サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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第4章 潜入捜査準備

とくとくとくとく、と大きめのペットボトルにポリジュース薬を移した。

 

スーザンがマダム・ボーンズが持っていた魔法省職員名簿から一番若い魔法ビル管理部の青年の名前や個人情報を羊皮紙に書き写している。

 

「この人なら知ってるわ。ハッフルパフの卒業生よ。ちょっと、なんていうか・・・軽い? 違うわね・・・こういう挨拶をする人なの・・・こほん、『ちょりーっすぅ』・・・わかる?」

「チャラいんだね、理解した。服装は? きちんと着るタイプ? 着崩しているタイプ?」

「えーと、ウエストの部分をこう、腰骨に引っ掛けて、股下をダボダボした感じ。シャツの裾はいつも出てる。ネクタイはゆるゆる。耳には派手なピアス」

「うん、チャラい。それでいこう」

 

 

 

 

 

翌朝、手持ちの服を『チャラめに』着崩した蓮が、サングラスをかけて客間から出てきて「ちゅーっす」と雑な挨拶をして、コーヒーを淹れ始めた姿を見て、スーザン

はぽかんと口を開けた。

 

「ん? どした? 見惚れてんのかあ?」

「れ、レン。ポリジュース薬を飲むまでは普通にしていちゃいけない?」

 

ダーメ、と蓮はサングラスを外して笑った。「わたくしの祖母によるとね、ま、言い方悪いけれど、最下層の演技が捜査員には必要らしいよ。そういうの、わたくしは苦手だから、ポリジュース薬を飲んだ途端に人格変えるのは難しい」

 

「最下層?」

「道端で座り込んで瓶からラッパ飲みで酒を飲んでいるタイプの人の近くでは、人は意外と内緒話をするものらしい。さすがに魔法省でそれはダメだろうけれど、魔法ビル管理部のチャラい若者がダラダラ窓拭きしているのを憚る人は少ないんじゃないかな? だからそういう人物になりすます技能が欲しいね」

「よ、よかった・・・」

「なにが?」

「そういう意図があるのなら、もちろん協力するわ。面白がってただお行儀悪くしてるだけなら、あなたのお母さまに報告しなきゃいけないから」

 

しなくていい、いい、と顔をしかめて手を振る。

 

その顔にサングラスをかけてやりながら「買い物に行きましょうか。あなたの服は、ブライアンの服に比べると質が良過ぎるの」とアドバイスすると「頼んまーす」と間延びした返事が返ってきた。

 

 

 

 

 

スーザンと並んでハロッズのドアを開けようとしたところで「ひーめーさーま!」と身も凍るような声が聞こえてきて、反射的に背筋を伸ばした。

 

「ウェンディがいつこんな店への出入りを許しましたか!」

「・・・すんません」

「なんという発音! ああああ! 姫さまが堕落を! すべてはアルファイドが悪うございました!」

「申し訳ありませんでした・・・これは任務ですので、見逃していただけると大変ありがたく・・・」

 

スーザンがキョロキョロと辺りを見回している。

 

「うちのハウスエルフだよ。姿は見えないように隠れている。ダイアナの事故以来、ハロッズとアルファイド家を天敵に認定した。ウェンディ、とにかく滞在中のアパートメントに戻って説明するから、ついてきて」

 

 

 

 

 

スーザンの目の前でハウスエルフが床に伏せ、おいおいと泣き喚いている。

 

「えーと、ウェンディ? わたしはスーザンよ。スーザン・ボーンズ。レンの友人。あなたのことはレンやハーマイオニーから聞いてるわ。わたしともお友達になってくれると嬉しい」

「な、なんてお優しい! 姫さま! こんなお優しいお友達をよりによってアルファイドめのハロッズに連れて行くなんて! 非常識にもほどがありますわ!」

 

ソファの上にあぐらをかいた蓮がそっぽを向いて頭を抱えた。

 

「姫さま!」

「ウェンディ・・・頼むから。頼むから今はダイアナの問題を・・・一時的にでいい、あとでまた聞くから、今は一時的に棚上げにしてから話そう・・・ダイアナ問題が絡むとややこしくなる」

「ダイアナを忘れろですって! それだけ重要な何かがあのお行儀にはあると言うのですか!」

「ある! つまりあれは、魔法省への潜入捜査が目的なんだ」

「アルファイドめが!」

「・・・いや、アルファイドのことも忘れろよ・・・トムの仕業に分類している案件についてだから。頭の中のTの引き出しに仕舞ったカードを使って話し合おう」

「よろしい・・・Tの引き出し、Tの引き出し。スクリムジョールが殺されて以来の魔法省を監視するためですの?」

「そうそれだ!」

「それがハロッズに行く理由になると思うのですか! ハロッズになど!」

「ならない。正確にはハロッズじゃなくてもいい。そこは悪かったと思うよ。単にわたくしの服を、潜入捜査用に買い揃えたかっただけだ。お行儀は、潜入捜査のため。ばあばが闇祓い時代からずっとミセス・マクルーハンに変身していたことは覚えているよね? あんな風に一見したところ何も考えていないタイプに変身する必要があるんだ。魔法ビル管理部のチャラい奴に変身して、魔法省内を動き回りたい。その準備が必要なんだ。わたくしはほら、ウェンディの教育が素晴らしいから、完璧なレディじゃないか。事前に慣れておかなきゃポリジュース薬を使ってもバレると思う」

 

ウェンディは胡散臭げに蓮を見上げた。

 

「教育不足を痛感して毎日嘆いているウェンディに、そのお世辞は余計に失礼ですわ、姫さま」

「・・・悪かった。お世辞じゃない。ウェンディの教育はまったく問題ないのに、わたくしが勝手に転落人生を歩んでいる、それが全て悪い」

 

スーザンは蓮の隣に腰掛け、その肩をぽんと叩いた。

 

「ねえ、ウェンディ。変身する相手のことはわたしも知ってるから、レンを彼らしく振る舞わせる教育を受け持つわ。あなたには、わたしと一緒に安物の若い男性向けの衣料品店に来てもらいたいの。レンはここでお留守番してもらいましょう。ただお留守番だとろくなことをしないだろうから、ダイアナの安らかな眠りのために祈りを捧げてもらうとして。事態が全て解決した後にはまたあなたにレンの再教育をしてもらわなきゃならないから、あなたが活躍する間、レンはあなたの代わりにダイアナのために祈るのよ。わたしとあなたで彼のロッカーや仕事ぶりを調べて、レンの変身に備えましょう。彼を拉致監禁する必要もあるわ。潜入捜査には数日かかるだろうから、その見張りも必要だし、人手が足りないの。あなたがハウスエルフの能力を駆使して手伝ってくれると、すごく助かると思う。トムくんを始末した暁には、レンにはダイアナの遺した息子たちを守る仕事をさせることも出来るでしょう? あなたの言うとおり、ハロッズで買い物をしてアルファイド家を潤すのは良くないわ。だからハロッズじゃないお店が必要ね。レンはそういうことに詳しいの?」

 

とんでもない! と、またウェンディが床に伏せて大泣きを始めた。

 

「ウェンディ?」

「日本の、途轍もない田舎で、河童に育てられた姫さまは、ロンドンのお店など、ハロッズの他にはマクドナルドとセブンイレブンしか知らないのですわ!」

「・・・ええ。あなたの苦労は、よーくわかるわ、ウェンディ。その河童に育てられたレンをなんとかしてイギリス魔法界を率いる女王にするには、帝王学を根本から学び直す必要がある。そうよね? ダイアナの人生を深く学び、思いを馳せてもらいましょう。その間に、わたしとあなたが潜入捜査の準備を進める。この提案についてのあなたの意見を聞かせてもらいたいの」

 

姫さま! とウェンディが蓮の膝に詰め寄った。

 

「な、なんでしょうか」

「スーザンさまは、まったく正しい魔女でいらっしゃいます! ウェンディはこういう正しい魔女のお振る舞いをこそ教育したかったのに! 河太郎さんがこんなのを作ってしまいました」

「一応旦那になんてこと言うんだよ。あと河太郎に作られた覚えはないからな。で、その正しい魔女さまの提案についての回答は?」

「謹んでお受けいたしますわ! 姫さまがダイアナの著書を読む時間もこれで出来るはずです。万事スーザンさまとウェンディにお任せくださいませ!」

 

 

 

 

 

なんであんなにウェンディの扱いが上手いんだ、とダイアナ関連書籍を取りに出たウェンディを見送って蓮が溜息をついた。

 

「特別なことはしてないわよ? ウェンディの様子をきちんと観察して、お話をよく聞いて、彼女の価値観や認識を想像して、受け入れやすい形を提案しただけ。理解と共感を前提にすると、交渉は順調に行きやすい」

「・・・スーザン、あなたはハーマイオニーと違ったタイプの尋問官になれるよ。間違いなく」

「そうだと良いけど。ハーマイオニーの開心術みたいな才能はないから、地道な努力はしないとね。あと、ハンナ、ハンナ・アボットの相手を6年間続けていると、いろんな学びがあるものよ・・・」

「ネビルのガールフレンド?」

「そう。成績も良いし、意地悪なところはない子だけど、緊張に弱くてパニックに陥りやすいの。そのハンナには『監督生なんだからもっと自信を持ってリーダーシップを発揮して!』は禁句。『あなたのプレッシャーは理解できるわ、ハンナ。大変な重荷よね。でも大丈夫。ひとりで背負う必要はないわ。わたしがついてるから』辛抱強くこう言い続けるのよ。理解と共感が、人を落ち着かせるの」

「・・・スーザン、わたくしやロンみたいな奴らのために本を書いてくれないか。『お世辞と言われずに魔女やハウスエルフを機嫌よくさせておく方法』」

 

パチン! とウェンディが、ハーマイオニーのように本の山を背負って出現した。

 

 

 

 

 

ダイアナ研究には5分で飽きたので、母の来訪さえも大歓迎だ。蓮は大きく伸びをして「ママ、最高のコーヒーを御馳走するよ。昨日スーザンに習ったばかりだ」と立ち上がった。

 

「あら嬉しい。ウェンディがやけに張り切って出かけたものだから気になって来てしまったけれど、問題はないのね?」

「今のところね。スーザンとウェンディが潜入の下準備をしてくれる。それよりさ、スーザンの才能について報告するよ。スーザンはなんとあのウェンディを会って5分で手懐けた。それなのに、本気で特別なことはしてないなんて思っているんだ」

 

ヤカンを火にかけ、フィルターの中に挽いたコーヒー豆をぽぽいとスプーンで投げ込みながら報告した。

 

ソファに座った母が「それは才能ね」と苦笑する。

 

「だろ? 名言だよ。『理解と共感が人を落ち着かせるの』どこかにメモしとかなきゃ。これって法執行部の尋問官向きの才能だと思う?」

「思うわ。本当の尋問では、捜査官や尋問官が複数人で交互に被疑者を尋問するの。そのメンバーに理解と共感を武器にするタイプがいると、すごく仕事がやりやすいわね。日本の刑事ドラマにありがちな、ほら、『煙草を吸うか?』とか『カツ丼でも食べるか?』みたいな、緊張や警戒を和らげる役割よ」

 

なるほどー、と沸いたお湯をフィルターに注ぎ始めた。

 

「蓮」

「のの字、のの字。なーにー?」

「一般的な基準では、スーザンは優秀で才能ある魔女よ。理事として目にした成績から考えて、順当に法執行部に入省出来る能力があると思うわ。でも、ハリーやハーマイオニー、ロンとは違う。それは肝に銘じなさい」

「・・・え?」

「あなたたち4人がそもそもおかしいの。くぐってきた修羅場が違うから。潜入調査にスーザンを付き合わせるのなら、充分な配慮をしなさい・・・魔法省の陥落が、あなた個人にとって何を意味するか認識している?」

「個人?」

「・・・アンブリッジに復権のチャンスが来る」

 

蓮は黙ってヤカンを置いた。

 

「ママは、パパの件だけについてなら、あなたはもうスキーターやアンブリッジを乗り越えたと信じている。これは本当よ。でも、尋問官の経験に照らして、ひとつだけ危惧があるわ。あなたはアメリアの尋問に対してこう言った『同じ場面になったら同じことしちゃう。だってスーザンに磔の呪文を当てたんだもん』・・・もうしませんとは、ひと言も口にしていない」

「・・・うん」

「状況に鑑みて致し方ない展開だったから、執行猶予にしたアメリアの裁可は妥当よ。でも、魔法省に潜入するのなら、同じ状況を招かないように、最大限の努力をなさい。それは約束出来る?」

 

カップを載せたソーサーを差し出して蓮ははっきりと「誓うよ」と答えた。「反省が足りないと言われるかもしれないけれど、あの事件の最大のミスは・・・頭に血が上って、スーザンをその場から遠ざけなかったことだと思っている。アンブリッジの別件逮捕の計画自体は、別に反省していない」

 

「・・・法律家としては肯定出来ないわ。別件逮捕と言うけれど、あの時あなたは本犯罪以上の犯罪を誘発させようとしたの。別件逮捕とは根本的に違う」

「うーん。言葉のチョイスが絶妙に難しい。言いたいのは、あの時アンブリッジにやろうとしたことは、この戦争の原点だってことだよ。円卓会議としては、この戦争つまり混乱期を利用して、死喰い人でないにせよ魔法界の膿みたいな奴らを、できる限り減らしたいと考えている」

「そう言っていたわね。でも実際にはそれは難しいとも言ったはずよ? きちんと裁判をするならなおさら。死喰い人の裁判だけで魔法省は手一杯になり、クラウチでさえ司法取引を考えるほどだったのだから。膿を出すのは後からの政治改革の時期のテーマだわ」

「今だよ! ナウ! せっかくわかりやすくクーデターが起きたんだ! これを利用しようよ!」

 

あなたね、と母が顔を引き攣らせた。

 

「円卓会議にグリーングラスが来襲したのは知ってるでしょう?」

「・・・ええ。ドロメダからも聞いているわ。スリザリン寮の中でも穏健な生徒たちを守ろうとしているようね」

「前回の魔法戦争ではグリーングラス家は旗幟を鮮明にしなかったけれど、今回はわたくしの存在があったから、古の魔法契約に従って円卓会議に参加している。それと逆のことが魔法省で起きる。 魔法省高官は旗幟を鮮明にすることを迫られるよ。魔法省高官でいたければ、死喰い人側の手先になるしかないから。アンブリッジの復権、大歓迎だ、ママ。わたくしが工夫して別件逮捕計画なんてやらかさなくても、あいつが自分からたくさんたくさんやらかすだろうからね!」

「・・・否定は出来ないわね。きっとそうなるでしょう」

「将来の法執行部長が超多忙になるのは気の毒だ」

 

母が溜息をついた。

 

「ママはまだキングズリーには明確な返事はしていないわよ。どちらかといえば、検察官や弁護人としてまだ現場の仕事をしたいから。他に人材の目処が立っていない現実があるから、明確に断る前に対案を考えている段階よ」

 

ごめんママ、と明るく言った蓮は掌を上にして、母に向けて差し出した。「これキングズリーに証拠品として提出するから、執行部長の役職からは逃げられないと思う。っていうか、逃げられなくするためにスーザンと一緒に探したんだ。何年か前に無くしたって不機嫌になっていたダイヤのピアスだよね?」

 

母が表情を強張らせた。

 

「・・・蓮?」

「これを見つけた場所は、ママが今座っているソファ。背中のクッションとお尻のクッションの奥のほうに挟まっていた。たぶん、ラフな格好でここに来てゴロゴロダラダラしている時に落ちた・・・と、スーザンは推測していた。でもキングズリーはどう思うかな? ピアスってそう簡単に落ちるものでもないからね。少なくとも、上司の家を訪ねて、前開きジャケットを脱いだだけでお行儀よく座っているだけで落ちるようなものではないよ」

「・・・誤解しないで。スーザンの推測が正しいわ」

「うん。まあ、わたくしはどちらでも構わないんだ。スキーターからもある程度のことは聞いている。スキーターによれば、ママはここに泊まっても客間を使っていた。マダム・ボーンズが不在のことも多かった。スキーターの見たところでは、仮に肉体関係があったにしても、それはもっと若い頃の勢い・弾み・事故みたいなものであって本質的な愛人関係じゃないざんす! 『お嬢ちゃんにはまだわからないかもしれないけど、惚れた相手を亡くしてひとりで生きてくってのは、女にとっちゃ難儀なこともあるざんすよ。たまには誰かの肩に凭れて休みたいことだってあるざんす。あんたのママにとっちゃアメリア・ボーンズはそういう相手だったとアタシは見るざんす』だから、アンブリッジの追及にも知らん顔していてくれたらしい」

「・・・スキーターが?」

「そのめちゃくちゃ嫌そうな顔はダメだと思うよ。武士の情けならぬ、婦女子の情けで、アンブリッジが土足で踏みにじることのないように配慮してくれたことは事実だ。御礼を申し上げなさいとは言わないけれど、事実はきちんと認識して。そのスキーターに、ママが執行部長になるのを渋っているから、ネタがないか尋ねたら、わたくしが動かぬ証拠を握れたなら、アメリアとの関係は使えるはずだって」

「あの女・・・うちの子になんてことを仕込むの?!」

「仕込まれてはいない。スキーターの弱みを握ったのはわたくしが先だ。話を逸らさないでね、ママ。マダム・アメリア・ボーンズは、スーザンによればアズカバン抜きの司法制度を切望していた。ママもだよね? なのに、どうして渋るの? ピアスを相手の部屋に落とす程度には親密だったマダムの構想を実現するチャンスが目の前にあるのに、どうしてマダムの遺志を継ごうとしないの? わたくしが傷つくとでも?」

 

違うよね、と蓮がニイっと笑った。

 

「・・・蓮」

「マダムのことがママにとってはまだ生傷だからだ。マダムの遺した構想とがっぷり4つに組む勇気がまだ出て来ない。わたくしを日本に放り出して裁判に明け暮れていた頃のような自虐的な時間が必要なんだ。悪いけれど、今度ばかりはそれじゃ困る。ハーマイオニーとスーザンを育成してもらわなきゃならないからね。パパのことから立ち直ってまともにわたくしと向き合うまで何年かかった? 10年? 15年? その間、ハーマイオニーとスーザンの育成は放置? 困るよ、あんまり先送りされちゃ」

「・・・はい」

「自虐プレイがしたいなら、執行部長の責任を背負うことを自虐プレイにして」

「そういう表現はやめなさい・・・というか、あなた、あなたは本当に平気なの?」

 

蓮はピアスを入れたジップロックを母に放り投げて肩を竦めた。

 

「わたくしは子供の頃、ママがひとりぼっちでイギリスで泣いていると思っていた。それは嫌だなって。だからかな、潔癖な生活に固執していなかったことにはむしろ安心している。泣いてはいただろうけれど、自分が壊れてしまわないようにエア抜きは出来ていたみたいだからね」

「・・・はあ。ありがとうございます。それであなたはどうなの?」

「わたくしにも秘密の恋人がいるかってこと? どこにそんな暇とエネルギーがあるの? そんな心配をしたいなら、新体制の中で自分の役割をきちんと果たしてくれないかな?」

「・・・申し訳ございません・・・あの、蓮、ママそろそろ帰っていいかしら? なんだか針のむしろで」

 

いいよー、と蓮はひらひらと手を振った。「でも、新執行部長さん、今後のアフェアには気をつけてね。ピアスを落とすのは迂闊過ぎる」

 

 

 

 

 

スーザンが頭の痛そうな顔をして、ハンバーグをうまいことひっくり返した。

 

レタスをぶちぶち千切りながら皿に盛り上げていた蓮は「おおう」と感嘆の声を発した。

 

「このくらい大したことじゃ・・・レン。そんなにレタスを食べたかったのなら、ちゃんとサラダにするわよ?」

「え? レタスをお皿に盛り付けるんじゃないの?」

「盛り付けるのと盛り上げるのは違うと思うわ。それで・・・本当にお母さまにそんなことを言ったの?」

「言ったよ。まあ、パパはとっくに死んでるわけだから誰と付き合ってもいいとは思うけれど、きちんとステディな関係として公開するつもりがないなら、今後公人になる以上は、ああいう迂闊なことじゃ困るだろ?」

 

スーザンから突き出されたジップロックの中に余分なレタスを押し込みながら蓮が澄まして答える。

 

「証拠品を探すという時点でもっと反対するべきだったわ・・・デリカシーをもう少し学んで。マダム・バグショットやミセス・マクルーハンに対しては優しいのに、どうして肝心のお母さまに対してはそうなの?」

「働き盛りで相応の役割を担う能力のある人材を甘やかす必要はない。身内だからなおさらだね。このぐらいの負荷をかけても死にやしないよ。ついでに言うと、スーザン、あのピアスはパパからのプレゼントじゃない。たぶんマダムからだ。ネットで調べたら、あのブランドのあのデザインは1989年のリリースだった。そのことを指摘するのは控えたよ。あんまり言い訳するようなら、突きつけてやろうと思っていたけれど、割とあっさり落ちたな」

「・・・教授職が似合うと思ってはいたけれど、あなたもう捜査員になったらどう? そんな気がしてきたわ」

 

ジュ、とフライ返しでハンバーグを押さえて肉汁の色を確かめると、ささやかに敷いたレタスの上にハンバーグを移した。

 

「運んで。サラダもね。わたしはスープを持っていくから」

「・・・スープ? いつそんなものを」

「さっきから火にかけてたでしょう? 簡単なオニオンスープよ。嫌い?」

 

いや好きだよ、と慌てて答えて、ハンバーグ2皿とサラダボウルを両手で抱えた。「・・・リヴァプールの食生活を想像して、自分の幸福に感謝するべきだと思っただけだ」

 

「大袈裟ね。ハーマイオニーがいればこれくらいは。ハリーだってダーズリー家で多少は家事をしてたんでしょう? 設備はマグル基準だからハーマイオニーにも戸惑いはないと思うわ」

「化学、いや魔法薬学の実習みたいなことになると思うよ。一品一品レシピ通りに作ろうとするあまりヒステリックになる、に100ポンド。たまりかねたハリーが頑張って、茹でジャガイモとフライパンで焼いたソーセージの生活になる」

 

スーザンは黙ってキッチンカウンターの上に置かれたジップロック入りの山盛りレタスに視線を移した。

 

 

 

 

 

「それで? ディゴリーには会えた?」

 

がしゃがしゃと乱暴な手付きが不安だが、その不安を押し殺して「会えたわ」と答えた。この機会に多少は家事を習得させるべきだと痛感したのだ。

 

「ブライアン・アダムスは、基本的には昔のままだそうよ。ちょりーっす、と雑な挨拶で清掃カートを押してオフィスに入ってきて、ゴミを集めたり。ダルそうに清掃を担当している。学生時代との違いは、その態度を咎められても特に反抗はしないことぐらい。咎められても特に改善もしないようだけどね。ファッションは、魔法ビル管理部の指定の作業服。胸にアダムスと刺繍がある。指定の作業帽は被らず、えーと、下着のウエスト部分が見えるぐらいにズボンをだらしなく穿いている。カルヴァンクラインとか、そういう、ウエスト部分にロゴの入った下着だそうよ。アフターファイブの様子までは知らない。あいつのことだからナンパじゃないか? とディゴリー。魔法ビル内でも、ホグワーツの下級生だった新人職員をナンパしてることがある。一般事務の魔女たちは軽く相手して流してるけど、いわゆるエリートコースに乗った魔女たちには声もかけない」

「声かけなきゃいけないのかあ・・・それ困るなあ。わたくし、ホグワーツの卒業生で魔法省職員になった魔女の顔なんか把握していないよ」

「無理にナンパはしなくていいんじゃないかしら。眠そうでダルそうな表情でいれば。前の晩に遊び過ぎたダメな若者という雰囲気で。それで、と。ミスタ・ウィーズリーやディゴリーはスーツを着て出勤するけれど、ビル管理部の人たちは作業服に着替えることもあって、カジュアルな私服で出勤するの。だから、そういった服はやっぱり用意しておくべきね」

 

がっしゃがっしゃと水切り籠を揺する蓮の手を押さえて続けた。

 

「振らなくていいから。確認したいけれど、約1週間ブライアンを監禁する計画で間違いない?」

「ない」

「あまり信用できる人ではないと思うわ。へらへらしているけど、密告が利になるのなら平気で密告するタイプよ。わたしとウェンディが失神させて監禁場所に運ぶのは構わないけど、1週間の監禁中にわたしたちの身元には気づくと思う」

「忘却術があるでしょう。ウェンディのフライパンもあるし。穏便な方法を選んでいる余裕はちょっと無理だと思うよ」

 

スーザンが渡した布巾で皿を拭き始めた。

 

 

 

 

 

ガイン! とウェンディがフライパンで後頭部を強打すると、ブライアン・アダムスはパタリと昏倒した。

 

「さ、レン急ぎましょう。遅刻ギリギリだわ、ブライアンったら」

 

手荒に毟った髪の毛をペットボトルに入れてシェイクし、それをひと口飲んだ蓮は、みるみるうちにブロンドの髪を長く伸ばして、顎にだけ無精髭を残した青年になった。

 

かちゃかちゃとジーンズのベルトを緩めて、腰骨で支える。

 

「こいつ、この腹見せて平気なのか? わたくしより腹筋ない」

「あなたの腹筋が素晴らしいことには同意するわ。さあ行って。一人称は俺だからね!」

「あざーす」

 

タタッと蓮がブライアンの出勤経路に合流するのを確かめると、スーザンは念のため昏倒したブライアンの口に生ける屍の水薬を流し込んで、ウェンディを振り返った。

 

「予定通り、バミューダに運ぶわ。ウェンディ、ついてきてね」

「かしこまりました!」

 

 

 

 

 

魔法族っていうのは、どうしてこう「よりによって」というマグルの設備の使い方をするのだろう。

 

事前に調べてあった通り、便器の上に立ち上がった蓮は思わず息を止めてから水を流す鎖を引いてその場で軽くジャンプした。

 

「・・・これから毎朝トイレに流されなきゃいけないのか・・・ちぃーっす」

 

道行くスーツ姿の魔法省職員の視線を感じて、反射的に横柄な挨拶をしたが、相手は無視して歩き去った。

 

蓮もタラタラとジーンズのポケットに手を突っ込んで歩き、眠そうな表情で周囲を観察する。

 

誰も彼も不安げな表情を浮かべて足早に歩いている。

 

「新体制の発表は明日らしいな。大臣室のウィーズリーが張り切っている」

「まああいつにはある意味チャンスだろうさ。なにしろクラウチの下についていたらクラウチがあんなことになり、アンブリッジに拾われたらアンブリッジもあんなことになり。そのたびになんとかあっぷあっぷしながら水面に顔を出してたようなもんだ。今度のボスが誰になるにしてもまたしばらくの間はいい気でいられる」

「親父と口も聞かないってのは有名な話だからな。アーサーの息子にしちゃ出世欲が強い」

 

反対側では。

 

「新大臣はやっぱり例のあの人かしら?」

「しっ! 滅多なことを言うな。君のおじいさんの生まれを考えたら、今はとにかく目をつけられないようにやり過ごすしかない」

「魔法省職員からマグルの血を引く魔法使いや魔女を排除したら機能停止するわよ?」

「だからだよ。目をつけられることさえなければ生活はとにかく成り立つんだから。子供はまだホグワーツを卒業してないんだろう? 余計なことは考えるなよ、子供たちのためにも」

 

くるっと右に曲がって男性更衣室に入った。

 

アダムス、と筆記体で名前が表示されたロッカーでさっさと着替えると、長髪を後ろで緩くひとつに括り、掌の上でペットボトルを弾ませながら、たらたらと清掃用具室に向かう。

 

「よう、アダムス」

「ちーす」

「新体制の発表は明日だぞ。マグルのガールフレンドとは切れたんだろうな?」

「俺がすか。つか、そういうのは、スーツ族の心配事っしょ。俺らみたいなのまで気にするんすかね?」

「まあ、俺たちゃ魔法省ビル専属のハウスエルフってやつだからな。それでも、用心に越したこたねえ」

 

がしゃんがしゃんと清掃カートを引き出して、手に持ったペットボトルを置いて「俺今日どこからっすか」と上司に尋ねた。

 

「地下二階だ。検察部屋、事務官部屋、部長執務室はいつも通りだが、副部長室も気ぃ入れて磨いとけ」

「・・・なんで?」

「ウィンストンがいなくなってから誰も使ってなかっただろうが。しかし、明日の新体制からはそうはいかんからな。誰になるかはわからんが、誰かは入ることになる。いいから磨いとけ」

「うーす」

 

意外だな、と思いながらビル管理部用のエレベーターに向かった。シックネスは副部長室を使おうとしなかったらしい。

 

「使ってもいいかどうか検討中のまま今に至りました、かな」


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