サラダ・デイズ/ありふれた世界が壊れる音   作:杉浦 渓

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第1章 語学特訓と隠れ穴

空港まで迎えに来ていたのは、祖父の年代物のカローラだった。ミラーは落ち、落ちたミラーをガムテープで張り付けてある代物で、実を言うと祖母は決してこの車には乗らない。祖母は、母の趣味をスノビッシュだと批判するが、祖父にとっては妻も娘も同じようにスノビッシュに見えているはずである。なにしろ祖母は祖父の車に決して乗らない代わりに、自分の車はちょこちょこと買い替える傾向にあるからだ。高級なセダンに。

 

「さあ、乗りなさい。今年の夏はとても忙しいのだ」

 

キンチョーの夏日本の夏、と目をぎゅっと閉じて日差しの強さに耐える蓮の手からトランクと箒のケースを奪うと、それを後部座席に放り込んで祖父がせかせかと運転席に乗り込んだ。

 

「忙しい?」

「おまえは最近ちっともブルガリア語を話しておらんからな。もっともホグワーツ入学前に話していた程度では、礼儀に適う会話は出来ん。もうすぐ15歳だ。それに相応しいブルガリア語を勉強せねばならん」

 

なんで日本に帰ってきてまでブルガリア語、と蓮は唇を尖らせた。

 

夏祭りに行って、裏の川で河太郎と泳いで、ドクタ・フィリバスターとは無縁な花火で遊んで、スイカを食べて寝るために帰ってきたのに。

 

「つべこべ言うな。ばあさんはおらんからな。じいちゃんの言う通りにしろ」

「ばあ・・・おばあさまは?」

「国際魔法使い連盟の会議だ。帰国までにおまえのブルガリア語を勉強させるように言うていった」

 

なんだこの2人グルなのか、と蓮は呟き、祖父は「いいか、これから当分は午前中はブルガリア語、午後は学校の課題だ」と言い渡した。

 

「ちょ! 夏休み! 夏休みだから!」

「夏休みは次の学年の準備をするためにあるもんだ。ちなみに夏休みの後半はコーンウォールでクロエからフランス語のレッスンだからな」

 

なにこの人たち、と蓮は唇を尖らせたまま、シートに深く沈んだ。

 

 

 

 

 

なんて充実した夏休みかしら、とハーマイオニーは蓮からの半泣きの手紙を読んで深く頷いた。

 

「あらまあ、レンは大変なサマーホリデイなのね。ハーマイオニーも負けていられないわよ?」

「あら、わたしは7月中に課題を終わらせるつもりよ。その後はウィーズリー家に滞在させていただくから、集中して勉強するのは難しくなりそうだもの」

「グラニーからランスのおばあちゃまにカードが届いたそうよ。今年はイギリスで大きな国際試合があるから、フランス滞在できないことを謝ってくださったみたい」

 

ハーマイオニーはパチパチと瞬きした。まさか蓮のグラニーがクィディッチ・ワールドカップに?

 

「きっとそうでしょう」

「あまりクィディッチに興味がおありとは思えないけれど」

「興味がなくても、お立場上顔を出さないわけにいかないこともあるでしょう。ウィンストン家は代々国際的な魔法族の家系だとおっしゃってらしたから」

 

それもそうね、とハーマイオニーは頷いた。ホグワーツで幅を利かせている純血主義者の言う「名家」とはまったく違う次元で、ウィンストン家といえばヨーロッパを代表する「名家」なのだ。末裔は夏休みなのに昼寝も出来ないと嘆いているが。

 

「レンの、なんだった? 動物に変身する技は、さぞ誇りに思われたでしょうね」

「たぶんまだご覧になっていないわ。『変身現代』でしか」

 

ハーマイオニーはリビングに置いてある『変身現代』を母に見せた。

 

「まあ、最近はキングズクロス駅で僅かな時間しか会っていないけど、やっぱりこうして見ると綺麗になったわね。初対面のときは男の子みたいだったのに」

「カメラマンの腕が良かったのよ。実態をうまく隠してくれたわ」

 

あなたも実態を隠さなきゃ、と母がニヤっと笑った。

 

「隠す必要はないわ」

「パーティ用のドレスローブが必要みたいよ」

 

ハーマイオニーは怪訝な顔で母を見つめ返した。

 

「先日、レディ・ウィンストンがクリニックにみえたの。サマーホリデイの早いうちにマダム・マルキンのお店でドレスローブを仕立てるように勧められたわ。魔法省の決まりで詳細は未発表だけれど、今年は4年生以上はパーティローブを持参するように教科書のリストと一緒に連絡があるそうなの。リストが届いたあとはみんなローブを仕立てに殺到するから早めにどうぞって。いずれにせよ、ウィーズリー家の奥さまにそんなことまでお願いするわけにはいきませんから、明日にでもダイアゴン横丁に出掛けましょう」

 

 

 

 

 

ずるずると素麺を啜りながら祖父が「学校の課題は終わったのか?」と尋ねた。蓮は、ぐったりして麦茶だけ飲みながら「ゴブリンの反乱のレポートを書けば終わりよ」と答える。祖父は口髭にネギをつけたまま「おまえたちは何年かけてゴブリンの反乱を研究するつもりだ」とぶつくさ言った。

 

「ビンズ先生の人生賭けた研究なんだと思うわ」

「人生が終わっても研究しとるではないか」

「ビンズ先生の歴史への情熱は、死でさえも妨げられないの。わたくしたちが妨げることは不可能よ」

「まったくイギリス人はわからん」

「ブルガリア人もわけわかんない。あ、そうそう。ブルガリア製の大鍋は鍋底の厚さが不均一らしいわよ」

 

そうジョージからの手紙に書いてあった。ウィーズリー家の三男パーシーの魔法省に入省して最初の大仕事は鍋の厚さを均一化する国際基準を定めることらしいのだ。

 

「鍋底の厚さが不均一だと誰か困るのか?」

「誰も困らないと思うけれど、鍋が漏れたら困るんじゃない? 鍋の漏れ率が高くなるとか」

「鍋が漏れたらレシートを持ってこい、交換してやる。もっとも、鍋の厚みが不均一なせいで漏るまでレシートを保管する奴はおるまいがな。学校の課題が終わったらニューヨークに行くぞ。ばあさんがニューヨークでパーティローブを仕立てろと言うてきおった」

 

蓮は眉を寄せた。「パーティローブ?」

 

「怜が忙しかろう? ばあさんにあれこれ学校のことを連絡してきたそうだ。教科書はロンドンの本屋からコーンウォールに送らせるそうだが、ローブだけはきちんと採寸して仕立てねばならん。ばあさんは学期前にロンドンに行く暇はなさそうだが、クロエに頼むと夏休みの後半になってしまうから、ロンドンの店が注文をこなしきれんらしい。ついでにアメリカの鍋底の厚さでも測れ。奴らはたぶん厚すぎるはずだ。物に溢れた大雑把な奴らだからな」

「わたくし、パーティなんか行かないわよ」

「行ったそうじゃないか、なんといったか、首のないゴーストのパーティに」

 

絶命日パーティには2度と行かない、と蓮は胃をさすりながら呻いた。「それにほとんど首なしニックには、まだ僅かながら首は残っていることを忘れないで」

 

 

 

 

 

仕立て上がったドレスローブをトランクに詰めて、オッタリー・セント・キャッチポールの駅に着くと、フレッドとロンが迎えに来てくれていた。

 

「よう、ハーマイオニー。元気だったかい?」

「おかげさまで。ジョージは?」

「在りし日のパーシーの如く手紙を書いてるよ。そのトランクはロンに持たせるといい。俺はこっちだ」

 

重いほうが僕かよ、とロンが唇を尖らせた。

 

「手紙って、レンに?」

「いじらしいだろ? 毎日毎日ブルガリア語の勉強じゃかわいそうだって言ってな。我らウィーズリー家の家庭内闘争を毎日報告してるよ。フクロウが長旅に使えないから、マグルの切手をペタペタ貼った気空郵便でな。その誠意が通じたのか、今度レンから我らが尊敬すべき偉大な魔法使いを紹介してもらえることになった」

 

真夏の埃っぽい道を歩きながら、フレッドがニヤニヤした。

 

「偉大な魔法使い? それとフレッド、気空郵便じゃなくてエアメイルよ」

「おっと、まだ魔法省が解禁してない情報だから、これ以上は秘密だ。サマーホリデイの後半にはレンはコーンウォールの邸に帰るらしいから、そのときにデヴォンまで来てくれるそうだ。その偉大な魔法使いもデヴォンに住んでるから、ジョージを紹介してくれるらしい。ジョージはデートだって浮かれっぱなしさ」

 

ハーマイオニーは目を丸くした。「デート?」ふうふう言いながらハーマイオニーの荷物を運ぶロンが「ジョージはそう言ってるけど、レンの中では違うと思うな。最初はフレッドも一緒にって書いてきたんだから」と訂正した。

 

「だから俺はジョージのために遠慮してやったんだよ」

「ハーマイオニー、悪いことは言わないから、うちではブルガリア語と鍋の話題は禁止だ」

「ジョージはブルガリア語なんか知りもしないくせにブルガリア語はロシア語に似てるとか喋り出すし、パーシーは鍋底の厚さについて演説を始めるぜ」

「鍋底の厚さが何か問題なの?」

 

ほらその質問は重罪なんだ、とフレッドがハーマイオニーを指差した。「頼むからパーシーの前でその質問は差し控えてくれ。答えなら今俺が教えてやる。鍋底の厚さは、まったく大した問題じゃない。絶対にだ」

 

「パパの話じゃ、入省したばっかりの職員には、研修の意味もあって比較的瑣末な、つまりはどうでもいい、失敗しても影響の少ない仕事をまずやらせるものなんだって」

「それはそうでしょうね」

 

ロンの説明にハーマイオニーは頷いた。その横からフレッドが「だが君は我らが麗しの兄貴の人となりをよく知ってるはずだ」と合いの手を入れた。

 

「つまりね、ハーマイオニー。パーシーは自分が重大な仕事を任されたエリートだって浮かれながら鍋底レポートを毎日毎日書いてるのさ」

 

ロンがやりきれないというように頭を振った。

 

 

 

 

 

ジニーの部屋にはホリヘッド・ハーピーズの大きなポスターが貼られていて、選手たちはひっきりなしに箒で勇ましく飛び回っていた。

 

「モランよ。アイルランド・ナショナルチームのチェイサーにも選ばれたの」

 

このチーム、とハーマイオニーは目を見開いた。「女性しかいないわ!」

 

ジニーは自慢げに「そうなの。イギリスで唯一の女性だけのチーム。わたし、ここでプレイするのが夢」と言う。ハーマイオニーはジニーがこのチームでプレイする姿を思い浮かべようとしたが、ジニーのプレイを見たことがないせいか、あまりうまくいかなかった。

 

「でも、わたしの箒なんかじゃたぶんグリフィンドールの選手にもなれないわね」

「箒?」

 

コメット260、とジニーは溜息をつく。「つまんない箒だってフレッドたちは馬鹿にするわ。ビルのお下がりなの」

 

ハーマイオニーは少し考えて言った。「レンの箒はおばあさまのお下がりなのよ」

 

「うそ! だって、だってあんなに速いのにそんなはず」

 

ハーマイオニーは自分用に用意された小さめのベッドに腰を下ろした。

 

「レンの箒に一度乗ってみるとわかるわ。シートも何もないから、体中が筋肉痛になるの。余計な機能がゼロ、本当にゼロよ。その上、レンはしょっちゅう分解して穂先の乱れを整えたり、呪文をかけ直したり、すごくマメにメンテナンスするの。レンぐらいのトレーニングとメンテナンスをするなら、コメット260でも悪くないプレイが出来るはずよ」

「そんなに?」

 

ハーマイオニーは真剣に頷いた。「新学期になったら、レンに習うといいと思うわ。わたし、クィディッチのことには詳しくないけど、箒の型が古いからって諦めることはないと思う」

 

しばらくジニーは俯いてきっぱり言った。「絶対にレンにまとわりついて教えてもらう」

 

「まとわりつかなくても教えてくれるわ。ただその・・・覚悟してね」

「覚悟?」

 

ハーマイオニーは少し言いにくいなと思いながら「レンを箒乗りにしたのはマクゴナガル先生なの。あなたが入学する前、1年生のときからマクゴナガル先生がいずれチームに入れる予定で訓練したのよ。だから、レンの教え方の基準はマクゴナガル先生。たぶんすごくハードだと思うわ」と説明した。

 

「それ、すごいじゃない! あ、やだ、ハーマイオニーに紹介しなきゃいけないわ。あのね、ビルとチャーリーが帰ってきてるの。リビングに行きましょ」

 

それからね、とジニーがドアを開けながら「我が家ではOWLの話題は禁止。フレッドとジョージの成績がウィーズリー家始まって以来の・・・いわばトロールレベルだったから、ママがカリカリしてるの」と言った。

 

ハーマイオニーは驚き、そんなときに蓮がジョージを「ドクタ・フィリバスター」なる謎の人物に引き合わせて大丈夫だろうかと、要らぬ心配を抱えてしまったのだった。ドクタ・フィリバスターの正体をハーマイオニーは知っているから、自分も会えるものなら会いたいのだが。

 

 

 

 

 

すらりと背の高いハンサムな長髪の赤毛の青年が「やあ、君がハーマイオニーだね、はじめまして」と握手を求めてきたとき、思わずまじまじと見つめてしまった。グリンゴッツ銀行に勤めて海外勤務をしていると聞いていたから、すっかりパーシーのようなタイプだとばかり思っていたが、包容力のありそうなーーここがハーマイオニーにとっては大事なことだがーーハンサムで穏やかな笑顔の似合う人だった。

 

「ビルよ、ハーマイオニー。1番上の兄さん」

「はじめまして、ビル。ハーマイオニーです」

「君のことは、ロンやジニーからいろいろ聞いたよ。すごく優秀なんだってね」

 

そんなこと、とハーマイオニーは微かに頬を赤らめて首を振った。

 

「謙遜しなくていいから、ロンに爪の垢を飲ませてやってくれないか? 2年後にまた我が家の話題がトロール級のOWL一色になるのは困るからね」

「やめろよ、ビル。やあ、ハーマイオニー。僕はチャーリー、2番目だ」

 

すらりとした長男とは対照的に、次男のチャーリーは身長は低めだが、がっしりした体つきで、握手した手も力強かった。

 

「はじめまして。ハーマイオニーです」

「とはいえ、君がいなかったらロンの成績が見る影もなかっただろうってことはわかってるよ。これからもよろしく」

「こちらこそ。あの、その・・・1年生のときのノーバートの件では本当にご迷惑をおかけして」

「ノーベルタだよ」

 

ニヤっとチャーリーが笑った。「女の子なんだ。このまえ卵を産んだよ。ノーベルタはルーマニアでうまくやってる」

 

そのとき上の階から「ウィーズリー・ウィザード・ウィーズの注文書なんてこの家では許さないって何度言ったらわかるの!」という甲高い非難の声が聞こえてきて、ジニーもビルもチャーリーも揃って溜息をついた。

 

「恥ずかしながら『隠れ穴』へようこそ、ハーマイオニー」


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