サウサンプトンの街に住み着いてもう何年にもなる。小さなパブのウェイトレス、ついでにちょっとしたベッドの相手を務めて、小金を稼ぎながら暮らしを凌ぐ。
そういう生き方に息苦しくなることもないではないが、これで食べていける間はこれでもいいかと割り切ることにしている。先のことなんてわかりっこないのだから。
「僕は魔法使いなんだ」
若い男が、パブのカウンターで掌の上に花を咲かせた。
「そりゃ良かった。あたしは魔女よ」
「君みたいに素敵な魔女は僕の学校にはいなかったな」
「あんたは育ちの良いお坊ちゃんみたいだから、そりゃいなかったでしょうよ」
キープボトルの棚に凭れて煙草を一服。
「ずっとこの店で働いてるのかい?」
「まさか。男に騙されて店の金に手をつけてクビが1回。男と駆け落ちするために辞めたのが1回。3回目の正直ってやつでもう何年かここで働いてるけどね。またそのうち、何か起きて、居場所がなくなるんだろうよ」
「他人事みたいな言い方するね」
似たようなもんさ、と笑った。「あたしの人生は、いつだってあたしにとってさえ他人事なの」
「まだ名前を名乗ってなかった。フェビアン、フェビアン・プルウェットだ。君は?」
ベッドの中で一戦交えたあと、若い魔法使いはニコニコしながら名を名乗った。
「決まった名前はないね。好きなように呼べば?」
「マリオンってのは飲み屋での源氏名なんだろ? それで呼ぶのは嫌だなあ。リリーなんてどうだい?」
「ずいぶん可愛らしい名前だこと」
「下級生にそういう名前の子がいた。確かに可愛い子だったと思うよ。君のリリーはそれとは違うけど」
「なんだって構わないわよ」
「港町の女って感じがしないか? 下級生のリリーはご両親に愛される可愛らしいリリー。君は港町のリリーだ」
港町のリリー、と口の中を転がしてみて、若さに似合わぬ気障なことを言う、と呆れながら、女は頷いた。
「リリーで構わないよ。好きなように呼べって言ったのはあたしなんだし」
馬車道、とフェビアンは確かめた。
「そんな名前で呼ばれる通りよ。ほら、処女航海で沈んだタイタニック。ああいう船が出入りする大きな港町だったから、ひっきりなしに馬車が走ってた。だからパブからアパートのあたり一帯を『馬車道』って呼ぶの」
「タイタニック?」
「魔法使いはそんなことも知らないの? それはもう歴史に残るぐらいに豪華な客船だったんだけど、氷山の海であっという間に沈没した船があるのよ。豪華さより沈没のほうで歴史に残っちまったけどね」
ひょい、と橋の欄干に身軽に飛び上がったフェビアンにギョッとしたが、フェビアンは「そんな船で世界一周したら楽しいだろうな」と両手をポケットに突っ込んだ。
「親に出しておもらいよ。船で一人旅する可愛い魔法使い。あたしにとっちゃ、素敵なおとぎ話に聞こえる」
「可愛いだと?」
フェビアンは欄干から飛び降りて、女を後ろからかきいだくようにくすぐった。
「姉さんみたいな言い方するからだよ」
くすぐられて身をよじったせいで乱れた髪を撫でつけていると、フェビアンはしてやったりという顔で無邪気に笑う。
「・・・姉さんがいるの?」
「うん。愛情深い、立派な魔女さ。僕と兄貴の面倒をきちんとみる義務を小さい頃から頭に刷り込まれてるもんだから、自分がアーサー・ウィーズリーと結婚する朝に、やっぱり弟たちを置いていけないなんて馬鹿なことを言い出したことがある」
「いい姉さんじゃない」
最高だよ、とフェビアンは鼻の頭を擦った。
小さなキッチンの片隅に置いているダイナーの中古のテーブルで、ホーローの安物のマグカップから飲むコーヒーを喜ぶ男だった。ゴブリン製の銀のティーセットとやらが実家にあるほどの大した家の出らしいのに、始終女のアパートに泊まりに来る。
「湖水地方の名門の坊や? こんなにたびたびサウサンプトンあたりに来てて大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないから、ロンドンから逃げ出してサウサンプトンに来てみた。そうしたら君がいた。ロンドンの問題はある程度片付いたけど、君に会うにはサウサンプトンに来る必要があるだろ?」
「ロンドンで何をしでかしたのよ」
「女性問題じゃないことは保証するよ。でもマグルには説明の難しい問題なんだ」
裸の胸や背中にいくつも残る傷痕を見ていれば、お坊ちゃんらしからぬ生活を送っていることは充分に想像がついた。
すっかり寝入ってしまったフェビアンをベッドに残したまま、するりとシーツから抜け出すと、テーブルの上に魔法使いの杖が放り出してあるのが見えた。
「・・・馬鹿なんだから。いい姉さんがいるのに、どうしてこんなに馬鹿なのかしらね」
古いブラシで杖の表面の汚れを落とし、杖先にワックスを塗ってやりながら、当分の間はサウサンプトンにいてやろうと思った。
ここに帰って来さえすれば何だってしてあげられる。来るたびに少しずつ増えている傷痕を見ないフリだって。
ロンドンのダイアゴン横丁だのノクターン横丁だののあたりで、マフィアの若い鉄砲玉のような働きをしているのだろう。
大きく裂けたコートを繕ってやりながら「立派な姉さんに心配かけるような暮らしはやめなさい」と言った時には、本気で怒り始めたから、もう口を出すのは止しにすることにした。
確かに立派な姉さんの気持ちなんてあたしにはわかっちゃいない、と杖を見つめて考えた。心配するのが嫌でたまらないのは姉さんじゃなくあたしなんだ。
「大丈夫だ。問題ない。コンラッドがうまく始末してくれたから」
「あんたの親友のコンラッド? お貴族様なんでしょ、こんな荒事」
あいつの仕事さ、とフェビアンは椅子を跨いで座り、椅子の背に顎を載せて、背中の傷を女に晒した。
「消毒だけ頼む。しばらくこっちに置いてもらえたらもっといい。じきコンラッドから連絡があるはずだ。レイならこの傷の癒し方を知ってる。レイから習って僕を治療してくれる予定なんだ。レイの作った魔法だから」
「魔法の傷? だったら魔法使いの病院に行くわけにはいかないの? 傷は浅くなんかないわよ」
「ダメなんだってさっきから言ってるだろ、リリー、しつこいぞ」
小さな馬鹿げた嘘ばかりつく男だった。
「ブリクストンの裏路地のマンホールの中に落ちちゃっただけだ、心配いらない」
「・・・魔法使いならそんなドジ踏まないで」
「まったくだ。我ながら笑えるドジだった。塀を乗り越えて華麗に着地しようとポーズを取ったままヒュー、ぼちゃんだ」
繕っているコートの裏地に血の痕をつけておきながら。
今のところ、たったひとつだけ嘘じゃない言葉がある。
アパートを出る時には必ず「じゃあまた」と言って出て行く。そして数日中には帰ってくる。
ロンドンから悪い知らせが届いた。
銀の靄で出来た獅子がきれいな発音の英語で「ギデオンが死んだ。今どこにいるか知らないが、すぐに帰って来るんだ。モリーを支えてやれ」と3回繰り返して消えた。
ひどく険しい顔をしたフェビアンは、女が繕って壁に掛けていたコートを掴むと、アパートの狭苦しい玄関で振り返ってこっちを見た。
「じゃあ、また」
帰って来ない男を永遠にサウサンプトンで待っているわけにはいかなくて、何度か住まいを変えることになった。
魔法使いなのだから、その気になれば見つけてくれるだろう。
何年も生き延びる間に死んだという噂は耳にした。おそらくその通りだろうと、頭ではわかっているが、それでもやはり「じゃあ、また」を信じている。もう誰からもリリーとは呼ばれなくなったけれど。
49歳のときに、いろんな都合から小説を書いたらがっぽり稼ぐことができた。女が余分にチップを貰って帰った時に「じゃあうまいもん食おうぜ」と能天気に言う男の笑顔を思い出した。
ホグワーツ在学中より少し伸びた長めのショートカットを見て、ベストセラー・インタヴューからダイアゴン横丁に構えたオフィスに戻ったリータは溜息をついた。
「はい、マダム。ご機嫌いかが?」
「あぁたの顔を見たせいでゲロ吐きたくなったざんす」
「吐くならわたくしから隠れてやってね。そんなことより『港町のリリー』ベストセラーおめでとう。びっくりしたよ、マグルの本屋でも平積みで売ってたんだ。『大人たちのファンタジー』だってさ。わたくしも『イングリッシュ・ペイシェント』より『港町のリリー』のほうが好きだな。ってことで、はいこれ、ボーナス」
リータは眉をひそめた。
「いただく謂れがないね。あぁたからの金に手をつけるとどうも罠にかけられてるような気がしてならないざんす」
「みんなそう言うんだよ」
ひどいよね、と同意を求められても困る。ひどくない。
「まあいいや。差し上げる謂れが2つほどある。それを聞いてからでも遅くないよ」
「2つ?」
「まずひとつ目『港町のリリー』のベストセラーのおかげで、第2次魔法戦争の若き英雄たちへの注目が分散され、第1次魔法戦争の若き英雄候補たちの犠牲に人々の目が向くようになった。あなたの果敢な自らの尻尾切りのおかげだ。ありがとう。あなたのこの行為はいつか必ず報われるとわたくしは信じてる。2つ目。等身大のパパのことを書いてくれた。ありがとう」
はん、とリータはせせら笑った。「相変わらずお嬢ちゃんだね。あたくしがあぁたたちのために自分の身を切るだなんて、そんなおめでたいことよくも考えつくもんだよ」
悪魔の娘が得意げにニヤっと笑った。
「忘れてるようだから教えてあげる。あなたは『じゃあまた』って言って背中を向けられるのが大嫌いなんだ。禁じられた森であなたに報酬を渡した後『じゃあまた』って立ち去ろうとしたら、あなたがひどく取り乱したことがある。それ以来わたくしは、あなたと情報や報酬のやり取りをする時には、パブに部屋を取って、先に来て待ち、あなたを送り出してから去ることにしてるんだ。おっと、悪態をつきたければついて構わないけれど、わたくしには通用しないよ。わたくしの周りには『港町のリリー』がたくさんいる。ちっとも健気なところを見せたがらない、口も性格も悪い図々しい中年女には慣れてる」
リータは応接セットのソファにどさりと沈んだ。クソッタレの悪魔め。
「・・・人に教えたら承知しないざんす」
「言うわけないじゃない。あなたには『ろくでもないゴシップばかり書くリータ・スキーター』でいてもらいたいんだ。『実は悲恋のヒロインでした』はわたくしにとっても不都合があるんだから」