ロバート氏が牧師館から蓮とミセス・マクルーハンを追い出して施錠すると、ミセス・マクルーハンは「小僧っ子め!」と悪態をついた。
「はいはい。残念だが、ミセス・マクルーハン、大酒飲みの婆さんだけを家に残していくわけにはいかないよ。レン、上着の下に杖は隠し持ったね? ミネルヴァのことなら問題ない。今頃、例のパチンという瞬間移動で兄の家に現れて、何かしら説教を始めているはずだ。ああいうところは私より牧師の娘らしい。説教好きも大概にして欲しいね。ミセス・マクルーハン、あんたもインヴァネスに行くんだよ。スキットルは持ったかい? スピードオーバースコッツに運転中の酒は不要。飲むのはあんただけ。つまりあんたのスキットルが今日の酒の全てだ。ボトルは無し。いいね?」
チッという舌打ちが返事の代わりだった。
4WDのジープの中で、酒を手放さないミセス・マクルーハンと並んで座るのはなかなかの苦行だ。
「ミセス・マクルーハン、スコッチは香水じゃないんだけど、どうしてこんなに匂いがきついの?」
「あたしの香水はこいつだからさ」
ニッと歯の抜けた口元だけで笑って、ミセス・マクルーハンはスキットルを振った。
ロバート氏が黙ってパワーウィンドウを全開にすると「さみぃだろうが!」と喚く。
「匂いだけで酔っ払いかねないレベルだ」
「チビのロバートが生意気言うでねぇ!」
「チビのロバートに酒をたかるのをやめたら悪態をついてもいいが、スポンサーを敵に回すのは無謀だよ」
他人の金で飲んでるのか、と蓮が白い目で見ると、ミセス・マクルーハンも蓮を濁った瞳で睨み返してきた。
よろめきながらジープを降りると、ミセス・マクルーハンは「若いもんがだらしねえ」とせせら笑った。
「うるさい」
「意気がるんでねぇ、イングランドの嬢ちゃんがよ」
「誰のせいで気分が悪いと思ってんの?」
「あんたが弱っちいのがわりぃんだ」
ほらほら、とロバート氏が手を叩いた。「レン、気分が悪いならしばらく外で待ってるかい? 姉さんを呼んでこよう。そろそろ兄のストレスがピークに達してしまう頃だ。ミセス・マクルーハン、あんたも外。義姉さんはアルコールの匂いが好きじゃない。知ってるだろ?」
犬っころみてぇによう、と文句を言ったが、ミセス・マクルーハンは植え込みのブロックに腰掛けてスキットルの中身を舐めた。
「でけぇ家だろ」
「ん・・・」
「ミネルヴァのおっかさんもどんな酔狂で地の果てなんぞに嫁に来たかね。あたしゃここんちに居座って貴族の娘っこぶっていてぇがね」
「あなたには無理だ」
蓮がスパンと切り捨てると、ミセス・マクルーハンはなぜか嬉しそうに笑った。相変わらず歯が汚い。
「あたしゃイングランドのお貴族さまにゃなれねえってかい」
「スコットランドでも無理だ」
まったくわかっちゃいねえ、とまた歯を剥き出して笑うと、節くれ立った指で川の向こうを指差した。
「ありゃあインヴァネス城。今じゃ裁判所だ」
「へえ」
「んで、この川がネス川。ネス湖から出てる」
おお、と蓮は目を丸くした。ルーナに教えてやろう。残念ながらネス湖のモンスターは発見出来なかったと。
するとミセス・マクルーハンは白けた表情でボソッと言った。
「・・・いるわけねえだろ」
「なんでわかっ」
「インヴァネスに来てネス川の上流眺めて、んな顔する奴ぁたいていネス湖に恐竜がいるなんざほざきやがる」
別にネッシーを見たいわけじゃないよ、と蓮は呟いた。「そういうのが好きな友達がいるってだけ」
「変わりもんかね」
「そう思われてる。レイブンクローっていうハウスの人からはルーニーって呼ばれて、よくひとりでいる」
「あんたもルーニーって呼ぶのかい」
呼ばない、と蓮は首を振った。「彼女は常に正気だから。夢見がちなだけで、リアルな出来事に対しては現実的に対処する。部分的に他人と違うセンスの持ち主なだけだよ、ミセス・マクルーハン」
「んなことしてっと、あんたも変わりもんのルーニーって呼ばれっかもしれねえよ」
「構わない。あなたは構うの? ミネルヴァやミセス・ロングボトムはマグルに交ざったらそうとうな変わり者だよ。婆さんだからプレステ知らなくても仕方ないけど、テレビもヒーターも怪しい箱みたいに思う人たちだよ」
「ありゃ参るねえ。ヒーターがぶっ壊れちまったらどうしてくれるやらわかりゃしねえ。棒切れで魔法ぶっ放しゃええってえ、とんだ大雑把な婆さんどもだ。魔女ってえ奴ぁ始末に負えねえ」
くっく、と蓮は俯いて笑った。
そのとき「マルコム! うるさいとは何です、言うに事欠いてうるさいとは!」という喚き声が聞こえたミセス・マクルーハンが「うるせえもんはうるせえや」と呟くのを聞いて、ふは、と思わず吹き出してしまった。
パチン、パチン、パチン。
連続して聞こえた小さな破裂音。背中から首筋にぞわりと鳥肌が立つ。
咄嗟にマウンテンパーカの中のショルダーホルスターに手をやった。
「ミセス・マクルーハン、邸に入って」
やれやれ、とミセス・マクルーハンは立ち上がった。「まったく始末に負えねえ。これだから魔女ってえ奴ぁ」
そう言ったミセス・マクルーハンは蓮とほぼ同じ背丈だ。
「・・・え?」
腰が曲がっていない。
ミセス・マクルーハンは、蓮に向かって手を出し、まったく訛りのないクィーンズ・イングリッシュで言った。
「杖をお貸しなさい」
「・・・ミセス」
「杖の忠誠を奪いたくないの。黙って杖をお貸しなさい」
ゴウっと風が吹きつける。目を閉じないように努めて、顔を僅かに背けながら、ロス邸の庭の戦闘を見守っていると、這うように邸から出てきたロバート氏が蓮の腕を引いた。
「中へ!」
「でも」
「いいから中へ! 姉さんのあの暴れっぷりからすると、騎士団の敵で間違いない。狙いは君だ!」
引き摺られるように邸に入る。
ロバート氏によく似たがっしりした体躯の初老の男性が、蓮の手を引いて階段を駆け上がった。
「こんなときだけどはじめまして、レン。ミネルヴァ・マクゴナガルの最初の弟、マルコム・マクゴナガルだ。狭くて申し訳ないが、我が家の隠し部屋にしばらく入ってくれ」
3階の客用寝室らしき部屋に飛び込み、床板を跳ね上げると、小さなベッドがひとつだけのスペースがあった。
「あの人たちなら心配ない。じきに終わるよ」
「あの!」
「話はあと!」
蓮をベッドの上に押し込むと、跳ね戸が閉ざされた。
「・・・殺されるかも」
あの風の魔法。まず間違いなく祖母がミセス・マクルーハンに化けていたに違いない。
最初の日に「変身する薬」というヒントは与えられていたし、スキットルを手放さないのもヒントの一種だったはずだ。護衛を兼ねたテストだったとしたら、この後の仕置きは大惨事が予想される。婆さん支部に集まるメンバーを見回しても、ミセス・マクルーハンなる人物の正体を疑いもしなかった。
数日の間、まったく気づかなかったのは明らかに油断だった。
「いくらなんでもわかるわけないし」
あえてボソッとひとりごちる。
きついスコッツ訛り、曲がった背中、ロバート氏のあしらい。どれを取っても、菊池柊子という国際魔法使い連盟議長からは程遠い。
しかし、そう考えれば考えるほどに、気づかなかった自分の未熟さが浮き彫りになる。
あれはおそらく闇祓い時代に培ったものだろう。中途半端な人物になりすますことは意外に難しいし、馬脚を現しやすい。徹底して自分を想起させない人物に成り切る能力は諜報活動に必要だ。
蓮は狭い隠し部屋の中の小さなベッドの上で頭を抱えた。考えなくてはならない。今の姿現しが騎士団の敵ならば、もちろん護衛が必要だったことは確かだ。しかし、ミセス・マクルーハンとの接点はさほど多くはなかった。村では独り歩きをしていたし、同じ室内にいることさえ少なかったのだ。これでは純然たる護衛とは言えない。この程度の護衛ならミネルヴァだけで充分だ。
ミスタ・ウィーズリーの任務中の負傷。ハリーの夢と傷の痛み。間違いなく、不死鳥の騎士団本隊と死喰い人は水面下で互いに競うように何かを探している。ハリーはリドルと繋がった傷を通してそれを夢に見ている。
本隊がそうなら、いわゆる婆さん支部の任務は何だ。蓮の護衛が任務にしては手抜きにも程がある。むしろこれは・・・。
「陽動。囮・・・?」
ココン、と跳ね戸がノックされる。返事をすると、マルコム氏とロバート氏がよく似た顔を覗かせた。
「やあ。待たせたね。年寄りの冷や水タイムは終了だ。ウィンストン家の令嬢をいきなり隠し部屋に押し込んだりして、まったく申し訳ない。ロス家の先祖が聞いたらあの世でもう一度憤死する。動く肖像画を全て隠しておいたから、あの世にバレる心配はないけど」
そう言い募るマルコム氏に腕を引かれ、床板の上に身体を持ち上げると、ロバート氏が「ミセス・マクルーハンなる人物は今ちょうどシャワーを浴びている。正体がバレてしまった以上、酒の匂いをぷんぷんさせる意味がないからね」と肩を竦めた。
「・・・お気遣いありがとうございます。ミネ、いえマクゴナガル先生は?」
「ミネルヴァで構わないよ。プロフェッサ・マクゴナガルが3人もいると紛らわしい」
「はい?」
「私はマルコム・マクゴナガル。開業医の傍ら、グラスゴーのメディカルスクールでもたまに講義している。ロバートは知ってるだろう? エディンバラ大学の教授だ。つまりプロフェッサ・マクゴナガルは3人いるというわけさ」
「どうした、レン、顔色が良くないね。シューコの酒の匂いからまだ回復してないのかな?」
「いやいや、これは、ミセス・マクルーハンとシューコのイメージのギャップに酔った顔だろう。気持ちはよくわかる。1時間置きにシューコとマクルーハンが代わりばんこに出現したときには私も目眩に襲われた」
「・・・いえ。祖母に殺されそうだなと。その、まったく気づかなかったので」
マルコム氏とロバート氏は高らかに笑った。「それは無理だ。シューコのあの変身は50年の熟成ものだよ。我々兄弟だって、ミセス・マクルーハンとシューコは別人だと認識している。そう考えていなければ兄の言う通り、具合が悪くなる。だいいち我々マグルが下手な演技をするとシューコから魔法でふっ飛ばされて痛い目に遭う」
「ミセス・マクルーハンは実在の人物でね。姉さんのグラマースクールの同級生というのも、未亡人というのも本当だ。シューコは闇祓い時代からミセス・マクルーハンの了解を得て成り済ますことにしていたから、ミセス・マクルーハンとしても50年歳を重ねてきたことになる。いくら孫でもそうそう見抜けるものじゃない。さあ、リビングに案内しよう。妻は実家に滞在しているんだ。じゃなかったら、さっきのバトルで腰を抜かしてしまっただろうね。というわけで、姉さんがしぶしぶお茶の支度をしているはずだ。年寄りの冷や水で腰を痛めていなければの話だが」
階段を下りながらマルコム氏が「それにしても隠し部屋の掃除をしていて良かったよ。たぶん本来の目的で使われたのは数百年ぶりだろうね。若きアーサー王子を数百年閉ざされた隠し部屋に誘う老マグル。歴史のこぼれ話にならないかな」と言うと、ロバート氏は「わからないよ。第二次世界大戦のときに使ったかもしれない」と言う。
しかしマルコム氏は「その当時はまだ魔法使いの家だったのだから、じいさんもばあさんもマグルの戦争なんかに興味はなかったろう」と返し、ロバート氏は「第二次世界大戦は魔法使いの戦争でもあったはずさ。ダンブルドアがグリンデルバルドを倒してやっと魔法使いの世界大戦が終結したんだ。覚えてないとまた姉さんに3時間魔法大戦の講義をされるよ」と言い返す。マルコム氏は顔をしかめて「普通の女性は若い頃は殺伐としていても年齢を重ねると、上出来なスコッチのようにまろやかになるものだが、うちの姉さんは殺伐の度合いが増していくと思わないか?」と尋ね、ロバート氏が「ハードボイルド・マクゴナガルに潤いを期待するのが間違いだな。生まれたときからパサパサだったに決まってる」と応じた。
ミネルヴァの弟たちとは思えないほどよく喋る兄弟だった。
「端的に言うと、マルフォイとその取り巻きでした」
「・・・わかりやすい説明ありがとう」
よく喋る弟たちを「やかましい!」と叱りつけて追い出してからお茶を出したミネルヴァが、極めて端的過ぎる表現で説明した。
「ご主人様の望む品がなかなか手に入らないせいでしょう。焦るあまり、代わりにあなたを手土産にしようと考えたようですね」
はあ、と蓮は返事に困った。「それならそれでも構わないんだけど。騎士団本隊が守りを固めてるわけだね。どうせならわたくしを死喰い人の邸のどこかに放り出せばいいのに」
「蓮」
「あまり乗り気にはなれないけど、アンブリッジのお相手とどっちがマシか微妙なところ。前門のノーパンじじい、後門のガマガエル。どっちも寒気がする」
「わたくしとしてもあなたにリボンを巻いてリドルに送りつけ、奴を始末させるほうが簡単だと思わない日はありませんよ。ですが、それではダメだと重々言いつけられたはずです」
ソファにだらしなく座り、脚を伸ばした。
「めんどくさい。それで済むなら今すぐに殺ってくるのに」
舌打ちするとミネルヴァが溜息をついた。
「マクルーハンの正体がわかったのだから、いい加減にまともな態度に改めなさい」
「やだよ。どうせ、わたくしを囮にしたんでしょ」
「・・・気づいていましたか」
「ジョン・オ・グローツでは独り歩きもオーケー。インヴァネスもこの前買い物に来たときはマクルーハンはついて来なかった。今日ついてきたのも、ロバートおじさんが杖を持っているか確かめたのも、こうなるとわかっていたからでしょ」
「マクルーハンの正体に気づいていなかった割には、頭の回転が相変わらず速くて何よりです。確かにあなたがハイランドの重要な拠点に滞在するとリークしたのは事実です。ロス家に姿現しをしてきたところを見ると、あちらには間違いなくホグワーツ城を狙うつもりがあるのでしょう。ホグワーツ城の防衛機能を調べる対象としてロス家は欠かせませんからね」
ムカつく、と吐き捨てた。
「蓮」
「一石二鳥だね。わたくしに注意を惹きつけることで、ミスタ・ウィーズリーの負傷とハリーたちの護衛で騎士団の本隊のやってる何かが手薄になる分、死喰い人も分散させる。どこでわたくしを狙うかによって、リドル側の狙いや情報量を計る。ダンブルドアのアイデア? こんなことやってれば前回の騎士団員がバタバタ死ぬのも当たり前だ」
「残念ながらダンブルドアは知りませんよ。わたくしが考案したのです。騎士団員の犠牲を少なくするために」
「そう思うなら、わたくしをリドルにくれてやればいいでしょ。リドルの馬鹿の馬鹿騒ぎなんかたかがイギリスの極々少数民族の内輪揉め。別にどうなったって大勢に影響はない」
「・・・本気でそう思っているのですか?」
もちろん、と蓮は唇を上げた。
「いろいろ綺麗事を並べてるけど、最終的にはわたくしはリドルを殺すために育てられた。ホグワーツに入学してびっくりしたよ。まともに無言呪文が使える人がいないし、防衛術の教授の頭にリドルが貼りついてる。わけわかんなかった。リドルの復活が予想されてるっていうのにね。どうせリドルの始末はわたくしに押しつけるつもりだったんでしょ。そもそもアンブリッジといい、ダンブルドアが本当に偉大な魔法使いなら、なんであんなのを追い出さないの? なんでまともに防衛術を教えられる人が育ってないの? 防衛術の教授ぐらいまともな人を配置していればこんなことにはなってない!」
「その通り! だから何です?! わたくしがいったいいつダンブルドアを偉大だから尊敬しろと強要しましたか?! リドルを殺せなどと誰がいつ言いましたか! ひねくれるのもいい加減になさい! あなたを厳しく鍛えたのは、そして今日ここに連れてきたのは、ホグワーツ城のためです! リドルなど関係ない! そのぐらい理解していると思っていましたが、見込み違いだったようですね!」
気勢を削がれて蓮は口を閉じた。
「そう。黙って聞きなさい。いいですか、リドルはいずれ必ずホグワーツ城を欲しがります。理由はわかるでしょう。とにかくホグワーツ城をリドルに奪られたらこの馬鹿騒ぎのチェスは終わります。あなたがそれでいいのなら、さっさと日本に帰りなさい。あなたの友人たちが馬鹿騒ぎの中で命を落としても知らずに済みます。リドルと対決するのはあなたではなくポッターの仕事です。それはダンブルドアが決めたことです。しかし、ダンブルドアが考えることが常に正しいわけではありません。人間ですからね。わたくしたちの抱える問題は、このような馬鹿騒ぎに踊る英国魔法界をどうしてくれよう、その一点に尽きるのです」
やれやれ、と背後から声が聞こえてきた。変身が解けたのか聞き慣れた声に変わっていた。蓮は振り向かなかった。
「まだ若いわね、ミネルヴァ。バスルームまで声がビンビン響いたわ」
「あなたの馬鹿孫をどうにかなさい。マクルーハンの悪影響ですっかりひねくれてしまいましたよ」
ミネルヴァの隣に祖母が座った。呼び寄せ呪文でも使ったのか、毛玉だらけの何枚も着込んだ酒臭いカーディガンは消え、ツィードで仕立てられた冬のローブに着替えている。
「久しぶりね、蓮」
返事はしなかった。祖母は小さく溜息をつき「ミネルヴァの言った通り、日本に帰ってもいいわよ」などと言う。
「おばあさまがこの季節にここにいる時点でもう日本に帰る家なんてない」
「マンションでも借りて怜と住めばいいわ。神社を手放したわけでもない。隣の神社に当分の間管理を頼んだだけ。あなたが神職を選ぶのならあそこはいつでも取り戻せるのよ」
「あの人とはもう一緒には住まない」
「どうして?」
「アンブリッジをからかいつつ、自分の仕事のためにわたくしに対する刑罰が極刑一択になるような司法取引をしたわ。そのくせ、口先だけで外人みたいにベタベタした母娘関係を要求する。わけわかんない。いまさら母と娘みたいな顔して暮らしても白々しいだけだよ」
そうね、と祖母が苦笑した。「まったく不器用な娘で迷惑をかけるわ」
「怜が不器用なのは昔からです」
「ゴッドマザーに似たせいね。それで、蓮、話を具体化させましょう。いつまでもこの状態では困るわ。あなたはお母さまと一緒に暮らしたくはない。まずそこが基本ね。次に、イギリスと日本、どちらを選ぶか。菊池家としては日本国籍を持つ後継者は望むところよ。どうしたい?」
「日本」
「理由は?」
「日本で育ったの。日本のほうが気が楽」
「ん。じゃ、日本国籍を選ぶのね。国籍はそれで良しとして、学校をどうするかが問題ね。ホグワーツを退学しても構わないけど、どうする?」
「・・・退学はしない。卒業する。帰国子女枠で日本の大学に進学する」
「例えば、どんな専門分野に?」
「さあ」
あらあら、と祖母が紅茶を口にした。
「では質問を変えましょうか。将来はどんな職業を選ぶのか」
「闇祓い以外」
「そうね。闇祓いはまず無理だわ。成績はともかく適性がない。あれだけヒントがあってもミセス・マクルーハンを見破れないような闇祓いは日本にも国連にも要らないわね。そもそも見破る以前の問題として、ミセス・マクルーハンのような階層の人物に擬態することが出来ないようでは、捜査員は無理。そもそもあなた、マグルになりたかったんじゃない?」
「そうだよ」
「マグルとして生活するためにどんな職業に就くかぐらい考えたこともないの?」
「神職に就くと思ってた。でも、おばあさまもおじいさまも日本を出ちゃってるから、わたくしがひとりであの神社を切り回すのは無理。大きな神社に奉職と言っても、女性の神職にその道はまず無理。巫女って柄でもないし。他の道を考えるしかない」
トントンと腰を叩き、祖母は苦笑した。
「マクルーハンにリハビリを勧めるべきよ、ミネルヴァ。変身後には腰が痛くて痛くて。どうやらまだ考える時間が必要なようね。じゃあ、それは大学に進学してから考えることにしてもいいでしょう。問題は、ウィンストン家のことだわ」
「問題?」
「引退してしまったウィリアムを別にすれば、ウィンストン家の血を引く人間はひとりだけ。そのあなたが、日本国籍を取得して、日本でマグル生活を送り、英国魔法界に関わらずに生きていくことを望むならば、やはりウィンストン家からの了解も必要でしょう」
「わかった」
「次が一番大事な話。学費や生活費よ。お母さまに出してもらう?」
「そのぐらいしてもいいんじゃない?」
軽く肘を抱くように腕を組んだ祖母は「どうやらまだ混乱しているようね。イギリスの馬鹿騒ぎを捨てて日本を選ぶのなら、せめて菊池家の財産を使うべきよ。そもそも魔法界を捨てるくせに一族の財産を当てにするのは見苦しい」と呟いた。
「どっちでもいいよ」
「蓮。そろそろ意気がるのはおやめなさい。こんなぶざまな孫しか作れないようでは娘も失敗作ね」
「・・・最低」
「誰が?」
「おばあさまが。ミセス・ロングボトムと本当に友達だなんて信じられない」
「あなたにオーガスタの何がわかるの? オーガスタは確かに息子と嫁を誇りに思っているわね。だから何? わたくしがオーガスタと同じような表現をしないのが不満? ロングボトム家は騎士道精神を重んじる一族。残念ながら蓮、わたくしも怜も、そしてあなたも、騎士道や武士道に邁進する立場に生まれてはいないわ」
「じゃ、何?」
王の家柄よ、と祖母は蓮を見据えた。「菊池家もウィンストン家も」
「は・・・いまさらそんな古臭いこと持ち出してどんな意味があるの?」
「命ある限り、臣下のあらゆる種族の最大多数の最大幸福のために生きなければならない。少なくともわたくしはそう育てられてきたわ。ウィンストン家はどうだか怪しいけれど。オーガスタの息子と嫁は確かに優秀だった。秘密を守る優れた騎士だった。でも、ウィンストンにとっては讃えるべき臣下よ。お友達のお気の毒なパパとママ、そういう風にしか思えないのなら、日本の魔法界にもあなたは要らない。女王としては不出来な怜でさえ、この夏には日本の魔法種族に、あるいは死ぬことになるかもしれない命令を発したわ。わたくしは世界中の魔法種族に。日本だけじゃなく世界各地から着々とブルガリアに兵力が集まっているの。おじいさまがダームストラングの船で輸送する予定よ。イギリスに攻め込む準備をしているわ」
「な・・・」
「残念ながら標的はリドルじゃない。国連としては、イギリスのヒトたる魔法族全体を叩き潰したいの。純血主義者の増長に任せて、リドルのような闇の魔法使いをのさばらせた。グリンデルバルドのようにマグル界の不穏と結びつかれたら面倒なことになるわ。英国魔法界はもはや世界の魔法族から見ても害悪になりつつある。ああ、悪いのはリドルと死喰い人だけだとでも? まさか。イギリス魔法界全体が最悪よ。テロリストの活発な活動を阻止できるシステムを作れなかった。世界の統治者たちの目線で見るとそうなるわ。このままならイギリスの魔法界は滅んだ方がいい。ホグワーツは、わたくしの母校でもあるから残念だけれど、このままだと無責任の象徴として解体が妥当ね。そもそも校内にバジリスクを飼育するなんて言語道断。報告の義務のある闇の特殊危険生物の存在は国連に報告されていない。先年の騒動でわたくしも初めて知ったけれど、50年経過しても秘密の部屋がまだ存在していた。呆れるほかないわ。さらに魔法省の立法システムも非常識に過ぎる。反人狼法、あれはいったいどこの馬鹿が起草したもの? 世界を危機に陥れかねない史上最悪の悪法よ。人狼ウィルスを世界に撒き散らすことになる。いくら空気感染しないとしても、大量の人狼を国外に逃げるように追い詰める。ヨーロッパやアメリカが甚大な被害、下手するとパンデミックを起こしかねない。特殊インフルエンザのような水際検査が出来ない魔法族の感染症なのに、近隣諸国への配慮もなし。さらには人道上、到底承服しかねる偏見に満ちた法思想。反人狼法があるだけで国連はイギリスを制圧する要件を満たしたと決議した。それからウィンストン家」
祖母が嘆かわしげに頭を振る。
「国連はウィンストン家が残存することを危惧している。血に伝わる魔法効果を悪用されては困るから。これは怜にもウィリアムにも正式に通達済み。あと5年以内にこの馬鹿騒ぎを収束させる強権を発動しないならば、国連魔法軍による監視下で、そうね、バミューダあたりで悠々自適の生活を保証することになるわ」
「な・・・何もしてないのに?! 反人狼法はアンブリッジだし、家系としてもゴーント家とは違うのに!」
「何もしないからよ!」
立ち上がった祖母は顎を上げ、腕組みをして傲然と蓮を見下ろした。
「強権を持つ者としての責任感を育てて来なかった。これだけでもウィンストン家の罪は明らかだわ。これ以上、放置は出来ない。特にあなたが問題ね。ウィリアムはさすがにもう子供を作る元気はないでしょうから放置しても構わない。クロエと怜にはウィンストン家の血は流れていない。あなたは違う。ウィンストン家の血を繋ぐ可能性がある。残念ながら、蓮、あなたがイギリスと日本の魔法種族を放り出して自由を求めたとしても、あなたに自由は与えない。これはあなたの祖母としてではなく、国連議長としての判断よ。わたくしがどちらの立場を優先させるか、いくらなんでももうわかっているはずね。わたくしはウィンストンほど無責任でもなく、クラウチほど情に脆くもない。日本の菊池家の断絶とイコールになってしまうのは覚悟の上よ。怜もまったく面倒な結婚をしてくれたわ。さあ、責任ある王太子として、世界の代表と交渉のテーブルにつくか否か、お決めなさい。ウィンストン家だけではどうせ甘えが出るから、立会人も用意した。ミネルヴァ・マクゴナガル。ロード・オブ・パーラメントたるロス家の魔法界における唯一の相続人。つまりスコットランドの代表よ」
蓮はソファから祖母を睨み上げた。
「スコットランドの代表がなに? イギリス連邦王国の一部だわ」
「つまりあなたがスコットランドも統治するということかしら。どうなの、ミネルヴァ?」
認めた覚えはありませんね、と無愛想にミネルヴァが答えた。「ましてイギリスのヒトたる魔法族を叩き潰すと宣言された以上は、スコットランドはイングランドとは違うと主張するしかないわ」
「なっ! ホグワーツはイギリスの魔法学校で」
「本来はスコットランドの魔法族の城です。スコットランド王国とイングランド王国の国主がたまたま現王室によって兼務されているから、マグル界の構造を踏襲しているだけであり、スコットランド魔法族の筆頭たるロス家としては、このように嘆かわしい事態に至った以上はホグワーツ城という文化遺産保護のためにも、せめて魔法界においてはイングランドとスコットランドは違う扱いをしていただきたい。現校長ダンブルドアも、社会に混乱をもたらすトム・マールヴォロ・リドルも、反人狼法の起草者ドローレス・ジェーン・アンブリッジも、問題分子は全員イングランド人なのですから」
ふむ、と祖母はソファに座り、脚を組んだ。
「担保次第では検討するに値するわ。何を担保にする?」
「スコットランド内の魔法的守護が用いられた全ての城を国連軍に提供、ヒトたる魔法族も反乱分子を洗い出した残りは国連軍に合流でどう?」
「ホグワーツ魔法魔術学校はどうするの?」
「学校組織としての解体には応じましょう。スコットランド内には廃墟じみた古城が山ほどあるから、それを利用したスコットランド王国独自の魔法学校の新設が許可されるなら、ホグワーツ魔法魔術学校は要りません。そうね、人狼の保護もスコットランドで引き受けましょうか。幸いスコットランドには島だけは売るほどあります。姿現しのできない離島と医療機関を用意する。現状では聖マンゴ病院の人狼病の専門家は不要ですから、そうした癒師を招聘することは困難ではないわ。決して監禁ではなく、人狼への安全な居住地の提供よ。満月前後含めて1週間の滞在を義務付けるだけ」
祖母が思案げに天井を見上げた。
「建て前としては充分だし、良心的な人狼病患者は諸手を挙げて移住するでしょうね。でも、問題は人狼の大半がフェンリール・グレイバックの配下としてリドル側についていることよ。人狼ウィルスの世界的なパンデミックが起きる可能性も高いのに、それを抑止する政策にはならない」
「そっちはイングランドとまとめて国連軍が叩き潰しなさいよ。グレイバックまで引き受けるつもりはないわ」
ちょっと待ってよ! と蓮は立ち上がり、必死で割り込んだ。「イングランドを潰す前提で話を進めないでよ! まだわたくし何も考えて」
「夏からこっちいったい何をしていたの」
「まんまとアンブリッジに捕まって身動き出来なくさせられていたのよ。そのことで頭がいっぱいだったみたいね」
「ああ。反人狼法を作った馬鹿。まあいいわ、それで? 割り込んできたからには何か御意見が?」
「リドルのことは、ウィンストン家で責任をもって解決する。それでいいんでしょう?」
祖母はこめかみに指を当てて虫歯でも痛むような顔をした。
「・・・孫が馬鹿に育ったのはホグワーツの責任よ、ミネルヴァ」
「あなたがたの教育がもとから足りていないのです。良いですか、ウィンストン、わたくしと柊子はいったい何について話していましたか。リドルの問題は今はまだ瑣末な問題です。むしろ確定的なイギリス魔法省の罪は反人狼法、その成立を阻止できない体質にあるのです。リドルの件はその体質を利用されてしまう危惧でしか、今はまだありません」
「わかった! アンブリッジも始末する!」
深い溜息とともに祖母が「体質の問題だと言ったでしょう。ファッジがどうせまた似たようなのを引っ張り出してくるわ」と呟いた。
「だっ・・・だからって、わたくしに魔法省を改革するなんて無理な」
「何のためのウィンストン家ですか?! 誰が走り回って杖を振る猿になれと教えましたか! 改革するための人材を指名する! たったそれだけのことではありませんか! ガマガエルを何匹殺そうと何の解決にもなりません!」
コーヒーテーブルに拳を叩きつけ、ミネルヴァが怒鳴った。
「だからって簡単にイングランドの魔法族を潰すとか言わないでよ! システムに問題があるだけ! 全員が全員アンブリッジやリドルじゃない! 最大多数の最大幸福のためにイングランドを切り捨てるの?! 違うでしょう! 最大多数を求めるならイングランドも含めてよ! コーンウォールにもデヴォンにも、ヘイスティングスにも、湖水地方にだって魔法族は住んでる! 大多数の人はまじめにささやかに暮らしてるの! 病巣を摘出して体質を改善すればまだなんとかなる! わたくしがするから!」
祖母が愉しげに口角を上げた。
「やっとアーサー王子に責任感の芽が出たようね。さあ、蓮、イギリスの問題について話し合いましょう。イングランドのヒトたる魔法族全員が人質よ。全責任を背負って交渉なさい。わたくしとミネルヴァから妥協点を引き出しなさい。魔法界の改革とリドルの処分について国連とスコットランドを納得させるの」
ぐったりと疲れきって、与えられた客室に引き上げると、ロバート氏がドアの外から声をかけた。
重い足取りでドアを開ける。
「やあ、アーサー王子くん。だいぶ絞られていたね」
「・・・お見苦しいところを」
「そうでもない。私は今からエディンバラに帰るから、その前に君と話しておきたくてね。疲れているところ済まないが、少しだけいいかな?」
蓮は身体を引いてロバート氏を部屋に迎えた。
「まったくミネルヴァ・マクゴナガルの図々しいことと言ったらないよ」
窓枠に背中を預け、ロバート氏は腕組みをした。
ベッドに腰掛け、蓮は力無く首を振る。「ミネルヴァの要求は、妥当だと思います。わたくしの力が足りないのがいけないだけで」
「ああ。交渉としてはそうだと思う。私が言っているのは、16歳の頃の自分を棚に上げているのが可笑しいだけだ」
「16歳? ミネルヴァが、16歳?」
「生まれたときからあんな婆さんがいたら気持ち悪いだろう」
ぼんやりと蓮は頷いた。
「ミネルヴァは母が死ぬまでこの邸に入ろうとしなかったんだ」
「・・・え?」
「ちょうど今の君ぐらいの頃から母とミネルヴァの折り合いが悪くなった。ご覧。なかなかの邸だろう? このロス家には3人の子供がいたんだが、魔法力を持って生まれたのは我々の母だけだった。ロス家は決して純血を至上としてはいなかったが、スコットランド貴族の意識が強くてね。近年ではスコットランドの者としか婚姻しなくなっていた。さらにウィンストン家と違い、社会的職業的な役職を持たなかった。ウィゼンガモットに席はあったが、名誉職に過ぎなかった。つまりホグワーツで知り合ったスコティッシュが限られた結婚相手さ。遺伝的に先細りだ。いわゆるスクイブが生まれがちになっていた。そんな中で母は父と知り合う幸運に恵まれた。マグルの牧師だ」
ロバート氏は肩を竦めた。
「いくらロス家が純血主義でなくても、父がスコティッシュであっても、君のひいおばあちゃんの時代に魔女が牧師と結婚するのはちょっとね。当然ながらロス家も反対した」
「そう、なのでしょうね」
「しかし母はロス家を捨て、魔女であることを父に隠して結婚した。若かった母にとってはロマンティックな結婚だった。ほら、御伽噺の人魚姫さ。愛する王子様と結ばれるために声を失うようなものだ。あの御伽噺は確か浮気者の王子様が声と引き換えに脚を生やした人魚姫の思いをふいにしたのだったかな。我々の父は母の愛に応えたから、まあこれが御伽噺ならめでたしめでたしといったところだろう。しかし、現実のめでたしめでたしの後には、2人の間に子供が生まれてくることになる。声を失い鰭の代わりに脚を生やした人魚姫の子供には、たいそう立派な声と鰭があった。それがミネルヴァだ」
蓮は思わず顔を上げた。
「母は必死で父の目から娘の魔法力を隠そうとした。ジョン・オ・グローツは君も知ってるように小さな村だ。村人の目からも怪しげなことは隠さなきゃならない。しかし、その努力もいずれ通用しなくなる。海に向かって魔法力を放出させることで不意の魔力暴発をコントロールしてきたことが仇になった。また、魔法族には知られた話らしいが、力弱い純血の末裔がマグルと結婚して生まれた子供には魔法力の強い子が出来やすいらしいね。ミネルヴァがそれさ。10歳の頃には母が隠せるレベルではなくなっていた。ただでさえ魔力が強く生まれた子供に、毎日毎日魔力の放出をトレーニングしたわけだ。今の我々から見れば当然の結果だ」
ロバート氏は蓮の目を見つめて苦く笑った。
「そしてミネルヴァの11歳の誕生日。フクロウが手紙を運んできた。隠しきれないと観念した母は父に秘密を打ち明けた。自分が魔女であり、ミネルヴァもまたそうなのだと。村人の目から魔力を隠すのも難しい。ホグワーツに入学させたいとね。父は家族を愛していたから、母を責めることはなかったようだが、だからといって封印してきた魔法を母は決して自分に許すことはなかった。インヴァネスのロス家の娘ではなく、ジョン・オ・グローツの牧師、ロバート・マクゴナガルの妻として生きる決意は絶対に曲げなかった。ミネルヴァのあの無駄な頑固さは見事に母譲りだ」
ところが、とロバート氏は窓の外に向き直った。「魔女である母の目にだけは明らかだった。ミネルヴァという魔女が明らかに自分を凌駕していることがね。我々兄弟にとっては口やかましい姉でしかないし、父にとっては、魔法学校という特殊さを除けば、学業成績優秀でヨーロッパの大会で優勝するとか監督生に選ばれるとか、とにかく優秀であることは確かな自慢の娘だ。しかし、母にとっては違った。自分を飛び越えてロス家の才能を色濃く受け継ぎ、変身術の世界においては当時は20世紀最年少の天才。自分が封印した魔法を使いこなし、帰省するごとに強く美しい魔女に育っていくミネルヴァに、魔女としての母は嫉妬と羨望を覚え、苦しむことになった」
蓮は唇が乾くのも忘れて聞き入った。
「母のその愛憎半ばする感情はミネルヴァにも伝わってしまう。正しい母であろうとするイゾベル・マクゴナガル、魔女としての自分に嫉妬するイゾベル・ロス。母の中に相入れない2人が存在していて、片方だけが自分を愛し、片方だけは自分を憎んでいるわけだ。ミネルヴァにとっては理不尽なことにね。こうして頑固で正しさに固執する似た者同士の母と娘の心的距離は遠く離れてしまった。ミネルヴァは母に対して冷淡になり、ついでにロス家に対しても冷淡だった。魔法界はさほど広い世界ではないだろう? ロス家の祖父母は、20世紀最年少の動物もどきのミネルヴァ・マクゴナガルとは、貧乏牧師のマクゴナガルと結婚するために家を捨てたイゾベルの娘だとすぐに気づいた。イゾベルの母の名前がミネルヴァだったからね」
「・・・それは、バレますね」
「だろう? ロス家はミネルヴァを正式にロス家の養女にしたいと申し出てきた。魔女としてどんな職に就くにせよ、ロス家の名は決して邪魔にはならない。魔法省? だったらなおさらだ。しかし、意地っ張りの母と娘は、互いに競い合うように、ロス家の援助を拒み続けた。我々兄弟はスコットランド貴族のおじいちゃんとおばあちゃんの登場は大歓迎さ。パパの自慢のミネルヴァ姉さんと同じように、魔法学校じゃないにせよ立派なパブリックスクールに行ける。だから貧乏牧師のマクゴナガルの息子は2人ともこんなに立派になったというわけだ」
ロバート氏はまた向き直った。
「聞いていた限りでは君の母上は、イゾベルとはまた違った形で2つに引き裂かれているように思える。娘を愛する母でありながら、正しい法律家としての義務から、結果的に君に不利益を与えた。そうだろう?」
蓮は頷いた。
「君は母上と離れて育ち、さらに母上は職業上の必要性から、君に不利益をもたらした。君は母上にどういう態度を取ればいいのかわからなくなってしまった。普通の母と娘ではないというのも事態を複雑にしている。母上は君の心を取り戻すと同時に、日本の魔法界に勅命を下す女王でいなければならないし、英国魔法界を代表する家系において夫の遺志を継いで改革を断行しなければならない。そういう理解で間違っていないかい?」
「・・・はい」
「そして君は少なくとも立場としては、あと1年ほどで、英国魔法界の改革断行の資格を得ることになる。そうだね?」
「そうです。でもそれは」
ロバート氏が蓮の前に掌を立てた。
「言わなくていい。確かに17歳には荷が重過ぎる。誰を校長にして誰を大臣にすればいいか、17歳に判断させるのは無茶にも程がある。だいたい普通の17歳が労働党の政治家の名前を全部覚えているわけがない。魔法界でもきっとそうだろう。君は魔法界を牽引する能力のある大人の名前なんてろくに知らないはずだ。しかしね、レン、だからこそ、このインヴァネス会談が開かれたのではないかな?」
「・・・え?」
「17歳になった君が拙速な判断をせずに済むように。どんな拙劣なアイデアでもいいから、あの2人にぶつけてみたまえ。国際社会における気鋭の政治家と、無駄にキャリアの長いホグワーツの教授が君に、誰を選べばいいか考えさせてくれる。どんな改革案なら国際社会に承認されるか教えてくれる。そういうレッスンの場だ。今回の滞在だけでなく、学校でもミネルヴァを捕まえて質問責めにするんだ。あの性格だから挑戦は受けて立つ。間違いない。そうしたら、今度は夏が来る。夏には君の母上と話し合うことだね。母と娘のフリをする必要はない。魔法界を改革する責任ある大人同士として」
君の改革は断行されなければならない、とロバート氏は眉間を険しくした。「人狼病といったか。ウィルス性の感染症。悲劇的だ。君はマグル社会の知識が豊富なようだからあえて言うが、HIVやエボラウィルスを国外に大量流出させかねない法律をあえて制定する国は、そりゃあ潰されて当然だ。違うかい?」
「違いません。でもそれは、立法システムに問題があって」
「そうだね。個人の偏見が無検証のまま法に反映される。言語道断だ。君はその手で、そんな馬鹿げた社会を変えることが出来る。なぜ尻込みする必要がある? 君に知識と経験が足りないのは当然なんだから、あの婆さん連中の経験と知識を奪い取ればいい。どうせ枯れ木同然の婆さんだ。搾り取るんだ。婆さん連中の経験も知識も墓に入ったら使い道はないんだから、かろうじて生きてる今のうちに君が搾り取ることはむしろ正義だよ」
「そう、ですが、でもわたくしとしては、そういう方々に直接指揮を執ってもらいたいと」
「生きてる保証がない」
「・・・え?」
おいおい、とロバート氏が喉を天井に向けて呵々大笑した。
「婆さん連中をいったいいくつだと思ってるんだい? いつ死んでもおかしくない。改革にいったい何年かかる? 改革なんて、指を鳴らすように一瞬で終わるようなものじゃないだろう。数年、十数年でやっと土台が出来るレベルだ。死ぬだろう、普通。死ななくてもボケる」
ロバート氏は蓮の目の前に跪いた。
「君の友人たちが組織の中心で辣腕を振るう年頃までの時間は必要なんだよ、レン。だから君にやらせようとしてるんだ。さあ、友達の顔を思い出せ。誰をどのポストに付ける? 誰がどんな仕事をやり遂げるのかは想像出来るだろう? さあ。一番の仲良しの名前は?」
「・・・グレンジャー。ハーマイオニー・グレンジャー」
「よしよし。グレンジャーには何をさせようか?」
蓮は目を閉じた。
「グレンジャーはどんな子だい?」
「ミネルヴァ並みの本の虫で、なんでも文献で調べないと気が済まない」
「いいぞ。それから?」
「マグル生まれ」
「なるほど。それで?」
「ハウスエルフの権利拡大や地位向上を企む癖がある」
「他にも?」
「正義感が強くて、理不尽を許さない」
「よし! さあ、グレンジャーには何をさせる?」
ゆっくりと目を開けた。
胸の中にひと筋の銀色の道が見えた。パトローナスの駆ける美しいひと筋の道だ。
「グレンジャー魔法大臣。その前に魔法法執行部の経験が必要。うん。魔法法執行部長から魔法大臣にする」
「いいぞ、レン。そうだ。そうやって考えるんだ。私としては人狼病の拡大防止と根絶のための人材も欲しいな。友達にいないかい?」
「・・・決して友達ではないけど、マルフォイ」
「ほう! 友達ではないが認めるわけだね、いいじゃないか。マルフォイに何をさせる?」
「人狼病患者のための薬を作らせて、同時にワクチンの開発もさせる。あいつは性格は最悪だけど、魔法薬学は得意だし、感染症の撲滅には関心が強い。父親の影響から離れて根性を叩き直せば優秀な癒師になる」
「よしよし。他には? 君はアーサー王子だ。君の円卓にはあと10人は座れるぞ」
「パーバティ、ハリー、ロン、ネビル、ジニー、ルーナ・・・ヤバい、友達少ない」
「仕方ないな。兼務させよう。あるいは、君の知ってる大人を使うことも出来る。それにだ、例えばグレンジャー魔法大臣誕生までにはまだだいぶ時間がかかるだろう?」
蓮は頷いた。
「グレンジャーを魔法大臣にするのに何が必要か、誰が必要か考えてごらん。それが君の改革案になる」
「うん」
「欲しい未来を想像する。そこから逆算していけばいい。遠慮は要らない。婆さん連中の経験と知識を搾り取るんだ。いいね?」
一晩寝ないで20年後の魔法界の構想を練った。
マルコム氏が、顔色が良くない、姉さんたちが説教し過ぎたせいだ、と顔を真っ赤にして怒鳴ったが、蓮はその肩を押さえ、祖母とミネルヴァにリーガルパッドの束を差し出した。
「20年後の英国魔法界のあるべき姿を構想しました。これを叩き台に、逆算の発想で改革案を練ります。無駄に溜め込んだ知恵を貸してください」
インヴァネスのロス家の邸で、後にインヴァネス会談として魔法史のビンズ教授が3ヶ月かけて講義することになる伝説的な交渉が、こうして始まった。
当時は限られた人々しか知らなかったが、この時、イングランドの魔法族の喉元には、国際魔法使い連盟とスコットランドによる制裁の杖が突きつけられていたのだ。
この交渉のテーブルについたイングランド代表は常に「エリザベス3世」とのみ表記され、インヴァネス会談とホグワーツ城の戦いの場面でしか魔法史に登場しない謎の人物とされる。
スコットランド代表であったミネルヴァ・マクゴナガル、後のホグワーツ魔法魔術学校校長がエリザベス3世について語るときは、鼻くそ味のビーンズを食べさせられたような表情で「若くして実に聡明かつ美しい、才能ある魔女でした」と棒読みで読み上げるのが常である。そしていつもの無表情で「生意気で面倒くさがり、ソファの足元に脚を折り畳むことも出来ず、やたらに長い脚を伸ばしてコーヒーテーブルを蹴り、悪態をつきながらイングランドを救済した小娘のことなど詳しく話したくはないのです。わたくしがなぜいまここに座っているかわかりませんか? あの小娘が! わたくしにこの仕事を押しつけたのです!」と怒鳴ることになった。
また、エリザベス3世の正体を知っているはずのハリー・ポッターは「ヒント。蛙チョコのカードに2種類の違う人物として登場するよ。だから最近は蛙チョコカード占いはやめたみたいだね。自分を引き当てるとムカつくんだってさ」とニヤリと笑う。
ポッター氏の発言を踏まえ、年齢と性別からハーマイオニー・グレンジャーの可能性が高いと言われることもあるが、グレンジャー氏は「わたしは100回以上殺されたほうです。93回はハウスエルフ詐取罪で獄死、25回死喰い人の手にかかって死んだことにされました」と証言するのみである。
余談になるが、グレンジャー氏の証言にあるように、このとき仮定の上で100回以上獄死も含めて死んだことにされた人材は将来、全員が蛙チョコカードとして魔法界にその勇名を馳せる。
歴史家と占い学者は若くしてイングランドを影から救済した謎のエリザベス3世の「先見の明」と「内なる眼の欠除」について毎年熱い討論を戦わせることとなる。
蛙チョコカードのエリザベス3世は、常に窓の中で昼寝をしている。つついて起こすと青年になりかけた少年のような剣呑な目つきでこちらを睨んで窓から消えてしまうので、取り扱いには充分な注意が必要である。