シリウスの無罪が確定してから、12番地は見えなくなった。
もちろんシリウスは自宅を訪ねてきてくれたので、無事な顔を確かめることも出来たし、秘密の守り人に守られた不死鳥の騎士団本部が設置されたこともわかっている。しかし、ドロメダはあえて本部とは距離を置くことにした。
死喰い人対不死鳥の騎士団というわかりやすい構図の中に無邪気に自分の居場所を求めるほど若くはない。ドロメダは組織の中に身を寄せることそのものに抵抗を感じてしまう質だ。
正義とは誰かを盲信することではない。それがドロメダの信念だ。
正義は個々人の胸の裡に静かに根を下ろし、個々人の正義が重なり合うときにのみ、緩やかな紐帯で互いを支え合う。そういうものだ。極めて個人的な信念と信頼に基づく紐帯こそが最も強靭なロープであり、安易に掻き立てられた仲間意識は必ずどこかが錆びて綻びていく鎖だ。
小さく溜息をつく。
ドロメダ自身が距離を置いていても、娘は不死鳥の騎士団員だ。
ホグワーツに入学してすぐ娘がハッフルパフに組分けされたと知ったときには、一瞬ぽかんとしたものだ。ドロメダ自身の周囲にはハッフルパフ生らしい、温厚で鷹揚な人間がいなかったから、どこか自分から遠い場所のように感じていたが、最初の驚きが去るとじわりと胸が温かくなった。
スリザリンの狡猾さもグリフィンドールの勇気もレイブンクローの英知も要らない。ただ穏やかに寛容過ぎるほど寛容に、全てを受け入れて微笑みながら生きていく魔女という姿は、スクイブの次に望ましい未来予想図だった。本音を言えば、いっそのことスクイブに産まれて欲しかった。産まれたその日に色が変わり始めた髪を見て、そのささやかな夢は砕け散ったけれど。
そのくせ学生時代の娘は科目の得手不得手にドロメダの頭を悩ませた。ドロメダ自身も友人たちも高い水準の成績を大した努力もなくキープしていたから、なぜ我が子はこうなのかと頭を抱えたものだ。
それでいながら、ある日突然闇祓いになりたいと言い出してからは、テッドと互いに頬を抓り合って現実を受け入れるのに苦労してしまうほどの成績を持ち帰ってくるようになった。髪の色と同じで、気分屋で気まぐれなニンファドーラがゆっくりぼんやり見つけた未来予想図が闇祓いだと知ったとき、ドロメダは反対した。
無邪気にヒーローとして憧れるのは構わないが、腐臭漂う闇の魔術に肩まで腕を突っ込んで怪物を引きずり出す職業だ。気まぐれなあなたが一番近づいてはいけない仕事よ、と叱りつけた。怪物と向き合い続けていると、いつしか自分自身まで怪物になってしまう。そういう闇祓いを知らないわけでもないでしょう、コンラッドおじちゃまを殺したのが誰か知らないわけでもないでしょう! 少し変身術が得意なぐらいで調子に乗るのはやめなさい。あなたの変身術は生まれつきの体質で底上げされたものに過ぎないの。とにかく闇祓いは向かない、諦めなさい。
しかし娘は彼女にしては珍しいことにひどく冷静に言った。「ママ、怖いんでしょう。ママの恐怖にあたしを巻き込まないで。あたしは怪物にはならない。絶対にそうならないという自信があるわ。だってママの娘なのよ。ベラトリクス・レストレンジの妹だったのに怪物にならなかったママの娘。でもママの言う通り、あたしは気まぐれな気分屋だわ。だからきちんと訓練を受ける必要があると思う。ママやレイおばちゃまみたいに器用じゃないから、ママたちみたいな隠れたエージェントにはなれない。きちんと訓練を受けて組織のチームプレイの中で役目を果たすことならあたしに向いてる。以上、解説おしまい」
ドロメダの完敗だった。考えてみれば、ドーラたちの年頃の少年や少女は、前回の魔法戦争当時の暗く陰鬱な閉塞した時代の空気の中で幼い頃を過ごしてきた。平和を無思慮に享受するには、特にドーラやチャーリーは母親の嘆きや苦悩を目の当たりにし過ぎたのだ。今が平和ならそれでいいと思い込めるほど無邪気なはずがなかった。
親たちだけが、子供たちの無邪気さの裏側にある渇望に気づいていなかった。今度死ぬのは誰のパパ? 誰の叔父さん? 良かった。ママやパパの知り合いじゃないみたい。だってほら今日は泣いてない。OK、じゃあ今日は楽しくやろうぜ。
無邪気なはずの子供時代は予め彼らから奪われていた。親たちの顔色を窺いながら、運が良ければ与えられる悪ふざけの時間は、無邪気から一番遠い。薄氷の上で過ごした子供時代。
「・・・怖がっているのはあなたのほうよ」
聞こえるはずもないのに娘に向かってそうひとりごちて、11番地と13番地を眺めることの出来る公園の木陰のベンチで溜息をまたついた。
ドーラは怖かったのだろう。ヴォルデモートが滅んだだけで安心なんか出来なかったのだろう。戦う力が欲しかったのだ。
そこまで考えたとき、背後に不意に気配が生じて、ドロメダはピリッと表情を切り替えた。
「・・・お姉さま」
まだ自分を姉と呼ぶ意識があるのか、と軽く驚きながら、この妹はそういう人間だった、と思い出した。
「ごきげんよう、ミセス・マルフォイ」
「シシーで構わないのに」
「用件は何かしら。見ての通り、シリウスの家は堅く守られているわ。わたくしは決してその秘密には近寄らない。残念ながら、ベラのような姉を持つとそういう警戒心が育つの」
本家に入りたくて呼び出したわけじゃないわ、とナルシッサがベンチに腰掛けた。
「だったらなぜこんなところへ?」
「お姉さまとわたくしが共通してよく知っている場所が他に思い当たらなくて。シリウスはどうせダンブルドアに屋敷を差し出したのでしょうから、ここならお姉さまも安心して来てくれる。あの辺りにどうせ不死鳥の騎士団の見張りもいるでしょう」
「そうでしょうね。それで? 不死鳥の騎士団に知られるとわかっていても、あえてわたくしを呼び出した用件は?」
「久しぶりに姉に会いたくなったと言ってはいけないのかしら」
「あなたとわたくしを姉妹だとまだ表現出来る神経に驚いているわ」
ナルシッサはしばらく不快そうに押し黙り、ドロメダがそれを完璧に無視出来るとわかると、渋々といった体で口を開いた。
「ベラ姉様と比べたら、お姉さまのほうがわたくしに近いと感じているわ。いけない?」
「いささか不思議に思うわね、ミセス・マルフォイ。マルフォイ家はレストレンジ家と同じ陣営だったと記憶しているけれど」
「陣営のことなんかじゃなく、個人の品性の問題よ。お姉さま、わたくしがミス・プルウェットを拷問したわけでもないし、プルウェット兄弟を殺したわけでもない。それにミス・キクチの夫を殺したのは闇祓い、そちらのお仲間でしょう。なのに、わたくしをベラ姉様と同じ陣営だというだけで一括りにして拒絶しないでちょうだい」
安心したわ、とドロメダは呟いた。「昔のままね、シシー。マルフォイはどうやらあなたを彼なりに大事にしているのでしょう」
「え、ええ。ルシウスはわたくしを愛してくれているわ。ドラコも素直な息子に育ってくれた」
「昔のまま、自分に都合の良いように臆面もなく、その場その場で主義主張が変わるのよね、可愛いシシー」
サッと、ナルシッサ・マルフォイの白い頬に赤みが差した。
怒りのせいか、羞恥のせいか、それはドロメダにはわからない。たぶんナルシッサ自身にもわからないのだろう。
「あなたの主義主張なんて、初めからわたくしにはどうでもいいの。あなたは単に貴族的な暮らしを約束してくれる相手と結婚したかっただけ。ホグワーツ入学前には確かウィンストン家にお嫁に行くと言っていたわね。入学して実際にコンラッドを見たら、あの通り、貴族ぶったところのない手に負えない悪戯小僧だったから夢が崩れたようだけれど。それから、ミス・キクチ、レイにも可愛がってもらいたかったのよね、可愛いシシー。日本の本物の貴族だと聞いたからでしょう? ところが、わたくしの妹だとアピールしても、レイはあなたを特別扱いすることはなかったし、あなたが貴族かどうか確かめたときには、自分は貴族ではないと回答しただけだった。今だから教えてあげるわね、可愛いシシー。菊池家はレイのお母さまの代までは確かに日本の貴族だったわ。でも日本は敗戦後、貴族制度を廃止したの。だからレイは貴族的に育ってはいるけれど、制度上は貴族ではない」
「昔のことをあげつらって揶揄うつもりならやめてちょうだい。女の子なら、誰だって王子様に求婚されるお姫様に憧れるわ。ウィンストン家やミス・キクチに憧れたのは、そういう次元の話よ」
「はいはい。だから、用件を済ませてくれないかしら」
鼻白んでドロメダは軽く顎を上げた。向かいの11番地の玄関ステップに横になっていた黒猫が、ピクリと耳を立てた。
「・・・ルシウスは、我が君の不興を買ってしまったわ」
「そうでしょうね」
「我が君は、マルフォイ家に滞在なさっているの。ワームテール、ペティグリューと一緒に」
それで? とドロメダが冷淡に言うと、ナルシッサは初めて取り乱した。
「この情報をダンブルドアに伝えて欲しいのに。お姉さまの娘を通じて。闇祓いになったのでしょう? ブラック家の血筋だわ、優秀な娘なのね」
ドロメダは苦笑した。「賭けてもいいけれど、可愛いシシー。あそこのタペストリーからは、わたくしの名前は消されていると思うわよ? それから、娘には家に仕事の話は絶対に持ち帰るなと言い聞かせているの。闇祓いを職業に選んだ以上は、家族を巻き込まない覚悟を持って欲しいから。そもそもマルフォイ家にヴォルデモートが」
「やめてちょうだい! あの御方の御名前を!」
「はいはい。呼んで欲しくてつけた名前のはずなのに、名前を呼んじゃいけないなんて、自己矛盾の塊ね。とにかく、例のあの人の滞在先ぐらい何軒か見当はつくわ。闇祓いやダンブルドアでもない、専業主婦のわたくしでさえね。大した情報じゃないもの、高値はつけられないわ」
肩を竦めたドロメダをナルシッサはじっと睨んだ。
「わたくしは、ルシウスに言わないでと頼んでいるのに?」
「何を?」
「お姉さまの娘がリトル・ハングルトンの捕縛劇に参加していたことを」
「いったい何を取引したいのかわからないわ、シシー。娘が闇祓いであることはいずれわかることだもの。さっさと喋ってくれて構わないわよ」
ナルシッサは取り乱したことを恥じるように辺りを素早く見回した。
「ルシウスとドラコのことを」
「あなたの夫と息子が何なの? 例のあの人の不興を蒙ったのは自業自得だわ。それから、安心材料になるかどうかはわからないけれど、マルフォイ家をあの人が切り捨てられるはずもない。ルシウスがファッジにかなりの金を与えて飼い慣らしていることも、魔法省の高官やホグワーツの理事に同じように餌をばら撒いていることも役に立つに決まっているわ」
「でもダンブルドアや不死鳥の騎士団にそれは通用しないわ。お姉さま、わたくしは怖いの。ルシウスやドラコがアズカバンに囚われるようなことになったらと思うと。我が君は、死を超越した御方よ。だけれど、これまでに2度もその御身体を失われたわ。そのたびにマルフォイ家はあの御方に助力してきたから知っているの。今度もまたそうならないとも限らない。ルシウスは、本当はもうそれほど豊かなわけではないの。お姉さまの仰る通りよ。政治的な活動のために少なくない財産を手離してきたわ。今度あの御方が凋落なさったら、今のように地位を取り戻す余力はないのよ」
「だから?」
「ダンブルドアに取り成してちょうだい。ルシウスは2年前の失態が理由で、あの御方からは決して重用されてはいない。むしろ不興を買ってしまったの。わたくし、これからもこうしてお姉さまにお会いして情報を提供する覚悟はあるわ」
ドロメダは失笑してしまった。
「本当に昔のままね、可愛いシシー。無邪気が過ぎるわ。言いつけ口を利いて、うまいこと大人に取り入るやり方が通じるのは、子供のうちだけよ」
「お姉さま、わたくしは本気よ」
「ええそうでしょうね。別に疑ってはいないわ。ただ、例のあの人があなたに大した情報を与えるとは思えないだけ」
「我が家に滞在なさっているの!」
「それも信じるわよ。夫と息子を愛しているなら、政治的な活動とやらに金をばら撒いて財産を減らすよりも、もっと地道に努力して、世間からの信頼を取り戻し、闇の印に怯えてリトル・ハングルトンにのこのこ顔を出したりしないような気骨のある男にするべきだった。わたくしなら必ずそうしたでしょうし、レイも間違いなくそうしたでしょうね。だからあなたはレディ・ウィンストンではなくミセス・マルフォイなの」
「ドラコはお姉さまの血の繋がった甥なのよ?!」
顔色ひとつ変えずにドロメダは「あなたの息子のために指一本動かす気はないわ」と言い放った。
「・・・そんな」
「家を捨てるということはそういうことよ、シシー。主義主張のために働く夫を持つということ、それ自体は悪ではない。でも、夫が間違っていると感じたら、こういうやり方ではなく、夫を諌めるべきね。息子も同じ過ちを冒そうとしているなら尚更、息子を叱り飛ばすのよ。これは姉として最後の忠告。息子が大事なら、ルシウスのやることに関わらせてはいけない。息子の人生までヴォルデモートに捧げる必要なんてないわ」
ナルシッサは耳を塞いだ。
ドロメダは黙って立ち上がり、ナルシッサの耳からその両手を引き剥がした。
「聞きなさい。わたくしは娘を愛しているからこそ、娘の人生については率直に娘自身と話し合い、娘自身が正しい道を選んでくれるように手助けしてきたわ。だから、闇祓いなんて危険な職を選んだことにも納得している。本音を言えば、もう少し安全な職に就いて欲しかったけれど、こればかりは仕方ない。あなたが息子を愛しているなら、息子自身と話し合いなさい。父親の負の遺産を相続する人生を歩むのか、貧しさや蔑みに耐えながらも自分自身の信じる道を選ぶのか。もちろん、ヴォル、例のあの人の側が勝つかもしれない。それを信じて彼に付き従うのなら、それもいいでしょう。けれど、その信念があるのなら、わたくしなんかに口利きを頼んではダメ」
「お、お姉さまには、わたくしの気持ちはわからないと思うわ」
「シシー?」
「ベラ姉様の妹で、お姉さまの妹であるわたくしには、何が正しいのかなんて、いつもわからなかった」
ナルシッサも立ち上がり、ドロメダの手を振り払った。
「お姉さまが家を捨てたことを、お父さまとお母さまがどれほど嘆いたのかなんてわかりもしないくせに。お父さまは決してあの御方の全てを支持していらっしゃったわけではない。魔法族の純血を保つために、多少の助力の姿勢は示しておくべきだとお考えだっただけ。傾倒し過ぎて身体に闇の印を刻んだベラ姉様よりも、冷ややかに距離を置くお姉さまの態度のほうが淑女としてむしろ正解だと思っていらした。お母さまは、なぜ妊娠した身体で母親の手元を離れたのかと、そればかりを思い悩んで。テッド・トンクスの子というのは気に入らないけれど、七変化の魔女ならば喜んで孫として愛したと最後まで嘆いていらしたわ。お父さまとお母さまにとって、理想の娘はベラ姉様じゃなかった。お姉さまだったのに、なぜそれがわからないの?」
「・・・理想の娘。マグル生まれと結婚さえしなければ、そうだったのでしょうね。悪いけれど、わたくしにはその点こそが、両親を捨てる一番大きなきっかけだったのよ。わたくしは娘を七変化だからという理由で愛してもらおうとは思わなかったわ。今に至るまで決して。わたくしとテッドの娘として愛するというなら受け入れる余地はあったけれど」
「・・・日和見の生意気な妹としか思えないでしょうけれど、わたくしは、お父さまやお母さまを悲しませたくなかっただけ。テッド・トンクスとの関係を告げ口したのは、わたくしなりに正しい道を選んだつもりだったわ。レギュラスには止められた。彼は、ドロメダが選んだことなら、多少外聞が悪くても決して間違いではないはずだから、素知らぬふりで見守るしかないと言っていた。でもわたくしはそれに耳を貸さなかったわ。男の子のレギュラスにはわからないこともある。取り返しのつく間違いと取り返しのつかない間違いはあるわよね。わたくしの心配した通り、取り返しのつかない間違いだった」
「ご心配ありがとう。もうわかっていると思うけれど、わたくしは間違いだったとは、今まで一度も思ったことがないわ」
いいえ、とナルシッサは傲然と顎を上げた。「主義主張として、人生の選択としては間違わなかったかもしれない。でもお姉さまは、ひどい罪を犯したのよ。お父さまとお母さまを悲しませた。もちろんそれはベラ姉様も同じことだわ。アズカバンに収監されるような娘を恥じて、親を捨てた娘を嘆いてお父さまとお母さまは亡くなったのよ。わたくしは絶対に失敗するわけにはいかなかったし、これからも失敗はしないつもりよ」
ドロメダに背を向けて数歩進んだ場所で、ナルシッサは静かに姿くらましをした。
しばらくぼんやりとそれを見送り、背後から肩を叩かれて、溜息をついた。
「・・・あの子もさすがに捨て台詞は上手くなったわね」
怜に向かって言うと、力無くベンチに腰を下ろした。
「彼女には彼女なりの苦労があった、ただそれだけのことよ。深く気に病むのはやめなさい」
そう言って隣に腰を下ろした怜にドロメダは冗談めかして教えてやった。
「シシーはね、あなたがウィンストン家の息子だったら理想的な王子様だと言っていたのよ、ホグワーツの1年生の頃」
「・・・ちょっと蓮には会わせられないセンスの持ち主ね。大方の予想通り、マートルには既に愛されてるらしいけれど」
「さすがあなたの娘ね。最近は?」
怜は肩を竦めた。
「毎日毎日不機嫌そうにぷいと出て行っては、海に潜ってる」
「大丈夫なの?」
「海中には陸地より大勢の護衛がいるわ。本人が知らないだけ」
それで、と怜は話題を変えた。「何の話だったの?」
「要するに、ヴォルデモート側の勢力にまだ自信がないのでしょう。情報提供をするからと、ダンブルドアに夫と息子の取り成しを頼んできたわ」
「予想の範囲内ね。ドーラのことは?」
「リトル・ハングルトンの捕縛劇に参加したことは、夫に頼んでまだヴォルデモートには秘密にしてあるそうよ」
怜は「平気?」とドロメダを窺うように見つめた。ドロメダは小さく笑い「もちろん」と答えた。
「ドーラが就職してからこんな情勢、初めてでしょう」
「そうしょっちゅうあるようでは困るわ。もちろん心配してはいる。でもわたくしには強い味方がいてね」
「味方?」
「ミセス・ロングボトム」
驚いたように怜がドロメダをまじまじと見る。
「アリスの息子のネビルから聞いたらしいの。ヴォルデモートの復活をね。それで、初めて訪ねてきてくださったわ。さぞかし心配だろうけれども、娘を誇りなさい、ってわざわざ言いに」
「・・・何と言うか、うちの母やマグゴナガル先生とはまた違うタイプだけれど、芯が強過ぎるぐらい強い方ね」
「ロングボトム家には他に弟さんがいたはずなのに、それを押し退けて跡取になった方ですもの。肝の据わりは一級品よ。それ以来、ちょくちょく訪ねてくださるの。たぶん・・・」
「たぶん?」
「フランクやアリスのことを話せる相手が、あの方にも必要だったのかもしれないわね。わたくしにちょっとした気分転換が必要なことも、誰より理解していらっしゃるでしょうけれど。おかげで、わたくし、今ではちょっとしたグリフィンドール・マニアなの。ハリー・ポッター、ロン・ウィーズリー、ハーマイオニー・グレンジャー、そしてレン・ウィンストン。三大魔法学校対抗試合の最終戦でレンが代表選手より活躍したことも知っているし、あなたが変にお行儀の悪いハリーの《伯母さん》を連れてVIP席にいたことも知っているわよ」
怜は苦笑して「フランクの息子はおしゃべりなの?」と応じる。
「フランクに似て優しい少年なのね、きっと。おばあちゃんを喜ばせたいの。グリフィンドールの武勇伝をおばあちゃんが一番楽しみにしているとわかっているから」
「蓮にはそういう優しさはないわ」
「別にレイブンクローの武勇伝なんか聞きたいとも思っていないくせに」
「レイブンクローにそんなものあるわけないでしょう。そうじゃなくてね、なんというかこう・・・学生時代の空気をもう一度、っていう感傷的なものってあるじゃない? 子供の学校生活の話題の醍醐味ってそういう部分じゃないかしら。うちの子、そういうの全然話さないもの。たまに手紙が来たかと思えばホークラックスの破壊の仕方についての質問よ。泣けてくるわ」
「学校に対する特別功労賞2回の優等生じゃないの。次はいよいよ監督生かしら」
怜は首を振った。
「そういうのはハーマイオニーに任せてある、ですって。本当にコンラッドそっくり。勝手に任せないで少しは働きなさいってアリスが絶叫していたのを思い出したわ」
アリスね、とドロメダは小さく呟いた。「2年前にアリスが目覚めたの、聞いた?」
「・・・目覚めた?」
「そう。もちろん正常な状態とは言えないけれど、目を開けて、ベッド周りなら動けるようになったの。ネビルがお見舞いに来ると、溜めておいた風船ガムの包み紙を必ず持たせるそうよ」
「2年前から?」
「ええ。なぜ?」
「2年前のサマーホリディに、蓮を聖マンゴに連れて行って会わせたわ。間違いない。2年生の時の出来事を反省して欲しくて、安易な気持ちで手を出すなと言い聞かせるために」
ドロメダは怜を見つめた。
「また発動したのね?」
「タイミングを考えるとそれが自然でしょう」
「レンだからかしら」
「確かに蓮には洒落にならないぐらいの魔法力があるのは事実だけれど、それだけじゃないはずよ。2歳の時はアリスとフランクにご挨拶するって言って声をかけたけれど、あのときの蓮はわたくしとコンラッドの子供として常識的な範囲で育っていたから、大した魔法力ではなかったはず。2年前には、確かに声はかけたけれど、意識のないアリスとフランクの姿に気圧されていたから、挨拶なさいと促してやっと形ばかりの挨拶をしただけ。起こそうと意図してはいなかったから、魔法力を発揮する条件には該当しない」
ふう、とドロメダは詰めていた息を吐いた。
「あなたが不死鳥の騎士団にいてくれて良かったわ。ドーラのことをお願いね」
「もちろん。わたくしの目の届く限りはね。ただ、わたくしも魔法省での立場が怪しくなってきたから、どの程度騎士団や闇祓い局に目が届くか保証は出来ない」
「冗談でしょう。アメリア・ボーンズがあなたを手放すはずが」
「彼女はわたくしの地位を守ると言ってくれるけれど、あまりファッジが強硬に出るようなら、わたくしから辞職を申し出るつもり。アメリア自身、シリウスの裁判を起こすために去年は公然とファッジに逆らったばかりよ。今、わたくしの地位のためにアメリアの地位まで危うくするわけにはいかないわ。次の魔法法執行部の部長がマルフォイに買収された能無しだったら目も当てられない」
「逆にクラウチのような極端な人間でも?」
「ええ。アメリアのように、こういう時こそ、頑なに法にしがみつくぐらいの人でなければ。地に足をつけて、法の遵守だけを徹底して求めなければ混乱は拡大するばかりだわ」
「そういう意味では、確かにあなたの地位より、アメリア・ボーンズの地位のほうが大切ね。あなたは、ハグリッドの弁護のようにアクロバティックな法律家だもの。間違いではないけれど、常識的な魔法族の暗黙の了解や権威を無視する傾向にある」
「ええ。自覚はあるわよ。だから、しばらくはおとなしくしていたかったけれど」
怜は苦笑した。
「出来なくなったのね?」
「ハリー・ポッターが未成年魔法使いの魔法使用制限条例違反で尋問されることになったわ」
「またどうして?」
「彼の自宅の周辺で、マグルの従兄と同行しているときに、パトローナスを出現させた」
「パトローナス? なぜそんなものを」
「ディメンターよ。ディメンターが現れた。それ以外に禁止されているとわかっていてパトローナスを出す必然性はないでしょう?」
「もちろんそうだけれど、そもそもディメンターがマグルの住宅街に現れることがあり得るの?」
「魔法省側はもちろんそう主張してくるでしょうね。魔法省は全てのディメンターを完全な統制下に置いており、アズカバン以外に配備してはいない、ハリー・ポッターは嘘をついている、ってね」
「彼がそんな嘘をつく必要はないでしょう?」
「もちろん。わたくしが気になっているのはね、ドロメダ、ドローレス・アンブリッジが大臣室に配属された直後にディメンターが出現したことなのよ」
ドロメダは顔をしかめた。
「レイ、忠告するわ。やり過ぎにだけは気をつけて。ハリーを法的に救済することに集中してちょうだい。くれぐれも、くれぐれもアンブリッジの姉をついでにアズカバンにぶち込もうなんて欲を出さないで」
「信用ないわね。わたくし、もう大人よ?」
「あちらにはあなたを恨む理由があることは忘れちゃダメ」
「忘れていないわ。キリアン・アンブリッジがコンラッドを殺したの。だからわたくしがキリアンをアズカバンにぶち込んだわ、忘れるわけないじゃない。弟にそっくりのあのガマガエル顔を蹴飛ばしてやりたい誘惑にどれだけ打ち勝ってきたと思うの。我ながら忍耐強くなったと自画自賛よ、大絶賛」
冷ややかに言うと、怜は立ち上がった。
「ドローレス・アンブリッジがおとなしくしてるなら、わたくしからは手を出さないと誓うわ」
絶対無理だ、とドロメダは頭を振った。
ドローレス・アンブリッジについては、キリアンの裁判を準備する怜を手伝っているときにいくらか噂を耳にした。スリザリンの卒業生らしいが、学生時代にはさほど目立った存在ではなかったようだ。それが、魔法省に入省すると、年を追うように頭角を表わし始めた。あの純血主義の牙城のようなスリザリンでさえ全く聞かない類の噂だ。信憑性はない。
曰く、アンブリッジ家はウィゼンガモットの高名な魔法戦士アンブリッジの一族であり、母を早くに失ったが、間違いなく純血であると。
もしそうならば、スラグホーン先生のスラグ・クラブに写真が飾ってあるはずだし、スラグ・クラブで自慢を聞いたはずだが、ドロメダの記憶にはガマガエル顔の記憶はない。99%確信している。アンブリッジ姉弟は混血のはずだし、魔法戦士アンブリッジとは縁もゆかりもないだろう。ただ同姓というだけの素性の定かでない魔女だから、スラグ・クラブで名前を聞かなかったのだ。
「ドロメダ。本当よ、あちらが余計な真似をしない限り、わたくしから手出しはしない」
「ドローレス・アンブリッジがおとなしくしているとは思えないの」
「まあ、わたくしを魔法省から追放したがるぐらいは想定済み。それはそれで構わない。言ったでしょう。アメリアの地位を守るために、わたくしは辞職するつもりがあるわ」
「あなたを辞職させただけで満足してくれればいいのだけれど」
怜は「他にどうしようがあるの?」と笑った。