柊子もシメオンも庭の移動キーでそれぞれの任地に戻って行った。
見送ったスーザンはその場で大きな深呼吸をする。
「・・・もう上着は要らないわね」
ただの散歩程度でも身体を動かせば汗ばむことだろう。
目を細めて裏山の緑に目を向ければ、もう春先の淡さではなく、活気に満ちた濃い緑に変わっていた。
「スーザン!」
蓮が室内から呼ぶ声が聞こえる。
「エンガワよー」
家の中から、スパン、と襖を乱暴に開ける音が聞こえた。
「大変だ!」
携帯ラジオを持った蓮が飛び出してきた。
「ラジオ?」
「アズカバンが爆発したって、今緊急放送が!」
スーザンは蓮の手からラジオを取り上げた。
「あっ! 何すんの?」
「今は休暇中。アズカバンへの対処はハーマイオニーたちに任せてきた。あなたがラジオに張り付く必要はありません」
「スーザン!」
ラジオの電源を落として、乾電池を外しポケットに入れてから、スーザンは「朝食を済ませましょう」と微笑んだ。
「・・・はい。あ、でもその後に1時間だけ」
「朝食の後はお散歩よ」
きっぱりとスーザンは言った。
昨夜、柊子と話した後に座敷に敷かれた布団の中でスーザンなりに考えた結果がこれだ。
蓮はハリーと違って「強靭な女性」に育てられてきたせいか、マクゴナガル先生やハーマイオニーに対してはあまり反抗しない。
おそらく「下手に反抗したら余計に面倒なことになる」と刷り込まれているのだろう。だとしたらスーザンはこれまで蓮を甘やかし過ぎていたということになる。
スーザンに向かって柊子は「蓮の扱いが巧みだ」と言ったが、あの時のスーザンは頭ごなしに抑えつけるのではなく「わたしにも休暇は必要」と微妙に論点をずらして譲歩の余地を奪ってから、蓮の判断に委ねた。議論そのものを無視した。
これでいいのよね、と台所でお味噌汁を温めながらお茶碗に白米をよそった。
「昨夜、あなたのおばあさまに教わったの。ごはんの炊き方やお味噌汁の作り方。今朝の食事はおばあさまが作ってくださったけれど、お昼からはわたしがどうにかするわね」
「・・・ありがとうございます」
蓮が持った盆の上に白米と目玉焼きを並べ、「先にダイニングに運んで」と指示してから、お椀に味噌汁を注ぎ分けた。
スーザンが味噌汁を蓮の前に置くと、蓮はほぼ反射的に箸を持って手を合わせ「イタダキマス」と耳慣れぬ言葉を口にした。
「レン?」
「ん? あ、おいしい。揚げの味噌汁だ」
「今のは? こう、オハシを持って手を合わせて呪文を唱えたけれど」
「呪文? ああ、あれは・・・食前の・・・ここに帰ってくると出ちゃう癖みたいなもの」
ふうん、としばらく考えて「今の呪文、わたしにも教えて?」と頼むと、蓮が「イタダキマス」と繰り返した。
「イタダキマス?」
「うん」
「意味は?」
「・・・えーと、出てきた食事に感謝? する? 決まり文句だから気にしなくていい」
「へえ・・・出てきた食事に感謝。素敵な習慣ね」
そう言ってスーザンは蓮にニコリと笑顔を見せた。「わたしは今の今までされたことがないけれど」
「・・・ごめんなさい」
「イギリスでも根付くべき素晴らしい文化だわ。こうね。こう手を合わせて・・・『イタダキマス』あ、少し頭を下げるべき?」
「頭を下げると、より丁寧さが際立ち・・・マス」
蓮は居心地が悪そうだが、スーザンは構わず食事を楽しむことにした。
山道の散歩では、急ぎ足になる蓮を無視して草木や花を楽しんだ。
蓮は「そんな大した花じゃないよ。雑草だ」と言っていたが、肺炎からの回復期にある蓮の故郷を整えるためにも、スーザンは意識して周りの景色を楽しむことにする。
この1年近く、自分たちは振り回されていた。もちろんそれは戦争に必要な緊張感だったけれど、1年もの時間を休みなく自分を鼓舞し続けるのは、つくづく不健康なことだ。
戦士にも休暇は与えられるべきだ。
魔法省への潜入をしていた時期にマファルダ・ホップカークが「休みは休みよ。他の作戦のために走り回ったりしないで、きちんと休みなさい」と言っていたことを思い出した。
あれはきっと経験者の知恵だったのだ。
伯母と同期で入省したマファルダは、おそらく第一次魔法戦争という緊張状態を伯母と同じように経験したはずだ。
だからきっと、伯母も同じことを言うだろう。無闇に急ぐな。休む時は休め。無駄に自分を鼓舞するな、と。
スーザンは今初めて大地に力強く足を着けた気がしていた。
多くの先人たちの苦労や努力。そしてトムがいようといまいと連綿と続けられてきた日常の営み。その先端に今自分は立っているのだ。
蓮の一族が1,000年守り続けてきたこの神域が、スーザンに正しい呼吸を思い出させてくれるように、蓮にもまた正しいリズムが戻ってくることをそっと胸の中でイメージした。
蓮にこそ、それは誰よりも必要なことだ。
この休息はただの足踏みではない。女王陛下から「100年200年と続く国を打ち立てなさい」と言われたのはスーザンではない。蓮とハーマイオニーだ。その蓮とハーマイオニーが招集したのが円卓の騎士団。その中にスーザンは存在している。
100年平和を維持する社会。それを設計することは、敵に追われて息を切らして逃げながら出来る仕事ではないはずだ。
誰かがどこかで大地にしっかりと足を着けて、力強いアンカーにならなければならない。円卓の騎士としての仕事は、きっとそこにある。
「はい着いた! ここが祠だよ! この上には原生林しかない!」
少し先を歩いていた蓮が、小さな木の鳥居に手を置いてそう宣言した。
「そう。あら、下に集落があるのね? それに、何かしら地面がキラキラして」
「田んぼ! 米を作るには、きちんと根を張るまでは農地を水で満たすんだ。だからあれは、区間整理された水たまり! 田植えの季節だからね」
「タウエ?」
「小さなトレイに土を敷いて、そこに去年の米の皮を剥いてないやつを蒔く。それが発芽して苗になる。その苗を、あの水溜まりに植えるのが田植え! ばあばとじいじが帰ってきてたのは、田植えのためだと思う。ウチにも狭い田んぼあるから。でも嫌だ! 見に行きたいって言うだろうけどそれは明日! わたくしはもう疲れた! 帰る!」
はいはい、とスーザンは肩を竦めた。初日から無理強いを続けても意味はない。「わたしはゆっくり帰るわ。あなたは先に帰って」
許可を得た蓮が駆け出した瞬間に「あ、待って」と声を掛けた。
「なんだよ!」
「先に帰っていいから、わたしが使っている座敷の続きの座敷に、オフトンをもう1セット出しておいてね」
「・・・なんで」
「なんででも」
蓮が釈然としない顔で頷き、脱兎の如く駆け下るのを見送って、スーザンはホルスターから杖を抜いた。
「エクスペクト・パトローナム・・・ハーマイオニー、もしかしたらアズカバンにレイおばさまも関わっていらしたの? だったら、日本の御実家で療養なさるように伝えて欲しいの。わたしもいるから、お食事ぐらいはこちらで用意出来るわ」
すい、と軽く杖を振るとスーザンの猫のパトローナスはあっという間に消えた。
「やっぱり」
スーザンは小さく呟く。今のスーザンは、パトローナスを出すのにも、イギリスまで送り出すのにも、余計な努力は一切必要なかった。
この土地は、魔法的なエネルギーに満ちているのだ。