1.小さな変化
上条当麻と呼ばれる少年は走っていた。
八月の太陽が容赦なく照りつけ毛穴からは際限無く汗が吹き出る。しかし彼は汗を吸ったシャツなど意に介さずに人混みの中に身を割り込ませていく。
「考えろ…。考えろ…。あいつが行きそうな場所…。どんな手掛かりでもいい!何か無いのか!」
食蜂操祈と呼ばれる少女は歩いていた。
止まない蝉の鳴き声にうんざりしながら、青信号で動き出した人波に半ば押し流されながらとある交差点に差し掛かる。
「暑いわねぇ…。最近の太陽の発熱力は異常よぉ…」
周りが見えなくなるほど焦った状態で疾走する少年と、うだるような暑さに空を憎らしげに見上げる少女が衝突してしまうのは、ある種必然だったと言えよう。
「きゃあ!?」
「わ、悪い!!」
衝突の拍子に双方の持ち物がばらまかれる。
「本当にすまねぇ、急いでたんだ。どこにも怪我とかないか 。じゃあな!」
「えっ、あ?ちょっとぉ…!!」
と、少女は足下に転がる物に気づいて拾い、投げ渡した。
「携帯!落ちてたわよぉ!」
少年は頭上遥か上を通過する携帯を指先でキャッチし、
「うぉまじか!危なかった!ありがとな!」
と言うが早いか、駆け足で雑踏の中に消えていった。
「忙しない人ねぇ…」
呟く少女の声は、雑踏に紛れて消えていく。
咄嗟に少女がとった行動。
それがまた別の少女を救うことになるのだが、
それはもう少し先の話。
とある交差点における小規模な事故から数日がたったある日、食蜂操祈は夜の山道をふらふらと歩いていた。
何か目的がある訳ではない。
夜間にウォーキングを嗜む趣味があるという訳でもない。
そもそも所謂「お嬢様学校」であるところの、名門常盤台中学の生徒がこの時間帯に出歩いているのは明らかな罰則行為である。
今頃寮監が鬼の形相で食蜂を待っていることだろう。
しかし彼女にとってはもうどうでもよかった。
山道を登りきって円形の人造湖にたどり着き、その縁で大の字に寝転がる。
(なんていうかもう、全部面倒臭くなっちゃったわよねぇ…)
「心を操る能力者」である学園都市最強のレベル5の一角である彼女には、色々としがらみが多い。それらが全て嫌になった。
自分の悩みの重きを占めていた才人工房の一件に不本意ながらも一区切りがついて、気が抜けたのかもしれない。
彼女は何の気なしに、自らの能力の1つ「記憶消去」のトリガーであるリモコンをこめかみに突きつけた。
「一度、頭の中、まるっとリセットしちゃう?そしたら、こういう重苦しいの、まとめて取り除くことができるのかしらぁ…」
彼女の指がスイッチに近づいていく。
14年間の記憶が消し飛ぶ、その直前だった。
近くから、人の声が聞こえた。
上条当麻を知る人間は、彼を「ヒーロー」と表現する。
そしてそこに、一切の誇張はない。
実際先日も、学園都市の「闇」に触れ行方を眩ました少女を、炎天下の中駆けずり回って捜索した挙げ句、彼女から送られてきた「さよなら」という簡素な文面のメールからGPS情報を割り出す、といった中々にグレーな手段で、すんでのところでその命を救ったばかりである。
因みに少女は服の中に石を詰め人造湖に身を投げたが、それを追う形で上条は水に飛び込み、無理やり引きずり上げた。それまでの経緯で衰弱し、現在入院中だが、命に別状は無い。
そしてそのヒーローはと言えば、
「うぁぁ… 見つかんねぇ…」
這いつくばって草を掻き分けていた。
人造湖に飛び込んだ少女を目の当たりにして通話中の携帯を投げ捨て後を追ったはいいが、翌日になってその回収を忘れていたことに気づいたのである。
何分咄嗟のことだったので、どこに落としたのかなど一切覚えていない。
「どこにあんだよ… ここにあるのは間違いないはずなんだけどなぁ… あぁもう不幸だ…」
実際には割と見当違いな場所を探しているのだが、気づくのは大分先になりそうである。
「あぁもう不幸だ…」
間違いない。誰か近くにいる。目を向けると人影があった。暗くて輪郭しか見えなかったが、ツンツン頭に見覚えがある気がする。
食蜂はその身を軽く起こして声をかけてみた。
「どうかしたのかしらぁ?」
「おぁっ!人がいたのか… いやちょっと携帯落としちゃってさ、探してるんだ」
少し迷った後、助けてやることにする。
どうせ自分の記憶は死ぬのだ。
最期に人助けの1つでもしよう。
「ちょっと待っててねぇ…」
食蜂は鞄から録画レコーダー用のリモコンを取り出し、自分のこめかみに突き付ける。
指先の手袋を外して地面に触れ、
『物的読心/右手で触れた物質から1年以内の記憶を抽出』
湖に飛び込む少女
携帯を投げ捨てる少年
二つの水飛沫
「…ふぅ」
地面から手を離し、手袋をはめる。
「あなたから見て10歩ほど後ろの茂みに隠れてるわぁ」
「え? …うぉまじか!っしゃああああ!」
少年は携帯を見つけて飛び上がって喜ぶと、そのまま食蜂へと駆け寄る。
「まじでサンキューな!いやもう見つからなかったらどうしようかと思って!ほんとにありがとう!危うくここで学園都市の朝日を見る所だった!」
「あ、あらそう… どういたしましてぇ…」
何の気なしに行った行為に予想を遥かに上回る形で感謝され面食らう食蜂。一瞬遅れて気づいた。
「あら、あなた交差点の…」
「ん? …あ、君携帯拾ってくれた子じゃん! まじかよ世話かけっぱなしだな…」
何かを考える様子の少年。
「今度何かお礼しなきゃだな。俺上条当麻。よろしく」
言いながら手を差し出す。
「しょ、食蜂操祈よぉ…」
少し警戒しつつもその手に握手する食蜂。
「ひとまずお礼は後で考えるとして、送るよ!その制服、常盤台だよな?」
「えぇ…」
やけにフレンドリーな上条の雰囲気に乗せられ、並んで歩き出す食蜂。
(…これが新手のナンパの手口だとしたら相当よねぇ)
上条は食蜂の複雑な表情には気づかない。
そして食蜂も、自分の記憶を消す考えを完全に忘れ去っていた。