蓮は充実していた。
クィディッチの練習でクタクタになり、試験勉強をする。
学年末試験は、手応えも上々だ。
尤も、ハーマイオニーは答え合わせをしたがって、試験は終わったというのに教科書を湖まで持ってきていたけれど。
ハリーはゴシゴシと額の傷痕を擦って、しきりに気にしている。
「ハリー?」
「ああ、レン。どうしてかな。今日はいつもよりすごく痛む」
蓮が眉を上げた。「まさか今までずっと痛んでいたの? 罰則の日から?」
「うん。マダム・ポンフリーには一度診てもらったけどね。これって、闇に属する呪いで出来た傷痕だから、長い時間が経ってから痛み始めることもあるって説明された。痛み止めもくれなかった」
「・・・痛み止めで誤魔化しちゃいけない傷痕だからよ。マクゴナガル先生には? ダンブルドアには?」
言ってないよ、とハリーは目を瞬いた。
「今日は特に痛むのね?」
「うん。試験が終わって気が弛んだせいかな」
「・・・違うわ」
蓮は立ち上がった。「レン?」
「ダンブルドアに知らせてくるわ」
スカートが跳ねるのもお構い無しに蓮は駆け出した。
ハリーのあの傷痕は、ヴォードゥモールの呪いによって出来た傷痕だ、と考えた。
あの夜、ヴォードゥモールはハリーと蓮のすぐ近くにいた。フィレンツェが庇ってくれなかったら、どうなっていたかわからない。
ーーハリー・ポッターを間近に見つけて、あいつは興奮したはず
行き交う生徒の群れをかわしながら、蓮は校長室まで走り続けた。
ーーヴォードゥモールの感情が、ハリーの傷痕の痛みに影響するとしたら
「今日だわ」
校長室前のガーゴイルに、蓮は思いつく限りのマグルのお菓子の名前をあげた。
「きのこの山! たけのこの里! アーモンドチョコレート! 違う? ポッキー! プリングルス!」
ミス・ウィンストン? と怪訝な声が聞こえる。
「プロフェッサ・・・ダンブルドア先生に緊急のお話があります!」
蓮は、腰を90度に折り曲げて頭を下げた。
そこへ、ハリーたちが追いついてきた。
蓮がアジア人らしい、と思ったのは初めてのことだった。
必死でマクゴナガル先生に頭を下げている。
「ミス・ウィンストン、頭を上げなさい。簡単に頭を下げるなと柊子はあなたに教えませんでしたか?」
「いつも言われます。でも、どうしてもダンブルドア先生にお願いすることがあるのです」
パタパタっと、ハーマイオニーたちが駆けつけた。
「マクゴナガル先生! 僕のためなんです!」
「ポッター?」
「僕、僕のこの傷痕が今日はすごく痛むってレンに言ってしまいました。我慢出来ないこともないのに。そしたら、レンが校長先生に知らせると・・・」
「ハリーの傷痕が痛み始めたのは、罰則の夜からです。あの時、わたくしたちはユニコーンの血を啜っている影のようなものを見ました。それがわたくしたちを振り返ったとき、ハリーの傷痕が一番ひどく痛ん」
「僕、気を失いました」
ロンがハリーの肩を掴んだ。「君、そんなこと言わなかったじゃないか!」
ハリーの顔が微かに赤らむのを見て、ハーマイオニーはロンのシャツを引っ張った。男の子のくせに鈍感なんだから、と思った。
ハリーはきっと蓮に助けられて戻ったことを男友達には言いたくなかったのだ。
「蓮とケンタウルスに助けられて、その場を離れました。それからたまに痛むようになって」
「その件は、わたくしもマダム・ポンフリーから報告を受けています。ですが、ポッター、マダム・ポンフリーから説明は受けませんでしたか? 強力な闇の呪いによる傷痕には、往々にしてそういうことが起きます」
「聞いています。でも今日はすごく痛くて」
マクゴナガル先生の表情がそのとき僅かに歪んだ。
「マクゴナガル先生、お願いします。ダンブルドア先生に会わせてください」
「ミス・ウィンストン、あなたがなぜそんな・・・」
「賢者の石が奪われるとしたら、今日だからです! わたくしは、あれをヴォルデモートの手に渡すことは許せません」
ウィンストン! とマクゴナガル先生が声を張り上げた。「言葉を慎みなさい。何人もの先生方が守りの魔法をかけています。その全てを知っているのは、校長先生だけです。もちろん校長先生ご自身の仕掛けもあります。万全に極めて近いと言って良いでしょう。だいいち、校長先生は本日はご不在です」
びくん、とハーマイオニーの心臓が跳ねた気がした。
それは皆同じだったらしい。
「ポッターの傷痕の痛みについては、改めて相談に応じていただきましょう」
それは解散の合図だった。
ハーマイオニーとロンがハリーの腕をそれぞれ引いて階段を降りようとすると、蓮を呼び止めるマクゴナガル先生の声が聞こえた。
シャワーを浴びて真っ白のTシャツとジーンズを身につけ、ベッドに横になったまま、蓮はベッドの天幕を見つめていた。
フラッフィーはいわば門番だ、と考えている。
安易な悪戯を防ぐためには強面の門番がいた方がいい。
4名の寮監、闇の魔術に対する防衛術のクィレル、そしてダンブルドアが魔法を仕掛けている、という線は間違っていないはずだ。
スプラウト先生は、罠になり得る蔓性植物。
フリットウィック先生は、飛行呪文を用いて数で勝負するはずだ。小さなものに大量に魔法をかけるなら右に出る者はいないと聞いたことがある。
マクゴナガル先生はチェス。これは間違いない。変身術は罠には不向きだ。むしろ巨大チェスなら、戦意を挫くことも出来るし、マクゴナガル先生のチェスの腕前はフラメルのおじいさまの折り紙付き。
スネイプ先生は、魔法薬を使った何か。例えば、先へ進む薬と後退する薬。自信がなければ飲めないように、見た目に細工してあるはずだから、見た目では判別出来ない。
クィレルは、と考えて蓮はむくりと起き上がった。
闇の魔術に対する防衛術の教授になったのは今年度からだし、はっきり言って授業らしい授業だったとは言い難い。
「ハーマイオニー?」
「・・・なあに?」
「クィレルが罠を仕掛けるとしたら、何かしら? 闇の魔術に対する防衛術だと思うけれど、あの人、そもそも何が出来るのかしら?」
トロール、と答えたのはパーバティだ。
「トロール?」
「さっきからハーマイオニーが説明してくれた経緯からして、ハロウィンの日のトロールがクィレルの仕業なんじゃない? だったら、あの人、トロールの扱いが得意なだけだと思うわ。トランシルバニアの吸血鬼なんか嘘臭いじゃない。吸血鬼を始末出来る人はニンニクをぶら下げて歩いたりしないわよ」
ジーンズの上から太腿にホルダーを巻きながら、蓮はパーバティに「ありがとう」と微笑みかけた。
ハーマイオニーは自分のクロゼットから、新品の革のホルダーを取り出すと、蓮と同じように右脚にホルダーを装着する。
今頃は男子寮ではハリーとロンがネビルを説得しているはずだ。
「ネビルは任せて」パーバティが請け合ってくれた。「ちょっと心配性なだけよ。でも、あなたたちが心配なのはわたしも同じ」
わかってる、と言ってハーマイオニーはパーバティとハグをする。
蓮は少し呆れて「ハーマイオニー、残ってもいいのよ?」と言った。
馬鹿言わないで、とハーマイオニーから睨まれた。「わたし、あなたたちがいつか何かしでかすと思って、このホルダーをフクロウ通販でわざわざ取り寄せたのよ!」
ハリーは英雄症候群だし、ロンはチキンのくせに度胸試ししたがるし、と指折り数えながら、階段を下りる。「レンは見張っていないと何をしでかすかわかったものじゃない」
談話室にはもう誰もいない。
いや、肖像画の穴の手前に3人の人影が見える。
「ハーマイオニー、レン」とネビルが声を潜めた。「君たち、女の子なのに、本当に行くのかい?」
「失礼ね、ネビル。それって女性に対する侮辱だわ」
つんとしたハーマイオニーの言葉にパーバティが苦笑いをして、ネビルの腕を引いた。「ネビルはわたしとここで待ちましょう。大丈夫、レンとハーマイオニーがついて行くほうがハリーとロンは安全なの」
「それ、どういう意味かな?」
そう口にしたロンの背中をネビルが押した。「約束通り、僕はここで君たちを待つよ。でも、本当に約束だよ。3時間だ。3時間経って戻らなかったら、マクゴナガル先生の部屋に押しかける」
わかった、とハリーが言って、ネビルの拳と拳を合わせた。
「ハリー、透明マントは?」
「持っていかない」
ハリーは首を振った。「君が僕たちに目くらましをかけてくれないかな。僕、今夜はどんなミスもしたくない」
蓮は頷いて、3人を透明にした。
「アロホモラ」
ハーマイオニーの囁くような呪文で、ケルベロスへの扉が開く。
約束通り、ロンが子守唄を歌い始めた。
とろんとしてきたケルベロスの様子を確かめながら、ハリーが仕掛け扉にジリジリと近づく。
開いた仕掛け扉にハリーが最初に、続いて蓮が飛び込むと、ロンが子守唄をやめて飛び降りてきた。
「ハーマイオニーは?」
「僕が音痴だっていうから。続きを歌いながら飛び込んでくるよ。うわ、ここクッションが敷いてあるのかな、ふわふわだ」
ロンの言葉に気づき、太腿の杖を抜こうとしたときは遅かった。
「罠よ!」
ひゅうと音が聞こえ、ハーマイオニーが軟着陸する。
「ハーマイオニー! すぐに脇によけて、ルーモス!」
「わかったわ・・・悪魔の罠よ!」
ぐ、と早くに飛び込んだハリーとレンの胸を締め付ける感触に蓮が「ハーマイオニー、対処は?」と尋ねた。
「うわ。なんだよ、これ。ハーマイオニー、なんとかしてくれ!」
「弱点は光と熱、でもルーモスじゃ足りないし・・・どうしよう、薪がないわ!」
「気は確かか! 君はそれでも魔女か!」
「・・・そうだったわね。でもあなただって魔法使いとは思えないわ、スプラウト先生の授業をちゃんと聞いていれば」
「ハーマイオニー、いいから早く」
蓮の言葉にハーマイオニーは小さく呪文を呟きながら、杖を振った。
4人とも足元にはスニーカーを履いて来ている。
湿っぽい通路を歩く。
「変な動物の鳴き声なんかは聴こえないね」
もうケルベロスは勘弁してくれ、というようにロンが呟く声が響いた。
「いや、何か聴こえるよ」
「先に進みましょう。今のがスプラウト先生。わたくしの予想通り、蔓性植物だったわ。たぶん次はフリットウィック先生だから、難しくはあっても危険は少ないはず」
「小さくてたくさん、だったわね」
蓮の予想を記憶していたハーマイオニーが扉を開けた途端、ロンが呻いた。「たくさんったって程があるだろ?」
小さな鳥が無数に飛んでいる。蓮は向かいに見える扉まで部屋を駆け抜けた。
「鍵よ! ハリー、こっちへ。ここの鍵穴の素材をよく覚えて」
ハリーが駆け寄ると、扉近くの箒を一本ハリーに放った。
「銀だね、少し古びた銀」
「じゃ、あのキラキラした鳥は無視していいわ」
蓮は箒にまたがると、あっという間に鍵をすり抜けるように舞い上がった。
「わたくしが、上から追い詰めるから、ハリーが下から飛び上がって鍵をキャッチして。どのあたりを狙えばいい?」
ハリーは目を凝らした。
「あれだ! レン! そこの少し大きいやつだよ、羽が片方だけ曲がってる」
言うや否やハリーは箒に飛び乗り、蓮が急降下してくる位置に向かい急上昇をかけた。
「ぶつかるわ!」
ハーマイオニーの悲鳴が聞こえたが、ハリーは気にした風もなく上昇してくる。
蓮は接触ギリギリでハリーをかわすと、無事に着陸した。
上ではハリーが「捕まえたよ!」と言いながら、ゆっくり旋回しつつ下りてくる。
その手の中の鍵を見て、蓮は顔をしかめた。
「レン?」
「先客がいるわ。ハリーが掴んでいないはずの羽が折れてる」
他の3人は、ぞっとして扉を見つめた。
かといって引き返すわけにはいかない。
おそるおそる、光の射さない扉を開け、次の部屋に踏み込んだ。
あっという間に明るくなり、目の前には巨大なチェス盤が広がっている。
「あの、向こうに行くにはチェスに参加しなければいけませんか?」
ロンの言葉をきっかけに全ての駒に命が吹き込まれ、黒のナイトが頷いた。
「僕、やっちゃった?」
「そんなことないさ」
「問題ないわ。チェスに参加せずに通過は絶対に出来なかったでしょうから」
「ここはロンに任せよう。ロン、君が一番チェスが得意だ」
蓮もハーマイオニーも異論なく頷いた。
「じゃ、ハリー、君はビショップと代わって。ハーマイオニーはその隣でルークの代わり。レンはクィーン。僕はナイトになる」
魔法使いのチェスはなかなか衝撃的だということは、ハリーもハーマイオニーもわかっていたから、ロンと対になっている黒のナイトが取られてしまってもさほどショックはなかった。
しかし、ロンの指示でハーマイオニーが白のビショップを取ったとき、ビショップが速やかに盤を降りたのは少し不公平な気がした。
ロンの次の手を待っているとき、蓮が気づき、強張った表情でロンを見た。
「気にするなよ、レン」
ロンは蓮の表情に気づくと笑って言った。「その代わり、最後までハリーに付き合ってやって。君とハーマイオニーがいるといないとじゃ大違いだ」
「わかったわ」
その2人の会話の意味に気付いたハーマイオニーが「ダメ!」と叫んだが、ロンは「犠牲を払ってキングを取るのがチェスだ!」と言って、一歩前進した。
途端に白のクィーンがロンに襲いかかった。
「動くな!」蓮は2人に怒鳴った。迂闊に駒を動かしたら、ロンの犠牲が無駄になる。
それにここまで詰めが近くなっていれば、次の手は限られる。
「急いで先に進みましょう。ハリー、3つ左に進んで」
ハリーが言われた通りに動き始めると蓮は「チェックメイト」と呟いた。