咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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27.ニュー・オーダー

 長野県は南北に長く、実に広大な面積があった。北海道を除けば、岩手県、福島県についで日本で3番目に広く、北部地方と南部地方では気候がまったく別物であった。そのほぼど真ん中にある竹井久の居住地の諏訪地方は、ある意味、最も長野らしい気候だと言えた。

 8月下旬、今日はインターハイの結果報告で登校しなければならない。久は、母校までの道のりを、汗を拭きながら歩いていた。

 今日も暑かった。盆地特有の蒸し暑さで、気温は30度前後だが、体感温度的には、先日まで滞在していた東京よりも暑く思えた。

(夢とは果てしないものだな……)

 久にとっての最初で最後のインターハイが終わった。その結果は、もうこれ以上はないとも思えるほどのドリームカムトゥルーであった。しかし、その過程で発生した様々な人間模様が、久に、新たな夢を想い描かせていた。

 個人戦開始前、久は、知人の藤田靖子からある警告を受けていた。

(『宮永咲を中心に大きな(うず)が発生している。お前たちは、それに巻き込まれる』)

 その警告は現実となった。インターハイ個人戦は宮永姉妹を巡ってあらゆる思惑が渦巻き、以前と以後では価値観、世界観が完全に変わってしまった。

(変革の渦は容赦(ようしゃ)がないわね……中心にいた咲にも、それが要求された)

 咲は、〈オロチ〉という怪物に体を侵食され、これからは、それと共存する道を模索しなければならない。敗北することが許されない性質上、練習等に大きな制約ができてしまった。

 咲から〈オロチ〉を倒してくれと懇願された原村和は、もっと深刻であった。本当ならば、一刻も早くそれを実現したいところだろうが、宮永姉妹の悲痛な再出発を見て、今は、咲のサポートに徹しようとしていた。辛い決断だと思うが、彼女もまた、新たなステージに上っていた。

 片岡優希、染谷まこ、須賀京太郎も同様だ。個人戦の強烈なインパクトが、彼女、彼たちに以前と同じ意識でいることを許さなかった。当然、同じ舞台に上がることになる。

(美穂……)

 この個人戦で最も変わった人間が、親友の福路美穂子であった。彼女は宮永姉妹に敗北していた。ただの敗北ではない。彼女が経験したことのない完全なる敗北であった。その悔し涙に暮れる美穂子を見て、久も新しいステージに上がることを決意した。

(和のように……私が美穂子をサポートする。大丈夫よ、必ず倒せる。宮永照を倒して見せる)

 それが久の新たな夢になった。

 前代未聞の個人戦3連覇を()げた宮永照を倒すこと。自分には無理かもしれないが、美穂子ならばそれができる。久は、そう確信し、その補助をしようと決めていた。

 

 校門が見えてきた。その前には、5人の集団がたむろしていた。一人は背の高い男子、他はすべて女子であった。

「部長……遅いわ」

 メガネをかけた女子が、不満たらたらで久に話しかけてきた。とはいえ、それには悪意が感じられなかった。

 その隣では、背の高い男子と少々小柄な女子が笑っている。その近くには、胸の大きな女子が、鈍く光る目の女子を気遣(きづか)うように立っている。

「ごめんね、ちょっと道が混んでて」

「よく言うわ……」

 メガネ女子の反論で、胸の大きな女子と鈍く光る目の女子も笑ってくれた。

 そう、この5人は、久の大切な宝物なのだ。あの熾烈(しれつ)を極めたインターハイを闘い抜いた、清澄高校麻雀部の仲間たちだった。

 

 インターハイの結果報告は、校長室で行われた。学生議会長である久は何度も入ったことはあるが、一年生たちは初めてのようで、物珍しそうに周囲を見ていた。

 行事事態は簡素なものであった。久が団体戦優勝と宮永咲の個人戦2位の実績を報告すると、肥満型で頭髪の危ない校長が、嬉しそうに労った。

「当校創立以来、初めての快挙です。竹井議会長、本当にご苦労様でした」

 隣にいた教頭や、形ばかりの麻雀部顧問であった教師が、拍手をしている。それは、ありがたくはあったが、嬉しいものではなかった。

(来年が大変ね……)

 全国一になるということはそういうことだ。長野だけではなく、全国から清澄高校が標的にされる。来年自分はもうここにはいない。すべては2年生の染谷まこに託される。

 ――しばらく雑談に近い話が続いた。中には、商工会が優勝記念の製菓を作ろうと計画しているという話もあったが、久たちは、それだけは勘弁してくれと、(かたく)なに拒絶した。

「夏休みも残り数日ですが、皆さんたちには貴重な休息の日です。ゆっくりお休みください」

 その校長の言葉で解散となったが、久とまこだけは引き留められた。

「部室もホコリだらけじゃ、みんなで先に行って掃除をしといてくれ」

 まこが一年生たちに指示を出した。もうみんな分かっているのだ。来年は染谷まこの指導で闘うことになる。久とまこが、どんな思いで麻雀部を存続させてきたのかを知っている一年生たちに、異存のある者などいない。

 ――校長は、一年生が退出したのを確認してから口を開いた。

「呼び止めたのは他でもありません。来年の話をしたいと思いまして」

「来年ですか?」

 校長はそれに答えず、隣の教頭に指示を出す。

「来年の麻雀部の運営について、ある方から提案がありました」

「……はあ」

 だとすると、教頭が呼びに行った人物の想像はつく。

「久しぶりだな、竹井」

「……この間も会ったわよね」

 やはり藤田靖子であった。予想できたのは、その提案を一度聞いたことがあったからだ。

「校長、そこの応接セットを使ってもいいですか?」

「どうぞ」

 校長は、それに応じて執務を行う机に移動し、教頭や顧問教師は「失礼します」と言って、部屋を後にした。

「まあ、座れ」

 まるで自分の部屋のような言い草だが、藤田靖子ならばしかたがないと思い、久は苦笑いして、ソファーに座る。

「染谷、宮永の練習はどうする?」

「どうする言われても……別メニューにするしかないのぉ」

「そうだな、そうするしかない」

 靖子が久に目を向ける。

「久、あの話は染谷にしたか?」

「ええ」

 あの話とは、『清澄麻雀部に監督を置く気はないか』という靖子からの提案だった。

「染谷、私はお前を信用していないわけじゃない。ただな、今の宮永は、お前には荷が重すぎる」

「そうじゃのぅ」

 それはまこも納得している話だ。彼女の指導者としてのスキルは、このインターハイで目覚ましく上昇した。しかし、宮永咲の抱える問題は、まこのスキルアップ量をはるかに上回っている。

「ところで藤田さん……部長からはだれたぁ聞いとらんのじゃけど」

「久……お前なら想像できるんじゃないか?」

 まこが、せわしなく久を見る。早くその答えを知りたい様子だ。

「……小鍛治健夜」

「小鍛治さんか……」

 靖子は答えずに頷くだけだった。これで正式に決まったようだ。校長には根回し済みだろう。あとは現部長と次期部長の承認を得るだけだった。

「久、染谷……あの人を信じろ」

「小鍛治プロなら……咲を?」

「そうだ」

 どこからくる自信なのかは不明だが、藤田靖子は、その言葉を当然の(ごと)くに発した。

「宮永を補正できるのは、この世に小鍛治健夜しかいない」

 

 

 清澄高校旧校舎は、最上階の麻雀部部室を除けば、ほとんど物置として使用されていた。解体するにも予算のめどがつかず、あと数年はこのままの状態だという。それはそれで悲惨であると言えたが、原村和にとっては喜ばしいことであった。和はこの部室が好きだった。まるで、阿知賀こども麻雀クラブのような自由さで麻雀を打つことができた。そしてなによりも、和の孤独を(いや)してくれた仲間が集う場所だった。

「京太郎! もっと優しくはたけ!」

 中学からの親友である片岡優希が、咳き込みながら須賀京太郎に文句を言った。

「掃除は上からが基本だろう? 窓も開けてあるし、俺の近くにいるほうが悪いんだよ」

 2週間以上も放置していたのだから、部室全体にホコリがけっこう堆積している。京太郎の役割は、その長身を活かしたホコリ落としだ。

「口の減らないやつだ。咲ちゃん、こいつをそこから落としてもいいじぇ」

 バルコニーを掃除していた宮永咲が、ほうきを動かす手を休めて、こちらに振り返った。あの愛くるしかった咲の目は、光を反射することのない、黒い円に変わっていた。とはいえ、和の咲に対する愛情は変わらなかった。いや、宮永咲という人間を知れば知るほど、その愛情は深くなっていった。

「そうだね、京ちゃんなら大丈夫かも。子供の頃、もっと高いところから落ちてたし」

「落ちてねーよ」

 京太郎は咲と幼馴染なのだ。その親し気な態度に、少しだけジェラシーを感じてしまい、和は会話に割り込んだ。

「咲さんは、残りの夏休みなにか予定はありますか?」

「私?」

「はい」

 残りの数日間、和は少しでも咲と一緒にいたかった。海やプールに行くのも良い、宿題を手伝うのだって良い。とにかく一緒にいたかった。

「私は、九州に行くの」

「九州ですか……」

 失望の色が隠せなかった。咲に予定があるのならしかたがなかった。

「それは楽しみですね。ご家族の方とですか?」

 和は、もしかしたら姉妹揃っての旅行かなと想像した。それならば、とても素晴らしいことであった。

 しかし、咲の発した言葉が、その場を凍りつかせた。

「ううん、ひとりで」

「ひとり!!」

 和、優希、京太郎。三人が絶叫に近い声をあげた。最悪ともいえる方向音痴の咲が、ひとり旅などできるわけがない。

「ひとりって……咲ちゃんひとりってことか?」

「それ以外にないと思うけど?」

 咲が、変なことを聞くなあと言いたげに返事をした。冗談ではない。こちらの身にもなってみろと言いたかった。

「そ、そんなことはさせられません! 私も一緒に行きます」

「ありがとう、和ちゃん。でもね、これはひとりじゃなきゃダメなんだよ」

 〈オロチ〉という怪物に侵食されている咲ではあるが、彼女は、必死にそれに抵抗し、本来の感情を出そうとしていた。ぎこちなくはあるが、その笑顔には、咲のまごころが感じられた。

「……神代さんですか?」

「うん……小蒔さんとの約束だから」

 もう和には、なにも言えなかった。いや、『そんなオカルトありえません』と言いたかったが、神代小蒔と咲の間には、姉妹とよく似た深い繋がりがあるように思えた。

「咲、どうやって九州までいくんだよ」

「飛行機かな、お父さんにチケットを取ってもらった」

「いつだじぇ?」

「明日かな」

「せめて、空港まで一緒に行ってはダメですか?」

 和は矢も楯(やもたて)もたまらず言った。

「お願いします。本当は、空港まで行けるかどうか心配だったんだ」

「……」

 楽し気に話す咲ではあったが、三人は沈黙せざるを得なかった。九州に着いてからはどうするのだという疑問がそうさせるのだ。

「あら、もう休憩? ずいぶんと早いわね」

 竹井久と染谷まこが部室に戻ってきた。校長となにを話していたのか、その内容には興味あるが、今はそれどころではなかった。

「部長! 咲ちゃんが大変なんだじぇ」

「咲が?」

 和たちが、これまでのあらましを伝えると、久ではなくまこが慌てふためいた。

「き、京太郎! これを」

 まこが京太郎に小さな箱を渡した。

 京太郎はそれを疑問の目で眺めている。

「なんですかこれ?」

「スマホじゃ、おぬしと優希が麻雀部用にと頼んどったじゃろう」

 京太郎は箱を空けて中身を取り出した。最新機種ではないがこれで十分だ。なぜならば使用用途が限られているからだ。

 京太郎は、咲にそのスマートフォンを渡した。

「あんまり得意じゃないし、いらないかな……」

 それ以上しゃべるなという圧力が5人から発せられていた。咲は、慌ててスマートフォンを受け取った。

「掃除は私とまこでやっておくから、三人は咲にスマホの使い方をレクチャーして」

「完璧になるまで咲を帰しちゃだめじゃ。わかっとるの」

 ――その後、夕方近くまでかけて咲にスマートフォンの使い方を教えた。最終的には5人がかりとなり、咲の物覚えの悪さには頭を抱えるしかなかった。

「これは……美穂以上かもね」

 機械音痴で知られる福路美穂子を超えるかもという、不名誉な評価を竹井久からされていた。しかし、なんとか通話とメール、それに、なによりも重要な地図の見方を咲にマスターさせた。

 

 

 翌日。電車を使うのも不安だった原村和は、父親に頼んで、信州まつもと空港まで車で送ってもらうことにした。

 待ち合わせ場所で宮永咲と片岡優希を拾って、三人で後部座席に座り、空港に向かう。時々、ルームミラー越しに父親と目が合った。ほとんどの場合、父は笑みを浮かべていた。

 和は、許されたのだなと思った。このまま、咲や優希と一緒に清澄高校ですごすことを許されたのだ。和は仲間たちに感謝するのと同時に、わがままを許してくれた父親にも感謝した。

 

 空港に着いた和たちだったが、咲の搭乗開始まではまだ一時間以上あった。優希が空腹だと言うので、軽食コーナーで食事をとることにした。

「福岡からはどうするのだ?」

 優希がカツカレーを食べながら咲に聞いた。咲と和はざるそばを頼んでいた。

 咲は、箸を置いてチケットを取り出した。

「博多から鹿児島までは新幹線だよ。そこから日豊線てのに乗って、霧島神宮まで行くの」

「永水さんには連絡してあるんですか?」

「うん、駅に着いたら薄墨さんが迎えにくるって。薄墨さんもう免許があるんだって、凄いよね」

「でもあのロリは、私より身長が低いじぇ。大丈夫なのか?」

 和には優希の冗談が耳に入っていなかった。少なくとも乗り換えが2回もある。どうしたらそれが無事に終わるのかだけを考えていた。

「咲さん、スマホを見せてもらえますか?」

「え? いいけど」

 咲はスマートフォンをキャリーバッグの中から取り出した。しかも、箱に入ったままだ。

「ど、どうして身につけていないんですか?」

「だって、なくしたら大変だし。それに、ほら、今日の服はポケットがないし」

 水色のTシャツと短めのスカートパンツ、それが咲の服装だった。確かにポケットはないが、肩から掛けてあるバッグはなんなのだと言いたい。

「……ここに入れておけと?」

「……」

 和が怒っていると思ったのか、咲はそそくさとスマートフォンをショルダーバッグに移し替える。

「ごめんなさい。ただ、私は心配でたまらなくて……」

「あー、咲ちゃんが嫁さんを泣かしたじょ。これは、それ相応のお土産が必要だな」

「そうだお土産!」

 咲が立ち上がる。

「小蒔さんたちへのお土産を買うのを忘れてた。和ちゃん、優希ちゃん、選ぶのを手伝って」

 まだ出発までは時間があるが、こういうものは慎重に選ばなければならない。和たちは慌てて食事を済ませて、お土産コーナーに移動した。

 ――三人でお土産を選んでいる時間は、それは楽しいものであった。なんだかんだで、結局は定番の信州そばと野沢菜に落ち着いたが、咲が『かわいい』と言って選んだワサビのキーホルダーをきっかけにして、和や優希も悪乗りして、ウサギやリンゴ、果ては五平餅のものなど、10種類もの変なキーホルダーを選別した。

「喜んでくださるとは思えませんが……」

「そうかな?」

「まあ、咲ちゃんらしくはあるじぇ」

 構内アナウンスで、咲の乗る飛行機の搭乗開始が連絡された。

 咲は、変なキーホルダー10個を購入し、2階の出発ロビーに足を向けた。

「じゃあ、行ってくるね」

「気をつけてくださいね。なにかあったらすぐに連絡してください」

「咲ちゃん、あそこだからな。あのお姉さんたちがいるところから入るんだじぇ」

「うん、わかった。優希ちゃんありがとね」

 和と優希は搭乗待合室には入れない。もう搭乗ゲートが開いており、その両側にはキャビンアテンダントがいたので、いくら咲だって迷うことはないはずだ。

 咲は笑顔で手を振りながら、そこに向かって行った。もはや和たちには見守るしかなかった。

「……」

 咲は迷いはしなかった。迷いはしなかったが転んだ。キャビンアテンダント二人が、慌てて咲を助けている。

 咲は立ち上がり、和たちに振り返った。その照れ隠しの笑いを見て、和の不安がピークに達した。

「大丈夫でしょうか……」

「のどちゃん、見学デッキに行って飛行機を見送ろう」

 ゲートを越えた咲は、もう見えなくなってしまった。あとは、彼女の乗る飛行機が無事飛び立つことを願うだけだ。

 

 晩夏の松本らしい涼しさであった。ここは諏訪地方よりも標高が高く、風も涼しく、空気も澄んでいた。雲もまばらで、これならば、問題のないフライトができそうだ。それは一安心であったが、心配の種は九州に着いてからだった。

「動きだした」

 咲の乗るジェット機がブリッジを離れて、ゆっくりと滑走路に進み、そこに到達すると、轟音と共に一気に加速し飛び立っていった。

「行ってしまいました……」

「心配か? のどちゃん」

「それは……もう」

「私に任せておけ」

 和が振り返ると、優希はスマホでだれかに電話をかけていた。

「もしもし、花田先輩? 片岡だじぇ」

 そうかと和は思った。福岡には、中学時代の先輩である花田煌がいるのだ。彼女に頼めば、少なくとも新幹線までの乗り換えは補助してもらえるかもしれない。

「咲ちゃんの到着時間は――」

 着々と段取りをしてくれている。それが終わり、優希が電話を切ろうとした時、和は、代ってくれと頼んだ。 

「花田先輩、原村です」

『原村さん? 大丈夫ですよ。宮永さんは私に任せなさい』

「ありがとうございます。このお礼は必ず」

『みずくさいですよ原村さん。後輩が困っているのですから、助けるのは当然です』

「あの……花田先輩」

 煌が助けてくれるのはありがたい。ありがたいが、彼女のために忠告も必要だった。

「咲さんには気を付けてくださいね。危なかったらすぐに逃げてください」

『す……すばら』

 

 

 白糸台高校内廊下

 

 小鍛治健夜は、麻雀部部長である弘世菫の後ろを歩いていた。彼女は部員達からの信望が厚いようで、あちこちから声をかけられており、その都度、短いながらも返事をしていた。

「夏休みなのに大変ですね」

「まあ、照が3連覇しましたので取材などの予定が詰まっています。あれは、そういうスケジューリングが苦手ですから私たちで補助しています」

「西田さんも今日伺うと言っていました」

「はい、小鍛治プロの次に予定を入れてあります。だからといって慌てることはありません」

 なるほどと思った。この人は自分がなにをしにきたのかを知っているのだ。そして、それをうまくぼかせる。天才が能力を存分に発揮するためには、そばに強力な理解者がいなければならない。宮永照にとってのパートナーは、この弘世菫なのだ。

 菫が面接室と掲示されている部屋の前で止まった。

「照! 入るぞ」

 ノックと同時に声をかけてドアを開ける。マナー的には許されるものではないが、二人がそれだけの間柄だということだ。

「ごゆっくりどうぞ」

「ありがとうございました」

 菫は、会釈をして、音をたてないようにドアを閉めた。

 

 殺風景な部屋であった。壁に掛けられたカレンダーと円形の時計しか装飾物がなく、中央に小さなテーブルがあり、その奥に一脚、手前に二脚の椅子があるだけの空間だった。

 宮永照は、テーブルの手前に立っていた。

「始めまして、小鍜治健夜と申します」

「会うのは初めてですが、小鍛治プロのことはよく知っています」

 照はそう言って笑った。実に自然な笑顔であった。よく営業スマイルといって揶揄(やゆ)された作り物の笑顔とはまるで違っていた。

 照は、上座である奥の椅子に座るように(すす)めた。

「ここでお話ししましょう」

 健夜は手前にあった椅子の一つに座った。

「母から大体のことは聞いています」

 照も横並びでもう一つに座る。

「そうですか」

「協力しますよ」

「え?」

 さすがに健夜も驚いた。確かに照の母親である宮永愛に、ニュー・オーダー構想は伝えてある。しかし、具体的なスケジュールは直接姉妹に話そうと思っていた。ところが、照はそれも聞かずに協力を申し出ていた。

「私は……もう咲とは闘えません。だからいいのです」

「私のことは、お母さんから聞いていますか?」

「はい、清澄の監督に就任されると聞いています」

 照はその言葉を笑顔のままで話した。それは健夜の想定外のことであった。最愛の妹を、わけも分からぬ他人預ける。姉の立場なら不満を持って当然だった。

「咲ちゃんが高校卒業してからが始動開始です。茨城の事業団チームとは話がついています。条件はあなたたちと私の加入。そこを軸に世界戦を主とした闘いで、現リーグ構造を壊していきます」

「“巨人”の助力もあったと聞きましたが、私たち姉妹の最終目的は彼の打倒です。それは問題がありませんか?」

「ウインダム・コールは強力な発言力を持っています。恥ずかしながら、私個人ではこの構想を実現するには力不足で、彼に助力を頼んだのは事実です。ただし、それとこれとは話が別です。私は、彼に伝えてあります」

「“巨人”を倒して新しい秩序を作る。それがニュー・オーダー」

 どうやら照はすべてを理解しているようだ。それならば、彼女の期待に応えるように事を進めるだけだ。

 ――健夜と照は、かなり込み入った話までした。大学進学する照と同じように、宮永咲もそうしたいと言うだろう。だが、二人は、それを一年だけ我慢してもらうことにした。その最初の一年で、ウインダム・コールを倒し、ニュー・オーダーを構築する。それほど急ぐわけは、アークダンテ一族の持つ特性によるものだった。

「破局点のことはお母さんから聞いていますか?」

「はい」

 ある日突然“ダンテの定理”が使えなくなる。それが破局点だと愛から聞いていた。“ダンテの定理”の正統な後継者である照も、その運命からは逃れられない。

「私は、お母さんたちとは違いますが、必ずそれはやってきます。だから急ぎたいのです」

「分かりました。ウインダム・コールとの対戦のチャンスは一回だけでしょう。だからそれに賭けましょう」

「負けたらご結婚されるからですか?」

「て、照ちゃん」

 愛嬌たっぷりに笑う照を見て、健夜は咲にそっくりだなと思った。

(この姉妹が同じチームで闘う……夢のようね。愛さん、本当に、夢のような話ですね)

 照の母親の愛は、姉妹が和解をするのを見て『夢のようだ』といった。夢とは、希に現実になる。そうだ、この夢は、自分が現実化しなければならない。

 ――定期的に会うことを約束して、健夜と照は会談を終了した。その別れ間際に、照が健夜に深々と頭を下げた。

「私は咲を救いたい……でも、今の私にはその資格がありません。だから……咲を宜しくお願いします」

「大丈夫です。〈オロチ〉は必ずコントロールできます」

「本当ですか?」

 希望に目を輝かせる照に嘘はつけない。自分もそうだったと姉妹に伝えなければならない。

「私も咲ちゃんと同じでした。心をコントロールできずに暴走してしまう。でも、今は違う。私は、咲ちゃんにそれを教えたい」

「……夢のようです」

「夢は叶うものです。私たちが、それを実現するのです」

「はい」

 

 ――照と別れ、健夜は白糸台高校を後にした。

(照さん……私は少しだけ嘘をつきました。確かに夢は実現可能です。しかし、それには相応の困難さが立ちはだかります。私たち三人は……それを乗り越えて行かなければなりません)

 数々の険しい山を乗り越え、最後にそびえ立つ山は、エベレストとも言えるウインダム・コールなのだ。その困難さは舌筆(ぜつひつ)()くしがたいものがあった。

 健夜は、照の希望に満ちた顔が忘れられなかった。ならばそれでも良いと思った。自分がくじけそうになったら、それを思い出せば良い。彼女の希望を決して絶望に変えたりはしない。

(後戻りなんてできない……私が捨て石になってでも、あの姉妹の夢は叶える)

 乗り越えられない山など存在しない。健夜は、最初の大きな山がある長野に向かうことにした。

(咲ちゃん……私が、あなたを救って見せる)

 

 

「照、次いいか?」

 弘世菫がノックも無しにドアを開けてだしぬけに言った。

「いいよ」

 宮永照が返事をしても、董はその場を動こうともせず、ジッと照を見ている。

「なに?」

「まだ慣れなくはあるが、お前の笑顔はそのほうがいい」

「ばか」

 これで何度目だろうか、董や大星淡は、最近の照の笑い顔をよく茶化す。まあ、それほど嫌ではないが。

「失礼しますー」

 そう言って入ってきたのは、Weekly麻雀TODAY記者の西田順子だった。

「まずは、個人戦3連覇おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 順子は、照を強引に上座に押しやり、椅子に座らせた。そして、テーブルにボイスレコーダーやノートなどの取材道具を置いていた。もちろん、ボイスレコーダーのスイッチは入っていない。

「今日はたくさん聞きたいことがあるんだけど、時間は大丈夫かしら?」

「可能な範囲でお付き合いさせて頂きます」

 どうせだめだと言っても聞きはしないだろうから、照はしばらく我慢しようと思った。正直、取材はあまり好きではないが、今日はなぜだか気分が良かった。

「まずは、というか、ほとんど本題なんだけどね」

「……」

「妹さんの咲ちゃんの話……ああ、妹さんで良かったかしら」

 完全に予想された質問だった。その答えは当たり前すぎるものであったが、何年も言えなかった。それをバカバカしいとは思わない。言えないには言えないなりの理由が存在していた。

 しかし、それももう終わりだ。これからは、その当たり前のことを、堂々と言うことができる。

 宮永照は、満面の笑みで、質問に答えた。

「はい、宮永咲は、私の妹です」

 

                完

 




 本当の最終回は、5年ほど前に書いた「清澄の優しい風」になります。それを書いている時に、「そうか、個人戦は団体戦からここまでを書けばいいんだ」と思い、書き始めた次第です。当初は、団体戦と同じぐらいで終わると想定していたのですが、次から次へと書きたいことが出てきて、最終的には4倍以上になってしまいました。
 この6年間、途中何度も書くのを止めようと思いました。それを止めたのは読者様からの温かいメッセージでした。特に、個人戦連載初頭に毎話のように感想を頂いたお二方、後半のくじけそうになった時に励まして下さったお三方には感謝しています。
 完結できてなによりだと思っています。感慨無量です


               mt.モロー
 

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