憔悴したウィリアムの腕の中で幼い孫は眠っている。
その蓮をソファの隣に寝かせてウィリアムは柊子に「君に頼みがある」と切り出した。
「蓮を日本で預かる話なら、もう怜から聞いているわ。ずいぶんおかしな報道が加熱しているようね」
ウィリアムは顔をしかめて、蝿を追い払うように顔の前で手を振った。「実に下品な代物だ。報道と呼ぶのも馬鹿馬鹿しい」
柊子は軽く頷いた。
「僕は息子を、僕なりに懸命に育ててきた。愛情深く、フェアで、闇に堕ちないだけの精神を持つ男に育てたつもりだ」
「その通りに育ったわ。コンラッドは素晴らしい青年だった。それに、クロエの血のおかげかしら、禁じられた呪文への耐性はもともと強かった」
「でもそれだけでは足りなかった」
「ウィリアム・・・」
頼む、とウィリアムは視線を落とした。「蓮を、レガリアが認めるだけの女王の代理人に育てて欲しい」
「・・・ゴブリン製の剣より強く?」
「そうだ。君やミネルヴァの原始魔法力を超えるぐらいに鍛えてくれないか」
「・・・ウィリアム、何を考えているの。あなたらしくないわ。ウィンストン家の古の盟約とやらを発動する必要はないというあなたの考えは間違っていない。下品な日刊予言者が馬鹿みたいに売れているような英国魔法界を救済するために、孫を虐待する必要なんてない。違って? こんな魔法界、滅びたきゃ滅びればいい。コンラッドの忘れ形見でしょう。ほとぼりが冷めたら、いっそのことフランスで育てればいいわ」
「柊子。昔君に指摘された通り、僕には責任があった。僕が傍観者でいたから、息子と、まだ産まれていない孫を失った。これは僕への罰だ。二度と同じ間違いは繰り返せない」
「ダンブルドアも怜も、ホークラックスの存在をもう知っているわ。わたくしと同じ間違いは繰り返さないでしょう。今度こそリドルを」
ウィリアムがきっぱりと首を横に振る。
「まだ全部見つけ出してもいないじゃないか。怜はコンラッドを失い、流産したばかりだ。とても動かせない。僕も騎士団には助力するつもりだが、予言に読まれた赤ん坊がリドルくんを破滅させるほうが早いだろう。君の時と同じことがまた起こる。それもまた予言されている。蓮は、成人と同時に東と西の種族を統べる女王としての資格を得る。その時には、リドルくんがまた復活しているのだよ」
「予言なんて。ウィリアム、予言なんかに振り回されてはいけないわ。予言に振り回されるからこそ、その予言は成就するの」
「柊子、予言に関係なく、蓮は東と西の種族を統べる女王の資格を得ることになるだろう? それはもう変えようがない。蓮しか該当者は存在しない」
柊子は額を押さえて目を閉じた。
「そうね。2人目の子供があんなことになった以上は」
「もちろん怜の再婚を妨げるつもりは僕たちにはない。怜に再び愛する男性が現れたなら祝福して送り出すつもりだ」
そうして別の男性との間に子供を作れば少なくとも日本の《代理人》の責任からは蓮を解放しようと思えばすることが出来るだろう、と柊子は思った。
しかし、怜にそんなことが出来るとは思えない。
苦笑して柊子は軽く手を振った。
「ウィリアム、うちの娘はもう」
「僕もクロエも、怜のことは息子の妻というより娘だと思っているよ。娘として彼女の人生を見守りたい。この辛い時期を乗り越えて新しい幸福が訪れるのなら、喜んで送り出すつもりだ」
「ありがとう。でも、あの子はそういうことが出来る子じゃなくてね」
「柊子? 君は怜の再婚を望まないのかい?」
望むも望まないも、と柊子は苦笑を深めた。「本人が望んでいないでしょう」
「そうだろうか。今は難しくても、いずれは」
「そういう仮定の話はやめましょう。とにかく、蓮はウィンストン家の血を引く唯一の娘よ。ウィリアム、わたくしの原始魔法力は、マグル貴族の小学校に入学する前に杖無しの無言呪文で、様々な呪いを発見し跳ね返す訓練を重ねたからなの。エンペラーのハーレムで皇妃を呪いから護るための訓練よ。でも日本では貴族制度が廃され、エンペラーも一夫一妻制になった。そんな訓練はもう怜には施していない。怜は、飛縁魔族の首長と親しく子供時代を過ごしたから、火を操ることなら杖無しの無言呪文でたいていのことは出来るでしょうね。原始魔法力は、普通の魔女よりは高いけれど、わたくしを超えることはない。蓮にも怜と同じような教育をするつもりでいたわ。それじゃ足りないの? わたくしが受けたような虐待じみた訓練を施して欲しいの?」
「君以上にして欲しい。服従の呪文を無効化するのは当然として、磔の呪文も無効化出来なければ意味がない。コンラッドも、闇祓いの訓練生時代に、磔の呪文は8割がた威力を殺すことが出来るようになっていた。デラクール家の血には、どんな魔法種族の血が混ざっているか甚だ怪しい。おそらくデラクール家の血の影響だろう。それからアバダケダブラを避ける反射神経も欲しい」
「2歳の孫に注文が多過ぎるわ」
「端的で具体的な表現をすると、フィニアス・ナイジェラス・ブラックを締め出したホグワーツ城の校長室をこじ開ける原始魔法力が必要だということだよ。ホグワーツ城の新たな主人を任命するにはそのぐらいは出来なきゃ話にならない。ホグワーツの湖の水をすっからかんにするとか、禁じられた森を焼き払うとか」
「・・・妄想が楽しいのは理解したわ。現実的な話をしましょう」
「僕は現実的な話をしているつもりだ。柊子、リドルくんはもうひとりぼっちのリドルくんじゃないんだよ」
柊子は言葉に詰まった。
「君が対決したとき、リドルくんはボージンアンドバークスの店員でしかなかった。僅かな週給を現金で受け取る生活だ。魔法界に確かな後見人がいないから、グリンゴッツの金庫も持っていない。確かに魔力には高いものがあった。長い純血の間に停滞して退化してきたが、マグルの血を交えることで飛躍的に魔力の増大された子供が産まれることがある、これはミネルヴァと同じパターンだね。闇の魔術に高い適性を示す、魔法力の高い孤独で貧しい寄る辺なき青年。だが今は違うだろう?」
「・・・そうね」
「魔法界の旧家の金庫は使い放題だ。後見人を頼んで弱みを握られたくはないだろうから、金庫を所有することはないだろうけれどね。彼の周りには、彼のためなら喜んで財産と才能と魔力を差し出す若い魔法使いや魔女がたくさんいるわけだ。それから、魔法界を覆うヒステリックな恐怖。全てが彼の力になる」
柊子は頷いた。
「そんなリドルくんが、蓮に関する予言を知ったらどうするだろう。予言そのものは大した内容じゃない。むしろ僕はね、予言が明確に敵対者と言及していないことが非常に気になるのだ。予言そのものではなく、予言を知ったリドルくんの発想がね」
「・・・ええ。わたくしもよ」
「ウィンストン家に古の盟約を行使させて、魔法界の新たな王になるには、蓮が必要だ」
「だからこそ、あなたのやり方が正しいのよ。蓮をレガリアが認めない限り、校長室は開かない。それこそ昔あなたが言ったように」
ウィリアムは厳しく首を振った。
「校長室が開かないなら今度は魔法省だと言ったろ?」
「リドルが魔法省を傀儡化するわけね」
「そう。そしてホグワーツは、闇の魔法の牙城となり果てるだろう。校長室は開かないと思うが、校長室が開かなくても闇の魔法使いを訓練するだけの学校だ。校長の魔法的権限など必要ない。闇の魔法使いや魔女が魔法省の各部署をコントロールするようになるまでにそう長い時間はかからないだろう」
「その憂うべき体制を打破するには、新たな校長を任命して全面戦争を開始する宣言を出すことの出来る人間が必要になると言いたいの?」
つまり、とウィリアムは傍らでくうくうと寝息を立てる孫の柔らかな髪を撫でた。「僕の孫は、その全面戦争を指揮しなければならないのだ」
柊子は首を振った。
「ウィリアム、結論を急がないで。闇の魔法使いの始末は闇祓いに任せましょう」
「別に無闇に急いでいるわけではない。君が言ったばかりじゃないか。原始魔法力は小学校入学前の訓練によって高めることができると」
「ウィリアム・・・」
「リドルくんの始末は確かに闇祓いの仕事だ。しかし、闇祓いはやはり制度の中の人間に過ぎないのだよ。制度が道を誤れば、闇祓いは逆に人々を害する存在となる。蓮が新たな秩序を宣言する女王になり、闇祓いを正しく戦わせなければならない。スキーターの下品な記事にさえ、ある意味で僕は感謝している。蓮を君に預けることを怜から言い出してくれた。今の彼女に娘を厳しく鍛えることが出来るとは思えないからね。いずれウィンストンの盟約を発動させるためとなれば尚更だ。クロエと一緒になってフランスで蓮を育てると言い出しかねない」
「それじゃいけないの?」
言っただろ、とウィリアムは目を光らせた。「僕が傍観者だったから蓮は父親を失った。これは僕の責任だ」
「ウィリアム、あなたは間違ったことはしていないわ。コンラッドのことは、確かに悔やみきれない喪失よ。わたくしにとっても、彼は息子のようだった。わたくしがイギリスの闇祓いだった頃にリドルを始末していればと思うわ。でも、後悔するよりも、蓮を健やかで幸福な魔女に育てることを考えたい。日本でもフランスでもいいから、そういう環境を用意してあげましょう」
「ダメだ。身体に流れる血からは逃げられない。安穏と育てていたら、いずれリドルくんに取り込まれてしまう。正統なる王者として、闇の魔術と戦う意志と力、特に力が必要だ」
「孫をリドルを殺す道具にはしないわよ」
「違うよ、まったく違う。僕はリドルくんのことをどうにかするための力を蓮に与えたいわけではない。ダンブルドア亡き後の魔法界の迷走を正す力を持たせたいのだ」
虚を衝かれて柊子は目を瞠った。
「考えたこともなかったという顔だね、柊子。ダンブルドアは確かに偉大な魔法使いだが、不死ではないよ。今でさえ充分に高齢だ。どんな形で訪れるのかはわからない。安らかなものであって欲しいとは願って止まないが、いずれ死が彼にも訪れることは間違いない。君やクロエが、蓮を安穏と育てられると考えるのは、ダンブルドアと不死鳥の騎士団がリドルくんをどうにかすればいいと思っているからだ。君たちだけじゃない。正義を守っているつもりの誰もがそうだ。ダンブルドアに依存し過ぎている。ミネルヴァでさえそうじゃないか。ダンブルドアを引退させて自分が校長になることをそろそろ現実の問題として考えるべき時期だが、ダンブルドアを補佐する副校長に甘んじている。誰も自分の頭を使って、自分なりの正義を行使しようとしていない。僕と蓮には、そんな魔法界の先行きをどうにかするだけの力が必要なんだ」
頭を抱えた柊子に向かって、ウィリアムは続けた。
「政治的なセンスは僕が教えられる。ホグワーツに入学したら、様々な形で蓮と話し合うことにしよう。怜ともこれから長い時間をかけて今後の魔法界の秩序について話し合うつもりだ。ウィンストン家にいてくれる限りはね。しかし、力だけは僕ではどうにもならない。その力を与えて欲しい。死なせない限り何をしてくれても構わない。シメオン流の鍛え方でもいい。アラスター流の警戒心も必要だ。河童に預けて川に放り込んでくれ。どうせクロエの母親はマーメイドだ。溺れ死ぬことはないだろう。ああ、そうだ。ミネルヴァを日本に呼んで、山で暴れさせてはどうだい?」
「・・・本気なのね」
「もちろん」
「力を手にしたら、義務が伴うわ」
「理解している」
「理不尽なトラブルを正しく乗り越える義務よ」
理不尽ではないだろう、とウィリアムは苦笑した。「リドルくんが君たちを恨むのは当然だ」
肩を竦めた柊子は「それを言われたら断れないわね。少なくともわたくしの孫というだけでリドルに絡まれかねないのですもの」と溜息をついた。
髪を短く切り、膝小僧にバンドエイドを貼った小さな子供が小枝を握り締めてミネルヴァを睨んでいる。
岩を変身させたライオン数頭を従えたミネルヴァは、子供の背後に岩場だらけの濁流が流れているのを確認して、内心で「チェックメイト」と呟いた。いくらマーメイドの血を引いていても、この濁流に飛び込んだら命はない。このあたりで手加減してやらねばならない。
しかし、子供は小枝を振った。濁流は空中に高く舞い上がり、ミネルヴァの背後のライオンたちを巻き込み押し流していく。
「まさか」
魔法生物から採取した素材を杖芯にした杖ではないはずだ。ただの小枝だった。しかも、どんな呪文も呟いていない。
ミネルヴァは杖をスカートのベルトに挟み、両手を挙げた。
「降参するわ。強いのね」
途端に、ミネルヴァの髪を掠めていくつかの礫が飛んできた。氷だ。アグアメンティもグレイシアスも呟かずに氷の礫を飛ばしてきた。
「けっとうは、おわってないよ」
冷たい瞳の色をして、舌足らずな英語を話した。
「終わりよ。降参したでしょう? もう杖も持っていない」
「もってる」
「こうして仕舞ったわ」
「でももってる」
ミネルヴァは小さく舌打ちをすると「だったら杖を奪ってご覧なさい」と応じた。いったい誰がこんな非常識な子供を育てたのかと胸中で悪態をつきながら。
ひゅん、と音を立ててスカートのベルトから杖が奪われた。
ミネルヴァは大仰に右手を心臓の前に当て、スカートの裾を摘んで膝をつく。
「参りましたわ」
「わかった。じゃ、けっとうはおわり」
「尋常じゃないわ! 4歳だというから、軽く脅すつもりだったのに、小枝を杖代わりにして無言呪文の決闘だなんて!」
「無言呪文もなにも。呪文の発音なんて出来ないわよまだ。日本語も英語も舌足らずなのに」
家庭用かき氷器で氷をガリガリ削りながら、柊子が飄々と言う。
「そういう問題じゃないでしょう」
「そうね、小枝を使うようではまだまだだわ」
「・・・あなたね」
「やっぱりシメオンが日常的に杖を使うものだから、見様見真似で、意識の集中を棒きれに頼ってしまう癖があるの」
ミネルヴァはこめかみを指で押さえた。
だからそういう問題じゃない。
「ウィリアムには何か考えがあるそうだけど、あんな小さな子供に厳し過ぎるわ。リドルのことなら」
「それこそ、そういう問題じゃないの。ウィリアムはリドルのことなんて大して気にしてはいないわよ、相変わらず」
「どういうこと? だったらなぜこんな育て方を? イギリスの魔法族の子供なら、魔法力の有無さえわからない年頃よ」
柊子はかき氷シロップをかけて、かき氷をミネルヴァに差し出した。
「柊子、答えなさい」
「ダンブルドアがいなくなった時に備える必要があると考えているわ。ウィリアムはね」
「・・・あなたは?」
「生き残った男の子に全てを背負わせるのは気の毒だとは思っているわよ、もちろん。宿命的に復活したリドルと戦わなければならない少年だわ。ただでさえ嫌な宿命なのに、ダンブルドア並みに英雄視される人生だなんて、わたくしなら真っ平御免ね」
「だからダンブルドアの役回りを自分の孫に押しつけると?」
違うわよ、と柊子は肩を竦めた。「わたくしたちの責任でしょう、ミネルヴァ」
ミネルヴァは親友の顔を見つめた。
「リドルを追い詰めておきながら、ホークラックスの存在に気づかずに取り逃がした。その始末をわずか1歳の赤ん坊に頼っておきながら、また復活したときにもダンブルドアがなんとかしてくれると思い込んでいる。戦うのはハリー・ポッターであり、うちの蓮でもあるの。忘れた? それがダンブルドアのやり方だったでしょう。不死鳥の騎士団の若者たちが何人死んだかしら。今度は孫たちの世代でそれが起きるのよ。そのときにダンブルドアはいったい幾つ? もう決して若くない。まだダンブルドアに司令塔を任せるの? そのとき、ホグワーツ城はダンブルドアの城?」
「まあ、耄碌していたら、次の校長が」
「あなたはどうなの」
「わたくしだってもう若くはないわよ。それに、寮監の仕事も週末は人に任せることにしているぐらいだし」
柊子が怪訝そうに眉を寄せた。
若干のきまり悪さを隠すように、わざとぶっきらぼうな声音で「ウルクァートと結婚したの。ホグズミードに家を買ったから、週末はホグズミードに帰っているわ」と説明した。
「はいはい、おめでとう。そんなに愛想のない声を出さなくても笑いはしないわ。マグルの元ボーイフレンドの件にいい加減折り合いをつけてミスタ・ウルクァートの求婚を受け入れればいいのにってずっと思っていたから」
ミネルヴァは黙ってしゃくしゃくと氷を食べた。
柊子の言う「マグルの元ボーイフレンド」は死んだ。実家の弟から連絡を受け、一度実家に帰った。牧師館の隣の墓地に真新しい墓があった。
この年になるまでずっと彼に対する深い思いがあったわけではない。若い頃はともかく、壮年になってからは、仕事のほうにエネルギーを傾けていた。ウルクァートはしょっちゅう求婚してきたが、寮監の仕事もある自分とわざわざ結婚しても仕方ないだろうとはぐらかしていた。
ユーアンの墓を見ているうちに、じわじわと、自分たちの命は有限の時間しか持たないのだということが、身に沁みこんできたのだ。
リドルがいなくても、魔法使いでさえなくても、まだ寿命とは言えない初老の紳士が落命することがある。
「わたくしもウルクァートも、もう若くはないわ」
ぽつりと呟いた言葉に柊子は頷いた。「お互いの人生の最終章を重ね合わせることも悪くないと思うわよ」
その通りだ。そう思ったからこそ結婚した。
「でも・・・ホグズミードに帰るたびに思うの。今度リドルが蘇ったときには、若者たちを戦わせたくはない。あんな殺伐とした時代に、淡い恋以外には深い愛も知らないままの若者たちをチェスの駒のように戦わせたわ。彼らにもあなたの言う『人生の最終章』があったはずなのに」
「ええ、そうね。でもね、ミネルヴァ、感傷を今のところ脇に置いて考えるべきは『その後』のことよ」
「その後?」
「リドルが蘇り、また誰かがなんとかしてリドルを倒した後。誰が『その後』の英国魔法界を導くの? ダンブルドアは偉大過ぎたし、長生きし過ぎたわ。司令塔の在位が長過ぎて、ダンブルドア以外に考える頭脳が見当たらない」
それは、と言いかけてミネルヴァは口を噤んだ。
「『生き残った男の子』を英雄として祭り上げ、彼の人生を食い潰させる? ハリー・ポッターには、自分自身の宿命を消化したら、あとはささやかな幸福に満ちた彼自身の人生を歩む権利がある。今の英国魔法界に、彼にそう言ってあげる余裕があって? ダンブルドアが偉大過ぎる。リドルの虚像は肥大し過ぎた。僅か1歳の男の子は『生き残った男の子』として自分の知らないところで英雄扱い。アバダケダブラの呪いを跳ね返したのは、ハリー・ポッター自身ではないのに。リリー・ポッターの魔法力の全てよ。我が子への愛という極めて原始的な、ポジティブな魔法が極端な場面において自動的に発動した結果でしょう」
「・・・それは、誰の説? あなたが考えることにしては情緒的過ぎる」
怜よ、と柊子は答えた。
「反対呪文がないアバダケダブラの呪いを跳ね返す方法を娘たちは研究していたようね。特に、怜とアリス・プルウェット、いえ、ロングボトム。 もちろんアンドロメダ・ブラックも一枚噛んでいるはず。怜は確信しているわ。魔法が意思の力ならば、これほどに強力な魔法はない。アバダケダブラの呪いを跳ね返す魔法効果は必ず発現したはずだと」
「魔法は意思の力・・・確かにそれは大原則だけれど、他の要素も絡み合うから一概には」
「ええそうよ。でも命の懸かった極端な場面は、そういう意味では最もシンプルな局面でもあるわ。想像してみて。あのハロウィンの夜のポッター家を。リドルは、予言の男の子がポッターの息子かロングボトムの息子か、確信は持てなかったはず。しかも、予言を恐れて赤子を殺す姿を配下の死喰い人には見せたくなかったでしょうから単身で、ブラック・・・たぶんブラックなのでしょう、とにかく秘密の守り人から聞き出したポッター家を訪れた。アバダケダブラは手慣れた呪いだけれど、杖に載せる殺意に、それほどの深みがあったかしら。リリー・ポッターが幼いハリーを抱き締めて庇うほどにシンプルかつ強靭な意思では絶対になかったはずよ」
ミネルヴァは苦い顔で頷いた。
「わたくしはね、見たのよ、ミネルヴァ」
「なにを?」
「コンラッドに危険が迫った時、怜が蓮を連れてここに帰ってきた。シメオンに蓮を押し付けてまたロンドンに向かった」
「ええ」
「わたくしはハウスエルフに命じて蓮を我が家の結界に入れ、すぐに後を追ったわ。コンラッドの死の直後だった。怜はコンラッドの身体をアンブリッジから守るように立っていて・・・その両肩から魔力が渦を巻いて立ち上っていたの。エメラルドグリーンの魔力よ」
ミネルヴァは目を見開いた。
「わたくしは、目視できる魔力なんて初めて見たわ。純粋な殺意を基に魔力が湧き出すときには、目に見えるの。怜の原始魔法力は決してわたくしを超えるものではない。あなたにも敵わないはず。でもあの時の怜の魔力は、信じ難いほどのレベルに達していた。コンラッドへの愛がそのままアンブリッジへの殺意に転嫁された瞬間の魔力の爆発ね。ポッター家を襲ったリドルに、それほどの深みのある殺意はなかったでしょう。逆に、リリー・ポッターの息子への愛は、容易に想像できるわ。あの時、怜はシメオンに続いてわたくしが現れたことで、瞬時にそれほどの殺意に満ちた魔力を失った。蓮を託したはずの両親がいる。蓮はどうしたのかと、母としての本能が殺意を凌駕した」
頷いてミネルヴァは先を促した。
「目視できるほどの純粋な殺意も、純粋な愛が打ち消すことができる。わたくしは、あの時の怜を見ているから、ハロウィンの夜のポッター家のことを想像すると、やはり怜の仮説通りだと納得できるわ。ハリー・ポッターも、うちの蓮も、あるいはオーガスタの孫もきっとそうね。アンドロメダ・ブラックの娘もかしら。ああ、ウィーズリー家の子供たちもきっとそうでしょうけれど。リドルが絶対に持ち得ない強い護りを持っている。母の愛よ」
「柊子、それは違うわ。ハリー・ポッターにもオーガスタの孫にも、もうそれは期待出来ない。あの子たちの母親は」
柊子はゆっくりと首を振る。
「母親の血は流れているわ」
「血?」
「ええ。思い出してよ。リドルは愛無くして血を繋ぎ続けたゴーントの末裔、また愛無くして魔法薬の効果から産まれた、父親から望まれない子供。母親の愛は、どうかしら。あったかしら。少なくとも、名前をつけることはしてくれたはずね。父親の名前と祖父の名前を与えた。でも、リドルは自らその名を拒否しているから、名付けの魔法効果も得られない。世界中の子供たちの多くが持っている、マグルの子供たちでさえ持っているシンプルな魔法から切り離された存在よ。身体の中を流れる血にそもそも愛が存在しないの。ハリー・ポッターやオーガスタの孫の身体には、たとえ今現在の母親がどうであれ、愛に満ちた血が流れている」
ああ、とミネルヴァは息をするように自然な理解に達した。
「『生き残った男の子』は英雄ではないの。両親の愛から産まれた健やかな赤子であり、母親の愛に強く護られて生き残った男の子よ。その男の子を英雄に祭り上げなければ安心出来ない社会は、決して健全な社会とは思えない。ウィリアムは、ウィンストン家の責務として、ダンブルドアとリドルの対決の構図が解消された後の社会の青図面を提示する必要があると考えているわ」
「ウィリアムがねえ・・・そんな魔法界なら滅んでしまえばいい、とはさすがに言わなくなった?」
「ウィンストン家の傍観はもう終わりにするそうよ。ただし、魔法族の各人が自分の頭で物を考えるようになっていたら、という条件付きでね。自分の頭で考える魔法族が増えていたら、その時は、最初で最後のウィンストン家からの号令を発する。全面戦争になるとしても。そのためには、蓮の原始魔法力が必要なの。ゴブリン製の剣を従えるほどの原始魔法力がね」
しばらくミネルヴァは呆れて黙り込んだ。
「・・・つまり、自分の孫の血を、バジリスクの毒レベルにしたいということかしら?」
柊子は肩を竦めて頷いた。
「できた!」
蓮の声に振り向くと、庭にライオンがいた。
「みねるばのまね」
ライオンの背に跨り、得意げに小枝を振り回している。
「蓮、杖に頼るなといつも言ってるでしょう。その小枝はポイよ」
庭石をライオンに変身させた4歳児を見て、ミネルヴァは頬をひくっと引き攣らせた。
「・・・変身術の訓練はまだしていなかったはずよね?」
「無機物を変身させただけよ。驚くほどのこと? マグカップを鼠に変えるレベルじゃないの」
「原理的には同じだけれど、レベルは違うでしょう・・・」
この4歳児が成長したらホグワーツに入学してくるのだろうか。頭が痛い。
「小枝をポイしてライオンさんをもとに戻しなさい」
「はしってくる」
「ノーよ、蓮。もうお昼寝の時間」
この家族に付き合っていると、常識の一線が曖昧になる。
祖母の言葉に逆らってライオンに跨ったまま駆け出した蓮は、速やかにライオンを庭石に戻され、白い敷石に激しく叩きつけられた。
「いてえ!」
ミネルヴァは緩く頭を振った。
「グランパとグラニー? たまにくるよ。かわたろうとグラニーがおよぎをおしえてくれる。あと、あらすたーがユダンタイテキっていいにくる。たまにせぶるすも」
「セブルス? セブルス・スネイプ?」
「まほうのおくすりをつくる。ママと」
祖母の言いつけを破った罰として真実薬入りの夕食を食べさせられた蓮にあれこれと質問をしていると意外な名前が出てきた。
「ひいじいのけんきゅーしつには、ロンドンにないざいりょーがあるから、ママとせぶるすはへんなおくすりをつくってる」
「真実薬とか?」
蓮は素直に首を横に振った。
「ちがう。れんはぜったいさわっちゃダメなの」
「まあ、真実薬も愛の妙薬も4歳児が触れていいものではないけれど。ロンドンで手に入らない材料で作る魔法薬ね・・・」
「だいじなおくすりだって」
それはそうだろう。怜がスネイプまで巻き込んで何の魔法薬を開発しようとしているのか、この家族の常識を考えると想像もつかない。
「まあ、親父殿が入手していた材料ということだけでは何のヒントにもならんな」
食後のお茶を飲んでいたシメオンが苦笑した。
「ロシアを出てからというもの、ヨーロッパもアフリカもアメリカも回って日本まで放浪していた魔法薬学者だ。どこでどんな材料を見つけてきたかわかりゃせん」
「まだしっぱいばかりだって。せぶるすがぜったいむりだっていうから、ママがおこる。りりーのためにつくりなさいって」
ミネルヴァは眉を寄せた。
正直なところ、ミネルヴァはまだスネイプを心底から信じているわけではない。学生時代から闇の魔術に引き寄せられてきた、どこかリドルを思わせる若い元死喰い人だ。
しかし、リリー・エバンズ、後のリリー・ポッターは幼馴染として、スネイプを庇う姿勢を見せてきた。
純血の母親とマグルの父親。その点では、ミネルヴァもそうだが、リドルもスネイプも同じ条件だ。ただひとつ、リドルとスネイプの違いは、リリー・エバンズがいたか否かだけとさえ言える。
「リリーのために、ね」
ミネルヴァは呟いたが、シメオンも柊子もそれには気付かない様子で、ペラペラ喋った蓮が小さく「いてえ!」と叫んだところを見ると、ささやかな磔の呪文を当てたようだった。
ダンブルドアは深い溜息をつき「さすがは怜じゃな。儂も同じ見解を持っておる」と机の上に両手を投げ出した。
「リリーの息子への愛がアバダケダブラへの強力な反対呪文として発動したと?」
「さよう。愛というのは、完全にポジティブなベクトルを持つ強靭な意思じゃ。殺意を杖に載せるアバダケダブラの極北に位置すると言えよう。じゃが、その愛から切り離された存在であるリドルには、また別の意味で強靭な意思が宿っておることは忘れてはならぬ」
ミネルヴァは眉をひそめた。
「彼は彼なりにプラスのベクトルに衝き動かされて生き残ってきたのじゃよ」
「リドルに、プラスのベクトルの意思があると?」
「生きることじゃ。柊子の表現を借りれば、リドルは世界でも例を見ぬほどに愛から切り離された存在じゃ。本来なら生き残っていられぬ。しかし彼はヴォルデモート卿として、一部の魔法族の上に君臨した。それじゃよ。自己を人々に畏怖させ、承認させ、予め失われた愛を穴埋めする。それなくして生きられぬ男なのじゃ。生き残ることへの意思もまた原始的で強靭なプラスのベクトルを持つエネルギーであることに間違いあるまい?」
しばらく葛藤した。認めたくはない。リドルに強靭なプラスのエネルギーが存在するなど。
「ミネルヴァ、いつも言っておろう。熱い心を抱いたまま、冷たく冴えた頭で考えるのじゃ。ホグワーツの制度的な欠点じゃな。ハッフルパフの誠実さと、グリフィンドールの情熱、それらを兼ね備えたままレイブンクローの理性と知性を持ち、スリザリンの狡猾さすら利用できる、より狡猾な人材が不足しておる」
「・・・無茶な注文をなさらないでください」
「無理なことかの? 儂は怜にはその資質があると思うがのう。怜、アリス・プルウェット、アンドロメダ・ブラック。あの3人には大きな期待を寄せておった。あの3人が親友となり得たことは大いに喜ばしいことじゃと思うておった。今でもそう思うておる。残念ながらアリスはもはや聖マンゴからは出ることは適うまいが、怜とアンドロメダの心の中には、常にアリスの言葉が響いておるはずじゃ。グリフィンドールの魔女の言葉がの」
ダンブルドアは立ち上がり、ミネルヴァに背を向けて窓の向こうを眺めた。
「4つの寮の融和が儂の校長としての理想じゃよ。まだ程遠いがの。怜たちの友情は、儂の理想に最も近い形であった」
「理想としては否定はいたしませんが、ダンブルドア、あなたのグリフィンドール贔屓も改めていただきませんと。融和とやらの妨げになります」
「ああ、それはもうしかたあるまい。儂はグリフィンドールの卒業生にして長年グリフィンドールの寮監だったわけじゃからして。グリフィンドール生の無謀なまでの蛮勇にはいささか点が甘くなる」
ミネルヴァは溜息をついた。
「ミネルヴァ、儂は君たちにも同じことを期待しておるよ。寮を超えた友情で結ばれたグループは長年ホグワーツにおってもそうそう目にすることはない。熱い心と冴えた頭。これはこれで充分結構な組み合わせじゃ。そうは思わぬか?」
「ウィリアムは孫には何よりも力が必要だと考えているようですわ」
ダンブルドアは長い顎髭をしごいて「ウィリアムもまだ若いのう」と呟いた。
「孫もいる年ですわよ」
「柊子の孫にして怜の娘じゃからして、レイブンクロー型の娘であろうの。それに過剰な力だけを移植するのはいささか剣呑じゃ。じゃからまだ若いと表現した。ウィンストンの当主に必要なのは、全てじゃ、ミネルヴァ」
苦虫を噛み潰したような顔でミネルヴァが「また無理なことを」と呟くとダンブルドアは高笑いをした。
「じゃからウィンストン家は、その長い歴史をあくまで傍観に徹してきたのじゃよ。あえて支配のための力を育てることをせずに、友愛と正義と知識と忠誠だけを育んできた。さて、ウィリアムの判断が吉と出るか凶と出るか」
高笑いを収めたダンブルドアの低い声に、ミネルヴァは、油断した自分に氷の礫を迷わず飛ばしてきたときの、子供に似合わぬ冷たい瞳の色を思い出した。
追い詰め方次第では冷酷になり得る子供なのかもしれない、ときつく目を閉じた。