咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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第六話 高千穂の滝(後編)

 六女仙の高校三年生組で、もっとも誕生日が早いのは薄墨初美であった。5月が初美で、7月が石戸霞、年をまたいで3月が狩宿巴だった。『神代小蒔を補助するために、だれかが運転免許を持っていたほうが良い』と総代が判断し、初美が適任者として選ばれた。

 初美自身もそうだなと思っていた。霞は年下の姫様の補助で結構忙しい。巴だと結局は来年になってしまう。それに、初美は二人よりも器用で運動神経も良かった。

 18歳の誕生日後、集中して教習所に通い、7月前には免許を取得できた。

 

 

 

 ――初美は宮永咲の送迎のために、神境所有の軽自動車で鹿児島中央駅に向かっていた。とはいえ、咲を到着ホームで迎えることはできない。新幹線なら博多駅から鹿児島中央駅までは1時間20分で到着する。それは神境から車での移動時間よりも早いのだ。

 

(観覧車は目立ちますからね。あそこなら咲ちゃんでもたどり着けるはず)

 

 日豊本線への乗り換えよりも、鹿児島中央駅のシンボルである観覧車なら迷子になるリスクは少ない。初美はそう考えて、待ち合わせ場所をそこに指定した。新道寺女子高校の鶴田姫子を(かい)して咲に連絡してもらい了解を得た。

 

(これでひとまずは……安心ですね)

 

 初美の運転する車は高速道路に乗った。市内は渋滞することが多いので、高速を使用する。車の運転は嫌いではなかったが、まだ初心者なので高速道路は緊張する。

 

 

 

 ――初美はかけていたサングラスを外した。高速ならば、この目を見られることはない。

 初美の両目は、禁忌(きんき)の技である“ボゼの目”を使った後遺症で白目の部分が赤くなっていた。

 ルームミラーに映ったその目を見て、初美は少し憂鬱になった。

 

(姫様……)

 

 インターハイ個人戦。初美は、一回戦の宮永咲戦後、極度の鉄欠乏性貧血で病院に搬送され3日間入院することになった。そのため、初美は自分がサポートした神代小蒔がどのような経緯で咲に敗北したかを知らなかった。無論、退院後動画などで確認はした。しかし、なぜ小蒔が、無敵の“オモイカネ”を自滅させたかが分からなかった。

 

(『小蒔ちゃんは、優しすぎたの……』)

 

 その顛末(てんまつ)を見届けていた霞は、理由をそう語った。

 そんなことは分かっている。だからこそ、初美は個人戦開始前に八岐大蛇征伐(ヤマタノオロチせいばつ)を小蒔に進言したのだ。確かに小蒔は優しすぎる。無限にも思える優しさが小蒔自身を苦しめている。だから、一族最強の“オモイカネ”で“魔王”を倒せば、小蒔は神境の姫として覚醒し、これからの懸念を払拭(ふっしょく)できる。初美はそう思い生贄(いけにえ)の役割を(まっと)うした。

 入院している間の断片的な情報からは、その後の首尾は上々に思えた。しかし、最終的に聞かされた結果に初美は衝撃を受けた。

 小蒔は敗北し、“オモイカネ”に依り代を放棄した(とが)を受け、直霊(なおひ)が隔離されてしまったという。

 

(姫様……咲ちゃんとなにがあったのですか?)

 

 インターハイ後、宮永咲は永水女子高校を通じて神境にアクセスをしてきた。

 

(『神代小蒔と話をしたい』)

 

 それが咲の要求だった。当初、総代と霞は、小蒔は現在会話が不可能な状態なので無理だと断ったが、咲は、小蒔と同じ場所にいるだけでいいと言って折れなかった。

 結局、折れたのは霞のほうだった。面会は短時間という条件で咲の来訪を認めた。

 

(お願い……私に、なぜ姫様が負けたかを教えて。じゃないと、私は、あなたを恨んでしまう)

 

 

 ――初美は、鹿児島中央駅の駐車場に車を止めた。サングラスをかけて、屋上の観覧車乗り場に足を速めた。咲はもう30分以上も待っているはずだ。鹿児島の暑さに()を上げていなければ良いなと思った。

 通路のあちこちに観覧車乗り場の案内がある。これならば少々迷ってもたどり着けるだろう。

 

 

 ――屋上に到着し、初美は咲をすぐに見つけることをできた。彼女は大きな麦わら帽子をかぶっていたからだ。

 

「待ちましたかー?」

「いいえ」

 

 咲は座っていたベンチから腰を上げた。そして、初美に笑顔を向ける。

 

「咲ちゃん……」

 

 初美は絶句してしまった。咲の目は、自分以上に異様だったからだ。

 鹿児島の強い日差しをまったく反射しない黒い円。それが咲の目であった。

 

(どうして……それを隠さないんですか?)

 

 初美はサングラスをしている自分が恥ずかしくなり、目を逸らして、駅の中に咲を誘った。

 

「車はこっちですよー」

「薄墨さん」

 

 咲は動かずに観覧車を指差している。

 

「ご迷惑じゃなければ、一緒に乗りませんか?」

「観覧車ですかー?」

「はい、私、観覧車が大好きなんです」

「……」

 

 咲は楽しそうに観覧車に乗り込み外を眺めている。そこには鹿児島の精霊として鎮座(ちんざ)する桜島があった。

 

「すごいですね。煙が上がっていますよ」

「おとなしい時もありますけど、今日は機嫌が悪いみたいですね」

「機嫌が悪いと煙を出すんですか?」

「もっとです。噴火したりしますよー」

 

 咲が笑ってくれた。その笑顔に、初美はなぜか小蒔の姿を重ねていた。そういえば、小蒔も麦わら帽子が好きだったなと思った。

 咲がその麦わら帽子を触っている。

 

「日差しが強かったので買っちゃいました」

「姫様も帽子が好きだったんですよー」

「小蒔さんが?」

「……咲ちゃん」

 

 観覧車はどんどん高さを増していき、あと数分で最大高度の90メートルに達する。

 初美は、サングラスを外して、呪われた“ボゼの目”を咲に見せた。

 

「私と同じですね」

「そうだね」

 

 咲は、初美の目を見ても驚かなかった。それどころか、まるで小蒔のように慈愛の笑顔をそそいでくれている。

 初美は、その心地よさを拒否するように、咲に質問を浴びせた。

 

「咲ちゃん、どうしてあなたは“オモイカネ”に勝てたのですか?」

「もしも、小蒔さんが本気だったら、私が負けていました」

「そんなはずはないですよー!」

 

 声が大きくなってしまった。初美には信じられなかったからだ。自分が身を捧げてアシストした小蒔が、本気で闘わなかったなんて信じられない。

 咲は目を細くして首を振った。

 

「言いかたが悪かったですね。小蒔さんは本気でしたが、それは勝負に対してではありませんでした」

「え?」

「小蒔さんは……私を救うことに本気でした」

「……」

 

 初美たちのゴンドラから見える景色が変わっていく。前方に見えていたゴンドラがどんどん見えなくなる。

 

「私が観覧車を好きな理由は、楽しさと寂しさが同居している乗り物だからです」

「……」

 

 前方と後方のゴンドラが完全に見えなくなった。つまりは、初美たちのゴンドラが頂点に達したということだ。

 

「登る時は楽しくてワクワクしますよね。逆に降りる時は、もう終わりかなという寂しさがあります」

「じゃあ今は寂しいんですか?」

「ええ」

 

 咲は、本当に寂しそうに外を眺めている。ただ、それは観覧車が理由ではないはずだった。

 初美は、咲と会ってから、自分が一度も笑っていないことに気がついた。だから初美は、今日一番の笑顔を作り、咲に贈ることにした。

 

「姫様は咲ちゃんを救えましたか?」

「はい。だからどうしてもお礼が言いたくてここにきました」

 

 

 

 ――車の中で、初美は咲と友人のように会話を楽しんだ。試合のことや、入院していた時のことなど、包み隠さず咲に教えた。咲も同じであった。あまり話したくないはずの姉妹の対立のことなどを話してくれた。

 それは咲への憎悪を消し去るには十分であった。そして、咲が呪われた目を公にしているように、自分も“ボゼの目”を隠さないことに決めた。

 

(これは咲ちゃんと闘った(あかし)……私の誇りですよ)

 

 

 

 ――神境に到着した初美たちを出迎えたのは狩宿巴であった。神職につくことが義務とされている六女仙にとって普段着とも言える巫女装束(みこしょうぞく)(まと)っている。巴は規律を重視する性格で、着こなしは完璧であった。

 

「長旅お疲れ様でした」

滅相(めっそう)もありません。こちらこそ、お忙しいところご迷惑をおかけ致します」

 

 巴が驚いている。幼い頃から作法を教育されている自分たちならいざ知らず、普通の高校生である咲が、ほぼ完璧な応対をしたからだ。そして、巴も初美と同じ幻想を見ているに違いがなかった。

 

「本当に……よく似ていますね」

「え?」

 

 巴が似ていると言ったのは、神代小蒔にという意味だった。もちろん、姿も声もまったく違う。ただ、咲の存在そのものが、小蒔にそっくりだったのだ。

 

「いいえ、こちらの話です。今日はこちらにお泊り頂くのでご案内します。はっちゃん、あなたも着替えていらっしゃい」

 

 咲は小さく初美におじぎして巴の後に続いた。

 初美は、自分の部屋に戻り巫女装束に着替える。インターハイ後は、以前のような崩れた着こなしは封印している。

 

 

 

 ――巴は咲を社務所棟(しゃむしょとう)にある応接間に案内しているはずであった。初美がそこにつくと、少し険悪なムードが漂っていた。

 

「初美ちゃん、お疲れ様」

 

 まとめ役である石戸霞が、弱り顔で初美を(ねぎら)った。

 

「どうしたんですか?」

明星(あきせ)ちゃんが……」

 

 霞の従妹である石戸明星が咲に手合わせを望んでいるという。石戸家は小蒔の血縁関係にあたる。明星は、特に小蒔を敬愛していたので、咲に一言二言文句でも言ったのであろう。

 

「明星ちゃん……落ち着いて」

 

 同じ中学三年生の十曽湧(じっそゆう)が明星をたしなめる。

 

「いいですよ」

 

 神境の客として上座に座っていた咲が穏やかに答える。望まれた対局を受けると言っている。

 初美はたまらず話に割り込んだ。

 

「咲ちゃん、それはダメだよ。今は対局しちゃダメですよー!」

 

 車中での会話の中で、初美は聞いていたのだ。〈オロチ〉の呪いは継続されている。決して負けることが許されない呪いが咲にかかっている。

 

「霞ちゃん! 明星ちゃんを止めてください」

「初美ちゃん……」

「今は無理です。もし咲ちゃんと対局するととんでもないことになりますよ」

 

 咲と目が合った。

 

「薄墨さん、私の中に悪霊が見えますか?」

「咲ちゃん……それを解放しちゃダメだよ」

 

 できることなら咲も闘いを避けたいのであろう。初美に自分の危険性を強調してほしい様子だ。

 六女仙なら“ボゼの目”とはなにかをよく知っている。その初美がここまで警告を発しているのだ。普通ならば、思いとどまるだろう。

 初美は、明星に考え直すように促す。

 

「咲ちゃんは手加減ができないんですよ。明星ちゃんは子供のように蹴散(けち)らされるだけですよ」

「手加減など無用です。私は姫様の真意が知りたいだけです」

 

 石戸霞が困り果てた表情を浮かべている。

 彼女も咲の恐ろしさを知る一人だった。団体戦で、霞は咲と対決した。攻撃を兼ねた最強の防御である“絶一門(ぜついちもん)”を、咲は、王牌という治外法権の牌を使って撃破したのだ。それは、あの冷静な霞が狼狽するほどのものだった。

 

「明星ちゃん……小蒔ちゃんは宮永さんに負けたわけでありません。自分に負けたのです」

「納得ができません」

 

 姉同然の霞の説得にも明星は耳を貸さなかった。

 霞は小さな溜息をついて、咲に顔を向ける。

 

「宮永さん……来年の永水のために、半荘一回だけ良いかしら?」

「ええ」

 

 霞は、明星が一度言い出したら聞かないことをよく知っていた。なぜならば、霞自身もそうであるからだ。

 

「わがままはこれっきりですよ……」

「はい」

 

 

 

 ――初美、霞、巴の三人は、来年、もう永水にはいない。二年生になる滝見春と新たに加わる石戸明星と十曽湧だけが小蒔をサポートできる。だが、その三人は、最大の敵となる咲と対戦経験がなかった。咲の強大な力をあらかじめ見ておけば、免疫を形成できる。それが霞の言った『来年の永水ため』という意味だろう。

 

(〈オロチ〉はそんなに甘くはない……心を強く持たなけれな、明星ちゃんと湧ちゃんは再起不能にされかねないですよ)

 

 社務所の奥にある納戸(なんど)に雀卓が置いてある。そこが初美たちの練習場所であった。

 今、卓を囲んでいるのは東家の宮永咲、そこから滝見春、十曽湧、石戸明星の順番であった。

 初美たち三年生は、立ったままでその対局を見守っている。

 

(咲ちゃん……)

 

 対局が始まった途端に咲から漆黒(しっこく)の悪霊が放たれた。霊感力の強い三人は敏感にそれを察知したが、対応にはそれぞれの個性が出ていた。

 率直(すなお)な反応を示したのは湧であった。強毒とも言える咲からの波動を浴び、湧は(おのの)き、ほぼ戦闘不能になっている。

 春は初見ではないので、なんとか持ちこたえてはいるが、とれる対抗策がないと悟り、試合放棄に近い状態だ。

 そして、あれほど入れ込んでいた明星の反応は意外なものであった。彼女は咲の強毒を受け切り、その表情にはなぜか哀しみが浮かんでいた。

 初美は、“ボゼの目”で咲の力の源の“恐怖”を見たことがあった。しかし、咲がなにを恐れているのかは不明だった。おそらく、神代小蒔は、その最深部を見てしまったのだろう。

 

(明星ちゃん……あなたにもそれが見えるのですか?)

 

 優れた霊感力を持つ明星には、小蒔と同じものが見えているのかもしれないと思った。

 

 

 

 ――対局は一方的なものであった。〈オロチ〉の特性上、試合は八局で終了したが、神境の三人はまともに打つことができなかった。咲の代名詞である嶺上開花ドラ8を難なく二回上がられては、絶望的な実力差を感じたはずだ。

 

「宮永さん……ありがとうございました」

 

 半荘が終わり、明星は、納得した表情で咲に礼を言った。そして、小蒔や霞に甘える時のような、中学三年生の幼い笑顔で咲に質問した。

 

「私も、姫様のように強くなれるでしょうか?」

「はい、明星ちゃんは必ず強くなれますよ」

 

 明星が一皮むけて逞しくなったように見える。初美は、やはり、石戸霞はすごいなと思った。自分ならば、こんな荒療治(あらりょうじ)は絶対許さない。

 その霞が、咲の前に立ち、深くお辞儀をする。

 

「宮永さん、ありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ」

 

 霞は、顔の向きと目線だけで初美を呼ぶ。

 

「これから薄墨初美が神代小蒔のいる場所にご案内します」

 

 霞の顔が厳しくなる。

 

「ただし、今、神代小蒔は、話すことも自らの意思で動くこともできません。本当にそれでも良いのですか」

 

 その言葉を予測していたかのように、咲は躊躇(ちゅうちょ)せずに頷いた

 

「石戸さん、10分だけでも構いません……小蒔さんと二人きりにさせてくれませんか?」

「……」

 

 霞は即答せずに、咲の光のない目を見つめている。

 

「……初美ちゃん」

「はい」

「宮永さんが姫様と会っている間、初美ちゃんは外陣(げじん)で待っていてください」

「分かりました」

 

 頑固者の霞も、咲の気持ちに負けたようだ。外部の人間を単独で内陣(ないじん)に入れるなど、いつもの彼女なら考えられないことだ。

 

 

 

 ――初美と咲は、石畳の上を、神代小蒔のいる奥の院へと歩いていた。太陽はとっくに沈んでいるが、マジックアワーの薄明りにより、咲の表情がよく見えた。

 

「小蒔さんはいつもなにをしているんですか?」

「姫様は内陣でずっと座っていますよ。決められた時間に霞ちゃんが食事やお風呂に入れたりします」

「……」

「大丈夫ですよ。姫様は一人でなんでもできます。ただ、自分の意思ではなにもできないだけです」

「そうですか……少し安心しました」

 

 咲は、初美に心配かけぬように精一杯の笑顔を作った。

 

(咲ちゃん……私は“ボゼの目”を持っているんですよ……あなたの嘘などすぐ分かります)

 

 初美は、あえて咲に厳しい質問をすることにした。なぜここに来たのか、それを咲に思い出してもらうためだ。

 

「個人戦の予選を録画で観ました……あんな闘い方はないですよ。まるで自滅したがっているようでした」

「……もしも、小蒔さんと出会わなかったら、私はお姉ちゃんと心中していました」

「……」

 

 マジックアワーはほんの数十分しか継続しない。その奇跡の時間帯で、咲の目が、一瞬光を取り戻した。

 

「私たち姉妹の病は、即効性の薬では治らない。時間をかけて、自らも闘って治す必要がある。それが、小蒔さんの示してくれた道でした」

「……姫様が?」

 

 咲はゆっくりと頷いた。

 

「希望が見えました……暗い穴の中で怯えていた私たち姉妹にも……光が届いたんです」

 

 咲は嘘をついていなかった。心からの感謝の気持ちを伝えるためにわざわざここまできたのだろう。しかし、直霊のない小蒔には、なにも伝わらない。

 

「さっきも言いましたけど……姫様とは話はできませんよ」

「いいんです……約束でしたから」

「約束?」

「お姉ちゃんとの試合が終わったら必ず会いに行きますって、小蒔さんと約束しました」

「……咲ちゃん」

 

 初美たちが奥の院についた頃にはマジックアワーも終わっていた。電球ではあるが灯篭(とうろう)に火が灯り、小蒔の居る社殿(しゃでん)の扉を照らしていた。

 年代ものの鍵で扉を開けて、咲を招き入れる。荘厳な(けやき)造りの内部は暖色系の照明で統一されていた。

 初美たちは、外陣を通り、内陣の扉を開けた。奥の一段高い場所に小蒔は正座で座っている。

 初美は小蒔に近づいて話しかける

 

「姫様、咲ちゃんがきましたよ」

 

 もしかしたらと思っていた。小蒔が自分を犠牲にして救った咲が目の前いるのならば、なんらかの反応を示してくれるのではと思った。

 しかし、小蒔はいつもどおりだった。ただ座っているだけであった。

 

「咲ちゃん……本当にいいの?」

 

 咲も小蒔の現状を見たはずだ。それでもいいのかと聞かずにはいられない。

 

「はい……大丈夫です」

 

 咲は、小蒔の真正面に座った。

 

「10分だけですよ……」

 

 無言で小蒔を見つめる咲を残し、初美は内陣の扉を閉めた。10分とは言ったが、多少はオーバーしてもいい。咲と小蒔には、だれにも分からぬ特別な繋がりがあるように思えた。

 

 

 

 ――社殿の中には時計は存在しない。初美は、神職に就いている間は、スマホや腕時計なども所持していない。今、時間を計るものは、幼少期から鍛えられている時間感覚しかなかった。

 

「咲ちゃん、入りますよ」

 

 そう言って、初美は内陣の扉を開けた。もう20分近く経過している。咲も納得してくれるだろう。

 

「!」

 

 初美はある異変に気がついた。

 

「咲ちゃん! 姫様になにをしたの!」

 

 その衝撃に、大声を出してしまった。

 咲は振り返り、初美に実に穏やかな笑顔を向けた。

 

「小蒔さんに報告していました……私とお姉ちゃんのことを」

「……」

 

 初美は自分の心音が聞こえるようであった。早く伝えなければならない。この奇跡を、仲間に伝えなければならない。

 

「咲ちゃん! すぐ戻りますからここにいてくださいね」

 

 初美は走った。全速力で走っていた。そして社務所棟に到着し、作法などお構いなしに扉を開けっ放して、草履(ぞうり)も脱ぎ捨て、廊下も駆け抜ける。

 

「霞ちゃん! みんな!」

 

 よかった、まだ六女仙が全員いる。霞や巴は、礼儀をわきまえぬ初美に怒っているようだが、そんなことは気にしてはいられない。

 早く伝えたい。だが声が出てこない。その代わりに、初美の赤い目から、大量の涙が出ていた。

 

「姫様が……戻ってきた」

 

 

 

 ――六女仙全員で奥の院に移動した。そこには、宮永咲と微笑みを浮かべた神代小蒔が待っていた。

 

「小蒔ちゃん」

 

 霞が小蒔のそばにひざまずいて直霊が戻っているのかを確認している。

 初美たちは、それを辛抱強く見守る。

 

「まだ完全ではありませんが……」

 

 霞は、立ち上がり、目線で咲を探している。

 

「……まもなく、神代小蒔は戻ってきます」

 

 総代から小蒔は半年以上この状態が続くと言われていた。その絶望感に打ちひしがれていた六女仙にとって、これ以上の吉報(きっぽう)はなかった。春や湧は泣きだし、明星は咲に抱きついて『ありがとう』を何度も繰り返している。小蒔にもっとも近い存在の霞も涙を浮かべていた。

 

「感謝します……宮永さん」

「……私のせいですから」

「神代小蒔は……いいえ、私たち神境の者たちは、あなたを再起不能にしようとしたのです。ですから、その気遣いは無用です」

「石戸さん……」

 

 咲が言いにくそうに口を開いた。

 

「明日……薄墨さんと高千穂峡(たかちほきょう)に行きたいのですが……よろしいですか?」

 

 霞と目が合った。天孫降臨(てんそんこうりん)の地である高千穂峡は、神境の御主神である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)所縁(ゆかり)の場所だ。そして、神代家や六女仙にとっても神聖な地であった。

 

「咲ちゃん……姫様と話せたのですかー?」

 

 初美はたまらず質問した。

 

「いいえ……話したのではなく、小蒔さんの声が聞こえました」

「小蒔ちゃんは……なんて言ったの?」

「薄墨さんと一緒に、真名井(まない)の滝にきてほしいって言っていました」

「……」

 

 初美は、“ボゼの目”で嘘が見抜ける。咲の話していることにはその欠片もなかった。初美は知っていた。神代小蒔は高千穂峡の名勝として知られる真名井の滝が好きだった。ここにいると、心が洗われるようだとも言っていた。

 

「そう……私たちは行っては駄目なのですね?」

 

 霞が少し寂しそうに言う。

 

「はい、薄墨さんと二人だけで」

「……初美ちゃん」

「はい」

「小蒔ちゃんを……よろしくね」

 

 霞は、子供の頃から小蒔を支えてきた。その彼女が、直霊の帰還に役に立てないとなれば、寂しさが(にじ)むのはしかたのないことだった。

 

「はい……姫様を連れ戻します」

 

 

 

 ――その後、咲を囲んで夕食会をした。神社の食事は素朴なものと考えがちだが、“直会(なおらい)”と言って、初美たちは神様が召し上がったものと同じ物を食する。その季節で一番おいしいもの、美しいものが神様に供えられ、それを下げたものを食べる。珍しいもの、初めてのものが多いのだろう。咲は『これはなんですか?』と聞きながら食べている。説明役は、もう友達になってしまった明星だった。

 不思議な感覚であった。初美たちは、宮永咲を葬り去る相手として敵視していた。そして、これからも、間違いなく最大の敵となる。その彼女と、こんなに楽しく食事をしている。

 

(姫様……ようやく分かりました。優しさとは、弱さではなかったのですね)

 

 神代小蒔と宮永咲には共通している部分があった。それは、無限の優しさだった。時には自分を苦しめ、時には相手をも苦しめる。そして、それを持つ者には決してくじけない強さが必要なのだ。

 初美は、二人への尊敬の気持ちを新たにした。たとえそれが、敵であっても味方であっても変わりはない。

 

 

 

 ――翌朝の午前4時。初美と咲は、神境専属のドライバーが運転する車に乗り込んでいた。高千穂峡は宮崎県にあり、神境からは200kmほど離れている。初心者の初美には荷が重いと考え、霞が手配をしてくれた。これから、およそ5時間の長旅になる。

 

「咲ちゃんは帰りも新幹線?」

「いえ、帰りは鹿児島空港から飛行機に乗ります」

「そうかあ……神境からも近いからね。でも、長野への便はありませんよー」

「はい、羽田まで行きます。そこから新幹線で長野に戻ります」

「羽田……もしかして、お姉さんが迎えにくるとか?」

 

 興奮して話す初美に、咲が恥ずかしそうに首を振る。

 

「お姉ちゃんとは、まだ、少し時間がかかりそうですね」

「……ごめんなさい」

「いいえ、でも、お母さんが迎えに来てくれます。お母さんと会うのも久しぶりなんですよ」

「それは、楽しみだね」

「はい……とっても」

 

 小蒔の言ったとおりだなと思った。焦ってはならない。時間をかけてゆっくりと治したらいい。咲と照の溝は、絶対に埋められる。初美にもそれが信じられた。

 

 

 車は、午前9時に高千穂峡の御橋(みはし)付近にある駐車場に到着した。咲の帰りの飛行機が午後4時なので、あまり長居はできない。初美と咲は、小蒔から指定された真名井の滝がよく見える場所に移動した。断崖絶壁から流れ落ちる清らかな水が雅楽を(かな)でていた。舞い上がる水滴が気化蒸発し、晩夏の九州とは思えぬ涼しさであった。

 咲が目を閉じている。初美もそれに(なら)い目を閉じる。そして、神代小蒔の姿を思い浮かべる。

 

(……初美ちゃん)

 

 あの懐かしい神代小蒔の声が心に響いた。

 初美は、昨日からずっと考えていた。なぜ自分だけが小蒔に選ばれたのか? おそらくは、謝罪するチャンスを与えてくれたのだなと思った。だから、初美はそれを実行した。長い間心に引っかかっていた小蒔への罪悪感を隠さず話すことにした。

 

(姫様……私があんなことを言わなければ……八岐大蛇を倒そうだなんて言わなければこんなことにはなりませんでした。だから私は……一生をかけて……)

(初美ちゃん……私は、あなたのおかげで、もう一人の自分に会うことができました。ありがとう)

 

 初美の謝罪を否定するように、小蒔の声が被さる。もう一人の自分とはだれか? それは咲のことなのか?

 

(それは咲ちゃんのことですか?)

(……)

(姫様!)

 

 小蒔はもうなにも語らなかった。

 初美が目を開けると、宮永咲が目の前にいた。

 

「もう一人の自分……咲ちゃんのことですか?」

「小蒔さんが?」

「はい」

「そうですか……嬉しいですね」

「咲ちゃんも……姫様の声が聞こえましたか?」

「ええ」

「なんて言ったか聞いてもいいですか」

 

 咲は、昨日買った麦わら帽子を触りながら、初美を見ている。その仕草が、神代小蒔にそっくりであった。

 

「またね。です」

「またね……ですか」

 

 その時の感情をダイレクトに表現して良いのは子供に許された特権だった。そして、初美は、もう子供ではなかった。だから、小蒔と話せた嬉しさ、そしてまた、話せなくなった寂しさを耐えていた。しかし、咲の言った『またね』というなんの変哲もない言葉が、初美の耐えるという心を折ってしまった。

 初美は、咲に抱きついて泣いた。子供のように泣き続けた。咲の両腕が、まるで小蒔のように初美を包み込んだ。

 静寂さの中の真名井の滝の雅楽が初美の心を浄化していった。許されたのだなと思った。自分は、神代小蒔に許されたのだ。

 

 

 

 ――鹿児島空港までの帰路は思いのほか混雑しており、到着した頃には咲が乗る飛行機の搭乗が開始されていた。お土産など買う暇もなく咲を見送ることになってしまった。

 

「それじゃあ薄墨さん。いろいろとありがとうございました」

「咲ちゃん、またきてくださいねー」

「はい、必ず」

 

 咲が小さくお辞儀をして、搭乗口に向かって歩き出す。初美は()も言われぬ寂しさを感じた。だが、初美は思い直した。これは再開の喜びのための必要な儀式なのだ。ここは気持ちよく送り出さなければならない。

 初美は、大きな声で、儀式を締めくくることにした。

 

「約束ですからねー!」

 

 咲が手を振っている。これでいい、これでまた彼女に会うことができる。あとは、それを楽しみに待っていれば良い。それだけの話だ。

 

 

 

 エピローグ

 

 三年後、日本の麻雀界は二極化に突き進んだ。小鍜治健夜が率いるニューオーダー派と、熊倉トシと愛宕雅恵が牽引する保守連合が熾烈な闘いを繰り広げることになる。それは、ニューオーダー派が大勢を占めるまでの12年間継続されたが、初期の頃にはもう一つの勢力が存在していた。

 戒能良子を中心に、神境六女仙で構成された“チーム・ヴィシュヌ”(ヴィシュヌはバラモン教の維持の神。戒能良子は神境への皮肉を込めてそう名付けた)がそれであった。その構成メンバーの特性上、活動期間は3年にも満たなかったが、だからこそ、一瞬の輝きを見せる花火のように、人々の心に残り続けている。

 中でも恐れられたのは、先鋒に居座る“ボゼの目”を持つ雀士、薄墨初美であった。完全な能力潰しの力を持つ彼女への対抗措置として、ニューオーダー派、保守連合とも、先鋒にポイントゲッターを置くことができなかった。それは、ニューオーダー派鉄壁の先鋒、宮永照も例外ではなかった。小鍛治健夜は“チーム・ヴィシュヌ”と闘う場合、先鋒に宮永姉妹を配置せずに、堅実な野依理沙(のよりりさ)を置いていた。保守連合も同様に、オールラウンダー福路美穂子を配置するしかなかった。

 “チーム・ヴィシュヌ”は、常に全力以上の闘いを見せ、見る者に感動を与えた。彼女たちがいた3年間こそが、日本麻雀界最大の華であったとの評価が多数を占めていた。

 

 “チーム・ヴィシュヌ”薄墨初美は、引退後、懐かしそうに、こう語ったことがある。

 

「もしも自分が、宮永咲と出会っていなかったら、きっと違った人生を歩んでいたと思います。あの高千穂の滝で体験した奇跡が私を変えました。その選択が良かったのか悪かったのかとよく聞かれますが、私は、必ずこう答えることにしています。それが姫様から私に示された道でした。だから、そこを歩んできたことに後悔などありません」

 

                         高千穂の滝(後編) 完

 




次話:「弘世菫の災難」

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