リヴァプールの駅にはテッドが迎えに来てくれていた。
フラメル夫妻の手を借りて、絶対に追手がかからない家を用意するための3日間だった。
実家には、シシーが姉の「ふしだらな」行状を逐一報告していたらしく、大広間から飛び出した翌日には両親がホグワーツに連れ戻しに来たと聞く。ただ、その時に怒りに我を忘れた父が「堕胎の魔法薬もないのか」とダンブルドアを詰り、それを取り成したつもりの母が「そんな薬を使うべきではないわ。生まれた子をマグルの孤児院にでも放り出せば良いのです」と言ったことで、先生方はドロメダをこのまま両親の手に渡すわけにはいかないと判断してくれた。マクゴナガル先生の部屋に泊めていただいて、スラグホーン先生の許可を得て、マダム・ポンフリーとアリスと怜が荷造りをした。
「ドロメダ!」
ホームのテッドに抱きついて、その体の温もりを確かめた。
「顔色が悪い」
テッドがドロメダの頬に手を当てて心配そうに言うと「それは仕方ないわ」と、ペレネレおばあさまがそっとドロメダの背中に手を当てた。
「さ、おじいさまの車に乗ってちょうだい。わたくしたちの家に案内しますからね」
「ふむ。それが良かろう」
「いえ、わたくしたちはわたくしたちの家に」
ドロメダが言いかけると、テッドがドロメダの手を引いた。
「え? 違うの?」
「フラメル夫妻から家を借りたんだ」
ふふふん、とニコラスおじいさまが両手を広げた。「私たちの怜は9月からオックスフォードだろう? 私たちはオックスフォードに家を用意したからね!」
悪阻のせいではなく、ドロメダは軽い眩暈を感じた。
怜がビートルズが好きだからとリヴァプールに家を用意し、今度はオックスフォード? 爺馬鹿にもほどがある。
「そういうわけだから、我々のリヴァプールの家が一番手軽で安心だ。若い2人には申し訳ないが、怜がホグワーツから帰ってくるまで、同居させてもらっても構わんかな?」
構います、と言おうとしたが、テッドが先に「僕もそのほうが安心です」と答えてしまった。
「テッド?」
心外だ。家事全般の生活魔法はしっかり学んできたのに。
シシーの「ふしだらな姉に関する報告書」が書かれるずっと以前から、ホグワーツの卒業と同時に両親がドロメダを純血の家に縁付けるつもりでいることはわかっていた。ベラの結婚を見ればわかるように相手はヴォルデモートの一派から選ばれるのだろう。
すでにテッドと交際していたドロメダは、卒業後は実家に帰らずに済むよう、サマーホリデイの間に怜やアリスの家を訪問する体裁で、少しずつ大事な荷物を移しておいた。
それだけ計画的にしたことなのだから、家事全般の魔法を覚えるのは基本中の基本だ。
ホグズミードに2人きりで過ごす隠れ家に最適な小さな空き家を見つけたせいで、ちょっと計算間違いをしたことは認める。
駆け込んだトイレで怜が指折り数えた結果、約1カ月先走った計算になる。
「君は忘れてるようだけど、母親になるんだよ。体調が落ち着くまではペレネレおばあさまに側にいてもらうべきだ、絶対に」
ぎゅっとテッドの手を握った。
ひと月足らずのことなのに、怜やアリスのことが心配でならない。
あの姉が、マグル生まれと駆け落ちした妹をそっとしておくような微かなデリカシーさえ持っているとは思えない。間違いなく殺す気で追ってくるだろうし、妹を殺すついでに妹の親友2人を殺すのを躊躇うような殊勝さは微塵も持ち合わせていない。シリウスの「殺されるかと思ったぜ」といった口癖とは全く違う、文字通り「殺す」ことが平気な鈍磨した感性の持ち主だ。
そう不安を訴えると、ペレネレおばあさまはにこりと微笑みながら「怜はそこらの死喰い人に負ける子ではありませんよ」とたしなめた。「もちろんアリスだって、闇祓い局に就職が決まったのですから、優秀なことはわかっているでしょう? 今一番大切なのは、あなたの安全ですよ」
「その通り!」
お茶にモリっと砂糖を加えながら、ニコラスおじいさまが合いの手を挟んだ。
ニコラスおじいさまは、ふくふくした頬とお腹の、見るからに温厚な人だが、かなり用心深い人でもある。テッドにそう言うと「当然だ。じゃなきゃ700歳近くまで生きられるもんか」とアッサリ言われた。
この家には幾重にも保護と隠蔽の魔法がかけられているそうだ。丁寧に説明されたが、あまりに古い時代の魔法から、マグルの装置を利用した最先端を超越した魔法まであって、とても理解が及ばない。
テッドとニコラスおじいさまは気が合うらしく、暇さえあれば2人でガレージいっぱいの何やら得体の知れないマグルの機械をいじっている。
「ニコラスおじいさまもマグルのことにお詳しいのですね」
驚いてペレネレおばあさまに言うと「わたくしたちはマグルの夫婦のフリをして暮らしたこともありますからね。もちろん今でも、ちょくちょくマグルのお店やレストランを利用するわ」と教えてくれた。
マグル、とドロメダは俯いた。
いつかはテッドの家族にも会わなければならない。テッドの家族はもちろんテッドをホグワーツに通わせたのだから、魔法界に理解はあるだろうけれど、それならばなおさら純血主義のブラック家に良い印象を持っていないのではないだろうか。
それ以前に、この家から出られるのはいつになるのだろう。
小さく暖かい家だ。不満はない。
いずれはこんな家に家族で暮らしたい。
ただ、ひたひたとヴォルデモートの勢力が強まるのを、ブラック家の娘として知りながら、あえてテッドと結婚することを選んだことが果たして、テッドに対してフェアだったと言えるだろうか。
「わたくしはベラトリクス・レストレンジの妹なのに」
そう呟くと、ノンカフェインのハーブティーを用意してくれたペレネレおばあさまが「そのようねえ」とのんびりと言った。「いっぷう変わったお姉さまね。先日、キングズクロス駅でたくさんの殿方を引き連れて10番ホームで騒いでいらしたわ。あなたを『とっ捕まえろ!』とね。あなたはマグルのお嬢さんの服装をきちんと着ているし、礼儀作法も折り目正しいのに、同じご両親がお育てになったのは不思議だわね」
ドロメダはこめかみに指を当てて目を閉じた。目に浮かぶようだ。頭が痛い。
「ご迷惑をおかけして」
「あら、他人ですもの。迷惑なんかではないわ。あなたが一番迷惑を被っているのだから、そんなに引け目を感じてはダメ」
感じないわけには、とドロメダは言葉を濁した。
「いかない?」
「ええ。特にテッドに」
「あなたのような素敵なお嬢さんを射止めた殿方に何の引け目を感じるの?」
「ただでさえマグル生まれとして、厳しい時期を迎えるのに、わたくしなんかと結婚することになって、余計に厳しい立場に・・・」
ペレネレおばあさまはにこにこと微笑んだ。
「厳しい時期を迎えるのはイギリスだけ。怜の伝手があれば、日本にも行けるし、わたくしたち夫婦の伝手を使えばフランスも問題ないわ。あなたが安全に子供を産んで育てるならば、日本やフランスのほうが良いわよ」
「テッドのご家族はイギリス人ですから」
「ほうら、彼の都合もあるでしょう?」
ペレネレおばあさまはカップの上から目だけを覗かせて笑った。
「わたくしたち夫婦は何百年も夫婦でしたけれど、引け目なんて感じたことはないわ。なにしろ、さんざん振り回されましたからね。ニコラスには引け目を感じる神経がないし」
「そんなことは・・・」
「あるように見えて?」
見えません、と正直に言うわけにはいかない。
「夫婦というのは、結婚すると決めたときから平等な立場です。ですから、わたくし、ニコラスの錬金術・・・錬金術は女性を立ち入らせないのが普通だったのですけれど、錬金術の実験全てに立ち会いました。ひょっとしたら、そのせいで子供が出来なかったのかもしれないわ。そのことを悔やんだら、ニコラスが言いました。『だったら私が錬金術師だったのが悪いと言うのかい?』と泣きべそをかいてね。確かにそうだわね。どっちもどっちだわ、と思って以来そのことには一度も触れないことにしたわ。あなたがたも同じ。テッドが純血の魔法使いだったら、今のテッドだったかしら? あなたが愛するテッドは、マグル生まれだから今のテッドなのよ。逆も同じ。あなたがマグル生まれだったら、今のあなたじゃないわ」
確かにそうだ、そうなのだが、割り切ってしまうには事態は大き過ぎはしないだろうか。
「事態が大きく思えるのは、あなたがまだ若いからよ。わたくしの年になってごらんなさい。たいていのことには驚きませんから」
これが適切な励ましなのかどうか、ドロメダには今ひとつ判じ兼ねた。
「まったくさんざんよ、ブラック家では、なに、マンドレイクから子供が生まれるって性教育するわけ?」
アリスはドロメダを見送ったあと、シリウスに「子供の作り方」を教える羽目になったのだそうだ。
「グリフィンドールの談話室で羊皮紙に図を描いて『マンドレイクには雄株と雌株があります』からよ?」
怜が「そんなのあった?」と言うとアリスが「他にどう説明しろっていうのよ? シリウスの頭の中に合わせる必要があったの! たぶん来年はスプラウト先生に『雌株の鉢はどれ?』って聞きに行くわね」と断言した。
「それで、雄株と雌株がどうなるの?」
「『ニキビが消える頃になると雄株は雌株の鉢に、雌株は雄株の鉢に入りたがります』」
「へえ」
「笑い事じゃないわよ、レイ。あなた他人事だと思ってるだろうけど、コンラッドったら『俺はレイの鉢に入りたい』って言ってたわ」
ニコラスおじいさまの防犯魔法が必要ね、とドロメダも笑い出してしまった。
「そしたら、ジェームズが『鉢に入ったら病気になるんだろ?』なんて言い出して、おかげでマンドレイクの雌株には悪阻が来ることになったわ」
「卒業してて良かったわね、わたくしたち。来年のスプラウト先生の怒りが怖いわ」
「まったくよ」
それで? と怜がニヤニヤしながらアリスをつついた。「フランクはアリスの鉢に入りたいとは言わなかったの?」
「フランクはそういうことは口にしないの。フェビアンやコンラッドと違って」
「フランクがマンドレイク派だったら、あなた、大変ね」
しみじみとドロメダが言った。ドロメダ自身の経験に鑑みて、いろいろ大変なのだ、いろいろと。
「テッドがマンドレイク派だったの?」
怜が目を丸くした。
「違うわ、わたくしがよ。わたくしもブラック家で慎み深く育ったのだから」
確かに慎み深いわね、とアリスが苦笑した。「あなたのお姉さまの慎み深さにはびっくりだわ」
ドロメダは青くなった。「まさかあなたがたに姉が何か?」
「『あの忌々しい妹の友達の、血を裏切る小娘どもをやっちまいな! あれでも純血だからさぞいい子を産むだろうさ!』レストレンジ家ではニーズルのブリーダーを始めたみたいよ」
「笑い事じゃないわ! 何もされなかったの? 無事だった?」
コンラッドに似てきた怜の軽口をからかう余裕のないドロメダに、アリスが「落ち着いて」と声をかけて背中を撫でた。「無理もないけど、ちょっとナーバスね、ドロメダ。忘れたの? わたしもレイも、昔からあなたのお姉さまに憎まれているから、今さら油断なんかしないわ」
両手で顔を覆ったドロメダに怜が「1カ月もこの家から出られなかったんだもの、心配するばかりだったのはわかるわ。でも、わたくしたちだってあなたのことが心配だったのよ」と穏やかに言った。
「え?」
「レストレンジ家に子供が生まれる話を聞いたことある? 血がどうこう以前に、お姉さまにとっては嫉妬の対象だわ」
ドロメダは頷いた。「でしょうね。わかってて子供を作ったのだもの」
怜とアリスが目を見開いた。
「闇の印を刻印される前に」
「どういうこと?」
ドロメダはテッドにしか話していないことを2人に話した。
「死喰い人に女性が少ない理由がそれよ。闇の印を刻印されると、子供が出来なくなるの。体に闇の魔術を刻むのですもの。当たり前の体の機能は期待出来なくなる。女性は特にね。だからわたくし急がなきゃいけなかった。卒業して、いったん家に戻って、それからテッドと結婚するなんて当たり前の手順を踏んでモタモタしてるうちに、あの姉はわたくしに闇の印を刻印しに来たと思うわ」
アリスが「ご両親はそこまでは望まれないでしょう?」と慎重に言った。
「そうね、両親はね。でもわたくし、昔から姉に憎まれていたから。その点では姉と両親の意見は一致していないのだと思うわ」
「お姉さまはどうしてそこまで」
「ヴォルデモートに夢中だからよ。ヴォルデモートのためなら、ブラック家の血を絶やすことぐらい平気だそうよ。それこそが忠実なしもべの証なんですって」
馬鹿みたい、と怜が吐き捨てた。「純血主義者の自己矛盾もそこまでいくと狂気の沙汰だわ」
「レイ、言い過ぎよ。でも、自己矛盾は確かにそうね。その理論だと、いつか絶滅するじゃない?」
「姉が闇の印を刻んだのが真の忠誠を誓うためだけで、それ以外の純血の魔女に死喰い人の子供をさんざん産ませれば良いのですって」
やっぱりブリーダーだわ、と怜が頭を振った。
妊娠中に、3度死喰い人からの追手が、リヴァプールの街をウロついていた。
よほど妹がマグル生まれの男との間に子供を作るのが許せないらしい、とドロメダは呆れた。
ドロメダ自身は、シシーが死喰い人との間に子供を作ることなど気にもならない。いずれそうなるのはわかりきっているが、もう自分には関係ないことだと思っている。それこそニーズルのように次から次へと、純血の男たちの子を産ませられても構うまい。せいぜいブラック家の血を引く純血の子を増やせばいい。
ベラはきっと幸せではないのだ、とドロメダは苦笑した。
違う道を選んだ妹の邪魔をするより、自分の生活を楽しめばいいのだ。同級生のモリー・プルウェットのように。
ーーアーサー・ウィーズリーと結婚したモリーはもうすぐ2人目の子供を産むというのに、ベラときたら
リヴァプールで出産するのは危険だからと、友人たちがデヴォンにテッドが用意した家に移してくれた。
オッタリー・セント・キャッチポール村には昔から魔法族の集落があるが、変わり者が多く純血主義者がいないことが、今のところ確認されている。それでもフラメル夫妻の手で、さらに進化した保護隠蔽魔法がかけられた。
その家で、穏やかな魔女たちに助けてもらいながら子供を産むことは、ドロメダの心をゆるくほぐした。純血主義だとか死喰い人だとか、殺伐とした世界から飛び出せば、カラフルな色に満ちた明るい世界が開けていたのだ。
ーーここまでカラフルじゃなくて良かったのだけれど
生まれた子供を見に来てくれた怜が、唖然として顔を上げた。
「ドロメダ、この子・・・」
「あら、また変わった?」
怜が頭を振り「初めて見たわ、七変化?」と呟いた。
「そうよ、不思議でしょう? もう何代もブラック家には生まれてないのにね」
「あなた、ベラに知られたら殺されるわよ」
そうなのよね、とドロメダは苦笑した。本当に困った姉だ。
「だから、強力なゴッドマザーとファーザーがこの子には必要なの」
「誰に頼むか決めたの?」
「あなたにね」
怜が「は? わたくし?」と自分を指差した。
「ええ。あなたとコンラッド。適任でしょう?」
「名誉なことだけれど、コンラッドと一緒に?」
「あなたにゴッドマザーを頼んだと知ったら、ゴッドファーザー予定者を急病にして自分が命名式に来るぐらい平気な男だもの。最初からコンラッドにしてた方が平和でしょう?」
コンラッドはもう少し落ち着いて考えるべきだ、とドロメダは呆れている。
入学式の日に一目惚れして以来、様々にアプローチしているのは知っているから、彼が彼なりに真剣に怜を愛しているのは迷惑なほどわかっているが、好きだ、結婚しよう、といくら騒がれても本気にするわけにはいかないのだ。普通の神経を持った女性なら。
「怜、本当にコンラッドと結婚する気がないなら、彼がたとえ絶望するとしても別れなさい」
「別れ話なら何度もしたわ」
小さなニンファドーラを抱き上げて怜が呟いた。
「コンラッドが早くに子供を作らなきゃいけない立場なのはわたくしだってわかってるの」
「だったら」
「わたくしも同じような立場だから」
なぜわたくしの家名が菊池だと思うの、と怜が小さく笑った。「無駄に高名なシメオン・ディミトロフの娘なのによ? 日本人の血は1/4しか入ってないのに」
ねーニンファドーラ? と、ドロメダにではなく小さなニンファドーラに向かって宣言した。
「あなたのママは、とんでもないゴッドファーザーとゴッドマザーを選んじゃったわよう。ベラおばちゃま予防のためだけに、日本とイギリスのあらゆる魔法種族をこき使う気だわ」
まさか、というドロメダの呟きに怜はもう答えなかった。
ニンファドーラの髪が、淡い水色の涙のような色に変わった。
「最初から付き合うべきではなかったわ」怜の声は、少し掠れていた。「わかっていたけれど、止まれなかったの。ブレーキが壊れたろくでもない車みたいに」