サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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第18章 静かな国

姿現しの回転を止めて着地した場所は静かな森の中を流れる渓流の傍らだった。

 

付き添い姿現しのために繋いでいた手を離した蓮が、スーザンの分もトランクを持ち上げる。

 

「レン、荷物はわたしが持つから」

「平気だよ。足元が危ないから、スーザンは気をつけて歩いて。わたくしなら慣れてる」

 

それはそうかもしれないけれど、とスーザンは蓮に導かれるまま歩きながら考えた。

 

日本で療養すると決めてからの蓮は目に見えて沈んでいた。今もそうだ。

身体が思うようにならなくても、ラムズゲートで療養していても、彼女の中から失われなかった活力めいたものが静かに沈殿していくのが痛々しい。

 

「この森は、一応神域ってことになってるから、他人は入って来られないんだ。それだと不便だから、実家に滞在しようと思ってる。ベッドは無いけど、ちゃぶ台の前に正座しろとは言わないから安心していいよ。ダイニングテーブルぐらいはあるから」

「日本的な家屋なのね?」

「そういうこと。でも、ひいじいはロシア人で、じいじはブルガリア人だろ? 畳に布団敷いて寝るのは我慢出来ても、食事中の正座に耐えられないからダイニングだけは洋風なんだ」

「ジンジャはどなたかに管理していただいてるんじゃなかった?」

「うん。隣村の神主さんに神社業務はお願いしてある。だからもちろんその隣の社務所、えーと、神社のオフィス。神社とオフィスは使えない。ウチの実家は、そのオフィスの裏手にある私有財産だから使っても大丈夫だよ。もしかしたらばあばやじいじが帰って来るかもしれないけど、それは気にしなくていい」

 

気にするなと言われても、とスーザンは苦笑する。

 

先を歩く蓮が肩を竦めて「ホムンクルスの件は、怒られるだろうけど、話さないわけにはいかないから、仕方ないけどね」と呟いた。

 

 

 

 

 

屋敷の引き戸を開けた蓮が「うげ」と足を止める。

 

「レン?」

「ヤバい。2人ともいる・・・待ち構えてる」

 

屋敷の奥から「蓮か!」という大音声が響き、ドタドタと盛大な足音が近づいてくる。

 

蓮が思わず首を縮めた隙に、スーザンの背後から伸びた腕が蓮を背中から抱き締めた。

 

「よくやったわ! 半分諦めていたのに曽孫が出来るなんて夢のようよ!」

「曽孫じゃない、ホムンクルスだよ! ママからどんな説明を聞いたのさ!」

「いいや曽孫だ! 曽孫で間違いない! おお、君がスーザンだな? 君のおかげでワシの曽孫は完璧な存在になった!」

「しかも名前が伊織だなんて! 完璧な依代の名前よ! トムの奴、絶対に触れることすら出来ないわね! あっはははは! ざまあみろだわ!」

 

蓮とスーザンは、お互いの顔を見合わせてお互いの顔に戸惑いしか見つけることが出来なかった。

 

 

 

 

 

オズボーンハウスの書斎で文献に埋もれている怜に、ハーマイオニーがコーヒーを出して休憩を促すと、時計を見上げた怜が「もう日本に着いた頃ね」と呟いて伸びをした。

 

「ああ、コーヒーありがとう、ハーマイオニー」

「日本のおじいさまおばあさまの反応はどうでしょうか? かなり苛烈な御夫婦と聞いているので心配なんですけど」

 

怜はあっさりと「狂喜乱舞でしょう」と思わぬ予想をした。

 

「・・・え」

「蓮とスーザンはごちゃごちゃ悩んでいるようだけれど、あの2人のやらかした『失敗』は、大局的に見たらチェックメイトみたいなものですもの」

 

わたくしも一応神社の娘ですからね、と怜は苦笑する。

 

「おばさま、それはどういう・・・」

「日本では空っぽの器に魂が入ることで命になると考えるの。その魂が善なる魂か、荒ぶる魂かが問題。ここまでは理解出来て?」

「え、ええ」

「善なる魂を器にきちんと結びつける儀式を経たら、その子は善なる存在よ。それが日本古来の神事の一種。蓮はスーザンに名前を選ばせ、スーザンはその中から『伊織』を選び取った。悪しきものを嫌う清浄性を保ったスーザンが、武人に多い名でもある伊織、それから物事を織りなす意味を持つ伊織の名を選んだ。つまり、その子に降りてくる魂は善なるものを織りなす、あるいは善なるものを宿して戦う、そういった性質の魂になる。それが日本神道的な概念になるわね」

 

ハーマイオニーは目を見開いた。

 

「まあ、蓮はそこまで深いことは考えていないでしょう。わたくしもドロメダたちと名付けの魔法を検討していた頃には頭になかったから。ただ、わたくしも蓮も日本の神社で幼い頃に育ったわけだから、思考のバックボーンにこうしたイメージがあったのだと思うわ。わたくしの母は一応、神職になるために大学で学んだ人だから、蓮やスーザンが西洋錬金術的にホムンクルスを嫌悪している点を、東洋の哲学で指摘してくれると思うわよ。あの2人が前向きな受容をすれば、伊織の守護はもっと厚くなる」

「・・・もしかしたら、トムくんはイオに触れない、とか?」

 

正解、と怜は微笑んだ。「日本古来の哲学では、基本的にみんな神様なの。草木も石も水も火も、とにかく全部神様由来。存在の根底には善も悪も無い。ただ、神様は扱いを間違うと祟る。悪神になる。これを荒ぶる神、荒御魂(アラミタマ)と表現するわ。この世には荒御魂と和御霊(ニギミタマ)があるのよ。空っぽの器を放置していたら荒御魂が棲家にして、周囲に悪影響を及ぼす。だからホムンクルスという善でも悪でもない空っぽの器に、和御霊をきちんと結びつけて、きちんと大切に取り扱う。これが基本的な思想だと理解すればいいでしょう。蓮は渋々ではあっても、ホムンクルスを空っぽのままにしておくのが気持ち悪かった。だから、スーザンに御霊入れの儀式を頼んだ。日本の哲学的にはそういう形になるわ。ウチの母が喜ばないわけないじゃない?」

 

ハーマイオニーはこの思想体系を咀嚼するために、しばらく黙ってしまった。

 

「・・・でもスーザンもレンも、まだしばらくはきちんとした儀式は無理だと思うんですけど、それでもミタマを正式に迎えることは出来るんでしょうか?」

 

さあねえ、と怜が苦笑する。「西洋錬金術と日本神道から、善なる人間を創出するだなんて、いわば前人未到の魔法だもの。やってみないとわからないわよね? でも伊織が存在している以上、やってみる価値はあるわ。でもそのためには、蓮とスーザンが本気でそれを願うことが絶対条件よ。『いざとなったら壊せばいい』なんて安易な気持ちじゃダメ。だって神様は『扱いを間違うと祟る』存在だから。踏み出した以上は、絶対に愛さなければならない。蓮だけではそれは無理でしょうから、スーザンに負担をかけるのは忍びないけれど、いろんな人から善なる存在として受け入れてもらいたいわね」

 

「日本の神社的には、魂は神様に由来するんですね? みんな神様の御子様?」

「実子というほど近くもないけれど、神様の遠い子孫ね。そもそも神社だって増えたり減ったりするし」

「『増える』?」

「そうよ、御霊を分けるの。分霊するのよ」

 

ハーマイオニーは背筋にひやりとしたものを一滴垂らされた気がした。

 

「わたくしの母がトムと致命的なまでに相性が悪い理由はまさにそこにあるのかもしれないわ」

「トムくんと相性がいい人は少ないと思いますが」

「ふふっ。わたくしの母だって、神職だから分霊の儀式は仕事のうちよ。でも、トムくんの分霊とはそもそもの手順からして相容れないでしょう? だから余計に忌避感が強いのだと思うわよ。日本の神職が執り行う分霊は、まず先に清浄な器を用意する。そして祈りを捧げ、大切に祀ることを誓って、神様に『増え』てもらうの。一方でトムは、自分のためだけに殺人を犯す。そして魂は引き裂かれて分離する。それを偉業であるかのように誇って、過去からの記念品に仰々しく定着させる。ね? これはもう魔法の違いなんかじゃないの。根本の思想が、完全に反対なのよ」

 

ハーマイオニーはしばらく黙って怜を見つめた。

 

「・・・まさに、チェックメイト?」

「そうなるわね」

 

 

 

 

 

「どうして神社の孫のくせにわからないの?!」

「そんなこと習ってないし!」

 

習っていないのにほとんど条件反射のように「出来てしまったものなら名前付けなきゃ」と考えた時点で蓮は間違いなく日本文化の中に育った人間だとスーザンは感激すらしたのだが、蓮と柊子は喧嘩腰である。

 

「あの・・・止めなくても?」

 

構わんよ、とシメオン・ディミトロフはスーザンに湯呑を差し出した。「そんなことより、ワシの曽孫の写真か何かはないのかね?」

 

あるわけないでしょう、と言いたかったが、スーザンはなんとか堪えて「ま、マルフォイに提案してみます」と答えた。

 

「うむ。そうしてくれ。いっそのことマルフォイ邸を急襲して奪いに行ってもいいな」

「それはちょっと・・・あの、もうひとりのおじいさま、ウィンストンのおじいさまはどうお考えでしょう?」

「渋い顔をしておったが、嫁のクロエを見て『まあ、セイレーンやマーメイドがかなりの割合で入っている遺伝子だ。ホムンクルスぐらい可愛いものだな』と自分で納得しておった。まったくもってその通りだろうな」

 

スーザンは微笑を消さないように努めた。

この桁外れの、理解の及ばない家庭が蓮を作ったのだ。そのことを痛感した。

 

「伊織の『伊』の字は何だと思っていたの!」

「・・・イタリアの伊?」

 

バチーンと音を立てて蓮の頭が叩かれた。

 

「伊邪那岐伊邪那美の伊! 伊勢の伊でしょう! 既に神性の言霊じゃないの・・・ああもうどうしてこんな馬鹿孫が・・・いえ、今更言っても仕方ないわね。いいこと、蓮? 伊織という名前は、神と人の縁を結ぶ、織りなす。それから、結界つまり注連縄を編む役職の名前なの。あなたは単なるフィーリングでつけたんだろうから、選んだスーザンが偉いわ」

 

スーザンは青褪めた。そこまで考えた覚えはない。断じてない。

 

「ふむ。すまんな、スーザン。怜から名前を聞いた時点で激しく感激しておったから、蓮が何も考えずに名付けたことに落胆しとる。おい婆さん、そのぐらいにしとけ。蓮もスーザンも偶然付けた名前かもしれんが、結果が最高ならばそれで構わんだろう」

 

いいえダメよ、と柊子がスーザンに向き直った。「スーザン」

 

「は、はい!」

「この馬鹿孫はもう諦めたわ。でも名付け親であるあなたには理解しておいてもらいたいの。理解が力の源泉ですからね。ついていらっしゃい。当家の庵、つまり英語で言うと・・・hermitageに案内するわ」

「あ・・・cottageやhovelではなくて・・・hermitageなんですね。納得しました。聖別された瞑想室・・・見せていただけるなら嬉しいです」

 

そう言って立ち上がると、柊子はまたひとつ蓮の頭を叩いた。「あなた、英語まで下手だったの?」

 

「・・・いてぇよ、ばあば!」

「庵をhovelと翻訳するような頭は叩きでもしなければ役に立たないわ。行きましょう、スーザン」

 

玄関を出て、さっき下りてきた山道を逆に上りながら、柊子は「偶然選んだことにも意味はあるわ」と言う。

 

「そ、そうなんですか?」

「ええ。日本の神話ではね。偶然、たまたま、なんとなく口にした言葉が神を呼ぶこともある。世界がその言葉を選ばせたの。蓮があなたを名付け親に指名して、あなたは偶然に伊織という名を選んだ。それで充分よ。ただ出来れば名付け親であるあなたは、後付けで構わないから、その名前の持つトムに対する破壊力を理解していて欲しい。それほど美しい偶然が起きたということをね」

 

しばらく歩いて、柊子は立ち止まり、大樹に巡らされた太い縄を示した。

 

「この大樹は御神木、聖なる木。それを示すのはこの縄なの。伊織という名は、もともとはこの縄を編む聖職者の役職名ね」

「木が神・・・聖なる木」

「この山自体が結界として聖別されているわ。さて、ここで考えてもらいたいの、スーザン」

「はい?」

「この山の中にトムは果たして存在出来るか否か」

 

スーザンは目を閉じて、大きく息を吸う。

 

吐く。

 

また吸う。

 

木々の葉擦れのさざめき、小川からの涼やかな水音、小鳥の鳴き交わす声。

 

「・・・そぐわない・・・トムはこの空間に喜びも満足も感じることは無いと思います。この環境を破壊する能力があるかどうかまではわかりませんけれど、今あるこの静かで平和な空間を楽しめる生き物ではないはずです。居心地悪く逃げ出すか、ここを破壊しようとするか、どちらかの行動しか選べない」

「そう思うわよね。そういう聖なる空間を作る、それが『伊織』という名前の持つ力なの。だから、あなたにはこの空間を堪能して、わたくしの曽孫である伊織のことを考える時には、この空間をイメージしてもらいたい。伊織がこの山道を小さな足でよいしょよいしょと歩く姿でも構わないし、あの馬鹿孫みたいに泥だらけで走り回っても構わないわ。この空間と伊織を重ねてイメージすることを忘れないで。それが『祈り』の本質よ」

 

スーザンは柊子の瞳を見つめた。

 

「わたしの祈りが、マルフォイ邸の奥深くに隠されたイオに届きますか?」

「祈りは物理法則では計れないから、物証を出せと言われると困るけれど、あなたの伯母様はあなたの幸せを祈ってくれる方だったのではなくて?」

「・・・たぶん」

「ほら、あなたには伯母様の祈りが届いているわ。それで充分なの」

 

スーザンの脳裏にキラリ、キラリ、と欠片のような光が舞い始めた。

 

「わかり始めたようね?」

「たぶん・・・そうですね」

「ウチの馬鹿娘も馬鹿孫も、理屈で考えることばかりに偏っているから、長く一緒にいると息が詰まってしまうでしょう。たまには理屈を傍らに置いて、静寂を楽しみなさいな。目を閉じて、美しく静かな世界の真ん中で深呼吸。そのイメージと同時に、誰かのことを想う。それが祈りの姿だとわたくしは思っているわ」

「祈りの対象がホムンクルスでも?」

 

柊子は小さく微笑んで「空っぽの器に善も悪もへったくれもないでしょう」と言う。

 

「え・・・」

「イギリスも本来は、こうして自然界のあらゆるものに神性を見出す文明があったはずなのに、イギリス魔法界はそれをすっかり忘れて、キリスト教的な善悪二元論に汲々としているわね。キリスト教的には善なる魂が先にある。日本は違うの。単なる器がそこにあって、その器を大切に扱うことで魂が宿ると考える。わたくしから見ると、ホムンクルスは単なる器でしかないのよ。肝要なのは、器の扱い方。美しい祈りに満たされた器にするか、自分の醜悪さから逃げるためにその器に無理矢理入り込もうとするか。どちらが自然な、プラスのエネルギーになると思う?」

「それは、もちろん美しいものを満たしたほうが器にとっての喜びだと・・・」

「だったらそうしましょう。器が喜ぶ扱い方を心がける。小難しいことを考えて悩むより、美しい祈りで自分や周囲を少しずつでいいから満たしていく。結局のところ、それが一番健全な心の持ちようではないかしら」

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