終わりが見えない……
ここからアニメで言うところの10話分残っています。
ちちち、と鳥が鳴いている。
ついこの間まで何処を探しても見つからなかった小動物たちの音が耳に届く。
それと同時。
遙か遠くで聞こえる砲声が鳴った。
鳥の鳴き声と同時に耳にするには余りにも浮き世離れしていて、それはまるで別世界。
二つの両極の音をぼんやりと聞きつつ、暖かい陽気に当てられたカリエは徐々に己を蝕みつつある眠気と戦っていた。
ふとキューポラから覗く天蓋を見てみれば、いつの間に積もったのか、淡い桜の花びらが薄ピンク色の絨毯を形作っている。
ふっ、と微笑みを零した彼女はそのうちの一枚を拾い上げてキューポラの中に引っ込んだ。
「ねえ、佐久間さん。見てこれ」
佐久間、と呼ばれた女子生徒――操縦手の佐久間ナナが車長席のカリエに振り返る。
「どうされました? 副隊長」
「いや、待ち伏せが長すぎたのかパンターの装甲に桜が積もってる」
ひらひらと手の中で弄ばれる一枚の花弁。カリエは何故か上機嫌にそれを飽きもせずに眺めていたが、話しかけられたナナの表情は少しばかり曇っていた。
「すみません。私の操作が不慣れなばっかりに」
そう言ってナナはカリエに対して頭を下げた。
彼女――佐久間ナナは今年から黒森峰女学園に入学した新入生である。意外なことに戦車道の経験はなく、新入生たちの中でも一際珍しい存在だった。
ただ、乗り物の操作にかけては天賦の才を有していた。その腕前を見たカリエが、いの一番に自身のパンターの操縦手に指名した程だ。
何でも中学時代はミニバイク界隈では伝説の存在になっている凄腕ジュニアレーサーだったらしい。
そんな彼女がどうして黒森峰にやってきて、戦車の操縦桿を握っているのか、その動機はナナ本人しか預かり知らぬところだが、一年生ながら副隊長の車両の操縦を許されているという現実が全てだった。
正直カリエからしてみれば、不慣れと言っているナナの台詞が謙遜も行きすぎていて嫌みの領域に達していると感じてはいるが、敢えてそれを口にすることはなかった。
これはカリエの直感だが、佐久間ナナはカリエの事を少しばかり信望しすぎるきらいがあり、迂闊なことを言った暁には必ずや面倒なことになるのがわかっているからである。
だからこそ、ナナが表情を曇らせているのを見て、カリエは焦った。
「いや、そんな深い意味はないよ。それにエンジンを切ってここに停車しろと命令したのは自分だし」
いそいそと桜の花びらをタンカースジャケットのポケットにねじ込み、カリエは再び車長席に戻った。優秀で有能ではあるのだが、ちょっとばかりメンタルが弱い後輩をどう焚きつければいいのか、頭を悩ませながら周囲を伺う。
すると、パンターの座している窪地の向こう側から、装填手の同級生が息を切らせながらこちらに走ってきているのが見えた。
彼女はこちらにたどり着くまでの時間が惜しいと言わんばかりに、激しく上下する胸もそのままに、大振りな手信号をカリエに送った。
「ええと、エレファント一両、Ⅲ号二両、パンター一両が接近中。うーん。規模が中途半端すぎて本隊かどうか判断がつきませんね」
カリエと同じように、パンターの車体備え付けハッチから顔を覗かせた通信手が手信号を解読する。カリエは装填手に早く戻ってこいと手招きし、相手チームの戦力表と報告を見比べながら、咽頭マイクのスイッチを入れた。
「パンターは小梅。おそらく斥候。けれども本命のティーガーⅡがいない。……十六号車、そちらは何か見つけた?」
ややノイズが走りながらも、ここから離れたところに陣取っているⅣ号戦車から無線の応答があった。
『いえ、まだ発見できません。街道三本、いずれも姿見えず』
Ⅳ号車長の言葉を受けて、カリエは通信手に「だめだ」と首を振った。通信手はそんなカリエの様子を見て脇に立てかけてあった大判の地図に赤いマーカーで×を書き加える。
「……はてさてどうしたものか。小梅の隊を無視して一気に殴り込みをかけてみる?」
カリエの提案に通信手は「難しいんじゃないでしょうか」と懸念を示した。
「副隊長が命じてくだされば、もちろん任務は遂行しますけれど、さすがに同型パンターとエレファントを同時に相手するのは骨が折れます」
「だよね。でもここで小梅の隊に釘付けにされて背後を取られるのも不味いな」
振り返れば薄暗い雑木林が鬱蒼と広がっている。後方警戒を疎かにしているわけではないが、万が一の不意打ちについても考慮せねばならない地形だ。
「ほんと、あのお姉さまに小梅みたいな優秀な参謀役がついたら手が着けられないや」
待ち伏せは悪手だった、とカリエはため息をついた。装甲火力ではどうあがいてもあちらの方が上手だったので、その戦法を取らざるを得なかったという事情もあるのだが、結果としては上手くいっていない。
「ではどうしましょう」
「このまま十六号車と十三号車は待機。私たちもぎりぎりまでアンブッシュ。キルゾーンに相手斥候が入り次第、パンターから優先的に片づける。万が一、相手本隊の奇襲があったのなら、予め決めておいた逃走経路を使って分散。Fー74地点での合流を目指す」
言って、丘の向こう側を双眼鏡で観察する。砲手も砲塔を操作し、稜線に向かって照準を合わせた。
パンターの車内に、待ち伏せ時独特の張りつめた空気が漂い出す。
だが、良い意味でその緊張感を打ち消したものがいた。それが操縦手の佐久間ナナだった。
「副隊長、一つ提案が」
何事か、とみたびカリエが車内を覗きこんだ。すると、操縦席からこちらを見上げるナナと視線がぶつかる。車内の熱気に当てられたのか、彼女の頬には汗が一筋流れていた。
「相手パンターとエレファントの間を抜けて、敵本隊に殴り込みを掛けるのは可能だと愚考します。Ⅲ号戦車に関してはこちらより小回りが利きますが、パンターの装甲なら側面を晒さない限り問題ないかと」
「ん、その心は?」
じっ、とカリエの翡翠色の瞳がナナを見つめる。彼女はごくり、と喉を一つ鳴らして、けれども視線を逸らすことなく答えた。
「私なら、あの人たちを撒いてみせます」
カリエのみならず、車内にいた全ての隊員たちの視線がナナに突き刺さった。カリエ一人の時よりも、若干の怯えは見せたが、それでもナナはカリエをしっかりと見ていた。
数秒、沈黙が車内を支配する。
車長たるカリエの言葉を待って、誰もが口を開かなかった。
「ん、ふっふっ」
音はカリエの口から。
何事か、と隊員たちがカリエに目線を向ければ、口元を押さえて笑いを堪えている彼女がいた。ナナは緊張がピークに達し、己の失言を呪って「ごめんなさい、ごめんなさい」と連呼している。
けれどもカリエの手がそんなナナを制した。
「いいね、佐久間さん。やっぱり紅白戦だもの。なるたけ楽しくやるのがスポーツの醍醐味だもんね」
カリエは胸から下げていた双眼鏡を外した。こんなものはいらないと言わんばかりに、それを通信手の隊員に手渡す。そしてふんばりを聞かせるように車長席に立ち、キューポラから身を乗り出していつでも外の様子を伺える体勢を整えた。
咽頭マイクをぐっと握りしめ、短い呼吸を一つ。
「全車に告ぐ。これより当フラッグ車は敵本隊に肉薄。我がお姉さまを討ちにいく。このまま待ちに伏せるもよし、我に続くもよし。各自の裁量に今後を委ねる。では健闘を祈る。オーバー」
やけに芝居がかった言い回しだったが、それで充分だった。パンターの周囲の窪地や茂みから次々とエンジン音が吹き上がる。
パンター自身も心臓部たる動力機関に熱を取り戻し、小刻みなアイドリング特有の揺れを奏で始めた。
「ではこれより、敵フラッグ車の撃滅に掛かる。パンツァー・フォー!!」
ぐおん、とパンターが大きな揺れを一つ残して前進を開始した。窪地の斜面を駆け上がり、車内の角度が世界がひっくり返ってしまうのではないか、と錯覚させるくらいには傾く。
だが誰も恐れはしない。キューポラから身を乗り出すカリエも顔色一つ変えない。
丘の向こう側から、Ⅲ号戦車が顔を覗かせた。すぐさま照準を付けていた砲手が発砲し、轟音が響き渡る。
パンターが吐き出した鋼鉄の砲弾がⅢ号戦車の正面装甲を穿った。WWⅡ最優の中戦車と名高いパンターの砲撃を受けてしまえば一溜まりもない。
あっと言う間に撃破を知らせる白旗と黒煙を吐き出してⅢ号戦車は停車した。
「次、榴弾装填準備」
「次、榴弾装填しました」
車内に向けてHのハンドサインをつくり、カリエは次発の指示を下す。装填手も阿吽の呼吸と言うべきか、淀みない動作で、後退してきた砲身尾部に砲弾を叩き込んだ。
「狙い、丘の頂上。小梅のパンターが見え次第叩き込んで。撃破は出来なくても良い」
砲身が駆動し、照準を変更する。
丘から姿を現したパンターは目の前のⅢ号戦車がやられたことにより、直線的な軌道を放棄。ジグザグの航行を始めていた。
その直ぐ後ろに、カリエは榴弾を撃ち込む。
徹甲弾よりもかなり派手な爆発を残して、榴弾は土煙と火炎を丘に刻み込んだ。
「おおっ」
その直後。カリエの意図を汲んでいたのか、別地点に潜んでいたⅣ号戦車とヤークトパンターもほぼ同じ場所に榴弾を放ってきた。
三両の戦車の榴弾が炸裂した丘は、紅蓮の火炎と漆黒の黒煙にまみれて、さながら地獄のようだった。
「完璧。ありがとう、十六号車、十三号車」
カリエの礼に二両の戦車は次なる砲撃で答える。
「よし、みんなのお陰で道は出来た。佐久間さん、全速前進」
丘越えの出鼻を挫かれた斥候の足並みが榴弾の雨によって乱れており、一分の隙がパンターの進行方向上に出現していた。それを見逃すほど、カリエは暗愚ではない。
マイバッハ12型エンジンが唸りを上げ、履帯が丘の斜面に食いつく。
ようやく落ち着きを取り戻した小梅のパンターが照準をこちらに合わせてくるが、Ⅳ号戦車の砲撃が間に割って入り、結果的には素通りさせてしまうことになった。
丘の頂点を越え、一瞬パンターの車体が浮く。
カリエはキューポラの取っ手をしっかりと掴みながら、開けた視界を一望した。
そして見つける。
こちらを王虎の如く睨みつけているアハトアハトの砲塔を。
「! 佐久間さん、進路左へ! 全速急いで!」
履帯が再び地面に接した瞬間、パンターは急な制動で左に進路を取る。その直ぐ背後を88ミリの砲弾が通過していった。
「うっそお」
初撃をなんとか回避し、だらだらと冷や汗を吹き出したカリエがボヤいた。
彼女の視線の先では、パンターに刻まれた蛇のエンブレムと全く同一のものを有したティーガーⅡが砲塔を旋回させている。
「ふん、あんたが待ち伏せを放棄して殴り込みにくるのはわかりきってたのよ。だからあんたの手間を省いてやるべく、こうして目の前に出てきてやったわ。感謝しなさい」
妹の目論見を潰せたことが嬉しいのか、実に生き生きとした表情でエリカはティーガーⅡを操っていた。
奇襲なし、不意打ちなしの一対一の不利を悟って、カリエの顔が青ざめる。
「私の姉は想像以上のアレだ。フラッグ車で、しかも鈍重なティーガーⅡで逆に殴り込みにくるなんて」
「でも副隊長、エリカ副隊長がどんなアホでも正直まずいですよ。こちらの砲は背後か側面に回り込まなければまず弾かれます。しかもあちらの攻撃は何処に当たってもアウトです」
通信手の無慈悲な上申に、カリエは「だよねえ」と眉尻を下げた。今は何とかティーガーⅡよりはマシ程度のパンターの機動性で逃げ回っているが、それも何処まで持つのかわからない。
ティーガーⅡが足まわりにトラブルを起こして、自滅するのを待とうにも、それまでにパンターも足まわりが破損する可能性もある。
完全にとは言わないが、限りなく詰みの状況に追い込まれて、カリエはエリカに叫んだ。
「昨日の夕飯、ミニハンバーグを一個多く私が食べたのがそんなに憎いのか!」
「馬鹿言ってんじゃないわよ! だいたい一個って嘘つくんじゃないわよ! あんたが二つ多く食べなければ残りの計算が合わないのよ! 過小報告なんて小賢しい真似を!」
「あ、その一個はみほだよ。あの子も私と同じで、一個余分に食べた」
「はあ!? 何それ! あんたたち今日帰ったら詳しく話を聞かせてもらうからね!」
ぎゃあぎゃあ、と紅白戦中に繰り広げられる姉妹喧嘩に、パンターとティーガーⅡの乗員は苦笑した。苦笑しながらも、両者、相手の喉笛を噛み切るべく常に動き回っているのは、王者黒森峰の練度の高さ故だ。
「ええい、あの邪知暴虐の姉をぎゃふんと言わせねば気が済まぬ。佐久間さん、常にティーガーⅡの左側面に回り込んで!」
パンターの履帯が土煙を巻き上げながら高速回転する。ティーガーⅡの装甲において、唯一撃ち抜くことが出来そうな側面、しかも極近距離に接近する腹積もりだった。
だがエリカも伊達にティーガーⅡに乗り続けていない。王虎とも称される、強みも弱点も満載な重戦車ならば黒森峰で誰よりも熟知しているのだ。
「甘いのよ!」
「わわっ!」
エリカが下した指示は至極単純。パンターに向かって全力で肉薄しろというものだった。予想外の姉の行動に、カリエは珍しく焦った様子で狼狽えた。
ナナの操縦テクニックのたまものか、紙一重でパンターとティーガーⅡがすれ違う。
「何考えてるんだ馬鹿エリカ! 車重の差を考えろ!」
カリエが喚くとおり、パンターとティーガーⅡにはかなりの車重差が存在している。パンターが45トン。ティーガーⅡが70トン。およそ25トン差だ。
そんな両者が接触したとき、悲惨な末路をどちらが辿るのか、考えるまでもない。
「ふん、わざとに決まってんでしょ。車重が軽い分、小回りで勝っていると考えるのは浅薄だわ。接近戦になれば、砲弾をぶち当てる以外にも、走行不能に追い込む手段がこちらにはあるのよ」
ぐぉん、とティーガーⅡが再びパンターに突進した。パンターの砲手が破れかぶれに主砲を放つが、強固すぎる正面装甲に弾かれる。
「ムダよ。パンターの主砲の威力じゃ、ティーガーⅡの正面装甲は抜けないわ。それに焦りすぎて傾斜装甲の一番分厚いところを外せていない」
エリカが発砲を指示する。パンターの側面装甲すれすれを砲弾が通過していき、カリエは咄嗟に回避を命じた。
突進と砲撃。
二つの脅威にさらされたカリエは「さてどうしたものか」と考える。
足は忙しなくナナの肩を叩き、進路を小刻みに伝えている。今のところナナは完璧にその要望に応えきってはいるが、戦車戦に慣れきっていない新入生だ。どこで限界が訪れるのかはわからない。
さらには先ほどから無理を押しているパンターの足まわりも気になった。ティーガーⅡよりはマシとは言え、こちらもドイツ戦車特有の問題を抱えた足まわりだ。いつ転輪が破損し、履帯が外れても可笑しくはなかった。
このままだとじり貧だ、とカリエは唇を噛んだ。
「ふ、副隊長!」
パンターとティーガーⅡのエンジンが奏でる狂騒の中、カリエの耳に届いたのは可愛がっている後輩の声。
「ティーガーⅡの弱点に無理矢理割り込む方法があります。け、けれど一度きりの、使えば立て直しの効かない方法でもあります」
「…………」
先ほどのように、カリエがナナに視線を向けている暇はない。彼女の神経はエリカの一挙一足に向けられており、姉の戦術を見逃すまいと全神経をそちらに注いでいる。
だがナナの肩を叩いていた足を止めて、そのまま静かに彼女背中へ足裏を当てる余裕だけはあった。
「副隊長?」
返答は言葉ではなかった。
ただ優しくぐっと押し込むカリエの足だけ。
けれども彼女の真意はナナに伝わった。
「っ、右側面防御!」
突如として左旋回を止めたパンターが全力で後退する。ティーガーⅡの周囲をぐるぐると回って隙を伺っていたカリエたちだったが、ここに来て正反対の方向へバックし始めたのだ。
咄嗟に放たれたティーガーⅡの砲弾が、紙一重でパンターの鼻先を通過する。
ティーガーⅡの右側面をパンターに取られたのを見て、エリカは砲塔の回転で砲弾を受けろと叫んだ。
だが発砲はない。何故ならカリエが車内に向けて両手でつくった×印を掲げていたからだ。
「あの子、まさか!」
さすがは双子と言うべきか、姉のエリカはカリエの狙いを瞬時に察した。彼女も車内手信号――手首から先を素早く回して、砲塔の180度回転を指示する。
殆ど横滑りしながら、履帯と転輪、そして火花をまき散らしてパンターがさながらバイクのようにドリフトした。
カリエとエリカ、二人の視線がぶつかり合う。
パンターの75ミリ砲と、ティーガーⅡの88ミリ砲がほぼ同時に炸裂する。
多量の炸薬によって巻き起こされた白煙に周囲は包まれ、二両の姿はその中に消えた。
01/
「というわけで、紅白戦はエリカさん率いる紅組さんチームの勝利でした」
隊長であるみほの宣言に勝利を称える拍手が鳴る。
両頬を煤で真っ黒に染め、髪のあちこちを焦げ付かせた逸見姉妹はそれぞれ歓喜と落胆に分かれた。
「ふん、姉に勝とうなんて百年早いのよ」
「わずか数時間早く産まれただけのアドバンテージの癖に」
後輩である佐久間ナナに、濡れたハンカチで汚れた頬を拭ってもらいながら、カリエは「けっ」とやさぐれた。
「まあまあカリエさん。さすがにティーガーⅡにパンター単騎で挑むのは難しかったんですよ。着弾はほぼ同時でしたから、装甲と火力の差が出てしまったんです」
小梅のフォローに噛みついたのはエリカだった。彼女もカリエと同じように、小梅にこびり付いた煤を落としてもらっていた。
「なに? 同じ車両だったら私たちが負けていたとでも言いたいの?」
「い、いえ。たぶん引き分けくらいじゃないですかね」
何かとエリカの逆鱗にソフトタッチする癖がある小梅を見て、カリエは「命知らず」と呟いた。ナナが駄目だ、と言わんばかりに敬愛する副隊長の口元を押さえるが、しっかり呟きはエリカに届いていた。
「あんたねえ、少しは姉に対する敬意ってものを持ちなさいよ」
「いちいちミニハンバーグの食べた個数を気にしないお姉さまならいくらでも尊敬する」
やいのやいの、と再び始まった姉妹喧嘩に、小梅とナナは顔を見合わせた。そしてどちらからともなく笑いだし、その一帯の雰囲気だけ、中々混沌としたものに変わっていく。
隊員たちの最前列で訓辞を述べていたみほがその惨状を見て、困り顔で「話を聞いて欲しいなあ」とぼやいた。
けれどもどこかその声色は嬉しげで、変わりつつ黒森峰戦車道の雰囲気や空気を心の底では喜んでいる。
「というわけで、今日の訓練は終了します。明日一日は休みで、明後日から全国大会に向けた本格的な訓練を再開したいと思います。逸見エリカさんとカリエさん。それに赤星小梅さんは大会の抽選会に関するブリーフィングを行いたいので、このあと少しだけ残ってください。それでは皆さんお疲れさまでした。解散してください」
途中、姉妹喧嘩というハプニングがあったものの、訓練自体はつつがなく終了した。隊長の解散令を受けて、隊員たちは訓練場を後にする。
残されたエリカとカリエ、そして小梅は四人乗りの戦闘指揮車両に乗り込んで、戦車ガレージに併設された会議室に向かっていた。
「抽選会か。もうそんな時期なのね。今年はどこなの?」
エリカの疑問にみほは「ええと」と手にしていた書類を慌ててめくる。だがみほが答えるよりも早くに、指揮車両を運転していたカリエが答えていた。
「さいたまスーパーアリーナ。残念、去年は日本武道館でラビッツの試合をこっそり見に行けたのに」
「あんた、帰りに姿くらませたと思ったらそんなことしてたの!?」
相変わらずのマイペースぷりにみほは苦笑を漏らした。ふとその時、まだ連盟からの書類を見ていない筈のカリエがどうして抽選会の会場を知っているのか気になって、みほは疑問の声をあげていた。
「そういえば、どうしてカリエさんは会場の場所を?」
カリエは運転のため、前方を注視したまま答える。
「ダージリンさんにメールで教えてもらった。前置きの格言が長かったけれど、まあそれは仕方ない」
メールでも格言があるんだ、とその場にいたカリエ以外の全員が心の中で突っ込んだ。
ただ助手席にいたエリカだけはすぐに我に返ると、運転の邪魔にならない程度に、カリエに詰め寄った。
「……あの女にいらないことを吹き込まれているんじゃないでしょうね。
ていうか、あんたアクセサリーに興味なんて微塵もなかった癖に、どうしてあの女から貰ったラッキーベルだけは後生大事に身につけてんのよ」
エリカの言葉に後部座席にいたみほと小梅がカリエの首筋を覗き見る。すると確かにそこには銀の細いネックレスのチェーンが見え隠れしていた。
きゃー、と声に鳴らない声をあげて、みほと小梅は手を取り合って喜ぶ。例え女子校といえども、こういった甘酸っぱい話題は彼女たちの大好物である。
「いやだってせっかく頂いたんだし、大事にしないと。それにこれをつけてから戦車道の勝率もいい。本当に幸運のお守りなのかもしれない」
はにかんだようなカリエの表情に、エリカは青筋を立てた。何だかんだ言って妹のことになると熱くなりすぎるお姉ちゃん体質なのだ。
「まあまあエリカさん。他校の方と仲がよろしいのは良いことじゃないですか。今後の学校間のやりとりも便利ですし。――ところで西住さん、抽選会で私たちにお伝えしたいことって何だったのですか」
小梅による露骨な話題転換ではあったが、一定の効果はあった。そういえば、と言わんばかりにカリエとエリカの注意力がみほに注がれる。
「それがですね、二週間後の抽選会に誰がいくのか決めたいんです。同じ日に横浜で戦車道の見本市が開催されていて、そちらにも何人か行って貰いたいから」
みほが取り出したのは一枚のチラシだ。中古のドイツ戦車用部品の展示会の予定も明記されており、黒森峰としては是非人員を送りたいところである。
「なら、みほとカリエで抽選会に行ってきなさいよ。こっちの方は私と小梅で行ってくるから」
助手席から手を伸ばし、エリカはみほからチラシを受け取る。みほの隣に腰掛けていた小梅もうんうんと頷いていた。
「資材調達の担当は私ですしそれがいいでしょう。カリエさんならドラッヘの操縦も出来ますから、横浜港に寄港させたまま会場に迎えますね」
カリエも特に反対しなかったので、みほが懸念していた抽選会と見本市の人員の割り振りはあっさりと決まった。
これじゃあ、会議室に行く必要がないですよね、とみほは運転席のカリエの方へ身を乗り出す。
「ならこれから皆さんでお茶でもしませんか。学園艦の大通りに新しいカフェが出来たんです」
みほの提案に小梅は「良いですね」と賛同し、エリカも「この面子で行くのは久し振りね」と微笑んでいた。ただ運転席のカリエだけが即答を返さない。
「あら、あんたダイエットでもしてるの?」
エリカの言葉にいいや、とカリエは首を横に振る。
「カフェは付き合うよ。ただ、ちょっと考え事をしていた」
ガレージへ向かっていた指揮車両の進路を、学園艦の外に通じている裏門へと変更する。
なに? とエリカが問えば、カリエはぼんやりと、こう答えた。
「抽選会、もしかしたら優花里さんたちもくるのかなあ、ってそんなことを考えてた」
02/
生徒会によってもたらされたその知らせは、優花里にとってはちょっとした事件だった。
事実、彼女は生徒会室の応接間で顎が外れんばかりに大口を開けて驚いている。
「ま、まさか本当に戦車道大会に参加するんですか」
「あれ? 秋山ちゃんは出るつもりなかったの?」
干し芋をくわえたまま嘯く杏に、ぶんぶんと優花里は首を横に振る。
「いえ、そりゃあ出られれば最高だろうなー、くらいは考えていましたが、まさか本当に出場するなんて……」
優花里の歯切れの良くない言葉に、杏は「何を心配してんのさ」と笑う。
「一年生も何人か戦車道に参加してくれて、最低出場車両数はクリアしたじゃん。自動車部も車両さえ見つかれば参加してくれるって言ってるし、あとは実際に参加して勝つだけさ」
勝つだけ。
杏のその言葉に優花里は首を傾げた。
「勝つだけと言いましても、新設の弱小校のわたくしたちが並みいる強豪校を相手取るなんて、夢のまた夢ですよ? そりゃあ、勝てるに越したことはないでしょうけど」
いいや、と杏が否定する。
「駄目なんだよねー。やるからには勝って貰わないと」
その時、優花里がしっかりと杏の瞳を見ていれば、彼女のそれに宿った不穏な光に気がついていたかもしれない。
けれども、いつもの思いつきが始まったのかと嘆息していた優花里はそれを見逃していた。
「まあ、確かに会長のおっしゃる通りやるからには勝ちたいという気持ちはもちろんあります。その為の秘策がないわけじゃないですし」
言って、ソファーの脇に置いてあった軍用バックパックを見た。
「へえ、それは楽しみだね。やっぱ島田流の秘伝の教えとか?」
「いえ、教えは請うていますけれど、さすがに付け焼き刃過ぎます。それよりかは、もっと間近に見せつけられた勝つための努力をしてみたいと思います」
この時、優花里が誰の事を思い描いたのか、杏は瞬時に察していた。
察していた上で、こう助言する。
「うん、たぶんそれがいいよ。秋山ちゃんもあの子も、結構根っこの部分では似ているからさ」
バレていましたか、と優花里は頭を掻いた。
「ま、生徒会長だからね。生徒のことは何でもお見通しなのさ。ところで秋山ちゃん、今日は初めての紅白戦をするらしいけれど、準備は大丈夫なの?」
杏の言葉を聞いて、優花里は「あっ」と何かを思い出す。
「すいません、忘れていました。わたくしとしたことが、自動車部の方々にM3中戦車リーを引き取りに行かなければならないんでした。一年生の方々に乗って貰う前に整備をお願いしていたんですよ」
台詞と同時に、いそいそと荷物を纏め上げ優花里は席を立った。そして馬鹿でかいバックパックをしっかりと背負い、その場で一礼する。
「全国大会の件、委細承知しました。ご期待に沿えるよう頑張ってみたいと思います!」
「うん、期待してるよ。また何か相談があったら遠慮なく遊びに来てね」
ひらひらと杏の振られる手を背に受けながら、優花里は生徒会室を後にする。
一人残された杏は、窓際から眼下に広がる桜吹雪の光景を眺めた。
「……本当に期待しているよ。秋山さん。君は黒森峰の彼女によく似ているんだ。自分の才能に気がついていないところ。凡人だと思い込んでいるところ。そしてそう思い込んだ上で、天才に食らいつくために努力することが出来ること」
一拍、間を空けて
「努力する無自覚な天才がどれだけ恐ろしいのか、案外みんな知らないんだよなー。でもそれが既定路線ってやつをぶち壊す最高の役者にもなるんだよね」
彼女の笑みは、優しさと、罪悪感が入り交じった少々複雑なものだった。