床の傾斜した大教室には緊張した
教壇の隅に立ったひとりの試験官がしきりに腕時計を気にしていた。
「はい、そこまで。筆記具を置いてください」
試験官がつげた。鉛筆を置く音とため息が流れる。にこのため息もそこに加わっていた。
「解答用紙の回収が終わるまで、席を立たないでください」
まあ、こんなものかしらね。
ほぼすべてうまった解答用紙を見ながら、にこは思った。適当に書いた部分も多かったが――。
ほかの受験生と一緒に、にこは校舎の外に出た。
都心からすこし離れた緑の多いキャンパス。曇りがちの空。思いのほか冷たい風に体を震わせた。
思い出して鞄のなかのスマートフォンの電源を入れた。なんとなくブートアニメーションを見守るうちに起動が終わり、メール着信音が響いた。
差出人は同級生の
たまたま同じ日に希が数駅、離れた別の大学で受験することがわかり、試験が終わったら落ち合おうと話していたのだった。
にこはスマートフォンを鞄にしまい駅に向かって歩き出した。
「お疲れさま、にこっち」
チェーンのファーストフード店。にこがドリンクを注文して席に向かうと、気づいた希が手を振った。
にこは希の向かいに腰を下ろす。
「希も、お疲れさま」
「それで、試験、どうやった? たしか、今日が本命って、いってたやん」
希は穏やかにたずねた。にこは緊張の残る顔で答える。
「謙遜しても仕方ないから、正直にいうけど……。まあまあ、だと思うわ。たぶん、八割がた、大丈夫ね」
「そっか、よかったやん」
希の頬がゆるんだ。そうするともともと柔和な顔が、さらに慈愛にみちた優しげなそれになる。にこも表情をゆるめた。
「まあね。ようやく、肩の荷がおりたわ」
にこは肩をすくめた。
滑り止めのほうは、まず受かってると思うし、来年から路頭に迷うってことはなさそうね、とにこは思う。
「にこっち、がんばってたもんな。ほんま、赤点、取りそうだったころにくらべたら、雲泥の差やね」
「私だって、やるときはやるわよ」
「……真姫ちゃんたちには感謝やね」
希はにやりと笑った。
「なによ、知ってたの?」
にこは一口、照れ隠しにドリンクを飲む。
あまり必死になってるの、恥ずかしいから、ほかのメンバーには見られないようにしてたのに……。
「もちろん。ときどき、部室で話題にしてるの、気づいとったよ。真姫ちゃんだけでなく、海未ちゃん、花陽ちゃんもね」
「希には、なにも隠しておけないわね。……塾に通うのも厳しかったから、ほんと、三人には足を向けて寝られないわ。まあ、気にする
「そうやね。でも、うちらにも、頼ってくれてよかったんよ」
「希も絵里も、同じ受験生でしょ。そういうわけにはいかないわよ」
「にこっちも、へんなとこで
希はふふっと微笑んだ。
一口、ドリンクを飲んでからにこは続ける。
「それで、希はどうだったの?」
「うち? うちは、それなりやね。まあ、なんとかなると思うんよ」
「選択問題には、めちゃくちゃ強そうよね……」
「まあね。毎回、神頼みってわけにも、いかへんけどね」
希は笑ってコップを口にはこんだ。
「希は、国立も受けるのよね」
「うん、絵里ちもね」
「じゃあ、もうすこし続くわけね。がんばってね」
「ありがと」
まあ、希と絵里なら、大丈夫そうよね。絵里はもともと勉強はできるほうだし、希は本番にめちゃくちゃ強いから……。
しばらく沈黙が流れた。やがて希は静かな口調で話しだす。
「にこっち、私立に行くことになるんやね」
「そうね」
希は探るような目をしてにこを見つめた。にこがそれ以上なにもいわないのを見て、続ける。
「……アルバイトとか、するん?」
遠回りにたずねる言葉に、にこは、希は優しいのね、と思う。
「とりあえず、大丈夫そうよ。……去年、私立に行きたい、ってママにいったらね、このときのために貯金しておいたんだから、安心して受けなさいって」
「そっか。いろいろ感謝やね」うなずく希。
「ええ、ほんとよね」
にこは遠くを見るような目をして、すこし黙りこんだ。
あまりしんみりしても仕方ないわね。そう思ってわざと茶化すように話す。
「……ま、大学に行っても、アイドル活動に専念できる、ってことよね」
「留年だけは、せえへんといてね」
「も、もちろんよ!」
胸を張るにこに希は微笑んだ。
ふたりは席を立って駅へ向かった。
都心へ戻る電車のなか、にこと希は隣り合って座った。あまり会話ははずまなかったが、沈黙はむしろ心地よかった。
四月から……希とも絵里とも、μ'sのみんなとも、お別れ、か。
対面の車窓を眺めながら、にこは思う。
もちろん、会えなくなるわけじゃないけど、寂しくなるわね。
とりあえず明日は、真姫たちにお礼、しなくちゃ。でも、今日の結果が悪くなさそうで、ほっとしたわ。微妙な結果だったら、雰囲気も微妙になってたところね……。
・
翌日。にこは準備をして待ち合わせ場所に向かった。こころたち弟妹に留守番の準備をさせるのに手間取ったが、なんとか間に合いそうで胸をなでおろす。
御茶ノ水駅の西口に着くと、すでに真姫、海未、花陽の三人が来ていた。
「もう、遅れるなら遅れるって、いいなさいよ」
真姫にいわれて、にこは思わず反論する。
「なによ、ちょっと妹たちの面倒、見てたのよ。それに、時間通りじゃない!」
「それでも、まずはあやまるのが、道理でしょ」
ぐっとにこは言葉に詰まった。
も、もちろんわかってるけど、そういういい方されたら、素直にあやまれないじゃない……。真姫も、本気で怒ってるんじゃないと、思う……思いたいけど。大丈夫よね……。
「まあまあ、二人とも……」
海未がとりなしてくれて、にこは内心感謝した。
勉強の礼に食事をごちそうしたいという、にこの申し出を三人はこころよく了承してくれた。
にこが案内した先のレストランで、三人は料理も生演奏も楽しんでいた。にこは嬉しくなる。
ほんとは、こんなものじゃ、追いつかないけど……。まあ、気に入ってくれたようでよかったわ。
真姫がふとした拍子に、真姫の自宅でふたりで勉強していたことを話してしまったときには、肝を冷やしたが――海未も花陽も深くは追及しなかった。
雑貨店と公園に立ち寄り、帰り道。真姫とふたりきりになったとき。
「卒業記念に……よかったら、にこちゃんの曲、作らせてもらえない?」
真姫の思いがけない申し出に、にこはどきりとする。
「私の曲?」
真姫がだれかのソロ曲を作るなんて……初めてじゃないかしら。私に、そんなこといってくれるなんて……。
「ほら、にこちゃん、大学に行ってもアイドル、続けるんでしょ。そのときに歌う曲がなかったら、その、寂しいんじゃないかなって」
真姫の視線に、にこは思わず涙ぐみそうになる。あわてて目をそらした。
「べ、別にそんなことないけど。μ'sの曲も、あるし」
そういってしまってから、すぐに後悔する。
あー、まったく、私ったら、素直じゃないわね。もし、真姫がひっこめちゃったりしたら、ほんと、泣いちゃうわよ。
「じ、じゃあいいわ。ちょっといってみた、だけだから」と真姫。
ち、ちょっと待ってよ。急いでにこはフォローする。
「真姫が作りたい、っていうなら
にこが心細く待つうちに真姫はつぶやいた。
「……そうね、作りたいわ」
「真姫……」
にこはほっとして膝の力が抜けそうになり、あわてて気を引き締めた。
にこにーにこちゃんの歌詞を教えてほしいという真姫に、にこは別の歌詞を考えさせてほしいと頼んだ。
さすがにあの歌詞だと、ちょっと子供っぽいかしら。これから大学生だし、すこし路線変更したほうがいいわよね。
それに……真姫に、せっかく作ってもらうんだし。
別れ際、真姫はレストランの生演奏で最後に演奏された曲の曲名をたずねた。あいにくにこは知らなかった。
あとで花陽にでも聞いてみましょ、とにこは心にとめた。
次の交差点。
「にこちゃん、ここでいいわ」と真姫。
「わかったわ。それじゃ、また明日」
すくなくとも明日は会えるわけよね、と思う。
「うん。今日はありがとう。気を付けてね」
にこが微笑むと真姫も微笑んだ。
にこは心に温かいものを感じながら、家路についた。
・
翌日、日曜日の午後。μ'sのメンバーは部室に集まった。いつも通り練習着に着替えて屋上に上がる。
ラブライブの本選が近づいて練習メニューは軽めにおさえられていた。
「こんにちは、にこちゃん」
「こんにちは」
挨拶をした真姫はいつも通りで――昨日のことはおくびにも出さず――にこは安心するとともにすこし残念に思った。
練習の休憩中、花陽と一緒になったときに、にこは聞いてみる。
「ねえ、昨日のレストランのことだけど」
「あ、ごちそうさまでした! すごく、おいしかったです。今度、花陽も、
「それはよかったわ。演奏、覚えてる?」
「もちろんです! とても素敵で……とくに女性の声が、ハスキーで、大人っぽくて」
花陽は純真な笑みを浮かべた。にこも嬉しくなる。
「それで、最後の曲の曲名、知ってるかしら? 私、聞き覚えはあるんだけど」
花陽はうなずいた。
「たしか、OMENS OF LOVE、って曲だと思います」
「オーメン? ホラー映画のテーマ曲かなにか?」
そのわりには明るい曲だったと思うけど……。
「ちがうよ、にこちゃん」花陽はくすりと笑う。「オーメンは、予感、っていう意味で……。恋の予感、って感じかな」
「恋の予感……」
「だから、希望に満ちた、感じの曲なんですね。きっと」
花陽はふたたび微笑んだ。
「……ありがと、花陽」
「どういたしまして」
あとで真姫に教えてあげましょ、と思う。でも……。
もしかして、真姫、曲名、知ってたのかしら……。もし、知ってたら、どうしてわざわざ、聞いたりしたんだろ。
私が恋愛経験なさそうだから、話題にでもしたかったのかしら。たしかに恋の予感なんて、無縁だけど。余計なお世話よ!
あれ、でも、真姫は、恋の予感なんて、あるのかしら……。
結局その日は、真姫にその話題を話すことはどうしてもできなかった。