黒森峰のフラッグ車を誰が担当するのかは、それなりに揉めた議題だった。
隊長であるみほ。
副隊長であるエリカとカリエ。
三人のうち誰かがフラッグ車を担当することは早くに決まっていたが、そこから先は議論が紛糾した。
それぞれ三人とも、フラッグ車を担当するにはチームにとって一長一短の要因を抱えていたのである。
まずはみほ。
搭乗車両はティーガーⅠであり、防御力、攻撃力ともに申し分がなかった。けれども司令塔としての彼女は戦場を自由に動き回るわけにはいかない。さらにティーガーⅠの足回りの不安定さ故に、黒森峰の中核部隊――護衛の車両たちとの行軍が難しいという問題を抱えていた。
次にエリカ。
搭乗車両はティーガーⅡ。こちらもティーガーⅠと同じように防御力、攻撃力が優れている。だがエリカの役割がチームの切り込み隊長であることがネックだった。そしてティーガーⅡの足回りはティーガーⅠより遙かに不安定で、護衛車両に最適な形で随伴できる可能性が低いため優先順位は三人の中で最低である。
最後にカリエ。
搭乗車両はパンター。防御力、攻撃力はティーガーシリーズに及ばないが、第二次世界大戦中最優と謳われたバランスの良さが魅力で、機動力もそこそこあり護衛部隊との作戦行動が容易であるメリットがあった。だがカリエは遊軍の司令塔でもあり、前線のやや後方あたりまで最悪出張らなければならないというデメリットが存在していた。
つまりそれぞれが「護衛を伴いにくい」という問題、もしくは「前線に近いところで活動しなければならない」という欠点を抱えていたのである。
結論はしばらく出なかった。
何度も紅白戦を繰り返し、戦術シミュレーションを何通りも推敲してようやく一つの意見が纏まった。
例え前線に近いところで活動しなければならないとしても、いざという時に撤退戦もこなせるだけの機動力があり、護衛として振る舞うことが出来る部隊を抱えているカリエが担当するのが最良である、と。
もちろんカリエは渋った。
渋ったが拒否はしなかった。彼女とて黒森峰の一員であるという自負がある。
皆がそれを望むのならば、とフラッグ車を担当することを了解した。
彼女がフラッグ車に選ばれたことに、肝いりの小隊である「ヒドラ」の隊員たちは大喜びし、一層張り切っていた。佐久間ナナも一年生ながらそんな重要な車両の操縦手に選ばれたことに喜びを感じ、カリエに対する尊敬をますます深めていった。
この選択で良かった、とチームの士気と雰囲気が向上したことを感じ取っているみほが言った。
頑張りなさいよ、と誰よりもカリエの実力を信じているエリカが激励した。
何でも手伝えることがあったらおっしゃってくださいと、小梅がカリエの手を取った。
彼女が彼だった時、ここまで誰かに期待されることなどなかった。
こんな名門校の勝利の行方を左右するような重要なポジションに着くなど考えることが出来なかった。
皆からの期待を一身に受けてカリエは笑った。
「頑張ってみるよ」と。
01/
黒森峰女学園の生徒たちは淡路島で行われた二回戦を無事に終えて、海路で九州を目指していた。
学園がチャーターしたフェリーに乗って、太平洋を横断していたのである。
激闘に疲れているだろうからと、寝ている間に熊本に到着することの出来るフェリーを学園が用意していたのだ。それに加え、淡路島の港では黒森峰の巨大な学園艦が着岸できないという物理的な事情も関係していた。
「さて、シャワーも浴びたしあとは寝るだけね」
エリカはフェリー備え付けの浴場を後にして、艦内を一人ふらふらと歩いていた。学園が貸し切っているため一般客の姿はない。途中、ゲームコーナの前を横切ってみれば珍しくみほが熱心にUFOキャッチャーに齧り付いていた。
その隣で小梅が困ったように笑っている。
「みほさん、もうその辺にしたほうが」
「だめです! この限定ボコをゲットするまでは帰りません!」
凡その事情を一瞬で察して、エリカはその場を後にする。
エリカの姿を見つけた小梅が救援要請の視線を送ってはくるものの、そそくさとその場を後にした。ややあって携帯電話にメールの着信がある。
何事か、と文面を見てみれば一言だけ「裏切り者」と
それからしばらく。
エリカは様々な場所を一人で巡った。個室が割り当てられているのに、わざわざ雑魚寝スペースでごろごろとしている集団もいれば、デッキで何もない夜の太平洋をぼんやりと眺めている集団もいた。さらには食堂で大飯をかき込んでいる佐久間ナナもいた。彼女はエリカの視線に気がつくと、「車長には内緒でお願いします! いっぱい食べる子だと思われたくないんです!」と懇願してきた。
食べるのは事実だし、カリエはそんなこと気にするような性分ではないと、やんわりと伝えたが「それでも!」と押し切られてしまった。
この後輩をカリエが特に可愛がっていることは知っていたので、半ば呆れながらも「はいはい」と頷いていた。
と、そこまで船内を一巡したとき、カリエがどこにもいないことに気がついた。
取りあえずは、と目の前のナナに問いかけてみたが彼女は知らないという。
デッキの夜景組も、二等客室の雑魚寝組も彼女の居場所を知っているものは誰もいなかった。
「どこいったのかしら」
念のため、と言わんばかりに浴場や売店、トイレも探してはみた。けれどもさしたる収穫は得られず、全て無駄足に終わってしまう。
そこまで考えてみて、自分たち姉妹に割り当てられた個室にいるのではないか、という可能性にたどり着いた。
そうと決まればエリカの行動は早い。若干の急ぎ足で個室が集まっているエリアに
鍵が閉まっている可能性を考慮して、一応ルームキーを用意してはいたが無駄に終わった。
それはつまり、中に誰かいるということ。
「カリエ、あんたここにいるの?」
室内は真っ暗だった。オーシャンビューの窓から差し込む淡い月明かりだけが唯一の光源だ。
その必要はなくとも、思わず忍び足になるくらいには無音の空間。
「カリエ?」
備え付けのベッドの一つが膨らんでいる。夏だからか、タオルケット一枚だけ頭まですっぽりと被った陰が一つだけある。
近づいて、頭の部分だけそっと捲ってやれば探し求めていた自分の妹だった。
「なんだ、ここにいるんじゃない」
誰も聞いていないというのに、エリカは安堵の溜息とともに言葉を吐き出した。
静かに寝息を立てる妹の髪をそっと撫でる。
急に誰かに触られたからか、カリエが「ううん」と眉を潜めて唸った。
慌ててエリカが手を引っ込めるが、カリエが目を覚ますことはない。ただ寝返りを一つ打ってエリカに背を向けた。
何となく、このまま寝かせてやるのが良いと判断したエリカは、はだけたタオルケットを元に戻してその場に立ち上がった。
ふと、声が聞こえる。
「――――」
「え、なに?」
もしかして目を覚ましたのか、とカリエの顔を覗き込んだ。けれどもその瞳は堅く閉じられていて、彼女の覚醒を示すものではない。
いや、とエリカは違和感を覚えた。
普通、人の寝顔というのはもっと安らかではないのだろうか。
人は眉をしかめて、歯を食いしばって、虚空を握りしめながら寝るものなのだろうか。
次ははっきりと聞こえた。カリエの言葉がエリカの耳に届いた。
「あと二回。あと二回、あと二回、あと二回」
最初、彼女の言っている意味が理解できなかった。何が「あと二回」なのか、何をそんなに
けれどもエリカは察する。
少しばかり間を空けて、「あと二回」の意味を理解した。
「――カリエ」
ぐいっ、と妹の肩を引っ張った。魘され続ける妹を何とかこちらに向かせようとしたのだ。
カリエはそれでも寝言を止めない。それどころかきゅう、と体を縮込ませて「あと二回」と呟き続けた。
二回。
それは、黒森峰が十一連覇を達成するのに必要な、残りの勝利の数だった。
02/
BTー42の砲身がこちらを向いた。パンターの砲身が必死の回転を見せるも、数秒の差で遅れている。
カリエの視線と、BTー42の砲身がぶつかり合った。
別に、カリエのフラッグ車が突出していたわけではない。寧ろ知波単学園戦の時とは違い、継続高校の突破力を警戒し、前線の後方に陣取っていた。
遊撃部隊である「ヒドラ」に最前線を一任し戦況を一望していたのだ。
パンターの前には幾重にも重なる「ヒドラ」による護衛網が築かれており、その突破はほぼ不可能な状況だった。
継続高校のBTー42が単騎でカリエのパンターに肉薄することが出来たのは、ひとえに彼女たちの実力が黒森峰の想像の遙か上にあっただけのこと。
誰かの責任でも失態でもなく、単純に実力で押し負けたというスポーツでは当たり前の出来事だった。
カリエは夢を見る。
BTー42に追いつめられる夢を見る。
現実では姉のエリカが間に合った。
パンターとBTー42の間にティーガーⅡが割り込むことによって、撃破を免れた。そしてカウンターと言わんばかりに、パンターの75ミリが火を吹き、継続の最後の悪足掻きを押し潰した。
でも夢の内容は違う。
白旗が眼前ではためいている。
それは継続のBTー42からではない。
自身の――、これまで苦楽を何度も共にしてきた愛車であるパンターからだった。
フィールドにアナウンスが響きわたる。それは絶望にも等しい宣告。
『継続高校の勝利!』
姉は間に合わなかった。カリエも一歩及ばなかった。
回転途中でロックされた砲身が、敗北という事実を容赦なく突きつけてくる。
「副隊長」
意気消沈したナナが操縦席から外を伝って、パンターの天蓋によじ登ってきた。彼女はいつものような尊敬の視線をカリエには向けない。それどころか若干の失望を滲ませて、「戻りましょう」と告げた。
自走が不可能と判定されたパンターを置いて、黒森峰の輸送トラックで自陣へと向かう。
トラックの荷台にそれぞれ顔を向かい合わせて座る。カリエはトラックの荷台の一番奥に腰掛けていた。
戦車とはまた違う大型車両のエンジン音に紛れて、何処からか
誰のものか、とカリエが目線を走らせてみれば必死に涙をこらえているナナがいた。
彼女は小さな声で「勝ちたかった」と漏らす。
カリエと同学年である隊員の一人がそんなナナの胸ぐらを掴んだ。
「めそめそ泣くな! 精一杯やった結果だろうが!」
そんな彼女の瞳も涙に濡れていた。上級生に詰め寄られてどうしたらいいのか解らなくなっているナナも、いよいよ声をあげて泣き始めた。
荷台の上は一瞬で修羅場と化した。
皆が皆
カリエはそんな隊員たちを見ても何も出来なかった。ただ止めてくれ、と言わんばかりに目を塞ぎ、耳を塞ぎ、いやいやと首を横に振っていた。
カリエは思う。これではまるで、死刑場に連れて行かれる囚人じゃないか、と。
トラックが止まった。
一人、一人真っ赤に泣き腫らした顔を携えて荷台から降りていく。
もう誰も騒いでいない。おとなしく運命を受け入れたかのように、静かに荷台をあとにしていった。
最後に残されたカリエも恐る恐る目を開け、荷台から立った。
眼前に誰かいた。
今この瞬間、一番目にしたくない人だった。
「よくもやってくれたわね」
向けられたことのない視線と感情だった。
エリカに怒られたことは何度もある。それこそ数え切れないくらいだ。男言葉を使って、家事をさぼって、みほと悪戯して――、怒られなかった日なんて一日もないほどに。
けれどもその無限の毎日の中、エリカの怒りにはいつも愛があった。男言葉は妹が生きにくくならないように、家事は将来自立して生きていけるように、みほとの悪戯は怒りよりもどちらかというと親友を見つけた妹を喜ぶかのように。
思い起こす限り、姉からの愛を受けない日がなかった。
でも今はどうだろう。
無様にも、フラッグ車なのに撃破されてしまった自分を見るエリカの視線と感情はなんなのだろう。
侮蔑、失望、呆れ、軽蔑、憎悪、嫉妬、殺意――。
考え得る限りの全ての負の感情を携えて、エリカはカリエを見ている。
やめてくれ、と掠れた声が漏れた。
エリカは何も言わなかった。
ただ、それまで抱いていた負の感情その一切をかき消し、心底興味を失ったかのような瞳を持った。
カリエが一番、エリカから受けたくない視線だった。
姉からの無関心が、この世界で一番怖かった。
遂にカリエの感情が爆発する。
何とか均衡を保っていた表情が崩れ、醜くもエリカにすがりついた。
「お願い、お姉ちゃん、私を見捨てないで!」
カリエが必死に手を伸ばす。けれどもその手は何度も虚空を掴み、エリカに届かない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」
エリカが
もう手が届かない。もう姉に見て貰えない。もう姉は自分の事を愛してくれない。
もう、姉と生きていくことは出来ない。
絶望感が頂点に達した。
03/
「お姉ちゃん!」
何かを引き倒す。夢の中で必死に振り回していた手が何かを掴んだ。
無我夢中でそれを逃がさないように、手放さないように、無理矢理押さえつけて、繋ぎ止めるようにのし掛かった。
「お、おねえちゃん?」
淡路島のフィールドではなかった。いつか乗り込んだフェリーの個室の中だった。
窓から差し込む月明かりが、雪のような銀の髪をきらきらと照らし出している。
カリエの下に、エリカがいた。
「……」
エリカは何も言わない。けれども無関心の瞳ではなかった。何処か呆けたような、どうしたら良いのかわからないと困惑している表情だった。
「あ、ごめん」
自分がエリカに馬乗りになっていることに気が付いて、カリエは慌ててその場を飛び退いた。ベッドの上に押し倒されていたエリカは乱れた髪を手櫛で戻しながら、ゆっくりと起きあがる。
「え、えと」
あまりにも姉が無言なので、カリエは気まずさに逃げ出してしまいたくなった。こんなにも静かなエリカを彼女は初めて見た。
「フラッグ車」
ぼそり、とエリカが呟く。
目覚めて最初に聞いた姉の言葉がそれだったので、カリエは「へっ?」と間抜けな声を出していた。
だがエリカはそんな妹の反応に鑑みることなく、こう告げた。
「次の試合、私がフラッグ車やるから」
何を言っているのか咄嗟に反応できなかった。
エリカは畳みかける。
「みほとはもう相談してある。おそらく次はグロリアーナ。なら防御力で優れた私の方が適任。あんたは前線の指揮でいけ好かないあいつらの鼻面を押さえて」
言いたいことは言い切った、とエリカはベッドから立ち上がった。そしてカリエの方を一切振り返ることなく部屋から出ていく。
一人取り残されたカリエは、まさか「寝言」を聞かれたのかと顔を青くした。
だが今となっては全てがあとの祭りで、気恥ずかしさに悶えながら、カリエは再びタオルケットを頭から被りなおした。
04/
さすがに二回目ともなると、少しは落ち着きが出るのかと優花里は思った。
相手フラッグ車であるPー40が白旗を掲げているのを見ても、嘘だとは思わなくなったのだ。頬も抓ることはないし、腰を抜かすこともない。
「いやー、本当に新設校かっていうくらいの強さだったぞ。まさかマカロニ作戦が初っぱなから見破られるとは」
「アンチョビさんが参加された試合の詳細を全て研究したんです。するとアンチョビさんはアンツィオ高校の隊員の方々に
「うわ、なんだそれ。後出しじゃんけんみたいだな! でもそれだけウチに手間暇を掛けてくれたんだ。楽しい試合だったぞ!」
試合後、大洗女子学園のメンバーはアンツィオ主催の野外パーティーに誘われていた。
その会席の中、秋山優花里は安齋ちよみことアンチョビに大層気に入られ、試合のこと、戦車道のこと、さまざまな話題で絡まれている。
「でも本当にすごいな。ウチにもきちんと偵察に来ていたんだろ? ルールでこそ認められてはいるが、どこの学校も人員や時間の問題でないがしろにしている制度をここまで活用するなんて」
アンチョビの賞賛に、優花里は照れを隠せないまま答えた。
「無名で伝統がないからこそですよ。しがらみが何もないので、やれる可能性のあることは、何でも出来るんです」
優花里の告げた通り、大洗女子学園の強みはそれだった。伝統的な戦術もなく、OG会も存在しないため、試合中の振る舞いは自由、作戦もあらゆる学校のそれを参考にすることが出来る。
つまり各学校の良いとこどりのような作戦立案が可能なのだ。
「でも作戦を考えてもそれを遂行する人員の育成が必要だろ? それはどうしているんだ?」
アンチョビの疑問は最もなものだった。
対戦相手に有利に働く、メタ的な作戦を採用することが出来ると言っても、それを完璧に履行することはそれなりの練度が求められる。
つまり優花里の要求に応えることのできる部隊でなければ、全てが机上の空論に過ぎないのだ。
優花里はそれはですね、と一冊のノートを取り出した。 そしてそれをぱらぱらとめくり、ある一日のスケジュールをアンチョビに見せる。
「わたくし、他校の戦車道に対する練習時間を調べたんです。黒森峰、プラウダ、グロリアーナ、サンダース、知波単、継続、ポンプル、BC自由学園、グレゴール、バイキング水産、コアラの森、メイプル、伯爵、ヨーグルト、ビゲン、マジノ女学院、青師団、ワッフル……」
「お、多すぎないか?」
「そんなことないですよ。で、それぞれの高校の練習時間は一番長いところで一日五時間、休みの日で八時間ほどでした。まあ、それが黒森峰なんですけれど」
けれども、と優花里は続ける。
「じゃあ乗員一人一人の練習時間はいくらなんだって、それぞれの高校の練習時間を計ってみたんです。三ヶ月くらいかかりましたけれど。――それでわかったのは、意外と一人当たりの練習時間はそんなに長くないということです。車両の数の問題だったり、訓練場の広さの問題で、待機時間が結構長かったり」
ある数字を優花里は指さす。
「一人当たり二時間弱が最高でした。もちろん長期休みになるともっと伸びますが、平均を取ればこのくらいです。しかもこれは強豪校にありがちな傾向なんです。参加人数が多いと、練習することの出来る人数も限られているんですよね」
「それがどうして大洗の練度の話につながるんだ?」
ふっふっふ、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに優花里は答えた。
「大洗はですね、訓練場の広さの割に、人員が少ないので、ほぼ全員がフルタイムで練習できるんですよ。平日は授業時間含めておよそ四時間、休日は休憩を挟みつつ八時間です」
「おお、そりゃすごいな」
「しかも定期的に教官をお呼びして、技術指導も行って頂いています。操縦に関しては自動車部の皆さんに協力していただいて、最適な軌道操作を日々研究しているんですよ。砲撃は五十鈴殿が中心になって停止射撃を徹底して練習しています。あと待ち伏せのような各種技能は、忍道を履修されている生徒の監修でクオリティアップを心掛けているんです」
腑に落ちる感情がこういうものなのか、とアンチョビは思った。
楽しそうに、しかしながら常識ではあり得ない、あまりにも密度の高すぎる戦車道を話す優花里を見て、これが本物なんだな、と納得もしていた。
決して優花里は戦車道エリートではない。
西住流でも、島田流でもない。
あくまで戦車が好きなだけの素人だ。
だがその戦車に対する情熱は、これまでアンチョビが出会ってきた人物の誰よりも深く激しいものだった。
その熱意が、興味が、生活のほとんど全てが戦車道に向いていると気が付いたとき、目の前で朗らかに笑う少女が、とんでもない傑物のように思えた。
普通の人は、そこまで戦車を愛せない。
普通の人は、そこまで戦車道に手間を掛けない。
どこの世界に、他校の練習時間を知りたいと三ヶ月もの期間を捧げる人間がいるのだろうか。
どこの世界に、日本中の戦車道開催校を調べる人間がいるのだろうか。
口では明言してはいないが、この様子だと殆ど全ての高校が偵察済みなのだろう。
それは最早人間の所行ではない。
戦車に向ける労力、エントロピーが余りにも巨大すぎて、自身が正気を失っていることに気が付いていないのだ。
「秋山さん、だっけか。本当に、戦車が好きなんだな」
意味のない言葉だと思った。だが思わず口をついて出てきたのは、そんな面白味の欠片もない、月並みな台詞だった。
優花里はそんな言葉に対してさえ、心底嬉しそうに反応する。
「はい! わたくし、戦車道を始めることが出来て本当に幸せです!」
アンチョビはそれなりに戦車道を続けて来たという自負がある。黒森峰からのお誘いを受けるくらいには、実力も経験も身につけてきていた。
だが、そんな戦車道人生――つまり時間が、たった一人の情熱の深さに負ける瞬間を今見ていた。
戦車を乗り回していた時間ではなく、戦車を愛する意気込みが重要であることを思い知らされていた。
そしてそれは、自分がアンツィオを引っ張っていこうと決意したときの原風景であることを思い出す。
「昔さ、アンツィオと黒森峰、それぞれから推薦の話が来ていたんだ。その中で私が選んだのは見ての通りここだ。それはどうしてだと思う?」
優花里は「わかりません」と首を傾げた。
アンチョビには申し訳ないが、その二つならより名門の黒森峰を選ぶ人間が多いからだ。
優花里の心境を察したのだろう。アンチョビは「それはな」と苦笑する。
「ここの戦車道は本当に楽しそうだったんだよ。黒森峰ももちろん充実した戦車道だと思ったんだけれども、私はこっちで戦車道の楽しさってやつを極めたかったんだ」
楽しさ。
それは優花里が戦車道において、一番追求し続けている感情だった。
アンチョビのような実力者に、自分が戦車道に求め続けているものを認められて、彼女は喜んだ。
「準決勝以降は並み居る強豪校がぞろぞろいる。これまでのような試合運びは出来ないかもしれない。それでも秋山さんは秋山さんの戦車道を貫いてくれることを祈っているよ」
アンチョビが手を差し出した。
戦車道を始めてから、こうして誰かに握手を求められることが増えていた。
試合を重ねるごとに、友情が積み重なっている。
やはり戦車は偉大です、と優花里は満面の笑みを見せていた。
05/
準決勝となれば、それなりに注目される試合だ。
特に王者黒森峰と、優勝候補として名高いグロリアーナの一戦となれば、言わずもがなだった。
圧倒的練度と戦術で他校を挽き潰してきた黒森峰女学園。
優雅さと気品を兼ね備えた浸透戦術で他校を翻弄してきた聖グロリアーナ女学院。
夢の対戦カードである試合のチケットは早々に完売し、パブリックビューイングの会場は人混みでごった返していた。
対戦校も、観客の密度もともに理想的な試合内容。
ただ、天候だけがその例外だった。
「雨、ね」
エリカの台詞が天候の様子を端的に言い表している。けれどもただ「雨」と片付けるには難しい、類い希なる豪雨だった。
「運営から連絡が来ました! 試合そのものは定刻通り開催するそうです! ただ、途中中断もあり得るため全ての車両にはオープン状態の通信機を搭載するように、とのことです!」
軍用雨合羽に身を包みながらも、殆ど濡れ鼠のようになってしまっている小梅が、黒森峰陣営の天幕に入ってきた。近くにいたカリエが用意していたタオルを手渡してやる。
「わかりました。それでは大会から支給されている通信機を各車の通信手が持ち込んで準備してください。戦車の暖気の管理も綿密にお願いします」
みほの号令を受けて、黒森峰の隊員たちは散っていった。
ただカリエだけ一人、他の隊員たちが天幕から出て行くまでその場を動かなかった。
咽頭マイクを操作していたみほが、そんなカリエを見つけて声を掛ける。
「……カリエさん、もし雨が辛いのなら誰かと車長を交代しますか」
みほが心配したのはカリエの水恐怖症のことだった。けれどもカリエは「違う」と首を降った。
彼女は少し逡巡したあと、みほに問いかける。
「みほはエリカと相談してフラッグ車の変更を決めたの?」
びくっ、とみほの肩が跳ね上がる。何故なら、フラッグ車の変更はエリカによる完全な事後報告で、みほが追認した形だったからだ。
もちろんエリカからは変更の理由を伺っている。
カリエの様子がおかしいから、フラッグ車の担当が負担になっているから、と告げていたエリカの姿が脳裏によぎる。
明らかに挙動不審な様子のみほを見て、カリエは姉の嘘を確信した。
「……やっぱりそうなんだ」
「あ、あの、カリエさんの能力どうこうとか、そういう問題ではなくて……」
何か言い訳をしなければ、と狼狽えを見せるみほ。だがカリエは「大丈夫だよ」とみほのそれを制した。
「ちょっと格好悪いところをお姉ちゃ――エリカに見せちゃったんだ。多分、そのことを気遣ってくれたんだと思う。エリカの思いやりは凄く嬉しいし、グロリアーナに対して装甲防御力に優れるティーガーⅡで挑むのは正解だと思うから、何とも思っていないよ」
今度はみほが「嘘だ」と思った。
言葉こそは前向きだったが、そう語るカリエの表情は今すぐにも泣き出しそうで、このままではいけない、とみほはカリエの肩を掴む。
「確かにエリカさんはカリエさんのことを思ってフラッグ車を交代しました。けれどもエリカさんも、もちろん私も、あなたのことをフラッグ車失格だと思ったことはありません。そもそもあなた一人にずっと押しつけていた状況がおかしかったんです。カリエさんが気に病む必要なんて
普段はあまり見せることのないみほの力強い視線を受けて、カリエの泣き顔が少しだけ和らいだ。
連日見る「姉に見捨てられる悪夢」を、今この瞬間だけ忘れることが出来そうで、カリエは心の重しを少しだけ手放した。
「大丈夫です。私たちは必ず勝ちます。だってエリカさんとカリエさんという素晴らしい戦車乗りが二人もいるんですよ。こんな贅沢な学校他にはありません。私はそんな黒森峰の隊長をやれて本当に幸せだと思っています」
それに――と付け加える。
「頼りにならないかもしれませんが、西住流の私がいるんです。そりゃあお姉ちゃんには叶わないかもしれないけれど、お二人に勝利をお届けするくらいには打ち込んできたつもりです」
何それ、とカリエが笑顔を見せた。
その様子を見てみほは「もう心配がいりませんね」と一緒に微笑む。
「いろいろと心配掛けてごめんね。西住流の名を汚さないよう、グロリアーナから勝利をもぎ取ってくるよ」
「楽しみにしています。カリエさん」
二人がそれぞれ天幕を後にする。
雨に濡れることを気遣ったのか、パンターとティーガーⅠが天幕のすぐ近くに待機していた。
試合開始まで残り三十分ほど。
二人の車長が戦車に乗り込み、黒森峰の臨戦態勢が整った。
王者の戦いが今始まろうとしている。
――だが、不安材料がないわけではなかった。
敢えて彼女たちのミスを上げるとするのならば、グロリアーナという学校を、普通の対戦相手と彼女たちが認識していたことにある。
優雅な強豪校、聖グロリアーナ女学院の女王ダージリン。
彼女の執着をカリエとみほの二人は知らなかったのだ。
唯一それを感じ取っているエリカは二人に何も告げていない。
波乱の準決勝が、いくつもの不確定要因を抱えたまま始まろうとしていた。
さらに追記 平成29年2月7日21時
章がずれている問題を修正しました。
ご指摘いただいた方々、本当にありがとうございました。
これからも本作品をよろしくお願いします。