時雨って名前もそうだけど、それとは関係ない。
いつの頃からか、僕の中では雨が降っている。
重く立ちこめた曇天から、降り続ける雨。
自分ではどうすることもできなくて、僕は濡れたまま立ち尽くす。
見上げる空は本当に暗くて、光はなかった。
笑顔のわけ
僕は、提督の運転する車の助手席にいた。佐世保へやってきてから…というより、艦娘として海上で拾われてから、海以外の場所から鎮守府の外へ出るのは初めてだ。運転席の提督は上機嫌で、時に鼻歌なんかも出ながらハンドルを握っている。
「提督、どこへ行くんだい?」
「アテがあるんだよ。まあ、見てなって」
そう言って提督はニカッと笑う。普段から結構いい加減で、仕事を終わらせればふらっといなくなることも多い提督は、こうやって見ていると同じ年の頃の男の子のようだ。もっとも、提督は二十八歳で、僕は艦娘だから見た目こそ中学生くらいだといっても、実際の年齢は不詳だといっていい。その提督である荻野誠大佐は、前任の佐々木大佐がバニラ湾で戦死して、後任として着任してから二ヶ月が経とうとしている。今日は、十二月三十日。今年もあと一日で終わりだった。
話は五日前の二十五日に遡る。
「もうすぐ正月だな、時雨」
昨晩はクリスマスパーティとかで大騒ぎした翌朝、提督は僕が司令室に行くなりそう言ってきた。その笑顔と言葉だけでは、さすがに提督がなにを言いたいのかまでは読めない。
「そうだね。今年もあと一週間ほどだね」
「掃除終わったら、またみんなで騒ぐか」
僕の言葉に、提督はそう言ってニカッと笑う。発想はまるで遊びたい盛りの子供のようだ。さすがに、苦笑いするしかない。
「昨日騒いだばっかりだよ。さすがに木村中将とか軍令部の人たちに怒られないかな」
「佐世保鎮守府としての仕事さえきっちりやってれば、ここの責任者は俺だし問題ないよ。だから、大晦日までにやることはきっちりやる」
そう言いながら、提督は書類の束をざららっと捲っていく。
「今日の船団護衛は神通と五月雨と涼風に行かせてくれ。川内と白露、村雨は帰ってきたら休ませてやってな」
さっきまでのおふざけ混じりの雰囲気のまま、任務の話を急に振ってくる。佐世保は川内型軽巡と白露型駆逐艦だけの小さな鎮守府だ。船団護衛が主な仕事。川内さんたちは南西諸島から帰ってくる輸送船の護衛をもうすぐで終えるはず。神通たちは、その帰りの護衛だ。
「オーケー?」
「了解だよ、提督」
僕はそう言うと、提督から書類を受け取る。護衛指令書と護衛報告書にはもう僕が書くところはほとんど残っていない。思いつきも早いし、仕事も早い。軍令部時代は事務官だったとは言ってたけど、本当に仕事が早くて僕は退屈してしまいそうだ。
「今日の哨戒は夕立でいいかな。あいつも少し退屈してるだろうし」
そう言ってから伸びをする提督に、僕はもう一度苦笑いを返した。
それから五日、任務の合間に全員で年末の掃除をすませ、今朝鎮守府の仕事を春雨と海風に託してから、提督は僕を車に乗せて走り出した。
車は、佐世保を出てから北へ向かって走っている。九州の沿岸部は今でも所々に深海棲艦が最初に襲来したときの傷痕が残っていて、壊れて朽ち果てそうになっている建造物がまだまだ多くあった。
「さあ、着いたぞ」
そう言って提督が車を止めたのは、山間部の農村のとある農家の庭先だった。
「栄のおばさーん、いるかい!?」
車を降りるなり、提督は家の中へ向かってそう声を上げていた。少しびっくりする。すると、家の裏からいかにも年のいった農家の婦人といった感じのおばさんが姿を現した。
「あ~ら、あら、誠ちゃん。よく来たわね~」
そのおばさんはそう言って提督に破顔する。僕は状況が飲み込めずにきょとんとするばかりだ。
「電話で頼んだとおり、野菜もらってくよ」
「いいともいいとも。好きなだけ持っていきな。なんなら、ハウスの方の夏野菜も持っていくといい」
「恩に着るよ」
提督はそう言うと、こっちを向いた。そうして、手招きをする。
「時雨ー、行くぞ!」
「あ、うん」
僕は頷くと、提督へ駆け寄っていく。
「可愛い娘だねえ。誠ちゃんの妹かなにかかい?」
おばさんは僕を見ると、笑顔になって提督にそう聞いている。なんとなく、かしこまってしまう。
「違う違う。俺の部下だよ」
提督は僕の肩をぽんぽんと叩きながら、おばさんにそう言って破顔する。
「まあまあ、じゃあこの子が艦娘さんかい?」
おばさんはそう言うと、僕に近寄ってきて僕の手を取った。指ぬきの指に触れる肌は、僕の指のような柔らかさはなくて、苦労した人のごつごつした手だった。
「しっかりおいしいモノ食べて、頑張ってね。アンタたちが頑張ってくれてるおかげで、アタシたちゃ普通に生活できてるから」
おばさんはそう言って人なつっこく笑う。そのおばさんの言葉の奥に、どれだけのことがあったのかはわからない。僕は小さく頷いて「ありがとう」と言うのがやっとだった。提督を見上げると、提督はにっこりと笑っていた。
「おばさーん、ありがとな」
「またいつでもおいでー」
段ボールに一杯の野菜をもらったあと、提督はそうおばさんに手を振って車を出した。手を振ってくれるおばさんに僕も頭を下げると、車は角を曲がっておばさんの農家は遠くなっていく。
「佐世保へ戻るの?」
「まだ肉と魚がな」
提督はそう言うと、子供のようにニッと笑う。僕は人手の役にも立ってない状態だから、今の状況はある意味秘書艦以下かな。提督は、僕といて退屈じゃないのかな。そんなことを思いながら、ハンドルを握る提督を見ていると、提督は楽しそうで、ちっとも退屈した様子はない。車は山の中をどんどん進んでいき、今度は酪農組合の建物の前で止まった。
「ここはちょっと待っててくれ」
提督はそう言うと、車を降りて建物の中へ入っていく。その背中を見ていると、本当に楽しそうだ。その間に、僕はなんとなく運転席の周りを見てみると、この車はどうも提督の私物のようで、素っ気ない中にも提督のモノという雰囲気があった。待っている間は特にすることもないから、車の中を観察し終われば、あとは周りの景色くらいしか見るものはない。佐世保からそれなりに離れた山間の村といったところかな。深海棲艦の艦載機による攻撃には晒されていないようで、村は昔からの雰囲気を残してた。緩い寒風の中、冬枯れの木が鈍く揺れている。やがて、車の中がすっかりと冷えた頃、提督は発泡スチロールの箱を抱えて戻ってきた。箱を車に積み込むと、また笑顔で運転席へ戻ってくる。
「お待たせ、時雨。次行くぞ」
「次は魚?」
「そうそう。それが終わったら鎮守府に戻るぞ」
首をかしげる僕にそう言うと、提督は車のエンジンをかけて酪農組合をあとにした。
元来た道とは少し違う道を走りながら、車は海に向かっている。提督は相変わらず上機嫌だ。時に他愛もない話をしながら、車はやがて漁港に着く。
「さあ、着いたぞ」
「…ここは、佐世保からそう遠くないところだね」
車から見える風景は、海からだけど見覚えがあった。いつも横須賀へ行くときに見かける小さな漁港だ。
「さあて、魚調達するか」
提督はそう笑いかけると、エンジンを切ってドアを開けた。
車を降りると、漁港はもう朝の漁の片付けが大方終わって、漁師の人たちは漁具や船の手入れをしていた。船は古いものが多く、修理の跡がたくさんあった。銃撃痕があるものもある。そして、漁港にいる人は、女性ばかりだった。
「こんちはー!」
「あらー誠ちゃんじゃない」
「よく来たわねー」
提督が声を上げると、漁具の手入れをしていた人たちや船の手入れをしていた人たちが、顔を上げて提督に笑顔を向けてくる。これには僕も驚いてしまった。
「電話してた魚もらいに来ました」
「ちゃんと取ってあるわよー」
年配の女性が提督にそう言って、冷蔵庫の中へ入っていく。提督も僕を置いてその中へ入っていってしまった。僕は全く知らないところで知らない人たちの中にぽつんと残された。
「あなた、誠ちゃんの部下の艦娘さん?」
一人のおばさんが屈託なく笑顔で話しかけてくる。
「うん。佐世保鎮守府所属、白露型駆逐艦、二番艦の時雨」
僕はそう名乗る。これ以外の名乗りは僕にはない。どう対応していいかわからなくて、いつも以上にぶっきらぼうな感じになってしまったかな。
「そう。時雨ちゃんていうの」
おばさんはそう言うと嬉しそうに笑う。なにが嬉しいのか、僕にはわからない。おばさんは僕に近寄ってくると僕の頭を撫でてくる。
「あの…」
「こんなちっちゃい娘が頑張ってくれてるんだね」
そう言うと、おばさんはまたにっこり笑う。
「アンタたちの活躍のおかげで、私たちは近い海だけだけど漁に出られるようになったんだよ。ありがとね。あのままだと、私たち漁師は干上がってしまうところだったから」
その言葉は、僕の胸を衝く。農家のおばさんも同じことを言っていた。それはきっと、真実の言葉なんだろう。深海棲艦の攻撃は海上だけでなく、艦砲射撃や艦載機で陸上も襲ったって聞いている。海に出ている漁師の人たちならなおさらだろう。漁船にある銃撃痕は、きっと深海棲艦と交戦した跡なんだろうな。
「私たちにできるのはこれくらい。この辺で捕れた魚だけど、いっぱい食べて英気を養ってね」
「…ありがとう」
その笑顔に、僕はそう言うことしかできなかった。
「よし、時雨、帰るぞ」
「あ、うん」
戻ってきた提督にそう返事をしてから、僕はもう一度おばさんを見た。にっこり笑って手を振ってくれる。
「またおいで」
「ありがとな、おばさん」
おばさんにそう手を振って、提督は車に発砲スチロールの箱を積み込み、運転席に乗り込んだ。僕も頭を下げると助手席へ戻る。やがて、車は漁港を出た。
「…漁港にいるのは、女の人ばかりなんだね」
そう言う僕をちらっと見てから、提督はまた前を向いた。少し、その表情が厳しくなる。
「深海棲艦は最初船と飛行機を徹底的に狙ったからな。漁師の大半は男だ。たくさんの漁師が船と一緒に海の底へ沈んでいった」
「うん…」
そう、艦だった頃の僕に乗っていたのも男の人ばかりだ。それは、今の時代でもほとんど変わってないんだ。だから…。
「そのあとも深海棲艦の陸上攻撃で多くの人が死ぬか、消えた。その大半は、男だ。その結果、この国の男女構成比は今一対六くらいになってる。海の側から、男は消えたも同然だな」
「だから、鎮守府も…」
「そう言うことだ。深海棲艦の攻撃に耐性があったのはほとんど女で、男は極めて稀だからな。結果として、海の仕事はほとんど女の仕事になった。海軍の仕事もそうだ」
そう言って提督は溜息をつく。
「その中で希少種と呼ばれた深海棲艦の攻撃に耐性のある男が、結果として提督業や責任者なんかに選ばれる傾向が強くなったんだ」
「提督も、その希少種なの?」
僕の問いかけに、提督は一瞬だけ僕を見た。その目は少し冷たい。ああ、そういう風に言われるのが嫌いなんだ。
「まあ、そう言うことになるな。たまたまそうだったっていうだけだがな」
「…悪いこと聞いたね」
少し白んだ空気に、僕はそう謝る。提督にとっては、その希少種であることにはあまり価値はないんだ。むしろ、弊害の方が多いと思ってるのかな。
「別に悪くはないさ。そうでなければ、こうやってお前の上官なんかやってないしな。それは、それだ。そう呼ばれるのは確かに好きじゃないけどな」
そう言って、提督は声を上げて笑いながら、僕の頭をぽんぽんと叩く。
「俺の方こそ、気を遣ってやれなくてすまんな」
「ううん。僕も無遠慮だった」
そう言い合って、僕らは笑いあった。
「時雨、さっきの漁港のおばさんや、農家のおばさんのこと、覚えてるか」
笑い終わると、提督は唐突にそう聞いてきた。僕はこっくりと頷く。
「覚えてるよ。二人とも、僕たちには感謝してるって言ってた」
「あの人たちの笑顔を覚えとけ。あの笑顔は、お前たち艦娘が取り戻したものだ。元々はみんな伴侶がいて、子供がいてって人たちだった。それを壊したのが深海棲艦で、絶望の中からでも、お前たちは海と一緒に暮らしや仕事を僅かながらでも取り戻した。たとえなくなったり消えてしまった人たちは戻らなくてもな」
「うん…」
提督は運転しながら、そう言った。その表情は真剣そのもので、提督がどれだけ人たちの暮らしを憂いているかよくわかる。本当に、優しい人だな。
「ようやくこの国の近海は少し静かになったけど、まだ遠洋漁業に出るのは大きなリスクを伴う。さっきもらってきた魚も、近海で獲れるものばかりだ。遠洋魚は本当に高くなったんだぞ」
「…いつも海に出てるし、僕たちは自分で買い物しないから魚が高いって言われてもぴんとこないけどね」
そう言う僕に、提督は苦笑いを浮かべる。提督も自分で買い物とかしないと思ってたんだけど、そうじゃないんだ。この人は時々ふらっといなくなることがあるけど、そうやって鎮守府の外で普通の暮らしの一部を持ってるのかな。
「まあ、お前らは道具さえあればいつでも遠洋で魚釣れるだろうしな。羨ましい話だ」
「提督は釣りとかするの?」
「こう見えて、漁師の伜だぜ? 釣りは得意中の得意よ。鎮守府の岸壁も結構色々釣れるんだぞ」
そう言って提督は少し得意げな顔になる。本当に子供っぽい表情が似合う人だなあ。その表情は僕の頬も緩めてくれた。
「提督が時折いなくなるのってもしかして釣り?」
「たまにはな。俺には優秀な秘書艦がいるからな」
そう言って、提督はまた得意げな顔になって、僕の頭をぽんぽんと叩く。それは信頼なのか頼られてるのか、利用されてるのかさっぱりわからない例えだったけど。
「それは僕もサボっていいってこと?」
僕がそう言うと、提督は一瞬だけきょとんとしたあと、ニッと笑う。
「おう、構わんぞ。時雨だって息抜きしたいときもあるだろうさ。こっちから急ぎの用事がなければ、司令室に詰めとく必要もないからな」
「じゃあ、気が向いたらサボらせてもらうね」
そう言う僕に、提督はまた笑う。そうして、最後にこう付け加えた。
「ま、勝手に時雨がサボろうなんて思わないことはよくわかってるつもりだけどな」
その言葉に、僕は苦笑いを返すしかなかった。