夕暮れのヌルメンガードは、思ったよりも静かだった。
風が石壁を撫で、塔のどこかで鉄がきしむ音がする。
蓮は杖を取り出さなかった。必要ないと分かっていたからだ。
アズカバン崩壊の噂は既にヨーロッパ中に広まっていた。
案内の看守がその噂の真偽を尋ねても、蓮は「さあね。わたくしは日本にいたから知らない」としか言わず、看守は小さく溜息をついて重い扉の前で止まり、短く言った。
「ここです」
鍵が回る音がした。
扉が開く。
中は清潔なコンクリート造りの部屋だった。
窓は高く、夕陽が細く差し込んでいる。
その光の中に、老人が椅子に座っていた。
ゲラート・グリンデルバルド。
彼は振り返らずに言った。
「久しいな、ミス・キクチ」
蓮は扉が閉まる音を背に聞いた。
「お久しぶり。蓮でいいよ。こっちは友人のスーザン・ボーンズだよ。同席しても構わない?」
グリンデルバルドはゆっくりと顔を向けた。
青い瞳は、年老いてもなお奇妙な光を宿している。
「いいとも。ディミトロフから聞いている。彼は相変わらずの祖父馬鹿だ。面会に来ると君の話ばかりする。彼女は君と一緒に活動している仲間なのだろう?」
「はい。はじめまして、グリンデルバルドさん」
その挨拶に軽く手を上げてグリンデルバルドは応じた。
「少し声や口調が落ち着いてきたな、レン」
蓮は肩をすくめた。
「人は歳を取るんだよ」
老人は小さく笑った。
「まったく・・・アルバスなら、もう少し詩的なことを言うぞ」
沈黙が落ちた。
グリンデルバルドは蓮を観察しているようだった。そしてスーザンに目を向ける。
「私が恐ろしくはないのかね」
「レンから聞いていたからでしょうか。それほど恐ろしいとは・・・初対面ですので緊張はそれなりにしていますけれど」
「初対面で私をそのように紳士扱いする若いレディにはもう長いこと会っていないから嬉しいよ」
「わたくしも礼儀正しかったじゃないか」
「ディミトロフの孫にしてはな」
彼は壁に背を預けた。
「それにしても・・・」
老人の目が細くなる。
「英国魔法界の女王の代理人が、こんな刑務所に来てくれるとは光栄だ」
蓮は淡々と言った。
「あなたが呼んだんだよ」
「そうだ」
グリンデルバルドは窓の夕陽を見上げた。
「アズカバンが破壊されたと聞いた・・・おそらくもうすぐ客が来るだろう」
蓮は答えなかった。
「君の言う『トムくん』だ」
老人は静かに言った。
「彼は私を殺すつもりだ」
「たぶんね」
「止めるつもりは?」
「ないよ」
グリンデルバルドは少しだけ笑った。
「正直だ」
蓮は壁際の椅子に腰掛けた。
「あなたはそれを承知でわたくしを呼んだんでしょ?」
「もちろんだ」
老人はしばらく彼女を見つめた。
「一つ聞きたい」
「どうぞ」
「私の何が間違っていた?」
蓮は即答しなかった。
沈黙が数秒続いた。
やがて彼女は言った。
「手段、かな」
グリンデルバルドは首を傾げる。
「それだけか」
「あなたの思想は理解できたよ」
「ほう」
「魔法族の優位。秩序。マグル世界の混乱からの隔離」
老人の目がわずかに輝いた。
「続けろ」
「でもあなたは暴力を装置にした」
蓮は静かに言った。
「恐怖は秩序を作らない」
「では何を作る?」
「さらなる混乱」
グリンデルバルドは長く息を吐いた。
「面白い」
彼はしばらく黙ってから言った。
「ではトムくんはどうだ」
蓮の表情は変わらなかった。
「トムくんは思想家じゃないよ」
「ほう」
「ただの暴君だね」
老人は小さく笑った。
「私もそう思う」
夕暮れの赤みが少し強くなった。
グリンデルバルドはふいに言った。
「君ならどうする」
蓮は目を細めた。
「何を?」
「世界を」
沈黙。
遠くで風が鳴った。
蓮はゆっくり答えた。
「子供を守る」
老人は眉を上げた。
「子供?」
「オブスキュリアル」
グリンデルバルドの顔から笑みが消えた。
「・・・なるほど」
蓮は続けた。
「暴力は魂を壊す」
「それは知っている」
「壊れた魂は、世界を壊す」
老人はしばらく動かなかった。
やがて低く言った。
「君は私を理解している」
蓮は首を振った。
「ううん。あなたの思想は理解出来たけれど、あなたという人物を理解したとは思わない」
「違うのか」
「あなたは世界を変えたかった」
彼女は静かに言った。
「わたくしは壊れる子供を減らしたいんだ」
長い沈黙。
やがてグリンデルバルドは笑った。
「アルバスと同じことを言う」
「そう?」
「だが違う」
老人は目を細めた。
「君の方が冷たい。君は子供たちを愛そうとはしていない。未来の要素として観察している」
蓮は否定しなかった。
グリンデルバルドはゆっくり立ち上がった。
「レン・キクチ・ウィンストン」
「はい」
「君は危険だ」
「自覚はあるよ」
「アルバスよりも」
蓮は少しだけ笑った。
「光栄だな」
老人は彼女を見つめた。
「もし君が世界を支配すれば」
「しないよ」
「君もきっとそう言うだろうとは思っていた」
彼は窓の外を見た。
「それがアルバスの過ちだった。誰かが導かねば、世界は崩壊する。アルバスは導こうとせず、私は導こうとした。それだけの違いだ」
蓮は何も言わなかった。
遠くで雷のような音がした。
グリンデルバルドは小さく呟いた。
「もう時間だ」
彼は振り返らないまま言った。
「レン」
「はい」
「世界は面白くなる」
蓮は立ち上がった。
「あなたの理想ほどハッピーじゃないと思うけどね」
老人は笑った。
「それは残念だ」
扉が開いた。
蓮は出ていく前に一度だけ振り返った。
グリンデルバルドは夕焼けの中に立っていた。
まるで影のように静かに。
「さようなら」
蓮は言った。
老人は答えた。
「さようなら、東と西を統べる女王よ」
扉が閉まった。
ヌルメンガード近くのパブは静かだった。
窓から差し込む光が、古いテーブルの上に長い影を落としている。
スーザンは、向かいでソーセージにせっせとマスタードを塗る蓮を見つめて言った。
「あなた」
蓮は顔を上げた。
「うん?」
スーザンはため息をついた。
「本当に魔法大臣やる気ないの?」
蓮は瞬きをした。
「あるわけないだろ」
即答だった。
スーザンの眉がぴくりと動いた。
「考えるくらいは?」
「考えたよ」
「それで?」
「やめにした」
スーザンは椅子の背にもたれた。
「信じられない」
蓮は静かに言った。
「なんでだよ」
「だって」
スーザンは言葉を選んだ。
「あなた以上に適任な人がいる?」
蓮は少し考えた。
「ハーマイオニー」
スーザンは顔をしかめた。
「ハーマイオニーが適任じゃないとはいわないけれど・・・あなたの背景を考えたら、国際的なバックボーンが強いのはあなたのほうよ? あなたがいったん魔法大臣になって、それからハーマイオニー。そのほうが彼女にも無理がないと思うの」
「無駄な寄り道だ。キングズリー、それからもしかしたらママ、そしてハーマイオニー」
蓮は淡々と言った。
「完璧だろ」
スーザンはしばらく彼女を見つめた。
「あなたは世界中の魔法政府に影響力がある」
「多少」
「国際魔法使い連盟もあなたの話を聞く」
「あれは聞くとは言わない。無理矢理言わされてるんだ」
「そして」
スーザンは指の爪でテーブルを弾いた。
「あなたの直感は、だいたいの場合、後になって正しいと証明されるわ。あなたの視点は歴史も社会構造も、自然環境も全ての調和を見出す視点だから」
蓮は首を傾げた。
「そうでもないよ。買い被りだ」
「謙遜はいいの。あなたの弱点は人に仕事を任せられないことだったけれど、今はもうそこを卒業しているもの」
沈黙。
やがて蓮が言った。
「スーザン」
「なに」
「ハーマイオニーが魔法大臣になるべき人だよ」
スーザンはじっと彼女を見た。
「理由は?」
蓮は少し考えた。
「三つある」
「聞かせて」
「第一に」
蓮は指を一本立てた。
「ハーマイオニーは構造を理解している」
二本目。
「第二に、ハーマイオニーは努力を惜しまない」
三本目。
「そして第三に」
少し間。
「ハーマイオニーは怒る」
スーザンは眉を上げた。
「怒る?」
「不正に対して」
蓮は言った。
「それは政治家に何よりも必要なエネルギーだ」
スーザンは少し笑った。
「確かにそうだけど、じゃあ、あなたは?」
蓮は肩をすくめた。
「わたくしは怒らない」
スーザンは即座に言った。
「嘘」
蓮は黙った。
スーザンはテーブルに身を乗り出した。
「あなたは、理不尽に権力を行使する人に対しては」
少し考える。
「かなり怖いわよ。実績があるもの。何のことかわかるわよね?」
蓮は静かに言った。
「別に怒っているわけじゃないよ。不愉快なだけだし、わたくしはその仕組みを知りたくなるんだ。あの時も仕組みの検証はちゃんとやっただろ」
蓮は少し笑った。
スーザンはため息をついた。
「あなた、本当に政治をやる気ないのね」
「うん」
「どうして?」
蓮は窓の外を見た。
ヌルメンガードが夕日に光っている。
「わたくしは」
少し考える。
「政治家という職業の人間を信じていない」
スーザンの目が細くなる。
「説明して」
「政治は」
蓮は静かに言った。
「大人の問題を解決する仕組みだから。政治家は大人の都合で動く」
沈黙。
「でも、わたくしが興味があるのは、子供なんだ」
スーザンはしばらく黙っていた。やがて小さく言った。
「だからホグワーツ? それともイオのこと?」
「イオじゃない。ホグワーツだよ。ホグワーツが整っていれば、社会も整う」
また沈黙。
やがてスーザンが笑った。
「本当に困った人ね」
蓮は首を傾げた。
「そう?」
「ええ。あなたが政治をやらないから・・・円卓騎士団がやるしかなくなる」
蓮はおどけて言った。
「せいかーい。スーザンが円卓騎士団に任せろって言ったんじゃないか」
スーザンは目を細めた。
「ずるい」
蓮は微笑んだ。
「スーザン」
「なに」
「世界はあなたたちに任せちゃいたいんだ」
スーザンは一瞬沈黙した。そして小さく笑った。
「覚えておきなさい」
「うん?」
「もしハーマイオニーやわたしたちが失敗したら、あなたを魔法大臣に指名するから」
蓮は答えた。
「その場合」
「なに?」
蓮は静かに言った。そして舌を出した。
「国外逃亡を検討する。スーザン、あなたが言った通り、イギリス以外にもコネはたくさんあるからね」
数日後の夜が更けた頃、ヌルメンガードにもう一人の訪問者が現れる。
彼は自分をヴォルデモートと名乗った。
ヌルメンガードの塔は、夜の闇の中で静まり返っていた。
石壁の隙間を、冷たい風が通り抜ける。
ゲラート・グリンデルバルドは椅子に座っていた。
老いた体は軽くなっていた。
骨と影のようだ。
しかし瞳だけは、まだ光を失っていない。
彼は窓の外を見ていた。
星が出ている。
「・・・やはり来たか」
誰もいない部屋で、彼は静かに言った。
足音が近づく。
扉の鍵が砕ける音。
ゆっくりと扉が開いた。
黒いローブの男が立っていた。
細い顔。
赤い目。
トム・リドル。
ヴォルデモート。
老人は振り返らない。
ヴォルデモートは冷たい声で言った。
「グリンデルバルド」
老人は小さく笑った。
「その名で呼ぶ者も、もうほとんどいない」
赤い目が光る。
「俺様は探し物をしている」
「知っている」
「ニワトコの杖だ」
グリンデルバルドはゆっくりと振り返った。
しばらく二人は黙って見つめ合った。
やがて老人は言った。
「お前には手に余るだろう」
ヴォルデモートの唇が歪んだ。
「場所を言え」
沈黙。
グリンデルバルドは笑った。
「若いな」
「言え」
「言わない」
赤い目が怒りで光った。
「死にたいのか」
老人は肩をすくめた。
「もう十分生きた」
ヴォルデモートは杖を上げた。
しかしグリンデルバルドは、彼を見ていなかった。
視線は窓の外に向いていた。
夜空。
星。
そのとき、彼の頭に浮かんだのは別の人物だった。
青年のように背筋の伸びた、背の高い若い女性。
静かな目。
石牢の椅子に腰掛けて、彼を観察していた。
レン・キクチ・ウィンストン。
「子供を守る」
彼女は言っていた。
老人は小さく息を吐いた。
「・・・なるほどな」
ヴォルデモートが苛立って言った。
「何だ」
グリンデルバルドは静かに言った。
「お前は世界を壊す」
赤い目が細くなる。
「しかし」
老人は続けた。
「世界は、それでも続く」
「黙れ」
「次の時代が来る」
ヴォルデモートの声は冷たい。
「杖の場所を言え」
グリンデルバルドはゆっくり首を振った。
「アルバスは間違っていなかった」
赤い目が燃え上がる。
「死ね」
緑の光が走る。
その瞬間、グリンデルバルドの頭に最後に浮かんだのは、ダンブルドアではなかった。
かつて彼が共に世界を夢見た男ではなく。
赤い目の男でもなかった。
牢の夕焼けの中で立っていた、背の高い少女。少女は彼が出会った誰よりも静かに未来を見ていた。
「世界は面白くなる」
彼は、そう言ったはずだった。
そして彼女は答えた。
「あなたの理想ほどハッピーじゃないと思うけどね」
グリンデルバルドは、最後に小さく笑った。
光が彼を包んだ。
そして、闇が戻った。
ヌルメンガードは再び静かになった。
しかしその夜、老人が守った秘密は、
遠く離れたホグワーツの白い墓の下に眠り続けた。
そして世界は、確かに続いた。
レン.E.K.ウィンストン著『グリンデルバルドとヴォルデモートの相似と相違』発刊に寄せて
ハーマイオニー・ジーン・グレンジャー
(英国魔法省 魔法大臣)
魔法史において、闇の魔法使いを研究することは常に難しい作業である。
理由は単純だ。
彼らは恐ろしい存在であり、恐ろしい存在について人はしばしば単純な物語を作りたがるからだ。
すなわち「悪い魔法使いが現れ、勇敢な人々がそれを倒した」という具合である。
もちろん、そのような物語は勇気を与える。
そして実際、勇気が必要だった場面は多かった。
しかし歴史の研究としては、これでは不十分である。
なぜなら闇の魔法使いは、真空から突然現れるわけではないからだ。
彼らは常に社会の中から生まれる。
本書の著者、レン・ウィンストンは、この点を極めて冷静に理解している研究者の一人である。
私は彼女の結論のすべてに同意するわけではない。
実際、彼女のいくつかの表現は、政治家としての私にはやや率直すぎると思われる。
例えば彼女は、英国魔法界の社会構造について、次のように書いている。
「ヴォルデモートは英国魔法界の歪みが産んだ鬼子である。」
魔法大臣の立場としては、これを公式声明として採用するのは難しい。
しかし残念ながら、研究者としての私は、この指摘が完全に的外れであるとも言えない。
本書の最大の価値は、二人の闇の魔法使いを単なる怪物として扱っていない点にある。
グリンデルバルドは思想を持つ人物であり、ヴォルデモートは思想を持たない人物である。
この区別は単純に見えるが、実際には魔法史の理解にとって極めて重要である。
思想を持たない暴君は、最終的には必ず敗北する。
しかし思想を持つ人物は、敗北しても影響を残す。
したがって私たちは、過去の闇の魔法使いを恐れるだけではなく、理解する努力をしなければならない。
それは、同じ過ちを繰り返さないためである。
最後に、著者について一言付け加えておきたい。
レン・ウィンストンは、研究者として知られているが、彼女をよく知る者ならば、彼女が単なる学者ではないことを理解しているはずだ。
彼女は、私たちの時代の多くの出来事を遠くから観察していた人物ではない。
むしろ、歴史の只中に立っていた人物である。
それでもなお、彼女がこのような冷静な研究を書き上げたことは、学問にとって幸運なことである。
もっとも、私は個人的に、彼女がもう少し政治に関わってくれても良いのではないかと思っている。
彼女はいつも、私がその話題を出すと同じことを言う。
「そういうことはハーマイオニーに任せてある」
これはもう、17歳の時から言われ続けている言葉だが、私としては、この問題についてまだ議論の余地が、大いに、大いにあると考えている。