オリバンダー老が、紋章の入った古びた箱を蓮に向けて開けると、ごうっと風が吹いて蓮の短い髪を乱した。
「これがレンの杖だわ」
ハーマイオニーの呟きにオリバンダーは頷く。「一目瞭然ですな。さあ、振ってみてくだされ」
レディ・ウィンストンは、なぜか険しい表情だ。
蓮は無造作に杖を取り、ひゅっと振り上げ、振り下ろした。
視界を覆うほどの白い桜の花びらが乱舞する。
「おお・・・これほどとは。失礼ながら、あなたのおばあさまのときは、はらはらと舞う程度でした。それは幻想的で美しい光景でしたが、おばあさまのお気には召しませなんだ。この杖の真の力はこれほどの花嵐。いや、素晴らしい」
蓮が杖を箱に戻すと、オリバンダーは蓋を閉じた。
「桜に、セストラルの尾。そして、この蓋の紋章は・・・」
言いかけたオリバンダーの前にすっと手を出し、言葉を遮った。「見ればわかります。この杖をいただきますわ」
サマーホリデイに入ってすぐに、ハーマイオニーは蓮と一緒にレディ・ウィンストンに連れられて再びダイアゴン横丁にやってきていた。
制服のローブの採寸、杖、教科書、鍋。いずれ劣らぬわくわくするショッピングだ。
「さっきのレンの杖、すごかったわね。でもオリバンダーさんが作った杖じゃないみたいだったわ」
蓮はつまらなそうに顎の先で頷いた。「でもたぶんそのことは秘密なんだと思う」
「そうなの?」
「杖には、秘密にしなきゃいけない杖があるって聞くよ。さっき買った魔法史の教科書に悪人とか極悪人とか出てくるはず。その人たちは杖のために決闘したんだって」
オリバンダーさんが作った杖なら秘密が秘密にならないでしょ、と蓮がアイスティを飲み干した。
「あのおじいさん、誰がどの杖を買ったか全部覚えてるような言い方だったわね」
「うん。日本のおばあさまは、杖に頼っちゃいけないっていうけど」
「杖に頼らない?」
「杖を手放さない、ピンチのときは必ず杖を抜いて構える、だけど杖がなければ何も出来ないとは思っちゃダメなの」
ハーマイオニーは「すごい」と呟いた。
「すごい?」
「マスター・ヨーダみたい」
今、レディ・ウィンストンはオリバンダーの店に残っている。少し話があるから先に出ていなさい、と言われたのだ。
「普通だと思うけど」
「普通の魔女?」
「ううん、普通のおばあさま。家ではあまり魔法使わないし」
「蓮のおばあさまは、2人ともあまり魔法使わないでしょう?」
「うん。使わないといけない時には使うけれど、マグルが魔法無しでやってることまで魔法を使う必要はないって」
それはハーマイオニーも聞いた。なにしろレディ・ウィンストンが歯科クリニックに通うのも、魔女なら他に方法があるにもかかわらず、なのだから。
魔女なら、歯磨き用の魔法薬を調合出来るし、歯列矯正の魔法も使える。もちろん美容院に行かなくても縮毛矯正なんて簡単な魔法薬だってある。
だけど、レディ・ウィンストンはそれではキレイになった気がしないのだそうだ。
「あら」
そこへ、中世の貴婦人然とした女性がプラチナブロンドの髪を撫でつけた少年を伴って通りすがった。
ーーわぉ、綺麗な人
どこか冷たい人形めいた美しさだけど、美人には間違いない。
ハーマイオニーとしては、知性や現代性の分だけレディ・ウィンストンの美しさのほうが好ましい。
「ああ、ウィンストン家のお嬢様ね。はじめまして。わたくしどものことはご存知かしら」
残念ながら、とちっとも残念でなさそうに蓮が答えた。「母のお知り合いですか? 母はどこかそのあたりにいますけど」
「ミス・キクチにそっくりな子ね。もう少し社交のレッスンをお受けになったらいかがかしら。数少ない純血ですもの、当家のパーティにもお招きしたいと思っていますのに」
「うちの娘は、ブラック家ならともかく、マルフォイ程度に呼び出されてノコノコ出かけるような真似はしないわ」
わぉ、とハーマイオニーは思った。前回もそうだったけれど、レディ・ウィンストンとマルフォイ家はとことん相性が悪いらしい。
「ミス・キクチ・・・」
「旧姓で呼ばれると気分が若返るわ、ブラックのお嬢さん? わたくしの娘や友人に、許可なく話しかけないでちょうだい。わたくし、娘たちがベラトリクスのような狂犬にならないよう慎重に育てているの」
肩を抱き寄せられて、蓮が呆れたように目をぐるんと上に向けた。
「ママ、もういい? ハーマイオニーとアイス食べたい」
まだ食べるの? と呆れ顔で子供たちを解放して、レディは背筋を伸ばした。
アイスクリームパーラーに向かうハーマイオニーの耳に「フラメル家の財産は2度とマルフォイ家には渡さない」と聞こえた。
「レン」
「んー?」
アイスクリームパーラーの前でアイスを物色する蓮に「フラメル家って何?」と尋ねる。
「わたし、グリンゴッツの金庫をお母さまからお借りしてるけど、その金庫もフラメル家の金庫だって」
「ああ。わたしの日本のおばあさまがホグワーツにいた頃は、第2次世界大戦中だったから、イギリスの魔法使いが後見人だったの。そこがフラメル家。親代りだから、フラメル家の財産はうちのおばあさまやママやわたしに相続されることになってて、フラメルのおじいさまたちは、財産の管理はもう全部おばあさまやママに任せてる」
「それをマルフォイ家が欲しがっているの?」
蓮は「全部が全部じゃないけどね」と言いながら、チョコチップバナナを睨んだ。
「ママがマルフォイ嫌いなのは、それを目当てに擦り寄ってくるから」
「純血主義がお嫌いなのかと・・・」
「他人がどんな主義主張でも、うちのママは気にしないよ?」
でも、と言って頭の横に両手の人さし指を立てた。「自分に押しつけられるとブチキレる」
その背後から「お母さまのことより、アイスは決まったの?」と声をかけられて、蓮が慌てて両手を下ろし直立不動になった。
「意味のある純血主義ならば、一つの主張としては構わないと思うわ」
チョコチップバニラを3個買ってテラス席に着くと、レディ・ウィンストンは苦笑いをした。
「ただ家系を誇るためだけの純血主義は迷惑ね。例えば、ある希少な魔法がその一族の血統によってしか維持されないとか、それならば意味のある主張と言えるでしょうし、他人に迷惑にはならない」
「はい。でも、そういう魔法はないんですか?」
「わたくしの知る限りでは存在しないわ。そもそもそういう魔法を持つ一族は魔法学校に子供を通わせないでしょうからね」
「一族秘伝の魔法がある、なんて子供が学校で迂闊に喋っちゃ困るからじゃない?」
蓮の言葉にレディは「そういうこと」と当然のように言った。
「創立初期の頃は、それも学校運営の目的だったかもしれないわ。一族ごとにばらばらに使われていた魔法を、学校という研究機関で研究して体系化する目的があったとしたら、学校というシステムは効率的だもの」
でもね、とレディが指を一本立てた。「均一化されたシステムの中で教育すると、その種の秘伝を伝授するための特殊な訓練が困難になるわ」
「サマーホリデイとか、長期休暇なら」
「あ、まだ知らなかったわね。あのね、未成年は学校の外で魔法を使っちゃいけないのよ」
「えー?」
「宿題もレポートや、魔術式、魔法陣作成ばかりだから安心して」
「そんなぁ」
「あら、理論は大切よ? ハーマイオニーは特に、理論的な土台をしっかり作ったあとに実践したいタイプに見えるけど、違って?」
「ちょっとそうかもしれません」
ちょっとじゃなく完全にそのタイプだが、少し見栄を張る。
見透かされているようで、レディ・ウィンストンは小さく笑った。
「話を戻すと、一族の秘伝の魔法って、どんなものだと思う?」
「どんな・・・」
「みんなを幸せにする種類の魔法かしら? それってどうしても秘密にしなきゃいけないことかしら?」
「秘密にしなきゃいけないことは・・・知られたら争いの元になりそうなことや、忌まわしい材料を必要とするもの、それ自体が邪悪なもの、ですか?」
レディはにっこり笑って頷いた。「おおむねそういうイメージでいいと思うわ」
「闇の魔術だね?」
「そうよ、蓮。ハーマイオニーが求める秘伝の魔法は、闇のもの以外にはもうイギリスには存在しないと思っていいと思うわ。グリンゴッツの呪い破りの仕事も、今はエジプト・アフリカやアジア、南米に移っているから。蓮もいくつか日本の護衛魔女の術を知ってるし、確か今度の新入生にはインド系の子がいたわね。去年入学した中には中国系もいた。未知の素晴らしい魔法は、世界にはまだ残されているけれど、イギリスの純血の名家じゃ・・・」
そう言ってレディが肩を竦める。「闇の魔術ぐらいしかないわ」
「純血主義者がマグル生まれを貶めることと闇の魔術には関係がありますか?」
「どうかしら? 力の誘惑に囚われた人は、同じ力を持たない人を侮る傾向はあるわね。例えば杖」
「杖?」
「今は魔女や魔法使いと言えば、必ず自分の杖を持っているわ。ハーマイオニーもさっき買ったようにね。杖は優れた道具よ。杖を持つようになってからというもの、魔法使いの魔法はより精妙に、巧緻になったわ。でも、杖を使わない魔法が軽視され始めた」
「杖を使わない魔法なんてあるんですか?」
もちろんよ、とレディが微笑む。「赤ちゃんはどうやって魔法力を示す? グリンゴッツのゴブリンは? 杖を使わない魔法の世界はまだいくらでも広がっているわ。ただ、杖使いが軽視しているだけ」
なんて素敵な世界だろう、とハーマイオニーは思った。
闇の魔術に魅せられる人の気持ちはわからないけれど、魔法の世界の深淵を垣間見たような気持ちになる。
「覚えておいて、ハーマイオニーも蓮も。力に溺れるのは愚かなことよ。杖を手放すな、しかし杖に依存するな。正しい魔女は、風や水さえも力に変えるの」