ティレニア海に浮かぶ船の上で過ぎてゆく、短命の少女たちの日々のお話。原作を読まれていることを推奨します。発作みたいなものです。許せ。

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フラテッロに花束を

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 とんでもなく綺麗に歩く人がいる。

 

 

 

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 船の上の生活が教えてくれるのは、地面というものの安心感と、これ以上ないほどの水平線も飽きてしまえばただの風景に成り下がるということだ。穏やかな海とは言っても波が立たないなんてことはあり得ないし、人体における三半規管は鍛えにくい部分でもある。何が言いたいかと言えば、船酔いなんて日常茶飯事だということだ。気持ち悪い。

 船は大きく、広く、私もまだ行ったことのない場所がいくつもある。興味が湧かないと言えばウソになるけど、結局その必要が生まれない限り行くことも知ることもないのだと思う。それが公社の仕組みだ。

 船の上ですることはほとんど何もない。たまに試験とやらに協力するくらいで、基本的にはただ日々を過ごしていくのが私たちの生活だ。船にあるのは本とDVD、あとは楽器くらい。デッキに出れば空と海が眺められる。鳥がよく啼いている。吐き気がしていないときにはなかなか悪くない。いま、私にとっての世界はこれがすべてだ。

 私はあまり頭がよくなく、口下手で、分類するなら暗いやつになるのだろう。そのことに関して含むところは、もう少し感情表現が豊かにならないものかなと思うくらいで、他にはない。本もDVDも話の筋を追うので精一杯だから、それほど強い興味を持ったりはしない。一度だけ詳しく説明をしてもらったことがあるけど、途中からまったくついていけなくなったことをよく覚えている。同時に話を楽しむというのがいかに大変かということも理解したつもりだ。

 

 戦争があった。戦闘規模で言えば抗争のレベルだったのかもしれないけど、国家の未来というものがそれに関わっていたとなれば、それは戦争と呼ばれて然るべきだろう。もっとも、私は複数の人間同士が命の奪い合いをすれば、それは戦争だと思っている。正しいかどうかは知らない。

 大雑把に言えば私たちはその戦争に出るために生まれたようなものなのだが、私はその戦争には参加していない。生まれたばかりで学習が済んでいなかったからだ。今ではこの炭素繊維で出来た身体を思った通りに動かせるけど、生まれたときにはそういうわけにもいかなかった。常人と比べて身体機能がずいぶんと高いらしく、それだけ精密な動作をするには訓練が必要だったからだ。

 つまり私はタイミング悪く生まれた役立たず、ということになる。

 別にそのことについては言葉ほど思い詰めてはいない。なにせ生きているのか死んでいるのかわからない状態から生まれ変わったのだから。普通なんかとは遠く離れたところにいるとわかっていても、それでもなお私は自分の選択を後悔はしない。それが戦争のための命だったとしても、だ。

 

 すこし潮の匂いがきつい日のことだった。その匂いのせいでデッキに出ているような気分でなくなった私はさっさと船内に降りていくことに決めた。扉を閉めても外の空気が肌にまとわりついているような感じがしたのを憶えている。降りた船内は様々な設備を備えた大きな船だから内部は複雑で、さすがに迷路とまではいかないけど、タテヨコとたくさんの廊下が組み合わさっている。

 もちろん向き次第では長い廊下もあって、そのうちの一本に私が何の気なしに目をやったときのことだ。ロングの、ちょうど腰骨に届かないくらいのきれいな黒髪が揺れることなく奥に進んでいくのを見かけた。シックな色調のチェックのワンピースを着ていて、ハイソックスなのかストッキングなのかはわからないけど黒い足が膝下から見えていた。腕が体の横に見受けられなかったことを考えると何かを体の前で抱えていたのかもしれない。急いでいる様子はなかった。きっと自分のペースというやつなのだろうと思った。歩く後ろ姿だけだというのに、飛びぬけてきれいなものに見えた。

 歩き方というものを私たちは徹底的に叩き込まれる。歩幅、関節の使い方、重心の置き所、姿勢、手の扱い方。これだけには収まらないし、場面ごとに適したものを練習する。それは同時に他人の歩き方に目敏くなるということも意味している。私たちの世界に身を置いている人間かどうかを見極めるのはとても重要だかららしい。私はその技術を使うことはなかったけど、理解できない話ではない。

 その経験を踏まえた上で、彼女の歩き方は私には特別に磨かれたものに見えた。余計なものは徹底的に削ぎ落とされている。しかしすぐさま警戒心を抱かせるものではない。私がそれに気付けたのはしばらく時間の経った昼食の後のことだったし、そもそも船に乗っている少女と呼べる年代の女の子は全員が特別だという前提条件があったからだ。もしも私とその子が街の中ですれ違ったとしても、私は何も気付かずに、ただきれいに歩く子だな、と思って済ませてしまうはずだ。可能性としてはあり得ない話ではないし、現実にそうだったのだから余計なことを言う必要はないけど、同じ船で生活していたわりにはよくもまあこれまで出会わなかったものだと思う。きっと決定的に生活のスタイルがずれていたに違いない。

 

 それからしばらく船内を歩く時は、意識的にその子を探すように目を配りながら歩いた。私には後ろ姿の説明をすることで誰かを特定してもらえるような友人はいないから、それ以外の選択肢がはじめからなかった。船上での生活はほとんどまるごと自由時間のようなものだったから別に構わない。ただいくらなんでも一日中探し回るなんてことはしなかった。あくまでどこかへ移動するときのついでだった。

 それまで周囲に興味を持たなさ過ぎたということなのだろうか、意識してみるとその子の姿を見かけることがたびたびあった。当然だけど服装は日によってまちまちだし、見かける向きもいろいろだった。正面だけは一度もなかったけれど。それでも私が時間をかけることなくその子だと見抜けたのは、やはりあの歩き方があったからだ。船の揺れさえ止まっているように思えた。

 その子は眼鏡をかけていて、平板な表情をしていた。船内をただ移動するのに楽しいもつまらないもないのだから自然なことのように思う。その点ではきっと私と同じだ。はじめ後ろ姿を見たときに思った通り、その子はときおり物を抱えて移動していることがあった。鉢植えだ。私にはよくわからないけど、その子にはそうするだけの事情があるに違いない。

 

 

 

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 季節が移った。その子を何度見かけたかはわからない。もう意識して探すようなことはしなくなっていた。

 私の毎日は変わらない。自分の意思で歩きたいほうへと歩けるというのはとても楽しいことだ。水平線は見飽きるし船酔いはするけど、比べる過去があまりにもつまらなさ過ぎる。ミルクパズルというのもやってみれば案外と面白いものだ。

 

 何のせいでそうなったかはわからないけど、ある日を境に鉢植えの子と正面からすれ違うことが劇的に増えた。それまでゼロだったものが、すれ違わない日のほうが珍しくなるほどに。お互いに視線を合わせるようなことはしなかった。友人どころか知り合いでさえないのにアイコンタクトを取る必要はどこにもない。視界の端のその子は平板には違いないけれど、どこか穏やかな表情をしていた。本当に戦争なんてものに関わっていたのだろうかと私は不審に思った。でも私たちの生まれた目的がそれ以外ではあり得ないのだから、兵士だったのだと思う。他に持てる可能性はない。

 鉢植えよ、と返されたのは、それは何、と試しに尋ねたときのことだ。その通り過ぎてなるほどとしか言えなかった。名前を訊くよりも先にそんな質問をしたのだから当然の結果だったのかもしれない。私がその子の名前を知ったのはもっとずっと先のことだった。きっとその子も私の名前なんて知らなかったはずだ。どうやら私は頭がよくないだけではなく、コミュニケーションの経験も不足していたらしい。言い訳はいくつか思いつくけど、全面的に許されるようなものじゃない。結局のところは私に原因が返ってくるようなものばかりだ。

 

 やっぱり過ごす日々に変化はなかった。誰かと仲良くなることもなかったし、新しい何かに没頭するようなこともなかった。水平線は見続けていると飽きるし、たまになる船酔いは最悪だ。たまに挑戦してみる読書も最終的には諦めてしまうのが常だった。それでもこの生活は悪くない。

 船内を歩く女の子が増えることはない。公社の現在の状況を踏まえると、大人の入れ替わりすらまずない。だから女の子の顔ぶれは私を含めて一定のものだ。

 そのうちのひとりをしばらく見かけなくなった。名前は知らない。声も聞いたことがない。でも船で何度も見かけてきた。鉢植えの子のことがあったから、たまたま見かけない期間なのだろうと思っていた。きっと何かの拍子に日に何度も見かけるような時期が来るんだろうとも。

 試験に協力する日、最近船内で見かけなくなった子がいる、と担当官に聞いてみた。彼は静かに首を振って、寿命だよ、と一言だけ口にした。その言葉は頭の中で乱反射した。大きな球体の中で小さなボールが半永久的に跳ねるような、そういう反射のしかただった。彼の言ったことを素直に受け入れるなら、少女と呼ぶべき外見で寿命が来たということだ。よくわからないというのが正直なところだった。すぐに訪れるだろう混乱を遮るように、ベリサリオ先生が口を挟んだ。キーワードは脳の寿命、ということらしい。普通ではない私たちに最も負担のかかる場所が脳だということまでは理解できた。間に言っていたことはよくわからなかった。

 涙が流れないことがいちばん悔しかった。死んだ子と親しかったわけではないけど、同じ特別な立場だという同族意識のようなものはあって、その意味での仲間がひとりいなくなったというのは寂しいことだった。寂しいときに涙が流れないということが、人間である証を取り上げられたことのように感じられた。

 

 食料の買い出しなどでさえ下りることのない陸上に、例外的に私たちが下りるのはそういう時だけだ。あくまで手短に、速やかに葬儀を執り行う。今は使われていない修道院の跡地の墓地に埋葬して、花を供える。冷ややかな目で見られるかもしれないけど、それはいま気にすることじゃない。土は柔らかかった。芝が控えめに音を立てた。

 

 

 

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 いくつか季節が巡った。そのあいだに何人かの少女たちの寿命が来た。そのうちのひとりは病気だったらしいから寿命とはまた違うのかもしれない。一度だけ廊下で倒れる子に出くわしたこともある。体を支えて医務室まで連れて行った。力の入らない体は奇妙に重かった記憶がある。船酔いで通いなれたはずの医務室が遠かった。

 船内で誰かが暴れたという話は聞かなかったから、みんな納得のいく人生を送ったのだと思う。短い人生かもしれないけど、本当はなかったはずのものだったのだから。

 

 その日は風の強い日で、甲板で水平線を眺める気にはなれない日だった。さっさと船内へ降りて歩いていると、正面から鉢植えの子が歩いてきた。私たちはずっと変わることなく視線も挨拶も交わさずにすれ違うのを常としてきた。例外は私が鉢植えについて尋ねたときだけだ。それが崩れたのは私にとってとても大きなことだった。その衝撃の大きさを言葉に表すことができないことを悔やむくらいに。

 私との距離が歩幅二つぶんに差し掛かると、はじめましてね、その子は表情を柔らかくして言った。はじめは鉢植えについて尋ねたときのかたちを変えた意趣返しかとも思った。でもそうじゃないなんてことは目を見ればはっきりとわかる。いつもの平板な表情は剥がれ落ちていた。頭の中にイヤな考えがすぐに浮かんだ。自分から求めなかったということもあって、私は他の人と比べて知識の量が少なく、そのぶんだけ残っている知識はすぐに浮かぶようになっている。私はその子を傷つけないだけの最低限の返事だけはなんとか返すことができた。でも頭はほとんど混乱していたと言っていいと思う。彼女の日常が崩れたということは、普段を保てなくなったということで、それは脳の限界が近いことを指しているのに違いない。いくら私でも記憶を司るのが脳だということくらいは知っている。どうして物事に対してあまり興味を示してこなかった私がこれだけ動揺しているのかと言えば、たったひとつしかない。もう見られなくなるのだ。あの美しい歩き方がこの世から失われるのだ。

 それから三回の初対面の挨拶を交わして、私とその子は二度とはじめましてを言わなくなった。唯一の救いは、少なくとも私が見た最後の彼女の歩き方が綺麗なままだったことだ。

 

 

 

 一年のうち、私が乗っている船は何度も決まった港に泊まる。その港に泊まるときだけ私たちも大人たちと一緒に陸に上がる。目的地はとある修道院跡地で、もう何度訪れたか忘れてしまった。

 

 修道院跡地に着く少し前に何本も花を渡される。一本ずつにわけられたやつだ。

 

 さて、私はいつもここに何をしに来るのだったっけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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