サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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第1章 聖マンゴ魔法疾患傷害病院

「アリスとフランク、ネビル・ロングボトムのご両親よ」

 

母がそう言って紹介してくれた2人の目に、自分は映っていないと思った。

 

「驚いていないで、ご挨拶なさい」

「はじめまして、ミスタ・アンド・ミセス・ロングボトム」

 

やっぱり覚えてない、と母がクスッと笑った。「無理ないわね。最後にきちんと会ったのは2歳のバースデイ、本当に最後に会ったときは、あなたが無理やりご挨拶ご挨拶って言っただけで、もうほとんど意識がなかったもの。ねえ、蓮。闇の魔術と戦うって、こういうことなのよ」

 

母は静かに言ったのだった。

 

「あなたにこれだけの覚悟がある? こうなるまで拷問されて、それでも秘密を口にしないという覚悟があると言える?」

「・・・お母さま」

「あなたが宝探しや冒険だと思っているなら、今すぐにやめなさい。あなたはすでに人の命を背負っているの」

 

母の言葉が厳しく蓮の頬を叩いたような気がした。

 

「名前の魔法とダンブルドアが言ったでしょう。名付け親と名付け子の間には、一種の魂の糸が結ばれる。形骸化してしまうほどに古い魔法だけれど、間違いなく魔法効果が発生することはもうわかったでしょう。つまり、あなたに何かあったら、アリスとフランクのこの状態が維持されなくなる可能性があるわ」

 

この状態が維持されなくなるーーつまり、と考えるまでもなかった。

 

「アリスもフランクも、あなたが闇の魔術と戦うことを止めはしないでしょう。またこの状態が続くことが幸せかどうかは誰にもわからない。でもお母さまは、あなたが自分の命を粗末にすることを許さない。2人と同じだけの覚悟がないなら、手を出さないでちょうだい」

 

あなたたちは物事を軽く考え過ぎる、と母は呟いた。

 

「そんなつもりじゃ・・・」

「ヴォルデモートのやることなすことが幼稚で、あなたたちと同じ次元だから対抗することが度胸試しになってしまっている」

 

蓮は俯きかけていた顔を上げた。

 

「あなたは特に、ああいうおじいさまとおばあさまに育てられたし、グランパとグラニーもいたずらに闇の魔術を怖がる人たちじゃない。ヴォルデモートの台頭の時期にも極めて理性的だった人たちばかりがあなたを育てたわ。だからあなたは知らない。蓮、怖いのはヴォルデモートなんかじゃない。ああいう軽い神輿を担ぐことで増幅する恐怖や悪意が、この世で1番怖いの。イギリスの魔法界は、僅か一滴の墨を落としただけで真っ黒に染まるほどに閉塞した小さな社会なのよ」

 

あなたのパパはそれに殺された、と母は言った。

 

 

 

 

 

チェルシーの家では母はもうその話題を蒸し返すことはなかった。

 

毎朝寝坊しているところを、ウェンディに叩き起こされる。

ウェンディが考える「姫さまとしての正しい生活」のためには朝は9時までには必ず起きなければならないし、マグルのニュースを見ながら朝食を済ませなければならないのだ。

 

「ウェンディ、わたくしはチャールズとカミラが愛を囁き合っている音声を朝から聴かされたくないわ」と控えめに主張したが「姫さまにとって情勢は『ようふく』のように大事なのです!」と断言された。たぶんチャールズとカミラの件は情勢には含まれないと思った。

また「魔女の人生に為替相場は必要ないと思うわ、グリンゴッツのお金しか使わないのだし」と言ったが、ウェンディが「円とポンドの違いを知らない姫さまなんて!」と叫びながらエプロンに顔を埋めておいおいと泣き始めたので妥協することにした。

 

おかげで魔法史よりチャールズとカミラの恋の歴史のほうに詳しくなった頃、ある脱獄犯のニュースが目に入った。

 

「『今日のチャールズ』よりは脱獄犯のほうがマシ」

 

言いながらトーストを齧っていると、オフィスに向かう支度を済ませた母が「モーニン、プリンセス。今日のチャールズは何をやらかした?」と言いながら、リビングダイニングに入ってきた。

 

「チャールズの仕業かもしれないわ、脱獄犯1名よ」

 

キッチンカウンターの上に置いてある母専用のウェンディお手製グリーンスムージーを飲んでいた母が「わーお」と気の無い返事をした。

 

「脱獄犯の名前はシリウス・ブラック、武器を所持しており、極めて危険らしいわ」

 

ブフォ! と母がスムージーを噴き出した。

 

「何した人なのかしら?」

 

ニュースが「農林水産省からのメッセージ」に変わるまで母はキッチンカウンターを拭いていた。

 

 

 

 

 

フランスまでフクロウが届けてくれた日刊予言者新聞を読みながらクロワッサンを食べていたハーマイオニーは、母から日刊予言者を取り上げられてしまった。「学校であなたいつもこんなことをしているんじゃないでしょうね?」

 

「・・・いちおうマナーは大事にしてるわ」

「食事しながら新聞を読むような、オジさんみたいな真似はやめてちょうだい。ママは娘は産んだけれど、オジさんは産んでませんからね」

 

しぶしぶハーマイオニーはクロワッサンとサラダの朝食にとりかかったが、母はハーマイオニーから取り上げた日刊予言者を読みながら「まあ」と呟いた。

 

「何か重大なニュース?」

「あず、アズカバン? とかいう場所から、脱獄した人がいるらしいわよ」

 

ハーマイオニーは目を見開いた。

 

「脱獄不可能な牢獄だって聞いてたのに!」

「魔法使いに脱獄不可能な牢獄ってどんな場所? ママには思いつかないわ。あなたの話じゃ、鍵を開ける魔法も姿を消す魔法もあるんでしょう?」

「杖は取り上げられるはずだから、魔法は使えないもの」

「杖がなきゃ使えないものかしらね、魔法って。あなたは小さい頃から杖無しでいろいろやっていたのに」

 

そういえばそうなのだが、意図して精妙な魔法を使うには杖は必要なのだ。

ハーマイオニーは力説したが、母は「やって出来ないことはないはずよ」と自説を曲げない。「とにかく3年生こそおとなしく真面目な生活をしてちょうだいね」

 

「はーい」

 

その夜ハーマイオニーは蓮に手紙を書いた。「魔法史のレポートが羊皮紙2巻分長くなったけれど問題ないと思う?」

 

蓮から来た返事には「チャールズとカミラとダイアナの三角関係についてなら羊皮紙2巻分ぐらいは書ける」とまったく何の役にも立たないことが書いてあった。

 

 

 

 

 

「セントブルータス更生不能非行少年院?」

 

フローリアンフォーテスキューアイスクリームパーラーのテラスで蓮は見事に復唱した。

 

「よく1度で覚えられるね、僕、自分が行ってることになってる場所なのに、名前を覚えるのに3日かかったよ」

 

ハリーの途方に暮れた顔が可笑しくて、蓮は笑い出してしまった。

 

「あなたのおじさま、あなたに労力を割きたくない割に楽しいことをいちいち考え出す人よね」

「たまに僕もそう思う。どこか妙な学校にぶち込んでるってマージおばさんに言いたきゃもっと簡単な名前にすればいいのにって」

 

ハリーが漏れ鍋で残りの夏休みを過ごすと知り、蓮は早めにダイアゴン横丁にやってきた。

蓮が家を留守にすれば、ウェンディが好きなだけチャールズとカミラの恋に腹を立てる時間が出来る。

 

「君は相変わらずかい?」

「ええ相変わらず。チャールズとカミラとダイアナの三角関係にウェンディが夢中なの。わたくしはマグル学を選択する必要はなさそうよ。マグルのことならウェンディが全部教えてくれるわ。チャールズの髪の毛の数までね」

 

これにはハリーが大いに喜んだ。

 

「君は占い学を取る?」

 

まさか、と蓮は答えた。「占いって、才能に左右される部分が大きいから、あまり興味を持てないの」

 

「ダイアナの専属占い師なら儲かるよ、きっと」

「それに占いの才能が必要? 『チャールズの浮気は治らない』って言えばだいたい当たるわよ。ろくでもないマンドレイクみたいに見境ないんだもの」

「じゃ、君は数占い?」

「ルーン文字学と魔法生物飼育学にするわ」

 

女の子のチョイスじゃないな、とハリーが肩を竦めた。「女の子は占い好きなイメージがあるけど」

 

「それハーマイオニーには言わないほうがいいわ。10倍のお小言が返ってくるから」

「ところで君はシリウス・ブラックって知ってる?」

「脱獄犯でしょ?」

「最近、漏れ鍋ではその話題でもちきりなんだ。アズカバンから脱獄した人間なんて1人もいないらしいよ」

 

蓮がキョトンとした。「魔法使いなの?」

 

ハリーはニヤッと笑った。

 

「君こそそれをハーマイオニーに言わないほうがいいよ。『新聞ぐらい読みなさい』って100単語ぐらいのお小言が届くから」

「肝に銘じるわ。で、何した人なの?」

 

マグル殺しだ、とハリーが声をひそめた。「13人をいっぺんに吹っ飛ばしたらしい」

 

 

 

 

 

「それほど悪い魔法使いではないはずなのよ」

 

グラニーが眉をひそめてハーマイオニーに教えてくれた。

 

「もちろん、わたくしは彼がもっと若い頃しか知りませんけれど、コンラッドが可愛がっていましたからね」

 

息子が可愛がっていた下級生がこんな事件を起こしたなんて嘘に違いない、とグラニーは断言した。それはまったく根拠にならないと思ったが、ハーマイオニーは一応頷いた。

 

「でも今はどうだかねえ」

「どうしてですか?」

「アズカバンというところは、とても嫌な場所なの。それに収監されている面々も質の良い方ばかりではないわ。あんなところに長くいたら、人が変わってしまうこともあるでしょう」

 

まあ確かに、とハーマイオニーは思った。紳士的な収監者はたぶんレクター博士ぐらいのものだろう。

 

「またおかしなことにならないことを祈るわ、ハーマイオニー。あなたがたの学校生活はまあ波乱万丈だもの」

「たまにわたしも不思議に思います」

「救いは闇の魔術に対する防衛術の先生がキチンとした方に決まったということよ」

 

ハーマイオニーは目を瞬いた。交渉中とは聞いていたが、決まったとは聞いていなかった気がする。

 

「学生時代にはグリフィンドールの監督生だった優秀な方よ。コンラッドも監督生だったの」

 

だからそれは根拠にならないって言ってるでしょう、と友人たちには注意する場面だったが、ウィーズリー家の息子たちよりTPOに相応しくありたいので、あえて口にはしなかった。

 

 

 

 

 

ホグワーツ特急の中でジョージに肩を叩かれた。

 

「久しぶりだ、レン」

「ハイ、ジョージ。エジプトはどうだった?」

「ピラミッドの中は面白かったぜ。でもパーシーが首席のバッジをもらったもんだから、俺たちもプレッシャーを感じざるを得なくてね」

「監督生になるには、プレッシャーを感じるのが遅いんじゃない?」

 

バカ言え、とジョージは苦笑した。「監督生に首席にクィディッチキャプテン揃いの我が家に更なるバッジは必要ない」

蓮は首を傾げた。「だったらプレッシャーを感じる必要ないでしょう?」

 

「後続のロンとジニーに新しい道を開拓してやる兄の義務があるのさ」

 

新しい道、と蓮は呟いた。「その新しい道がおばさまのお気に召すといいけれど」

 

「召すもんか。君こそ監督生になるならそろそろ本気出さなきゃ」

「そういうことはハーマイオニーに任せてあるわ」

 

その当のハーマイオニーが1番奥のコンパートメントから蓮の名前を呼んだ。

 

 

 

 

 

「シリウス・ブラックが?」

 

ハリーの話にハーマイオニーは驚愕した。蓮は首を傾げ「どうやって脱獄したのかしら」と、またズレた疑問を口にしているが、この際無視だ。たぶんチャールズとカミラの問題から頭がホグワーツ仕様に切り替わっていないせいだ。

 

「ハリー、ほんとに気をつけなきゃ!」

「ハーマイオニー、ハリーは馬鹿じゃない。自分を殺そうとしている脱獄犯に自分からのこのこ会いに行くような真似するわけないだろ」

「それに僕はホグズミードにも行けないしね」

 

ハリーが力無く笑った。

 

ねえ、と蓮が「ロンのお父さまはお仕事でアズカバンに行ったことがおありになる?」と唐突に口を開いた。

 

「あるらしいよ。ひどい場所だったって」

「うちの母もたまに行くけれど、母はそんなにアズカバンに拒絶反応がないのよね。不潔だとか、文句は言うけれど。あの人が文句を言うのはいつものことだし」

 

ああまあ君のママならな、とロンが呟いた。

 

「なに?」

「君のママなら脱獄できそうだ」

「問題はホグズミードよ」

 

ハーマイオニーが話題を元に戻した。「わたしの意見だけれど、シリウス・ブラックの件が片付かないうちはハリーがホグズミードに行くのは控えたほうがいいと思うの」

ハリーは溜息をつき「マクゴナガル先生の言いそうな意見だね」と肩を竦めた。

 

 

 

 

 

さてそろそろか、とハーマイオニーが杖を出すと、ロンが「ハーマイオニー?」と怪訝な顔をした。

 

「鍵をかけなくちゃ」

「なんでだよ! まだ車内販売のカートも来てないぜ」

「ああ、あなたたちと同じコンパートメントは初めてだから知らないわよね。あのね、レンと一緒にいるとマルフォイがレンを呼びに来るのよ」

 

今年は来ないと思う、とリラックスしてハーマイオニーの足の間に長い足を伸ばした蓮がハリーの蛙チョコのカードをシャッフルしながら呟いた。

 

「蛙チョコ占いがそう言ったの?」

「いいえ。ご自慢のお父上が理事会から更迭されたからよ。グッド。魔女モルガナだわ、魔法の大鍋の守護者。わたくしの今年の魔法薬学にはツキがある」

「レン、確かに君に占いの才能はない」

「スネイプの授業でツキがあったら、地球が逆回りするだろ?」

 

そのときだった。

汽車が突然速度を落とし始め、窓を打つ雨風の音が激しくなった。

 

汽車がガクンと止まり、あちこちのコンパートメントの中から、トランクが落ちる音が聞こえ、なんの前触れもなく明かりがいっせいに消えた。

 

あたりは真っ暗な闇に包まれた。

 

「確かにわたくしに占いの才能はない」

 

蓮が呟いた。

 

「レン、『今年も波乱万丈だ』と言っておけばハズレはないのよ」

 

ハーマイオニーは心の底からそう言ったのだった。

 


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