年明けからは慌ただしい毎日だった。養成所への交通費を浮かすために346から振り込まれていた最後の給料で自動車学校で原付の免許を取ると中古で四万円のスクーターを買った。ずっと探していたバイトもウサミン星から徒歩十五分のところにある大手のコンビニで面接を受け即採用になり、少しずつだが生活の基盤が出来始めてきたのだ。勤務時間は基本的に夕方から夜の十二時までの週四回、時給は九百十円、夜の二十二時以降は深夜料が千百三十円。しかも廃棄として出た弁当は食べ放題、お金にも食料にも困っていた私には魅力的なバイトだった。
そして迎えた養成所の初日。いよいよ待ちに待った声優としての人生が始まった日。
「提出書類は全部大丈夫でした。後川さん、本日からよろしくお願いします」
私は、前川みくは――……。『後川未来』になっていた。
―――――Episode.5 夢と現実の狭間
“芸名”を提案したのは武内プロデューサーだった。もともと本名の『前川みく』でアイドル活動をしていた私は、シンデレラプロジェクトのメンバーの一人としてある程度の知名度が付いてしまっていたのだ。今回の養成所への入所は完全に非公開で発表はされておらず、私の強い要望もありシンデレラプロジェクトのメンバーたちにすら公表されていなかった。そんな芸能界から消えた『前川みく』が養成所に通っているのがバレると私自身が声優としての活動に集中できなくなるのでは、と武内プロデューサーが気にかけてくれたのだ。
結果、養成所のスタッフと武内プロデューサーが話を付けてくれて、私は“芸名”で養成所に入所することとなった。『後川未来』という芸名は私自身が考えたもので、『うしろかわ』はそのまま本名の真逆の感じを当てただけで『みらい』も本名に漢字を当て読み方を変えただけだ。あまり本名と関係のない名前にすることが嫌だった結果、この芸名が生まれた訳である。
「後川さん? うしろかわさーん!」
「え? あ、はい!」
暫くの間は養成所の友人や先生たちが自分の名前を呼ぶことに違和感しか感じなかった。入所してからは間もない頃はよく“シンデレラプロジェクトの前川みく”に似てると声を掛けられたが、それも否定し続けていたら次第に声を掛けられる頻度も減って行った。
養成所でのレッスンはかなり基本的な発音や台本の読み方、収録現場でのマナーやしきたりなど、初歩的なところから始まったがもともと声優としての活動歴が僅かながらもあり入所前に菜々ちゃんから色々と指導を受けていた私はあっという間に上のクラスへと進んでいった。それに自分自身がキャラクターに声を当てるという声優の仕事が楽しくて楽しくて、養成所で送る勉強漬けの毎日は私にとってとても充実した時間そのものだったのだ。知れば知るほど奥が深い声優の世界に、私は日に日にはまり込んでいっていた。
だが一つだけ残念だったのは、私以外の養成所に通っている子たちの殆どが私と同じ気持ではなかったことだった。頻繁に授業やレッスンをサボる子もいれば、入所してあっという間に辞めてしまった子もいた。声優の養成所自体、ほぼ専門学校のようなもので346プロのように厳しいオーディションを勝ち抜いてきた子たちではなく、簡単な面接と高い学費を払うだけで入所してきた子ばかりだったのだ。そのせいか、何処か周りの子たちは必死さが感じられないボンヤリとした子ばかりだった。
「後川さん、今日午後からカラオケ行かない?」
「え? でも午後からレッスンあるんじゃ……」
「良いじゃん、良いじゃん! たまにはサボって遊ぼうよ!」
毎日のようにサボりに誘われても、私はそれを頑なに断り続けた。この養成所に通うために武内プロデューサーがどれだけのお金を出してくれたのか、そのことを考えると一日でも一つのレッスンでもサボるわけにはいかなかったのだ。
入所してから続いていたサボりの誘いを断り続けたせいで私の周りには人がいなくなった。昼飯もいつも独りで食べているし休み時間もいつも独りで、寂しいと言ったら嘘になるのかもしれないが、私は此処に友達を作りに来たわけではないのだ。声優としてブレイクして再びアイドルに返り咲くために来たのだと、私は毎日そう自分に言い聞かせて独りでも黙々と勉強を続けた。
時間は流れ私が声優の養成所に入所してから早くも四ヶ月が経過しようとした春の暮れ、ようやく“後川未来”の名で呼ばれることに慣れ始めた頃、私に願ってもない転機が舞い込んできた。
いつものようにレッスンを受け終わり、今日はバイトが休みだからもう少し勉強してから帰ろうかな――……、なんて考えながら廊下を歩いていた私は担当の先生に呼び止められた。そのまま話があると言われ、誰も使っていない教室に連れ込まれた私。静まり返る二人きりの教室で、向かい合うように座った私が受け取ったのは白黒のコピーで印刷された冊子だった。
「急な話だけど当初の予定だった本校の生徒が喉の調子を悪くしてね、代理を立てることになったの。後川さん、受けてくれないかな」
「私が……、ですか?」
そうよ、と呟くと先生は真っすぐに私を見つめたままゆっくりと頷く。受け取った冊子に書かれていたのは今年の夏から放送予定のアニメの収録スケジュールだった。先生によると明日行われる第八話の女子高生Aの役を担当する予定だった子が出れなくなったらしく、その代理で私が選ばれたらしい。「後川さんはいつも真面目に頑張ってたし、少なからず現場経験があるからって、先生たちの間では満場一致だったの」そう話してくれた先生はそれから細かな詳細を話してくれた。代理と言ってもセリフは台本で言うとたったの二行程度しかないらしく、出番も第八話のワンシーンのみ、それでも一応スタッフロールには名前が載るらしい。僅かながらも出番があるため一応ギャラも出るらしいが、出番が出番だけにほぼあってないようなものだそうだ。
「後川さんにとってもチャンスになると思うの。受けてもらえないかな?」
「はいっ! 是非、お願いします!」
私に一ミリたりとも迷いはなかった。たった二行のセリフでも例えギャラが安くても、私の声をキャラクターに吹き込ませることができるのだ。そして私が声を吹き込んだキャラクターが全国のテレビで放送される――……。声優としてこれ以上嬉しい事はなかった。
声優の養成所へと入所して僅か四ヶ月目にして回って来た最初のチャンス。私は意外な形でデビューを迎えることとなったのだった。
ウサミン星へと帰り、菜々ちゃんに代理でデビューすることになったと話すと菜々ちゃんはまるで自分の事のように喜んでくれた。私を小さな身体で思いっきり抱き締めたかと思えばすぐに小さな手の平で必死に背を伸ばしなら私の髪をぐしゃぐしゃにしながら撫でてくれる。
「なら今日はご馳走ですね! 美味しい物食べて明日の収録頑張ってください!」
私の手を握ってピョンピョンと飛び跳ねる菜々ちゃん。その日の夜、菜々ちゃんは私の為に赤飯を炊いてくれた。声優としては私の大先輩にあたる菜々ちゃんだが料理の腕はイマイチらしく恐らく水の分量を間違えたのか、菜々ちゃんが炊いてくれた赤飯は少し水っぽかった。だけど菜々ちゃんが炊いてくれた赤飯は今まで食べてきた赤飯の中でも断トツで美味しかった。家がない自分を快く迎えてくれて、まるで自分の事のように心の底から応援してもらえて、自分がどれだけ幸せ者か――……。菜々ちゃんの純粋な優しさに改めて触れて私は目頭が思わず熱くなってしまい、味なんか全然分からなかったのだ。
「あれ? みくちゃん、どうしたんですか?」
「菜々ちゃ~ん……。この赤飯、水っぽいよぉ……」
私は静かに頬を伝った涙を必死に誤魔化したのだった。
次の日、快晴が続いていた最近とは打って変わりどんよりとした雲が覆う空からは大粒の雨が降っていた。収録スタジオまで原チャで行こうと思っていたがこの雨なら原チャも使えそうにない。私は殺風景な財布の中を確認すると思わず溜息をつき、傘を手に取った。あまりお金は使いたくないがこの雨なら仕方ない――……、電車で行くしかなさそうだ。
「みくちゃん、頑張ってね~! あ、千早さんのサインも貰えたらよろしくです~!」
「はいはい、頑張ってくるよ~!」
アパートの駐輪場に停めたピンク色の原チャの前を傘をさして通り過ぎようとした頃、アパートの二階の窓がガラッと開く音が聞こえ足を止め見上げると菜々ちゃんが小さな両手を精一杯振ってくれていた。私は知らなかったが菜々ちゃんが言うには今日収録するアニメの主題歌は765プロの如月千早が担当しているらしい。菜々ちゃんが好きだったなんて初耳だったが、その如月千早のサインが欲しいと昨晩、しつこくせがまれたのだ。
如月千早と言えば数ヶ月前に李衣菜ちゃんと他数名のアーティストと合同名義のアニソンカバーアルバムを出していた人だ。正直あまり如月千早の歌は聞いたことはないが、毎年紅白には出てるし幅広い年齢層の人たちから人気もあるトップアイドルの一人なのは間違いない。そんなトップアイドルと合同名義でアルバムを出せる李衣菜ちゃんを初めは遠い存在に感じていた。だけど、例え女子高生Aの台本には二行しか台詞がない声優でも、私はそのトップアイドルの“如月千早”が歌う主題歌のアニメに携われるのだ。
そう思うとなんだか自分が誇らしく思えてきた。アスタリスクを解散してからずっと遠くに感じていた李衣菜ちゃんにほんの少しだけ近づけているような気がするのだ。
「よおぉぉし、頑張ろう!」
私はもう一度だけ菜々ちゃんに手を振り返すと少しだけ早い歩幅で歩く始めた。どんよりとした空からは相変わらず雨が降り続いていた。
☆☆☆☆
「本日、代理で参加させていただくことになりました後川未来です! よろしくお願いします!」
「あー、養成所の子ね。うん、よろしく頼むよ」
私の少しだけ緊張が入り混じった挨拶。担当の細身の眼鏡の男性監督はまるで興味がなさそうに握手をすると目も合せずに私の前から去って行ってしまった。昨晩菜々ちゃんから聞いたように、監督はかなり感じの悪い人だった。不愛想なこの監督のせいか、収録スタジオは物凄くピリピリとした緊迫した重い空気が流れている。
昨日養成所で貰った収録スケジュールにもう一度目を通すと私の出番まではまだ三十分ほどの時間がある。それに加え時折聞こえてくる監督の苛立ちの籠った声――……、少しばかり時間が押しているらしく、実際は三十分以上掛かりそうな気配があった。
(なんだか緊張してきたなぁ……)
私はずっと出番が来るのを控室で待っていた。声優の後川未来として初めての収録、緊迫した重苦しい空気のスタジオ、私の乾ききった喉はどれだけ水を飲んでも乾きを満たすことができなかった。誰もいないこの控室での待ち時間、何度時計を見ても全く進んでいない時計の針、普段の五分が今日は三十分のように長く感じる。
カチッカチッと静かに鳴り響く時計の足音。何度も何度もペットボトルに入った水を喉に運んでは深呼吸を繰り返す。落ち着かなかった。気分を紛らわそうと台本の復習をしようと鞄から台本を取り出しても全く頭に入って来ないのだ。今まで何度も何度も今回の収録以上に大きな舞台で歌ってきたはずなのに、どうしてこんなに緊張してしまうのだろう――……。その問いが、今の私は独りぼっちだということに私はすぐに気が付くことができた。今までアスタリスクとして、シンデレラプロジェクトとして、私の傍には常に誰かが一緒にいてくれた。緊張をしても解しあって励ましあう仲間がいて、私は独りではなかったのだ。
だがシンデレラプロジェクト解散に従いアスタリスクも解散、時計の針は十二時を過ぎてしまい私に掛けられた魔法は解けてしまった。私の傍でからかうように励ましてくれる李衣菜ちゃんも、遠くから温かい眼で見守ってくれる武内プロデューサーも、今はもう居ないのだ。
誰も傍にいなくて独りで迎える収録がどれだけ過酷で不安なものなのか、解散から四ヶ月が経った今頃になって私には身に染みるほどに感じていた。
「後川さん、スタンバイお願いします」
ノックも無く開かれたドア。ADの声が私を現実へと引き戻す。
「わ、分かりました」
私は震える手で台本を握り締めるとゆっくりと立ち上がった。控室の窓は朝よりより一層激しくなった雨が大きな音を立てて窓を叩き付けていた。
☆☆☆☆
何度か経験したことがあるはずのアニメの収録現場。私の他の声優の人たちがいて沢山のスタッフがいてそして監督がいて――……、何度も経験したはずの収録現場なのに私の心にはまるで余裕が生まれなかった。マイクスタンド前に立つ私の足は今にも崩れ落ちそうなほどにガタガタと音を立てて震えている。さっきまで何度も水を含んだはずの喉がカラカラになり背中を大量の冷や汗が襲う。私は完全にこの場の空気に飲み込まれてしまっていた。
震える足のまま、マイクスタンドを自分の口元へと調整し何度も繰り返し読んだ台本のページを開く。何度も何度も読み直したたった二行のセリフには赤い蛍光ペンが塗られている。
――大丈夫。何度も何度も練習したし、たった二行だから絶対大丈夫。
私は何度も何度も心の中で自分にそう暗示をかけるようにして言い聞かせた。そしてゆっくりとガラス越しに座る監督の方へと視線を向けると監督は黙って三本の指を並べている。ゆっくりと始まるカウントダウン、最後の一本が折れた時、私は視線を台本へと戻した。
「えー、この服めっちゃ可愛いじゃん。何処で買っ……」
「おい」
セリフの途中で入ったのは冷徹な監督の声だった。私は怯えたように肩を動かすと思わず監督の方へと視線を戻す。監督は椅子に足を組んで座ったまま、ただただ冷たい瞳で私を見つめていた。
「もう一回やれ」
「はい……」
私の声は震えていた。だがそんな私に構うことなく、すぐに指のシグナルが出てくる。一本が折れてまた一本が折れて、そして最後の一本が折れて――……。私は震える手で握り締めた台本を再び読み始めた。
「えー、この服めっちゃ可愛いじゃ……」
「もういい」
監督の冷たい声。最初より早いタイミングで私の声は再び打ち切られてしまった。怯えた目で見つめる先の監督は気怠そうに椅子から立ち上がって私とマイクスタンドが真ん中に立つ部屋へとゆっくりと入って来る。そして私の前で立ち止まると静かに、冷たい瞳でじっと私を見つめていた。
「お前、出身何処?」
「へっ?」
ようやく出てきた言葉が全く予想外の質問だった。思わず私は固まってしまう。
「だから地元は何処なの、東京じゃないでしょ」
「お、大阪です……」
フリーズが解けた私の言葉に監督は舌打ちをすると、「やっぱりな」とだけ呟くと髪を強引に掻き揚げた。明らかに苛立ちを募らせている監督の姿に威圧されるように、私は思わず一歩後ずさりしてしまう。
「お前さ、発音おかしいよ。全然なってない。関西弁のキャラじゃないんだからさ、それ治さないとキツイよ」
「すみません……」
容赦なく突きつけられる監督の言葉。大阪から出てきて長い時間が経って、私はすっかり関西弁のイントネーションがなくなったと思っていたが実際はまだまだ残っていたらしい。だから私に出身を聞いたのか――……。
ほんの僅かのセリフで私はそれが見抜かれてしまっていたのだ。あくまで私の演じる女子高生Aは標準語のキャラで関西弁のイントネーションではダメなのだ。本当に細かい拘りだが、これがプロの世界だった。例えセリフが二行しかないキャラでも、絶対に妥協はしてはいけないのだ。
「あとさ、なんで台本見てるの? たった二行のセリフも覚えられないの?」
髪を掻き揚げた右手で私の台本を落すようにして叩く。震える私の手から離れた台本は私と監督の二人だけが立つ静かな収録室に大きな音を立てて落ちた。だがそんな台本には目もくれず、監督はただただ私だけを真っすぐに見つめていた。
「『たった二行』だからって甘く見てんじゃないの? 声優の仕事、なめてんじゃねーぞ。これくらいの量、覚えて来いよ」
一段と落ちた監督の声のトーン。私はその言葉に何も言えなかった。何も言えない代わりに、私の頬にはいつからか涙が伝っていた。監督の威圧感、そして独特の空気が流れる収録現場、そして想像以上に厳しい声優の仕事に、私はただただ大粒の涙を流すことしかできなかった。
「もう良いから、帰れ」
その言葉だけ残して監督は私に背中を向けて収録室から出て行ってしまった。一人残された私は叩き落された台本をただただ見つめながら涙を流していた。
せっかく掴んだチャンスなのに――……。養成所の先生たちが私を選んでくれたこと、菜々ちゃんが自分の事のように喜んでくれたこと、色んな事が脳裏を過ぎった。緊張して何もできなかった自分が、『たった二行』のセリフだと思ってしまっていた自分が情けなくて悔しくて、そして何より私を応援してくれている人たちのことを思うと今の自分が不甲斐なさ過ぎて申し訳なくて、私の眼からは色々な感情を含んだ涙が流れ落ち続けていた。声優の世界は想像以上に厳しかった。声だけで演じることがどれだけ難しいことか、私はこの時身を以って経験したのだ。
今朝、李衣菜ちゃんと合同名義でアルバムを出した如月千早が主題歌を担当するアニメのモブキャラを演じれることで少しでも遠かった李衣菜ちゃんの背中に近付けると思っていた。だけど結局は近付くどころか更に遠くに感じるだけになってしまった。やっと李衣菜ちゃんの背中が見えたと思ったのに、痛感させられる現実に私は何も出来ずただただ涙を流すしかできなかったのだ。
そんな惨めな私を、ガラス越しの廊下から蒼い髪の女性が見つめていたことに私は気付きもしなかった。
前川みくの次話(第7話)ではいよいよあのアイドルが登場。
前作で分岐点となったお話しとのリンクになります。