サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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秘密の部屋編
閑話2 マートルの記憶


「来い! この悪魔の娘!」

 

優しかったパパはもういない。

マートルには、なぜそんな風にパパが変わってしまったのかわからない。

 

オックスフォードの教授であるパパにとって、マートルは自慢の娘だったはずなのに。

 

「マートルに取り憑いた悪魔め! マートルの体を返すんだ!」

 

裏庭でマートルは何度も何度も井戸水をかけられる。ママが車を洗う固いブラシでマートルを擦る。

 

全ては悪魔を追い出すためだそうだ。

 

マートルは必死で勉強した。どんな女子校にだって行けるぐらいに必死で。ヒースフィールドへの入学が確実なレベルの成績は取っている。

マートルのパパは貴族ではないけれど、オックスフォードの教授だからヒースフィールドにだって成績がクリア出来ていれば入学できると言われてからは、マートルはパパの期待に応えようと必死だった。

 

なのに、パパとママが変わってしまった。

 

マートルは自分のどこに悪魔が憑いているのかわからない。

肌が赤く擦りむけるほどにブラシで擦られて、悪魔を祓うためだと塩を擦り込まれても、マートル自身はちっとも変わった気がしない。

体中がいつもヒリヒリと痛いだけだ。

 

 

 

 

レイブンクロー寮の部屋のベッドで目を覚ました。

 

同室の子はまだよく眠っている。

 

あんな夢を見たあとは、もう眠れそうにないから、マートルはそっと裸足で部屋を抜け出した。

談話室の暖炉の火を掻き熾すと、その前で膝を抱えた。

 

マートルは結局、ヒースフィールドには行けなかった。

悪魔の娘だからだろう。

お金を与えられ、ロンドンの汚いパブの前で「お前の学校の支度をその金で済ませろ」と言われた。

両親とはそれきり会っていない。

 

汚いパブの中には、やはり汚いお婆さんがいて、お前は魔女だ、と言われた。

魔女の行く学校に行くのだと。

 

お婆さんは「スクイブ」と言って魔女の仲間だけれど魔女ではないらしい。

7年間お前さんの後見人になればホグワーツから金が貰えて、ろくでもない「マグル」の家のメイドなどしなくても生きていけるのさ、と聞かされた。

 

スクイブのお婆さんに連れられてマートルは制服のローブや杖を誂えた。

どれもこれも、ヒースフィールドとは違い過ぎて、涙が出てきた。

 

ホグワーツに来てからも、マートルはよく泣いた。

 

両親からは悪魔の娘と詰られ、ホグワーツでは穢れた血と呼ばれた。

 

マートルの居場所は、トイレだけだった。

3階の女子トイレには、奇妙な伝説があって、誰も近づかないから、ちょうど良かった。

マートルは、そのトイレの洗面台で何度も何度も手を洗った。自分に憑いている悪魔が、いつか出て行くのではないかと期待して。

 

「マートル?」

 

こんな夜遅くに外から帰ってきたのか、5年の監督生のミス・キクチがマフラーを巻いたまま、談話室に入ってきた。

 

不思議な人だ。きっとヒースフィールドにはこんな女子生徒がたくさんいるに違いないと思えるほど、優雅で気品がある。噂によれば、本当に日本の貴族の娘だそうだ。

 

なのに、陸軍払い下げの兵士の細身のズボンを履いて、太腿には杖のホルダーを装着しているのが、いつものスタイルだ。脚が長くて、アジア人とは思えないほど背が高いから、まるで男の子のように素敵だ。

 

レイブンクローの中でミス・キクチだけは、絶対にマートルを「穢れた血」とは呼ばない。理由は「わたくしは本当の穢れを知っているから」だという。

 

「寒くて目が覚めたの?」

 

マートルはうまく声を出せなくて首を振った。

ははぁん、とミス・キクチがマフラーをマートルの首に巻いてくれた。

 

「嫌な夢を見たときにはね、マートル。手を洗うのじゃなくて、チョコレートを食べるといいのよ」

 

そう言って、陸軍払い下げのズボンのポケットからリンツのチョコを出してくれた。

 

「・・・ミミ、ミ、ミス・キクチ」

「なあに?」

 

マートルの隣に腰を下ろし、長い脚を濃紺のカーペットの上に伸ばして片方ずつブーツを脱いでいるミス・キクチに勇気を出して話しかけた。

リンツのおかげだろうか。

 

「ひ、ヒースフィールドに、行かなかったのは、なぜ?」

 

質問の最後は消え入りそうな声になった。

けれど、ミス・キクチはマートルの髪をそっと撫でてくれた。

 

「マートル、わたくしは魔女だからよ」

「い、いいい、井戸で体を洗っても?」

 

不躾な質問だったからだろうか、ミス・キクチはマートルを見て、少し目を瞠った。「井戸?」

 

「い、いいい、井戸で体を洗って悪魔を、おお、お、追い出せば、ミ、ミス・キクチなら、ひ、ひひひ、ヒースフィールド、に」

 

マートル、と呟いてミス・キクチは「あなたにもわたくしにも、悪魔なんて憑いていない」とキッパリと言った。

 

「わたくしには、とても賢い友人がいるの。彼女は牧師さまの娘だけれど、魔女よ。彼女のお父さまはわたくしの友人に悪魔が憑いているとはおっしゃらないわ」

「ぼ、ぼぼぼ、牧師さま、が?」

 

ミス・キクチは頷いた。

 

「悪魔のような人間ならいくらでもいるけれど、悪魔なんていないわ。少なくとも、井戸水で体を洗えば悪魔が出て行くなんて話、リディクラスよ」

「ぼ、ぼ、ボガートは、わ、わわ、わたし、の・・・パ、パパに、なります」

「やっぱりあなたは賢い人だわ、マートル」

 

にこりと微笑んでミス・キクチはマートルの髪を撫でてくれた。

 

 

 

 

グリフィンドールのミス・マクゴナガルはいつも不機嫌そうな顔をした美人だ。

 

「怖くないわよ」

 

ミス・キクチの言葉に、ミス・マクゴナガルはきりりと眉を吊り上げた。

 

「あなたがミス・ウォレン?」

「は、はは、はい」

「悪魔を追い出す秘術なんてものは存在しないわ。もしそんなことを主張する人がいたら、わたくしの父は『むしろお前が悪魔だ』と言うでしょう」

 

湖の畔のベンチにミス・マクゴナガルが座っている。スコットランドのタータンの膝掛けの上には、読みかけの本が伏せてあり、そのミス・マクゴナガルを見上げるようにマートルは膝を抱えて座っていた。ミス・キクチは、マートルに並んで枯れ草の上に胡座をかいて座っている。

 

「だから、ミネルヴァ、それはなぜ? なぜあなたのお父さまは、魔女に悪魔が憑いているのではないとおっしゃるの? また、なぜ悪魔憑きを主張する人のほうを悪魔だと?」

「その主張のもとに、あまりに馬鹿げた形で恐ろしい数のマグルが、マグルによって殺されたからよ。わたくしの父は、牧師だから、その種の事件はよく知っている。単なる言いがかりや、子供の悪意で、マグルがマグルを殺し続けた忌まわしい事件が山ほどあるわ」

 

ミス・マクゴナガルは形の良い眉を寄せて、マートルを真っ直ぐに見た。

 

「あなたがご両親から悪魔憑きだと言われたことは残念に思うわ。けれど、あなたはあなたの人生を取り戻すべきよ。魔女としてのあなたの人生を。ヒースフィールド? ふん。階級が上にあるだけで入学する馬鹿なお嬢さんが山ほどいる学校だわ」

 

うわーぉ、と感嘆の声をあげて、ミス・キクチが枯れ草に寝転んだ。「英国貴族を敵に回したわ、この人」

 

「あなたならともかく、わたくしがマグルだったとしてもヒースフィールドになんて行けないわよ」

「ミ、ミミミ、ミス・マクゴナガルでも?」

 

ミス・マクゴナガルは片方の眉を上げた。「ハイランドの牧師の娘じゃね」

 

「マートル、酷なことを言うようだけれど、あなたがヒースフィールドに行ったとしてもそれが良かったかどうか」

「・・・え?」

「今、ミネルヴァが言ったでしょう? 階級の問題があるから、たぶんあなたは、ヒースフィールドのヒエラルキーの一番下。つまり、ホグワーツで言うマグル生まれと同じポジションだと思うわ」

 

何か硬いもので頭を殴られた気がした。

 

「そ、そそ、そんな・・・」

「ミス・ウォレンのお父さまがどちらのパブリックスクールをお出になったか知らないけれど、イートン校ならまだしも、それ以外のパブリックスクールならば、あなたにずいぶんと酷な期待をなさったと思うわ」

「あの学校、成績だけで評価される学校じゃないの。家族の階級、お父さまのお仕事、お母さまのご出身、それぞれのおうちが何百年前からの歴史があるか。あなたのお宅はヴィクトリアン? エドワディアン? テューダー?」

 

マートルは目をぱちぱちさせた。

 

「わたくし、日本ではそういう学校に通っていたからわかるの。勉強したって意味のない学校だって」

「い、意味のない?」

「例えばマートル、あなたがヒースフィールドで一番の成績を取ったとする。必ず言われるわよ。『あの方はほら、ああいうお宅のご出身だから、あくせくお勉強なさらなきゃいけないのよ、お気の毒に』ってね」

「少なくともホグワーツでそれはないわね」

 

ミス・マクゴナガルが肩を竦めた。

 

「スリザリンでさえ、柊子はともかく混血のわたくしにもそれは言わないわ」

「ね、マートル。友達を作れとか、強くなれとは言わないから、小さなことだけ試してみない?」

 

むくりと起き上がって、ミス・キクチが提案した。「手を洗わなくてもいい、と思ってみるの」

 

「手を?」

「ええ。少なくとも、休憩時間いっぱいを使って手を洗わなきゃいけないなんてことはないわ。でしょう? わたくしやミネルヴァは、悪魔の娘に見える? 井戸水で体をゴシゴシ洗わなきゃ生きていちゃいけないほどアレな感じかしら?」

 

慌ててマートルは首を振った。

 

「あなただって同じに見えるのよ、わたくしからは」

「わたくしからもよ。むしろ、うちの寮のルビウスにあなたの爪の垢を煎じて飲ませたい。垢がまだあればの話だけど」

「・・・ルビウス?」

「禁じられた森で妙な生き物と遊んでは、手も洗わずに夕食の席に着くの」

 

ミス・マクゴナガルは頭が痛い、というようにかぶりを振った。

 

 

 

 

 

ルビウス・ハグリッドは、マートルの1学年下のグリフィンドールの男子生徒だ。

すごく大柄な男子だ。

 

「こぉら! ハグリッド!」

 

森番のミスタ・グレゴールに何度叱られても、禁じられた森で遊ぶのをやめない。

 

それを遠目に見ながら、マートルは魔法生物飼育学の授業に向かっていた。

今日は朝から、昼食前以外は手を洗っていない。

 

魔法生物飼育学はハッフルパフとの合同授業だ。今日の課題はニフラー。

休み時間に教科書に目を通した。

光るものを好み、それを探す為に鼻で地面を掘る。巣は最深地下6mにあり、一度に6~8匹の子を産む。

宝を探すのによく用いられるが、室内で飼うと家具などを破壊される可能性がある。

 

授業の初めに質問されたマートルは、教科書に書いてあった通りのことを答えただけだが、先生はレイブンクローに5点をくれた。

手を洗わないほうが、確かに物事はうまくいく。手を洗う時間を予習にあてられるのだから当然だ。

 

 

 

 

 

魔女として生きていくしかないのだ、と後見人のスクイブのお婆さんに言われたときは、ただただ悲しいだけだったが、よく考えてみると、それは事実なのだ。

 

マートルは両親から捨てられたのだから。

 

毎年、サマーホリデイは後見人のスクイブの家に帰る。ロンドンのブリクストンの裏路地にある日当たりの悪い家だ。

 

「ただいま戻りました」

「・・・おかえり」

 

スクイブのお婆さんは、マートルの記憶よりは愛想の良い人だ。

 

「手を洗っといで。1分でいいから。小さなチョコレートケーキならある」

「ありがとうございます」

 

おずおずとお礼を言うと、スクイブのお婆さんは目を丸くした。

 

ああ「ありがとう」さえも言わない娘だったのか、とマートルは気づいた。

 

その夜、お婆さんはお酒を飲んでマートルの両親を悪く言った。

 

「あんたね、あたしだって鬼じゃないからさ。あんたに着替えの一つも持たせたいと思うじゃないか。そしたら、あんたのパパとかいうマグルは、あたしに小銭を持たせて追い払おうとした。あたしは、あんたの娘の着替えを取りに来たんだよ!って怒鳴ってやった。あたしがスクイブだってわかったときだって、あたしの親兄弟はあんな仕打ちはしなかったよ。あたしがマグルの仕事に就くまでは、あたしは魔法使いの実家からマグルの学校に通ったもんさ。あたしがマグルの仕事に就いたら、少しずつ距離を置いた。それは仕方ないさね。マグルにあたしたちの世界のことは知られちゃいけない。それはね、マートル、あたしやあんたみたいな人間を守るためなんだよ。マグルの中には、あたしやあんたみたいな人間が魔女だと知ったら掌返したような仕打ちをする奴がいるのさ。そら、あんたのパパみたいにね。あんた、もう、あんな親なんか捨てちまいな。あたしの先だってそう長くないけど、あんたが立派な仕事に就くまでの間ぐらい、あんたにちっちゃなケーキぐらい食べさせてやるからさ」

 

マートルはお婆さんの部屋から、黴くさいキルトを出してきて、背中にかけた。

 

それから食器を洗った。

 

泣いてばかりはいられない、とマートルは思った。宿題をちゃんとやって、お婆さんの手伝いをして、立派な魔女になる。

マートルにはもうパパもママもいない。

お婆さんしかいない。

 

お酒ばかり飲んで、甘いものを食べないお婆さんが、毎年マートルが学年を終えて帰ってくるのに合わせて小さなケーキを買っておいてくれたことがわかってしまった。

大人になったら、マートルがお婆さんにお酒を買ってあげよう。

 

 

 

 

新しい学年が始まった。

ミス・キクチとミス・マクゴナガルは6年生になっても監督生のままだ。

ルビウス・ハグリッドはたまにミスタ・グレゴールの畑の手伝いをしている。

 

でも、マートルはもう不幸なマートルではない。

 

もちろん、コインをひっくり返すように全てが一度に変わることはないから、まだたまに手を洗わずにいられない日もあるけれど、そんなときは3階の女子トイレにささっと行って手を洗う。

 

その日も、そんな風にマートルが手を洗ってトイレを出たところだった。

 

ミス・キクチが怜悧な顔を険しくして、壁を見つめていたのだ。

 

「ミ、ミス・キクチ?」

「ああ、マートル。そうだ、そこのトイレで何か変な物音は聞こえなかった?」

「え・・・いいえ」

 

そっか、と微笑み、ミス・キクチは「サラザール・スリザリンの秘密の部屋」という伝説を教えてくれた。

 

「そのスリザリンの秘密の部屋の出入り口が、あそこのトイレだっていう、伝説よ」

「・・・だだだ、だから誰も使わない?」

 

そう、と言ってミス・キクチは少しだけ真剣な顔になる。

 

「でも、マートル。あのトイレは使わないほうがいいわ」

「え。で、ででで、でも」

「まだたまに手を洗いたくなるかもしれないけれど、別の場所を探しましょう? 伝説って、なかなか侮れないのよ。きっと何か根拠があるの。スリザリンの怪物に会いたくはないでしょう?」

 

こくんとマートルは頷いた。

 

 

 

 

 

穢れた血が1人死ぬ。

 

占い学の授業で、スリザリンの女子生徒がそんなことを言って、くすくす笑った。

みんなが笑った。

もちろんレイブンクロー生も笑った。

マグル生まれは他にもいるはずだが、穢れた血といえばマートルだと、いつの間にか決まっていた。

 

マートルは教室にいられなかった。

走って逃げ出した。

走って走って走って。

あのトイレに来ていた。

 

必死で手を洗った。指先の感覚がなくなるぐらいに必死で。

 

穢れていない穢れていない穢れてなんかいない。

 

いつまでもいつまでも洗い続けた。そのとき、背後の古い洗面台がごとりという音を立てた。

 

振り向いたマートルの目に映ったのは、大きな黄色い目だけだった。

 

 

 

 

 

次に意識が浮かび上がったとき、なぜかその洗面台にミス・キクチとミス・マクゴナガルが、どろどろに汚れた姿でもたれかかっていた。

 

ーーミス・キクチ? ミス・マクゴナガル?

 

「ごめんね、マートル」

 

どこか痛むのか、ミス・キクチが顔をしかめた。

 

「でも、ミス・ウォレン、もう誰もあなたのようには死なないわ。バジリスクは死んだから」

 

ーーああ、バジリスクの目だったのか

 

この2人の上級生は、まさかマートルのためにバジリスクを倒しに行ったのだろうか。

 

2人とも疲れきっていて、洗面台近くのタイルの床に横たわった。

 

 

 

 

あれから何年経ったのかマートルは覚えていない。

 

長い長い間を、ホグワーツの3階女子トイレのゴーストとして存在している。

 

自分がどんな女の子だったのかも思い出せない。

 

時々思い出すのは、レイブンクローの監督生のバッジをつけた女の子の姿だけだ。

その人のことがとても好きだった気がする。

たまに、監督生のお風呂に行ってみるけれど、あの人はいない。

 

そう言うと、あの人そっくりのくせになんだか縮んで、しかもグリフィンドールのネクタイをした男の子みたいな女の子が「もう卒業した人だと思うわ。だから監督生のお風呂を覗くのは」と頭を振った。


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