リドルの孤児院時代を一緒に育った女性の記憶を見た後、柊子が「1度だけ、実習が必要ね」と微笑んだ。
「実習、ですか?」
「そう。リドルの個人史で、死喰い人以外の人物の記憶から構成可能なものはひと通り見てきたわね。ホークラックスがどういった物を媒体にしているかもイメージ出来るようになってきた。周辺やホークラックスに罠が仕掛けられている可能性も頭に入ったはずだわ。残るは、あなたの経験だけよ、ハリー」
ハリーは何度か頷いた。半分武者震いだ。
「さて、今の女性は、リドルと同い年。彼がホグワーツに入学するまでの人生の大半の経験を共有している。彼女の記憶の中から印象的な場所を挙げてみましょう。ホークラックスを隠すに相応しい場所」
「それで、海辺の洞窟を選んだってわけか?」
ロンの言葉にハリーは頷いた。
「視覚者の印象が、とにかく暗かったんだ。子供の頃の記憶だから細部を理解出来てない。だからもちろん僕にもディテールはわからないんだけど、ひどく悪質な、先生にも言えないような経験があったことは感覚的にわかる。朝、孤児院を出発するときにはリドルを小突いていた彼女が、その洞窟以降、決してリドルに近づこうとしなくなった。その洞窟は、海岸伝いに行ける場所じゃない。海からしか侵入出来ないし、オールも握れない小さな手の子供しかいなかったのに、いったいどうやってその洞窟に入ったのか、大人たちは不思議がった。魔法で大人が警戒していない場所まで鬱陶しい孤児たちを連れ出して、ひどく怖がらせたんだと思う。魔法で人を脅して支配することに成功した最初の場所。それも、今では姿現しでさえ行けない結界が張られているらしい」
「海辺ならレンの専門分野じゃないか?」
ハリーは顔をしかめた。
「大事なことを忘れてるよ、ロン。そもそも、リドルはマーメイドじゃない。マーメイドにしか行けない場所ではないはずなんだ。そうだろ? これは実習だ。マーメイドに跳んでもらって解決じゃ、僕のレッスンにならない」
蓮が苦笑して「本格的な探索を始めてからマーメイドが必要なら遠慮なく言ってくれ」と脚を組んだ。
「ああ。でも、基本的に君をホークラックス探索には関わらせたくないな。咳き込み始めると、こっちの寿命が縮む」
「それで、ハリー、まさかあなたひとりで行くわけじゃないでしょうね?」
「レンのばあばとだよ」
蓮は「ふうん」と頬杖をついた。「じゃ、気をつけたほうがいいよ、ハリー」
「え?」
「祖母も闇の魔術にはアレルギーがある。闇祓いをやっていた以上、それなりに対策は取っているだろうけれどね。ホークラックス探索に向いた体質じゃないことは確かだ」
「レッスンだからな。現場での罠の探知や発想の転換を覚える目的を優先してるんだと思う。そう長丁場にならなければ大丈夫だろ」
ハリーの言に、蓮は曖昧に頷いた。
就寝時間が来た、と蓮が階段に向かい、ひとりで階段に立ち向かうイメージを(静かに)固めている時、ハリーはそっと近づいた。
「心配してるのか?」
「少し。ホークラックスはネガティヴな自意識につけ込む性質があると言っていただろう。祖母も、彼女なりに苦しんだ記憶を、あれでも人並みには持っている。その記憶は、誰にも見せたことはないはずだ。ミネルヴァにさえも、自分の母親にさえも。自分でさえ意識しない深いところに封印していると思う。そういう精神力だけは人並み外れている。でも逆に言えば、その封印が解かれた時には塗炭の苦しみだろうと想像できる」
「君には話したんだろう。乗り越えたからじゃないのか? 君のばあばほどの人だ、そんな記憶に負けるなんてことは」
蓮は首を振った。
「話したわけではなく、パーセルマウス同士の家族だから伝わっただけだ。具体的な記憶じゃなくて、感情の色とか、混乱具合とか、心の一部分の凍り具合とか。乗り越えたわけではなく、凍らせて意識しない時間を積み重ね、無視することに慣れていった」
その弱みが刺激されたら使い物にならないどころか君の足手まといになりかねない、と蓮は呟いた。
「そんなことは」
「うん。考え過ぎだとは自分でもわかっている。あれでも闇祓いとして経験を積んだ人だから、君に現場をレクチャーするのに適した人物だとも思う。でもやっぱり身内だから、つい気になってしまうんだ。それだけだよ」
肩を竦めて蓮が表情を和らげた。
「僕は教わってばかりの生徒だから、こんなことを言うのは不遜だと思うけど・・・何かあればばあばを守って帰るよ。約束する」
「そんな約束はしないほうがいい」
「え?」
闇の魔術には本当にいやらしい種類のものがある、と蓮は首を振る。「もうひとりの祖母は呪い破りだからね。多少は聞いたことがある。決してひとりしか生きて出られない石室、仲間の命を捧げなければ開かない扉、同行者を池に沈めて初めて池に浮かび上がる島。そういう場面があることは想定しておくべきだ」
「対策は? 呪い破りのグラニーは何て?」
「普遍的な対策なんてものはない。千差万別、千変万化。ひとつの魔物の首を切ればまた死角に魔物の首が増える。一歩ごとに周囲に杖を向けるほどの慎重さでジリジリ進み、悪質な呪いのギリギリ手前で止まって、数分、数時間、あるいは数年、数十年と解呪に取り組む。それが呪い破りのやり方だ。闇祓いもそれに近い。日本の祖母が君に施しているのは、闇祓い訓練生に課される訓練のエッセンスだ。祖母と現場に行くことは君のためになる。でも、たぶん・・・祖母がひとりで行かないのは・・・ひとりマイナスひとりはゼロだけれど、ふたりマイナスひとりはひとりだからだよ、ハリー。闇祓いと呪い破りは、そういう考え方をする」
背筋に冷たいものを垂らされたように、ハリーはその場に凍りついた。
「何をいまさら迷うのです。確かにウィンストンの言う通り、それはごく基本的な考え方です。何か問題でもありますか? 安全対策でもあるのですから、いたずらに感傷的に受け取るのはおやめなさい」
マクゴナガル先生の部屋を訪ねると、なんでもないことのように言われてしまった。
「そう、なんですか?」
「2人ひと組での行動は闇の魔術を解析する捜査や探索では、大原則です。ひとりで行ってひとりで倒れたら救助を呼ぶことも出来ないではありませんか」
「あ・・・」
「確かにあなたの言う通り、犠牲を出してもひとりが帰ってきさえすれば成果はゼロにはならないという側面もありますが、行き先が水場ですから、柊子を置いてきても死にはしません。聖大致命女アナスタシアですからね」
ハリーは首を傾げた。
「誰ですか?」
「聖大アナスタシア。ローマ貴族の娘でしたが、母親がキリスト教徒だったことからキリスト教に傾倒し、莫大な財産で、投獄されたキリスト教徒の支援を続けていました。それがローマ皇帝に露見して自らも投獄され、溺死刑を宣告されたのですが・・・」
「が?」
「舟に穴を開けても舟が沈まない奇跡を起こして、なぜか生きて帰って来たので、ご丁寧に火刑にされ殉教しました」
いやそういう伝説はいいので、とハリーは頭痛を堪えた。
「迷信もそう馬鹿にしたものではありませんよ、ポッター。魔法は精神に左右される能力です。信じる者は救われるだの、鰯の頭も信心からだの、気の持ちようで事態が好転することはマグルにも知られた話です。魔法使いならなおさらです。信じる者は救われます」
「・・・マクゴナガル先生に言われると、すごく胡散臭いです」
「失敬な。わたくしは牧師の娘ですよ。キリスト教の説話なら得意分野のはずです」
余計に胡散臭くなった。
「レンが心配しているのが気になるんです。今までそんなことはなかったのに」
「あなたはウィンストンを何だと思っているのですか。あれでも一応人の子ですよ。本人は8分の1ほど人間ではありませんが、人間から生まれたことは確かです。これまで超然としていたのは、家族の経験を聞いて育っていたからでしょう。闇祓いと呪い破りに育てられた子ですから、他の学生に比較すると知識がある分だけ、未知への恐怖心を抱く余地がなかったのです。今回の件は、ウィンストンにとっても未知の領域です。それは不安も感じるでしょう」
「パーセルマウスだからじゃ・・・」
「それはあなたも同じです」
ハリーは首を振った。
「僕は、パーセルマウスであることを活用した経験は少ないけど、レンはばあばとパーセルタングで感情を共有しながら育った。何か感じているのかもしれません」
マクゴナガル先生は、眼鏡を押し上げ「だから何だというのです」と淡々と答えた。
「いや・・・だから」
「柊子のネガティヴな自意識には確かに根強いものがあります。敵国で人質として感情豊かな少年期青年期を送った人間ですから当然です。そうしたネガティヴな自意識に乗っ取られるほど甘い人間なら、国連の議長になどならないと思いますがね。自分の故郷を焼け野原にした国でせっせと働くということではありませんか。ネガティヴな感情をねじ伏せて理性で割り切る力は誰よりも強靭です。あなたを害するような錯乱には至りませんから安心なさい」
「そんなことを心配してるんじゃありません!」
「では何が心配なのです」
ハリーは迷いながら、口を開いた。
「僕、やっぱり死ぬのは、怖いです」
「・・・それがどうかしましたか?」
「は、はい?」
「誰にもその感情の持ち合わせはあるものです。死ぬのが怖くないなどと嘯く人間は信用なりません。ただ、わたくしや柊子、ダンブルドア、ウィリアム・・・人生の最終章に入った人間は、その人の器に応じた人生を歩み終えようとしているのですから、恐怖の比率より満足や安堵の比率が高くなっています。単純な話です。わたくしたちが死んでももう失うものは少ない。若者たちの死に比べると、失う未来が極めて少なくなっている。だから死に対して心構えが出来ている。それだけのことですよ。自然の摂理です」
「先生、も?」
ポッター、とマクゴナガル先生は机に肘をついて身を乗り出した。
「リドルを野放しにしたのは、わたくしたちの罪です。しかし、これだけ事態が大きくなってしまうと、わたくしたちがリドルと刺し違えて始末して片が付くわけではありません。あなたがた未来ある若者に頼むしかないことはあまりに多い。その代わり、あなたがたに与えられるものは全て与えます。要所で犠牲が必要なら、わたくしたちが犠牲になるのは、当然のことなのです。いちいち気に病むようなことではありません」
「・・・やっぱりだ。やっぱりそういう意味なんですね」
「そのような感傷的なことでどうするのです。犠牲者はもういくらでも出ています。この50年で死体がいくつ積み上がったと思っているのですか。まして、今回の捜査で犠牲が出ると決まったわけでもない。よくお聞きなさい。闇祓いや呪い破りの捜査や探索の手法は、言葉で説明できるような矮小なものではありません。幅広く深い知識と、鋭敏な感性を持って、魔法の痕跡を辿っていく経験を重ねて少しずつ少しずつ洗練されていくものです。わたくしなら御免蒙りますが、そのような手法を目の当たりに見せてもらえることをまずは素直に受け入れなさい」
膝の上で拳を握り締め、ハリーは無力感と戦った。僕がみんなを守ると言ってしまいたい。僕が命に代えてもみんなを守ると言えたら、どんなに楽だろう。でも到底そんなことは無理だ。何もかも足りていないのだから。
「・・・はい」
「よろしい。今回の候補地は、比較的ローリスクのものを選んでいます」
「え?」
ハリーが顔を上げると、マクゴナガル先生は呆れ顔で「少しは頭を使いなさい」と溜息をついた。「柊子は『実習』と表現したでしょう。ハイリスクから実習先を選ぶ馬鹿はいません」
「・・・すみません」
「もちろんローリスクと言っても、リドルに露見するリスクの問題です。罠や呪いのリスクはその分高くなる想定ですが、むしろそのほうが実習向きだという理由もあります。罠や呪いのリスクが高いということは、知識や経験の浅いあなたの勝手な行動が、安全なルートを危険な地獄に変えてしまう可能性が高いと表現することも出来ます。実にあなた向きの実習地だと思いますよ」
「・・・はい」
「戦場では、新人は上官に絶対服従。良いですね? 『でも』や『だって僕』という無駄な自己主張は絶対に許されません。柊子が逃げろと言ったら振り返らずに命懸けで走ってでも泳いででも、なんなら空を飛んででも逃げなさい。しかし、柊子の言葉の全てを盲信してもなりません」
「先生、なんだか混乱してきました」
「最後までお聞きなさい。理由は、精神錯乱の呪いが存在するケースも少なくないからです。現場に立ち入る前に、完全に理性的な状態で言い渡された注意事項を愚直に守りなさい。同じことをマッド・アイから言われたことはありませんか? 『人が死んでも隊列を崩すな』」
「あ、は、はい。グリモールド・プレイスに初めて行った時に」
「事前に調査した範囲から推定できる危険性に基づいて、完全に理性を保った状態で指示された命令にしがみつきなさい。呪いが飛び交う状況下で、即時的な方針転換を繰り返すことはリスクを高めます。そのことを肝に銘じておきさえすれば、あとは柊子の精神力が問われるだけで済む計算になっています」
「どんな危険が想定されているのですか?」
「一番可能性が高いのは溺死ですね。移動手段に魔法をかけて、解呪しない限り水没するように仕掛けておくだけで済みます。あるいは、海底の植物等に魔法をかけて侵入者として弾いた人物を絡め取る。開心術を応用すれば、自発的に海に飛び込みたくなるような幻想を見せることも可能です。実際にアメリカでは一時死刑に用いられていました。幸福な記憶を映し出す巨大なペンシーヴの上に浮かんで、幸福な幻想に包まれる形で溺死させる手法です。まあ、リドルのすることですから、幸福な幻想でないことだけは確実ですが」
げんなりして、力無く頷いた。
「このぐらいでなんです、だらしない。そんなことでは生きながらにして亡者の仲間入りですよ」
「もう、亡者?」
「あのあたりの海中には、第2次世界大戦の犠牲者の遺体が大量に眠っているはずなのですよ」
「・・・『はず』?」
「墜落したメッサーシャルフやスピットファイアのパイロット、ダンケルクの戦いで沈んだ義勇協力の漁船、漁師とそれに乗っていた兵士たち。Uボートに沈められた軍艦もありますから、万ではきかないはずの遺体があるはずなのに、実際に引き揚げられた報告数がたいへん少ない。マグルは潮流や海底地形の影響だろうと解釈しています。まあ、それはそれで、自然に還ったと考えれば決して悪いことではないかもしれませんが、亡者化の魔法をかけて、某洞窟近海に集めているとしたら、引き揚げられた遺体が少ないことにも説明がついてしまうというのが、非常に、不快な予感をもたらします」
「えーと・・・ローリスクな実習地だから安心しろというお話だった気がするのですが」
「リドルに露見するリスクがハイかローかで言えばローリスクです。自分の身から離して保管するためにせっせと罠や呪いを仕掛けておくのですから、罠や呪いのリスクは当然ハイリスクです。正真正銘のローリスクなホークラックスはもう片付けてあるに決まっているではありませんか」
ソウデスヨネ、とハリーは棒読みで答えた。
「ハリー、起きろ!」
ロンの声に起こされ、もぞもぞと眼鏡をかけてベッドの上に身体を起こした。
「なんだ、ずいぶん・・・まだ夜も明けてないじゃないか」
「マクゴナガルから連絡があったんだ。今日は霧が晴れそうだから、出発時間を夜明けに合わせろって。禁じられた森の上空、梢の上ギリギリのところを迂回してホグズミードまで箒で飛んでけ。朝日と森から立ち上る霧に紛れることが出来る」
「先に顔を洗って支度しなよ。その間に朝食の準備が整うから」
「うーん。いきなりじゃ食欲湧かないからいいよ」
ダメだ、とロンがハリーの肩を掴んだ。「朝食をきちんととって、フェリックス・フェリシスを飲んでいけ」
「大袈裟だな。確かに楽観は良くないけど、そこまでの幸運は必要ない。レンのばあばも一緒なんだし」
「それでもだ、ハリー」
「だからこそだよ、ハリー」
なんだ? と首を傾げながらも、立ち上がって洗面所で顔を洗って戻ると、軽い食事のトレイを捧げもったドビーが深々とお辞儀をした。
「ハリー・ポッターのための特製のお食事です!」
「あ、ああ、ありがとうドビー。君たちはいつもこんなに早いのかい?」
「今日は特別な日ですから! ハハハ、ハリー・ポッターのための!」
「悪いことしちゃったね。厨房に戻って少しでも休んでよ」
トレイを受け取ると、深々とお辞儀をして姿くらましをしたドビーをなんとなく見送り「・・・さて」とロンとネビルを睨んだ。
「説明してくれ。何が始まるんだ?」
「君は君の最重要ミッションのことだけをまず考えろ。説明はそれだけだ」
「ロン!」
「ホークラックス探索は、そう安全なものじゃなさそうだと自分で言ってたじゃないか、ハリー。僕とロンを信じてよ」
「ネビル、君まで」
「ついでにプレッシャーをかけてやろうぜ、ネビル。ハリー、君は未成年の、ホグワーツ卒業もしていない、闇祓いの卵未満の状態だけど、国連のトップを護衛して危険な探索に出かけるわけだ。だよな? レンのばあばだからって、おんぶに抱っこってわけにはいかない。命令には従わなきゃいけないが、無事に連れ帰ってくるまでがミッションだ。違うか?」
うぐ、とハリーは顎を引いた。
「マクゴナガルやマダム・ポンフリー、もっと言うと、うちのばあちゃんの親友でもある。2人とも無事に帰ってきてもらわなきゃ困る。帰って来たら全部わかるよ」
ハリーは黙ってトレイをネビルに押し付け、トランクを漁って古いソックスに包んで保管していたフェリックス・フェリシスの瓶を取り出した。
「じゃあせめてこれは君たちが、重要メンバーに飲ませてくれよ」
「その心配はない。重要メンバーどころか、グリフィンドール、レイブンクロー、ハッフルパフの朝食にはレンとパーバティが調合したフェリックス・フェリシスが隠し味として混入される。それは君が飲むんだ、ハリー」
「それだけ大掛かりなことを僕に隠してたのか!」
君がそうやってすぐに最重要ミッションを忘れるからだ! とロンがハリーの頭に拳骨を落とした。
「とにかく、こっちのことは心配要らない。ダンブルドアもマクゴナガルもレンもいる。お互いに、分担された役割を遂行することをまずは考えよう。ホグズミードではホッグズヘッドが起点と終点だ。ホッグズヘッドのバーテンダーさんからの連絡事項を確認することを忘れないようにね」
ネビルが言いながら、トトトトト、とお茶のカップに明らかに多過ぎる量のフェリックス・フェリシスを注いだ。
「おい、おいおい多い!」
「すぐに飲んじまえ。余計な口答えをするから朝飯食ってる暇がなくなっちまった。朝日が昇る」
ネビルから奪い取った瓶に蓋をして、ハリーはそれをロンに投げた。
「せめて残りはジニーに飲ませてくれ。そのぐらいはいいだろ?」
24時間営業でもしているのか、ホッグズヘッドのドアには鍵がかかっていなかった。というより、山羊が出たり入ったりしていた。
駆け込んだハリーの手からファイアボルトを受け取ってしげしげと眺め「なかなか良く手入れしているわね」と微笑んだ柊子は、いつものスーツ姿ではなく、カーキ色のパンツにウィンドブレーカーの軽装だ。
「お、おはようございます。あの、いったい何があるんですか? 誰も教えてくれなくて」
「ホグワーツに事件を誘導する予定よ。わたくしたちはそのタイミングを利用することで、リスクを減らしてチャレンジするの」
「な・・・!」
落ち着きなさい! と鋭く一喝された。
「・・・は、はい」
「あなたの精神的な動揺が一番学校にいるみんなを危険に晒すことをもっと自覚しなさい」
柊子はそう言って杖の先でハリーの額の傷を小突いた。
「閉心術が苦手なのは仕方ないわ。適性というものはどうしてもあるものだから。でも、閉心術が身に付かなかった時点で、全てを話してもらうことは諦めなければならない。違う?」
ハリーは唇を噛んだ。
「は、い。その通りです」
「あなたの持っている美徳は、それが必要な場面を見極めてから存分に発揮するといいわ。でも、今が果たしてそのタイミングかしら? ホグワーツの護りは手薄? あなたがいなければみんなを守れない?」
ハッとして、顔を上げた。
「あなたをこうして送り出した友人たちは不安に震えていたの?」
「い、いいえ! そうじゃなかった。ちゃんと計画があるから安心しろ、って」
「だったらそうしなさい。あれもこれも自分の手で守ることに固執してはダメ。あなたひとりの世界じゃないのだから。あなたが守りたい世界を、同じように愛して守る友人がいる。それを自分のエネルギーにするのよ。いいわね?」
ハリーが深く頷くと、柊子がその肩に手をかけ「行くわよ」と気負いのない声と共に一気に姿くらましをした。
2人は潮が打ち寄せる断崖の上に立っていた。冷たいくせにべたつく潮風、砕け散る飛沫。どれもこれも就学前の子供たちに相応しい保養地ではない。
「ピクニック先は、そちらの道を下ったところにある小さな漁村よ。砂浜があって、ほんの僅か100メートルほどの沖で急に深くなっているから、桟橋を使えば小型漁船の船着場にもなる。遠泳をしたがる年齢でもない子供たちに浜遊びをさせるには悪くない村よ。まあ・・・そんなレジャーに興味を持たずに、こっち側に来るような子供さえいなければの話だけれど」
ハリーは周りを見回した。
「冒険したくなるような場所でもない・・・あいつは、最初から孤児たちをとっちめる場所を探した?」
柊子は「おそらく」と頷いた。「冒険、悪くない単語だわ。小さな子供は、大人から見ればよくわからないことに魅力を覚えて冒険の旅に出たりするものだわ、確かに。うちの馬鹿孫の冒険ごっこだの考古学者ごっこだのの経験はわたくしにも豊富よ。原生林の中で魔法をぶっ放してクレーターを作ったり、アンモナイトの化石を探しに裏山の大岩を割って転がしたり。娘はもう少しおとなしかったけれど、イギリスに連れて来るとヒースの荒れ地の中をてくてく歩いて『嵐が丘ごっこ』や『ジェーン・エア気分』に浸ろうとする面倒な子だった。でも、ここには子供の夢想を刺激する目印が何もないわ。この場所に好き好んで数時間佇むような子供だったら、わたくしならメンタル・セラピーを考える」
ハリーは頷いた。
「夢想を刺激する目印と言ったら、あの洞窟ぐらい、ですね」
「そうね。慎重派の怜は絶対避けるけれど、蓮なら入り込みかねない。あそこは要注意よ」
「・・・レンが? 何をしに?」
「秘密基地好きな子だったの。確かつい先日も秘密基地を作ろうとして呼吸困難で死にかけたそうね」
「おかげでバジリスクの巣穴は壊滅的打撃を受けました。ヴォルデモートもあそこに秘密基地を作ろうと?」
「どうかしら。最終的には秘密基地的な彼の魔法世界を構築したでしょうけれど、最初にあの洞窟を見つけた遠足で早速孤児たちを恐怖に陥れたわけだから、惹かれたきっかけは秘密基地なんかじゃないわ。大人の目を盗んで、自分の力を誇示するのに最適な立地だからよ」
柊子が目を眇めて「あれがちょうどいいわね」と、洞窟から50メートルほど離れた岬の突端に引っかかっている、ぼろぼろのボートを宙に浮かせた。
「もうぼろぼろだから問題ないでしょう。ハリー、あのボートの末路を確かめてちょうだいね」
そっとボートを海面に下ろすと、あっという間に激しい波によって岩に叩きつけられ、木切れとなってしまった。ハリーは唖然と口を開けた。
「この通りの波の荒さだから、岬の反対側にある漁村から小舟で渡って来ることは出来ないの」
「じゃ、いったいどうやって」
柊子は足元にある子供の頭ほどの大きさの石を両手で拾い上げた。
「孤児院時代に、天井の梁に兎の首を引っ掛けたことがあったわね? つまり、彼は杖無しで浮遊魔法が使えたはずだわ」
柊子の手を離れた石がゆっくりと浮遊して、洞窟の奥へと吸い込まれた。
背筋が粟立つ。こんな恐怖、就学前の子供たちがどれだけ泣き叫んだことだろう。
「さて、最後に自分も入らなくてはいけない。どうしましょう」
「えーと・・・単純な浮遊魔法を使えば、あの洞窟の真上の崖から、比較的安全な岩下りが出来る、かも」
「おそらくそれが正解ね。行きましょう」
さっさとハリーの前に立って、崖の上を歩き出す。
「先生、でも、ロープも何も」
「きっとあると思うわ。なかったらまた考えることにしましょう。現地にない道具を持ち込むのは危険よ。侵入が察知される証拠を残すことになる。リドルが出入りする手段は何かしら存在するはずだから、その痕跡を探すことも必要ね」
洞窟の真上に着くと、柊子はその場に片膝をついてしゃがみ、地面に両手の平を当てて、薄く魔力を広げ始めた。
「・・・あった。ハリー、あなたもやってみて」
「はい」
その隣で同じようにしゃがみ、なかなか慣れないためにデコボコした不恰好な形だが魔力を流し始めると、程なく、異質な魔力の存在に気がついた。
「あ・・・透明にした鎖が」
「わかった? 魔力的痕跡を探ることはとても大事よ。後ろ暗いことに目くらましをかけるのは悪巧みの基本。まずわたくしが降りるわ。あなたは杖無しの浮遊魔法に不慣れだと思うから、わたくしが降りた後、下から浮遊魔法で支える形で降ろす。しばらく待っていてちょうだいね」
ハリーが崖上に這いつくばって見守る中、透明の鎖を伝い、ワークブーツで岩壁を軽く蹴りながら身軽に洞窟入り口まで降りた柊子が杖を取り出してハリーに向けて振った。
「一応鎖を掴んで降りてきてね。浮遊魔法の支えがあるから、落ちる心配はないわ」
こんな魔法の使い方は、ハリーにとって初めての経験だった。派手な音も光もなく、ただ静かに魔力の痕跡だけを辿る。まるで狩をする野生動物のようだ。
はあはあと緊張から息を荒げて岩場に降りたハリーは、掌にべたべたする汗をかいていた。
「ここがリドルの秘密基地の入り口よ。ここから先は、ミネルヴァからの注意通り、絶対にわたくしに従ってちょうだい」
「は、はい」
「それと・・・出来るだけ水際から離れて歩くこと」
「はい。藻に捕まらないように、ですね」
違うわ、と柊子はウィンドブレーカーの袖を捲ってハリーに白い肌を見せた。
思わず息を呑む。
赤い地膨れが広がりつつあった。
「強い闇の魔術が使われていることは間違いない。想定される範囲では、この規模の闇の魔術なら・・・やっぱり亡者を使っているわ」
袖を戻して「アレルギーも使い方次第では便利なものよ」と苦笑した。
「先生・・・身体は大丈夫なんですか? レンみたいに、呼吸器が腫れたり・・・」
「あそこまでひどくはならないから大丈夫。ポピーから薬ももらっているし」
ぽん、とパンツのポケットを叩いた。
「マスクとか」
「ハリー、亡者とは、利用するために亡骸を辱しめられた人々のことよ。病原菌とは違う。わたくしの心配はしなくてもいいから、あなたも記憶に留めておいてちょうだい。全て終わった暁には、彼らに浄化という安楽をもたらさなければならないわ」
ハリーは急に恥ずかしくなって、掠れ声で「はい」と弱々しく返事をするのがやっとだった。
岩壁伝いに洞窟を奥へ奥へと進み、ついに突き当たりまで来てしまった。
柊子は杖明かりを掲げ、鋭い眼差しで妙に平たく滑らかな岩壁の前を、何かを探すように歩き回り、ときおり、微細な割れ目を指で辿ったり、小さな魔法を当てて、検査を続けていた。
マクゴナガル先生が顔をしかめて「闇祓いや呪い破りの技など御免こうむります」と断言するのがハリーの頭にチラつき始めた頃、岩壁に白く発光するアーチが浮かび上がった。
「・・・あった」
「先生! やりましたね!」
柊子に駆け寄ろうとした瞬間に、アーチは消えてしまった。
「あるのは確かだけれど、維持するにはまだ何かが足りないみたいだわ。大方・・・トムの考えることだからどうせ・・・やっぱり」
失望したような、うんざりしたようなへの字口で、柊子がウィンドブレーカーの袖をまた捲り上げた。
「先生?」
「実に幼稚な発想だわ、相も変わらず」
「え?」
杖先で簡単に皮膚を切り裂き、流れてきた血を杖先で掬いながら「通行料を支払えということよ」と柊子は答えた。
「先生、そんな・・・通行料だとしても魔力を登録する効果があるとしたら、侵入したのが先生だと知られて」
「わたくしとあなたのどちらが知られて構わない人間かというと、それは当然わたくしのほうよ、ハリー」
「え?」
「ロウェナ・レイブンクローのダイアデムを持ったままわたくしを殺そうとしたのですもの。ホークラックスの存在にわたくしが気づく可能性は充分に理解していることでしょうからね。それに、魔力登録という効果があると仮定しても、リドルはそれを有効に活用することを知らない。忘れているようね? グリンゴッツの金庫も、いかなる特許契約も持たない根無し草なのよ」
柊子が杖を振ると、滑らかな岩壁に血飛沫が散った。
「・・・悪趣味だこと」
発光するアーチが浮かびあがり、しばらく経っても消えないことを待ってから、柊子はハリーの手首を引っ掴んで、何の感慨もなく、アーチを通り抜けた。
通り抜けたところで、杖先で左腕の傷を塞ぎ、そのまま杖明かりを掲げる。
「やれやれ。わたくしに盛大なミドルネームをつけた父を恨みたくなるわね」
黒々とした湖が広がっていた。
「先生」
「アナスタシアは小舟で湖に進み入り・・・」
杖先を湖の中央に、うっすらと浮かぶ緑色に光る台座のある小島に向けた。
「真ん中で溺死する刑をローマ皇帝から言い渡された」
「・・・先生」
「まあ、わたくしのミドルネームなんて知りもしないはずだから、これは単なるリドルの好みよ」
「僕たちは、泳いで渡るのでしょうか」
柊子は明るく笑った。
「リドルが水泳が得意だとは聞いたことがないわ。それに、さっきも言ったでしょう。水中には彼自身が嫌う仕掛けがある」
「はい、亡者、ですね? でも先生は浄化出来るんですよね?」
「出来るわ。これでもお葬式に呼ばれる家業ですからね。けれど、まだしばらくは彼らに我慢してもらわなくては。リドル自身が取り得る手段をまず探すことが必要ね」
「じゃあ、じゃあ、アクシオ? レンのママはアクシオでホークラックスを見つけた、って聞きました」
「試してごらんなさい」
ハリーは頷き、真っ直ぐに杖を振った。
「アクシオ、ホークラックス!」
5、6メートル先で青白い、人体のようなものが水面から飛び上がり、こちらに向かって飛んできた。
「アエテルヌスエテルヌス」
柊子の冷静な呪文で、それはハリーの眼前でボッと燃え上がり、キラキラ光る粒子となって何処か高いところへと消えていった。
がくがくと膝が震えて、我ながら情けない。早く事を進めたいあまりに、拙劣な魔法を使ってしまった。
「す、すみませんでした。わかったようなことをしてしまって」
「謝ることではないわ。シンプルな手段をいくつか試してみることで、可能性を絞り込む作業は必ず必要よ。今ので、あからさまにホークラックスだけを手に入れる魔法は妨害されることが確認出来たわ。お手柄よ、ハリー」
「で、でも亡者が反応してしまった」
「落ち着いて湖を見てごらんなさい。アクシオぐらいで亡者全員が大騒ぎをする設定ではなさそうね」
言いながら、柊子はまた岩壁を探り始めた。
黒々とした不吉な鏡のように、静まり返った湖面が、先程の衝撃にも関わらず、揺らぎもせずにそこに在った。
「やっぱりこの湖を渡らせたいのよ」
柊子の右手が目に見えない何かをしっかりと掴んだ。
「先生・・・」
それを軽く引くと、ゆらゆらと揺れながら、小舟が湖面に浮かび上がってきた。
「さて、ハリー。アナスタシアの小舟に、ご同乗いただけるかしら? ここから先には、きっとあなたが必要になりそうだわ」