サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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閑話42 アナスタシア2

ひどく小さく頼りない小舟にハリーは息を呑んだ。

 

「これ、2人も乗って、沈みませんか?」

「おそらく。わたくしは沈まないほうに賭ける」

「ひとりしか乗れない魔法とかあるって聞いたことがあります」

「ええ、あるわ。これにもたぶんその種の魔法が使ってあるでしょう。でも大丈夫。わたくしたちのどちらかは数に入らない」

 

ハリーは戸惑って、柊子と自分を見比べた。身長は高いがほっそりした初老の女性だ。

 

「体重は僕のほうが・・・あ、未成年だから? でも、もうじき成人だし」

 

柊子は小さく笑った。

 

「そうではないの。リドルを基準にして考えましょう。リドルはおそらくあそこに何らかの罠を仕掛けているわ。小舟の大きさから察して、その罠はひとりでクリアすることが難しいもののはず。かといって、罠を仕掛けたまま、安心しきってはいない。自分の命を預けたホークラックスを守る罠よ。たまにはチェックしたくなるでしょう。わたくしは『リドルの使ったであろう手段』を探してここまで来たわ。ここまで来ることの出来る魔法使いや魔女なら、自分の使った魔法の痕跡を辿ることの出来る人間。つまり、あそこにはリドル専用の抜け道のない罠が存在する。そうでないと危険過ぎるから。ここまでは理解出来て?」

「・・・はい。はい、わかります。でもそれだと、あいつはひとりでここに来て、ひとりでその罠を切り抜けられる、ということですか?」

 

柊子は満足そうに微笑んだ。

 

「そこが大事なところなの。リドルが自分のホークラックスを確認するには『員数外』の者が必ず必要になるのよ。だから、2人分の体重ぐらいでこの舟は沈まない。ただし、複数人の手練れの闇祓いが組織立って対処に当たるのは絶対に回避したい。よって『員数外』を除いてはひとりしか乗れない。つまりね、ハリー、この舟は、優秀な魔法使いもしくは魔女1名プラス犠牲者1名が定員なの。罠を絶対に引き受ける存在なら乗ることができる」

 

わかりました、とハリーは深呼吸した。「絶対に引き受けます。絶対に耐えてみせます」

 

「ほらほら、先走らないの。罠を引き受けるのは、この場合はわたくしよ」

 

柊子は苦笑してハリーの肩を叩いた。

 

「え? で、でも、命令には絶対服従だと・・・」

「命令は今からよ、ハリー。わたくしに、その罠を切り抜けさせなさい。おだてても騙しても脅しても、何をしても構わないから、わたくしの身にその罠を仕掛けさせること。それがあなたの本日最大の任務よ」

「でも・・・僕が、僕がやります。僕のほうが体力あるし、それに、先生はレンのばあばだし、国連のトップの人だし。僕なら平気ですから」

「命令よ。忘れたの、ハリー」

 

柊子の杖が、緑色に光る台座を示した。

 

「あの小島は、人を狂わせるはずだわ。罠を引き受けると決意したはずの人間が、その意志を忘れ、互いに争うような異常性を剥き出しにするかもしれない。闇の財宝の在処ではよくあることよ」

「だったらなおさらです! 僕なんかより先生のほうが強いんだから、先生が僕に罠を強制してください!」

「年寄りを踏み台にするのがあなたがたの義務です!」

 

ハリーの両肩を指先が食い込むほどに掴んで、柊子が声を荒げた。

 

「わたくしたちを、リドルを野放しにした卑怯者のままにしないで」

「先生・・・」

「いいわね、ハリー。命令よ」

 

ハリーは、ぎゅっと目を閉じて、がくんと頷いた。

 

「それから、わたくしが正気を保てない場合に備えて、覚えておいて。亡者の弱点は炎。光や温かさと対極の存在だから、亡者の反撃が始まったら、あらん限りの大きな炎で自分の周りを囲いなさい。覚えた?」

「は、はい。先生に罠を引き受けさせて、亡者の反撃には炎で身を守る」

 

よろしい、と好戦的に瞳を輝かせて、柊子はハリーに微笑みかけた。

 

 

 

 

 

オールで漕ぐ必要さえなかった。

ハリーと柊子が小舟に乗り込むと、ぎい、と軋んで小島に向かって進み始めたのだ。

 

「せめて漕ぎ手の仕事ぐらいしたかったのに」

 

ハリーが少しでも士気を高めようと口を開くと、柊子は小さく首を振った。

 

「湖を騒がせることは、リドルにとっても危険で恐ろしいことなのでしょう。降りる時にも水に触れないように気をつけなさい」

「湖を騒がせる、つまり亡者が? 亡者を刺激しないようにしていれば良いんですね?」

「最後までというわけにはいかないわね。わたくしたちは、ひとつだけどうしてもリドルと違う行動を取らなければならないから」

「え?」

 

ホークラックスを持ったままあの小島を離れることはリドルが絶対にしない行動よ、と柊子が呟いた。

 

「あ・・・」

「日本に『行きは良い良い帰りは怖い』という言い回しがあるの。本当にそうよ。たいていの冒険は帰り道のほうが危険だわ」

「先生・・・亡者とは具体的にどういう危険が?」

「一般論的な説明だとそれはもう様々よ。降霊術により、遺体を術者の意図に沿って働かせるのだから、術者次第で脅威の種類や度合いは変わるわ。例えばグリンデルバルドは、亡者の軍隊を作ろうとしていた。兵站や補給を考慮する必要のない強靭な兵士の集団。戦禍が広がれば広がるほど拡大していく軍隊。こと今回に限って言えば、ある程度予測可能ではないかしら?」

「・・・溺死、湖に引きずり込まれる?」

「おそらくそうでしょうね。だから、小島に上がった後は、脱出する時以外では水際から離れていなさい。危険を冒すのは必要な時だけにしておくの」

「つまり・・・えーと。先生が、万が一混乱して水に入ろうとしたら、僕がそれを止めることは命令の範囲ですよね?」

 

もちろん、と柊子は笑った。「誤解しないで欲しいのだけれど、死なせて欲しいわけではなくてよ。まだ果たすべき役割もあるし、その体力気力もあるわ。ただ、わたくしたちの世代の人間の責任はきちんと背負わせて欲しいだけ」

 

「責任なんて」

「誰がどのように弁護してくれても消せない責任があるわ。さあ、着くわよ。水に触れないようにね」

 

 

 

 

 

石の台座の上に据えられた水盆の中に、ロケットはあった。エメラルドグリーンの液体に浸された水盆の底に沈んでいる。

 

「ロケット・・・サラザール・スリザリンの遺物ですね」

「その可能性は高いわ」

 

ハリーの言葉にほとんど無意識に返事を返して、柊子は小さく呪文を呟いたり、微かに杖先を振って液体に魔法をかけてみたり、水盆や台座を検分したり、慎重な調査を続けた。

 

「と、いうことは」

 

呟いて、袖を捲るのを見てハリーは慌ててその腕に飛びついた。

 

「触ったら何があるか・・・!」

「おそらく触れないとは思うから、ハリー、手を離しなさい」

「先生・・・」

 

柊子の手はエメラルドグリーンの液体に触れないギリギリのところでピタリと止まった。

 

「手を突っ込んで取り出すというシンプルな方法は使えない。魔法で液体を消すことも移動させることも出来ない。困ったわね、ハリー」

「えーと・・・水盤を破壊する?」

「うちの馬鹿孫ならやりかねないけれど、リドルのやり方ではないわ。彼は、このロケットの存在をたまには確認したいはずなのだから。仕掛けに不可逆的損傷を与えないやり方があるはず。触れられないならば、手で汲み出すことももちろん出来ない。どうしましょう?」

 

ハリーは深呼吸した。

 

「道具、道具が必要なはずです」

「そうよね。底の抜けた柄杓みたいないやらしい道具がありそうなものだわ。でも見当たらない。ならば」

 

杖を振って、空中にゴブレットを取り出した。

 

「自分で容器を出すことが許された・・・だから汲み出して捨てることは」

 

ゴブレットを慎重に液体に漬けて汲み出し、傾けると、液体は地面に落ちることなく、水盤に浮遊して戻った。

 

「出来ない。つまり、正解は、これを飲むことよ」

「先生! 毒かもしれないんですよ!」

 

柊子は場違いに婉然と微笑んだ。

 

「苦しめられはするでしょうけれど、即死の毒ではないことに10万ガリオン」

「先生、ヴォルデモートのすることです」

「そうよ、ハリー。トムの考えそうな保身がここに満ちている。トムの見回りの際には、彼は自分の代わりに誰かにこれを飲ませる必要があるの。飲み干すまでは死なせるわけにはいかない。つまり即死はあり得ない。もうひとつ。飲み干しても死なないことに10万ガリオン」

「先生・・・ヴォルデモートなんですよ」

「臆病者のトムは、誰がなぜここに来て、苦しみに耐えてまでこのロケットを求めたか、知らなければ怖くてたまらない。これを飲ませてあっさり死なせるような危険な真似は絶対に出来ない。なぜなら・・・他にもホークラックスのことを知っている者が何人いてそれが誰なのか。なぜその人物はこの場所にたどり着いたのか。他のホークラックスは無事なのか。確かめないことには怖くて眠れないでしょうから。よって、この液体は、苦しみを与えはするけれど、殺しはしないものでなければならない」

 

ハリーは泣きそうになった。

 

「でも、もし毒だったら」

「わたくしが想定した以上の愚か者だったというだけのことね。せいぜいわたくしの屍を見て死の恐怖に慄けばいいわ。ハリー、命令は忘れていないわね?」

 

こくこくと頷いた。

 

「もちろんわかっていると思うけれど、わたくしはこれを飲めば苦しむはずよ。錯乱するかもしれない。それでも必ずわたくしに飲ませ続けなさい」

「はい先生。でもせめて交代で」

「トムの描いたルールに違反したら、亡者が襲いかかってくる。いいこと? あなたはトムよ。トムは絶対に自分では飲まない。絶対的な支配者として、同行者の苦しみに無頓着にさあ飲めさあ飲めと強要を続けるの。それがここのルール。ロケットをその手に掴むまでは、絶対にルールに違反してはいけない。それが結果的に最も安全な方法なの」

「先生・・・やっぱり僕が。死なないのなら僕が」

 

柊子は厳しい表情でハリーを見つめた。

 

「今頃ホグワーツでは戦闘が始まっているわ」

「・・・え?」

「蓮たちが生徒の安全確保の為に動いているはずだし、わたくしたちと入れ違いにホグズミードに入った騎士団もいる。でも100%の安全は保証出来ない。早く助けに向かいたいでしょう?」

 

ハリーの頭は真っ白になった。

 

「どうなの、ハリー。押し問答を続けるつもりなら付き合うわよ? わたくしにこれをさっさと飲ませて、あなたは体力を温存した状態でホグワーツに戻るべきではないかしら」

「先生・・・そんな、そんなことって」

「あなたではなくわたくしが飲むべき理由は、いくつもある。全部説明しなければいけないのかしら?」

「でも・・・」

「わたくしは馬齢を重ねている分だけ、あなたよりは精神力に自信がある。あなたが3杯で錯乱するならわたくしは5杯は普通に飲んでみせる。さらに3杯であなたはもう自分を一瞬たりとも取り戻すことが出来ず、のたうち回り、水に飛び込み、亡者を目覚めさせ、わたくしがそれを収めながらあなたに飲ませ続けることになると仮定すれば、わたくしが完全に錯乱して同じ行動を取り始めるまでにさらに10杯は飲むことができる。さあ、わたくしとあなた、どちらがこれを飲むべき人間かしら? どちらが早く学校に向かう手段かしら?」

 

座り込んでしまったハリーの前で、柊子はゴブレットに液体を満たして、それをひと息にあおった。

 

「・・・悪趣味な飲み物であることは確かね」

 

先に飲まれてしまったら、もうこれを続けるしかないのだ。ハリーは暗澹たる気分で、柊子を見守った。

 

 

 

 

 

異変が起きたのは8杯目を飲み干した直後のことだった。

 

水盤の前に気丈に立って飲み続けていた柊子が空になったゴブレットを取り落とし、ついに膝をついた。

 

「先生!」

「・・・飲ませ、なさい」

「先生、少し休んでから」

「飲ませて!」

「はい、はいもちろんです。でも」

「急いでいるの! 怜と蓮が・・・急いで」

 

ハリーは飛び上がるようにしてゴブレットで液体を汲み上げた。

 

「先生、飲んでください!」

 

口元にゴブレットを近づけると、初めて見る険しい眉間のまま、ハリーが傾けるままに飲み干し、その場に転がって身体を丸めた。

 

「先生!」

「やめて・・・やめ・・・ダメ! 急いで!」

「い、急ぎます!」

 

額に脂汗を浮かべ、頭を抱えて口の中で小さく怜と蓮の名前を呟いている。

 

ハリーはいつのまにか頬に流れていた涙を拭った。

 

「先生、あと少し、あと3杯ぐらいで終わりそうです」

 

しかし、ついに柊子が顔を背け始めた。

 

「先生! 助けに行きましょう! この仕事を終わらせて、すぐにホッグズヘッドに戻りましょう!」

「やめ・・・飲む、飲むから」

「そうです。飲んで。みんなを助けに行くんです」

 

ハリーが水盤に屈んでゴブレットに液体を掬っていると「ミネルヴァ」という呟きが聞こえた。

 

「先生?」

 

ふらりと立ち上がり、よろめきながら歩き出す。ハリーは顔色を変えて背後から羽交い締めにした。

 

「止めないで。死んだの・・・マートルが」

「大丈夫です。マートルなら学校でちゃんと待ってますから」

 

後ろに引きずりながら、ハリーはひたすら「マートルに会いに戻りましょう」と繰り返した。

 

「いないわ・・・マートル・・・わたくしのせいで」

「います! いますよ! ちゃんと先生を待ってます! 3階のトイレになんか行かないでレイブンクローでうまくやってるんです! さあ、飲んでください!」

「いや・・・嫌いよこんな国・・・帰りたい」

「帰れます! この仕事が終わったら帰れますから!」

「全部・・・東京『が全部燃えた・・・のに、戦勝パレード、の、警備・・・』」

「そうですね! 東京に帰れます! これを飲んでしまえば」

「『帰る屋敷もない、なにもかもわたくしのせい』」

「綺麗なところだと聞いています。これを飲んでレンと一緒に東京に帰りましょう」

「蓮・・・『あんな目に遭わせて』・・・死なせて」

 

大丈夫です! とハリーは柊子を片腕で拘束したまま、ゴブレットを掴んだ手を後ろに回し、水盤の底を擦りながら液体を掬い取った。

 

「これで最後です。先生、本当ですから」

 

 

 

 

 

虚ろな瞳のままピクリとも動かず倒れ伏した柊子の唇が動いた。「み、ず」

 

咄嗟にゴブレットを掴んで水辺に向かってまろぶように立ち上がりかけたハリーは、さっきまでの必死な興奮を一気に冷やすようなゾッとする悪寒に襲われて、その場に膝をついた。

 

「・・・罠だ・・・罠だ! アグアメンティ! アグアメンティ!」

 

水辺に汲みに行くのをすんでのところでとどまり、杖でゴブレットを叩くように呪文を唱えるが、ゴブレットに水は一滴たりとも湧き出さない。

 

ハリーは唇を噛んで、ゴブレットを放り出し、水盤に残ったロケットを引っ掴んでジーンズのポケットに突っ込んだ。

 

横たわる柊子の脇に滑り込み、腕を掴んで肩に担ぐようにして立ち上がる。

 

「先生、帰りましょう。やりました。ロケットを手に入れましたよ。舟に乗ります。僕がちゃんと乗せますから」

 

そのまま、引きずるようにして小舟をつけた岸に向かってゆっくりと下っていく。

 

もう少し、もう少しだ。あと5歩、4、3歩。

 

柊子の身体を小舟に乗せてしまうと、気が急くままに小舟を押し出しながら自分も飛び乗ろうとしたとき、ぬるっとした何かに足首を掴まれた。

 

「しまっ・・・!」

 

最後の最後で、爪先が水を蹴ってしまったことに気づいたハリーは、小舟の縁に左腕でしがみついたまま、闇雲に杖を振った。

 

「ペトリフィカス・トタルス! インカーセラス! ステューピファイ!」

 

攻撃呪文が通らないわけではない。しかし、次から次へと亡者は現れてくる。黒い湖がうねって、水底から一斉に亡者が目覚めてくるのがわかった。

 

「・・・フラーマ・マキシマ」

 

ゴウっとハリーの飛び跳ねた黒髪を掠めて、柊子の杖先から業火が放たれた。

 

「せ、先生・・・」

「乗って。今の、うちに」

「はい!」

 

身体を起こす体力はまだ戻っていないのか、小舟の中に伏せて、柊子が魔法の火炎で舟を覆うと、来た時と同じように湖面を滑り出した。

 

「先生、すみません。僕、パニックになって、炎のことを忘れてました」

「それはそれ。とても良い、仕事ぶり、だったわ。あなた抜きでは、とうてい、無理だったでしょう」

「先生、水は、我慢出来ますか? ゴブレット、捨ててしまって」

 

良い判断よ、と掠れた声で柊子が呟いた時、小舟は岸に到着した。

 

ハリーが先に降りて、柊子の身体を転がすように岸に引き上げると、大きく息をついた柊子が「罠に気づいて、水を飲ませず連れ出してくれた、のね。素晴らしいわ、ハリー」と、律儀に褒めてくれた。

 

 

 

 

 

ホッグズヘッドの薄汚れた床に転がるように姿現しをした一瞬、気を失いかけていたのか、山羊の顔を至近距離で見てハリーは飛び上がった。

 

「ようやりました! たいした若者です!」

 

突然の大音声に弾かれて振り返ると、グリフィンドールではあまりに有名な「ばあちゃん」が立っていた。

 

「声が、大きい・・・オーガスタ、箒を」

「あなたの出番はもう終わり! ハリー・ポッター、あなたはお行きなさい。孫たちの加勢に行って足手まといにならぬよう、わたくしはこの足手まといの見張りを務めますのでね。アブ、気付けの強い酒をお願いしますよ!」

「ポッター!」

 

カウンターからバーテンダーがハリーを呼んだ。

 

「は、はい!」

 

栓抜きで透明なボトルの栓を抜くと「炭酸水だ。飛びながらでいい。飲んでおけ」と渡された。「死喰い人の団体様は必要の部屋からぞろぞろ出て来とる。騎士団は天文塔から城内に入ることになっているそうだ。用心して行け」

 

「はい!」

 

ハリーはホッグズヘッドのドアを出るや否やファイアボルトに飛び乗り、一直線にホグワーツを目指した。

 

おぞましいモースモードルが時計塔に見えるが、ハリーは無理矢理箒を天文塔に向けた。

 

「ハリー!」

 

ロンとネビルの声に向かって飛び、天文塔に降り立つと螺旋階段に走った。

 

「ロン! ネビル! どうなってる?!」

「生徒は基本、各寮だ。DAの奴らは出てきちまってるのもいる」

「レンは?! ハーマイオニーは?!」

「レンは時計塔に向かった! 狂犬ベラがモースモードルを打ち上げやがったんだ! ハーマイオニーは・・・医務室だ!」

「やられたのか?!」

 

ビルがな! とロンが怒鳴った。

 

ハリーは思わず足を止めた。

 

「・・・ビルが?」

「グレイバックに噛まれた・・・」

 

その時だった。

 

螺旋階段途中の割れた窓から「アバダケダブラ!」という呪文が飛び込んで来た。

反射的にそちらを振り向いたハリーの視界に、時計塔から落ちていく白く長い髪と髭が見えて、言葉にならない叫びが自分の口からとめどなく溢れるのがわかった。

 

「アレスト・モメンタム!」

 

蓮の声に、ハリーは我に返った。

 

「逃すか!」

 

ハリー、ロン、ネビルはそのまま時計塔に向かって必死に走った。

 

誰だ、誰だ誰だ誰だ誰だ誰がダンブルドアを殺した。

 

 

 

 

 

時計塔に駆け込んだ時には、ベラトリクス・レストレンジが塔の下に向かって歯を剥き出して唸っていた。

 

「おどき! ダンビィを踊らせてやる!」

「校長の身体への冒涜は許さない!」

 

蓮の声が下から響く。

 

「死ねベラトリクス!」

 

そう叫んだハリーの身体は羽交い締めにされた。

 

「シリウス! 放して!」

「ならん! ロン、ネビル。君たちもだ。残党をとにかくホグワーツから追い出せ。いいな? 復讐は最後まで取っておく甘いデザートだぞ」

 

舌打ちしたベラトリクスはそのまま、箒も使わずに空を飛んで逃げ出した。

 

ハリーが手すりに飛びつき下を確かめると、ダンブルドアの身体だけがそこに横たわっていた。

 

「レン! レンは?!」

 

リーマスが「なんということだ・・・」と呟いて、左手で顔を覆った。

 

「シリウス! リーマス! レンがたったいま下にいたのに!」

「・・・ああ。ダンブルドアは・・・去ってしまった」

「レンは?!」

「ハリー、ダンブルドアの死が確定した。たったいま、レンが姿くらましをしたのだ。おそらく・・・ベラが逃げたので、スネイプを追ったのだろう」

「校長が不在となれば、その守護が消える。レンがこの敷地内で姿くらましをしたということは、ダンブルドアの守護がホグワーツから完全に失われたということだ」

 

 

 

 

 

逃げられた、と掠れた声で呟いた蓮が医務室に入ってきた。ハーマイオニーがその蓮をハグして背中を撫でた。

 

「ビルは?」

「さっき、少し意識を取り戻したわ。今日は満月じゃないから、人狼化のほうはまだはっきりとは・・・」

「そうか・・・」

「あなたの、日本のおばあさまも、さっき運ばれていらしたわ。衰弱していらっしゃるけれど、無事よ」

 

蓮がハーマイオニーの肩越しにハリーを見て、頷いた。

 

「ハリー、おかえり。無事に帰ってくれて嬉しい」

 

ハーマイオニーをしがみつかせたまま伸ばされた右手をしっかりと握った。

 

「ああ。へっぽこ隊員だったけど、任務終了だ」

「そうか。ジニーについていてやって欲しい。それとハーマイオニー、フラーの手が空いたら」

「今言ってくださーい。わたーしが、アズバンドとのケコンをあきらーめるべーきだと?」

 

刺々しい表情でフラーがベッドサイドから立ち上がった。いきなり敵意を向けられた蓮がぽかんとする。

 

「え? フラーが? フラーがビルを諦める必要があるの?」

「・・・ビルの、心身に影響がどう出るかまだわからないから、結婚は延期したらどうかっていう案がちょっとあって」

 

ダメだよ、とあっさりと蓮が言った。「むしろ招待客を見直してでも、式を早めるように勧める。世の中が致命的に変わってしまう前に」

 

「レン、あなた、あなたはまだ若いから」

「モリーおばさま」

 

蓮は飛びついてきたモリーおばさんを抱き締めた。

 

「フラーのことを心配してくださってありがとうございます。でも、わたくしの再従姉は、せっかく見つけたハンサムな婚約者が人狼に噛まれたぐらいのことで結婚を考え直すほど合理的な人間ではありません。デラクールの魔女の愛情は、人狼ウィルスより強靭です。ハンサムな魔法使いにちょっと人狼ウィルスが混ざっても問題はまったくありません。デラクールの魔女にはもっといろんな何かが混ざっていますから」

「でも、レン・・・」

「わたくしの再従姉の強靭な愛に、わたくしは自信があるのですけれど、モリーおばさま、ビルにはデラクールの魔女の強靭な愛は御入用ではありませんか? 世界にまたといない愛情に満ちた魔女です。今なら貝殻の家もついてきます」

 

そうよ! と、ハリーの背後でなぜかトンクスが叫んで、リーマスの胸に飛び込んだ。

 

「わたしだって、アンドロメダ・トンクスの娘なの! 障害があると言われれば言われるほど、強靭なメンタルを発揮するんだから!」

「いや、だから、ドーラ」

 

ハリーは「リーマス、もう諦めたほうがいい」と苦笑した。

 

「ハリー、無責任な」

「義理だけど、再従姉の執念深さについては、僕もレンと同じ意見だな。僕のためにアズカバンを脱獄してくるようなブラック家の血を引く魔女なんだ。それに・・・世界に愛がちょっぴり増えれば、ダンブルドアは歌い出すほど喜んでくれる」

 

間違いない、とロンがハリーの肩に腕を回した。「『そーれ、わっしょい、こらしょい、どっこらしょい』ってなもんさ」

 

 

 

 

 

柊子のベッドサイドに、怜と並んで座ると、柊子がうっすらと瞼を開けた。

 

「ハリー?」

「はい、先生。ハリーです、こっちです」

 

柊子は天井を見上げたまま、唇だけで小さく笑った。

 

「まだ視力があまり回復していないの。でも・・・ハリー、責任を感じる必要は、ないわ。わかっていた、から」

「わかっ・・・偽物だと?」

「ホークラックスを持ったあなたに、洞窟の復路を担ぐように密着して歩いてもらって平気なはずが、ない」

 

途端に全身の力が抜けた。

 

「あんなに、苦しめたのに、偽物だったなんて」

「その偽物について聞かせて」

 

ハリーはロケットを開いて、R.A.Bからのメッセージを読み上げた。

 

柊子は「素晴らしい」と呟いた。

 

「え?」

「そのメッセージは、とても重大な事実を示す証拠よ」

「どこが? 誰かが先に盗んだ、それしかわかりません。振り出しに戻ってしまいました」

「手掛かりはR.A.B。闇の帝王という呼称を用いているから、死喰い人だった人物。死喰い人だった人物の中からR.A.Bを探す。そんなことより・・・トムは、R.A.Bをひどく失望させた。それが大事なの。R.A.Bはトムの身近、いわゆる側近に近かったはず。何らかの形でホークラックスの存在を知った彼は、トムへの強い失望のあまり、死を覚悟して、ロケットを盗み出したの。いつのことかはわからないけれど、そこまでの裏切りに、トムはまだ気づいていない。トムの足場が、本人の認識に反して、とても脆いことが確かめられた。重大な一歩だったわ」

 

ハリーは緩く頭を振った。

 

「もう、戻っておやすみなさい、ハリー」

「はい。でもおばさん、レンは」

「ミネルヴァおばさまと一緒に校長室にいるわよ。合言葉は、ダンブルドアの名前」

 

 

 

 

 

「アルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア」

 

ハリーが呟くと、ガーゴイルが翼を広げて道を開いた。

 

「レン」

「・・・そう気を落とすことじゃない。偽物なりに得られるものは必ずある」

「君も気づいていたんだな・・・それより、本当にスネイプがやったのか?」

 

蓮は頷いた。

 

「それは、スネイプがダンブルドアを裏切ったということだな?」

「その種の推測はしない。事実は、こうだ。マルフォイはわたくしの指示通り、ベラトリクスをはじめとする死喰い人の一団を連れて時計塔にダンブルドアを追い詰めた。ベラトリクスの前でダンブルドアを罵り、磔の呪文をかけて苦しめた。ベラトリクスが焦れて、殺せ殺せと叫んでいたら、スネイプが来て、マルフォイから杖を奪った。ダンブルドアは、スネイプに『頼む』と言った。スネイプは、死の呪文を撃ち、そのままマルフォイを連れて逃げ出した。わたくしはダンブルドアの身体が傷つかないように、時計塔から転落する瞬間にアレスト・モメンタムをかけて、ゆっくり下に下ろし、ベラトリクスが遺体をオモチャにしないようにしばらく側にいた。ベラトリクスが空を飛んで逃げたから・・・スネイプとマルフォイを追うために姿現しをした」

「マルフォイはいいとして、そこまでやっておきながらスネイプを逃したのか?」

「逃したよ」

「なんでだよ!」

 

蓮は校長室の中央に立って、肖像画を見回して頼んだ。

 

「ハリー・ポッターに、御説明をお願いします」

 

幾人もの肖像画、つまりかつての校長が「それがアルバスの望みだからじゃ」と口々にハリーに告げた。

 

「レン、君・・・君はスネイプを信じる気か?」

「わたくしはもともとスネイプに対する仲間意識は持っていない。敵か味方かについて考える気もない。だから信じるはずがない。しかし、ダンブルドアが救った命だという事実は知っている」

「え?」

「君とネビルを示す予言をトムに密告したのは、スネイプだ。スネイプが『それを悔いてダンブルドア側に情報を流してきた』から、あいつはアズカバンに行かずに済んだ」

 

ハリーは呆然と蓮を見つめた。

 

「スネイプは、ダンブルドアに莫大な借りがあるんだ。命の負債だ。命の負債は命でしか返せない。今日、命の負債はさらに2倍に跳ね上がった。ホグワーツ校長に対して命の負債2倍を抱えた人間がトムの側近になるのは、実にわたくしにとって好都合なことだ」

「レン・・・君は」

「ハリー、スネイプには必ず命の負債が襲って来る。あいつが誰の味方であるかに関わらず。必ず命を落とすことになる」

「なんで言い切れるんだ!」

「ダンブルドアの杖の新しい持ち主だからだ!」

 

あ、とハリーはよろけてソファに崩れ落ちた。

 

「ニワトコの杖を奪うために、トムがスネイプを殺す。それがいつになるかは、トムがどの程度賢いかによるけれど、いつまでも生かしておいてはもらえない。絶対に。そして、その殺害までの間、スネイプはホグワーツのために働くことになる。いや、もしかしたら、死んでからさえも」

「死んでから、も?」

「エバラード」

 

蓮がひとりの肖像画に声を掛けた。

 

「アルバスは、セブルス・スネイプを次の校長に就任させるべく儂たちに依頼しておる。我々、ホグワーツの歴代校長は、死後に現役の校長に仕えることを破れぬ誓いにて誓わねば校長に就任できぬのじゃ。ドローレス・アンブリッジはそのことに無知なままじゃったがの。セブルス・スネイプにはそのことを言い含めてある。セブルス・スネイプが校長になろうとするか否か、それはわからぬ。しかし、仮に校長になるならば、儂らはそれを認めよう。永遠にホグワーツのために働かせるべく」

 

いつも言っているだろう、と蓮が冷笑を浮かべた。「ホグワーツ城は、魔法族の最後にして最大の砦だ。歴代校長の悪知恵の詰まった、巨大な罠なんだよ、ハリー。スネイプがどちらの味方かなんてことは、もうどうでもいいんだ。あいつは絶対に死ぬしかない罠に嵌った。自分から進んで嵌ったのか、ダンブルドアが嵌めたのか、それは関係ない。スネイプの命運は決した」

 

「・・・あなたたちにとって・・・ダンブルドアは、いったい何だったのですか?」

 

ハリーが肖像画を見回して問うと、優しい言葉が慈雨のように降り注いだ。

 

「近代で最も偉大なる王であった」

「粋な人、という表現なら良かろう」

「彼に仕えることは、わたくしの幸福でしたよ」

「ちっとばかり頑固じゃったがのう」

「しかし頭そのものは柔らかく出来ていたわ」

 

ハリー、と蓮が声を掛けた。

 

「うん」

「わたくしたちがやっていることは、ダンブルドアの最後の悪巧みだ。やり遂げよう」

「ああ。ああ、そうだな。このとんでもない城は、君の遊び場にまさにぴったりだ。いつか絶対に破れぬ誓いを立てて、この城と固結びで結ばれてしまえよ」


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