サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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第21章 哀しみの息の根を

地下13階をおそるおそる歩いていたハーマイオニーたちの目の前に、銀色の、おそらくは白鳥だろうか、大型の優美な鳥が舞い降りてきた。

 

「ドロメダのパトローナスだ」

 

その白鳥は言った。

 

『絶望の原子炉が臨界寸前だから、そちらの作業を急いでちょうだい。わたくしたちはギリギリまで臨界を防いで、あなたがたの結界完成と同時に逃げるから』

 

4人はしばらく呆然と立ち尽くした。

 

「な、なんていうか・・・全然意味がわかんねえ」

「『臨界』よ! 爆発するわ!」

 

その自分の言葉に弾かれたようにハーマイオニーが駆け出す。

 

「おいハーマイオニー?!」

「待てよ、少しぐらい説明」

 

そんな暇はないわ! と怒鳴ってハーマイオニーはほとんど2段飛ばしの勢いで地下14階に降りた。

ハーマイオニーの提げていたランタンの光が激しく揺れて、そして消える。

 

「ハリー、ロン、意味がわからなくても急げ。ハーマイオニーをひとりにするわけにはいかん」

 

わかった、とロンがハーマイオニーを追うように駆け出していく。

そのロンに続いて走りながら、シリウスがハリーに言い聞かせた。

 

「あまり追い詰めたくはなかったが、ハリー、どうやらもう迷っている時間は無さそうだ。レイやドロメダが手順の変更を指示してきたということは、下で現物を確かめた結果だろう。あのおばさんたちの知識や判断を全面的に信頼するしかない」

「でもシリウスおじさ」

「『だって』や『でも』が多い!」

 

地下14階に降りる階段の踊り場でシリウスは足を止めてハリーの肩を掴んだ。

 

「今年に入ってからの君をずっと見てきたが・・・甘えるのもいい加減にしろ!」

「おじさ・・・」

「トムとの戦いしか見えていない君と違って、イギリス魔法界を背負って戦う者が大勢いるのだ! トムを始末したいだけの君とは重さも覚悟も違う! 自分一人で魔法界を背負っているつもりか?! 背負えるとでも思っているのか! このアズカバンは300年に及ぶ国家の罪だと聞いたろう! 自分の力の使い場所を、プレイヤーに預けきれない駒など危なくて使えないということが、まだわからんのか!」

 

シリウスがハリーの肩を離した。

 

「闇祓いは法執行部長の指示で働くものだぞ、ハリー。ハーマイオニーやレイの判断に毎度毎度異を唱える闇祓いなど使い物にならん。ひとりで世界を救うつもりの思い上がった闇祓いは始末に負えん」

 

踵を返したシリウスは最後に「ジェームズやリリーがレイの指示にいちいち理由を確かめて説明させる手間をかけさせたと思っているなら勘違いにも程があるぞ」と言い置いて階段を駆け下りて行った。

 

ハリーは小さく「くそ」と呟いた。「僕が甘やかされていたってことか」

ハーマイオニーも蓮も、これまでずっとハリーの納得を「待って」くれていたことに、今初めて気づいた。ハリーを主人公にしてくれていたということに。

 

でも事態がここまで来て、もうハリーの決断を待っていられなくなったのだ。

 

ハリーは駆け出した。生まれて初めて、理屈もわからないまま社会のために走り出したのだった。

 

 

 

 

 

スニーカーの底から響く衝撃だけがハリーの感じる刺激だった。地下11階から13階まで、まるでホーンテッドマンションのようにおぞましい血文字や石壁に残る爪痕のような傷を見ては怯えていたことが、もはや遠い過去のように思えた。

 

パパやママは、とハリーは走りながら思った。

 

パパ、僕は間違ってない? ママ、僕を褒めてくれる?

 

遠くにシリウスの背中が見える。

 

そうか、とハリーは思った。僕にトムを殺せだなんて、パパもママも言うとは思えない。「グリフィンドールらしく、勇敢に『するべきこと』をしろ」と言うはずだ。パパやママは犠牲にはなったかもしれないけど、復讐なんてしなかった。僕だけが復讐に呑まれていたんだ。

 

急がなきゃ、とハリーは思った。急ぐんだ。レイおばさんとドロメダおばさんが、爆発を遅らせてくれているんだ。少しでも、1分1秒でも速く、おばさんたちが逃げる時間を作らなきゃいけない。それが僕の「仕事」なんだ。

 

 

 

 

 

「ロン! 灯消しライター!」

 

ハーマイオニーの声にロンは反射的にポケットから灯消しライターを引き抜いた。本来なら光を消すはずのそれを、彼は床へ向けて振る。

 

ぱん、と乾いた音がして、閉じ込められていた灯りが弾けた。

 

まるで解き放たれた蛍の群れのように、光が部屋の隅々へ飛び散った。

 

「このぐらいでいいか?!」

「いいわ・・・静かにしてね・・・『対象』『拘束』・・・『強度』・・・『主人の命令』『除外』・・・ここだわ・・・ここが結界の『穴』よ」

 

ハーマイオニーがそう判断した瞬間に、シリウス、続いてハリーが駆け下りてきた。

 

ハリーの目の前には床いっぱいに敷き詰められた緻密な魔法陣、そしてまるで井戸の底へ落ちていくような、終わりの見えない螺旋階段だった。

 

「ロン、箒が必要だ。アクシオだ。ハリーは待機して温存だ」

 

ロンとシリウスはそれぞれ箒を呼び寄せた。次にシリウスはドロメダにパトローナスを送る。「あなたたちはクリーンスィープの他にノルドヴィントも使ってくれ。ハーマイオニーは私が乗せる」

 

ハリーは膝に両手を置いて前屈みになったまま、必死で呼吸を整えようとした。

 

幸福な記憶なんて、もう搾り出す必要はなかった。

ハーマイオニーが一心不乱に魔法陣の上で杖を動かして世界を守ろうとしている。ロンは逃げるためにファイアボルトを、シリウスもクワトロサルーンを呼び寄せて跨っている。

 

「来いよ、ハリー」

「ああ」

 

まだ爆発は起きていない。おばさんたちが、どうやっているのかはわからないけど、とにかくまだ爆発を遅らせてくれている。

全ての役割が間違いなく世界を支えるために動いているのだ。

 

これが美しい幸福でなくてなんだろう。

 

「出来たわ!」

「乗れ、ハーマイオニー! ロン、ドロメダにパトローナスだ! そのまま飛べ! ハリー、出来るな?!」

「・・・出来る!」

 

ロンが操るファイアボルトが舞い上がる。シリウスはハーマイオニーの襟首を掴んでクアトロサルーンに引き上げてそのまま部屋を飛び出した。それに追随するロンの後ろから身体を捻り、ハリーは渾身の力を込めて叫んだ。

 

「エクスペクト・・・パトローナム!」

 

 

 

 

 

ロンのジャック・ラッセル・テリアのメッセージを聴いた瞬間に、ドロメダと怜は護符から手を離して箒の柄に身を伏せた。

 

後ろを確かめることもせずにひたすら弾丸のようにエクリズディス専用と思われる螺旋階段の真ん中の吹抜けを真上に向かって飛ぶ。

 

ず、ず、と地鳴りが響き始めた。

怜は振り向いてドロメダの手を引いた。ドーラのお下がりのクリーンスィープは、怜が買ってハーマイオニーに譲った最新型のノルドヴィントに遅れそうになっていたので、ドロメダはすぐさま怜の後ろに飛び移った。

 

それと同時に怜が気を失うようにドロメダの胸に背中を預け、ドロメダはその体勢のままノルドヴィントの柄を握り締め、力の限り急上昇する。

 

凍りつくような冷気が噴き上がる。

 

その先頭で冷気に押し上げられるようにして地上に投げ出された。

 

渦を巻く冷気の中で、怜の身体ごと箒の上に押さえ込んで、目についた陸地に転がった瞬間、アズカバンが黒い噴煙の中に崩れ落ちていくのが見えた。

 

それは、あたかも絶望の炉が崩れ落ちるかのようだった。

 

「・・・よかった。結界が起動している」

 

そうね、と怜の言葉に頷きを返したドロメダは、杖を取り出してシリウスにパトローナスを送った。

 

 

 

 

 

北海にある海上油田基地の足場に隠れたシリウスとハーマイオニーの前に、くたびれた白鳥が舞い降りてきた。

 

『レイもわたくしもなんとか脱出したわ。でも風に流されて、どこがどこだかわからないの。迎えに来てちょうだい。ついでに言うと、ドーラの箒はアズカバンの中に落としてしまったわ』

 

よし、とシリウスが小さく拳を握った。

 

「ハーマイオニー、帰路については何か指示を受けているか?」

「事前の指示は、地下23階の魔法陣を書き換えたら、おばさまたちが地下16階で合流して、魔法陣のチェックをして起動という予定だったから、こんな風にバラバラに飛ばされる想定はしていなかったの。ハリーとロンは大丈夫かしら」

「・・・一番危険な臨界点にいたオバサンたちが脱出出来たのだから、致命的なタイミングの遅れはないはずだが・・・まったく」

 

シリウスが自分のパトローナスを出して「無事ならすぐに連絡をしろ」と伝言を託けた。

 

「まずオバサンたちを探しに行こう。レイの様子が気になるからな。その途中でハリーたちからの連絡も来るはずだ」

「あ、待ってシリウス」

 

ハーマイオニーは自分のエクエスを取り出して位置探査機能を起動した。

 

「・・・ダメだわ。切ったまま」

「・・・仲間の現在位置がわかるとは高度な魔法道具だな。使いこなしていなければ意味は無いが。ちゃんと乗ったか? では行くぞ」

 

北に向かって飛んだハーマイオニーとシリウスは、まっすぐ南に銀色のドームを見た。

 

ドームの中では真っ黒な嵐が吹き荒れているように見えた。

 

「ハーマイオニー」

「はい?」

「誇りなさい。これだけの仕事ができる魔女は、そうはいない。君とレイは、ヨーロッパ全土を巻き込む甚大な魔法災害を止めたのだ」

 

しかし、ハーマイオニーは首を振った。「無理よ、シリウス」

 

途方もないマイナスをゼロにしただけだ、とハーマイオニーは思った。ここからプラスを積み上げていく行為のほうがはるかに価値があり、そして困難なことだろう。

 

 

 

 

 

「おばさま!」

 

箒に括り付けた白いシャツを箒ごと振っているドロメダの背後に、地面に倒れたまま身体を丸めて横たわる怜を見つけてハーマイオニーはシリウスのクワトロサルーンから飛び降りた。

 

「いったい何が?!」

「・・・絶望を煮詰めた結晶体に、この一族の魔女が張り付いていたのだから、このぐらい当たり前よ、ハーマイオニー」

 

ああ、とハーマイオニーは唇を噛んだ。

 

「精神干渉系の効果があったのか?」

「というよりも、怜自身の感受性や共感能力が剥き出しになっているようなものね。しばらくは使い物にならないけれど、ロンドンのタウンハウスに放り込んでしばらく安静にしていれば自力で回復するでしょう」

 

シリウスは「ふうむ」と顎を撫でる。「看病その他身の回りの世話は?」

 

「今は人間の魔法が身近にあるのはよくないわね。タウンハウスでハウスエルフひとりに任せるのがベストだと思う。特に若い子たちの感情の上下動はストレス要因でしかないから、あなたには帰路の引率を任せるわ。わたくしは怜を連れて姿現しでまっすぐロンドンに向かうことにする。構わない?」

 

最後の確認はハーマイオニーに向けたものだった。

 

ハーマイオニーは黙って頷いた。

まただ、と思った。

 

わたしたちはまだ本当の意味で一人前ですらなく、ましてや魔法界を背負うだの救うだの、大それたことは大人たちの導き無しでは出来てはいない。

 

その時、怜が弱々しくハーマイオニーの手に手を重ねた。

 

「あなたたちの、若さが、絶望の息の根を、止めた。それは、忘れちゃ、ダメ。経験や、知識は、あとから、いくらでも、どうにでも、なるから」

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