サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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閑話15 板挟みにもならない

「今日はここまでにしよう」

 

ルーピン先生がボガートを箪笥に戻すとハリーにいつものようにチョコレートを差し出した。

 

「いえ、先生、大丈夫です。僕もう少し」

「集中できていないのが丸わかりだよ、ハリー。そんなときに何度繰り返してもあまり意味がない。むしろ自信を失ってしまう分マイナスだ」

 

返す言葉もなく、ハリーは杖をローブに仕舞うとチョコレートを受け取った。

 

「何か気掛かりなことが?」

 

少し迷ったが、ハリーは小さく頷いた。

 

「友達のことです」

「ミス・グレンジャーとミス・ウィンストンかな?」

「どうして」

 

そりゃあ、とルーピン先生は苦笑いをした。「君とロン・ウィーズリー、ミス・ウィンストンとミス・グレンジャーとで毎回クラスの席を分かれて座っているからね」

 

「取り付く島もないって、ああいうことなんだって、僕、わかりました」

 

ハリーがしみじみとついた溜息に、ルーピン先生が可笑しそうに笑った。

 

「先生?」

「ああ、いや失礼。そう、確かに女性が本気で怒っているときは、取り付く島もない。そして我々男には彼女たちが何に腹を立てているかもわからない。とりあえず謝ればいいかと思って謝っても、冷たく『あなたは何もわかってない』って言われて終わりだ」

 

ハリーは目を真ん丸にした。まるで見てきたように表現されてしまった。

 

「何を驚くことがある? 僕もグリフィンドールの生徒だったんだよ? グリフィンドールの女子生徒の怒りを買ってしまった友人のおかげで散々な目に遭ったことは何度もある。まったく彼女たちときたら」

 

そこまで言って、自分の体を抱き締めるようにぶるぶるっと身を震わせた。「営巣中のドラゴンより気が荒い。眠れるドラゴンをくすぐるべからずという我が校のモットーは書き換えるべきだと思うよ。眠れる雌グリフォンをくすぐるべからずとね」

 

ハリーはしみじみと頷いた。

 

「始まりはロンの鼠でした。エジプト旅行に連れて行ったら、エジプトの水が合わなくて弱ってしまったみたいで、ロンは心配していたんです」

 

ペットの問題は大きな心配事だね、とルーピン先生は頷いた。

 

「もともと年寄りの鼠でしたから、何歳だったかな、兄さんたちのお下がりだから10歳近いのは確か。もしかしたらもっとかもしれません」

「鼠で? ちょっと聞かないぐらいの長生きだね。いったいどんな鼠だい?」

「わかりません。ダイアゴン横丁に買い物に行ったとき、ペットショップでロンは鼠が元気がないから鼠栄養ドリンクを買って、ハーマイオニーはフクロウを買うつもりだったのに、猫のクルックシャンクスがすごく気に入ったからって、フクロウを買わずにクルックシャンクスを買いました」

 

よくあることだ、とまたルーピン先生は頷いた。「ペットとの相性が良いとそういう運命の出会いをする」

 

「そのクルックシャンクスがどういうわけかスキャバーズ、ロンの鼠を襲うんです。スキャバーズは元気がなくなるし、ロンはもうカンカンで、ハーマイオニーにクルックシャンクスを部屋から出すなと言いました」

「うん? スキャバーズはエジプトの水が合わなかったんじゃないのかい? 猫のせいじゃないだろう」

「え? あれ?」

「もともと元気がなかったんだろう?」

 

本当だ、とハリーは驚いた。でもとにかく飼い主のロンは、スキャバーズの衰弱はクルックシャンクスのせいだと言うのだ。

 

「ええと、とにかくハーマイオニーはクルックシャンクスをなるべく部屋から出さないように努力していました。それでロンは、スキャバーズを談話室に連れて来るようになって、レンが『1年のときも2年のときも寝室に放り出してたくせに、ハーマイオニーがクルックシャンクスを飼い始めたら談話室に連れて来るのは感じ悪い』とか『鼠が大事で長生きして欲しいなら、もう年寄りなんだからポケットの中に入れて連れ回さないで、ちゃんとしたケージにふかふかのベッドと新鮮な水と消化の良い鼠フードを置いてやればいい』とか言いました」

 

もっともだ、とルーピン先生は頷いた。「しかし、そう注意されるとロンは面白くなかったろうね?」

ハリーは頷いた。「ますますポケットに入れて連れ回すようになりました」

 

「まあ、他にもいろいろあって、レンはクリスマスホリデイは家に帰って、ハーマイオニーは残りました。それで、先生はご存知ですよね。僕にクリスマスの朝にファイアボルトが届きました」

「もちろん。だが、すまないね、まだいくつか確かめなきゃいけない点があるから、すぐには返せない。闇の魔術は無さそうだし、変身術のほうはマクゴナガル先生が何もないと太鼓判を押してくれたが、フリットウィック先生の呪いの呪文の検査にまだ時間がかかりそうだ。なにしろ実験的な呪文まで含めれば膨大な数の呪いがあるからね」

 

ハリーは首を振った。「それはもう構いません。あ、もちろん早く帰ってきたほうがいいけど、検査に時間がかかるのは仕方ないと思います。ただ、届いたその日は、僕、ちょっと浮かれてました。だから、ハーマイオニーとロンの妹のジニーが、シリウス・ブラックからの贈り物かもしれないから先生方に報告するようにと言っても、返事をしませんでした」

「うむ」

「ジニーは、僕たちが試し乗りなんかで事故に遭わないように、朝食後、すぐにマクゴナガル先生に報告してしまいました」

 

正しい判断だ、とルーピン先生は先生たちの誰もが言いそうなことを言った。

 

「でも僕たち、本当に悔しくて。クリスマスホリデイの間中、ジニーとハーマイオニーに八つ当たりしました」

「それはいけないな、ハリー」

 

ハリーは頷いた。そのことはもう謝ったのだ。例によって取り付く島がなかったが。

 

「ホリデイが明けて、レンが帰ってきた日に、ジニーが・・・ジニーはレンのファンなんです。レンとハーマイオニーにすごく憧れていて、まるで自分の姉さんみたいに。それでジニーが、たぶん休暇中のことをレンに言いつけたかったんだと思うけど、ハーマイオニーとレンの部屋に飛び込んでいって、ドアを閉め忘れたみたいです」

「・・・それでクルックシャンクスは部屋を飛び出してしまった?」

「はい。もちろんロンはハーマイオニーを呼んで怒鳴りつけました。だってクルックシャンクスがまたスキャバーズを襲ったんです。幸いロンがすぐそばにいたから、スキャバーズを持ち上げて助かったけど。ロンがクルックシャンクスがあんまりしつこいから、ちょっと蹴ったら、ハーマイオニーがそれを見て怒り始めて、もうめちゃくちゃ。だから、レンが仲裁に入ろうとしたら、ロンはレンのことを裏切り者と呼んだんです。裏切り者の娘とか、父親は闇祓いの裏切り者とか。レンは言いふらしたければ言いふらせばいいと言って・・・それ以来、僕たちとは関わらないことに決めたみたいです」

 

へへ、とハリーは力の無い笑いを見せた。

ルーピン先生は、ひどく厳しい表情で窓の外を見ていた。

 

「先生?」

「・・・亡くなった方の名誉を、そんな喧嘩に持ち出して恥ずかしくないかな」

 

ハリー、とルーピン先生はハリーの目を見た。「あの時代には、何もかもが混乱していた。誰が何を、あるいは誰を信じればいいかさえわからない時代だった。そんなときに優秀な闇祓いが、新人の訓練を受けていない闇祓いに殺されたんだ。誰もが、生き残った闇祓いを正しいと思いたがった。そのほうが安心できる。悪い闇祓いは正義の闇祓いによって殺された。新聞は連日そんな論調でミス・ウィンストンのお父上を叩き続けたよ。殺されて当然の裏切り者だとね」

 

ハリーは、ぎゅっと拳を握りしめた。

 

「ミス・ウィンストンのお母上が法廷で物証とともに、夫の名誉を回復した。だが、新聞はそのことには一言も触れなかった。僕は、そのことにとても怒りを感じたよ。今でも感じている」

「先生・・・」

「そんな出来事が過去にあった。痛みを伴う過去だ。鼠や箒をきっかけにその痛みを引きずり出されて、お父上の名誉を改めて傷つけられたなら、君ならどうする?」

 

ハリーは俯いたまま、しばらく考えた。

 

「今のミス・ウィンストンのように淡々とするべきことをするスタンスでいられそうかい?」

 

激しく首を振った。「僕、シリウス・ブラックが僕のパパの親友だったって知ってます。知ったときは、僕を殺しに来るなら来いと思いました。パパを裏切った奴なんかアズカバンに入っていればいい!」

 

ルーピン先生は少し寂しそうに「そうだね」と言った。「ミス・ウィンストンにはそう思う権利はないかな? 亡くなったお父上の名誉を12年も経って改めて傷つけられたことを怒ってはいけないのかい? それも、いくら可愛がっているとはいえ、鼠のために。鼠のために、亡くなったお父上の名誉を著しく傷つけられて怒るなと言うほうが無理だ」

 

私なら決して許さない、とルーピン先生が呟いた。

 

「せ、先生?」

「変なことを言ってしまったね。気にしないで。君たちは十分に反省して謝罪するべきだと私は思うよ」

 

 

 

 

 

ハリーはとぼとぼと寮に帰り、スキャバーズがまたロンのベッドで眠っていることに微かな苛立ちを覚えた。

 

ロンは「ハーマイオニーがクルックシャンクスさえきちんと閉じ込めておけばいい」と言うけれど、逆だ、と思った。蓮の言う通り、ロンさえスキャバーズを年寄りの弱った鼠として安定した環境に置いてやればいいのだ。少なくとも喰われることはない。

 

バサバサとローブを脱いで、パジャマに着替えると、ハリーは物も言わずにベッドに潜り込んだ。

 

 

 

 

 

数日が経った。

 

朝目覚めて顔を洗い、制服に着替えているとき、女子寮から甲高い、絹を引き裂くような悲鳴が聞こえて、慌てて談話室に降りた。

 

何があったのかと、談話室でうろうろしながら待っていると、青い顔をした蓮を、ハーマイオニーとパーバティが両脇から抱えるようにして連れて降りてきた。蓮の右腕には、真っ白なシーツが巻きつけられているが、その白がどんどん赤く染まっていく。

 

「ハーマイオニー! ハーマイオニー、レンはどうしたんだ!」

 

ハリーは叫んだが、ハーマイオニーは答えなかった。緊張で顔を強張らせているから聞こえていないのかもしれないけど、今までだったら「ああハリー! レンが大変なの!」と叫び返してくれたに違いないのに。

 

「ハーマイオニー、俺が連れていく。医務室だな?」

 

駆け寄ったジョージを蓮が左腕で突き飛ばした。「触らないで」

鬼気迫る表情に、ジョージが後ずさる。

 

隣でロンが青い顔で突っ立っている。

 

「ロン、僕たちは謝るべきだ。許してもらえるまで」

「なに言ってるんだ、ハリー、僕のスキャバーズは」

「スキャバーズはエジプトですでに水が合わなくて弱っていた。そうだろ? クルックシャンクスがエジプトまで行って襲ったわけじゃない。それに君は弱った鼠の飼い方を正しく実行しているわけでもない。全部をクルックシャンクスとハーマイオニーのせいにするのは卑怯だ」

 

とにかく僕は、とハリーは続けた。「こんなに心配なのに、事情を話してももらえない生活は嫌なんだ」


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