ロンが頭を掻きむしった。
「全然わかんねえ・・・」
ハリーも力無く頷く。
「エクリズディスって奴が一番悪いってことしかわかんない」
ハーマイオニーは腰に手を当てて項垂れ、深い深い溜息をつく。
「・・・もういいわ。わたしも理解させる労力は残ってないから。とにかくこないだわたしたちが書き写してきた魔法陣が、エクリズディスという諸悪の根源的な人物が描いた魔法陣だったの」
マグルの船乗りたちを誘い込み、幻惑し、悪感情を増幅させ、殺し合う実験装置、とハーマイオニーが数え上げると、ロンがハリーの耳に「実に愛らしいガールフレンドだろ?」と囁いた。ハリーは思わず笑い出しそうになって右手で口元を隠す。
「そうなの。吐き気がするほどおぞましい実験よね。その拷問によって増幅された強烈な感情に惹かれてイギリス含むヨーロッパ各地からディメンターが誘蛾灯に群がる蛾のように集まってきたってわけ」
そして、とハーマイオニーは別の広用紙を広げる。「その7階上の床に描かれた魔法陣。これが、ディメンターをほぼ囲い込んでいるわ。集まってきたディメンターを閉じ込める構造。これはおそらくエクリズディスとは別人だと思う。魔法陣のインクの古さや質が違うから。エクリズディスの遺産である北海の孤島、今のアズカバンね、孤島を発見した魔法省が牢獄の看守としてディメンターを利用するために作ったものだと思うわ」
ロンとハリーが顔をしかめた。
「エクリズディスって奴は闇の魔法使いだろ? そんな奴の島を魔法省がそのまんま利用したってのか?」
ハーマイオニーは平然と答える。
「そのまんまじゃないわよ、もちろん。もっと悪質に手を加えたの。いい? 最深部にあるのは絶望発生装置。悪感情増幅装置と言ってもいいわ。そしてその7階上つまり地下16階には、ディメンター吸引装置。ディメンター牧場の柵ね。そして地上部の巨大な塔が受刑施設。囚人を収監してディメンターの餌を生産し続ける。ここで絶望した魂は、キスによって地下23階まで引っ張り込まれ、絶望感を圧縮した魂の塊としてディメンターになる。完璧な循環構造が出来ているの。少なくともこの構造からは、そう推測するのが妥当だと思うわ」
ロンがだらしなく椅子の背にもたれた。「とにかくぶっ壊さなきゃいけないんだろ?」
ハーマイオニーは「とんでもないわ! 逆よ!」と眉を吊り上げる。
ハリーは「・・・うん。魔法省が発見した段階でぶっ壊してたんならともかく、むしろディメンターを養殖してたってことだろ? 養殖しといて、アズカバンをぶっ壊したからもう責任は無いって理屈は通らない、と思う」と渋々頷いた。
「ハリーの言う通りよ。今はレイおばさまとマダム・ホップカーク、それにキングズリーが、魔法省としての責任の取り方を含めて対策を話し合っているところ。ただ、マダム・ホップカークとキングズリーは現役の魔法省職員だから、直々にアズカバンに出向いて処理するのは無理。実働はやっぱりわたしたちになるわ」
アメリア・ボーンズのアパートメントに集まったマファルダとキングズリーは、怜の喚き声に首を縮めた。
「なんなのこの部屋! あちこちに散らかして! いくらスーザンが優しいからって、人様の家に泊めていただくのに非常識な!」
マファルダは溜息をついた。
「レンが使っていた客間を勝手に覗いて勝手に怒んなさんな。わたしもキングズリーも暇じゃないのよ。今日のところはその部屋の掃除は後回し」
「大して汚れているわけではないだろう。洗濯済みの衣服があちこちに放置してあるだけだ。私も若い頃はこんなものだった」
「・・・みんなしてウチの馬鹿娘を甘やかす」
「あのねえ、レイ。あの子はこの戦争の最高司令官よ。最高司令官に『洗濯物はきちんとクローゼットに仕舞いなさい』なんてお説教したくなるのは母親ぐらい。そもそもあなたの躾が悪かっただけよ。こちらに来なさい。アメリアの書斎に資料があるはずだから」
3人で書斎に入ると、キングズリーが「さて」とジャケットを脱いでネクタイを緩めた。「あなたがたが2人揃って私をここに呼び出すとは、いったいどういうことだ? 悪い予感しかしないのだが」
怜は黙ってマファルダの一歩後ろに退がる。
「・・・わたしに説明しろと?」
「先輩への敬意ですわ、マム」
こういうときだけ、とぼやいたマファルダはキングズリーに命じた。「あなたの真上の天井を見て。僅かに素材の色が違う部分があるでしょう? そこ、跳ね上げ戸になっているから、開けて。中の資料を取り出して読みなさい」
流れるようにキングズリーをこき使うマファルダをよそに、怜はキッチンに行き、お茶の支度をした。
スーザンが数ヶ月使ったはずだが、怜の記憶通りの位置にティーポットもカトラリーもある。怜は僅かに微笑んだ。
親族だからこそ、キッチンの使い方が似てしまうのかもしれない。
トレイにお茶を用意して書斎に戻ると、キングズリーがアメリアのデスクで頭を抱えていた。
「・・・レイ、君たちはこんな秘密を隠していたのか? マファルダ、あなたまで一緒になって。これは国家犯罪だ! これはアズカバンの設計書じゃない・・・ディメンターの生産設計魔法陣だ」
「そうよ。これだけの国家犯罪を暴いて正常な刑罰システムを作る機運が整うまで、わたしたちは待つしかなかった。300年もの間、イギリスはアズカバンでディメンターの拡大再生産を続けてきたの」
怜がマファルダの言葉を補足した。
「囚人の絶望を餌にして、ね。アメリアは大臣の椅子にもウィゼンガモット主席にも興味は無かった。アズカバンを終わらせたかったのよ」
キングズリーは呆然と呟いた。
「300年・・・我々の国家は、300年もの間、人間を犠牲にして、ディメンターを作り続けてきたというのか・・・」
マファルダはそのキングズリーの額をペチペチと叩く。
「そんなところで感傷的になってる暇は無いのよ、未来の大臣さん。アズカバンの始末をどう付けるのか、国際社会にどう説明するのか、そこを今この場で決める必要があるの」
「もちろん即時停止だ!」
冗談はやめなさい! とマファルダが鋭く言った。「今のディメンターが何千体いると思うの! この装置を即時停止したら、北海を中心にヨーロッパ中に数千体のディメンターが溢れ出すわ! イギリス魔法省にその責任を払う能力は無いのよ! だからわたしたちは時期を待つしかなかった! アメリアでさえ隠し続けてきたの!」
そこで怜が静かに「あなたは正しいわ、キングズリー。いつかは停止させなきゃならない。続けるわけにはいかない。でもね、マファルダの言葉通り、時間が必要なの。即時停止させるべき機能は『人間の絶望を餌にして』の部分だけでいい」と告げた。
マファルダとキングズリーが眉を顰める。
「魔法陣を書き換えて、ディメンター同士が互いに喰い合えばどうなると思う?」
マファルダが腕組みをした。
「方向性は問題ないでしょう。でもそれだけでは原理的に必ず生き残るディメンターがいることになるわ。それも最強のディメンターが生き残る」
「そこも魔法陣で対応できるわ。今の魔法陣には穴がある。覚えているでしょう? 魔法大臣のサインがあれば、ディメンターを連れ出すことが可能なのよ。ファッジやアンブリッジ、あるいは凶悪犯罪の大法廷。その穴を塞いでしまえば、最強の1体は決してアズカバンから出られない」
キングズリーが二の腕を摩った。
「・・・その最強のディメンターをどうするつもりだ?」
「閉じ込めて放置する」
マファルダが深く息を吸った。「餓死させるのね」
「そうよ。おそらく最後に残るディメンター、最強のディメンターの正体はわかりきっているわ」
「・・・エクリズディス」
「ええ。彼の残存思念がその正体のはずよ」
「そいつを餓死させるのか」
怜は美しく微笑んだ。
「自分が作った檻の中で、ね」
マファルダはしばらく考え「いいえ、やっぱりそれは危険よ。外部供給を否定出来ないでしょう」と首を振った。「エクリズディスはそもそも船乗りたちを外部から供給していたのだから」
「そこにはこの魔法陣を使う」怜がトンと、指先を地下16階の魔法陣に置いた。
キングズリーはしきりに二の腕を摩っている。マファルダは目を眇めて魔法陣に目を凝らした。
「これは、ディメンターの暴走に備えた包囲装置よ? 起動に大型のパトローナスが・・・ちょっと! レイ、あなたの娘は、レンのパトローナスなら確かにこの魔法陣を起動させられるエネルギーを持っていそうだけど、あの子はディメンターの前では」
「大型のパトローナスは蓮の専売特許じゃないわ。ハリーは大型の牡鹿のパトローナスを使える」
ちょっと待ってくれ、とキングズリーがやっと割り込んだ。
「こんな重大な国家犯罪を、あなたがたは・・・あのディメンターは『元は人間』だったということになるんだぞ! それを共喰いさせる?! グロテスクが過ぎる!」
途端に怜が白けた表情でマファルダを見た。
「マファルダ、あなたはどう思う?」
「キングズリー、じゃああなたは世界に向かって説明したいの? 『アズカバンはディメンターの養殖場でしたが、皆もとは人間だったのです。我々イギリス魔法省は新たな人道的な組織として、ディメンターを人道的に解放します』って?」
「い、いや、それは言うわけにはいかないが・・・もっと穏便な、こう、浄化とか、何かあるのではないか?」
マファルダは「話にならないわ」と腕組みをして頭を振った。「目の前にある現実を見なさい!」
怜は静かに「キングズリー、あなたのその葛藤はこれまでにも多くの魔法大臣や法執行部長が抱えてきた葛藤だと思うわ」と告げた。「だからこそ300年間そのまま放置され、人間が喰われ続けたのよ」
誰かが決断し実行しなければならないでしょう、と怜は冷徹に告げた。
オズボーンハウスを訪ねてきた怜、マファルダ・ホップカーク、キングズリー・シャックルボルトの前で、ハリーは「え、ぼ、僕?」と戸惑いを見せる。
「そうよ、ハリー。この地下16階のディメンター包囲装置の起動には、大きなプラスのエネルギーが必要になるの。あなたがたは3人とも優秀だから、安定して有体のパトローナスを出すことができる。でも、それよりさらに『大型』のパトローナスが必要だわ。もちろんハリーの牡鹿だけでは足りない可能性もあるから、ハーマイオニーもロンも同行してもらうし、わたくしとドロメダも参加するわ。ただ一番はじめに一番大型のパトローナスを出すのが効率的。それは理解出来る?」
「わかる。わかります。でも・・・元は人間だったと聞いたら・・・」
論点が違うわよ、とハーマイオニーがハリーの迷いをばっさりと切り捨てた。
「ハーマイオニー」
「閉じ込めるのは、アズカバンを最初に作った『闇の魔法使い』よ。人間扱いして迷うところじゃないわ」
「でもハーマイオニー・・・」
「あなたがトムを滅ぼしたいのは私怨でしかないのね? 闇の魔法そのものに対する怒りや抵抗はないの?」
ハリーは気圧されて黙った。
「最初のディメンターは、マグルの船乗りたちを拷問して殺した魔法使いよ。闇の魔法使い。『それ』は300年間人間の絶望感を餌にしてのうのうと生きてきた。でもあなたは『それ』を閉じ込めて餓死させることを躊躇っている。理由は『もとは人間だったから』? つまりあなたの戦いはトム個人に対する私怨でしかないということよね?」
「ハーマイオニー、言い過ぎだぜ。ハリーにだって正義感はあるさ。人より強い正義感がな。ただ、今までずっと僕らの敵として現れてきたのはトムだったんだ。いきなりトム以外の奴を餓死させろって言われて、はいそうします、なんてどこの馬鹿が答えるんだよ?」
なんですって?! とハーマイオニーが声を高くしたところへ、キングズリーがすっと片手を挙げて遮った。
「ハリー、私怨が悪いわけではないのだ。誰だってトムに対して大なり小なりの私怨は抱えている。そうだな、ロン?」
「え、僕? ああ、まあ、そうかな。もちろん実の両親を奪われたハリーほどかって言われたら困るけどさ。僕の叔父さんたちだとか、殺されちゃったわけだし、ママやパパがそういうのを抱えてるのはわかってるしね」
「うむ。正直な感想はそうだろうな。私も私怨なら抱えきれないほど抱えている。最初は私も君のようにこの作戦に生理的な抵抗を感じた。元が人間だったと判明したディメンターを閉じ込め共喰いさせ、生き残った最強の1個体を餓死させる。生理的嫌悪を感じないほうがどうかしている」
ハリーは「うん・・・」と頷く。キングズリーは僅かに身を乗り出した。
「だが私は、アズカバンに収監された囚人たちのこともまた知っているのだ」
ハーマイオニーとハリーは、ハッとしたように顔を上げた。
「中には冤罪もあったし、つまらないしみったれた悪事で収監された者も少なくない。ルシウス・マルフォイやベラトリクス・レストレンジのような、明々白々たる重犯罪者よりは、軽犯罪や冤罪で収監される者たちのほうがはるかに多いのだ」
言っておくけれどそれが常識ですからね、とマファルダは不快そうに付け加えた。「わたしは魔法不適正使用取締局に異動してからは、1年以上の懲役刑を課したことはないわ。全員数週間から数ヶ月よ。それでも半分は獄死したわ」
ハリーとロンが目と口をあんぐりと開けた。
「・・・そういう刑法の現実が、300年間続いてきたの。これは、イギリス魔法界そのものが構造的に抱えてきた国家レベルの犯罪よ」
怜の淡々とした言葉が部屋に響いた。
「ハリー、あなたが感じる生理的嫌悪を抱えた魔法界の法律家や大臣はきっと少なくなかったでしょう。彼らは皆『何かもっといい方法があるんじゃないか?』と問題を先送りにしてきた。とても人間的な感情だし、彼ら自身は冷酷でも冷徹でもなかったはずよ。でも結果は? 300年間に微罪の収監者が何千人アズカバンで亡くなったのかしら?」
ハーマイオニーの強い瞳に動揺は無い。
「刑法が刑法として成り立っていません。罪刑均衡の原則が崩壊しているわ」
「その通りよ、ハーマイオニー。わたしたち法執行部の執行官は常にそのジレンマに悩んでいるわ。そしてエルガストゥルムという新しい収監施設を作り、そこへ収監者を移したわね? アズカバンに餌が無くなった今、ディメンターを放置することは、もはや許されない怠慢という状況に移行した」
「わたくしもマファルダもアメリアも、若い頃からこうした状況をどうにかしたいと調査と研究を重ねてきたから、かなりの確信があるわ。ディメンター同士のエネルギーを消費させる魔法陣ももう出来たし、共喰いの中で生き残る比較的強力な個体でも逃がさない穴の無い強力な監禁の魔法陣も出来ている。何も共喰いを観察する必要はないわ。わたくしとドロメダが地下23階の魔法陣の書き換えをして、同時にハーマイオニーが地下16階の書き換え。ハリーは地下16階の魔法陣の起動だけしてくれればいいの」
ハリーは額に滲んだ汗を袖で拭った。
「・・・わかっていると、思います。それだけなら、それぐらいなら僕がやるって言わなきゃいけないんだってことは」
怜は困ったように微笑んだ。
「大丈夫よ。無茶なお願いをしている自覚はあるわ」
「・・・無茶っていうか・・・僕、今までトムと戦うってことしか考えてなかった。それは正しいことだって思ってたし、パパやママを殺した奴を止めるだけだから、別に迷うことでもなかった」
「ええ。あなたは何も間違っているわけではないわ」
「でも・・・僕、怖いです・・・」
部屋が沈黙に沈む中、ハリーの荒い息遣いだけが響いた。
「たとえ今はディメンターになってるとしても、キングズリーやマダム・ホップカークが言ったみたいに・・・冤罪や、軽い犯罪でディメンターにキスされた人たちを、何千人? 何万人? よくわかんないけど、そのぐらい沢山の元人間を、消すとか。しなきゃいけないことだってわかってるけど・・・でも、怖い」
誰もこのシンプルなハリーの言葉に応えることは出来ないように思われた。
「だったらさあ」とロンが飄々と、重い空気を払うように頭を振って伸びをした。「僕も一緒にやってやるよ」
「・・・ロン」
「君のファイアボルトに2人乗り。僕が操縦な! 考えようだぜ、ハリー。僕らは何万人の人間を殺すわけじゃあないんじゃないか? ディメンターっていう立場に無理矢理置かれた人たちを、人間の魂の状態に戻してやるだけさ。まあ、肉体は無くなっちまってるけどさ」
ハリーは小さく笑って「ああ、頼むよ。でも、壊すなよ?」と答えることが出来たのだった。