サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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第1章 ハリー・ポッターの誕生日

穴あけドリルの会社を訪ねると母が言い出したのは突然だった。

 

ウィンブルドンのハーマイオニーの家で宿題をして、自転車で帰ってきたら突然に、だ。

 

濃紺のスーツを着て、ブロンドに近い淡いブラウンの髪をアップにまとめた母は、魔女にはとても見えない。

 

玄関の壁に自転車を架けながら「ふうん」と蓮は頷いた。「いってらっしゃい」

 

「グラニングズ社に行ったら、サレー州までドライブよ。動きやすい服装でね」

「・・・はい?」

「サレー州からデヴォンに行くけれど、これはちょっとだけ車を飛ばすことにするわ」

「フラメルのお家に行くの?」

「いいえ、隠れ・・・あ、あなたまだ知らなかったわね。じゃ、行ってからのお楽しみ。そうそう、お母さまの書斎の机の引き出しに、マグルの万能鍵が入っているわ。使い方を覚えておいて」

「・・・わたくし、校則違反どころか犯罪に巻き込まれるのかしら?」

 

蓮は冷えた微笑を浮かべたが、母は一向に頓着しない。

 

「あなたとハーマイオニー、ハリー・ポッターと連絡が取れないって心配していたでしょう?」

「それとこれとにどういう関係が」

「ハリー・ポッターを迎えに行くのよ。どうやら、荷物は全部取り上げられて、鍵付きの物置に隠されたみたい。お母さまが、ハリーのおじさまやおばさまと夕食をいただく間に、あなたは万能鍵で物置を開けて、ハリーを車に乗せておきなさい」

 

ぽかんと口を開けた蓮をよそに、母は鼻歌混じりに出かけていった。

 

 

 

 

 

「ベッドタウンだから、渋滞するわね」

 

トントンとハンドルを指先で叩きながら、母が呟く。

 

「だったら、穴あけドリルの会社なんて後回しにすれば良かったのに」

「穴あけドリルの会社がハリーのおじさまの会社なのよ。ちょっとだけ魔法を使って、今夜は顧問弁護士になってもらいたくてたまらない優秀な弁護士を夕食に招くつもりになってもらったの」

 

蓮は横目で母を睨んだ。「そんな手段が使えるなら、もっと早くにハリーを救出すれば良かったのに」

 

ハリーの話や母の話を聞く限りでは、もはや虐待のレベルだ。

 

「今日までは絶対にダメだったの」

「今日?」

「ハリーのバースデイ」

「サプライズ?」

 

母は笑って首を振った。「ちょっとしたおまじないよ」

 

 

 

 

かちゃかちゃと物置の鍵を万能鍵で開けている間に、2階で大きな物音が聞こえた。

 

「ハリー? あの巨大な家族以外にも家族がいるの?」

「そんなはずないけど、ちょっと見てくるよ。気をつけてね。バーノンおじさんが出てきたら」

 

言いかけるハリーに手を振って黙らせた。

 

物音は一向に止まない。

 

蓮は手早く万能鍵を回した。

 

ハリーによれば、この物置はダーズリー一家にとって忌まわしい道具だらけの場所らしい。つまり全てハリーのものなのだから、全部持ち出しても構うまい。

 

母が少し声を高くして「まあ、ミスタ・ダーズリー、わたくしのゴルフの腕前なんて、とてもお話しできるレベルではございませんのよ」と言うのが聞こえた。

 

物置の中の電気を点けると、階段の裏からぱらぱらと埃が落ちてくる。

 

こんな風に見えない場所は埃だらけの家が、あのダーズリー家の家族にとって聖域だというのだから。

 

蓮は肩を竦めると、まずニンバス2000のケースから運び出すことにした。

 

ジャガーのトランクにニンバスを収め、次のスーツケースはハリーに運ばせようと考えながら、玄関をそっと開けると、パタパタっとハリーが階段を降りて行った。

 

キッチンに向かって何やらパントマイムを演じている。

 

蓮は首を傾げ、足音を忍ばせてハリーの背後からキッチンを覗いた。

 

ーーハウスエルフ?

 

なぜこんなところにハウスエルフがいるのだろう。

お世辞にも清潔とは言えないハウスエルフだが、それが一般的なハウスエルフだということはもう知っている。

 

蓮の家のウェンディは、メイド服とヘッドドレスがお気に入りだ。母と買い物に出かけて素敵な生地を買ってきては自分で縫い上げる。

 

「ダメ、お願いだ、僕、殺されちゃうよ」

 

ずいぶん大袈裟だ、とキッチンに再び目を向けると、山盛りのホイップクリームとスミレの砂糖漬けが天井近くを浮遊している。

 

ふうむ、と蓮は観察した。

家族は常々「杖使いの魔法だけが魔法ではない」と言う。「むしろ杖など使わずに魔法を使いこなすハウスエルフやゴブリンのほうが、原始的であるからこそ、より強力な魔法を使うことが出来る」

 

「ドビー、お願いだ」

「どうぞ、学校に戻らないと言ってください」

 

蓮は肩を竦め、物置に向かった。

 

ハリーの何が入っているのかわからない無駄に重たいスーツケースをトランクに押し込み、2階の小さいほうの寝室(大きいほうの寝室からは、脂肪酸が酸化する悪臭がするので、あの巨大な従兄の部屋に違いないと思った)に入り、フクロウのヘドウィグを鳥籠ごと連れてきて、後部座席に載せると、なぜかキッチンと廊下にモップがけしている、頭からホイップクリームをかぶったハリーの頭の上に、ヘドウィグとはまた別のフクロウが舞い降りた。

 

「まあ! わたくしとしたことが! 奥さまに是非このアイスクリームのレシピをうかがわなくては」

 

フクロウに意識を向けさせないためだろうけれど、ものすごく胡散臭い。

母はそもそもイングランドの料理に一切の期待をしていない。

 

「ハリー」と声をひそめて、バスルームから失敬してきた古びたタオルをハリーに投げた。「急ぎましょう」

 

 

 

 

玄関から出るとハリーが固まった。

 

「なにやってるの、急いで乗って」

「僕、こんな格好で乗れないよ、こんないい車」

 

蓮は黙ってハリーを後部座席に押し込んだ。

自分が助手席に乗り込むと「さっきのフクロウの手紙は?」と尋ねた。

 

「うん、持ってきたよ。学校からかな?」

「開けてみたら? 母が出てくるまでに間があると思うから」

 

そうする、と言って封を切ったハリーの顔が青ざめていく。

 

「どうしたの?」

「ぼ、僕が法律に違反したって。どういうこと?」

「さっきのハウスエルフじゃない? あのハウスエルフ、お宅のハウスエルフじゃないでしょう?」

「うん、僕、初めて見た」

「この家にあなた以外の魔法使いがいないことはわかってるから、この家で魔法が使われたら、必ずハリーが魔法を使ったと思われるの。だから、わたくしもさっきマグルのこそ泥みたいなことをしたし、母はあなたのおじさまの会社に先に行っておじさまに魔法をかけた。あまり気にしなくていいわよ。母がこの場にいたんだから、警告ごと取り消してくれるわ」

 

ハリーがおずおずと「マルフォイのパパみたいに?」と言うので、蓮はむむっと唇を尖らせた。

 

「一緒にしないでくれない? わたくしの家族は、魔法省やホグワーツに圧力をかけて喜ぶような恥知らずじゃないわ。さっきの件は、あなたが魔法を使ったわけじゃないと母が証言すれば解決する問題だというだけよ」

「ご、ごめん。証言してもらいたいよ、僕、こんなことで退校処分にされたくない」

 

その時、玄関ポーチに灯りがついて、玄関ドアが開いた。

蓮とハリーは慌ててシートの足元のスペースにうずくまる。

 

「いや、大したお構いも出来ませんで」

「ご謙遜を。ご自慢の奥さまのお料理を堪能させていただきましたわ」

「それでですな、レディ」

 

あら大変! と母が声をあげた。「娘の乗馬のレッスンの終わる時間ですわ。慌ただしくて申し訳ございません、わたくしはこれで。顧問の件は後日改めて」

 

誰の乗馬のレッスンだ、と蓮は笑い出したいのを必死で我慢した。

 

 

 

 

「さて、運転しながらで申し訳ないわね。はじめまして、ミスタ・ポッター、ハリーとお呼びしても?」

「あ、は、はい。僕、ハリーです。今日はありがとうございました」

「蓮とハーマイオニーが心配してましたからね。それから、ハッピーバースデイ。お祝いにはならないかもしれないけれど、マクドナルドでもどう? ハリー、あなた夕飯を食べていないでしょう?」

「ま、マクドナルド? 僕初めて!」

 

はあ? と蓮は声をあげた。「マグル育ちなのに?」

 

「蓮」

「いいんです。ダドリー、従兄はたぶん連れてってもらったことあると思うけど」

「あの従兄に何食べさせても同じじゃない?」

「蓮! ごめんなさいね、この子、口が悪くって」

 

ハリーは急いで首を振った。「僕もそう思ってますから」

 

サレー州の国道にちょっとだけ出て、ドライブスルーでハンバーガーやポテトを買い込むと、今度はひとけのない森に車を走らせた。

 

「お母さま、道に迷ったの?」

「違います。デヴォンまで『飛ぶ』って言ったでしょう? マグルに見られるわけにはいかないから、ちょっと隠れるのよ」

「と、飛ぶ?」

「・・・まさか、車を改造したの? ハーマイオニーのパパが聞いたら泣くわよ」

 

ポテトを食べながら、蓮が母を睨んだ。

 

「そんなことしてると、いつか魔法省・・・あ、お母さま、さっきハリーに魔法省から手紙が来たわ」

「ああ、未成年魔法使いの魔法使用制限条例違反の警告?」

「はい」

 

ハウスエルフが盛大にやってくれたからね、と母が笑った。「いいわ、その書面をいただける? これから行く家のご主人に処理していただきましょう」

 

「だから、どこに行くの? デヴォンのどなたさま?」

「みんな大好きウィーズリー家よ。隠れ穴っていう愛称がついてる素敵なお宅なの。ハリーは今夜から新学期までウィーズリー家に滞在することになってるわ」

 

ハリーが目を真ん丸にした。「ロンの家?」

 

「ええ。ハリー、みんなあなたのことを心配していたの。ウィーズリー家の双子とその下の・・・ロン? その子たちが、空飛ぶ車を夜中に飛ばそうとするぐらいにね」

 

言いながら、母がハンドルについたスイッチを入れると、目くらまし術をかけたときのように、全身がひんやり冷えて、自分が車ごと透明になるのがわかった。

 

「よし、飛ぶわよ」

 

 

 

 

 

それは素晴らしい眺めだった。ハンバーガーが見えないと困るので、高度を十分に上げてから「透明ブースター」のスイッチを切ったけれど、ロンドンを背に西へ西へと海沿いを飛ぶ。

 

アクセルを全開にしているから、絶対に窓を開けてはいけないと言われていなかったら、窓を開けて空気を胸いっぱいに吸いたいぐらいだ。

 

「エクセターね、もうすぐよ」

「エクセターの近くにロンの家があるんですか?」

「エクセターの近くのオッタリー・セント・キャッチポールという小さな村にね。小さいけれど温かくて素敵なお宅だから、ハリーにとって残りの夏休みは素晴らしいものになるわ」

「わたくしたちも泊まるの?」

 

あなたね、と母が苦笑した。「男の子だらけのウィーズリー家にあなたが泊まったと知ったら、日本から猛スピードで突撃しそうな人がいること忘れたの?」

 

蓮はキングズクロス駅での苦い経験を思い出して口を噤んだ。

 

「よし、降りるからまた透明になるわよ。その前に、と」

 

母が杖を軽く振ると、杖先から銀色の靄が出て龍の形を取った。「レイよ、モリー。もうすぐ着くわ」

 

 

 

 

静かにジャガーが草むらの中に滑り込むと、鶏を蹴散らして中年の福々しい印象の魔女が「レイ!」と叫びながら突進してきた。「あなたがまさかこんな・・・車に魔法だなんて!」

 

運転席で母が溜息をついた。「ハリー、降りて。あなたの顔を見ればモリーの機嫌が良くなるわ、ロンのママよ」

 

「は、はい!」

「蓮も降りてご挨拶なさい」

「ロンにはいつもお世話になってます?」

「ロン、フレッド、ジョージ・・・あともう1人か2人いない?」

「パーシー」

「それも込みで」

 

蓮が車を降りる頃には、高さを追求した、ピサの斜塔のような絶妙なバランスの家から、わらわらと人が出てきた。

 

「はじめまして、ミセス・ウィーズリー。わたくし、蓮・ウィンストンです。ロンの友人で、ご兄弟のみなさんにもお世話になっています」

 

むぎゅ、と頬を両手で押さえられた。「お行儀の良い子! レイによく似た美人だわ、いいえ、コンラッドに似たハンサムかしら、どちらでもいいわね。今からロンドンに帰るなら、遅くまでは引き留めないから、お茶だけでも飲んでいきなさい」

 

「ありがとうございます、ミセス・ウィーズリー」

 

振り返ると母が中年の赤毛の男性と運転席を覗きながら話し込んでいた。「この前の魔術式じゃ、透明ブースターが安定しないわよ、アーサー。少し手直ししてみたら、問題なく動作したわ。試してみて」

 

「この間から、息子たちが車を飛ばそうとばかりするものだから、モリーが不機嫌なんだ。魔術式は魔法省で受け取るよ」

「あ、そうそう。これ、処理しておいてくれない? ダーズリー家で魔法を使ったのは、侵入してきたハウスエルフなの。ハリーじゃないわ。わたくし、そのときダーズリー家で食事していましたから、証人よ」

「ハウスエルフだって? マグルの家に侵入?」

「その件は調べておくから、ハリーへの警告取り消しをお願いね」

 

蓮は、ロンに引っ張られていくハリーの肩をポンと叩いた。「ハッピーバースデイ、ハリー」

 

ハリーは幸せそうににこっと笑った。


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