サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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第9章 フランス宮廷の犬

昨夜も遅くまで宿題をしていたせいで眠くて仕方ないが、ハーマイオニーは勢いをつけて上半身を起こした。

 

隣の蓮のベッドのカーテンを開けて、あまりのことに頭が一瞬働かず、数瞬遅れて叫びに叫んだ。

 

そのせいでパーバティまで起きてしまった。

 

蓮のベッドに狼のように巨大な犬が寝ていたのだから、当然ながらパーバティも絶叫した。

 

2人分の絶叫に、さすがの《犬》も目を覚ました。ベッドの上で大きく伸びをし、自分の体を見回すと、途方に暮れたようにうなだれた。

いまさらうなだれられても困る。

ハーマイオニーとパーバティは互いを抱き締め合うように《犬》と対面していた。

 

「と、ところでレンはどこよ?」

 

パーバティの呟きをきっかけになにやらハッと思いつくと、《犬》はハーマイオニーの机に積んである教科書を巨大な前肢で薙ぎ倒して、変身術の教科書をでしっでしっと叩いた。

 

「変身術? って・・・あなたまさかレンなの?」

 

《犬》もとい蓮はふっさふっさと真っ白の豊かな尻尾を振った。

 

そのとき、ドアの向こうでアンジェリーナとジニーの声が聞こえた。「何があったの? ここ開けなさい!」「レン! ハーマイオニー!」

 

万事休すだ、とハーマイオニーが目を閉じた瞬間、しゅるっと音が聞こえた。「うっ! ヤバ・・・怒られる」

 

「レン!」

「あー、パーバティ、ハーマイオニー、マクゴナガル先生のところに連れてって、慌てて無理に変身を解いたから、ちょっとバラけちゃったみたい」

 

蓮が押さえている右腕から血がだらだらと流れ出している。

 

「アンジェリーナ、ジニー、手伝って!」

 

パーバティがドアを開け2人を呼び込む間に、ハーマイオニーは清潔なシーツを裂いて右腕の付け根を縛り上げることにした。

 

アンジェリーナとジニーが蓮の体と右腕を支えて手伝ってくれたので、応急止血はなんとかできた。とにかく急いでマクゴナガル先生の部屋に連れて行かなければならない。

 

 

 

 

 

「わたくしの目の届かない場所でするなとあれほど!」

「・・・変身したつもりがなかったんです」

 

蓮は憮然として言った。ハーマイオニーとパーバティが両脇から「本当です。ベッドに入るときは人間でした」と証言してくれた。

 

マダム・ポンフリーがいそいそとハナハッカのエキスを持ってやってきて、治療が終わると、マクゴナガル先生は「よろしい。では再度変身しなさい」と無情なことを言った。

 

蓮は目を閉じ、4本の肢で草原を駆けるイメージを思い浮かべた。

 

しゅるり

 

成功したな、と自分でも満足しておすわりしているのに、マクゴナガル先生はなぜか額を押さえている。

 

「ぬ?」

「ウィンストン、あなた、三毛猫の予定だったのでは? あちらに鏡があります。見てらっしゃい」

 

たしったしっとラグを踏みながら歩いていると、ハーマイオニーが「ピレニアン・マウンテン・ドッグだわ」と呟いた

 

「う?」

「ウィンストンは鏡へ。ミス・グレンジャー、そのなんとかドッグの特徴を」

「はい、ピレネー山麓で牛や羊といった家畜の放牧を、クマやオオカミから守るための護衛犬でした。オオカミと間違わないように真っ白の豊かな被毛に覆われ、普段は鷹揚で優雅ですが、戦いになるとオオカミと殺し合うほどの闘争心を持っています。ルイ14世太陽王の時代からフランス宮廷で宮廷犬として愛されるようになり、マリー・アントワネットの護衛犬でした。イギリスではヴィクトリア女王が愛した犬と言われます」

 

ハーマイオニーの説明を聞きながら鏡の前に立つ。真っ白の巨大な犬がそこにいた。

おっとりした上品な顔つきは確かに宮廷で愛されそうだが、いささか大き過ぎる。起き抜けには気づかなかったが、犬の標準サイズを遥かにオーバーしていた。もはやオオカミのサイズだ。

 

「どこがどう三毛猫なのですか、ウィンストン」

 

マクゴナガル先生の声に、はっとおすわりをした。

 

「う」

 

なぜこうなったかわかりません、と首を傾げた。マクゴナガル先生は腕組みをして蓮を見下ろした。

 

「ウィンストン」

「う」

「杖で変身できる程度で補習を終わらせて、登録を免れることも考えていましたが、無意識に、つまり杖無しで変身し、さらにこの巨大さでは魔法省に登録するしかありません。目立ち過ぎます」

「あう」

 

前肢で顔を押さえて、ラグの上を転げまわった。登録は嫌だ。夢のマグル生活が遠くなってしまう。

 

「わたくしの部屋で暴れるのはやめなさい! 自分の巨大さを自覚するのです! 部屋を破壊する気ですか!」

 

蓮を叱りつけ、マクゴナガル先生が「ウィンストン、今度は人間に戻るのです。慌ててはなりません。人間の自分の姿をきちんとイメージすることです。手足の感覚を思い出しなさい」と言った。

 

「う」

「一度バラけたことで恐怖心があるのは想像できますが、朝食の時間が迫っています」

 

理由があんまりだ。本当にこの先生は励ましや慰めといった無駄だが大切な言葉を使わない人だ。鬼だ。

はあーあ、と犬らしい溜息をついて、変身を解いた。

 

「よろしい。朝食の支度をして急いで大広間に行きなさい。ウィンストンの補習はまだ続けます」

「・・・はい」

 

3人が部屋を出るとき、マクゴナガル先生が小さく「対オオカミとは、また敏感な」と呟くのが聞こえた。

 

 

 

 

 

「変身術の補習って動物もどきだったの?」

 

部屋にバタバタと駆け込むなりハーマイオニーがそう声を発した。

それぞれのクローゼットの前で着替える。

 

「そうよ」

「だからって寝ながら変身しなくてもいいのに」

「変身できると思ってなかったから試してもいないわ。あなたたちの叫び声で目が覚めたら・・・犬だったの」

 

蓮とパーバティののんきな声にハーマイオニーは「レン、あなた20世紀で8人目よ!」と小さく叫んだ。

 

「あー、そうなるわね・・・」

 

ネクタイを締めながら言うとパーバティが「騒ぎになりそう」とやはりネクタイを締めながらぼやいた。

 

「やっぱりそうよねえ」

 

なに言ってるの、とハーマイオニーはキッパリと言った。「3年生が20世紀で8人目の動物もどきになるなんて名誉だわ」

 

「しかもあの大きさじゃ使い道がねえ」

「ね、ハーマイオニー、パーバティ。放課後、ハグリッドの小屋に行かない?」

「いいけど、どうして?」

 

おさんぽ、と蓮が答えて3人は大広間に駆け出した。

 

 

 

 

 

いったい何があったんだい? と駆け寄ってきたハリーに蓮が「些細な事故よ」とだけ答えた。

 

「事故って、あんなに血が出てたじゃないか!」

「静かにして」

 

席についた蓮を見てハリーが「僕たちには君を心配することもできないのかい?」と訴える。ハーマイオニーが「心配の必要がないと言ってるの」と冷たく言った。

事実だ。心配の必要はまったくない。

 

パーバティは肩を竦め、ハリーに「あなたも席について朝食を済ませなさいよ」と促した。

 

 

 

 

 

んーっと大きく伸びをする巨大な白い犬を見てハグリッドが「おーっ!」と感嘆の叫びをあげた。

 

「すげえもんだ、蓮。てえした奴だ、おまえさんはやりやがった!」

 

わしわしと大きな手でハグリッドが蓮の頭を撫でる。

 

「名前をつけてやらねえとなあ」

「ブランカよ」

 

すかさずハーマイオニーが言った。

 

「ぶらんか?」

「白という意味。マグルの本に出てくるメスのオオカミの名前よ」

「そりゃええ。なあブランカ!」

 

蓮もといブランカは、よく響く低音で「うおう!」と吠えて駆け出した。

 

「レン! じゃない、ブランカ!」

「走らせてやればええ」

 

ハグリッドを見上げてハーマイオニーが「でも」と言うと、ハグリッドは目を細めて「最近、ちいとも走っとらんかった。あいつぁ、いつも体を動かしとるからな、ストレスだったろうよ。なあに、森の中なら心配いらねえ。人間ならともかく動物を襲う奴はいねえよ」と言った。パーバティが「だったらわたしも動物に変身したいわ」と呟いた。

 

「ブランカが戻ってくるまで茶でも飲んで待ってろ」

 

ブランカの吠え声に腰を抜かしたファングの首輪を引っ掴んで、ハグリッドは小屋の扉を開けた。

 

「ハグリッド、森の中の動物は人間を襲うの?」

 

そういう奴もいるな、とハグリッドは頷き、巨大なヤカンから巨大なティーポットにお湯を注いだ。「本来は襲わねえ。マクゴナガル先生たちが入学したばっかりの頃は、森は生徒の遊び場だった」

 

「なぜ禁じられた森に?」

 

パーバティはどうしても森に入りたいようだ。

 

「森ん中で動物を殺しちゃあ、木に吊るす奴がいたそうだ。そんな危ねえ奴がいる場所は立ち入り禁止が当たり前だが、その後は動物の中に人間を敵視する奴が増えちまってな。すっかり禁じられた森にされっちまった」

 

 

 

 

 

風になったみたいに体が軽い。ブランカは白い被毛を靡かせて、木漏れ日の射す森の中を走る。走る。走る。

 

と、猫の姿が視界に入った。潰れたような不細工な顔。

クルックシャンクスだ。

 

ブランカは立ち止まる。

 

「やっぱりあんたはそうだ。白いけど、黒いのの仲間だ。そうだろ?」

「・・・黒いの?」

 

クルックシャンクスの言葉がわかる。嗄れた、ちっとも可愛くない声だが、意味がわかる。

 

黒い犬だ、とクルックシャンクスは言った。「あんたと同じで、人間になれる」

 

ブランカは言った。「黒いのの名前は?」

 

クルックシャンクスは欠伸をした。

 

「黒いのは黒いのだ。名前なんか知らない。ただ、あんたは俺の狙いを知ってただろう? 俺はあんな鼠は食わない。あの鼠はあんたと同じだ。たまに人間になる奴だ」

 

ブランカは目を見開いた。

 

「たまに人間になる奴、なの?」

「黒いのから頼まれた。たまに人間になる、指の数が足りない鼠を連れて来いってね」

 

だからあんたにも協力してもらう、とクルックシャンクスは言った。「じゃなかったら、ハーマイオニーに言うからな。あんたは犬だって」

 

「・・・クルックシャンクス」

「なんだ」

「ハーマイオニーはもう知ってる」

「秘密じゃないのかよ!」

 

愕然としてクルックシャンクスは叫んだ。

 

「黒いのと鼠は、たまに人間になることを秘密にしているの?」

「秘密も秘密、墓場まで持っていく秘密だとよ。だからあの鼠は、俺にどんなに襲われても人間にならないだろう?」

 

得意げなクルックシャンクスにブランカは命じた。

 

「鼠を襲うことはもう許さない」

「なんでだよ!」

「鼠のままでいるつもりなら放っておけばいい」

「馬鹿だなあ、白いの。あの鼠はいつかハーマイオニーの友達を殺る気だぜ。ほらあいつだよ。『生き残ったなんとか』だ、ご主人様が復活したときには生き残ったなんとかを殺して、ご主人様に褒めてもらう魂胆だ。だから、あのろくでもない小僧のペットなんだ」

 

まったくあいつはろくでもない小僧だ! とクルックシャンクスは喚いた。「俺のハーマイオニーに怒鳴ってばっかりのクソ野郎だ!」

 

ブランカはおすわりしたまま、うなだれた。クルックシャンクスのハーマイオニーへの感情など知りたくなかった。

 

 

 

 

 

眠い目を擦り擦り宿題をしていたら、背後から「ふぎゃあああああ」という、クルックシャンクスの嗄れた喚き声が聞こえて、ハーマイオニーは急いで振り返った。

 

「レン?」

 

蓮がクルックシャンクスの首の後ろを、むんずと引っ掴んでハーマイオニーのベッドから持ち上げている。

 

「クルックシャンクスに何してるの?」

「こいつは今夜からわたくしのベッドに縛って寝る」

「な、なぜ?」

 

室内の風紀を乱す、と蓮が真顔で言った。

 

「は?」

「こいつはハーマイオニーに対して良からぬ感情を抱いている! 夜中にハーマイオニーに何をしているか甚だ疑わしい!」

「・・・猫よ?」

 

ハーマイオニーは本気で蓮をマクゴナガル先生に診てもらうべきだ、と思ったのだった。


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