サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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第2章 ディメンターとボガート

「僕、ちょっと見てくる」

「いて! 動くなよハリー、僕の足を踏んでる!」

「そうよ。じっとしているべきだわ。動揺しちゃダメ」

「ハーマイオニー、わたくしの蛙チョコ取って」

「あなたは少し動揺して!」

「真っ暗なんですもの、蛙が飛んだらわからなく・・・」

「蛙チョコがこんなときに必要なの?」

 

たぶんね、と蓮が言った。

 

「正解だ」

 

嗄れた大人の男性の声が聞こえた。柔らかなカチリという音が聞こえると明かりが揺らめき、コンパートメントを照らした。鋭くあたりを警戒するような目つきをしている。

 

「動かないように」

 

男性がそう言ったとき、コンパートメントの扉がゆっくりと開いた。

 

ハーマイオニーは背中から体温が奪われるような感触に襲われ、立ち尽くしていた。

 

ドサ

 

「ハリー?」蓮の声が聞こえる。「ハーマイオニー、蛙!」

 

「ハリー、ハリー! しっかりしろよ、ハリー!」

 

のろのろと動く手が、さっき蓮がハーマイオニーの傍らに投げ出した蛙チョコを探るが、見つからない。

 

「蛙チョコがないわ!」

 

悲鳴を上げた。

 

「シリウス・ブラックをローブの下に隠している者は誰もいない。去れ。エクスペクト・パトローナム!」

 

男性の杖先から銀色の靄が現れて、コンパートメントの入り口に立っている黒衣のローブのような影を追い払うように動いた。

 

「大丈夫、心配ないよ」

 

パキンと音が聞こえた。振り返るとコンパートメントに同席して居眠りしていた「R.J.ルーピン」という先生らしき人がハリーにチョコレートを渡しているところだった。ハリーはなぜか床にお尻を落としている。

 

「チョコレートを食べるといい。元気になるよ」

 

そう言うと「ああ、君は対処を知っているね?」と蓮に声をかけた。蓮はチョコレートの塊を受け取り「対処?」と眉を寄せる。

 

「チョコレートをなぜ思いついたんだい?」

「ああ・・・母が仕事でアズカバンに行くときには、チョコレートをバッグいっぱいにしていくので」

「だからか。とにかく、ハリーにはチョコレートだ。君たちもチョコレートを食べなさい」

 

アズカバン? チョコレート? ハーマイオニーは手と同じく頭ものろのろとしか動かない。

 

 

 

 

 

運転士に話をしに行くとルーピン先生がコンパートメントを出ると、ロンが「アズカバン? じゃあ、あいつがディメンターなのか?」と呟いた。それには答えず蓮はハリーの口にチョコレートの塊を押し込んだ。

 

「あが、ひぇん!」

「食べて」

「はめにゃい!」

「いいから、早く食べて。ロンもハーマイオニーもチョコレート食べて!」

 

ロンが慌ててチョコレートを口に押し込んだ。ハーマイオニーもパキリと小さく割って食べた。

 

ともすれば震えそうになる指先を隠すように、蓮は拳を握り締めた。

 

「ディメンターに精気を吸われたときには、チョコレートの幸せの味が絶対必要なの」

 

よくわかった、とロンが座席の背に凭れた。「だいぶ楽になったよ」

 

「つまり歯医者の敵ね」

 

ハーマイオニーもぎこちなく笑いながら、残りのチョコレートを食べた。

 

蓮の母はアズカバンを忌避はしないがチョコレートの携帯は忘れない。普段はあまり甘いものを食べないのに、バーキンが型崩れしそうなぐらいにチョコレートを持って出かけるのは、アズカバンにいる被疑者に面会するときだけだ。「ディメンターは見境なく精気を吸うの。収監者だけじゃなく、面会に来た外部の人間からもね」

 

あらゆる不吉さを凝縮したような暗闇の中で、蓮の頭の中には「シリウス・ブラック」の名前が閃いた。アズカバンからの脱獄者だ。チョコレートが必要だと思ったのはその時だった。

 

今年はハーマイオニーには欠かさずチョコレートを携帯してもらわなければ、と蓮は思った。自分で携帯するのは当てにならないので。

 

 

 

 

 

早々とベッドに入った蓮を横目にハーマイオニーはパーバティと久しぶりの雑談に興じている。

 

早寝遅起き、長時間睡眠体質の蓮に合わせていたら、特に今年のハーマイオニーはやっていけないのだ。

 

「歓迎パーティのときのマルフォイにはムカつくったらないわ。ハリーが倒れたのを真似して」

 

ハーマイオニーが言うとパーバティが「明日からまたみんなが飽きるまで繰り返すわよ」と肩を竦める。「それよりハグリッドよ! びっくりだわ、彼が教授だなんて」

 

「魔法生物にはたぶんこの学校で一番詳しいもの。当然だと思う」

 

きっぱりとハーマイオニーは言ったが、パーバティは曖昧に「魔法生物に詳しいのと教師に向いているかは別でしょう?」と言った。

 

確かに。

 

「闇の魔術に対する防衛術の先生もなんだか冴えない感じだったわ」

「そうかしら? マダム・ポンフリーは褒めてらしたわよ。ディメンターへの対処の仕方をきちんと知っている先生がやっと見つかったって」

「まあ、今までの2人が酷すぎたわね」

「ディメンターが来たとき、ルーピン先生と同じコンパートメントだったの。すごく頼りになる先生だったわ。わたし、レン以外でああいうときに頼れる人初めて見たもの」

「ハーマイオニー、あなた、少し自覚したほうがいいと思う」

 

パーバティの言葉にハーマイオニーは首を傾げた。「なにを?」

 

「あなたって、闇の魔術に対する防衛術の先生、顔の良い人、危険なときに頼りになる人、って好みがハッキリし過ぎ」

 

そんなこと、と言いかけて口ごもった。ない、とは言い切れない。

 

「んー」

 

蓮が眩しげに眉をひそめた。「起こしちゃったかしら?」ハーマイオニーが蓮のベッドを覗き込む。「レン?」

 

「ウェンディ・・・チャールズの件は明日にして」

「・・・誰がウェンディよ」

 

 

 

 

 

 

新学期最初の授業、ハリーがハグリッドの指導の通りにヒッポグリフとコミュニケーションを取るのに成功して、天高く舞い上がると、グリフィンドール生から歓声が上がった。

 

蓮も同じだ。

 

頭の中で手順をおさらいする。礼儀正しくお辞儀をする、ヒッポグリフがお辞儀を返してくれるのを待つ、お辞儀が返ってこないなら素早く離れる。よし。

 

蓮が手近なヒッポグリフに目を向けたとき、マルフォイの尊大な声が聞こえた。

 

「簡単じゃないか。ポッターに出来るんだ、簡単に違いないと思ったよ。なあ、醜いデカブツの野じゅ」

 

最後まで言い終わらないうちに蓮は無言でマルフォイの前に盾を展開した。

ヒッポグリフの鉤爪がギィン!と盾にぶつかる音がする。

 

「ひぃ! 死んじゃう! 殺されちゃうよ!」

 

腰を抜かしたマルフォイの前に駆け出し、襟首を掴み上げた。

 

「自業自得だ、下衆が!」

「な、な、な、な」

「マルフォイ家が名家のつもりか? 本物の名家なら、おまえのような言動は決して許されない!」

「なんだと!」

「自分の言動ひとつで命が失われる可能性を理解できない奴が名門ぶるな、目障りだ!」

 

ドサっとマルフォイを牧草地に投げ出した。

 

「ぼ、僕にこんな真似をして許されると」

「だから何様だ、マルフォイ」

 

どうせマルフォイ様だろ! とロンが囃すように叫んだ。

 

「あー、あー。んだな、今のでわかっただろうが、ヒッポグリフを侮辱しちゃなんねぇ。蓮が盾を張らなんだら、マルフォイは大怪我しちょった。んじゃ続けっぞ」

 

隣に戻った蓮にハーマイオニーが「今年はおとなしくするんじゃなかったの?」とささやかな小言を言った。

 

 

 

 

 

十分おとなしくしてるじゃないか、とロンとハリーはハーマイオニーの意見に目を丸くした。

 

「去年までだったらマルフォイは再起不能なぐらいぶちのめされてたぜ」

「ホグワーツ特急で殴ってないだけで、わーお、新記録だ」

 

それはそうだけど、とハーマイオニーはぶつぶつ言った。

 

「ハーマイオニー、君はレンにどうしろって言いたいんだ? マルフォイがヒッポグリフに殺られるのを黙って見てハグリッドがクビになればよかったのか?」

「違います! ただ、レンが少しイライラしてるから」

 

ロンが眉を上げた。「イラついててアレなら十分だろ?」

 

この2人に細やかな観察力を期待したのが間違いだったか、とハーマイオニーが思いかけたとき、パーバティが「イライラしてるのは当然よ」とハーマイオニーの背後から声をかけてきた。

 

「パーバティ」

「レンは、闇の魔術・・・というか穢れた呪法を祓う魔女の一族だもの」

 

ロンが「だったらなんでまだマルフォイを殺してないんだ?」というのを無視して、ハーマイオニーはパーバティに「だからイライラしてるのが当然なの?」と尋ねた。パーバティは頷き「ディメンターよ」と端的に答えた。

 

「ディメンター?」

「わたしも感じるわ。ずっと肌がチクチクするみたいで気持ち悪い。レンはたぶんわたしよりずっと敏感だと思う。去年のことを考えるとね」

「でもディメンターのことは仕方がないわ。だって、ほら、シリウス・ブラックが」

 

それはどうかしら、とパーバティがハーマイオニーの隣に腰掛けた。「アズカバンに12年入っていて脱獄したんだもの。シリウス・ブラックにディメンターは効かないのよ」

 

「効かない? そんなことあるか? マグルだって気持ち悪さを感じるって聞くぜ」

「わたしたちのママは、ああいう看守に全て任せるのは間違いだって言うわ。ディメンターそのものが闇の生き物だって」

「ダンブルドアもあまり好意的に受け入れてはいないって聞いた」

 

ハリーがポツリと漏らした。

 

 

 

 

 

「調子悪そうだな」

 

ジョージの言葉に蓮は微かに口角を上げた。「仕方ないとは思うけど、ディメンターがいると空気が悪いの」

 

「あまり無理するなよ、今日はやめとくか?」

 

いいえ、と蓮は玄関ホールを出た。「シリウス・ブラックが捕まるまでジョギングしないわけにはいかないから」

 

「すぐ捕まるさ」

「またそんなこと簡単に言う」

 

パーカーのフードをかぶって、足の筋肉をほぐした。

 

「今度の外出日、一緒にホグズミードに行かないか? 許可証は貰ってきたんだろ?」

 

んー、と蓮は考えた。「貰っては、あるけれど。それまでにディメンターが引き上げていればね。ハーマイオニーたちにも聞いてみないといけないし」

 

走り出すとジョージが後ろから「言うと思ったよ」と声を張り上げた。

 

 

 

 

 

 

蓮の順番が回ってきたとき、ロンがハーマイオニーをつついた。「レンの怖いものって何かな?」

 

闇の魔術に対する防衛術の実地練習だ。職員室の洋箪笥に隠れたボガートを退治することが課題。ついさっき、ネビルがスネイプを女装させてクラスを沸かせた。

 

シェーマスの「リディクラス」で、ガラガラ声になって喉を押さえたバンシーの前に蓮が進み出ると、背の高いハンサムな若い男性の姿に変わった。

 

「誰だ?」

 

ロンが呟く。

じっと動かない蓮がにわかに心配になって、ハーマイオニーはローブの胸元を掴んだ。杖を握った蓮の右手の指が白くなる。

 

「ディーン、前へ!」

 

ルーピン先生の張りのある声にディーンが進み出ると、男性の姿は消え、切断された手首に変わった。

 

戻ってきた蓮は手近な椅子に腰掛けて、じっと俯いている。

 

「レン?」

「あれ、誰だい?」

 

ロンのいささか無神経な質問に、蓮はふにゃと表情を歪めた。

 

「わたくしのパパよ」

 

 

 

 

 

「恐怖と直面したときには、体を温めることが大事だ」

 

闇の魔術に対する防衛術の教室でルーピン先生が紅茶を出してくれた。「ティーバッグで申し訳ないがね」

 

黙ってそれを受け取った。

 

「すまなかったね。私のミスだ。こういう・・・」ルーピン先生が複雑に手首をくねらせた。「複雑な恐怖を抱えた生徒を想定していなかった。せいぜいが蜘蛛とかミイラとかだとばかり。しかし・・・君はお父さんのことが怖いのかい?」

 

いえ、と蓮は首を振る。「わかりません。怖いものは特に思い浮かびませんでした」

 

「ボガートと対決したとき、君はどう感じた?」

「期待外れだと」

 

ルーピン先生が眉を寄せた。「君が期待外れ? マクゴナガル先生から聞いた話とはずいぶん違うな。君は3年生の中で最も優秀な生徒の1人だ」

 

蓮は首を振る。「父の期待したほどではないのだと思います」

 

馬鹿な! とルーピン先生が大きな声を出した。

 

「わかってます。わたくしがそう感じているだけです!」

「そうだよ、ボガートは君のお父さんの代弁者じゃない。君の恐怖を反映しただけだ」

「いずれにせよ・・・わたくしが自分でなんとかする問題です。父と話すことは出来ませんから」

 

ごちそうさまでした、とカップを置いて蓮は立ち上がった。

 

「君、ミス・ウィンストン」

「はい?」

「お父さんのことが知りたいなら、マクゴナガル先生や校長先生に聞くといい。だろ? なぜ聞かなかったんだい?」

 

君のお母さんやおじいさんやおばあさんになぜ聞かない、とルーピン先生が言葉を重ねた。

 

「それは・・・」

「君が誰かにお父さんのことを聞いて、君の中でお父さんという人の人物像をきちんと作ることが大事だ。それなら私も手助け出来る。君の恐怖を乗り越える方法はそれしかない」

「みんな良いことしか言わない!」

 

気づくと蓮は叫んでいた。しかし、ルーピン先生は「君はお母さんには聞いていないだろう」と静かに言った。

 

「それは・・・」

「君のお母さんを私はたまたま存じ上げているが、間違っても夫を素直に褒める人ではないと断言できる。だから、みんながお父さんを誉め称えるのなら、君はお母さんにお父さんのことは聞いていないんだ。違うかい?」

 

聞いてごらん、とルーピン先生が目尻を緩めた。「悪口のオンパレードだ。違っていたら、私は百味ビーンズ100個をまとめて食べてみせる。でも勘違いしないように。君のお母さんはね、愛情を悪口で表現する悪い癖がある人なんだ」

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