サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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第20章 絶望の炉心

アンドロメダ・トンクスがふた昔ほど前のモデルのクリーンスィープを操り、嵐の北海をアズカバンに向かって飛ぶ。

 

海面には波がほとんどなかった。

風は吹いているのに、海だけが静かだった。空気が冷たいというより、重かった。

 

箒の柄に固定されたバスケットの中では、抗議するような猫の鳴き声が、後方を飛ぶハーマイオニーにまで聞こえてくる。

 

「うるさいわね。自力で飛ぶ自信がないから乗せろと言ったのはあなたよ、レイ!」

 

たぶん乗り心地の問題だとハーマイオニーは思った。

クリーンスィープは競技用箒だ。おそらくニンファドーラ・トンクスが学生の頃クィディッチに使っていたものだろう。

 

先日ハーマイオニーが、怜から譲り受けたノルドヴィントでアズカバンに向かう際には、あんなに騒がなかった。高級旅行用箒ノルドヴィントの乗り心地と旧型クリーンスィープでは怜の満足感は比べ物にならないはずだ。

 

アズカバン島の駐機スペースに降りたドロメダがバスケットの蓋を開けると、弾かれたように黒猫が飛び出し、背中を丸めて「ふしゃあああ!」とドロメダを威嚇する。

 

「文句があるなら人間体になってから言いなさい。魔法陣の書き換え時には、人間体に戻らなきゃいけないから、精神力温存のために動物形になっているはずよね? わたくしに不平を言うエネルギーが無駄よ」

 

黒猫が項垂れた。ドロメダの言う通り、魔法陣の書き換えには膨大な精神力が必要だからだ。ドロメダへの不平のために余計なエネルギーは使えないということだろう。

 

そこへ、黒い海の上を、ファイアボルトが矢のように滑り込んできた。2人乗りしてきたハリーとロンだ。それに続いて、やはり旅行用箒、イタリア製のクアトロサルーンでシリウス・ブラックが滑降する。

 

「シリウスおじさん、大丈夫なの? おばさんみたいに動物に変身したほうが」

「レイよりは私のほうがここの環境には強いから気にする必要はない」

 

シリウスはアズカバンに収監されていた長い年月の間、たまに犬に変身してはアズカバン島のあちこちを見て脱獄ルートを探していたらしい。地下施設への古い通路の存在を知っていることから急遽メンバーに組み込まれたのだ。

 

「全員杖は持っているな? ハーマイオニー、軽くパトローナスを出してくれ。乱用は慎むべきだが、この島の雰囲気に呑まれない程度には、自衛しておいたほうがいいだろう」

 

ハーマイオニーは頷き「エクスペクト・パトローナム」と呪文を唱えた。

 

その一瞬、肌を刺すような冷気が僅かに遠ざかる。だが、緊張のせいだろうか、見慣れたカワウソのパトローナスの輝きは普段よりくすんでいるように見えた。

 

「よし。では、我々は二手に分かれることになる。ドロメダとレイは最短距離で地下23階まで下りる必要がある。既に経路は把握しているはずだ。ドロメダ?」

「ええ、図面を記憶しているレイもいるから問題ないわ」

「そこで君たち3人と私は、地下10階までは古い看守専用通路を使う。近代のアズカバンはこのような塔構造だが、200年ほど前までは地下に収監施設があったらしい。収監施設が地下10階まであり、その下にこの島を成り立たせる魔法陣や・・・尋問というか・・・拷問に利用されたと思しき空間のあるフロアになっている」

 

ハリーとロンがゴクリと喉を鳴らした。

 

「収監施設は看守専用通路があるが、そこから地下20階までは、抜け道が無いのだ。不快なものを多々見ることになるが、そこは、まあ、なんだ、なるべく直視せずに前進しなさい。地下23階までの最短通路、この地下階層を最初に構想した何者かが、自分専用の管理通路として作ったものだから、複数人がまとまって行動できるようなスペースではない。前回の探索では使わなかった通路だ」

「おじさん」

「ん? どうしたハリー」

「前回の探索の時には僕らも最深部に行ったから、その通路を使えばみんなで行くことが出来るんじゃないかな?」

 

シリウスが様子を伺うようにドロメダと黒猫に視線を移すと、ドロメダは首を振った。

 

「え、でも」

「ハリー、以前、神秘部の戦いの時に経験しなかったかしら? あそこにはホグワーツで学んだ魔法よりも不気味なものがたくさんあったはずだけれど」

「あ、はい。ありました」

「こうした古い建物の最深部に魔法陣が展開されているケースは、ほとんどが神秘部の無言者が精査するの。先日あなたがたが書き写してくれた魔法陣は補助魔法陣。本体は別室にあるの。そしてそこは、いわば絶望を凝縮する装置になっているから、パトローナスを出す妨げになりそうな光景を見てしまう可能性が高いわ」

 

誰もが無意識に足元の石床を見た。まるで、その下に何かが蠢いているかのようだった。

 

ハリーが自分を奮い起こすように「でも僕ら」と口を開くと、ロンが素早く「おばさんたちは僕らを子供扱いしてるわけじゃないだろ」と口を挟んだ。「ミッション遂行に必要な役割分担だ。ここで強がって肝心な時にパトローナス出すことに失敗したら元も子もない」

 

その時、遠くの塔の窓から、何か黒い影がゆっくりと空へ浮かび上がった。

 

「・・・ハーマイオニー、君は先に地下16階の魔法陣の書き換えに取り掛かっておくんだったな?」

「イエス」

「その間はロンと私が交互にパトローナスを出しておくようにする。いいな、ロン? ハリーはその間は待機だ。『僕もやる』なんて言うなよ。役割分担なんだ。亡者の湖で学んだことを思い出せ。最適な判断によって設計された人員配置に、君が感情的に割り込んではならん」

 

ハリーが黙って頷くのを確認して、シリウスが「・・・よし、では行こう」と号令をかけた。

 

 

 

 

 

重い金属のドアの取手をシリウスが開ける間にハーマイオニーがヘッドランプをハリーとロンに渡した。

 

「相変わらず準備いいな?」

「キャンプ用品一式はいつも持ち歩くことにしているの」

 

その時、重い軋みをあげて鉄扉が開いた。

 

ハリーとロンの前髪を冷たい風が揺らし、唸り声のような微かな響きが混じる。

 

「・・・耳栓も欲しいぜ」

「そこまでは気づかなかったわ」

 

ハーマイオニーは鉄扉を支えるシリウスの前を横切って階段室に足を踏み入れた。

 

古い煉瓦がひび割れ、雨水が侵食したのか隙間がある。なのに苔ひとつ見当たらない。

 

この場所には、苔ひとつ分の生命さえ長く存在することは出来ないと証明しているかのようだった。

 

鉄扉の足元に壊れた煉瓦をいくつか置いて支えたシリウスが、ハリーとロンの後ろから階段室に入ってくる。

 

「ここから突き当たりまではひたすら階段を降りていくことになる。周りの壁はこの通り脆いから気をつけろよ」

 

この異質な空間に気圧されたのか、全員が声を出さずに頷いた。

 

ハーマイオニーは充電式のランタンを掲げて一歩ずつ階段を下りていく。足音だけがやけに耳につくが、その合間に混じる唸り声のような気配がひどくハーマイオニーの神経を逆撫でする。

 

「さしづめ『絶望の残滓』というところだろう。この唸り声は気にするな。囚人が残っているわけではない」

 

ハーマイオニーはシリウスの言葉に耳を傾けながら、歩みを止めない。

 

必ず今回で成功させなければならない、と臓腑の底から強い感情が湧き起こる。

これは間違いなく『負の遺産』だ。こんなものを抱えたままで新しい時代なんて迎えることは出来ない。

 

 

 

 

 

一方、ドロメダと怜は既に地下23階に立っていた。

 

「悪趣味な魔法陣だこと」

「隣はもっと悪趣味よ。それよりさっきはありがとう。ハリーを止めてくれて」

「どういたしまして。あなたから聞いた時にはまさかと思ったけれど、役に立ってよかったわ」

 

ドロメダから杖を受け取った怜が苦笑した。

 

「ジェームズとリリーの息子が英雄症候群? それはもう仕方ないでしょうね。実の両親のことはほとんど記憶していないし、むしろ『生き残った男の子』歴のほうが長いのだから」

「彼がやりたいならやらせてあげたら?」

 

ダメよ、と怜はガーデニング用の古いボタンダウンシャツの袖をまくった。「彼には闇祓いの素質は確かにあるけれど、法執行部員じゃないわ。魔法陣は法律家の仕事」

 

「だからハーマイオニーが魔法陣担当?」

「そうよ。闇祓いがこんな醜悪なものを抱えたら、身動き出来なくなる」

 

怜が歩き出した。

 

「専業主婦を巻き込むことに躊躇いはないの?」

「駆け落ちの結果としての専業主婦でしょう。『ブラック』なルーン文字には、わたくしより詳しい専門家じゃないの。最適な人材に孫の子守りをさせておく余裕はさすがに無いの」

 

ドロメダは肩を竦めた。

 

「その『専門家』として言わせてもらうなら、事前に見せてくれた設計図から推測すると、この扉の向こうは、ドーナツ状の魔法陣よ」

「ドーナツ状?」

「そう。絶望を集積して濃縮する・・・いわば『絶望の炉心』」

 

ドロメダはそう言うと、ゆっくりと扉を開け、魔法陣の中央へ歩み寄った。

 

その空間は、巨大な円形のホールになっていた。床一面に刻まれたルーンは幾重もの環を描き、まるで年輪のように中央へ向かって収束している。その線の一本一本が、鈍い黒光りを帯びていた。

 

中心部だけ、床が途切れている。

 

ぽっかりと口を開けた穴だった。

 

直径は五メートルほど。底は見えない。暗闇の奥から、冷たい霧のようなものがゆっくりと立ち上っている。

 

その穴の真上に・・・黒い結晶が浮かんでいた。

 

人の背丈ほどもある、歪んだ多面体。光を吸い込むような深い黒色で、表面には細かなルーンが刻まれている。結晶はわずかに回転しながら、穴の上空に静止していた。

 

ドロメダが目を細めた。怜が確認するように尋ねる。

 

「・・・あれが?」

「炉心よ」

 

ドロメダはあっさりと答えた。

 

「囚人の絶望はこの魔法陣で集められて、あの穴に落ちていく。地下深くで圧縮された魔力が、今度はこの結晶に吸い上げられる仕組み」

 

結晶の内部で、何かがゆらりと揺れた。

 

怜は思わず眉をひそめる。

 

「・・・今、中で何か動かなかった?」

「ええ」

 

ドロメダは淡々としている。

 

「記憶・・・でしょうね」

「記憶?」

「絶望には必ず記憶が付随するでしょう。恐怖の瞬間、後悔、喪失。そういうものが全部、あの中に閉じ込められている」

 

結晶の奥で、ぼんやりとした影が浮かび上がった。

 

人の横顔のように見えたが、すぐに崩れて霧のように消える。

 

ドロメダが小さく舌打ちした。

 

「悪趣味どころじゃないわね」

「でしょうね」

 

怜は結晶を見上げながら、袖をまくった腕を軽く振る。

 

「でも設計としてはよく出来てる」

「褒めてるの?」

「構造を」

 

怜は足元のルーンを杖で軽く叩いた。

 

「外側の環が収集。内側が濃縮。そして中央で結晶化。ディメンターはこの過程で発生する余剰魔力を食べている。あなたのルーンのセンスを信じるなら、そういうシステムでしょう?」

 

その瞬間、穴の奥から、ひときわ濃い黒霧が立ち上った。

 

冷たい気配が一気に広がる。

 

結晶が、わずかに明滅した。

 

怜は顔をしかめた。

 

「・・・なるほど。ちょっと待ってて」

 

怜は杖を持ち上げて宙にいくつかの線を描くように動かした。

 

「急がないと・・・予想より稼働率が高い」

 

ドロメダが眉を上げる。

 

「つまり?」

 

怜は結晶を指差した。

 

「あれ、満タンに近いわ」

 

一拍の沈黙。

 

そして怜は静かに言った。

 

「臨界が迫っている。臨界点に到達したら、絶望が爆発的に噴き出して、かなり広範を覆ってしまうでしょう」

 

ドロメダはそう聞くと、納得したように「そうね。この装置の影響範囲は、確かにアズカバンだけを限定していないわ。範囲指定が無いパターンよ。魔力勾配の強い方へ対象が勝手に流れ込む設計」と頷いた。「アズカバンに囚人がいなくても・・・いいえ、いないからこそ、本土の人々にも絶望感を侵食させていっている」

 

怜はジーンズのヒップポケットからジップロックを取り出した。

 

「今度は何なの?」

「急いで符を書くわ。あなたはなるべく早く対象を書き換えて。『人間の絶望』を『ディメンターの実存エネルギー』に書き換えるの。わたくしはその間に、護符であの臨界を遅らせてみるから」

「・・・ジップロックから御大層なものを取り出すのね」

 

和紙の束と筆ペンを見たドロメダが溜息をついた。

 

その場に膝をつき、和紙を広げた怜が次々に筆ペンを走らせる。

 

ドロメダも床に杖を立てて魔力を流した。浮き上がる魔法陣の光を目で置い、『対象』を示すルーン文字を探し始めた。

 

その時だった。

 

怜が一瞬体勢を崩し、魔法陣に倒れる。

 

「レイ! どうしたの?」

「・・・中に、まだ『彼』がいるわ」

「誰よ!」

「エクリズディスに決まってるでしょう・・・しまった、手順が違うわ。ドロメダ! ハーマイオニーとハリーの作業を急ぐように連絡して! あっちの檻を先に完成させてから、エクリズディスごと臨界させるしかないわ!」

 

怜は跳ね起きると、さっきよりさらに早く荒々しく筆ペンを走らせ始めた。

 

ドロメダのパトローナスが伝言を携えて天井に向かって消えていく。

 

「で・・・おばあちゃまたちはここで結界の完成まで臨界を防ぐってわけね?」

「安心しなさい。わたくしだってまだ孫の顔も見ていないのだから、こんな醜悪な場所であなたと心中する趣味はないわ」

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