サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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閑話49 泣ける理由

グリモールド・プレイスに姿現しして、家に入ると、クリーチャーが飛んできた。

 

「おかえりなさいませ、ハリーぼっちゃま」

 

深々と頭を下げる。

 

「やあ、クリーチャー。しばらくこっちに戻ってくることにしたよ。シリウスはいる?」

「はい! 書斎でお仕事中です!」

「書斎? そんなのあったっけ?」

「開かずの間でした! 旦那さまがお使いにならないので! ですが、最近クリーチャーと旦那さまとで探し物をするついでに片付けましたので、旦那さまは書斎でお仕事をなさいます!」

「そっか。悪いけど、書斎に僕を案内してくれるかい?」

 

 

 

 

 

どっしりした両袖のデスクに肘をつき、黙ってハリーの話を聞いていたシリウスが、実に簡単に「君が悪い」と評価した。

 

「シリウス・・・僕は」

「友達との喧嘩ぐらい好きなだけすればいい。だが、ホークラックス探索における君の態度は、冷静さを欠いていると私も思う。またそれを指摘されたことを素直に受け止められないだけならともかく、ロンとハーマイオニーが寝室で何をしたかを当てこするというのは紳士のすることじゃないぞ、ハリー。ジニーにフラれてやれ、か。ロンはそういった面では君より男らしいな」

 

ハリーは不貞腐れた気分で黙り込んだ。

 

「そういう時にはな、他に好きな女の子が出来たとか、相手を怒らせて泥をかぶるものだ。と、尊敬すべき先輩から言われたことがある。Aという仲間がいた。不死鳥の騎士団の仲間だ。コンラッドの親友だった。私は直接は知らないのだが、Aには密かな恋人がいたようだ。Aが死んだ時、コンラッドはその女性を探し出して、マグル相手に可能な限り丁寧に説明したそうだ。あいつは君を愛していたが、任務を遂行するために仕方なかったんだ、とね。女性はコンラッドのグラスのスコッチをコンラッドの頭の上からだばだば流し、ひっぱたいた。『他に女が出来たから逃げたと言ってくれたら、しばらく泣いて10年で忘れたかもしれないのに、そんな余計な説明は要らなかった』と言われたそうだ。私たちはまだ若かったし、非常に熱い志で戦っていたから、コンラッドの対応は誠意ある対応だと思った。女性の見解が理解出来なくてね。だがコンラッドは『まったくもって彼女が正しい』と苦笑していた。『僕はAの気持ちを伝えることばかりを考えていた。それを受け入れなければならない彼女の気持ちはまるで無視していた。だからまあひっぱたかれて当然だ』だと。その後のリーマスは、長年女性と別れる時にはコンラッドの指導を守ってきたそうだ。『僕はこう見えても重い病気を患っていて、君に迷惑をかけてしまうことになる。だから別れよう』と正直に言うと、どういうわけか相手の中では余計に情熱が燃え上がるものらしいぞ」

 

黙ったままのハリーにシリウスが苦笑を向けた。

 

「なあ、ハリー。ダーズリー夫妻は、恋愛結婚か?」

「さあ。おじさんの会社のタイピストとして入ったのがおばさん。それしか聞いてない」

「ふむ。1日に何回キスをする?」

「数えたことないよ、そんなの。朝に1回、出かける前に1回、帰宅してから1回、そんなもんじゃない?」

「ハーマイオニーとロンは? 君が目の前にいるとわかっていて毎日3回キスを必ずしていたのか?」

「あ、ああ、い、いや。それはない。たまたま見ちゃったことはあるけど」

「そうか。ハーマイオニーとロンは、ダーズリー夫妻よりもさぞ冷めた関係なのだろうな?」

 

まさか、とハリーは首を振った。

 

「違うのなら、彼らは君の前では配慮していたということだろう。ダーズリー夫妻でさえ子供の前でも1日3回欠かさないキスを、ハーマイオニーとロンは君の前ではしないようにしていた。なのに、個室の中のことまであれこれ言うのは、いくらなんでも言い過ぎだ。また、ハーマイオニー情報のリークについて、ハーマイオニーが言った指摘も正しいと思う。ハーマイオニーとロンの間での話し合いについて君は知らなかったのかもしれない。しかし、ロンがリークを承知したことが不審なら、ハーマイオニーの前で責めるような物言いをする前にロンの真意を理解しようと、なぜしなかった。『おい、本当にいいのか? ハーマイオニーのことは心配だろう? 気になることがあるなら、それを解消してから決めたほうが良くないか?』とな。そうしたらロンはきちんと説明してくれただろう。『いや。この場合心配なのはハーマイオニーじゃない。ハーマイオニーの安全にはレンも充分な配慮をしてくれる。むしろ僕の家族が心配だ。その点についてハーマイオニーと話し合って、レンにウィーズリー家にも配慮してもらうよう頼むことにした』上出来じゃないか。君が声を荒げてロンを責めるのはやはり間違いだ。ハーマイオニーの友人としてハーマイオニーの身の安全を心配するのは当然だが、そこでロンを標的にするのは問題だな」

 

わかったよ、とハリーは放り投げるように言った。「全部僕が悪い」

 

「ホークラックスの探索はどうする」

「え?」

「かくしてチームはバラバラになったわけだが、ホークラックスの探索もついでに放り出すか、ん?」

「そんな! そんなこと言ってないじゃないか!」

「じゃあ君1人でやるんだな?」

「それは・・・」

「出来るのか? 読み解くのに30分もかからない調書を読むことを億劫に思う君が、1人で残り全てのホークラックスを見つけ出して破壊する?」

「やるさ! やればいいんだろ!」

 

馬鹿者! とシリウスの低い怒声が響いた。「これまでに戦ってきた人間を馬鹿にしているのか! ダンブルドアや菊池議長、マッドアイ、レイ、ああ、レギュラスも、クリーチャーもだ。彼ら全部を合わせたよりも早く多くホークラックスを1人で始末する?! それは先人に対する侮辱に他ならん!」

 

「・・・ごめんなさい」

「急ぎ過ぎるな、と皆が君に言うのは、時間がかかって当然の仕事だからだ。ひとつのホークラックスを奪取するために命を落とした者もいるんだぞ、ハリー。湖の小島で水盤の水を飲んだのは誰だ? 菊池議長だと思っていたが、君が飲んだのか?」

「・・・僕じゃ、ない」

「君にとっては充分に恐ろしい思いをした探索かもしれんが、苦痛を飲んだのは君ではない。その菊池議長は、ロケットが偽物だと知って取り乱したかね?」

 

ハリーは首を振った。

 

「今君は菊池議長と同じ立場に置かれた。クリーチャーが持っていると確信したが、そううまくはいかなかった。苦痛を飲んだ菊池議長は偽物に取り乱さなかったが、苦痛を飲みもせず、クリーチャーから情報を聞き出し、マンダンガスから情報を聞き出しただけの君は、ずいぶんとイラついている。ずいぶんな違いだ。その菊池議長よりも大層なことを1人でやってみせるだと? 思い上がるな!」

「・・・はい」

「ハーマイオニーやロンに謝罪し、改めて協力を求めろ。気持ちを整理するのにしばらく時間が必要ならば、その間は好きなだけここにいればいい。ただし、1人で探索することは認めん」

「・・・はい」

「もういい。自分の部屋に行って休みなさい」

 

 

 

 

 

うなだれたハリーが書斎を出て行くまで険しい表情を崩さなかったが、パタンとドアが閉まると、はああ、と深い溜息をついて、机の上に置いたばかりのジェームズとリリーの写真を指で弾いた。

 

「おい。君たち2人より不器用過ぎるぞ、アレは」

 

熱意は買うが、その熱意が空回りした挙句に周りに八つ当たりとなると、叱り飛ばしてやる必要があると思って努力したが、生来シリウスは説教はされても、する側ではないのだ。

 

「しかし、今はリーマスが使い物にならんからなあ」

 

そろそろ時間かと、机の上の古い書類をフォルダの中に仕舞って、棚からファイアウィスキーのボトルとグラスを出した。

 

「旦那さま・・・あのぅ・・・」

「酔っ払いの狼がまた来たのだな? 通しなさい。それから、部屋にいるハリーに声をかけて、欲しいと答えたら軽食なり飲み物なりを部屋に届けてやってくれ。それで今日の仕事は終わりだ」

 

深々とお辞儀をしてクリーチャーが去ると、鼻の頭を酒灼けで赤くしたリーマスが、書斎にふらふらと入ってきて頭を抱えてソファに座り込んだ。

 

「・・・おまえの自己嫌悪はどうでもいいが、リーマス、嫁の前でその態度は見せていないだろうな? 妊娠した妻を喜べない夫など、身重の嫁には有害でしかないぞ」

「ドロメダの近くにいてやれと実家に帰した。テッドが逃亡してしまったからな」

「ふむ。ならば良い・・・いや? いいのか? おいドロメダは何と?」

「ドロメダには私の浅はかさなど最初から見抜かれているよ。婚約を報告した時に釘を刺された。『いい歳をして、ずいぶんとわたくしの娘を振り回してくれたわね?』監督生に捕まったホグワーツの新入生どころか、首を刎ねられるブラック家のハウスエルフになった気分だった。だが、今回の件は、ドーラの安全と精神的負担に配慮してのことだとは理解してもらえた、と思う。君の従姉殿のことを悪く言うわけではないが、なんでドロメダからドーラのような快活で率直な娘が生えてきたんだろうな。我が姑殿は実に恐ろしい方だ」

 

ふん、と鼻を鳴らしてシリウスは椅子に凭れた。「純血主義にこそ染まっていないが、ブラック家の血が一番濃いのは、あの三姉妹の中ではドロメダだと思うぞ。私にはこう言った。『人狼なのは昔から知っているわ。正しく対処すれば問題ないと認識している。わたくしが気に入らないのは、わたくしの娘の身体に触れておきながら、きちんとした関係から逃げ回る卑劣さよ』ドロメダがこう断言した以上、彼女は本当に人狼病のことについてわだかまりはない。割り切ってしまったら、もう二度と迷うことのない人物だ。だが・・・ホグワーツ卒業前に駆け落ちしたテッドとそのまま結婚して、ずっと家庭を守ってきたからな。男女関係には潔癖なところがある。レイも娘のことには潔癖に見えるが、コンラッドが死んでからあの人なりにいろいろあったんじゃないか? おまえに対してドロメダほど厳しい評価はしていなかったように思う。おまえは何か言われたか?」

 

リーマスは首を振った。

 

「だが、ドーラには何か入れ知恵したのではないかと思う・・・結婚式の夜にドーラから『妻が出来た以上は、他所様で発散するのは認めないわ』と宣言された。他所様で発散していたことを知っているのはレイだけのはずだ。いや、キングズリーもだが、彼の場合は自分を棚に上げてドーラにそんな告げ口をする男ではない」

「なあ、ひとつ聞きたかったんだが、いいか?」

「いまさらだ。もう何でも」

「他所様で発散していたおまえは今まで孕ませたことはなかったのか? おまえが無責任に逃げ出したあとで妊娠に気づいた哀れな女性は?」

「避妊には充分な注意を払ってきた」

「だったらドーラにも」

 

リーマスが頭を掻きむしった。

 

「ああそうすべきだった! だが婚約を決めた時から、ベッドの中で必ず子供が欲しいと訴えられてはもう限界だったんだ! 私だって木や石で出来ているわけではない!」

「なら問題ないだろうが。ドーラは望んで、率直かつ計画的におまえをその気にさせ、結果を手に入れた。あとは赤子が無事に産まれるのを待つばかりだ」

 

やれやれ。リーマスとドーラほど年齢差があっても、こういうことになると男はからきし弱い。いつも女性のほうが計画的に勝利を手に入れる。

 

「む? そうでもないな。レイは、今にして思えばコンラッドのことには奥手だった気がする・・・ああ、ああいうところがレンに遺伝してしまったのだな、うん」

「ひとりで納得するな。私にも教えろ」

「教えてやってもいいが、その前に答えろ。おまえ、うちのハリーに噛みついてないだろな?」

「は、はあ?!」

 

シリウスは腕組みをした。

 

「どうも、ハリーはジェームズよりおまえに似ている気がする。世界の悲劇を一身に背負って、女を遠ざけることで問題解決した気になっているところなど、そっくりだ」

「・・・なんだその言い方は。私のことならともかく、ハリーに対してそんな風に茶化すな。おまえは父親代わりなんだ」

 

だからだよ、と机の上の写真立てをリーマスに向けた。「ジェームズの言いそうなことを考えて説教した。女のことに関しては特にな。今のハリーと1歳しか違わないのにジェームズは結婚したぞ? ジェームズとハリーの置かれた立場は違うが、状況はよく似ている。どんな状況であっても、惚れた女を手放さんという性根がハリーには足りてない・・・別れ話をした後も、キスを迫られると逃げきれんという・・・なんというか・・・な、おまえに似てると思わんか?」

 

「わ、私のことはともかくとして。ハリーだって、ジニーに対する感情が陰ったわけではないから仕方ないだろう? 理性では別れるべきだと判断しても、身体は感情を反映してしまうのだ」

「ふむ。ハリーの弁護にも使え、自分の言い訳にも使える表現だ。な? 似てるだろう!」

 

わっはっは! と笑い飛ばしてやるとリーマスは両手に顔を埋めた。

 

「そのまま恥じ入ってろ。ハリーに説教しながら、コンラッドとフェビアンのことを思い出していた。フェビアンの女がサウサンプトンのパブにいるとコンラッドだけは知ってたから、パブ巡りをして訃報を伝えに行ったことがあったろう」

「・・・ああ。酒を頭からぶっかけられたという一件だな?」

「そうそれだ。あの時の女は結婚しただろうかな?」

「何年経ったと思う。とっくにフェビアンのことなど忘れて家庭を築いていてもおかしくない」

「レイは?」

「は?」

「コンラッドとフェビアンは、女にとっては残酷な死に方をした。娑婆に出て来てから、私も多少は成長したのか、そう思うようになった。自分と子供を守って死んだ男を忘れて再婚は・・・無理だったのだろうな。フェビアンは・・・フェビアンというよりコンラッドだな、コンラッドはサウサンプトンの女に、それはもう馬鹿正直に『フェビアンはこんなにも君を愛していた、魔法使いの杖をマグルの君に見せるということは、君と結婚する意志があるということなんだ。魔法使いのこの戦争に勝ってからプロポーズするつもりでいた。戦争の大義はまた別にあるが、フェビアンにとっては君を魔法界に招き入れて幸せにするためにも勝たなければならない戦争だったんだ。フェビアンの気持ちを君にだけは理解していてもらいたい』というようなことを訴えて、そのお返し罵倒されたのだった・・・昔は意味がわからなかったか、こんなことを言われたら女は泣くに泣けんと思うようになったぞ、私は」

 

コンラッドはあの時指輪を持って行ったのだ、とリーマスが頬杖をついた。

 

「ぬ?」

「フェビアンのコートのポケットに入っていた指輪だ。モリーが見つけて、コンラッドを問い詰めた。フェビアンにそういう相手がいたのかと。コンラッドは確かそいつは預かり物か何かで、フェビアンに恋人はいなかったとモリーを納得させて指輪を回収したんだよ。その指輪を遺品として渡しに行ったのだ。愛していた証拠品としてな」

「あ、ああ! そうだった! それが引っかかっていたのだ。その女は指輪をさんざん逡巡しながらではあったが受け取ったのだ。うん、それだ。まあ、売っ払っていたならそれはそれで良いのだが、どうもレイとその女の印象が重なってしまう。自分を守るための戦争で男が死んだと聞かされて、女はどう反応すればいいのだ? 証拠品の指輪まで握らされて。映画やドラマなら、しおらしく泣き崩れてエンディングを迎えれば済むが、現実ではそうはいかん。その先の人生を生きていかねばならんからな。その男を過去のことにして新しい恋から恋へと飛び移っていけるものか? その女の言ったという言葉が突然思い出された。『他に女が出来たとかなら、しばらく泣いて10年も経てば忘れられるのに、余計なことまで言いに来るな』というような言葉だったな? ジニーもこの台詞にいたく同感するだろう」

 

ふむ、とリーマスが腹の上で指を組んだ。

 

「確かにな。ハリーはまだ別れ方が未熟だ。それこそ道端で出会ったマグルの女に夢中になってしまったということでも、言い方次第では信憑性があり、仲間内に迷惑がかからん」

「ハリーも今のおまえからだけは言われたくないと思うぞ。まあ、ハリーやコンラッドの気持ちもわからないではない。戦争に傾倒していく気持ちの中に女のためにというのは、惚れた女がいれば大なり小なりあるものだろうよ。自分や親友のその気持ちを正直に言って理解して欲しい。それはわかるのだが、言われた女にとっては一番残酷なことになる。私としては、ジニーがあの若さで、レイのようなパサパサした人生を送るようになるのは痛々しいと感じてしまうのだ。ドーラもだな。従姉の娘をどの単語で呼べばいいかわからんが、まあ、身内の若い娘だ。身内の若い娘が、老けた男に振り回されていると思うと、そこはかとなく腹は立つ。その老けた男が親友だから黙って見守る立場を選んだが、おまえの言う通り、父親代わりの身としては、ジニーの件だけは看過すべきではないと思う。他所様の令嬢にそういう傷を残して死ぬのは無責任甚だしい」

 

リーマスがボサボサの髪を掻きむしった。

 

「あまり言ってやるな。ハリーにとっては精一杯の誠意だったのだろうから。それにまだ死ぬと決まったわけではない」

「いや・・・私には要点をボカした話し方をしていたが、あれは死ぬ気だな。だからロンと喧嘩になったのだ。どうせ死ぬつもりならジニーとの別れ方にももっと配慮してやれだの、君に愛想を尽かす時間を与えてやれだの。あいつらの間では、既定の路線があるのではないか?」

「・・・なぜそんな」

「ダンブルドアやレイの母上たちがハリーを教育する中で、示唆があったのではないかと思う。まあ、その思惑を誤解して受け取っている可能性もないではない。今問い詰めても仕方ないだろう」

「しかし・・・いいのか?」

 

良くはない、とシリウスは写真立てを元に戻した。「だが、今のハリーに道理を説くのは逆効果だと思う。私なら余計に頑なになる」

 

 

 

 

 

ティンタジェルの騎士団本部兼ウィンストン家の邸の中にある伯爵の書斎の机に寄り掛かって、シリウスは机で眼鏡をかけてワインの在庫リストを改めている怜に「なあ」と話しかけた。

 

「なによ」

「あんたさ、コンラッドが死んだ後、泣いた?」

 

人を何だと思っているの、と在庫リストの銘柄に印をつけながら、軽くあしらうように答える。「感情が激した時に多少は泣いたと記憶しているわ。でも涙に暮れて1年も2年も喪に服す暇はありませんでした」

 

「ふうむ・・・暇の問題はともかくとしてだ。私は今ある少女が、あんたみたいなパサパサした人生を送らないように若者たちを見守る立場にある」

「そうね。自覚があってなにより。パサパサした人生かどうかはともかくとして」

「自分の男と別れる理由として、一番楽な理由ってなんだ?」

「・・・は?」

 

やっと怜が顔を上げた。

 

「ハリーがな、ジニーに別れ話をした。ところが、その話の持っていきようが馬鹿正直過ぎると、ロンに責められて喧嘩になった。『僕は戦いに行かなければならない。こんな状態で交際しているのは君のためにならない。君の安全のためにならない。だから別れよう』ってな」

「はあ・・・正直なのは悪いことではないわ」

「これにロンが不満なんだ。男ならカッコつけてないで、フラれてやれ。それがちゃんと別れるということだ」

「・・・一理あるわね」

「だろ? 私もそう思う。そこであんたに参考意見を述べてもらいたい。仮にコンラッドと別れるとして、あの当時にな? どういう別れ方なら、パサパサの余生を送らずに済んだか聞きたいんだよ」

「まあ、わたくしを秘密の守り人に守られた自宅に閉じ込めて、自分は他所で女性とよろしくやっていた、とか? それが判明した時点で、蓮を引っ掴んで日本に姿現ししてそのまま離婚したでしょうね」

 

シリウスはパチンと指を鳴らした。

 

「やっぱりだ」

「何なのよ」

「いや、男に死なれたある女の台詞さ。『他に女が出来たから逃げたとかなら、しばらく泣いて10年も経てば忘れられたのに』ってな」

「・・・同感ね。確かにコンラッドの場合は、ちっとも泣ける理由ではなかったわ」

「泣ける理由、それだよ。それがあるかないかで、ジニーのその後のパサパサ具合が決まると思わないか?」

 

眼鏡の下から冷たい視線で見上げられた。

 

「・・・パサパサじゃない、です、ね」

「シリウス」

「・・・イエス」

 

ワインのリストを机の上でトンと揃えて、怜が立ち上がった。

 

「泣ける理由があれば、その時は楽かもしれない。でもね」

「でも?」

 

死なれたら同じよ、とリストを持って立ち去った。

 

それを見送り、暖炉の前のソファに腰を下ろした。

 

「死なれたら同じ、か。ふむ」

 

考え込んでいると、怜が戻ってきた。

 

「まだいたのならちょうど良いわ。リーマスはまたあなたの邸に転がり込んだの?」

「あ、ああ。妊娠中のドーラひとりを家に置いておくより、テッドが不在のドロメダと一緒にいたほうが良いだろうと言っていた」

「・・・あの妊娠をリーマスは喜んでいないのね?」

 

シリウスは正面のソファに腰掛けた怜に向かい肩を竦めた。

 

「結婚を決めた時からドーラは子供を欲しがっていたらしい。リーマスはそれに流されたんだろう。合意は成立していたはずだが、実際にドーラの、なんだ、その、妊娠の様々な症状に、新しい命の実感を感じるたびにだな、生まれた子供に欠陥があったら自分のせいだという思いが募るのだろう。なあに、無事に生まれさえすればケロっとして親馬鹿になる」

「欠陥という表現は不愉快だわ」

「・・・申し訳ない」

 

脚を組んでしばらく考えていた怜が不意に口を開いた。

 

「機会があったら、コンラッドの話をしてあげて」

「へ?」

「彼は、蓮がお腹に出来たとわかった時、リーマスと同じパニックに見舞われたの。デラクール家の血を引いているから、人間じゃない子供が生まれたらどうしようと怯えた・・・『僕の祖母はマーメイドだ。その前にはセイレーンやヴィーラもいたらしい。美女の範疇なら巨人やトロールにもチャレンジしかねない家系なんだ。鰭とか尻尾とか羽が生えていたら僕はどうすればいいんだろう』作る前に言えと言いたかったわ・・・いくらなんでも巨人の子を無事に産み落とす自信はなかったから」

「・・・まったくだな」

「リーマスには、何かそのような遺伝的な特殊性があるのかしら?」

「いや。普通に純血に多少マグルの血が入っているだけだと思う。あいつのパニックはアレさ。人狼問題。それ以外にあるとは思えない」

「では仮に人狼ウィルスが赤ちゃんに影響したとしても、悪くても仔狼が生まれるだけね。満月限定の」

「お、おう。そういう表現をすれば可愛げがあるな」

「わたくしが直面していた不安に比べたら、狼の夫との間に仔狼が生まれることぐらい、可愛い問題よ」

「おっしゃる通りです」

 

鰭や尻尾の生えた赤ちゃん、と怜は小さく微笑んだ。

 

「まさか、生えてたのか?」

「いいえ。それは可愛い珠のような女の子が生まれたわよ。最近では憎たらしいけれど。でも、妊娠中にね、尻尾や鰭が生えていた場合の育て方を真剣に考えている自分に気がついて、まあいいかと思ったの。わたくしの身体はもうその赤ちゃんを育て始めていて、わたくしの気持ちもそれに応じて、尻尾や鰭の生えた赤ちゃんを自分の子供として受け入れている。だったら悩むことはないわ。生まれてから考えればいい。そう思ったの。まあ、さすがに生まれてすぐに、胸の上に赤ちゃんを差し出された時に尻尾も鰭もないことは確かめてしまったけれど」

「めでたしめでたしだな」

「それがそうでもないのよ・・・可愛い可愛い女の子だったから、わたくしは蓮のことを『わたくしのプリンセス』と呼んだわ。ところがコンラッドはなぜか『僕の王子だ』と呼ぶの。何度女の子よと指摘しても『僕の王子だ』とね。口には出さなかったけれど、複雑な気分だった。菊池家のほうは女系なの。魔女が当主になる。ウィンストン家にはそういうルールはないと聞いていたけれど、暗に男の子が欲しかったという皮肉かとも思ったわ」

 

そんなことはないだろう、とシリウスは顎を撫でた。「コンラッドは生まれた子供にそんな注文をつけるような男じゃなかった。普通の親馬鹿だった」

 

「ええ、そうね。様子を見ていれば、すぐにそうだとわかったわ。わからないのは『王子』の意味よ。それが去年やっと判明したの・・・蓮は、グリフィンドールの女子寮の階段を滑り台に変形させたそうよ。あなたなら意味はわかる?」

「あの階段は、男が女子寮に上がろうとすると変形するのだが・・・なぜだ?」

「階段が蓮を男だと認識してしまったのよ・・・」

 

怜が苦笑した。

 

「は・・・」

「義母のクロエに確かめたら、普通は生まれた時の性別のまま育てるから、義母やその兄にはその種の問題は起きなかったみたい。コンラッドにもね。まあ、フランスの伯父は女装が得意らしくて、若い頃は妹である義母の服を着て街に出ても違和感がないほどだったとか。そういう諸々はコンラッドには話してあったらしいけれど、わたくしは聞いていなかったわ。要するに、コンラッドは蓮の性別を『必要に応じてどちらにもなれる性』だとわかっていたの。だから、自分が幼い頃に義母から呼ばれていたように『我が家の王子』と呼んだのよ。どうしてそんな変化が起きたかはわからない。マダム・ポンフリーとマクゴナガル先生からは、幼児退行したり、闇の魔術への重度のアレルギーが出たり、通常経験しない異変が起きているから、マーメイドの血を引いていることも重なって起きた一連の異変の一部と解釈する、という極めて大雑把な連絡があったけれど、ねえ、シリウス、わたくしがどれだけ死んだ夫を罵りたかったかわかる? 『こんな大事な話は死ぬ前に言え』と言ってやりたかったわ」

 

シリウスは困って首を捻った。

 

「まあ・・・あんたの言いたいことはわかるが・・・コンラッドも死ぬ気はなかったのだし・・・あんたを混乱させるよりもだ、将来、尻尾でも鰭でもないナニが生えてきたら自分が教えてやればいいと・・・思ったんじゃないのか?」

 

そこなのよ、と怜は微笑んだ。「満月限定の仔狼が生まれて来ても、満月限定の狼のパパがいれば、なんとかなるものではないかしら?」

 

「あ、ああ! なるほどな!」

「わたくしの場合と違って、ドーラもリーマスの病気については理解しているわ。仔狼が生まれる可能性も覚悟した上で欲しいと思った赤ちゃんよ。生まれてみたら仔狼だったとしても、特に動揺はしないでしょう。わたくしなんてね、妊娠がわかってからマーメイドだのヴィーラだのセイレーンだの巨人だのトロールだの聞かされたのよ? それでも妊娠を継続することを望んだわ。尻尾も鰭もないことに内心安堵していたのに、夫が死んでから性別が変わるという異変に見舞われても、なんとかやっている。ドーラのもとに仔狼が生まれて来たとしても、世界が終わるような大事件だとは思えない」

「うむ」

「もちろんリーマスにとってのその不安は、自分の根幹に関わる問題だとわたくしもわかっているわ。彼はずっとその苦悩を抱えて人生の大半を歩んできた。同じ苦悩を我が子やドーラに強いる結果を恐れる気持ちは、誰よりも強いことでしょう。でも、ドーラにとっては強いられた苦悩ではないの。彼女は自分で選択したのよ。愛する夫の子供を産むことを望んだの。リスクは承知の上でね」

 

熱を込めて言う。シリウスは黙って頷いた。

 

「リーマスの場合は、人狼という問題が明確なだけまだ覚悟ができるわ。マグルの両親のもとに魔女が生まれることもある。ねえ、ハーマイオニーのご両親がどれほど困惑しながら育てていらしたか想像できる? それでもあれだけ愛情深く聡明な魔女に育て上げたの。わたくしは、お手本通りの育児には失敗した気がしてならない上に、自分が育てたのが魔女だか魔法使いだかもわからない有様だけれど、それでも蓮のことを愛しているわ。もうこの際だから、連れて来るのが婿でも嫁でも文句は言わない。出来れば、あと数年後、蓮本人の精神が充分に大人として安定してから、恋愛や結婚については考えてもらいたい。注文はそれだけよ。モリーとアーサーは、ジョージの暴力がきっかけで蓮をアンブリッジに近づける結果になったことをとても気に病んでいるけれど、わたくしはその逆。蓮が入学した時から、たびたび贈り物や手紙が届いていたことを知っているし・・・自分たちのビジネスばかりでなく、フランスでの支援活動を頑張っているのを見ても、良い青年だと思うわ。性別も不確かな蓮のことなんて早く忘れてフランスで素敵な魔女と出会ってくれないかしらね? 肝心の蓮は、スーザンとルームシェアしているけれど、これも心配よ。紳士らしからぬ非礼を働いたら、わたくしはボーンズ御夫妻にどうやって償えばいいのかしら」

「・・・おい。いつのまにか娘の愚痴になってる」

「失礼。とにかくね、人狼病というのは、リーマスにとってはネガティヴな運命だろうけれど、そのネガティヴな認識を、妻子に押しつけることはどうかと思うの。ドーラは仕方なくリーマスと結婚したわけではないわ。望んで結婚したのよ。妊娠もそう。ドーラが望んだことでしょう? たとえ満月限定の仔狼が生まれてもパパに似たと喜ぶと思うわ。ドーラや我が子に勝手に悲劇を見出すのをやめて、まずは2人の間に生命が授かったことを寿ぐべきね。人狼病の男を、この人の子供が欲しいというほど愛してくれる女性が現れた幸福を自分の認識ひとつで台無しにするのは大きな過ちだわ。自分の責任を感じるのならば、狼のパパとしてきちんと生きていくことが責任を負うということよ。ドロメダに預けたままにしないで、数日に一度はママと赤ちゃんに会いに行きなさい。現実から逃げないで。逃げずに向き合ってみれば、そこにはこれまで見落としていた善きものを必ず見出すことができるわ」

 

 

 

 

 

そうだよ、とハリーが眼鏡をTシャツの裾で拭いてあっさりと答えた。「伝説的な階段落ちだった。あの男子禁制の魔法、せいぜい1階分かと思ってたら、レンが落ちた時、レンやハーマイオニーの5階の部屋の前からすとーんって滑り台に変わってたらしいよ」

 

「・・・なるほどな。ハーマイオニーたちはそんなレンをどう受け止めたのだ?」

 

唖然とするリーマスをあえて無視してハリーに尋ねる。

 

「なんていうか・・・ハーレム? ハーマイオニーとパーバティは責任感じて世話したがるし、スーザンには責任はないけどハーマイオニーたちの世話でこうなったんだから自分が一番近くで世話するって言い張って喧嘩になりかけた。肝心のレンは、階段から男扱いされたショックで女の子たちには近づいて欲しくないって言うし」

「排斥したわけではなく?」

「ないよ! 特に仲が良かったわけじゃない奴らでも『まあレンなら何でもアリだろ』で済む話だしね。ちょっと階段の認識が変わっただけで、レン個人の人格は変わったわけじゃない。人格が変わったのはその前の年。だからみんなもう慣れてるっていうか」

 

食後のお茶を飲み終えたハリーが「リーマス、大丈夫なの?」と、シリウスの耳に囁いた。

 

「問題ない。これからゆっくり話すから、君はもう休みなさい」

 

ハリーを部屋に送り出し、頭を抱えたまま動かなくなったリーマスの目の前で、パシン! と手を叩いた。

 

「あ、ああ、すまない。想像を絶する話で、つい」

 

レイが言っていたぞ、とシリウスは自分の席に座り直した。「生まれてくる子供が健康かどうかを案じる気持ちは、誰しも持っているらしい。レイの場合は、健康云々ではなく、人間の形をしているかどうかさえ怪しいということを妊娠してから聞かされた。コンラッドが悩み始めてからな。『作る前に言え』と喉まで出かかったそうだ」

 

「・・・中絶などは考えなかったのだろうか」

「それどころか、尻尾や鰭が生えた赤ん坊を育てるにはバスルームをプールに改装するべきかを真剣に考えたらしい」

 

惚れた男の子を産むというのはそういうことだそうだ、と若干の脚色を加えた。「ドーラや我が子に、勝手に悲劇を押しつけるな。責任を感じるのなら、満月限定の仔狼のために、満月限定の狼のパパになれば済むことだ。生きて責任を背負え。コンラッドが死んでから、それも成人してからレンの特異体質が明らかになったレイは気の毒なことに、レンの行く末をひとり切なく案じるしかないのだ」

 

「・・・うむ。そうだろうな」

 

切なさは微塵も感じなかったが、そういうことにしておく。

 

「恋愛や結婚を考えるべき年齢になってから急に娘が息子になるというのは想像を絶する苦悩だろう。それでもハリーの言うように、もともとの個性として受け入れてくれる友人に恵まれていたことで、レンは大いに価値ある人生を歩んでいる。ハーマイオニーもスーザンも、性別が変わったレンとルームシェアしても良いぐらい親密な友情で結ばれていると感謝していた」

 

紳士にあるまじき非礼の予感に胃を痛めていた。

 

「そのような壮絶な経験をしたレイにしてみれば、おまえの悩みなどリスク要因が明確な分むしろ恵まれているように見えるらしい。ハーマイオニーの両親がどれほど困惑しながらハーマイオニーを育てたと思う? 想定出来ない病を抱えて生まれる赤子はいくらでもいる。そもそも子に恵まれぬ夫婦も少なくない。魔法使いと魔女からスクイヴが生まれることもある。私自身には女も子もいないが、それぐらいはわかるぞ」

 

習ってきたからな。

 

「今おまえのするべきことは、まずドーラが健康で安全に出産まで過ごせるよう、不安を与えぬことだ。ドロメダのもとに預けたのは良い。レイが言うには日本ではそういうことも多いらしい。家事に不慣れな夫よりは実母のほうが世話が行き届くからな。しかし預けっ放しは問題だ。数日おきに会いに行き、ドーラの体調を尋ね、腹の赤子の名前でも共に考えることだ」

「い、いや、しかし。生まれてもいないうちに」

「どのような赤子が生まれようと名前は必要だ」

「性別が」

「男の名と女の名両方を考えておけ。レイが言うには、じきに腹が目立ってくるし、赤子が動くのがわかるようになるらしい。そういう時に夫の訪れがないままでは、ドーラの体調に良い影響は与えない。おまえが悲劇を背負って酒を飲んでいる間、ドーラは様々な体調不良に苦しんでいる。おまえは将来の不安を酒で紛らわすことが出来るが、ドーラには酒は許されん。いかなる薬もダメだ」

「な・・・」

「なんだ、知らなかったのか。私でさえ知っている常識だぞ」

 

習ってきたからな。

 

「男にはわからん現実を見もしないうちに、苦悩を背負って酒に逃げるのか? ん? ところでおまえの祖先に巨人はいるか?」

「は、は?」

「いや、あのレイでさえ巨人の子だけは産む勇気がないらしい。母が巨人で父がヒトならば良いが、母がヒトで父が巨人となると、物理的に悲劇が起きるとまで言って怯えていた。それならば無責任に励ますわけにはいかん」

「い、や? 巨人の血は流れていない、と、思う」

「それはなによりだ。知っての通りブラック家に巨人はおらん。テッドのほうはマグルだからやはり巨人はおらん。物理的悲劇の可能性は消えたな」

 

立ち上がって、蒼白になったリーマスの背中をバシンと叩いて、ダイニングを後にした。

 

 

 

 

 

シリウス、と書斎にハリーが入ってきた。

 

「どうした?」

「最近、書斎で仕事してるって聞いたけど、何の仕事?」

「私はな、ハリー、おじいさまは無職、というのはいささか格好がつかんと思い始めたのだ。幸いグリンゴッツの金庫に行けば金貨に困ることはないが、だからといってぷらぷらしていてはな。かといって、今さら改まった職に就いて訓練から始めるわけにもいかん。さしあたりは、我が家の財産を整理することから始めようと思う。1000年前から金庫に適当に放り込んであるばかりで目録もない。さらに、君の取り分が減るので相談するつもりでいたが、いい機会だ」

「な、に?」

「クリーチャーの証言により、レギュラスはもはや行方不明ではなく死亡したと思われる。だが、記録上は行方不明のままだ。よって、金庫を整理するにあたって、レギュラスの持分は確保できるように思う」

「うん? あ、そうなんだね」

「その金は、私が運用しても良いので、レギュラスの持分を原資として、運用益を何かに役立てることが出来ないか考えている。例えば、今、レンたちがフランスに難民を送っているが、彼らの暮らしは大陸の魔法族からの寄付や国連の難民支援政策によって賄われていると聞く。そうした社会貢献に、レギュラスの持分の運用益を充当するのだ。具体的に何が出来るかはまだわからんが、そうした仕事をしようと考えている。実際に私に出来る作業は少ないので人を雇うことになるが、それはそれで、マグル生まれの難民が帰国した際の雇用を提供することにもなるだろう。無論、君が賛成してくれるならの話だがな」

 

賛成するよ、とハリーが勢い込んだ。「僕の取り分なんて気にしなくていい。そういう使い道を考えてくれるなら、大歓迎だ」

 

「気にしなくていい、というのは?」

「・・・いや。大した意味はない、よ」

「君は嘘をつくのが得意とは言えない。なあ、ハリー。自分の生死を度外視しなければ戦えない時というのは、もちろんある。チェスと同じだ。駒を取らせて、他の駒を進める。そうだな?」

「・・・うん」

「だが、駒が勝手に死にに行くチェスは試合にならん。死ぬべき時に死ぬべき場所で役目を果たす。チェスの駒とはそうでなくてはならない。ハリー、君はチェスプレイヤーか? それとも駒か?」

「・・・駒だよ、もちろん」

「そうだ。だからこそ君は、自分の生死を度外視して役目を果たすことを決意した。そうだな?」

 

ハリーは唇を結んで頷いた。

 

「君のチェスプレイヤーは、今君に死ねと言っているのかね?」

「・・・え?」

「良いか? チェスは始まったばかりだ。今この時点で取らせる駒を決められるチェスプレイヤーがいると思うか? 盤面が進んでいくに従って捨てなければならない駒が自ずと見えてくるものであって、はじめから勝手に死ぬ気の駒など好んで使うプレイヤーがいると思うか?」

 

でも、とハリーは俯く。

 

「自分の生死を度外視して戦う気概を捨てろとは言わん。だがその生死は、チェスが終わるまでプレイヤーに預けなさい。盤面の途中で君という駒の命を使うかもしれない。最後まで残すかもしれない。生死を度外視して戦うというのは結局のところそういうことなのだ。自分で勝手に死に場所やタイミングを決めてはならん」

「・・・はい」

 

まだ納得出来ていないか、と内心苦笑して、シリウスはしばし言葉を選んだ。

 

「ハリー」

「はい」

「今のリーマスをどう思う?」

「え、どうって?」

「ドーラの妊娠に狼狽え、ドーラを実家に預けてここに逃げ込み、夜になると酒を飲んでベロベロだ。そういうリーマスを君はどう思うかね?」

 

ちょっと、とハリーが言葉を濁した。

 

「うむ。ちょっとどうかと思うだろう?」

 

ハリーが小さく頷いた。

 

「妊娠はドーラがひとりで出来ることではない。リーマスも共同制作者のはずだが、今、悪阻とかなんとかいう体調不良に耐えているのはドーラひとりだ。私も驚いたが、妊娠中というのは酒はおろか、薬も極めて限定されるので、いかに具合が悪くても薬を飲むことも出来ずただひたすら横になって回復を待つしかないらしい。妻がその状態であるというのに、共同制作者は我が子が人狼病を背負って生まれるかもしれない恐怖から逃げるために酒を飲む。ドーラは私の身内でもあるから、率直に言って、リーマスの腰抜けぶりには失望している」

「や、そこまでは言わないけどさ・・・うん」

「けど?」

「もっとトンクスの近くにいてあげればいいのに、って。ちょっとそう思うよ。僕なら・・・きっとそうすると思う」

「そうか」

「うん。何をしてあげればいいかわからなくても、指示されれば手足の代わりにぐらいはなれると思うから。トンクスはそのほうが幸せだと思うし」

 

そうだな、とシリウスは目を細めた。「そこまで理解しているのなら、これ以上君自身に言及するのは野暮なことだろう」

 

「・・・う」

「ああ、だがひとつだけ訂正がある。私は、なにしろ20歳からアズカバンにいたので、女心の専門家とは言えない。よって、先日話した『泣ける理由』について、女心の持ち主に尋ねてみた。『他に女が出来た』という類であれば、しばらく泣いてあっさり男を忘れて幸せになれるものかと。彼女はこう答えた。『別れ話ならね。別れ話なら、ちょっとだけ泣いて別れるにはちょうどいい。でも』」

「・・・でも?」

 

その真剣な声色に、シリウスは思わず苦笑した。

 

「『死なれたら同じよ』だそうだ」


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