チェルシーの家の応接間で、蓮はスクリムジョールと向き合っていた。
「現状を打開するには時間がかかる。この期間の政治の安定は不可欠だとは思わないかね?」
思いますよ、と蓮は礼儀正しく微笑んだ。「わたくしもイギリス魔法族の一員として、大臣の手腕を大いに発揮していただきたいと思っています」
リビングチェアで脚を組んで、蓮は言った。
「例のあの人は強敵だ。大臣の椅子を安定させる努力に力を注ぐ余裕は私にはないだろう」
「そんなことはないでしょう。大臣ならば、必ずトム・マールヴォロ・リドルを逮捕して、国連を納得させるだけの内政改革を断行し、こうした努力を歓迎する魔法族によって長く安定した政権が維持されることと、わたくしも期待しています」
「ミス・ウィンストン。物事はそう簡単ではない。例のあの人との戦いと内政安定には、全く違う種類の努力が必要だ」
「そうでしょうか」
そうだとも、とスクリムジョールはライオンをイメージさせる精悍な表情を見せた。「例のあの人を破滅させるために、私は全力を傾注しなければならないだろう。内政安定のためにあれこれ手を出している余裕はない」
「御苦労はお察しします。ですが、それが大臣の職務ならば、スクリムジョール大臣ともあろう方がそれから逃げるとは考えにくいですね」
「・・・無論。逃げるつもりなどないとも。しかし、当然ながら、私が大臣職で辣腕を振るうには、強固な支持が必要だ」
「お持ちだから大臣の座を獲得なさったのでは? 大臣、わたくしは変身術の論文を休暇中の課題として課されております。あまり長いお話にお付き合いすることが出来ませんので、早めに本題に入りませんか?」
「勉強熱心なのだね。結構。ウィンストン家の支持が得られるならば、強固な基盤となるだろうと思うのだよ」
支持しておりますよ、と蓮は微笑んだ。
「それはありがたい」
「祖父のウィリアム・ウィンストンは、大臣の下で大魔法使いとしてアメリカに駐在しています。国連であれこれ責められても、スクリムジョール大臣の政治改革を信じて耐えております。母はファッジ大臣の時に魔法省を辞職しましたが」
「それだ。君の母上に、相応しいポストを考えている。ファッジやアンブリッジの政治姿勢への抗議はもう必要ないのだからね。喜んでくれるポストだと思う。ウィゼンガモット首席魔法戦士だ」
蓮は肩を竦めた。
「大盤振る舞いですね。ですが、残念ながら母には今のところ働く気がありません。祖父がアメリカ駐在になったことで、ウィンストン伯爵家の事務や社交を引き継ぎましたので、魔法界に責任あるポストをいただくわけにはいかないのです。マグル社会のほうが忙しくて。ですが、スクリムジョール大臣がいらっしゃるのだから安心だと常々言っております」
「・・・君は?」
スクリムジョールの上から目線にややうんざりしながらも、蓮はにこやかに答えた。
「祖父や母が信頼する政治家が大臣となったことを歓迎しています。といっても、わたくしにとってはホグワーツを優秀な成績で卒業することと、その後に大学進学することが最優先の課題ですから、あまり魔法省の政治に詳しくはありません。良くないとは思っていますが、魔法省への入省を考えているわけでもありませんので、そういったことは卒業後だと先送りしてしまいがちです」
「・・・本題に入ろう。私は君の、成人した君の支持を必要としている。さっきも言ったように、例のあの人との戦いに力を傾注するためにね」
「もちろん支持していますが?」
「誰の目にも見える形、例えば、剣を手にした君と私の写真を日刊予言者新聞の一面に掲載するとか。そういう形にしてもらいたいね。支持してくれるのであれば。どうかね、ミス・ウィンストン」
レディ、と蓮は頬杖をついて若干横柄に言った。
「何だね?」
「わたくしの権威を求めるのならば、権威に対して敬意を払っていただきたい。『ミス』ウィンストンが古臭い剣を持ってあなたと握手しても無意味だ。『レディ』レンがウィンストンの剣を持つからあなたの求める効果が期待できる。残念ながら、大臣、ミス・ウィンストンは政治に興味のない一学生に過ぎない。家族があなたを支持しているから立派な大臣なのだろうと漠然と考えているだけだ。17歳なんてそんなものだろう。レディ・レンは、剣を持ち出すのは最終手段だと考えてる。そもそもウィンストンの剣はホグワーツ校長と大臣を『任命する』ものなんだ。とっくに大臣になってる人のために持ち出すものなんかじゃない」
スクリムジョールは顎を引き、睨むような目つきになった。
「・・・これは失礼した。しかし、レディ。あなたにならご理解いただけると思うのだが、任命権を持つあなたが私を支持する、この場合は追認する姿を見せることが魔法族に安心を与えるのだ」
逆でしょう、と蓮は皮肉に唇を上げた。「ウィンストンを引っ張り出した大臣はこれまで存在しなかった。17歳のウィンストンの当主を言い包めて宣伝に使う大臣には、良心的な人間なら不安を覚える。はっきり言いましょう、大臣。あなたが善政を敷くべく全力を尽くし、少しずつでもその成果があがることによってあなたへの支持をコツコツと獲得する、それが一番シンプルな、望ましい形だ。トム・マールヴォロ・リドルのために他の政務が疎かになる? まともな大臣の台詞とは思えない。トム・マールヴォロ・リドルは犯罪者だ。司法関係部署のお尻を叩いて、さっさと捕縛しろと命じ、自分は社会の発展や安定のための政務に精励するのが、大臣の仕事じゃないかな。あなたがそう努めるなら、ウィンストンの剣なんてなくても構わないんだ。わたくしがあなたを任命する必要なんてどこにもない。あなたはすでに大臣なんだから。ウィンストンの剣無しで大臣になった人だ。職務を誠実に遂行していけば、必ずトム・マールヴォロ・リドルを捕縛出来るし、社会の発展や安定を促すことができる。ウィンストンの出番なんてない」
違いますか、と蓮が皮肉な笑みを浮かべたまま顔を見ると、スクリムジョールは怒りに唸り出しそうな表情になっていた。
「・・・綺麗事を言っていては政治は出来ないのだよ。君にはまだ難しいかもしれないが、それが現実だ」
「今から社会に出ようとする17歳のひよっこに向かって大臣の言う台詞かな、それ? 17歳の小娘相手に理想論さえ語れないの? とにかく、スクリムジョール大臣。ウィンストンの剣は、すでに大臣職にある人のために使う代物じゃないんだ。あなたは該当しない。今ある職務を誠実にまっとうしてください。その結果、あなたの大臣の椅子は安定するかもしれない、しないかもしれない。それはウィンストンの関心の外にある。ウィンストンの関心は、大臣が誰かではない。あなたの言う『綺麗事』なんだ。イギリス魔法界がどん底に落ちた時、その泥舟から逃げ出さない唯一の存在がウィンストンの当主なんだ。綺麗事無しでやっていける商売じゃないんだよ」
「おやおや。日本にも財産と地位を持つレディが、ずいぶん大袈裟な啖呵を切るものだ」
「言うと思った。大臣、日本の女王なんて形ばかりのものなんだ。総元締がまだニューヨークでぴんしゃんしてるから。その総元締は、イギリス魔法界を破滅させるときには、徹底のためにウィンストンの当主をバミューダに監禁して血を絶やすことを国連で宣言するような冷酷なばあさんでね。日本の女王の血を絶やすことも覚悟の上らしい。聞いた時にはなんてろくでもないババアだと思ったけど、今はちょっと違う意見を持ってる。誰かが理想という根っこにならなきゃ、社会は迷走するんじゃないかな。女王なんてものは、そのためだけに存在する。日本もイギリスもね。理念なき迷走する屁理屈に社会が窒息した時にしか出番はない。閉塞した社会に、理想で風穴を開けるのが女王の責務なんだ。わたくしはあなたの椅子を持ち上げてやるために生きてるわけじゃない」
蓮は立ち上がり、応接間のドアを開けた。
「どうぞお引き取りを、スクリムジョール大臣。あなたの政権が安定し、わたくしの出番がないことを心から祈っていますよ。これは本音だ。根が怠惰な人間だからね。わたくしが安心して寝ていられるなら、諸手を挙げてあなたの政権を歓迎する」
なんてこと、とハーマイオニーは朝食のテーブルにフクロウが落としていった蓮とハリーからの手紙を読んで、うっかりサラダにドレッシングをかけ過ぎた。
仲間内ではひとりだけホグワーツに残っているから、憤懣を訴える相手がいない。
違う。ネビルがいた。
「ねえネビル、これを読んで」
スクリムジョールとの対面について書かれた蓮とハリーの手紙をネビルに押し付け、ドレッシング漬けのサラダを掻き込む。
「手段を選ばない闇祓いだと聞いてるけど、いくらなんでも選ばな過ぎだね」
肩を竦めて、ネビルが読み終えた手紙を返してくれた。
「ばあちゃんはスクリムジョールを支持してない。マッド・アイと同じでパパやママの上司だったけど、マッド・アイと違って見舞いに来たことがないって理由でね。部下の犠牲を軽視してるってばあちゃんは言うんだ。まあ、私怨だと思うけど」
「私怨なんかじゃないわ。とても大切なことよ」
ジャスティンから聞いた蓮の鹿撃ちの話を思い出して、ハーマイオニーは熱を込めてネビルに言った。
「それにしても、レンのママをウィゼンガモット首席かあ。なんとなく意図がありそうだ」
「え?」
「ウィゼンガモット首席魔法戦士は名誉ある地位だけど、働き盛りの優秀な魔女のポストじゃない気がするね。僕のママと同い年で、検察官や判事を務めてきた人なら、ウィゼンガモットの前に法執行部長だろって僕は感じる。マーチバンクスさんを見ればわかると思うけど、ああいうおばあちゃんやおじいちゃんがウィゼンガモットの魔法戦士なんだ。働き盛りの人がそんな立場につくのは不自然だよ」
「すでにいる執行部長に気を遣ってるのかも。パイアス・シックネス。あなたのおばあさまはシックネスについては何かおっしゃる?」
「気に入らないそうだよ」
「そうなの? 理由はおっしゃった?」
「『わたくしが知りもしない若造が法執行部長とは世も末だわえ!』・・・ハーマイオニー、うちのばあちゃんは政治家じゃないし、外で働いたこともない人だよ。ばあちゃんに変な期待はしちゃダメだ。知り合いかどうかが全ての根拠さ」
ネビルは肩を竦めて言うが、ハーマイオニーにはミセス・ロングボトムの見解は鋭いものに思えた。
「マダム・ボーンズやレンのお母さまが次々にいなくなったから、繰り上がり繰り上がりで役職が上がっただけ。おばあさまはそのことをおっしゃっているんじゃないかしら」
「それはそうだけど、部長と副部長以外の執行部職員なんて名前を知られてないのが普通だよ」
「・・・マーチバンクス女史のお友達でしょう? 将来有望な法律家なら、マーチバンクス女史からワクワクする裁判の様子をお聞きになるんじゃない? それなのに名前を聞いたこともないっておっしゃるのは、聞き流しに出来ない情報ね」
スーザンから届いたフクロウにも興味深いことが書いてあった。
「ビンゴ。ほら、ネビル。ボーンズ家でさえ、シックネスの名前を聞くようになったのは、レンのお母さまが退職なさってからだそうよ。副部長に繰り上がった後に、マダム・ボーンズが不満たっぷりに愚痴を言うことで初めて聞いた名前ですって。仕事が遅いだとか、自分の頭で少しも考えないだとか」
「・・・マダム・ボーンズはどうしてそんなに不満だらけの人を副部長にしたんだろう」
「それについても書いてあるわ。マダムはそもそもシックネスを副部長にする気は無かったのに、ファッジに押し付けられたそうよ。『おおかたルシウス・マルフォイからの推薦でもあったのだろう』と伯母は言っていた、ですって」
嫌な感じだね、とネビルはミンビュラス・ミンブルトニアの手入れをしながら適当な返事をする。「ところでハーマイオニー、ここは男子寮で、ハリーもロンも帰省してる今、僕ひとりの部屋なんだ。君もひとり部屋で退屈なのは理解できるけど、男のひとり部屋に女の子がひとりで押し掛けてきてドアを閉めて、ハリーのベッドの上に座り込んで長々と雑談するのはどんなもんかな?」
「気にしないで。ほら、ネビル、レンのお母さまも頼り甲斐のある人物だという評価はなさらなかったそうよ。悪くはおっしゃらなかったけれど、地道な事務官タイプの人物、ただし自分の頭で考えて動くとなると行動力が鈍るのでスクリムジョールがよく見てお尻を叩いてくれれば良いのに、という評価だったらしいわ。どう見ても法執行部長という柄じゃないわね」
「・・・君が気にしなくても僕は気にする。せめてドアは開けておくべきじゃないかな?」
「やめてよネビル。機密保持は大事よ。スクリムジョールは元闇祓いだっていうのに、どうしてそんな人物を法執行部長に繰り上げ当選させたのかしら?」
長く深い溜息をついたネビルが、諦めたように椅子に座った。
「スクリムジョールは法執行部やウィゼンガモットと相性が悪かったから、マダム・ボーンズが評価していた部下に有利な人事をしたくないんだと思う」
「どういうこと?」
「マダム・ボーンズは、スクリムジョールが闇祓いとして検挙した被告をたびたび無罪放免にした。理由は、だいたい証拠の不足。スクリムジョールは、マダムから被告人を突っ返されて、しぶしぶ証拠集めをしなくちゃならなかったっていう経験が何度もあるらしい。再捜査をして、きちんとした証拠を用意して改めて裁判に臨んだ場合にはちゃんと有罪にしたみたいだけどね。マダムとスクリムジョールは考え方ややり方が正反対だったんだって。マダムは証拠優先。スクリムジョールは自白優先。とにかく捕まえて厳しい取調べをして自白させるのがスクリムジョールのやり方で、マダムはそのやり方は危険過ぎて認められないって考え方だった。君がよく言う偏見ってやつが働くからじゃないかな」
「おばあさまはどうおっしゃってるの?」
ばあちゃんは自称マダム派だよ、とネビルは溜息混じりに答えた。「『そんな真似をしている隙に真犯人がさっさと証拠を消してしまうに違いない』って言ってた。捜査の気配を感じさせる前に証拠を集めて、逮捕する時にはぐうの音も出ないように準備しておくのが知恵ってものらしい。自分を棚に上げてよく言うよ」
「棚に上げて?」
「うちのばあちゃんの言葉を重視するのは君だけだ。マダム派だと口では言うけど、新聞を読んじゃ、誰が犯人に決まってるからさっさと逮捕しろだのなんだの。ばあちゃんが闇祓いになれなかったことを僕は天に感謝するよ。興奮したときの口癖は『まず逮捕してから、何か適当に証拠を見繕っておしまい!』だからね・・・」
ハーマイオニーはネビルの顔を見つめた。
「・・・それだわ」
「え?」
「ネビル、あなたのおばあさまはやっぱり天才よ。まさにそれがスクリムジョールのやり方なんだわ」
「いや、これはうちのばあちゃんのやり方だよ。実際には専業主婦だから捜査も検挙も何もやってないけど」
「そうね。そうかもしれないけど、それはおいといて。スクリムジョールは実際にそういうやり方を選ぶ傾向のある闇祓いだったんじゃない? 物証主義のマグルでも問題になることがある捜査手法なの。強引な取調べで精神的に追い詰めて自白を誘導するのよ、物証に合わせて」
「服従の呪文でかい?」
違うわ、と言ったハーマイオニーが両手を拳にしてネビルの前に突き出した。「右手と左手、どっちに凶器を隠した?」
「ハーマイオニー?」
「答えて」
「・・・どっちでもいいけど、あー、右?」
「本当に? 本当にそうなの?」
「じゃあ、左」
「そうだその通りだネビル、よく正直に答えたな。さあ、被害者の血で汚れた犯行時の衣服はどっちに隠した? 右か? 左か?」
「左」
「正直になれネビル」
「じゃあ右」
こういうことよ、とハーマイオニーはネビルに満面の笑顔を向けた。
「こんなの自白って言えるのかい? 僕は君の言って欲しそうなことを合わせて言っただけだよ」
「そうよ。だから、自白より物証のほうを重く評価するべきなの。少なくともマダムやレンのお母さまは、そういう考え方だと思う。取調べの時には捜査官の言って欲しいことを言ってしまいがちになるわ。そういう心理が働きがちなの。でも物証をコツコツ集めて、犯人を物理的に特定するのって地味な作業でしょう? スクリムジョールはそういう地味なやり方よりも、華々しく速やかに犯人を逮捕したい気持ちが強い人なんだと思う。それがレンやハリーに印象操作の手伝いを頼む態度に表れてるわ。さらにレンの手紙に書いてあった。レンが横柄に、レディの称号で呼ぶように言ったら目つきが変わったって。自分のルールでやりたい人だし、自分のペースで事を運びたいのね。法執行部でマダムやレンのお母さまが目を掛けていた優秀な人材は、スクリムジョールのやり方を尊敬はしないと思う。彼はそれに我慢ならない。だからシックネスがちょうどいい」
「それってさ、よく見てお尻を叩くつもりなんか最初からないようなものじゃないかなあ。ぼんやりして大臣の言いなりになる執行部長がいいんだろう?」
ハーマイオニーが愕然としたようにネビルを見つめた。
「な、なんだい?」
「あなたって、さすがはおばあさまの孫よネビル。天才的だわ」
「・・・は?」
「でもダメ。そんなこと危険過ぎる。スクリムジョールは見逃しちゃダメなことを見逃してるわ」
「・・・ハーマイオニー?」
服従の呪文よ! とハーマイオニーはハリーのベッドから飛び降りて、部屋を飛び出して行った。
「蓮。あなたのガールフレンド1号からまたフクロウよ」
母が蓮の頭を小突いて、折り畳まれた羊皮紙を渡した。蓮は顔をしかめ「めんどくさいなあ」と受け取り、傍らに放り出してまたゲームに戻る。
「蓮? お手紙に先に目を通しなさい。急ぎの用事だったらどうするの」
「クリスマス休暇中に急ぎの用事なんかあるわけないじゃん。ハーマイオニー的急ぎの用事になんていちいち付き合ってたら、キリがないよ。今はこっちのほうが緊急事態なん・・・うわ怖え! ロッカーからシザーマン出たよママ!」
ブツッとテレビの電源を切られた。
「先にお手紙に目を通しなさい」
唖然として蓮は母を見上げた。
「ママそろそろ限界よ、蓮。毎日毎日ゲームばかり。それもこんなに猟奇的なゲームなんて。お友達からのお手紙には、まず先にきちんと目を通しなさい。それからあなたの生活態度について話し合いましょう」
危険信号だ。蓮はいそいそとハーマイオニーからの手紙を開いた。
「・・・まったく緊急事態ではありません、ママ」
「それにしては急ぎの手紙ね?」
「シックネスが服従の呪文にかかってる可能性がある、ってさ。大した根拠はない。服従の呪文にかかりやすいタイプなんじゃないか、って書いてある」
かかりやすいでしょうね、と母が溜息をついた。「ちなみにスクリムジョールはそれに気づかないタイプよ」
「それにしては悠然と構えていらっしゃいますこと」
「まだかかっていないからよ」
「わかるの?」
母は頷いた。
「シックネスがテキパキとリーダーシップを取り始めたら服従の呪文が使われたのでしょう。今はいちいちグズグズグズグズグズグズした動きだから、彼自身の頭で考えて考えて考え抜いて仕事していることになるわ」
なんて嫌な信頼だろう。
「・・・かつての部下への信頼は結構ですが。スクリムジョール、気づかないタイプなの? 優秀な元闇祓いなんだろ?」
「優秀かどうかには、異論もあるでしょうね。ママの個人的な印象では、決して無能な闇祓いではなかった。勘も悪くはなかったし、捜査手法の割に冤罪も少なかったと思っているわ。勇敢でもあった。でも、やっぱり個人的には好きになれるタイプじゃない・・・あなたも昨日気分を害していたようだけれど、あなたの台詞を借りれば、在職中にはママだってしょっちゅう『ムカついて』いたわよ。あなたやばあばほどじゃないけれど、ママも決してプライドの低い性格ではないから、ああいうオジさんの上から目線には反射的に反発したくなる」
「あれムカつくよね」
「ムカつくわ。あれがスクリムジョールの捜査手法なの。自分が支配するフィールドをまず先に展開する。感情に訴えたり、強迫的な態度になったりね。取調べのスタイルというだけなら構わないけれど、それを職場の人相手にもつい使ってしまうの。だからムカつくのよ。まあ、それはママの個人的感想ね。でも、スクリムジョールは決して自分が下手に出るスタイルは取らない人だから、服従的な人間の変化に気づきにくいというのは捜査官としても上司としても欠点だわ。服従にはいろいろな意味がある。芯から尊敬しているから従順である場合。その場をやり過ごすために従順なフリをする場合。スクリムジョールが面倒だから従順なフリをする場合。エトセトラ。一番困るのが、スクリムジョールを騙すために従順を装う場合。肝心なところで足を掬われる羽目になる」
「実際にそういうケースがあったの?」
「あったわ。彼は決して認めなかったけれど。容疑者にもいろいろいる。例えばあなた。あなたの癖だけれど、こう・・・猫の前脚みたいなのよ」
「・・・何がだよ」
チョイチョイ、と拳にした手を動かす母を呆れて見た。
「会話の最初の方では、あなたって、相手に対して真正面から立ち位置を決めないわね。右に左に軽いフットワークで動きながら、こう・・・ちょんちょんって前脚だけで様子を見る。そういう容疑者がたまにいるわ。せせら笑うような態度で尋問官を怒らせたり、素直な態度で反省しているフリをしたり、相手によって態度を使い分けるの。ママの心証としてはその手の容疑者はだいたいクロなのだけれど、尻尾を掴むのが難しい。掴んだと思った尻尾が猫じゃらしだったりするの」
「・・・執行猶予明けの娘をクロとか言うな」
「失礼。とにかくスクリムジョールは何度も猫じゃらしを掴ませられたことがある。でも自分のやり方を変えられない人なの。猫じゃらしを掴まされる時のパターンまでアメリアが指摘したのに、それでも絶対に認めなかったわ。彼は従順なフリの巧妙な容疑者には本当に弱いのよ」
「まさにシックネスってこと?」
母は少し首を傾げた。
「シックネスは確かに従順よ、性質はね。でも処理能力が従順に追いつかない。アメリアやママが1週間以内の仕事を指示する。とても良いお返事をするわ。そして休暇や別件の仕事に集中して、1週間後に確かめると・・・半分も終わっていなかった。どうしてこんなに時間がかかるのか尋ねたら、それはもう心底どうでもいい瑣末な箇所で悩みに悩んでいたそうなの・・・」
遠い目をした母が虚ろな表情になった。
「なんでそんなことで悩むのさ。それだけ重大な問題だと思ったらさっさとママやマダムに質問に行けばいい。ハーマイオニーみたいにさ。休暇だろうとお構い無しにフクロウ飛ばせばいいんだ。わたくしは迷惑だけど」
「・・・『副部長のお手を煩わせる問題かどうか検討しておりました』って真顔で言われたわ」
「検討した結果、お手を煩わせる問題じゃないと判断したってことは、自分で処理できるんだろ? なにサボってんだよ」
「・・・シックネスを甘く見ちゃダメ。月曜に指示して、火曜から次の月曜の朝までずっと副部長のお手を煩わせるかどうか検討し続けるのがシックネスよ」
蓮はあんぐりと口を開けた。
「な、なんでそんなのが法執行部に入省出来たんだ? 法執行部って難関でエリート揃いなんじゃないのか?」
言葉遣いが悪い、と疲れた顔で律儀に指摘した母だったが、蓮の疑問には答えてくれた。
「判断力や思考力を問う試験があれば入省は無理だったでしょう。でも、OWLやNEWTは過去の問題を徹底して繰り返し繰り返し解き続けていれば満点だって不可能じゃないわ。シックネスにはそういう根気だけは有り余るほどあるの。それは彼の美点よ。皮肉じゃなくママはそう思っているわ」
「まさかマダムの事件の後始末にママとキングズリーが走り回ったのって・・・」
「シックネスだけに任せていたら、たぶんまだ毎朝のワイドショーで騒がれていたでしょう。現に魔法事故惨事部に忘却術師の要請もまだ出ていないそうだから。きっとまだ惨事部部長のお手を煩わせるかどうか検討中なのよ・・・」
唖然とした蓮は、ゆっくり頭を振った。
「このシックネスらしさは、なかなか余人が意図して演出出来るものではないわ・・・だから彼はまだ服従の呪文にかけられてはいないと確信出来る」
わかるなあ、とネビルが切なげに天井を見上げた。「そういうことってあるんだよ。こんなことを質問していいものかどうかの判断がつかないうちにいろいろ手遅れになるんだ」
「あなたは手遅れじゃないわよ、ネビル。おばさまが服従の呪文にかかっていないと判断なさっているのはグッドニュースね。ほかの情報がひどすぎるけど。わたしたちの推論は正解だったわよ、ネビル」
わたしたち? とネビルが怪訝な声を発したが、ハーマイオニーの意識にはひっかからなかった。
「部下が服従の呪文にかかっても気づかないのよ、スクリムジョールは。それも要職の執行部長は、服従の呪文にかけられたほうが仕事が捗るタイプ。ぼんやりして従順で、なぜか仕事が捗るようになった・・・最高の部下よね」
「怖過ぎると僕は思うよ。だいたいハーマイオニー、君がスクリムジョールの立場で、僕がシックネスの立場ならさ、僕がある日突然、エリートっぽい仕事ぶりになったらどうするんだい?」
「医務室に連れて行くわ。わたしはあなたを知ってるから・・・ネビル! やっぱりおばあさまは天才だわ。スクリムジョールはシックネスのことなんてろくに知らないのよ! 部下と聞いてわたしたちがイメージするような関係は最初からないんだわ」
本日3度目のフクロウメールを見て、母が「確かにハーマイオニーはハーマイオニーで煮詰まっているようね」と苦笑した。
テラスに出て羊皮紙を受け取り、壁にセットした箱からフクロウフーズを3粒取り出して与えると、精悍な感じのモリフクロウはそれを嘴に咥えて飛び立った。
「なになに? スクリムジョールはシックネス本体の性質を知らないんじゃないか、だってさ、ママ。どうなの?」
「大臣に就任するまで会ったこともないと思うわ。登録係長が彼の希望の昇進先だったから、ママが上司だった間はシックネスに法廷関連の業務は割り振っていないし、ママの前に副部長だったアメリアもそうよ。自分のオフィスでコツコツと書類を作成するのがシックネスの仕事で、それは彼の希望を汲んだものだった」
「副部長になって部長になって、予定外の大出世?」
そうだと思う、と言って母は蓮の手からハーマイオニーの手紙を抜き取り、読んでから小さく笑った。
「可笑しいことなんか書いてあった?」
「いいえ。ネビルを相手に疑問を口に出しながらあれこれ検討するハーマイオニーの姿が目に浮かぶようだと思って」
「あれ困るんだよ・・・考えたきゃひとりで考えればいいのに、絶対誰か相手してやらなきゃいけないんだ。わたくしやハリーなんて何回死体の役をさせられたかわかんない」
「ママも若い頃はそうだったわ。検察の仕事を始めた当初。犯人の発想をトレースするのには、口に出したほうが効果的なの。若い執行部員たちがそうやって事件を検討する場面を見ると微笑ましい」
「話題はちっとも微笑ましくない」
「話題はね。でもその中で同僚の発想の癖を知って、信頼を重ね、法廷に立つようになったら、丁々発止の議論を繰り広げるようになるの。頼もしいじゃない」
「ママは誰を死体役にしたのさ」
「・・・検討会の相手はパパとアメリアが多かったわ。デート中に思いついて我慢出来なくなって、パパの襟首を掴んでホグズミードに姿現し。ホグワーツ城を眺めながら、レイブンクローのダイアデムがどこにあるか考えた。パパはかわいそうに、その間ママの隣でお腹をきゅるきゅる鳴らして空腹に耐えなきゃならなかった」
フォークを咥えた蓮が目を瞬いた。
「失われたダイアデムの行方を調べようと思ったら、まずどこから始めるかしら、と」
「レイブンクローの関係者に聞く」
「例えば?」
「ルーナとマートル」
「ルーナの豊かな想像力は素晴らしいけれど、ちょっと現実離れし過ぎる傾向があるわ。ゼノの娘なら仕方ないわね。マートル・・・彼女はおそらく存命中にダイアデムの話なんて聞いたことがないと思う。ゴーストになってからも・・・彼女が求めているのは常に『レイブンクローのミス・キクチ』だけよ」
それ聞こうと思ってたんだ、と蓮はフォークを置いた。「ママも『レイブンクローのミス・キクチ』だったじゃん。マートルに愛されなかった?」
「あなたほどじゃないけれど、マートルに見つかってからはほぼ毎日一緒にお風呂に入っていたわ」
「そればあばに話さなかったの?」
「話したわよ、もちろん。でもばあばは秘密の部屋のことは教えてくれなかった。ああいうばあばだけれど、心の傷はあるのよ、たぶん。一応娘としては、母親の心の傷を開いて見せろと迫るわけにはいかないから、その後はマートルのことは話さないように努めたわ」
「んまあ! デリカシーがおありですこと!」
「あなたにも同じデリカシーがあると良いわね。ママが楽になる」
「スーザンに言われたんだ。ママに伸び耳を使う時点でデリカシーが新入生男子並みで、わたくしはにぶちんなんだって」
「全面的に同意します。でも、まあ・・・にぶちんなのは、自意識過剰よりはマシ。あなたの場合、もともと人を傷つけることを嫌って、少し遠回しに歩こうとするタイプだから、多少鈍感なぐらいがちょうどいいわ。これで人の感情に敏感だったら歩ける道がなくなる」
「蟻を踏まないってジャスティンが」
母は頷いた。
「良い表現ね。昔からそうよ」
「へ?」
「あなたは女の子にしては言葉の遅い子だったの。理由はいろいろ考えられるけれど、ひと言で言えば周りが多言語過ぎたのよね。一応英語で統一してはいたけれど、うっかり飛び出す言語は日本語だのフランス語だのブルガリア語だのロシア語だの。一番どうしようもなかったのがパーセルタング。このパーセルタングがあなたに与えた影響はとても大きいでしょう。あなたは心という傷つきやすいものの存在を知っていたの。2歳の頃にはすでに自分にもばあばにも蛇にもお話しする心があることを理解していた。でも心と心で会話する相手はごく少数。心があるのに会話出来ないものだから、あなたは注意深く人々の心から距離を置くことにした。傷つきやすい心をうっかり傷つけることのないようにね。ジャスティンが蟻を踏まないと表現したのは、あなたのそういう部分のことだと思う。だからあなたはおそろしく優しい子であると同時にデリカシー不足で鈍感なのよ。人の心を傷つけるのが怖いから距離を置いてきたせいで、細やかな理解は出来ていないの」
それは自分でも自覚している。蓮は小さく頷いた。
「別に傷つけたくないだなんて優しいことを毎日毎日考えて生きてるわけじゃない。でも誰かが傷ついているのは嫌だし、わたくしの責任かもしれないと思うと、もっとずっと嫌だから、あまり見たくない」
「そういう言葉が出るようになったのは素晴らしい進歩ね、蓮。あともう少し頑張ってごらんなさい。パーセルマウスじゃなくても理解し合うために言葉がある。言葉を使いこなせるようになったあなたは最強の娘だとママは期待しているわ」