしづかみする。洋榎の暴走はエスカレートし、どっちが大きいか比べろだの、無茶苦茶な状態になっていた。

 どうやら姫松の日常を取り戻せたようだ。恭子は、その大混乱から離れ、そばで一緒になって笑っている赤阪郁乃に、一言(ひとこと)礼を言った。

「監督……ありがとうございました」

「どういたしましてって言いたいとこやけど。うちは監督ちゃうでー」

「ええ、分かってます。でも、今の赤阪さんは、私の監督です」

「ええー今だけー? なんならいつでも監督でええで」

「私の本当の監督は、善野さんですから」

「じゃあ、そういうことにしとくねー」

「はい」

 恭子は深々と郁乃に礼をした。本当は善野一美と同じぐらい感謝していたのだが、さすがにそれは、恥ずかしくて言えなかった

 

 

 試合会場 医務室

 

 原村和の回復は聴力から始まった。なにか小さな音が聞こえていたが、ラジオのように立体感のない音声だった。和はそれが気になり、実際に見てみようと思った。目を開けると、ピントの合わないぼやけた光源が飛び込んできた。10秒、20秒後に、それが天井に備え付けられている蛍光灯であることが分った。

(ここは……医務室ね)

 和の記憶が蘇る。

(私は……そう、私は咲さんに負けた)

 自らが望んだ本気の宮永咲との闘いは、思い出しても凄まじいものだった。和は、その闘いで精魂(せいこん)が尽き果ててしまった。

(あれは……幻影だったの?)

 あの最終局、目を開けているのがやっとの状態だった。ありえないことだったが、和は心の中で咲と会話をしたような気がした。

(『自分を信じてほしい』)

 咲にそう言われた。

 絶対に負けられない〈オロチ〉との闘いであった。しかし、和は、その咲の言葉により、自ら敗北を選んでしまった。

(信じたい……信じたいけど……)

 とてつもない不安に()られた。和は起き上がろうともがいたが、思うように体が動かなかった。首を少し持ち上げると、片岡優希が目に入った。彼女も気づいてくれて、奥にいる医師を呼んでいる。

「まだ無理しないで」

 何度か世話になっている女性の医師が現れ、指にオキシメーターを取り付けられて、ライトで目と口を調べられた。彼女はオキシメーターの数値を確認して表情を緩める。

「かなり回復しているけど、今はここまでね。急に起き上がったりしたらダメよ」

 医師は、ハンドルを回してベッドの角度を少しだけ上げてくれた。

「はい、ありがとうございます」

 優希が心配そうに見ている。

「のどちゃん……心配したじょ」

「ごめんね……また無理しちゃったみたいで」

 和は、優希が持っているタブレットが気になった。なるほど、あの平坦な音声は、そこから聞こえていたのだなと思った。

「咲ちゃん……お姉ちゃんと闘ってるじぇ」

 優希が背後に回り、和に見えるようにタブレットを差し出した。

「咲さん……」

 そこには、和の望むものが映し出されていた。

 どうやったかは分からないが、宮永咲は〈オロチ〉を解除し、微笑を口元にたたえて、実に楽しそうに麻雀を打っていた。その姉の宮永照も――ああ、なんということだ。照は咲よりも楽しそうにしている。そう、二人は今、会話をしているのだ。3年以上の仲違(なかたが)いを経て、やっと実現した姉妹の会話。きっとそれは、たくさんあるに違いない。

「ふふふ」

 和は自虐的に笑った。優希がそれを奇妙そうに見ている。

「のどちゃん?」

「私ってバカだなぁって思って。なんだか笑っちゃうぐらいにね」

「のどちゃん……笑いごとじゃないじぇ。このまま咲ちゃんが負けたら……」

「そうね……」

 再び咲は〈オロチ〉になってしまう。しかも姉の手によってだ。それは悲劇だ。確かに悲劇だが――

(私はそのために選ばれたのですね。……守ります。あなたとの誓い。私が必ず、あなたを〈オロチ〉から解放する)

 ――もうそれでいいと和は思った。それしかないとも思った。

 試合前に咲が言っていた奇跡が起ころうとしている。

 和は優希にその話を聞かせることにした。

一昨日(おととい)、優希が須賀さんとデートしている時にね――」

「あんなのデートじゃないじぇ」

 その条件反射的なリアクションに和は笑った。

「ちがうの? まあ、いいけど」

「それで?」

 優希は照れ隠しで、和に話を急がせた。

「私はね、咲さんにこう聞いたんです。お姉さんと仲直りする方法はないんですかって」

「なかなか厳しい質問だな」

「そうしたらね、咲さんがあるって答えて」

「おおー。咲ちゃんはなんて言ったのだ?」

 そうだ、和は答えをすでに聞いていた。問題だったのは、それを信じるかどうかだけだった。和はそれを信じなかった。大好きな咲の答えを信じることができなかった。

 なんと愚かだったのだろう。和はそう考え、再び自虐的な笑いを浮かべた。

「お姉さんと話すこと……咲さんはそう言ったの」

「……咲ちゃん」

「だからね、私はバカだなあって。だって、咲さんを信じられなかったのですから」

「のどちゃんはバカじゃないじぇ。あんな苦しそうな咲ちゃんを見たら……だれだって、私だって助けたいって思う」

 優希が和に顔をくっつけて泣いている。和は、友達とは本当に素晴らしいものだなと思った。困った時、悩んだ時に、いつも自分に寄り添ってくれる。

「ありがとう……優希」

「咲ちゃん……また〈オロチ〉になっちゃうじぇ」

 宮永照が二度目の和了を決めた。今度は5200点、確実に連荘モードに入っていた。

「そうね……」

 不安がないわけではない。咲は、あの凶悪な〈オロチ〉を制御しようとしている。できるわけがなかった。だからこそ、和は必死になって姉妹対決を阻止しようとした。

 しかし、咲は自らの意思で、姉の手により〈オロチ〉化しようとしている。

(私がそばにいますから……あなただけを苦しませたりはしません)

 姉妹が共存する唯一の道がそこにあった。咲は生き地獄のような責め苦を受けるかもしれない。だったら、自分がそれをサポートしなければならないと思った。

 なぜならば、咲は、真の〈オロチ〉の解放者に、和を選んでいたからだ。

「優希……今度は咲さんを信じましょう」

「……うん」

 

 

最終ラウンド対局室

 

 最終ラウンド試合経緯(東三局まで)

  東一局     福路美穂子  12000点(3000,6000)

  東二局     福路美穂子   7800点(2600オール)

  東二局一本場  福路美穂子  12300点(4100オール)

  東二局二本場  福路美穂子  16600点(6200オール)

  東二局三本場  福路美穂子   8700点(2900オール)

  東二局四本場  宮永照     3200点(900,1400)

  東三局     宮永照     5200点(1300,2600)

 

 

 東三局までの総合得点

  宮永照    304000点

  福路美穂子  301600点

  神代小蒔   270700点

  宮永咲    263000点

 

 

 宮永照は5歳から麻雀を始めていた。それから約13年にもなる長い時間軸の中で、麻雀が楽しいと思えたのはわずかな期間でしかなかった。麻雀を覚えたての頃の数か月、咲が麻雀を始めて共にトレーニングをしていた頃、そしてミナモ・オールドフィールドがやってきて三人で卓を囲んでいた初期の間だ。その他の9割以上の期間は苦悩の連続と言えた。

 最終目標に“巨人”打倒を()えられ、そのために“ダンテの定理”をマスターし、照以上の才能を持つ妹を乗り越えることが義務となった。そのあまりにも辛い環境に、照は麻雀を打つ楽しさを忘れてしまっていた。

(笑っている……咲も、私も。でもこれは、楽しいからじゃない)

 楽しい時は笑う。人間ならだれだってそうだろう。咲も自分も、数年ぶりの手合わせに、自然と笑みが浮かんでいる。

 しかし、と、照は覚めた目で自分を観察していた。

 自分は飢えと渇きに苦しむ亡者なのだ。これまで、どんな強い相手と闘ってもそれが癒されることがなかった。なぜならば、妹の咲以上の相手が存在しなかったからだ。

(渇きを癒された満足感……一時的な快楽にすぎない)

 照は、笑っている理由をそう捉えていた。決して過去を懐かしんでいるわけではない。

(咲、お前の見ている夢は決して叶わない。あの幸せな場所は……もう存在しない)

 照は、自分の親番である東四局を開始するためにサイコロを回した。

(おばあちゃんとミナモ……優しい母さん。あの場所に戻れたらどんなに嬉しいことか……私だって考えたことはある。でもね……そこは私たちの記憶の中だけにしかないの。どんなに探したって見つけられない)

 咲は〈オロチ〉を自分の中に封印すると言っていた。〈オロチ〉は、咲の恐怖心が生み出した怪物なのだ。制御するためには恐怖心そのものをコントロールしなければならない。

(あの時以上に……私がプラスマイナス・ゼロを破った時以上に、お前は苦しむことになる。私は、そんな選択をできない)

 この3年間。照はたった一つのことだけを考えていた。どうやったらこの狂った姉妹関係を終わりにできるのか? どうしたら妹が穏やかに暮らせるのか? 実に簡単な答えだった。二人同時に麻雀を打てなくなればよかった。〈オロチ〉を倒すこと、再び照が〈オロチ〉に完全敗北すること、どちらでも良かった。要はこの対決ですべてが丸く収まるはずであった。

 しかし、その対決が実現してみると、妹は別の要求をしてきた。

(『自分はもっと苦しんだって構わない。ただし、その苦しみの半分は()け負ってもらう』)

 きっと、咲も悩んだ末にその結論にたどり着いたのだろう。だけどその対価は得ることができないものだ。

(私たちはもう元には戻れない。咲……認めるしかないんだよ)

 照は自分の手牌を眺める。聞き分けのない妹にそのことを伝えるには、この麻雀牌を使うしかなかった。

(闘うなら全力だよ。手加減なんかしたら許さない)

 咲が言ったように、これが姉妹の最後の闘いになる。ならば、すべてをこの牌に叩き込む。そして、咲のプラスマイナス・ゼロを拒否せずに、最後に自分の想いを伝える。

(私の麻雀は今日で終わりにする……もうお前が〈オロチ〉になる必要はない)

 大きな矛盾に照は気がついていた。すでに終わっている自分が、恥ずかしげもなく『今日で終わりにする』などと()れ言を言っている。それは未練だった。3年間で振りきったはずの過去への未練だった。

 

 

 都内マンション 605号室

 

「照……迷うな。今日で終わりにしろ。私たちは間違ってしまった。だからそれでいい」

 宮永愛は英語でそれをつぶやいた。人間は本能的な発言は慣れ親しんだ言葉になってしまう。小鍛治健夜は、愛の心からのつぶやきになにも言えなかった。

 ただし、心の中では異議を唱えている。

(愛さん……間違いはやり直せるのですよ。だって、私がそうでしたから)

 画面に映っている宮永咲もそう思っているはずだった。そう、まだ二人は若い。絶対にやり直せる。いや、自分が必ずそうさせてみせる。

 

 

 最終ラウンド対局室

 

 前局の5200点以上がダンテの定理のスタック継続条件になる。宮永照は、照魔鏡を発動して面子の手牌を査察した。咲を攻略するには、全体の流れで考えなければならなかった。

(プラスマイナス・ゼロ。基準は300000点のはず……咲の点数だと、役満クラスの上りか、次の親での連荘が必要になる)

 咲のプラスマイナス・ゼロは30000点が基準値になる。個人戦は半荘10回の闘いになるので、その10倍の値を狙っていると照は推察した。

 “アルゴスの百の目”の変形であるプラスマイナス・ゼロの攻略は容易ではない。だが、照は隠しカードを持っていた。家族だけで打っていた頃とは違い、咲には福路美穂子や神代小蒔の“変数”を正確に読み切れないはずだった。その点では照に優位性があった。照魔鏡で彼女たちの手牌を把握できたからだ。とはいえ、照にも懸念事項があった。それは神代小蒔の動向だった。

(神代さん……あなたと咲の間になにがあったの?)

 神代小蒔によって〈オロチ〉化した咲には、彼女はターゲット以外の何物でもないはずだった。ところが、咲は小蒔を信頼しきっており、まるで母のように心を許している。

 ――小蒔は手牌を理牌しておらず天地を含めてバラバラであった。しかし、照は、その状態でも一瞬で未来形が推測でき、何向聴であるかを把握できるようにトレーニングされていた。

(平和の三向聴。上がる気配はないけど、咲をサポートできる)

 小蒔が咲になにかしらの関与をしているのではないかと照は考えた。だとするならば、自分にもサポートが必要だ。

(福路さん。もう一度、私に力を貸してもらえますか?)

 東二局四本場以降、美穂子の打ち方はあからさまに変化していた。彼女の驚異的な洞察力は、咲に全振りされていた。勝負をあきらめたわけではないだろうが、臨海女子高校のネリー・ヴィルサラーゼのように、母校の未来のために闘っていた。

 ――美穂子の手牌は【発】の対子が軸になりそうだった。断公九(タンヤオ)を狙うには手が遅すぎるが、照の親番を流せるのなら役牌のみでも(おん)の字であろう。

(あとはタイミングか……咲のシリアルデータを崩すタイミング)

 妹の手牌は、恐ろしいまでに研ぎ澄まされていた。【中】の刻子と【五筒】と【五索】の対子を持っていた。どの牌も咲以外は持っておらず、嶺上開花の起爆点になり得た。照魔鏡の利点を逆手に取り、過剰な警戒心を持たせる。照がプラスマイナス・ゼロの沼にはまり込んでいた時の戦法だった。

 

 ――東四局3巡目。静かな滑り出しと言えた。四人共、無駄自摸が続き、手牌の進捗がなかった。照が引いた牌は【四筒】だった。連荘開始から3回目なので、咲の持つ対子以外の【五筒】の位置が判明している。

(次の神代さんの自摸牌……彼女なら躊躇(ちゅうちょ)なく切る)

 そして、もう一枚は4巡先で咲が自模る牌だった。ポンからの加槓で嶺上開花が狙える。

(……このプレッシャー。咲……相変わらずお前の嶺上開花は恐ろしい)

 咲が三槓子を狙っているのなら、7翻70符のドラ3になり、嶺上開花ならば12000点だった。そう、展開は分かり切っている。分かってはいるが止められない。それが宮永咲の恐ろしさだった。

 照がダンテの定理のスタックを維持するためには、手牌の平和、断公九の二向聴に、一盃口(イーペーコー)かドラ、立直を絡めなければならなかった。四巡先の咲の槓を止めるか、河の流れを分岐させるしかない。しかし、現状取れる手立てはなかった。もう1巡辛抱するしかない。

「ポン」

 予測通りの展開となった。小蒔の捨てた赤ドラ牌を、咲が副露した。

「ふふふ」

 咲が引いた嶺上牌は赤ドラの【五索】だった。照は、それを見て、小さな声で笑った。

 妹がそれに反応し、微笑みを返した。

 無表情を貫く神代小蒔と、いささか呆れ顔の福路美穂子が良いアクセントになり、その空間の異常さを際立たせていた。

(私が負けたら私の勝ち……私が勝ったらお前の勝ち……いいよ、その賭けに乗ってあげる)

 楽しかった。3年ぶりの妹との対局は、照を心から楽しませた。

 今自分が混乱しているのは分かっている。正しい判断ができなくなっている。

 それならばと照は思った。

(最後まで麻雀に頼るしかないか……咲、私たちはなんという屈折した姉妹なんだろうね)

 自分たち姉妹を断絶させた()まわしき麻雀。しかし、姉妹のこれからを決めるのもその麻雀だった。

 宮永照は、再び妹の咲に敗北していた。ただし、その敗北は、照に死者からの蘇生のチャンスを与えていた。

(咲に勝ちたい……私は、子供の頃から、ずっとそう思っていた。もう、嘘はつかないよ。だからね、この勝負は、お姉ちゃんが勝つからね)

 そう、子供の頃のように、咲が麻雀を覚えて、本当に楽しかったあの頃のように照は笑った。咲もそうだった。その時、二人の時間軸は、10年前に巻き戻されていた。

 

 

 個人戦総合待機室 臨海女子高校

 

「ネリー」

 ネリー・ヴィルサラーゼがその声に振り返ると、メガン・ダヴァンがハンカチを差し出していた。ネリーは不審に思い、メガンと顔を合わせると、彼女は下瞼(したまぶた)を触るジェスチャーをした。

 ネリーが自分の頬に触れてみると、指になにかの液体がついていた。

「これで良かったのデスカ?」

「……そうだね」

 メガンからハンカチを受け取り、ネリーは涙を拭いた。

「ちょっと(うらや)ましくなってね……」

「なぜ羨ましいのデスカ?」

「宮永は……夢に一歩近づいた。私には、それが羨ましい」

「ネリーだって近づいていますヨ」

「……そうかな?」

「間違いありまセン」

 そうかもしれないなとネリーは思った。孤独な日々を過ごしていた自分にも、今は仲間がいる。ネリーが追い求める夢とは直接的な繋がりはないが、近づいたという点では、同じだと言える。

 ネリーは、その仲間たちを眺める。

 最も親しいメガン・ダヴァンは、いつもどおりのアメリカンスマイルでネリーを見ている。彼女がいなければ、きっとネリーは孤立したままだったろう。

 その隣には、同じ一年生の郝慧宇(ハオホェイユー)がいた。才能あふれる彼女は、最初はとっつきにくかったが、麻雀を通じて打ち解け合い、今では良い友人だ。

 プライドが高く頑固者の雀明華(チェーミョンファ)は、ネリーにとって苦手な存在だった。しかし、行動を共にしてみると、彼女のポンコツさが目についた。ネリーの苦手意識は払われ、なんでも話せるようになった。

(智葉?)

 日本の友人である辻垣内智葉がネリーに鋭い眼光を向けている。

「ネリー……私も、宮永咲を倒したい」

 予想していた智葉のライバル宣言だった。ある意味、最強の敵だと言ってよかった。咲によって覚醒した辻垣内智葉は、高鴨穏乃や大星淡を超える存在かもしれない。

(宮永……お前はどうしてこんなに敵を作る?)

 ネリーの宿敵は驚くほど気が多い。なんで自分だけでは満足してくれないのか? そう思うと、ネリーは可笑しくなった。

「いいよ、じゃあ智葉は今から私の敵だよ」

「それは困る。私は卒業までお前とは友達でいたい」

 冗談交じりのネリーの挑発に、智葉は真顔で答える。

 留学生の3人は、それを呆れ顔で見ている。

「日本ではそんな都合の良いことがまかり通るのですか?」

「まかり通るってどういう意味?」

 難しい日本語をよく知っている郝の言葉に、雀が質問をする。こうなるともう一人のお節介が口を出すはずだ。

「通用するという意味デスネ。もちろんネガティブな話デスガ」

「おおー、面白い。智葉、それはまかり通るのですか?」

「私は、卒業まではというのが気になりマスネ。卒業したら、私たちはポイ捨てデスカ?」

「そ……そういう意味じゃない」

 滅多に見られない智葉の慌てぶりに、ネリーたちのクスクス笑いは止まらない。

「まったく……分かってるくせに」

「もちろん。私たちはForeverデスカラ」

「メグ、英語を混ぜるのは反則だよ」

 それぞれ母国語が違うネリーたち4人は、日本にいる間は日本語で話そうと決めていた。メガンは、母国語である英語を混ぜたので雀からルール違反を指摘される。もっとも、メガンは、わざとそうしていた。それは雀にも分かっていた。

「ちょっと度忘れしまシタ。ネリー、Foreverは日本語でなんといいマスカ?」

 お節介にもほどがある。メガンは、その言葉をネリーにしゃべらせたかったのだ。

 皆、ネリーが話すのを待っている。友人たちの前で意地を張る必要はない。少し恥ずかしくはあるが、ネリーは素直な気持ちで、その言葉を口にした。

「私たちは……永遠だよ」

 いい言葉だと思った。ネリーはその日本語が大好きだった。

 

 

 最終ラウンド対局室

 

 ――東四局4巡目。宮永照の自摸牌は【発】であった。切れば福路美穂子が副露してくれる。だが、照はすぐにはそれを切らない。3巡先で嶺上開花が発動するのが分かっているのだ。切るのはその直前しかない。

(……まさか)

 鳥肌が立つような悪寒(おかん)が走った。その巡目、咲は自摸牌を親指で盲牌したまま隠している。そして、そのまま咲は、その牌を河に置いた。

【発】

 美穂子は即座に副露宣言しなかった。一枚目を見送るかどうか迷っているらしかったが、照が自摸動作に入る直前に美穂子は決断した。

「ポン」

 福路美穂子ならば、そうするだろうと思った。咲を徹底的に調査しようと試みる彼女は、あらゆる想定のデータを求めている。咲に副露したらどうなるか? どんなパターンのデータだって彼女は取りたがるだろう。

(想定内ということか……)

 咲が【五筒】を自模る手段はいくつもある。シリアルデータでそれが想定されているのならば、止めるのは困難だ。

(いいよ、この局はお前にくれてやる。勝負は南場だ)

 ――東四局5巡目。照は不要牌となった【発】を捨てる。手牌の中から捨てられた【発】を見て、美穂子ならばその意味が分かるはずだ。咲の打牌は無意味ではない。そこにはロジカルな罠が潜んでいる。

 美穂子が照の河と顔を交互にみている。どうやら理解したようだ。

(そうです。あなたはレッドサイドの力を垣間見(かいまみ)るのです。それは普通の打ち方では対処できません)

 美穂子に咲の力を過剰に警戒させる。それにより、彼女の変数にイレギュラーを発生させられる。

 照はプラスマイナス・ゼロ攻略の隠しカードを切った。

 

 

 宮永照の【発】切りは、福路美穂子にとって謎かけのようなものであった。照は、その【発】を手牌の中から出した。照魔鏡により、美穂子が【発】の対子を持っていたのと、聴牌が遠いのも分かっていただろう。ではなぜ彼女は【発】を保持していたのか? それが第一の問だ。

(照さんはタイミングを見計らっていた。おそらく咲ちゃんの嶺上開花を崩すタイミング)

 そして第二の問。なぜわざわざそれを美穂子に教えるのか? 考えすぎだと言われればそれまでの話だった。照は単に不要となった牌を切っただけかもしれない。だが、美穂子はそう思えなかった。宮永照は、美穂子にヒントをくれているのだ。宮永咲の強さの秘密とはなにか? その考察へのアドバイスをしてくれていた。

(嶺上開花を崩さなければ負ける。それはこれまでも分かっていたこと。照さんが教えたいのはそれじゃない)

 久保貴子が天才肌と認める洞察力が、咲の真相に迫る結論を導き出した。

(ウインダム・コール……咲ちゃんの力は、本当に“巨人”と同じなの?)

 咲のプラスマイナス・ゼロとは“アルゴスの百の目”の改良ではないか? 美穂子もそう考えたことがある。ただ、プラスマイナス・ゼロという非建設的なスタイルが、その推察を打ち消してしまう。それは改良ではなく改悪だからだ。好き好んでスペックダウンする者などいるわけがない。

 ――神代小蒔が機械的に牌を自模り手牌の中に入れる。ほぼランダムな位置の牌をつまんで捨てた。多分、小蒔は理牌をしていない。

(神代さんが咲ちゃんサイドだとしたら……)

 なんの裏付けもないが、美穂子は直感的にそう考えた。

 そうなると、謎かけの答えは一つしかない。

(照さん、私に協力しろと言っているのですね。いいですよ。ただし、条件はバーターです。私は咲ちゃんの情報を要求します)

 美穂子の自摸牌は【一萬】だった。その牌を切ると、咲に副露される可能性が濃厚だった。それでもいいと思った。照との取引条件には、彼女を勝たせるという項目は含まれていない。それならば、咲の力を確認させてもらう。

「チー」

 予測どおりの咲の副露。これではっきりした。宮永咲とウインダム・コールはイコールなのだ。

(流れを元に戻した……これも既定路線なのね。でも、照さんはその破り方を知っている。私はそれを……それを見極めなきゃ)

 

 

 個人戦総合待機室 新道寺女子高校

 

 鶴田姫子は、完全に回復していなかった。会場の隅に、救急用のベンチシートがあるので、彼女はそこに寝かされている。

 本来なら、まだ医務室で寝ているべきだったが、彼女にせがまれ、花田煌がここに連れてきた。

 彼女を囲むように、新道寺女子麻雀部のメンバー、コーチ、監督がいた。

「部長……どっちに勝ってほしかと?」

「複雑やなあ……」

 姫子の最もそばにいるのは、部長の白水哩だった。彼女は、この個人戦で宮永姉妹両方と対戦し、敗北していた。しかし、哩の表情は、決して暗いものではなかった。幼馴染の姫子の成長や、力を出し切ったという充実感が、彼女に安息の時を与えているのだろう。

「妹は姫子に任せてよかか?」

「はい」

 哩が、その穏やかな顔で煌を見ている。言葉ではなかった。哩は、その表情で、姫子を煌に託した。

 煌が頷くと、哩は満足そうに笑った。

「うちゃ、姉妹両方ん想いば知っとーつもりばい」

「……」

「姫子、二人の顔ばよう見てみんしゃい」

「笑いよーね」

 哩はそうだと言うように小さく頷いた。

「こん笑顔には、楽しさと哀しさが一緒になっとー」

「……」

「チャンピオンは……死ん気やった。心変わりしてくれたらよかけど」

「そがん……どがんしたらよかっちゃか?」

「うちにも分からん」

 姫子は血相を変えていたが、哩は、話の内容につり合わぬ笑顔だった。

「ばってん、こん子なら……なんとかしてくるっかも」

 哩が『この子』と言った時、画面に映っていたのは宮永咲だった。

「妹……と」

「こん勝負……チャンピオンん勝つしか二人ん生き残る道はなか」

「妹はわざと負くっんか?」

 哩は首を振った。

「ちがうよ姫子。妹んチャンピオンに要求しとーと」

「なんて?」

「自分に勝って見せれ。妹はそう言いよーと」

 哩の顔が厳しくなる。『お前が倒すべきと決めた相手はそれほどのものだ』と、姫子に言っていた。

「うちがおらんごつなってん、わいには花田がおる。負けてはいけん。よかか姫子、負けてはいけんばい」

「はい」

 哩は姫子を見ていなかった。さりとて、煌を見ているわけでもなかった。因縁と言える宮永姉妹が闘っている画面を見つめていた。

(部長の悔しさは……私と姫子が必ず晴らします。見ていてください。新道寺は不滅ですから)

 煌も表情でその想いを哩に伝える。どうやら通じたようだ。哩の表情から、(うれ)いが消えていった。

 

 

 最終ラウンド対局室

 

 妹の宮永咲と闘う場合は、良い意味でのあきらめが必要になる。“アルゴスの百の目”は、序盤で崩さなければ咲の意のままになることが多い。現在は東四局の7巡目。まだ序盤であると言えたが、4巡目に咲が【発】を切った時点で、照の攻略は失敗していた。

(よくあることだ……次につなげるしかない)

 照は、平和、断公九、一盃口の一向聴まで手を進められたが、そこまでであった。

 この巡目で連続槓の発動が見えていたからだ。自分の手牌にも、福路美穂子の手牌にも、それを阻止する駒がなかった。

(三連続槓からの嶺上開花……何度見ても信じられない。嶺上牌が見えているのは分かる。だけど、どうしてその槓材がお前に集まる?)

「カン」

 照にとって、それはもはや様式美であった。

 舞を舞うような妹の手さばきに見とれながら、照は改めて考える。

(牌に愛される……咲、お前はそうなのかもしれないね。お前は牌を愛し、牌はお前を愛する。だから麻雀を楽しいと感じられる。でも私は違う。ダンテの定理にとって、牌はただの信号機にすぎない。愛したり愛されたりする意味がない)

 咲が右腕を高く上げて、ゆっくりと下ろす。指先には表にされた三枚目の嶺上牌があった。

 咲は、静かにその牌を卓に置く。

「ツモ、嶺上開花、三槓子、役牌、ドラ3。3000,6000」

 その三連続槓は、照の脳裏に幾つかの過去をフラッシュバックさせた。

  初めての三連続槓で、祖母と母親が驚く姿。

  その三連続槓で、自信満々だったミナモ・オールドフィールドが慌てふためく姿。

  そして、照を廃人同然にした〈オロチ〉の暴虐的な笑顔だ。

(本気なんだね……私がお前を……〈オロチ〉にしていいんだね?)

 言葉は、必要なかった。照と向き合う妹の目が伝えるのは、『自分に勝って見せろ』というシンプルな要求だった。

 

 神代小蒔が起家(チーチャ)マークを【南】に裏返す。宮永照は妹と共に生きる道を模索し始めた。姉妹そろって滅ぶのが一番いいことは分かっている。だが、妹はそれを拒絶していた。照に生きろと言っていたのだ。

(お姉ちゃんも全力で闘うよ……でも、結果は保証できない。それでいいね? 咲)

 全力で闘った結果ならば、望まぬものでも受け入れる。それは、勝負師らしい割り切だと言えた。

(何巡で復活するか……)

 咲に嶺上開花を決められてしまった。これから数巡の間、ダンテの定理は無効化される。その理由は、師であるテレサ・アークダンテが推測していた。

(『王牌は自分たちにとって死んだ牌。咲は、その死に牌を嶺上開花で蘇らせる』)

 テレサは、咲の嶺上開花をそう言っていた。加速し続けることで最大の力を発揮するダンテの定理に、咲は嶺上開花という壁を作って妨害する。ただの障害物なら減速して()ければいいのだが、壁ならば一旦停止するしかない。

 抽象的ではあるが、妙に納得できる推測だった。復活までのタイムラグは、ダンテの定理の再加速に必要な時間だと思った。

 ――南一局の配牌が終わった。照は、照魔鏡で面子の手牌を確認する。

(なに……?)

 異常な手牌を持つ者がいた。その者の手牌はすでに3,4,5の三色同順が成立しており、筒子は一盃口も狙える勢いであった。

(ドラ2なら24000。神代さん……それを上がるつもりか)

 小蒔が咲をサポートするのなら、この和了はありえなかった。それにより、咲は役満レベルの加点をしなければプラスマイナス・ゼロが成立しないからだ。

 しかし、小蒔は次々と有効牌を手に入れ、わずか5巡で聴牌した。照は、まだダンテの定理が復活してもおらず、小蒔の和了を止める手立(てだ)てがなかった。

(咲……)

 照は、妹が小蒔に対抗できるかを確認する。

(まったく手が進んでいない……まさか、これも想定内ってこと?)

 照は、久しぶりの感覚を味わっていた。それは焦りだ。勝負に負けるかもしれないというピュアな劣等感だった。

(私が……生きてるってこと?)

 死者ならば、そんな感情は芽生えない。自分は生きる道を探している。咲と共に生きる道を探している。

「ツモ、門前、平和、断公九、一盃口、三色同順、ドラ2。8000オール」

 6巡目に小蒔が親の倍満を和了した。その予想外の展開に、照の手に、生者としての証である汗が(にじ)んでいた。

(勝つしかない……だって、咲がそれを望んでいるのだから)

 

 南一局までの総合得点

  神代小蒔   291700点

  福路美穂子  290600点

  宮永照    290000点

  宮永咲    267000点

 

 

個人戦総合待機室 永水女子高校

 

「春ちゃん! 姫様は?」

 現時点で、神代小蒔の体内には直霊(なおひ)が存在しておらず、残存している“オモイカネ”のオートマチック・デフェンスで摸打を行っているだけのはずであった。しかし、南一局に、まるで小蒔の意思があるかのように倍満を和了した。

 石戸霞は現状把握ができなくなり、たまらず滝見春に確認をした。彼女は、六女仙(ろくじょせん)の中で、小蒔に次ぐ霊感力を持っていた。

「いない……咲ちゃんにもいない。姫様はこの会場からいなくなっている」

「じゃあどうして咲ちゃんに反応したの?」

「多分……“オモイカネ”のリフレクション」

「リフレクション……反射だって言うの?」

 春は若干間を空けて頷いた。

(本来なら咲ちゃんの和了そのものを阻止できる。だけど、小蒔ちゃんがいないから……)

 霞は、そう結論した。小蒔から“オモイカネ”の力を少しだけ聞いていたからだ。“オモイカネ”はレシーバーを埋め込んだ相手を常に上回ることができるという。今回ならば、小蒔は咲のすべてを封じることができるはずであった。ただ、小蒔という最強のリアクターがいなくなった“オモイカネ”は、想定されていた対象者の結果にしか反応できなくなっているのだ。

(小蒔ちゃん……これが、あなたの選択なの? 残された私たちは、どうしたらいいの?)

 それは、率直な霞の気持ちであった。とはいえ、小蒔が戻ってくるまでは、年長者である自分が六女仙をまとめなければならない。半年、いや、1年以上かかるかもしれない。小蒔の身体を保護し続け、直霊の帰還を待つしかない。それまでは、弱音など口にできなかった。

 

 

 最終ラウンド対局室

 

 なぜ神代小蒔が、宮永咲を〈オロチ〉化できたのか? その理由を宮永照は理解した。あらゆる抵抗が排除され、最短で目的の役を作り上げる小蒔の力は、咲のプラスマイナス・ゼロだって敗れるだろう。

(でもね、神代さん……私も咲も、あなたを脅威とは思わない)

 麻雀には異常とも思えるほどツイている人間が(まれ)に出現する。その手のつけようのなさは、今の小蒔の力に類似していた。

(継続的な強さ……私と咲は、それを追い求めていた。あなたや戒能プロのような、瞬間的な強さによる敗北は、私たちは無視できる)

 いや、と、照は思った。自分はそうであるが、妹の咲は違っていた。

 もしも、自分の手で咲が〈オロチ〉になってしまえば、それ以降、一切の敗北が許されなくなる。〈オロチ〉とは敗北の否定が根源になっているからだ。

(咲、お前はね、くしくもウインダム・コールと同じ道を歩むことになる。対戦する相手を選び、負ける可能性のある相手とは闘わない。お前の好きな原村さんは、その筆頭だよ)

 ――南一局一本場。小蒔が高揚のない声で宣言をした。サイコロが6と4で止まり、照の前の山から配牌が始まった。

 局が進まなかったことで良しとしなければならなかった。ラス親とはいえ、ここは高めを狙う必要がある。咲の役満クラスの和了に備えるためだ。

(この局か次の局……オーラスは、いつものようにスピード勝負)

 それは、照が苦しめられたプラスマイナス・ゼロの必勝パターンだった。咲は、最後に嶺上開花を上がれば良いだけの状態に点数調整をするのだ。そうなると照魔鏡でも、ダンテの定理でも止められなかった。一桁巡目で咲に上がられてしまう。

(こっちもリミッターを切らなきゃ……)

 配牌が終わり、照は、面子の瞳の影を探った。相手に順子等が幾つあるか確認してから眼球に映る牌を見る。そうすることにより、不明確な牌の確定時間を短縮できる。

(咲……)

 照は、この局が勝負の行方を左右すると確信した。

 妹の手牌には、対子が三つ、刻子が一つあった。咲ならば、暗槓を絡めた四暗刻だって狙える。無論、連続槓からの数え役満にだってできるかもしれない。とはいえ、照も無策ではなかった。手牌には、咲の持ち牌と重複しない索子が多数あり、清一色(チンイツ)が狙えそうだった。

(福路さんの【八索】の対子が鍵か……神代さんの【九索】は単独牌。すぐに切られる)

 照は【三索】【五索】(赤ドラ)【八索】と【一索】【九索】の対子を持っていた。カンチャンが多く積極的に手を進めにくい状態だが、どこかに嵌ると上りの目が出てくる。それに自分が清一色を作る時はあまり鳴かないことも咲は知っている。そういった不確定要素をどんどん増やさなければ、プラスマイナス・ゼロは破れない。

 1巡目。咲の手は進まず、不要牌の【西】を捨てた。刻子は【発】、対子は【一萬】【四萬】【六筒】を持っている。【発】が切られて、咲が鳴くか鳴かないかで、四暗刻狙いかどうかを判別できそうだ。

 照の第一自摸、前回の局が短かったので“ダンテの定理”が復活しているかが不安だったが、それは杞憂(きゆう)であった。

 照の自摸牌は【一索】。近づく牌である【二索】が青く色づいていた。

(6巡目の神代さんの自摸牌。大丈夫、引き込める。あとは咲次第か……暗槓なら自摸牌は移動しない)

 咲が四暗刻ならば鳴くことはない。序盤での断定はリスクが高いが、それは覚悟の上だ。妹が相手の場合は、二の手三の手を考える余裕はない。判断の遅れが命取りなってしまう。美穂子と小蒔は現状副露の要素がなく、これに賭けるしかない。

 3巡目。咲は【一萬】を自模り、手を進めている。焦りはもう感じなくなった。照は完全に過去を思い出していた。互いに無言でプレッシャーをかけ合うこと。咲との対局は、これが普通であり、当たり前だった。

 照の指に伝わる自摸牌の情報は【五索】だった。これで対子になり、少し手が進んだが、【六索】出現時期は14巡目以降と判明した。

(どうする……勝負できるか?)

 そのジレンマは一瞬であった。4巡目に小蒔が【九索】を切ったからだ。

「ポン」

 予定調和である【九索】の副露だ。これで【二索】は照が自模ることになる。

 美穂子が(さら)された【九索】を眼光鋭く見ている。これがなにを意味するか考えているのだろう。やはり彼女は切り札足り得る(たりえる)存在だ。

 逆に妹は、顔色一つ変えていない。アークダンテ一族の悪習に、照は微かな溜息をついた。

(絶対に感情を表に出すな……おばあちゃん、それは正しいよ)

 自分たちは、祖母のテレサ・アークダンテからそのように叩き込まれ、実践している。照は、その正しさを改めて実感した。

 この副露は効果があったのか? 咲の表情からはその答えは得られない。いや、彼女の打牌からもその答えは得られない。自分たち姉妹の対決とは、(おのれ)との闘いであった。疑心暗鬼にならず、自分の麻雀を貫いたほうか勝利を得られるのだ。

 照は再度自摸番が回ってきた小蒔の手牌を確認する。序盤で無駄牌を処理し、その後は危険牌や安牌を保持し続ける。東局で見せた降りるパターンを実行していた。

(トリガーは咲の上りか?)

 前局、神代小蒔は生き返ったかのように倍満を上がったが、再び和了の意思のない打ち筋に戻っていた。深く考察している時間はない。咲が上がらなければ小蒔も上がらない。現状はそう捉えるしかない。

 美穂子の手牌に【五索】が加わった。照が索子の染め手を作っていると判断しているはずなので、彼女はその牌を保持するだろう。ただし、理由は危険回避ではなく、プラスマイナス・ゼロへの対抗因子(たいこういんし)を探るためだ。いいぞ、それは、まったくもって正しい。

(副露された牌は、河には残らない。そうです。咲は、河のシリアルデータしか見えていません。牌が切られたプロセスまでは分からない。手持ち牌とデータに差異が発生した場合のみに咲のプラスマイナス・ゼロは破綻(はたん)する)

 福路美穂子ならばそれを理解してくれる。そうでなければ、この勝負は敗北する。

 咲の自摸牌は【発】だった。これで槓子だが表にはしていない。照の選択肢を増加させる最も効果的な戦術だった。

(いつでも槓できる……嶺上開花で使うのか、手を進めるために使うのか。どちらも想定しなければならない。実質四暗刻一向聴か)

 妹に先行されたが、照は冷静であった。ゆっくり山に手を伸ばし、自摸牌を引いた。

【三索】

(薄いか……でも、これで追いついた)

 “ダンテの定理”により8巡目に照が【四索】を自模ることが確定した。待ちは薄くなるが、それは咲も同じ条件だ。

 6巡目。照は想定どおりに【二索】を手に入れた。

 そして7巡目。咲の自摸牌は【六筒】で、嶺上牌を考えると聴牌状態だった。【四萬】の対子の他は、【北】と【七萬】だ。そのどちらかが嶺上牌なのだ。

(分かったよ……じゃあお姉ちゃんも奥の手を使うからね)

 自摸牌は、不要牌の【南】であった。しかし、照はそれを切らない。もっと意味のある牌を切る。

 それは【八索】。福路美穂子へのメッセージだ。

「ポン」

 照魔鏡下であり、染め系が濃厚の照から出された索子に、美穂子はその意味を探ろうとした。

 そして美穂子は、貪欲に追加説明を要求した。

「ポン」

 切られた牌は【五索】だった。

(咲は……あなたがそんな投機的な動きをする人間だとは思っていません。それが、“アルゴスの百の目”を崩す重要なファクターです)

 母や祖母、ミナモ・オールドフィールドの無駄を切り捨てたソリッドな打ち方が咲の変数定義のベースになっている。この美穂子のデータ(がた)は想定できないはずだ。

 ――8巡目。ここで咲が【四萬】を引いたら彼女の勝ちだ。崩すのが遅かったか、あるいは、すべて読まれていたかのどちらかだ。それでもいい。次は失敗しなければいいだけだ。

 妹は自摸牌手牌の横に置き、僅かに考えてからそれを河に置いた。咲の表情は変わらない。だが、眉が少しだけ動いた。照は、この局はアルゴスの百の目を崩せたと確信した

(11巡目か……)

 照は、【四索】を自模り聴牌した。死にゆく牌である【五索】は、11巡目に引くことができる。咲が鳴くことはない。小蒔と美穂子は上がる意思がない。とはいえ、まだ油断はできない。咲には驚異的な自摸運があるのだ。

 

 

 11巡目。宮永照は、清一色、ドラ1の跳満で和了した。そのあまりにも複雑な工程に、福路美穂子は衝撃を受けていた。

(この三年間、照さんは“絶対王者”として私たちの壁になっていた。その彼女が、ここまでしなければ勝てない相手……。華菜、私たちはとんでもない強敵を倒さなければならないのよ)

 南二局を始めるために、美穂子はサイコロを回す。

(もっと、もっと情報が必要。咲ちゃんを倒すための情報が……)

 

 

 個人戦総合待機室 風越女子高校

 

「池田ァ、吉留、福路の闘いを目に焼き付けておけ」

「はい」

 珍しいこともあるものだと、池田華菜は思った。久保貴子の声はいつものように厳しいものであったが、その表情には悔しさが浮かんでいた。

(コーチ……そういうことですか)

 貴子は、なにかにつけ今年の団体戦メンバーは最悪だと言い、キャプテンである福路美穂子を辛辣(しんらつ)に扱っていた。その容赦のなさに、華菜は憎しみさえ覚えたが、美穂子は逆に貴子を(かば)うことが多かった。

(キャプテンは、コーチの作り上げた最高のプレイヤーなのですね)

 貴子の厳しさは、すべて美穂子のためだったのだ。愛情を厳しさに変換し、美穂子を鍛えぬいた。そして、その愛弟子が、今、なりふり構わず宮永咲の情報を集めている。きっと、彼女は無念に違いない。

 それを見守る貴子の目には、薄っすらと涙が浮かんでいるように見えた。

「コーチ……来年こそはインターハイに来ましょう」

 貴子が仏頂面(ぶっちょうづら)を動かした。

「今年は最悪だったが……来年はもっと最悪だ」

「大丈夫ですよ。キャプテンが集めてくれた……」

 感極まり、華菜は、言葉に詰まってしまった。

 もう二度と泣かないと決めたのだ。涙を流すと、今言った言葉がすべて嘘になってしまう。

 華菜は、口を結んで、目を大きく開けて貴子と向かい合った。

「……情報があれば、宮永咲を倒せます」

「吐いた(つば)は呑み込むなよ」

「はい!」

 貴子の口から牙が見える。

「池田ァ、福路の後はお前だ。準備しておけ」

「はい」

 

 

 インターハイ個人戦 一般観覧席

 

「幻影と現実を区別でけへん。そやさかいうちらはこの姉妹には勝たれへん」

 高鴨穏乃の隣には、待機室を抜け出してきた荒川憩がいた。対木もこと席を入れ替えて座っていた。

 その憩が顔を傾け、真意の分からぬスマイルを穏乃に向けた。

「そういうたら穏乃ちゃんもそうやなあ」

「荒川さんだってそうでしょう?」

 憎めない人ではあるが、怖い人でもある。荒川憩との会話は楽しくはあるが、将棋や囲碁の試合のような疲労感が残る。

「咲ちゃんにはライバルが多すぎる」

「ライバルですか?」

「せや。穏乃ちゃん、大星ちゃん、原村ちゃん、臨海の二人……もう言いきれんわ」

 穏乃も苦笑いするしかなかった。その他にも、咲にコテンパンにされた大阪勢や九州勢、それに長野勢を加えると、本当に頭が痛くなる。

「そやからうちはインチキを使うことにした」

 袖を新子憧に掴まれた。

「シズ……この人面白い」

 憧は、口を手で押さえ、笑いをこらえているようだ。松実玄を笑いの沸点が低いと馬鹿にしていたくせに、彼女のそれも五十歩百歩だろう。

 穏乃は憧を無視して、憩の気になる言葉を問いただす。

「インチキって、どういう意味ですか?」

「三箇牧 にも友達がようさんおった。ずっとあそこにおりたかってんけどなあ」

「?」

 憩の答えは要領を得なかった。しかし、穏乃の隣には、そういうことに()けたパートナーがいた。

「荒川さん……あなた、長野に……」

 憧の推測に、憩が正解の証の意味深なスマイルを贈った。

「どや? てっとりばやいやろ。穏乃ちゃんたちはインターハイに来な咲ちゃんと対戦でけへん。しかも、くじ運付きやで。せやけど地区予選なら、ほぼ100%やで」

「風越ですか?」

 不思議なほど冷静に穏乃は答えた。憩の発言は、確かに驚くべきものではあったが、それでなにかが変わると思えなかった。

「あそこは福路さんの遺産が大きすぎる。南浦プロのお孫さんも加入するとなっては、咲ちゃんと対戦でけへんかも。龍門淵もそうやな、天江さんとお嬢さんがいてる」

「敦賀……なるほど」

 戦力的、精神的支柱である加治木ゆみが抜ける敦賀は、実質、東横桃子頼みになってしまう。そこに荒川憩が加われば、長野は魔境どころではなくなる。

「でも、敦賀には……」

「もう一人やろ? ここにおるで」

「……もこちゃん?」

 憧が呆れている。実に用意周到で抜け目なかった。団体戦を考えるならば、たとえ憩が加入しても、敦賀は戦力不足だか、そこに対木もこもプラスされるのなら、清澄高校に匹敵するレベルになる。

「ケイはまだ闘える身体ではない。だから私が補助する」

 憩の最終兵器とも言えるもこが話を肯定(こうてい)した。もうすでにこの計画は動いているのだ。

「なんや。驚かへんね。咲ちゃんを信じてるってこと?」

 憩が不満そうに言う。

「ええ、まあ」

「ほんま……強なったなあ」

「私にも、いろいろありましたから」

 宮永咲と闘った者たち共通の価値観。憩にもそれがあるのだろう。穏乃の曖昧な答えでも彼女は納得してくれた。

「見てみい、穏乃ちゃん」

 憩が、画面に顔を戻して言った。そこには咲の手牌が映されており、会場が大きくどよめいた。

「ごっついことになっとんなあ」

「まあ……宮永咲ですから」

 

 

 最終ラウンド対局室

 

 宮永照が母親から引き継いだダンテの定理の恐ろしさは、スタック機能にあると言えた。加速し続けることで死にゆく牌の見える枚数が2枚3枚と増えていく。そのピークの4枚に達した場合、ほとんど場を制御可能になる。妹の宮永咲は、そのダンテの定理の秘密を知っている。だから咲は、嶺上開花という王牌(わんぱい)を駆使した圧力で連荘を切りにくる。

(おばあちゃんの言う鉄砲玉を撃った。でも、一つは見える)

 祖母や母は決して加速リミッターを切らなかった。しかし、照は、照魔鏡を使うようになってから、それをよく切った。つまりは、いきなり高い手で上がったり、前の手から減速したりすることだ。テレサ・アークダンテは、それを評して鉄砲玉と言った。

(最初が最大速度で、あとは減速するだけ。だから、この半荘はもうスタックすることができない)

 それは照が不利になったという意味ではない。姉妹の対決では、このように相手の手札を次々と開けていく。そして、それが()きたほうが敗北する。

 ――南二局8巡目。咲は前局とほぼ同じ戦術の仕掛けをしてきた。すでに【南】の槓子を持っており、刻子を一つ、対子を二つの一向聴と言っても差し支えない状態だ。対する照は、平和ドラ1の二向聴で、だれも鳴かなければ次巡で一向聴になる。さらに照が有利なのは、福路美穂子が平和一盃口で聴牌していることだった。彼女の上り牌【二筒】は14巡目に登場する。自分が及ばない場合は、美穂子に上がらせる。局が進まず、咲の役満を阻止できるのなら文句なしだ。

 次巡、咲の刻子は二つになった。もしも、もう一つ刻子ができるか、対子が二つになったら、咲は【南】の槓子を晒し、嶺上牌で上がるだろう。恐ろしい手ではあるが、積極的な副露の可能性は排除できる。三槓子、三暗刻、役牌では、嶺上開花で上がっても倍満止まりだからだ。

(……次の福路さんの捨て牌で断公九にスイッチできる)

 照はその自摸牌により一向聴となった。そして、牌がもたらした情報により、咲のレールに石を置ける可能性が見えた。

 美穂子のことだ、咲がまだ聴牌していないことは察知している。彼女は聴牌しているから【二筒】以外は自摸切りするしかない。

 10巡目。照は断公九への切り替えを決めた。14巡目の美穂子の和了は咲に想定されていると判断したからだ。いや、それは考慮されてもいないだろう。なぜなら、それは見えていないからだ。そこにたどり着く前に、咲は四暗刻で和了する。

(何度か試したことのある切り替え……一度も成功しなかったけど、今回は福路さんのサポートもある)

 過去の役の切り替えは、咲からの重圧による焦りが要求するものだった。だが、今回はそうではなかった。美穂子という乱数がもたらす新たなタクティクスなのだ。決して苦し紛れではない。

 その反面、照は失敗したその後も考える。それは照にとって当然のルーチンだった。なにしろ妹が相手なのだ。どんなに綿密に仕上げても、その成功率は5割に満たない。

(また神代さんが動くのか? 咲が四暗刻なら、同等かそれ以上)

 前回の例から考えると、そう見なすことができる。だとすると、親番の咲は16000点を失う。プラスマイナス・ゼロの達成は厳しくなる。

(あと3巡……)

 照の待ち牌は【五萬】と【八萬】だった。両牌とも小蒔が一枚ずつ持っており、まず出ることはない。

 11巡目。美穂子が山に手を差し向けた。もしも、彼女が照の当たり牌を引いたらどうなるか? 彼女が照に差し込むのは(げん)をまたない。どういうシーンでならそれが通用するかは、求めてやまないデータのはずだ。

 美穂子の自摸牌は当たり牌ではなかった。必死に感情が出ないようにしていたが、唇を軽く噛み締めている。無理もない、ここまでプレッシャーかけてくる相手とは闘ったことがないだろう。

 続く咲も手が進まなかったが、その手牌の槓子からの威圧が凄まじかった。

(槓とは自然的なもので、本来は特殊な意味はない。だけど、お前や淡の槓は……反自然的なものだ)

 槓が関連する特殊役は、偶然の産物であり、加点はお年玉のようなものだ。だが、妹たちは、偶然を必然に変えている。それは麻雀のセオリーに反逆するものだ。

(私も……そうだったね。そうでしょう、咲)

 照の自摸牌も字牌であった。残り2巡、それが妹から与えられたタイムリミットだ。

 

 

 敦賀学園 麻雀部部室

 

 東横桃子から悲鳴に似た声が漏れていた。宮永咲の四暗刻和了を見てのものだろう。他の三人も、声こそ出さぬが、桃子と同じ、呆れとも、恐怖ともつかない、漠然とした不安に包まれていた。

 加治木ゆみは考える。我々は長野に住んでいる。画面に映る宮永咲を倒さぬかぎり、来年も敦賀は、地区予選敢闘賞が関の山だ。現状を打破するためには、大きなテコ入れが必要だった。

「桃、どうだ?」

 ゆみは、意図して曖昧な質問をした。『勝てるか?』と聞いたら勝てるか勝つように努力すると答えるだろう。『どうだ?』と聞かれたら、桃子は正直な気持ちを言うはずだ。

「きついっスね……」

「そうか」

「……」

 桃子は、咲と相性が良くなかった。ステルスという力も、この大会を()た咲の前では、無力化されてしまう。

(南浦数絵は風越に取られてしまった。……他にいないか?)

 ゆみは県内に限らず県外も範囲に入れて考えてみる。咲に負けた相手で二年生以下が対象だ。東京、大阪、九州、どの面子も、チーム愛が強すぎて引き抜きは不可能だった。

(いや……一人いた)

 ゆみは、この構想をメンバーに伝えるべきかを迷った。成功するかは分からない。ただ、アプローチはかけてみたい。きっと彼女なら乗ってくるはずだ。

「蒲原!」

「なんだー、ゆみちん」

「私とお前とで最後の仕事だ」

「大学も一緒なら最後じゃないぞー」

「そうじゃない! この麻雀部への最後の奉仕だ」

「奉仕?」

 ゆみは立ち上がった。そうと決まればのんびりとはしていられない。

「すぐ顧問に会いに行くぞ。今日は学校にいるだろう」

「じゃあ、試合が終わってから――」

「すぐだ!」

 あまりの剣幕(けんまく)に、部員全員が引いている。

「せ……先輩。どうしたんスか?」

 もうこうなっては隠し通せない。皆に伝えるしかない。突拍子もない話だが理解してもらえると信じる。

「私は……」

「……」

「荒川憩を……敦賀に引き抜く」

 

 

 最終ラウンド対局室

 

(やり返されたか……私が福路さんとコンビ打ちをしたように、お前も神代さんと……)

 そうとは言いきれなかった。前局の咲の役満に対し、この南三局。神代小蒔は、配牌時で字一色(ツーイーソー)の三向聴だった。宮永咲は、のみ手の三向聴。宮永照も【発】を副露できたら二向聴で、一巡目で、咲の捨て牌を副露できた。小蒔に対して打つ手なしというわけにはいかなかった。アークダンテの血が、苦手意識に拒絶反応を示していた。どうにかして小蒔を解明しなければならないと思った。

 そこが咲の狙い目だった。なんの意味もない【三索】をポンすると、次々に有効牌が咲の手に入っていった。照も後を追いかけるが、その速度に追いつけず、咲に嶺上開花の聴牌を許してしまった。しかも、小蒔の手は三向聴から一歩も動いていない。

(倍数にできない数字……0と100……)

 照は直感的にそう考えた。咲が上がれない0の時、そして役満の100の時、それらでは神代小蒔の能力は発動しない。なるほど、よく考えられている。わが妹は、その特性を理解した上で、姉の照に陽動を仕掛けて成功していた。

 そして、その結果がもたらすであろう局面を、照は瞬時に理解した。

(おもしろい……本当におもしろい。いいよ、このゲームを続けようじゃないか)

「カン」

 咲が【八筒】四枚を組み替えて晒した。もう結果は見えている。

 照は笑顔でそれを見守った。

「ツモ、嶺上開花。700オール」

 

 

 インターハイ運営事務所

 

「か……戒能ちゃん、これどういうこと?」

 三尋木咏が瞬きもせずに戒能良子を見ていた。なにが起きているか分からない様子だ。

「おそらく……でいいですか?」

「いいよ」

 実は良子にもこの現象の正しい説明はできなかった。ただ、既知(きち)であるパーツを組み合わせた推測は可能だ。ベースは分家に伝わる“オモイカネ”の特性だった。

 “オモイカネ”は『常に相手を上回る結果を出す』という。その結果が数字ならば、上回る結果も数字でなければならない。0になにをかけても0にしかならない。そして、麻雀の最高得点である32000点ならばどうか? いや、48000点という上回る数字もあると思うかもしれない。ただ、それは親の場合の点数だ。神代小蒔の親番はすでに終了し、その得点を得られる可能性はない。ということは“オモイカネ”の特性の『常に』という部分が破られている。それが、この異常現象の答えだろう。

(無敵の“オモイカネ”の一部が崩された……いいぞ宮永。これで、神境への反逆の大義名分ができた)

 最強秘術に傷がつけられたからには、神境の長老たちも放置はできない。これで第三勢力への一歩が踏み出せる。

 まあ、それはあとの話だ。今は、敵の敵という意味での味方を作っておくことだ。

「相手の得点を上回れなければ、姫様の力は出現しません」

「役満以上の点数がないからってこと?」

「そう思います」

「宮永咲はそれを知っていたと?」

「知らなければ、こんなことはできません」

 “わなわなと震える”という言葉がある。今の咏の動向は、まさにその言葉通りだ。

「こんな奴らを…放っておくわけにはいかないねぇ」

「なぜですか?」

「いいかい、私たちだってバカじゃない。このままじゃいけないことは分かっている。ただね、日本はヨーロッパとは違うんだよ。急激な変化は、秩序(ちつじょ)を崩壊させる」

 ――画面では神代小蒔が4200点で和了した。それは、前局、宮永咲の2100点の倍数であった。

「熊倉のばあちゃんと連合して包囲網を作る。戒能ちゃん、第三勢力を作るのはいいけど、邪魔したらあんたも私たちの敵だよぉ」

「小鍛治さんが憎いのですか?」

「ああ憎いねぇ、とっても憎い。憎すぎて愛が芽生えそうだよ」

 良子は声に出して笑った。咏はそれが珍しいようで目を丸くして見ている。

 ひとしきり笑った後に、良子は咏に喧嘩を売ることにした。

「憎悪は積極的な愛情ですからね。でもね、三尋木さん。それには少しだけ異議を(とな)えたい」

「異議?」

 良子は皮肉たっぷりに笑い、頷いた。

「私の宮永姉妹に対する愛情は……あなたよりもずっと深い」

 

 

 龍門渕高校 麻雀部部室

 

 龍門渕高校麻雀部とは、言わば、次期当主龍門渕透華の私設チームであった。メンバーは自由に集まってきた者ではなく、透華自らが、才能を見込んで集めてきた者たちだった。家族同然ではあったが、そこにはきちんとしたヒエラルキーも存在していた。

 当主の透華と、その従妹の天江衣が上位にあり、その他のメンバーはメイドとして従事(じゅうじ)していた。とはいえ、それは強制ではなく、国広一などは、むしろ喜んでメイド仕えしている風もあった。

 しかし、その透華と衣は、テレビ画面を睨みつけて一言も口をきかなかった。自由奔放に見えるメイドたち四人も、二人が話すまで沈黙を守る良識を持ち合わせていた。

 

 最終ラウンド試合経緯(南三局まで)

  東一局     福路美穂子  12000点(3000,6000)

  東二局     福路美穂子   7800点(2600オール)

  東二局一本場  福路美穂子  12300点(4100オール)

  東二局二本場  福路美穂子  16600点(6200オール)

  東二局三本場  福路美穂子   8700点(2900オール)

  東二局四本場  宮永照     3200点(900,1400)

  東三局     宮永照     5200点(1300,2600)

  東四局     宮永咲    12000点(3000,6000)

  南一局     神代小蒔   24000点(8000オール)

  南一局一本場  宮永照    12300点(3100,6100)

  南二局     宮永咲    32000点(8000、16000)

  南三局     宮永咲     2100点(700オール)

  南三局一本場  神代小蒔    4200点(3100,6100)

 

 南三局までの総合得点

  宮永咲    295900点

  宮永照    292500点 

  神代小蒔   281100点

  福路美穂子  269700点

 

 

『いよいよオーラスになりました。藤田プロ、とんでもないことになりましたね』

『確かにとんでもないな。どちらがプラスマイナス・ゼロを決めるか……宮永咲は3900、宮永照は7700が条件だ。それぞれ子と親なので条件はほぼ同じだよ』

『これは、宮永咲選手の仕込みでしょうか?』

『そもそも論だよ、福与アナ。宮永咲は、プラスマイナス・ゼロという手法をよく使う。姉もそうなってしまったのは、偶然かもしれないし、違うかもしれない』

『……率直な意見をお伺いします』

『……』

『藤田プロは、どちらに勝ってほしいですか?』

『解説者は……私情をはさんではならない』

『……失礼しました』

『謝ることはない。答えるよ』

『……』

『私は……宮永照が勝つことを望む』

『……それしかありませんよね』

『そうだな……それしかない』

 

 

 納得がいかないというように、透華が首を(かし)げる。

「衣はどう考えていますの?」

「藤田がいった通りだ。それしかない」

「咲が生き残ったほうがいいと?」

 うつむいて椅子に座っていた衣が、背筋を伸ばして立ち上がり、透華に怒りの顔を向ける。

「当たり前だ!」

「……」

猪口才(ちょこざい)な清澄の嶺上使いめ! こんな痴れ事(しれごと)をして喜ぶ小癪(こしゃく)な精神を叩き直してやる」

 透華がメイドたちにゴーサインを出す。衣を茶化すトップバッターは、井上純に決まっている。

「どうせ口だけだろ。咲が帰ってきたら『サキー遊ぼー』とか言ってさあ」

「純! 今度は本気だぞ」

「衣の本気は信用できないよ。ね、トモキー」

「3割バッタ―ぐらいはある。そこそこ優秀」

 “ぐぬぬ”という文字が見えそうなぐらいに衣が顔を真っ赤にしている。

「衣様、飲み物をご用意いたします。なにがよろしいでしょうか?」

 杉乃歩が雰囲気を変えようとして衣に尋ねる。

 衣は涙目になりながら大声で注文した。

「ココアだー!」

 それまでの中傷的な笑いではなく、実に穏やかな笑いに変わった。それは、まさに家族であった。家族ならではの、優しく柔らかい笑いが、彼女たちを包み込んだ。

 

 

 最終ラウンド対局室

 

 手には汗が滲み、呼吸も不規則であった。そしてなによりも、骨伝導によって聞こえる心臓の鼓動音が宮永照の心を不安にさせていた。

(私は……ここで、すべてを終わらせるはずだった)

 照は、死者として過ごした3年間を思い出した。寝ても覚めても考えることは二つだった。『どうしたら〈オロチ〉を倒せるか?』『どうしたら母親に復讐できるか?』。問いは二つだが、答えは一つだった。『咲と一緒に、麻雀を打てなくなれば良い』。

 そして照は、そのために血のにじむような訓練をして今日に臨んだ。

 

 南四局。その照の親番で、最終ラウンドはオーラスを向かえる。

 照は、それを開始させるサイコロのボタンに手を伸ばす。

 突然、耐えがたい孤立感に襲われ、その手を途中で止めてしまった。

 空中にある右手は、小刻みに震え、握ったり開いたりを繰り返している。視界がぼやけ、神代小蒔、福路美穂子、そして妹の顔も良く見えない。

 そうか、自分は、今、泣いているのだ。しかし、なにが悲しいのか? それほどまでに、妹を〈オロチ〉にするのが嫌なのか?

 頬に涙が伝わるのが分かった。当たり前だ。愛する妹を、あれほど憎んだ〈オロチ〉に、自分の手でしなければならない。しかも、それは永久に解除できない。

(本当に…………それでいいの?)

 照は、救いを求めるように、ぼやけた視界の中で妹を探した。

 ――宮永咲は、目を閉じていた。目を閉じて、口には穏やかな笑みを浮かべていた。

(正しい答えとは……見つけるものではない。そういうことだね……咲)

 手の震えが引いていく。踏み出せなかった一歩を妹が導いてくれた。

(導くか……そう、正しき答えとは、導き出すもの)

 サイコロのボタンを押し、照は、すぐにハンカチを取り出して涙を拭いた。

(咲……私の最後の嘘を見せてあげる)

 照は、対〈オロチ〉の切り札を持っていた。一度見せてしまったので、咲もそれに気が付いたかもしれないが、この局では対応しきれないはずだ。

(咲には言わなかったけど、おばあちゃんに会った最後の日……私は、〈オロチ〉への対抗策を教わった。ダンテの定理は、強制的に順子場を作り上げられる)

 強制順子場。それこそが、照の最終兵器だった。槓を起点に攻撃を繰り出す咲と〈オロチ〉。それを封じるには、槓をさせなければ良い。シンプルであるがゆえに難易度もMAXだった。

 “ダンテの定理”だけの場合は、スタックが3個以上でなければ成功率も低かった。しかし、照魔鏡という技術を持つ照ならば、低いスタックでも可能だと、テレサ・アークダンテが太鼓判(たいこばん)を押した。

(序盤ですべてが決まる。おばあちゃん、そうだよね)

 白糸台のメンバーには何度も試した。この個人戦でも一度使ってみた。それが有効なことは実証できている。だが、妹は天才だった。この(こころ)みも見抜かれているのではないかと考えてしまう。

 配牌が終わった。照は、三人の手牌を確認する。

(4個か……このままだね)

 

 

 ※備考※

 

 宮永照が、テレサ・アークダンテから指示された強制順子場の作成方法(順不同)は以下のようになる

 

① 配牌時、自分以外の手牌に、刻子や対子が五個以上ある場合は、早い巡目で奇数のズレが生じるように副露をする。

② 3巡目までに、刻子、対子が二個以上増加した場合も、副露する。

③ ダンテの定理で、同じ人間に6巡目までに対子刻子の増加が二個以上見込まれる場合は、牌の効力を失わせるようにするか、副露する。

④ 序盤は可能なかぎり、面子の筋牌を切らない。ただし、下家が鳴きを多用する場合はチーをさせても良い。

⑤ 副露の恐れがなければ、積極的に面子の持つ対子、刻子牌は捨てる。もしくは捨てさせる。

 

 上記5項目は、ダンテの定理の力が及ばない偶然的な要素に対して、テレサ・アークダンテがコンピューターで数千回のシミュレーションを実施し、有効とされたものだった。それに、宮永照という純粋培養(じゅんすいばいよう)されたエリート資質が加わり、強制順子場の成功率を劇的に増加させていた。いや、失敗例がないと言うべきだろうか。照が意志を持って実行した強制順子場は、これまですべて成功していた。

 

 ※備考終わり※

 

 

(三色か……門前で勝負できるか?)

 宮永照に集まった牌は、【七筒】の対子と345の三色同順が狙えるものであった。ドラも一枚あり、まだ三向聴だが、照は十分だと思った。

 咲も同じく三向聴だったからだ。ただし、彼女の手牌には【白】の刻子があった。

(字牌か……そうくると思ったよ)

 “ダンテの定理”の謎を知る者は、この世に五人しかいなかった。そして、目の前にいる者は、その内の一人、妹の宮永咲だ。

(私にとっての最強は……ウインダム・コールではない)

 宮永照は、まだ第一捨て牌をしていなかった。配牌が終わり、一分近く経過している。その長考を注意しようと、監視員が立ち上がる。

 照は監視員に目配(めくば)せして、その動きを止めた。それから、その目を、妹に向けた。

「始めるよ、いい?」

「うん」

 照の第一捨て牌は【東】だった。これは咲も持っている牌、だから咲もこれを切る。理由は簡単だ。持っていても意味がないからだ。それは自分たち姉妹の(サガ)であった。無駄を一切排除され、勝つことだけに特化された異常な習性だ。

 果たして咲の捨て牌は【東】だった。照は笑う。咲も笑う。これが最後の闘い。勝っても負けても、もう二度と妹とは闘えない。

(私にとっての最強は、お前だよ……咲)

 

 

「ポン」

 南四局三巡目。宮永照は神代小蒔から出された【七筒】を副露した。福路美穂子にはその意図が読み切れなかった。喰い下がりによって、プラスマイナス・ゼロが不可能に思えたのだ。

(照さんは三色か断公九。鳴いたら三翻でも5800にしかならない。プラスマイナス・ゼロの7700にするには……)

 そこまで考えて、美穂子は答えにたどり着いた。

(40符……【七筒】の加槓。それが分かっているの?)

 美穂子はよく泣く。とはいえ、それは自分に関することではない。仲間や友人のことでよく泣くのだ。

 では、今、自分の目に浮かんでいる涙はなにか? はっきり言えばよく分からなかった。ただ、初めて体験していることがもう一つあった。それは身をよじるほどの悔しさだった。

(悔し涙か……そうね、今の私は、ただの傍観者(ぼうかんしゃ)……こんなに、悔しいことはない)

 美穂子の手牌も悪いものではなかった。しかし、宮永姉妹の速度にまったく着いていけず、目の前の二人がどんどん二人が小さくなっていく。

(ここから始めればいい……上埜(うえの)さんもそう言っていた。この悔しさを忘れなければ、絶対に追いつける)

 美穂子は、残されたタスクに専念することにした。それは強敵宮永咲のウィークポイントを探ることだ。

(……これは?!)

 そうだ、照にはこれがあったのだ。妹に対抗するための特殊能力である順子場。

 美穂子は二度目だからこの巡目で気づいたが、宮永咲はどうだろう。いや、今さら気づいても遅すぎる。

(咲ちゃんは華菜に任せる。私の敵は……照さん、あなたです)

 

 

(これで聴牌までもっていける。あとは咲がどの程度成長しているかだ)

 通常の宮永咲は、槓を先行されると、急速に力を失うことがあった。ただ、それは3年前の知識だ。咲が、それを克服していたとしても不思議ではない。

 5巡目に【七筒】の加槓が決まっている。そして7巡目には断公九、ドラ1で聴牌できる。上り牌は【二萬】か【五萬】だ。【五萬】で三色同順ならば7700でプラスマイナス・ゼロが達成される。もっとも、照はそんことを気にしてはいなかった。得点で咲を上回ればいいだけだと思っていた。

「カン」

 想定どおりの【七筒】加槓に、咲の眉が動いた。

(まだだよ……咲の自摸運をなめてはいけない。崩しが成功したとしても、まだ、勝ったわけではない)

 咲は臨機応変(りんきおうへん)に動いた。必勝パターンの嶺上開花が封じられたと判断すると、白にもう一翻プラスした3900点に切り替える。一盃口かドラを絡めればいい。しかし、これで咲は二向聴に戻った。照が初めて先行する形になった。

 7巡目。照は聴牌したが、上り牌の位置までは判明しなかった。咲も赤ドラを引いて一向聴になっている。自摸勝負になると、照は一気に不利になる。なにしろ相手は、牌に愛された子なのだから。

 8巡目。照の自摸牌は【四萬】だった。“ダンテの定理”が発動し、照に終わりを告げた。

(12巡目か……(わず)か3巡だけど、とてつもなく長く感じる)

 感情を表に出してはならない。それが、アークダンテ一族のルールだ。たとえ、親であっても、妹であっても、手の内を悟られてはならない。

 9巡目。咲も聴牌した。プラスマイナス・ゼロを完成させるべく白と一盃口でセットしてある。門前立直なしならば3900だ。だが、急いで組み替えたため、待ちは雀頭の単騎待ちになった。今の選択は残数二枚の【九萬】で張っている。

(あと二巡……咲は自分からプラマイゼロを崩したことはない。出上りは無視してもいい)

 分かり切っていることを、照は再確認した。自分が有利なのは間違いない。だが、相手は最強と認める咲なのだ。そうでもしなければ、平常心を保てない。

(よし、あと一巡だ……)

 10巡目も咲は上がれなかった。捨て牌を置く咲の手も震えている。

(だれよりも弱く、だれよりも強い……お前はそのギャップに苦しんだ。そして、その恐怖心が、お前を苦しめる)

 なにも変ってはいなかった。宮永咲は、3年前となにも変っていなかった。優しい心を持ち、邪悪とさえ言えるレッドサイドの力を持つ、繊細なガラス細工のようにか弱い妹であった。

 その咲を、自分は再び暴走させようとしている。

(迷うな……迷ってはならない)

 非情に徹するべきではあるが、妹を愛する照には、それは無理な相談だった。

 ――11巡目の咲の自摸番。照は、アークダンテ一族のルールを破った。

「咲……上がって」

 その照の声と同時に、妹の目から光沢が消えていった。だが、完全には消えていない。敗北とは己がそれを認めること。咲は、まだ照の和了を見ていない。

 だから、それはできないのだ。

(咲……)

 照は、心を決めて、自摸牌に手を伸ばした。親指には【五萬】の感覚が伝わる。その牌を手牌の横に置き、照は、それを眺め続ける。

 

 

 個人戦総合待機室 白糸台高校

 

 会場がざわめいている。勝負は決したのだ。しかし、勝者である宮永照がそれを認めようとしていなかった。

 

『照選手……上がりですよね?』

『ああ』

 いつもなら絶叫で結果を伝える場面ではあるが、その異常事態に福与恒子も戸惑いを隠せない。

『なぜ、上がらないのですか?』

『……分かってやれ』

 

 ざわめきがさらに大きくなる。その騒音の中から、弘世菫は、大星淡の涙声を拾った。

「もういい……もういいよ。テルー、上がってあげて……」

 菫は目を閉じる。

 そうだなと思った。もういい。もうそれでいい。

(照、一人で背負い込むな。お前には、私たちがついている)

 菫は振り返り、ボロボロになっている淡に確認をした。

「淡、本当にそれでいいんだな?」

「うん」

 その返事を聞いて、董は立ち上がった。周囲の注目が集まる。

(照、これはお前のせいだ。なぜ私がこんな恥ずかしいことをしなければならない?)

 まあ、やるは一時の恥、やらぬは一生の恥とも言うからなと思った。

 今はやるべき時だ。愚かな親友のために恥をかかねばならない。

 菫は自分の肺の容量一杯に空気を吸込み、大音量で照にエールを送った。

「照ー! 上がれー!」

 会場が菫の声に呼応し、地響きを伴う照コールになった。

 役目を終えた菫は、脱力して席に座った。興奮が覚め、冷静な思考ができるようになると、董は、自分の間違いに気が付いた。

(しまった……やるではなかった。聞くだった)

 “聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥”それが正しいことわざだった。菫は頭を抱え、照を呪った。

(全部、お前のせいだ……だけど、今日だけは、許してやる)

 照コールが鳴りやまず、大星淡にも笑顔が戻っている。これでいい。そうだ、これでいい。

 

 

 試合会場 医務室

 

 原村和は、始終穏やかな顔で、チームメイト宮永咲の試合を眺めていた。隣で同じタブレットを覗き込んでいる片岡優希は一局(ごと)の勝敗に一喜一憂しており、実に対照的であった。

 竹井久が思うに、どちらかと言えば、和のほうがそういう反応を示してもいいはずだった。だって、和は、咲に選ばれた人間だからだ。もしも自分ならば、気が気ではない。

「和、咲が心配じゃないの?」

「え? 心配ですよ」

「そう」

 語尾が少し上がってしまった。納得していない返事だと和に教えてしまっていた。

 和はタブレットから目を離し、久と向かい合った。

「部長、咲さんが初めて部室にきた時を覚えていますか?」

「もちろん。忘れるわけがないわ」

 和が笑った。もうすっかり体調は回復したようだ。いつもの可愛らしい和に戻っていた。

 その和の表情が曇った。

「私は、あの時、咲さんを憎んでいました」

「そうね」

「私と咲さんは……誤解から始まったんです」

「でも、誤解が解けたなら、良かったんじゃない?」

 嬉しそうに和は頷いた。

「私は……咲さんから〈オロチ〉を倒してくれと頼まれました」

「そうよね」

 聞くのは初めてだが、もうそれは公然の秘密と言っても良かった。咲の言った相手を、消去法で検索すると、和しか残らない。

「でも、個人戦が始まってから、咲さんは自滅に(とら)われているように思えて……私は、それを必死で止めようとしました」

「……それも誤解だったって言うの?」

 和は、一旦タブレットに目を戻し、試合が進んでいないことを確認してから話を続けた。

「部長……このまま照さんが上がったらどうなりますか?」

「咲はまた〈オロチ〉になるわね」

「ええ……」

 そうかと久は思った。それが原村和を選んだ理由なのだ。その悲壮感(ひそうかん)溢れる咲の選択に久は感動していた。だが、泣いてはだめだ。一番泣きたいのは、今、笑顔で話を続けている原村和なのだ。

「もう、咲はお姉さんとは闘えないわね」

「そうです。誤解だったんです。咲さんは、ここまで考えていたんです。だから……」

 和も限界のようだ。その溢れる涙に、久もつられてしまう。

「だから、私に……倒してくれって」

「信じてるのね……」

 和は、一度鼻をすすってから、顔を笑顔に戻した。もちろん、それは作り笑いだ。ただし、その作り笑いは、尊く美しいものだった。

「はい……もう、これでいいんです。咲さんの選択を受け入れます。私は、そのことに……決して後悔しません」

 

 

 都内マンション 605号室

 

「これが夢ならば……私は、覚めないことを望むよ」

 奇跡が起きようとしていた。ただ、奇跡とは信じられないから奇跡であり、宮永愛の言葉の意味を、小鍛治健夜は理解した。母親なればこそ、姉妹の葛藤(かっとう)の深さをよく知っている。修復不可能と思われた姉妹が、最良の形ではないにせよ、和解しようとしているのだ。さぞかし信じられないことであろう。

「愛さん、夢ではありません。これは夢じゃないですよ」

「……」

 いっぱいに細められた愛の目から、涙が落ちている。母親とはそういうものだろう。娘の幸せを願わぬ者などいない。

「照は……上がるかねえ」

「上がります。間違いなく」

 姉妹が生存できる唯一の可能性がこれだった。愛も健夜もそれは分かっていたが、ハードルが多すぎて、実現には奇跡的要素が必要だった。

 その最も重要なキーが宮永咲であった。彼女がそれを知っているのかいないのか? 健夜は知っていると判断した。だから、この賭けに打って出たのだ。

(咲ちゃん……あとは私に任せて。あなたを、助けてあげる)

 感極まった愛が、健夜に頭を下げた。

「小鍛治プロ……咲を……いえ、咲と照を宜しくお願いします」

 愛は頭を上げなかった。きっと、上げたくても上げられないのだろう。英国人は、泣いている姿を見られるのを嫌うらしい。

「お預かりします。そして、必ず、ウインダム・コールを倒します」

「……お願いします」

 頭は下げたままだだが、テーブルに落ちる涙が面積を広げている。

 健夜は、愛と咲との第四の約束を推察した。だれにも言えぬ約束だと愛は言った。きっとそれは、ダンテの定理とは関係のない、親子としての約束だったのだろう。

(愛さん……私を信じて頂いて有難う御座います。期待は絶対に裏切りません。咲ちゃんを、照ちゃんを、ダンテの定理の呪縛(じゅばく)から解放して見せます)

 健夜は目を閉じる。そして、ニューオーダーの構想に想いをはせる。始まるのだ。ニューオーダーは、今から始まる。

 

 

 最終ラウンド対局室

 

(今度は私が覚悟を決める番だね……)

 あらゆる記憶が、宮永照の脳内を駆け巡った。走馬灯(そうまとう)のようなぼんやりしたものではなく、良し悪しの区別のない美しくも残酷な記憶の数々が、照をその最終判断に(いた)らせた。

(私がお前の尖兵(せんぺい)となる。お前を倒そうとする者は、すべて私が倒す)

 いや、と、照は思った。自分だけではない。それはもう一人いた。咲が選んだ相手である原村和だ。彼女と二人で、咲を守る。それが、妹を〈オロチ〉にした罪の(つぐな)いだ。

(咲……これが私の答えだ)

 照は牌を倒した。その瞬間、咲の目から、光が消え失せた。

「ツモ、断公九、三色同順、ドラ1。2600オール」

 照は、監視員に上り止めを伝える。最終ラウンドの終了が宣言され、聞きなれた終了ブザーが鳴った。

 四人全員で立ち上がり、終礼を実行する。

「ありがとうございました」

 〈オロチ〉が、照を見ている。その光のない目が、照を悲しくさせた。ただ、後悔はしていない。これから、自分には妹を守る義務が発生する。

 照は、それを伝えよう思い、〈オロチ〉との会話を試みる。

「咲――」

「あのね、お姉ちゃん」

「……」

「おばあちゃんの雀卓ね、まだとってあるんだよ」

「……」

「私が和ちゃんに負けたらね……またみんなで、お姉ちゃんとミナモちゃん……おばあちゃんと……それにお母さん」

 照は、咲に駆け寄り抱きしめた。

「分かった……必ず……必ず守る」

「約束だよ」

「ああ……約束だ」

 感情のないはずの〈オロチ〉に、それが芽生え始めていた。咲が変えたのだ。大丈夫、きっと克服できる。〈オロチ〉を乗り越えられる。

 照は、妹を強く抱きしめる。

(見つけた……旅の目的地……)

 あてのない旅。その目的地を、宮永照はついに見つけた。ただし、それはどこにあるかは分からない。それに、今もあるかも分からない。しかし、それは確かに存在していた場所だ。姉妹が諦めぬかぎり、必ずそこにたどり着ける。

(咲と二人なら……必ず……)

 

 最終ラウンド試合結果

  宮永照    300300点

  宮永咲    293300点 

  神代小蒔   278500点

  福路美穂子  267100点

 

 




次話:最終回「ニュー・オーダー」

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。